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第1部 茜の時
12 薄闇
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三景は、陸の自転車で社宅を出た。道路を少し進むと、フェンス脇に一台の黒い乗用車が停まっているのが見えた。車は正面を向いていたが、フロントガラスは群青の闇に沈み、運転席の様子もはっきりしない。
「三景」
後部座席の窓が開いたかと思うと、中から若い女が顔をのぞかせ、三景に呼びかけた。
「……来てたのかよ」
三景は彼女を確認するなり、無愛想な表情を崩さず、ため息まじりに呟いた。
「今後のこともあるし、私も確認しておいた方がいいと思って。……あの子が、そうなのね?」
念を押すのにも似た問いに、三景はゆっくり頷いた。
女は三景より年上で、二十代半ばのようだった。艶のある黒髪をまっすぐ胸元まで伸ばし、ライトグレーのビジネススーツを身につけている。
「篠田、陸くん……」
女は車中から、フェンスの奥に並ぶ四つの棟を見上げて呟いた。彼女も三景と同じ、黒く塗りつぶされた瞳をしていたが、そこには理知的な光が宿っている。
「一体、あの子の何が、『影』をあれほど成長させたのかしら?」
陸が帰宅すると、珍しく父が先に会社から戻っていた。幼い二人の妹・海や空と共に、居間で夕食をとっている。
「お父さん、早いじゃん」
陸は紺のブレザーを脱ぎつつ、廊下から父に声をかけた。
「おう、陸。お父さん、明日出張なんだよ。朝出るのが早いから、今日はさっさと切り上げてきた」
父はあぐらをかき、テレビのニュース番組を観ながら、テーブルに置かれた焼き魚を箸でほぐしている。
するとそこへ、母が台所から、冷やした缶ビールとガラスのコップを持ってきた。
「陸。あんた確か、この前A棟で女の人に会ったんでしょ? クモがどうこう言ってたって」
自分が話したこととは言え、母の口から転がるように出てきた『クモ』という言葉に、陸は本能的に身を硬くしていた。
「ああ、うん。言ってたけど……どしたの?」
今になって、どうしてあの女性の話題が持ち上がるのか。
「今日ね、下の階の人から色々聞いちゃったの」
それを皮切りに、母は自分がつかんだ特ダネを披露するように話し始めた。
「あんたが話したのは、たぶん岡さんって人。結構有名みたいよ。一人息子がいたらしいんだけど、何年か前に事故で死んじゃって。それ以来、精神科通いしてるらしいの」
セイシンカという単語を口にした時、母は家の中なのに声をひそめた。
「精神科? 何だ、そんな人がいるのか」
父は自らビールをコップに注いでいたが、母の話が耳に入り、そう訊ねた。
「陸がね、先週そこで奥さんと会って話したって言うのよ。A棟の一階の岡さん。パパ、旦那さんどんな人か知らない? 子ども亡くしてから、部屋にクモが出るとか言い始めて。実際にはそんなのいないのに、あちこち掃除してるんだって」
それを聞いた陸は、心の臓を掴まれたように、体がすくむのを感じた。
「陸、次は気をつけなさいよ。無視するのは恨まれそうで怖いから、挨拶だけにしときなさい。下手に関わったら、どんなことになるかわかんないわ。海と空も、知らないおばちゃんに声かけられても、話しちゃダメだからね」
そう言いつける母の声に、どう返事をしただろうか。その記憶さえ定かでないほど、陸は内心で動揺していた。
服を着替えに自室へ入る。だが陸は灯りもつけず、薄暗がりに浮かぶ和室に、鞄を握りしめたまま立ち尽くした。
(嘘だろ――)
陸の胸の中で、さまざまな思いが渦巻いていた。
A棟の前で。ドラッグストアで。二回出会った岡という女性の姿が、脳裏に浮かぶ。霞のごとく控え目で、しかし常に何かを気にしたような面影。
(……蜘蛛なら、おれだって見てる……)
陸は母の話に、少なからずショックを受けていた。
あの女性と自分とで、一体何が違うというのだろう。
最初は夢の中、次は駐輪場で奇怪な蜘蛛に遭遇した。ただ自分は、それを人に話していないだけだ――三景を除いて。
『精神科通いしてるらしいの』
内緒話でもするような母の口ぶりに、本人と関わりを持たないゆえの軽さと無責任さを感じた。昔から社宅住まいで、母の噂話はよく耳にしていたし、これまでは平気で聞き流してきたのに。
だが自分も蜘蛛を見たせいなのか、陸は母の言動に対して、強い反感と落胆を抱いていた。
『蜘蛛が巣を張るから、取らないと……』
『亡くなったんや。三年前に』
どこか追いつめられたまなざしで、芝生をさ迷っていた女性の姿。そして胸に空虚な穴でも開いたような、中井の横顔と呟きが思い出された。
『下手に関わったら、どんなことになるかわかんないわ』
母の言葉が、記憶の中の彼らに、石のつぶてを投げるように響いた。
(おれも、同じなのに……)
自分も妄想か幻覚を見ているのだろうか。三景の話を聞くまでは、陸自身そう思っていたのだ。現実にそうであるなどと、受け入れられる訳がない出来事だと。
だが、ふと陸の耳に、三景の言ったことが甦った。
『奴は元々、別の人間に憑いていた』
別の人間。
(それって、もしかして……)
岡さん、なのではないか。
三景はそれが誰なのかまでは、言おうとしなかったが。
陸はそう考えると、彼女も自分も蜘蛛を見ていることに、一応の説明がつく気がした。さらに初めて三景と会った時も、彼は当初、A棟の方を向いていなかったろうか。
(岡さんの部屋を、見てたのか……?)
陸はまだカーテンを閉めていない窓に近づき、外の景色に目を凝らした。闇の中、駐輪場や芝生の先にA棟が建っている。
一階の右端――彼女の家であるはずの部屋。だがベランダ越しの窓は暗いまま固く閉ざされ、何も確認することはできなかった。
「三景」
後部座席の窓が開いたかと思うと、中から若い女が顔をのぞかせ、三景に呼びかけた。
「……来てたのかよ」
三景は彼女を確認するなり、無愛想な表情を崩さず、ため息まじりに呟いた。
「今後のこともあるし、私も確認しておいた方がいいと思って。……あの子が、そうなのね?」
念を押すのにも似た問いに、三景はゆっくり頷いた。
女は三景より年上で、二十代半ばのようだった。艶のある黒髪をまっすぐ胸元まで伸ばし、ライトグレーのビジネススーツを身につけている。
「篠田、陸くん……」
女は車中から、フェンスの奥に並ぶ四つの棟を見上げて呟いた。彼女も三景と同じ、黒く塗りつぶされた瞳をしていたが、そこには理知的な光が宿っている。
「一体、あの子の何が、『影』をあれほど成長させたのかしら?」
陸が帰宅すると、珍しく父が先に会社から戻っていた。幼い二人の妹・海や空と共に、居間で夕食をとっている。
「お父さん、早いじゃん」
陸は紺のブレザーを脱ぎつつ、廊下から父に声をかけた。
「おう、陸。お父さん、明日出張なんだよ。朝出るのが早いから、今日はさっさと切り上げてきた」
父はあぐらをかき、テレビのニュース番組を観ながら、テーブルに置かれた焼き魚を箸でほぐしている。
するとそこへ、母が台所から、冷やした缶ビールとガラスのコップを持ってきた。
「陸。あんた確か、この前A棟で女の人に会ったんでしょ? クモがどうこう言ってたって」
自分が話したこととは言え、母の口から転がるように出てきた『クモ』という言葉に、陸は本能的に身を硬くしていた。
「ああ、うん。言ってたけど……どしたの?」
今になって、どうしてあの女性の話題が持ち上がるのか。
「今日ね、下の階の人から色々聞いちゃったの」
それを皮切りに、母は自分がつかんだ特ダネを披露するように話し始めた。
「あんたが話したのは、たぶん岡さんって人。結構有名みたいよ。一人息子がいたらしいんだけど、何年か前に事故で死んじゃって。それ以来、精神科通いしてるらしいの」
セイシンカという単語を口にした時、母は家の中なのに声をひそめた。
「精神科? 何だ、そんな人がいるのか」
父は自らビールをコップに注いでいたが、母の話が耳に入り、そう訊ねた。
「陸がね、先週そこで奥さんと会って話したって言うのよ。A棟の一階の岡さん。パパ、旦那さんどんな人か知らない? 子ども亡くしてから、部屋にクモが出るとか言い始めて。実際にはそんなのいないのに、あちこち掃除してるんだって」
それを聞いた陸は、心の臓を掴まれたように、体がすくむのを感じた。
「陸、次は気をつけなさいよ。無視するのは恨まれそうで怖いから、挨拶だけにしときなさい。下手に関わったら、どんなことになるかわかんないわ。海と空も、知らないおばちゃんに声かけられても、話しちゃダメだからね」
そう言いつける母の声に、どう返事をしただろうか。その記憶さえ定かでないほど、陸は内心で動揺していた。
服を着替えに自室へ入る。だが陸は灯りもつけず、薄暗がりに浮かぶ和室に、鞄を握りしめたまま立ち尽くした。
(嘘だろ――)
陸の胸の中で、さまざまな思いが渦巻いていた。
A棟の前で。ドラッグストアで。二回出会った岡という女性の姿が、脳裏に浮かぶ。霞のごとく控え目で、しかし常に何かを気にしたような面影。
(……蜘蛛なら、おれだって見てる……)
陸は母の話に、少なからずショックを受けていた。
あの女性と自分とで、一体何が違うというのだろう。
最初は夢の中、次は駐輪場で奇怪な蜘蛛に遭遇した。ただ自分は、それを人に話していないだけだ――三景を除いて。
『精神科通いしてるらしいの』
内緒話でもするような母の口ぶりに、本人と関わりを持たないゆえの軽さと無責任さを感じた。昔から社宅住まいで、母の噂話はよく耳にしていたし、これまでは平気で聞き流してきたのに。
だが自分も蜘蛛を見たせいなのか、陸は母の言動に対して、強い反感と落胆を抱いていた。
『蜘蛛が巣を張るから、取らないと……』
『亡くなったんや。三年前に』
どこか追いつめられたまなざしで、芝生をさ迷っていた女性の姿。そして胸に空虚な穴でも開いたような、中井の横顔と呟きが思い出された。
『下手に関わったら、どんなことになるかわかんないわ』
母の言葉が、記憶の中の彼らに、石のつぶてを投げるように響いた。
(おれも、同じなのに……)
自分も妄想か幻覚を見ているのだろうか。三景の話を聞くまでは、陸自身そう思っていたのだ。現実にそうであるなどと、受け入れられる訳がない出来事だと。
だが、ふと陸の耳に、三景の言ったことが甦った。
『奴は元々、別の人間に憑いていた』
別の人間。
(それって、もしかして……)
岡さん、なのではないか。
三景はそれが誰なのかまでは、言おうとしなかったが。
陸はそう考えると、彼女も自分も蜘蛛を見ていることに、一応の説明がつく気がした。さらに初めて三景と会った時も、彼は当初、A棟の方を向いていなかったろうか。
(岡さんの部屋を、見てたのか……?)
陸はまだカーテンを閉めていない窓に近づき、外の景色に目を凝らした。闇の中、駐輪場や芝生の先にA棟が建っている。
一階の右端――彼女の家であるはずの部屋。だがベランダ越しの窓は暗いまま固く閉ざされ、何も確認することはできなかった。
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