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第1部 茜の時
25 陸⑩
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――嘘だろ。
自らの腹に突き刺さる蜘蛛の脚を眺めつつ、陸はぼんやりそう思った。
車ほどの大きさの蜘蛛である。陸の体を貫いただけではとどまらず、太い脚先はコンクリートにめり込み、ようやく止まった。
串刺しにされた部分から、鮮血がじわりと滲み、まもなく泉のように噴き出してくるのが見えた。ブレザーの下に着ていたカッターシャツが、見る間に赤く染まる。灰色の世界の中で、陸の血は、鮮烈な赤みを帯びながらほとばしっていた。
しかし、不思議と陸に痛みはなく、ただただ腹部が熱かった。同時に、焼けつくようなものが、喉元からせり上がってくる。そう感じた瞬間、陸は口から大量の血を吐いていた。
蜘蛛は、陸を刺したまま微動だにしなかった。一方、突き飛ばされた三景は、身代わりとなった陸を目の当たりにして、呆然と尻餅をついていた。が、すぐに立ち上がり、何かを叫ぶ。
しかし、それはもう陸には届かなかった。串刺しになった自分を見下ろす銀の蜘蛛。その中心部で炎のように輝く二つの主眼に、陸自身が映っている。それは現在の姿ではなく、かつての――一年前の自分の姿であった。
『陸、もし東京の高校に通いたいなら、このまま残っていいんだぞ』
ある晩、父がビールの入ったコップを片手に、陸にそう言った。
『え?』
陸は冷奴へ伸ばしかけた箸を止め、驚いて父を見る。その時、リビングの食卓にいたのは、塾の夏期講習を終えた陸と、仕事帰りの父だけだった。
テレビの野球中継や、浴室から聞こえる妹の海や空、そして母の笑い声が遠くなる。
『でも、お父さん、来年転勤なんじゃないの?』
『ああ、多分な。だけど、お前は中学三年間をここで過ごして、友達もできたろう。それに、東京は高校の数が多い分、選択の幅も広くなる。少しでも、お前が興味を持てる学校を選んだ方がいいからな。転勤のことなら、父さんが単身赴任すればいい』
『単身赴任?』
それは、陸にとって思ってもみない言葉だった。
父は頷き返すと、
『母さんとも話したけど、海や空も、もうそこまで手がかかるわけじゃない。お前がこっちの高校に進みたいなら、母さんたちも一緒に残って、父さんだけ転勤先に行くよ』
陸の記憶の中で眠っているはずの出来事が、蜘蛛の主眼に映し出される。その眼を通して、陸は過去を見ていた。
『陸、自分が本当に思ってること、ちゃんと言った方がいい』
蜘蛛の眼に、一転して別の人物が浮かび上がる。それは黒い詰め襟の制服を着た少年で、やや厳しい表情とともに、そんな言葉を投げかけてきた。
――近藤……。
陸はもうろうとし始めた意識の中で、相手の名をたぐり寄せた。
『自分は今、こう考えてる、感じてるんだって。それで絶対うまくいくとは限らなくても、誰かにわかってほしいとかじゃなくてもさ。自分のために、言った方がいいよ』
――うるさい、お前に何がわかるんだ。ずっと同じ所に住んで、友達も思い出もいっぱいあるお前に。
陸はそう言いかけたが、思うように口が動かない。さらに、自らの重みで、腹に脚が刺さったまま、ずるずると後ろへ沈みこんでいく。刺された箇所から流れる血が、蜘蛛の脚を伝って、地面に血だまりを作り出していた。
――そうだ。おれは、何も選べなかった。何一つ、自分で決められなかったんだ。
とうとう、陸の体が、どさっという音を立てて倒れた。その衝撃で、血だまりから、赤い飛沫が跳ね上がる。
――おれには、近藤みたいに行きたい高校もなければ、やりたいこともない。一生懸命取り組むような目標もない。
生まれた時から、住む所も通う学校も選んだことはない。自分が暮らす場所は、父――正確には、父が働く会社――が決めて、それに従ってきた。どの街も数年だけの暮らしだと割りきり、その間だけうまくやればいいと思ってきたのだ。
――だから……。
自分で決めていいと父に言われた時、どうすればよいかわからなくなった。
――本当はわかってる。転勤のせいじゃない。おれは、怖かったんだ。自分で考えて、決めることが。
高校を選ぶことで、陸は自分の何かが決定づけられてしまう気がしていた。さらに自分の選択が、父母や妹たちの生活にも影響を与えることも明白だった。
――自分で選ぶことも、向き合うことも、責任をとることもできない。それが、おれなんだ……。
社宅の屋上にいるせいか、倒れた陸の眼前に広がる空は、いつもより近く感じられた。灰色しかないと思われた空だが、分厚い雲に覆われ、色濃くなっている所もあれば、白に近い、薄明るい所もあった。
いつの間にか、三景と一羽がそばに来て、血だらけで横たわる陸を覗きこんでいた。
――山那……。
陸の瞳に映ったのは、蜘蛛の眼が見せた過去ではない、今ここにいる三景だった。
『あなたはどこかで、自分の心を強く揺り動かされる体験や人物と遭遇したんだと思うの』
――おれの心を揺り動かしたのは、お前だったんだ。山那。
一羽に言われたことを思い出しながら、陸は三景の姿を目に焼きつけるように見つめた。ふだんは鋭い印象を与える三景の表情だが、今は動揺と焦りで歪んでいる。
――そんな顔するな。いつもみたいに、堂々と、おれを睨めよ。
陸の心に、ふとそんな気持ちが湧いた。三景と初めて出会った時に感じた衝撃が何なのか、陸には未だにわからなかったが、
――どうして、お前のことがこんなに気になるんだろう? お前が言ったとおり、おれがお前の贄だから?
これまで、周りの人間や物事に対して、あまり興味を持たなかった自分が、ここまで強く相手に惹かれたのは初めてだった。
――本当は、もう少し、お前と仲良くなりたかった気がするけど……。
しかし、そんな陸の思いは、何一つ声にならない。
陸の頭上では、三景と一羽が切迫した顔つきで、口々に言葉を発していた。
――早く、転送を。
――無理よ、この状態では間に合わない。
少し離れた場所で、岡湊斗の姿をした『影』が立ち、こちらを眺めていた。『影』は笑うでもなく、怒るでもなく、ただ石のようにじっと陸を見下ろしていた。
陸は刺された腹部の熱さすら、いつしか感じなくなっていた。やがて目の前がかすみ、視界が暗くなってくる。
同時に、陸を刺した蜘蛛にも異変が起きていた。金属を思わせる銀色の体から、シュウシュウと蒸気のようなものを放ちながら、少しずつ縮み始めた。
けれど、陸はその光景を目にすることはなかった。意識を手放す直前、陸が聞いたのは、三景の揺るぎない声だった。
「こいつを、俺の――」
だが、その言葉を最後まで聞くことはできぬまま、陸の意識は深い闇の底へ落ちていった。
自らの腹に突き刺さる蜘蛛の脚を眺めつつ、陸はぼんやりそう思った。
車ほどの大きさの蜘蛛である。陸の体を貫いただけではとどまらず、太い脚先はコンクリートにめり込み、ようやく止まった。
串刺しにされた部分から、鮮血がじわりと滲み、まもなく泉のように噴き出してくるのが見えた。ブレザーの下に着ていたカッターシャツが、見る間に赤く染まる。灰色の世界の中で、陸の血は、鮮烈な赤みを帯びながらほとばしっていた。
しかし、不思議と陸に痛みはなく、ただただ腹部が熱かった。同時に、焼けつくようなものが、喉元からせり上がってくる。そう感じた瞬間、陸は口から大量の血を吐いていた。
蜘蛛は、陸を刺したまま微動だにしなかった。一方、突き飛ばされた三景は、身代わりとなった陸を目の当たりにして、呆然と尻餅をついていた。が、すぐに立ち上がり、何かを叫ぶ。
しかし、それはもう陸には届かなかった。串刺しになった自分を見下ろす銀の蜘蛛。その中心部で炎のように輝く二つの主眼に、陸自身が映っている。それは現在の姿ではなく、かつての――一年前の自分の姿であった。
『陸、もし東京の高校に通いたいなら、このまま残っていいんだぞ』
ある晩、父がビールの入ったコップを片手に、陸にそう言った。
『え?』
陸は冷奴へ伸ばしかけた箸を止め、驚いて父を見る。その時、リビングの食卓にいたのは、塾の夏期講習を終えた陸と、仕事帰りの父だけだった。
テレビの野球中継や、浴室から聞こえる妹の海や空、そして母の笑い声が遠くなる。
『でも、お父さん、来年転勤なんじゃないの?』
『ああ、多分な。だけど、お前は中学三年間をここで過ごして、友達もできたろう。それに、東京は高校の数が多い分、選択の幅も広くなる。少しでも、お前が興味を持てる学校を選んだ方がいいからな。転勤のことなら、父さんが単身赴任すればいい』
『単身赴任?』
それは、陸にとって思ってもみない言葉だった。
父は頷き返すと、
『母さんとも話したけど、海や空も、もうそこまで手がかかるわけじゃない。お前がこっちの高校に進みたいなら、母さんたちも一緒に残って、父さんだけ転勤先に行くよ』
陸の記憶の中で眠っているはずの出来事が、蜘蛛の主眼に映し出される。その眼を通して、陸は過去を見ていた。
『陸、自分が本当に思ってること、ちゃんと言った方がいい』
蜘蛛の眼に、一転して別の人物が浮かび上がる。それは黒い詰め襟の制服を着た少年で、やや厳しい表情とともに、そんな言葉を投げかけてきた。
――近藤……。
陸はもうろうとし始めた意識の中で、相手の名をたぐり寄せた。
『自分は今、こう考えてる、感じてるんだって。それで絶対うまくいくとは限らなくても、誰かにわかってほしいとかじゃなくてもさ。自分のために、言った方がいいよ』
――うるさい、お前に何がわかるんだ。ずっと同じ所に住んで、友達も思い出もいっぱいあるお前に。
陸はそう言いかけたが、思うように口が動かない。さらに、自らの重みで、腹に脚が刺さったまま、ずるずると後ろへ沈みこんでいく。刺された箇所から流れる血が、蜘蛛の脚を伝って、地面に血だまりを作り出していた。
――そうだ。おれは、何も選べなかった。何一つ、自分で決められなかったんだ。
とうとう、陸の体が、どさっという音を立てて倒れた。その衝撃で、血だまりから、赤い飛沫が跳ね上がる。
――おれには、近藤みたいに行きたい高校もなければ、やりたいこともない。一生懸命取り組むような目標もない。
生まれた時から、住む所も通う学校も選んだことはない。自分が暮らす場所は、父――正確には、父が働く会社――が決めて、それに従ってきた。どの街も数年だけの暮らしだと割りきり、その間だけうまくやればいいと思ってきたのだ。
――だから……。
自分で決めていいと父に言われた時、どうすればよいかわからなくなった。
――本当はわかってる。転勤のせいじゃない。おれは、怖かったんだ。自分で考えて、決めることが。
高校を選ぶことで、陸は自分の何かが決定づけられてしまう気がしていた。さらに自分の選択が、父母や妹たちの生活にも影響を与えることも明白だった。
――自分で選ぶことも、向き合うことも、責任をとることもできない。それが、おれなんだ……。
社宅の屋上にいるせいか、倒れた陸の眼前に広がる空は、いつもより近く感じられた。灰色しかないと思われた空だが、分厚い雲に覆われ、色濃くなっている所もあれば、白に近い、薄明るい所もあった。
いつの間にか、三景と一羽がそばに来て、血だらけで横たわる陸を覗きこんでいた。
――山那……。
陸の瞳に映ったのは、蜘蛛の眼が見せた過去ではない、今ここにいる三景だった。
『あなたはどこかで、自分の心を強く揺り動かされる体験や人物と遭遇したんだと思うの』
――おれの心を揺り動かしたのは、お前だったんだ。山那。
一羽に言われたことを思い出しながら、陸は三景の姿を目に焼きつけるように見つめた。ふだんは鋭い印象を与える三景の表情だが、今は動揺と焦りで歪んでいる。
――そんな顔するな。いつもみたいに、堂々と、おれを睨めよ。
陸の心に、ふとそんな気持ちが湧いた。三景と初めて出会った時に感じた衝撃が何なのか、陸には未だにわからなかったが、
――どうして、お前のことがこんなに気になるんだろう? お前が言ったとおり、おれがお前の贄だから?
これまで、周りの人間や物事に対して、あまり興味を持たなかった自分が、ここまで強く相手に惹かれたのは初めてだった。
――本当は、もう少し、お前と仲良くなりたかった気がするけど……。
しかし、そんな陸の思いは、何一つ声にならない。
陸の頭上では、三景と一羽が切迫した顔つきで、口々に言葉を発していた。
――早く、転送を。
――無理よ、この状態では間に合わない。
少し離れた場所で、岡湊斗の姿をした『影』が立ち、こちらを眺めていた。『影』は笑うでもなく、怒るでもなく、ただ石のようにじっと陸を見下ろしていた。
陸は刺された腹部の熱さすら、いつしか感じなくなっていた。やがて目の前がかすみ、視界が暗くなってくる。
同時に、陸を刺した蜘蛛にも異変が起きていた。金属を思わせる銀色の体から、シュウシュウと蒸気のようなものを放ちながら、少しずつ縮み始めた。
けれど、陸はその光景を目にすることはなかった。意識を手放す直前、陸が聞いたのは、三景の揺るぎない声だった。
「こいつを、俺の――」
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