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第1章
5 音楽室で
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「陵、掃除だよ」
という伊勢の言葉で、ぼんやりと席についていた陵ははっとして右や左を見回した。終礼後の教室内は騒がしく、掃除当番のグループがほうきを手に雑談している。
「……ああ、そうだな」
イスからのろのろと立ち上がる陵の姿に、伊勢は小さくため息をついた。
この日、陵は廊下の掃除当番だった。伊勢も含めた数人の男女とともに、教室前のロッカーからほうきやちりとりを持ち出し、手分けして掃き始めた。
「はあ……」
しかし、陵はほうきを握ったきり、動こうとしない。昨日の斉二とのバスケットボール戦以来、ずっとこんな調子だ。心配そうな伊勢を尻目に、陵のまなざしは窓の向こうのバスケットゴールに注がれていた。
斉二との勝負がつかないうちにバスケ部員が戻ってきた後、陵は誰にも何も言わず、その場をあとにした。ゲームの決着もボールも斉二も、全て放り出し、置き去りにして。
「ちょっと陵、どこ行くのよ!」
途中、葵の声が聞こえたが、陵は答える気力をすっかりなくしていた。足どりは水中を歩くように重く、茫然自失のさまであった。
(あの感じ、何だったんだろう)
斉二に接近した瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。これまで味わったことのない、魂を揺さぶられる強烈な感覚。そして、丸一日経った今もその余韻は続き、陵をこんなふうにしている。
それでも皆で集めたゴミをちりとりで取って、作業がほぼ終わりかけた頃だった。ぼうっと宙を眺めていた陵は、少し先の渡り廊下をまっすぐにやって来る人物に気づく。斉二だった。
(あいつ――!)
陵の目が斉二に釘づけになる。
斉二は何も持たず、一人で渡り廊下を歩いていた。つきあたりの角を曲がれば陵たちの教室の方に出るが、斉二はそうせず、正面に続く階段へ向かう。
「伊勢、悪いけど、これ頼む!」
陵はなぜかじっとしていられなくなり、傍らの伊勢にほうきを押しつけ、そのまま走り出した。
「陵!?」
驚く伊勢を省みず、陵は斉二の後を追う。ところが、階段に着いた時には、すでに相手の姿はなかった。
「くそっ……!」
階段を上がったのか、下りたのか、皆目わからない。運命の分かれ道のごとく、上下にのびる階段を前に、陵はしばし立ち止まっていたが、
(こうなったら、一か八かだ!)
覚悟を決め、上を選ぶ。直感だけによる決断だった。陵はただちに階段を駆け上がって、踊り場を抜け、校舎の最上階である四階の廊下へ出た。
(当たりだ……)
四階には、一年生の教室や音楽室が並んでいる。陵は、廊下の左手にある音楽室に入っていく斉二の後ろ姿を見つけた。掃除か部活動か、斉二の目的は知らないが、陵はとにかく彼を追った。自分でも理由は不明なのに、そうせずにいられなかった。
陵は音楽室までたどり着くと、扉をガラッと開ける。
室内には、斉二のほかに誰もいなかった。中央に黒いグランドピアノが置かれ、周りを囲むように机が配されている。斉二はピアノ近くの机のそばに立ち、忘れ物らしいプリントを手にしたところだった。
扉の音に、斉二は静かにこちらを振り返る。肩で息をする陵と目が合った。斉二の琥珀色の瞳が、その奥へ閉じこめるように陵を映し出す。
照明はなくても、窓からの光でピアノはしっとりと輝いていた。壁には有名な音楽家たち――陵が知るのはベートーベンだけだが――の古い肖像画がずらりと飾られ、ある者は厳しい顔つきで、またある者は深く考えこんだ面持ちで、陵たちを見下ろしている。そして五線譜の黒板には何も書かれておらず、二人が交わす言葉を音にのせるのを待っているかのようだ。
「ぼくに、何か用?」
話の口火を切ったのは、斉二だった。その顔には、ゲームを途中で放り出された怒りもなければ、無邪気な笑みもない。昨日、陵が衝撃を受けた際に見せた、あらゆる感情を払い落とした素の表情と同じものに思えた。
「お前、ほんとはバスケやってたんじゃねえのか……いや、もう、それはいい!」
陵は勢いづいて言いかけたが、まもなく自ら打ちきった。自分が本当に知りたいのは、そんなことではない。
「俺がトイレで平井をシメてた時に、何で邪魔した?」
怒気のこもった陵の声が、低く音楽室に響いた。
「遊んでたんじゃなかったの?」
「あれが、そんなふうに見えるかよ!」
なおもとぼけた言いぐさの斉二に、陵は今度こそ憤りをあらわにした。
「じゃあ、何してたの?」
斉二は声を荒げる陵に動じることなく、淡々と聞き返す。
「言っただろ。シメてたんだよ、あのバカを」
「どうして?」
「あいつは、俺ん家のうわさを流しやがったんだよっ。俺の母さんはシングルで、姉ちゃんはキャバクラでバイトしてるってな」
それを聞いた斉二の双眸が、驚きで大きく見開かれる。
「元々、俺とあいつは仲が悪いんだ。前のケンカの仕返しだか知らねえが、姉ちゃんの件は嘘っぱちだ。バイトはしてるけど、キャバクラじゃなくてラーメン屋だっつーの」
「……」
斉二は言葉を探すように、陵を見つめた。
「だから、俺はあいつに思い知らせてやろうとしたんだ。なのに、いきなりお前が入ってきて――」
俺は怒ってるんだと告げようとした陵だったが、
「そっか。悲しかったんだね」
斉二の一言に、陵は虚をつかれた。
「は?」
「大切な家族のことをそんなふうに言われたら、ぼくだってきっと嫌な気持ちになるよ。平井くんって人にも言い分があるんだろうけど、君が悲しいのもわかる」
「……」
陵は違うと即答しようとした。
(悲しいだと? そんな弱っちい言葉、俺の中にねえぞ――)
けれど、その思いとは裏腹に、声が出ない。
「ごめんね」
さらに、斉二ははっきりとした口調でそう言った。
「え?」
「君はあの時真剣だったのに、ぼくは全然知らなくて。あんなことしてごめん」
斉二はまっすぐに陵を見据えて謝罪する。
あっけなく話はついた。バスケで勝てずとも謝らせたのだから、陵の目的は達成したはずだが。
(そうされると、こっちはもう何も言えねえじゃねえか……!)
陵の胸中は複雑だった。どういうわけか気は晴れず、表現できないもどかしさに襲われる。
このまま黙っていたら、斉二も用件は済んだと判断するだろう。そうなれば、クラスも違う自分たちが関わることもない。
(俺は一体どうしたいんだ――)
陵が考えあぐねていた時。
ポーン……。
突然、ピアノが鳴った。ごく小さくだが、かすかなささやきにも似た音だった。
「?」
陵と斉二の視線がピアノへ向かう。が、鍵盤は蓋で閉じられ、音の出る状態ではない。そもそも、ここには自分たちしかおらず、どちらもピアノには指一本ふれていなかった。
「オバケだよ!」
突拍子もないことを言い出す斉二の顔つきはなぜか明るく、ワクワクしているふうに見えた。
「んなわけねえだろ。つーか、何で嬉しそうなんだ」
陵は斉二に呆れつつピアノに近づくと、蓋を開けて鍵盤を確認した。だが異常はない。
「怖くないの?」
そんな陵に、斉二が不思議そうに声をかける。
「ピアノが鳴っただけで、怖いもんか」
陵は続けて、ピアノの下をのぞきこんだり、窓際のカーテンをめくったりしたが、やはり何もいない。
「もしかして、襲ってくるかも知れないよ?」
再び訊ねる斉二に、
「そんなら戦う。売られたケンカは買うぜ」
陵は迷わず言い返した。
「オバケに勝てる?」
「やってみなきゃわかんねえよ。けど、負けても戦う。それで勝てば勝ちだし、負けたって勝ちだ。俺にとってはな」
ぽかんとしていた斉二だが、陵の答えを聞くうち、朝日がさすように表情が輝き、みるみる笑顔が広がった。
「ねえ、君、名前何ていうの? ぼくは山那斉二、2組だよ!」
やにわに、斉二が身を乗り出して言った。
陵は斉二の名やクラスについてすでに知っていた。しかし、まさか自分がそんなことを聞かれるとは予想外で、驚いて再び彼に向き直る。
「俺は……竹本陵、5組だ」
「そっか。じゃあ、これからは陵ちゃんって呼ぶね!」
声を弾ませた斉二は片手でプリントをつかんだまま、両腕を水平に伸ばし、机やピアノの間をぐるぐると走り回った。
「あはははは! 陵ちゃん、また遊ぼうよ!」
斉二は笑いながらそう言って、
「うわあ~い!」
喜びで瞳をきらきらさせ、廊下へ跳びはねていく。
「おい!?」
一方、呆気にとられていた陵はようやく我に返り、
「待てよ、斉二!」
気がつけばその名を呼び、共に駆け出していた。
という伊勢の言葉で、ぼんやりと席についていた陵ははっとして右や左を見回した。終礼後の教室内は騒がしく、掃除当番のグループがほうきを手に雑談している。
「……ああ、そうだな」
イスからのろのろと立ち上がる陵の姿に、伊勢は小さくため息をついた。
この日、陵は廊下の掃除当番だった。伊勢も含めた数人の男女とともに、教室前のロッカーからほうきやちりとりを持ち出し、手分けして掃き始めた。
「はあ……」
しかし、陵はほうきを握ったきり、動こうとしない。昨日の斉二とのバスケットボール戦以来、ずっとこんな調子だ。心配そうな伊勢を尻目に、陵のまなざしは窓の向こうのバスケットゴールに注がれていた。
斉二との勝負がつかないうちにバスケ部員が戻ってきた後、陵は誰にも何も言わず、その場をあとにした。ゲームの決着もボールも斉二も、全て放り出し、置き去りにして。
「ちょっと陵、どこ行くのよ!」
途中、葵の声が聞こえたが、陵は答える気力をすっかりなくしていた。足どりは水中を歩くように重く、茫然自失のさまであった。
(あの感じ、何だったんだろう)
斉二に接近した瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。これまで味わったことのない、魂を揺さぶられる強烈な感覚。そして、丸一日経った今もその余韻は続き、陵をこんなふうにしている。
それでも皆で集めたゴミをちりとりで取って、作業がほぼ終わりかけた頃だった。ぼうっと宙を眺めていた陵は、少し先の渡り廊下をまっすぐにやって来る人物に気づく。斉二だった。
(あいつ――!)
陵の目が斉二に釘づけになる。
斉二は何も持たず、一人で渡り廊下を歩いていた。つきあたりの角を曲がれば陵たちの教室の方に出るが、斉二はそうせず、正面に続く階段へ向かう。
「伊勢、悪いけど、これ頼む!」
陵はなぜかじっとしていられなくなり、傍らの伊勢にほうきを押しつけ、そのまま走り出した。
「陵!?」
驚く伊勢を省みず、陵は斉二の後を追う。ところが、階段に着いた時には、すでに相手の姿はなかった。
「くそっ……!」
階段を上がったのか、下りたのか、皆目わからない。運命の分かれ道のごとく、上下にのびる階段を前に、陵はしばし立ち止まっていたが、
(こうなったら、一か八かだ!)
覚悟を決め、上を選ぶ。直感だけによる決断だった。陵はただちに階段を駆け上がって、踊り場を抜け、校舎の最上階である四階の廊下へ出た。
(当たりだ……)
四階には、一年生の教室や音楽室が並んでいる。陵は、廊下の左手にある音楽室に入っていく斉二の後ろ姿を見つけた。掃除か部活動か、斉二の目的は知らないが、陵はとにかく彼を追った。自分でも理由は不明なのに、そうせずにいられなかった。
陵は音楽室までたどり着くと、扉をガラッと開ける。
室内には、斉二のほかに誰もいなかった。中央に黒いグランドピアノが置かれ、周りを囲むように机が配されている。斉二はピアノ近くの机のそばに立ち、忘れ物らしいプリントを手にしたところだった。
扉の音に、斉二は静かにこちらを振り返る。肩で息をする陵と目が合った。斉二の琥珀色の瞳が、その奥へ閉じこめるように陵を映し出す。
照明はなくても、窓からの光でピアノはしっとりと輝いていた。壁には有名な音楽家たち――陵が知るのはベートーベンだけだが――の古い肖像画がずらりと飾られ、ある者は厳しい顔つきで、またある者は深く考えこんだ面持ちで、陵たちを見下ろしている。そして五線譜の黒板には何も書かれておらず、二人が交わす言葉を音にのせるのを待っているかのようだ。
「ぼくに、何か用?」
話の口火を切ったのは、斉二だった。その顔には、ゲームを途中で放り出された怒りもなければ、無邪気な笑みもない。昨日、陵が衝撃を受けた際に見せた、あらゆる感情を払い落とした素の表情と同じものに思えた。
「お前、ほんとはバスケやってたんじゃねえのか……いや、もう、それはいい!」
陵は勢いづいて言いかけたが、まもなく自ら打ちきった。自分が本当に知りたいのは、そんなことではない。
「俺がトイレで平井をシメてた時に、何で邪魔した?」
怒気のこもった陵の声が、低く音楽室に響いた。
「遊んでたんじゃなかったの?」
「あれが、そんなふうに見えるかよ!」
なおもとぼけた言いぐさの斉二に、陵は今度こそ憤りをあらわにした。
「じゃあ、何してたの?」
斉二は声を荒げる陵に動じることなく、淡々と聞き返す。
「言っただろ。シメてたんだよ、あのバカを」
「どうして?」
「あいつは、俺ん家のうわさを流しやがったんだよっ。俺の母さんはシングルで、姉ちゃんはキャバクラでバイトしてるってな」
それを聞いた斉二の双眸が、驚きで大きく見開かれる。
「元々、俺とあいつは仲が悪いんだ。前のケンカの仕返しだか知らねえが、姉ちゃんの件は嘘っぱちだ。バイトはしてるけど、キャバクラじゃなくてラーメン屋だっつーの」
「……」
斉二は言葉を探すように、陵を見つめた。
「だから、俺はあいつに思い知らせてやろうとしたんだ。なのに、いきなりお前が入ってきて――」
俺は怒ってるんだと告げようとした陵だったが、
「そっか。悲しかったんだね」
斉二の一言に、陵は虚をつかれた。
「は?」
「大切な家族のことをそんなふうに言われたら、ぼくだってきっと嫌な気持ちになるよ。平井くんって人にも言い分があるんだろうけど、君が悲しいのもわかる」
「……」
陵は違うと即答しようとした。
(悲しいだと? そんな弱っちい言葉、俺の中にねえぞ――)
けれど、その思いとは裏腹に、声が出ない。
「ごめんね」
さらに、斉二ははっきりとした口調でそう言った。
「え?」
「君はあの時真剣だったのに、ぼくは全然知らなくて。あんなことしてごめん」
斉二はまっすぐに陵を見据えて謝罪する。
あっけなく話はついた。バスケで勝てずとも謝らせたのだから、陵の目的は達成したはずだが。
(そうされると、こっちはもう何も言えねえじゃねえか……!)
陵の胸中は複雑だった。どういうわけか気は晴れず、表現できないもどかしさに襲われる。
このまま黙っていたら、斉二も用件は済んだと判断するだろう。そうなれば、クラスも違う自分たちが関わることもない。
(俺は一体どうしたいんだ――)
陵が考えあぐねていた時。
ポーン……。
突然、ピアノが鳴った。ごく小さくだが、かすかなささやきにも似た音だった。
「?」
陵と斉二の視線がピアノへ向かう。が、鍵盤は蓋で閉じられ、音の出る状態ではない。そもそも、ここには自分たちしかおらず、どちらもピアノには指一本ふれていなかった。
「オバケだよ!」
突拍子もないことを言い出す斉二の顔つきはなぜか明るく、ワクワクしているふうに見えた。
「んなわけねえだろ。つーか、何で嬉しそうなんだ」
陵は斉二に呆れつつピアノに近づくと、蓋を開けて鍵盤を確認した。だが異常はない。
「怖くないの?」
そんな陵に、斉二が不思議そうに声をかける。
「ピアノが鳴っただけで、怖いもんか」
陵は続けて、ピアノの下をのぞきこんだり、窓際のカーテンをめくったりしたが、やはり何もいない。
「もしかして、襲ってくるかも知れないよ?」
再び訊ねる斉二に、
「そんなら戦う。売られたケンカは買うぜ」
陵は迷わず言い返した。
「オバケに勝てる?」
「やってみなきゃわかんねえよ。けど、負けても戦う。それで勝てば勝ちだし、負けたって勝ちだ。俺にとってはな」
ぽかんとしていた斉二だが、陵の答えを聞くうち、朝日がさすように表情が輝き、みるみる笑顔が広がった。
「ねえ、君、名前何ていうの? ぼくは山那斉二、2組だよ!」
やにわに、斉二が身を乗り出して言った。
陵は斉二の名やクラスについてすでに知っていた。しかし、まさか自分がそんなことを聞かれるとは予想外で、驚いて再び彼に向き直る。
「俺は……竹本陵、5組だ」
「そっか。じゃあ、これからは陵ちゃんって呼ぶね!」
声を弾ませた斉二は片手でプリントをつかんだまま、両腕を水平に伸ばし、机やピアノの間をぐるぐると走り回った。
「あはははは! 陵ちゃん、また遊ぼうよ!」
斉二は笑いながらそう言って、
「うわあ~い!」
喜びで瞳をきらきらさせ、廊下へ跳びはねていく。
「おい!?」
一方、呆気にとられていた陵はようやく我に返り、
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