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第1部 茜の時
24 陸⑨
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「う……」
気がつくと、陸の眼下には社宅の砂利道や芝生が広がっていた。先ほどまで自分たちが隠れていた倉庫も一望できる。
そして、ふだんは下から見上げるばかりの桜の木や電柱が、今は陸と肩を並べるように立っている。
(ど、どういうことだ……?)
陸は、おそるおそる首を左右に動かした。すると社宅の棟がすぐ隣に迫っていた。経年で薄汚れた壁面に『A』の文字が大きく描かれている。
「なっ……!?」
陸は愕然とした。各棟を示すこの文字は、地上からずっと高い位置にあるはずのものだ。それが今、自分の顔の近くに位置している。
(おれ、どこにいるんだ!?)
もしかして、宙に浮いているのか。陸は体を動かそうとしたが、そこでようやく、手足の自由が利かないことに気づく。陸の首から下は、白い糸のようなものでぐるぐる巻きにされていたのだ。
「うわっ、何だこれ!?」
ぎょっとした陸は、糸を引きちぎろうと必死で身をよじる。だが糸は見た目の細さより頑丈にできているらしく、びくともしない。しかも、粘着性のある糸なのか、身じろぎすればするほど、糸はますます陸の手足や制服にへばりついてくる。
(一体――)
どうなっているんだ。陸はもがくのをやめ、唯一動かせる首を必死に動かした。今度は左右だけでなく、上下にも大きく巡らせる。
すると、自らを包む白い糸だけでなく、背後に幾筋もの糸が通っているのがわかった。初めは電線かと思ったが、そうではない。白い糸は淡い光を放ちながら、縦へ横へと緻密に伸びている。奇妙なことだが、どうやら自分は、その一角に貼りつけられているみたいだった。
(これは――)
大きな蜘蛛の巣だ。そこに、自分は獲物のごとく貼りつけられている。
陸がそう理解した瞬間、背中に密着した糸が、前後に弾むように揺れた。とっさに目だけを動かすと、足元からのそりと這い上がってくる、巨大な銀の影が見えた。
「…………っっ!」
陸の全身から、血の気がひいた。
細い縦糸を伝って、あの銀の蜘蛛が陸に近づいてくる。
(そうだ。おれ、さっきの部屋でこいつに捕まって……)
社宅と電柱の間に張られていた巣へ、連れてこられた。
灰色の空間で、蜘蛛の赤い眼が、ほの暗い灯火のように陸に迫る。蜘蛛は、先ほどの三景との戦いで口器の一部が潰されており、刺された腹部の端からも赤黒い体液がしたたり落ちていた。その匂いなのだろうか。つんとした異臭が、陸の鼻腔をつく。
「……あ、ああ……」
三景は蜘蛛の主眼を見ろと言っていた。が、陸は強い恐怖と嫌悪感で、とても目を開けていられない。瞼をきつく閉ざし、小刻みに頭を振るばかりだった。
その時。
「目をつぶるな、馬鹿!」
厳しい喝が響き渡ると共に、陸の体を覆っていた白い糸の束が、真っ二つに裂かれた。切られた糸は、霧散するように空中で消えていく。
「えっ」
陸は目を見開いた時には、どうやってここまで来たのか、三景が光の剣を片手に、自由になった陸を抱えて飛翔していた。そして二人は、巣の横に建つ、社宅の屋上へと着地した。
「山那……」
陸の体が、ざらついたコンクリートの上に降ろされる。険しい面持ちで立つ三景を、陸は尻餅をついたまま、複雑な思いで見上げていた。
『君は、本心では、彼の血がほしいと思ってる。そうだよね?』
先刻、岡湊斗の姿をした『影』が三景に告げた言葉。陸を狙っているはずの蜘蛛が、実は陸を三景から守っているのだと。
もし、それが本当なら。
「……お前、おれの血がほしいのか?」
胸の中で訊ねたつもりが、実際には、その問いは言葉となって陸の口をついて出ていた。
三景はわずかに顔をしかめながら、陸に視線を向けた。その瞳の色は、影よりも濃い黒だった。
「――そうだ」
少しの間のあと、三景は短くだがはっきりと答えた。
「な、何で……?」
「『影』と戦って消耗した体を回復させるためには、人間の生き血が一番効くからだ」
三景は淡々と語ったが、その双眸は陸から離れ、己の足元を見つめていた。
「俺たちの一族は、昔からこうして生きてきた。血をもらう人間――贄を見つけて、そいつの血を飲むことで、役目を果たすための力を得る」
そこまで言うと、三景は再び顔を上げて、陸を見た。
「俺は今まで、自分の贄だと思う奴に会ったことがなかった。でも、ここで初めてお前を見た時にわかった。俺の贄は、お前しかいない」
三景の表情は、確固たる信念を映し出していたが、その一方で、どこか寂しげにも見えた。
(贄……)
陸は魂が抜けたように、微動だにせず、その場に座りこんでいた。以前にも、三景が何者なのか、本人に問うたことがあった。その時には聞けなかった答えを、ここでやっと手にした。しかし、その内容は、陸の想像だにしないものであった。
「でも、俺はお前を贄にするつもりはない。蜘蛛の昇華が済めば、俺はもうお前に関わらないから、安心しろ」
三景は言い終えると、陸に背を向けた。そして蜘蛛を警戒しながら、光の剣を改めて握りしめる。
だが、
「……待ってくれ……」
震える声で、陸が呟いた。
訝しげに振り向く三景に、
「山那、お前、ここで初めておれを見たって言ったよな……」
陸は恐る恐る、だが、まっすぐに三景を見据えていた。
「忘れたって言ってたのに……お前、あの時のこと、覚えてたのか……?」
陸にそう訊ねられ、三景の顔に苦汁の色が広がった。それは、己が口を滑らせたことを意味していた。
陸は、初めて三景に出会った時の衝撃に近い感覚が、今も心に息づいている。だが、それはあくまで自分にとってだけだと思っていた。三景にとっては、とるに足らない出来事であったと。しかし、三景もあの出会いで、ある種の強い思いを胸に抱いていたのだと知り、陸の心は大きく揺らいでいた。
「本当のことなんか、言える訳ないだろ。俺に近づかないのが、お前の身のためだ」
三景は咎められた罪人のごとく、忌々しそうに吐き捨てた。
「そんな……!」
「お前、俺に血を吸われたいのか!?」
なおも食い下がる陸に、三景が堪えきれなくなったように、声を荒げた。
「篠田、さっきの『影』が言ったことは当たってる。お前にとっちゃ、あの蜘蛛も俺も危険なことに変わりはねえ。だから、さっさと蜘蛛を昇華して、俺から離れろ――俺が、衝動を抑えられなくなる前に!」
三景が叫んだ矢先、二人の頭上が、夜のように暗くなった。
銀の蜘蛛が、長い脚を大きく広げて飛び上がり、まさにこの場所へ着地しようとしていた。
「――――っ!」
色を失った空のもとで、蜘蛛の八つの眼が、爛々と輝いて見えた。すぐさま体勢を整えて、応戦しなければならない。だが、三景の反応が、わずかに遅れた。
「駄目だっっ!」
蜘蛛の眼を見た瞬間、陸は反射的に動いていた。なぜかわかったのだ。蜘蛛がどうするつもりなのか。
陸は三景に駆け寄ると、その体を力いっぱい突き飛ばした。それは無意識といってもいい行動で、今まで散々感じてきたはずの恐怖は、完全に消え去っていた。
ほぼ同時に、巨大な刃のような蜘蛛の前脚が振り下ろされる。そして、それは正面から、陸の腹部を深々と貫いたのだった。
気がつくと、陸の眼下には社宅の砂利道や芝生が広がっていた。先ほどまで自分たちが隠れていた倉庫も一望できる。
そして、ふだんは下から見上げるばかりの桜の木や電柱が、今は陸と肩を並べるように立っている。
(ど、どういうことだ……?)
陸は、おそるおそる首を左右に動かした。すると社宅の棟がすぐ隣に迫っていた。経年で薄汚れた壁面に『A』の文字が大きく描かれている。
「なっ……!?」
陸は愕然とした。各棟を示すこの文字は、地上からずっと高い位置にあるはずのものだ。それが今、自分の顔の近くに位置している。
(おれ、どこにいるんだ!?)
もしかして、宙に浮いているのか。陸は体を動かそうとしたが、そこでようやく、手足の自由が利かないことに気づく。陸の首から下は、白い糸のようなものでぐるぐる巻きにされていたのだ。
「うわっ、何だこれ!?」
ぎょっとした陸は、糸を引きちぎろうと必死で身をよじる。だが糸は見た目の細さより頑丈にできているらしく、びくともしない。しかも、粘着性のある糸なのか、身じろぎすればするほど、糸はますます陸の手足や制服にへばりついてくる。
(一体――)
どうなっているんだ。陸はもがくのをやめ、唯一動かせる首を必死に動かした。今度は左右だけでなく、上下にも大きく巡らせる。
すると、自らを包む白い糸だけでなく、背後に幾筋もの糸が通っているのがわかった。初めは電線かと思ったが、そうではない。白い糸は淡い光を放ちながら、縦へ横へと緻密に伸びている。奇妙なことだが、どうやら自分は、その一角に貼りつけられているみたいだった。
(これは――)
大きな蜘蛛の巣だ。そこに、自分は獲物のごとく貼りつけられている。
陸がそう理解した瞬間、背中に密着した糸が、前後に弾むように揺れた。とっさに目だけを動かすと、足元からのそりと這い上がってくる、巨大な銀の影が見えた。
「…………っっ!」
陸の全身から、血の気がひいた。
細い縦糸を伝って、あの銀の蜘蛛が陸に近づいてくる。
(そうだ。おれ、さっきの部屋でこいつに捕まって……)
社宅と電柱の間に張られていた巣へ、連れてこられた。
灰色の空間で、蜘蛛の赤い眼が、ほの暗い灯火のように陸に迫る。蜘蛛は、先ほどの三景との戦いで口器の一部が潰されており、刺された腹部の端からも赤黒い体液がしたたり落ちていた。その匂いなのだろうか。つんとした異臭が、陸の鼻腔をつく。
「……あ、ああ……」
三景は蜘蛛の主眼を見ろと言っていた。が、陸は強い恐怖と嫌悪感で、とても目を開けていられない。瞼をきつく閉ざし、小刻みに頭を振るばかりだった。
その時。
「目をつぶるな、馬鹿!」
厳しい喝が響き渡ると共に、陸の体を覆っていた白い糸の束が、真っ二つに裂かれた。切られた糸は、霧散するように空中で消えていく。
「えっ」
陸は目を見開いた時には、どうやってここまで来たのか、三景が光の剣を片手に、自由になった陸を抱えて飛翔していた。そして二人は、巣の横に建つ、社宅の屋上へと着地した。
「山那……」
陸の体が、ざらついたコンクリートの上に降ろされる。険しい面持ちで立つ三景を、陸は尻餅をついたまま、複雑な思いで見上げていた。
『君は、本心では、彼の血がほしいと思ってる。そうだよね?』
先刻、岡湊斗の姿をした『影』が三景に告げた言葉。陸を狙っているはずの蜘蛛が、実は陸を三景から守っているのだと。
もし、それが本当なら。
「……お前、おれの血がほしいのか?」
胸の中で訊ねたつもりが、実際には、その問いは言葉となって陸の口をついて出ていた。
三景はわずかに顔をしかめながら、陸に視線を向けた。その瞳の色は、影よりも濃い黒だった。
「――そうだ」
少しの間のあと、三景は短くだがはっきりと答えた。
「な、何で……?」
「『影』と戦って消耗した体を回復させるためには、人間の生き血が一番効くからだ」
三景は淡々と語ったが、その双眸は陸から離れ、己の足元を見つめていた。
「俺たちの一族は、昔からこうして生きてきた。血をもらう人間――贄を見つけて、そいつの血を飲むことで、役目を果たすための力を得る」
そこまで言うと、三景は再び顔を上げて、陸を見た。
「俺は今まで、自分の贄だと思う奴に会ったことがなかった。でも、ここで初めてお前を見た時にわかった。俺の贄は、お前しかいない」
三景の表情は、確固たる信念を映し出していたが、その一方で、どこか寂しげにも見えた。
(贄……)
陸は魂が抜けたように、微動だにせず、その場に座りこんでいた。以前にも、三景が何者なのか、本人に問うたことがあった。その時には聞けなかった答えを、ここでやっと手にした。しかし、その内容は、陸の想像だにしないものであった。
「でも、俺はお前を贄にするつもりはない。蜘蛛の昇華が済めば、俺はもうお前に関わらないから、安心しろ」
三景は言い終えると、陸に背を向けた。そして蜘蛛を警戒しながら、光の剣を改めて握りしめる。
だが、
「……待ってくれ……」
震える声で、陸が呟いた。
訝しげに振り向く三景に、
「山那、お前、ここで初めておれを見たって言ったよな……」
陸は恐る恐る、だが、まっすぐに三景を見据えていた。
「忘れたって言ってたのに……お前、あの時のこと、覚えてたのか……?」
陸にそう訊ねられ、三景の顔に苦汁の色が広がった。それは、己が口を滑らせたことを意味していた。
陸は、初めて三景に出会った時の衝撃に近い感覚が、今も心に息づいている。だが、それはあくまで自分にとってだけだと思っていた。三景にとっては、とるに足らない出来事であったと。しかし、三景もあの出会いで、ある種の強い思いを胸に抱いていたのだと知り、陸の心は大きく揺らいでいた。
「本当のことなんか、言える訳ないだろ。俺に近づかないのが、お前の身のためだ」
三景は咎められた罪人のごとく、忌々しそうに吐き捨てた。
「そんな……!」
「お前、俺に血を吸われたいのか!?」
なおも食い下がる陸に、三景が堪えきれなくなったように、声を荒げた。
「篠田、さっきの『影』が言ったことは当たってる。お前にとっちゃ、あの蜘蛛も俺も危険なことに変わりはねえ。だから、さっさと蜘蛛を昇華して、俺から離れろ――俺が、衝動を抑えられなくなる前に!」
三景が叫んだ矢先、二人の頭上が、夜のように暗くなった。
銀の蜘蛛が、長い脚を大きく広げて飛び上がり、まさにこの場所へ着地しようとしていた。
「――――っ!」
色を失った空のもとで、蜘蛛の八つの眼が、爛々と輝いて見えた。すぐさま体勢を整えて、応戦しなければならない。だが、三景の反応が、わずかに遅れた。
「駄目だっっ!」
蜘蛛の眼を見た瞬間、陸は反射的に動いていた。なぜかわかったのだ。蜘蛛がどうするつもりなのか。
陸は三景に駆け寄ると、その体を力いっぱい突き飛ばした。それは無意識といってもいい行動で、今まで散々感じてきたはずの恐怖は、完全に消え去っていた。
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