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第1章
1 はじまり
しおりを挟む血が滴っている。
ぽつぽつと小雨のように落ちる雫が、コンクリートで固められた地面にぶつかって、赤い跡を作った。
「陵ちゃん……」
屋上を吹き抜ける夜風が、少年の静かな呟きを運ぶ。彼はブレザーの制服姿で、まだあどけない面立ちをしていたが、血を流しているのはその右腕からであった。顔にもすり傷があるうえに、制服はあちこち破れ、ところどころ血に染まりかけていた。
そんな少年の姿を、竹本陵は鉄柵にもたれたまま茫然と眺めた。
――どうしてこんなことになったんだろう。
陵は心の中であてもなく問うてみたが、天から答えが降ってくるはずもなく、虚しい沈黙が広がるばかりだった。
「……血を」
ふいに、少年が言った。
「血を、ちょうだい――」
その口調は唄うようでもあり、切実に求めるようでもあった。
少年は陵に慈しみの表情を向けたが、どこかほの暗い、この世のものならぬ空気をまとっている。
やがて、ゆっくりと陵に歩み寄る少年。彼の胸には、『山那』と書かれた名札が揺れていた。
二ヶ月前。
その日、青空は薄く霞がかっていた。木々の桜はすっかり新緑の葉にとって代わられ、『市立第2中学校』と刻まれた正門を覆う、大きな影を作っていた。
「平井。こそこそ隠れたってムダなんだよ、このデブ」
放課後の男子トイレで、陵は怒りと侮蔑をこめて言い放った。
「ううっ……」
陵に見下ろされる格好で、平井と呼ばれた生徒がタイル張りの床にうずくまっていた。彼はやや小太りで、恐怖に顔をひきつらせながらも、傍らに投げ出されたスクールバッグへ何とか手を伸ばそうとする。
しかし、その動きを見越した陵は、足でバッグをぐしゃりと踏みつけ、後ろへ蹴った。
「あっ……!」
バッグをごみ同然に扱われた平井は唇を噛み、失望と悔しさをにじませた。
「ナイスパス、陵」
陵の背中越しに、別の少年の声が飛んだ。その名札には『伊勢』の文字がある。洗面台にもたれた伊勢は足でバッグを受け取って、ニヤニヤしながら事の成り行きを見つめていた。そして、その横ではもう一人の少年――こちらの名札には『小塚』とある――がどこか落ち着かない顔で、出入口のドアをふさぐように立っていた。
「てめえだろ。俺の家のこと、あることないこと言いふらしやがって。クラス替えで逃げられると思ったら大間違いだぞ」
陵は憎々しげに平井をにらみつけ、一歩ずつ迫る。すると、平井は怯えて後退し、個室トイレの扉にぶつかった。
「お……おれだけじゃないぞ!」
追い詰められた反動か、平井が突然開き直ったように口を開く。
「みんな言ってるんだからな。お前の母ちゃんはシングルで、ねーちゃんは学校やめてキャバクラでバイトしてるって!」
「ふざけんな!!」
平井が大声でわめくのと、陵の怒りが爆発したのはほぼ同時だった。
「今すぐ取り消せ! でなきゃ、ここで死ね!」
激高した陵は平井の上に馬乗りになると、その頭をわし掴み、すぐ奥の和式便器へ力任せに突っ込んだ。派手な水音とともにしぶきが飛び散って、平井の顔や髪はもちろん、陵の制服をも濡らす。
「ぶわっ! やめろ、離せ!」
汚物がない状態とはいえ、便器に顔を押しつけられた平井は、叫びながら死に物狂いで抵抗する。
「ちょっと伊勢、さすがにヤバくない? それに、このトイレって例の……」
小塚はその光景に怖じ気づき、おろおろと伊勢に掛け合うが、
「だいじょーぶでしょ。こづ、もしかしてビビってんの? あんなのただの噂だって」
伊勢は冗談めかした口ぶりで答える。さらにズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、
「ほら、死ーね、死ーね」
滑稽な節をつけて囃し立てながら、便器から逃れようともがく平井を撮影した。
その時である。
「何してるの?」
この場にまるで似つかわしくない、明るい声が響いた。
一瞬、何が起こったのか、そこにいた誰にも理解できなかった。
陵がゆっくりと声のした方を見ると、いつ入ってきたのか、知らない少年が立っていた。彼もまた陵たちと同じ二年生だと示す黒いスリッパを履いているが、その無邪気な笑顔は、まるで幼子のようだった。
「遊んでるの?」
「――はぁ?」
こいつ、本気で言ってるのか。
少年の天真爛漫な問いかけが、無性に陵の勘に障った。
「せいちゃん、いつの間に……」
そう洩らしたのは、数秒ほど凍りついたように動けなかった小塚だ。彼は驚きつつも少年と顔見知りらしく、表情にかすかに安堵が混じる。
一方、伊勢は少年を見たとたん、明らかにムッとして顔を背けた。
だが、そんな彼らの態度などお構いなしに、少年は軽快にスキップしながら陵たちの方へ近づいていく。
「鬼ごっこ? それとも追いかけっこ?」
少年の朗らかな笑顔と口調は変わらない。陵にはその意図がまったく不明だったが、ただ一つ、彼が自分を微塵も恐れていないことはわかった。
だが、得体の知れぬ相手に気をとられ、一瞬、平井を捕らえた陵の腕が無意識にゆるんだ。
「うわあああっ!」
平井は全力で陵を押しのけた。そして瞬く間に伊勢の足元からバッグを取り返すと、一目散に外へ駆け出していく。
「平井! 待て、この野郎!」
壁に叩きつけられた陵が慌てて起き上がった頃にはもう平井の姿はなく、伊勢と小塚が、ぼんやりと立ち尽くすのみだった。
「そっか、追いかけっこしてたんだね!」
「……お前……」
少年の能天気な言い分に、陵は地獄の門番のような眼光を向けた。
「そんなに死にてえのかよっ!!」
どこの誰だか知らないが、もう容赦はしない。陵は台詞を言い終わらぬうちに、相手の顔めがけて拳をふるった。
しかし、少年はひらりと身をかわすと、水を得た魚のように瞳を輝かせた。
「遊んでくれるの? じゃあ、今度はぼくの番だね!」
そう言うと、
「どーんっ!」
陵に体勢を立て直す間も与えず、後ろへ突き飛ばした。
喧嘩を含め、運動神経には自信がある陵だった。それゆえ相手に軽々と避けられたのは予想外で、この時だけは驚きが怒りに勝っていた。
陵の視界が、少年の顔からトイレの天井へと、スローモーションで切り替わる。
そうだ、ここは便所だった。
陵がそのことを思い出した時、背中から腰にかけて衝撃と冷たさに襲われる。海老のように腰を折り曲げた格好で、便器にボチャッとはまり込んでいた。
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