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ある、義妹にすべてを奪われて魔獣の生贄になった令嬢のその後
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「お聞きになった? ブランザ侯爵令嬢と、ルイ王太子殿下のお話!」
「聞きましたわ、とうとう婚約解消ですってね」
「王太子殿下直々に、ブランザ嬢に婚約破棄を宣言されたとか」
「ということは、まさか本当に殿下はエルフェ嬢との結婚をお望みに? ブランザ侯爵の娘といっても、エルフェ嬢は卑しい娼婦の娘で私生児。まして侯爵令嬢との婚約は王命ですのに」
「まるで物語のような展開ですわ…………」
王立学院の女子部の庭園のベンチで。ほう、と、ため息をついた女生徒の表情が『私もその場で見てみたかった』と語っている。
「聞いたか? レナエル・ドゥ・ブランザ侯爵令嬢の話」
「ああ。ルイ王太子殿下に婚約破棄されたショックで世を儚み、例の三十年に一度のカエルム山の魔獣の生贄に立候補した、というやつだろう?」
「立候補というか、無理やり本物の生贄と入れ替わったらしい。大神殿だって、さすがに昨日まで王太子殿下の婚約者だった侯爵令嬢を、生贄になんか選べないさ。令嬢が儀式の日に生贄の控室に忍び込んで衣装を交換し、本物には金をつかませて逃がして、自分が魔獣に捧げられたそうだ。ヴェールを深くかぶっていたので、神官達も気づかなかったそうだ」
「おかげで大神殿は大騒ぎだ。令嬢の自主的な工作とはいえ、名門侯爵家の当主の娘を見殺しにしたんだからな。大神官長以下、儀式に出席した神官達はなんらかの処分は免れまい」
「それにしても、王太子殿下との婚約破棄からの魔獣の生贄とは…………まさしく、巷で流行の大衆小説の世界だな」
王立学院男子部の食堂も、ブランザ侯爵令嬢の噂でもちきりだった。
「レナエル嬢の行方は依然、不明のままだ」
ビロードを張った一人用の椅子に腰をおろしたルイ王太子が、長椅子に座る黒髪の少女に告げる。王宮の王太子用の応接室には、紅茶の香りと重々しい空気がただよっている。
「今、陛下がブランザ侯爵と共に、大臣達と今後を話し合っているが…………」
「どうか殿下、ブランザ嬢をお許しくださいませ。婚約が白紙になり、激しく動揺されたのでしょう。侯爵邸に戻ってから、ずっと自室にこもりきりで…………侍女達も抜け出したのに気づかなかった、と口をそろえておりました」
黒髪の少女――――セレナ・エルフェは水色の瞳を曇らせた。
『エルフェ』の姓を名乗ってはいるが、彼女が『ブランザ侯爵と、彼の妾であった高級娼婦の間に生まれた私生児』であり『ブランザ侯爵の一人娘、レナエル・ドゥ・ブランザ嬢の異母妹』であるという話は、学院中に知れ渡っている。
「だとしても、魔獣の生贄とは…………」
「失礼します」と侍従が入室してきて、王太子に「陛下のお呼びです」と告げる。
ルイ王太子とエルフェ嬢は立ちあがり、国王の会議の間へと移動した。
会議の間にはずらりと大臣やその他の側近達が並び、ブランザ侯爵も同席している。豪華な神官服の男達は、大神官長と大神殿長だろうか。
国王は余計な前置きは並べず、さっさと本題に入った。
「まず、ブランザ侯爵令嬢と王太子の婚約は白紙。この決定に変更はない」
ブランザ侯爵が苦渋の表情で視線を落とすのを、セレナは見た。
「そして王太子の新たな婚約についてだが――――」
ガシャーン、と大量のガラスがいっせいに割れる激しい音が響く。
「きゃあああああぁ――――っ!!」
甲高い悲鳴が落ちてきて、室内にいた二十人以上の人間達の度肝を抜いた。
「何事だ!?」
「刺客!? 狼藉者か!? であえ、であえ!!」
「衛兵! 衛兵――――!!」
我に返った者が扉の外へと声をはりあげ、侍従達と大臣の一部が国王をとり囲む。
「父上! ご無事ですか!?」
ルイ王太子が国王のもとへ走り、その王太子の周囲も侍従と飛び込んできた衛兵達が囲む。
「セレナ嬢、無事か!?」
「ブランザ侯爵閣下。ええ、なんとか…………」
人前では常に『エルフェ嬢』と呼ぶ侯爵が、セレナの名を呼んで駆け寄った。
「突然だが、邪魔するぞ」
パリン、パリン、と絨毯に飛び散った山のようなガラスの破片を踏んで、ぬっ、と大きな影が窓と壁に開いた大きな穴から入ってくる。
「鳥…………!?」
燭台の炎に照らされて現れたのは、闇色の羽根に全身を包んだ巨大な鳥だった。
爛々と輝く目と鋭い爪は、刃のように輝く銀色。全体の形は鷲にも鷹にも似ている。
そして大きなくちばしに白い塊をくわえていた。
「返却する」
人間の言葉と共にぼてっ、と絨毯に投げ出されたのは、くしゃくしゃになった白い衣装を着て、長い金髪をばさばさに乱した少女だった。
「あっ…………あぁ…………」
少女は呆然とした面持ちで呻いていたが、やがて我をとり戻す。
憤然と巨大な猛禽にくってかかった。
「なんてことするのよ、死ぬかと思ったじゃない!!」
声と、ばさばさになった前髪の隙間からのぞいた顔を見て、ルイ王太子とブランザ侯爵が驚きの声をあげる。
「レナエル嬢!?」
「レナエル!?」
「ブランザ侯爵令嬢?」
セレナや国王、大臣達もそろって目を丸くした。
「いったい、今までどこに…………」
誰かの呟きに、答えたのは闇色の翼の大鳥だった。
「カエルム山だ。今年の生贄と称して、我がもとにきた。一昨日のことだ」
闇色の鳥はいったん室内を見渡すと「ふむ」とかなんとかうなずき「このままではせまいな」と呟く。
鳥の姿がゆらぎ、煙に包まれたかのようにぼんやりとする。
ゆらぎが収まった時には、一人の青年がそこに立っていた。
上品な黒い衣装、艶やかな闇色の髪と、鋭い銀色の瞳。
獣とは対極の、知性と気品をたたえた端正な青年だった。
「に、人間…………!?」
「ではない。部屋とお前達に合わせて、実体を調整しただけだ。我はカエルムの主にして、夜の空の王ブレナス・シエル」
そこらの貴公子よりよほど優雅で貫録たっぷりに、青年は名乗った。
「ブ、ブレナス・シエル…………! 伝説の、魔獣…………!!」
「魔獣がなんの用だ!? 生贄ならすでに…………!!」
「その贄を返しに来た」
青年は大神官長や大神殿長の問いに、金髪の少女を指さして説明する。
「そもそも、我は人間の贄など必要とせぬ。贄の儀式は百数十年前に当時の神官達が、我の意図を曲解してはじめたもの。それでも人の世には多少の興味があってな。ひとしきりしゃべらせてから密かに街へ戻していたのだが…………今回のこの娘だ」
青年は舌打ちをこらえる表情でレナエル・ドゥ・ブランザ侯爵令嬢を見た。
「これほど性質の悪い贄を寄越されたのは、はじめてだ。本人は帰りたくないと主張するが、我が山に置きたくない。ついでに今後の儀式も止めるよう、警告に来た。以後、我の許しと求めなくして、カエルム山に人間を寄越すことは禁じる」
銀の瞳が大神官長や神殿長をにらみ、神官達がふるえあがる。
「カエルムの主、夜の空の王よ。さしつかえなければ、理由を教えてはいただけまいか。娘を、その、性質の悪い贄と判断した、その根拠や理由を。娘の体かどこかに不具合でもあった、ということだろうか?」
ブランザ侯爵の至極当然の疑問に、魔獣は淡々と説明する。
「体は問題ない。健康そのものだ。が、頭に問題がある」
「あ、頭、とは…………」
「その娘、自分がこの我と結ばれる運命だと、勘違いしている。この我が、夜の空の王妃の器ではないと断言しているのに、伴侶面で世話を焼いてきて、うっとうしい事このうえない」
「それの何が悪いのよ!!」
レナエルが口をはさんだ。
「アンタはブレナス・シエルでしょ!? 夜空の王で、カエルム山の主でしょ!? だったらアタシの、レナエルの夫になって、レナエルを虐めてきたヤツらに復讐して、レナエルをこの国の女王にするのがアンタの未来なのに! どうしてアタシを溺愛しないわけ!? なんで話どおりに進まないのよ!?」
会議の間にいた、ブレナス・シエル以外の全員が「はぁ?」という風に目を丸くする。
「我はいかにもブレナス・シエルだが、貴様の夫になった覚えはない。生贄はそのようなものではないと、何度言えば理解する。貴様のような女を溺愛したり、貴様のために国を傾けるなど、御免こうむる。貴様自身に、とうていその価値はない」
答える青年も見るからに嫌そうな表情をしていた。
「なんでよ!!」と、レナエルは長い髪をふり乱して主張する。
「ブレナス・シエルは、人間から恐れられる魔獣でしょ!? それで何百年間も一人きりだった、孤独な魂でしょ!? だから花を摘んできたり、お菓子を焼いたりしてやって、慰めてあげたんじゃない!! こんだけやってもらって、なんなのよ、その態度は! アンタを癒してあげられるのは、この世界にただ一人、レナエル・ブランザだけ! そういう設定なんだから、素直に甘えなさいよ!!」
「断る」
青年を指さしてわめくレナエルに、ブレナス・シエルは即答した。
「菓子も花も、我は『不要』と伝えた。貴様が勝手にやって、押しつけてきただけだ。我の妻を志願しながら我の話を聞かぬ俗悪な女に甘えるなど、虫唾が走る。だいいち我の力を求め、甘えたがっているのは貴様だろう。復讐を望むなら己の力でやれ」
「はあ!? なによ、偉そうに! 数百年間ぼっちだった、陰キャのくせして!!」
「フン」と青年は鼻で笑った。傲慢なほど堂々と。
「貴様のいう孤独など、矮小な人間の思い違いにすぎぬ。我が本性は夜に属する精霊、その現身だ。この身、この魂は常に大いなる自然界と通じているがゆえに、孤独など感じるはずもない。人の言う孤独とはすなわち、神々の息吹を感じとれぬほど劣化した下等存在の証。太古の時代は、人間ももっと神や精霊の気配に敏感であったものだが…………」
「陰キャが強がってんじゃないわよ、『醜い』と言われつづけた、引きこもりのくせに!!」
「我は精霊だぞ? 何故、人間の美醜の基準、それも内面を無視した表面のみの判断に傷つくと思うのだ? 神々の息吹を感じられぬ下等存在が、我の有する美を感知も理解もできぬのは、当然のこと。憐れんで終わりだ」
歯ぎしりするレナエルに、青年が追い打ちをかける。
「そもそも我が人の姿になった途端、態度を変えて媚びてきたのは、貴様ではないか」
「なっ…………!」
青年の冷ややかな指摘は図星だったか。レナエルが真っ赤になる。
青年は国王達を見た。
「そういうわけで、この贄は返却する。二度と寄越すな。そしてこの娘に限らず、今後はいっさいの生贄が不要だ。もし、また送ってくれば、その時は王都を焼き払うぞ?」
銀色の瞳が鋭く神官達を見て、大神官長達は慌てて「かしこまりました」と跪く。
青年は踵を返すと、今度は呆然と成り行きを見守っていたセレナの前に立つ。
「何者だ?」
「え?」
「おかしな気配をしている。この気配は…………」
魔獣の青年の手がセレナの頬に触れそうになり、甲高い非難の声が飛んできた。
「ちょっと!! なんで、その女に『おもしれー女』仕草するのよ!!」
レナエルだ。
「セレナは魔女でしょ! レナエルの異母妹だけど、純粋な侯爵令嬢のレナエルと違って娼婦の娘で、お父様のお情けで侯爵邸に引きとられたくせに、高貴でなんでもできるレナエルを妬んで、嫌がらせとクレクレをしまくって、レナエルの婚約者の王太子まで色仕掛けでたらし込んで、自分が殿下の婚約者におさまったくせに、レナエルが夜の空の王ブレナスに溺愛された途端、ブレナスに媚びてきて、ふられた腹いせに『夜の魔女』として覚醒する、クズ女なんだから!! そいつのせいで、レナエルは生贄に志願するほど追いつめられたのよ!?」
「…………はぁ?」
セレナが学院で『露のように儚い美少女』と評判の、可憐な顔をゆがめる。
「レナエル嬢。その件に関しては、きちんと話したはずだ」
ルイ王太子が進み出る。
「僕と貴女の婚約解消について、エルフェ嬢にはなんの責任もない。僕達の間にも、なにもない。彼女を咎めるのは筋が違う。貴女のエルフェ嬢に対する評価も、ただの偏見だ」
「はん!!」と、ぼさぼさの頭でレナエルは吐き捨てる。
「なにを偉そうに! ヒドインの見え見えの色気と涙で簡単にだまされた、馬鹿王子キャラの分際で、わきまえなさいよね!!」
ルイ王太子の表情が険しくなり、ブランザ侯爵は青ざめる。国王や大臣達の間にも、ぴりっとした空気が流れた。
常に淑やかにふるまうレナエル嬢の乱暴な言葉遣いにも度肝を抜かされたが、それを抜いても、とんでもない暴言だった。
「アタシと、レナエルとアンタの婚約は王命なのよ? それを『真実の愛』なんて薄っぺらい言葉で勝手に婚約破棄して、ただで済むと思ってるの? アンタは、アタシの夫に泣かされて逃げ帰るだけの『ざまぁ』要員よ、格好つけないでよね」
「その国王陛下が直々に、僕達の婚約の解消を認められた。そう説明しただろう」
「ええ、聞いたわ。つまり国王も、そのクソ異母妹に色仕掛けで懐柔されたってこと。知ってるのよ、親子そろって頭が悪い、ざまぁ要員の悪役なんだから」
「レナエル…………!!」
ブランザ侯爵は怒りのあまり逆に血の気が引き、化け物を見る目つきで娘を見る。
レナエルは父の視線に気づかず、さらにつづけた。
「ここの王宮の男は、馬鹿ばっかりよ。そりゃ、魔獣に王国をのっとられるのも当然よね。レナエルを追い出してから彼女の良さや能力に気づいたって、遅すぎ。セレナみたいな、わかりやすい尻軽女に気づかないあたり、ホントに無能な…………」
「ざっけんじゃないわよ、このクソ女!!」
会議室に罵声が響いた。
数秒、誰もがその罵声の音源をさがして、きょろきょろと周囲を見渡す。
罵声の主は、いかにも儚げな美少女ことセレナ・エルフェ嬢だった。
セレナは小さな肩をいからせて反論する。
「あんたのその思い込みと妄想のおかげで、どんだけ私やまわりの人達が、迷惑をこうむったと思ってんの!?
いい加減に気づきなさいよ、あんたは『意地悪な異母妹に虐げられる、哀れで優秀な姉』じゃない! 虐げられていたのは、こっちだわ!!」
「はあ!?」と、レナエルは眉をつりあげる。
「頭おかしいんじゃない!? レナエルがいつ、セレナを苛めたっていうのよ!!」
「最初から、ずっとよ!!」
セレナは叫んだ。
「なんのために、ブランザ侯爵閣下が、わざわざエルフェ夫妻に養子縁組の依頼をしてくださったと思ってるの!? 王立学院に通うためじゃない!!」
セレナはやや早口で説明する。
「ええ、たしかに私は娼婦の娘よ! 母さんの子よ! そして娼婦の子は、市民権を持っていない。市民権は八歳の誕生日に神殿で洗礼を受けることと、父親の認知が不可欠だから、父親がわからない娼婦の子は、八歳になっても市民権を持てない。だから、たいていは母親がいる娼館の主人が養父という形で認知して市民権を得るけど、娼館の主人に人生をにぎられた娘の行く末なんて、決まりきってるでしょ! だから母さんは、娘の私だけでも花街から出られるよう、侯爵閣下に相談して、エルフェ夫妻を紹介していただいたんじゃない!!」
エルフェ氏は平民だが、有能かつ実直な人柄で侯爵の信頼も厚く、侯爵の事業でも重要な地位にある。その人柄を買われて、セレナを紹介されたのだ。
「娼婦の娘セレナじゃなくて、エルフェ夫妻の娘セレナ・エルフェになれて! 侯爵閣下の推薦で学院にも入学できて! 成績次第で、縁談もお世話していただける約束だったから、入学が遅れた分まで死ぬ思いで勉強してとり戻して、やっと成績上位に入ったのに! あんたがわざわざ『父が娼婦に産ませた隠し子ですの』なんて言いふらすもんだから、全部台無しよ!!」
だん、とセレナが悔しげにガラスの破片の散った絨毯を蹴った。
「私が、なんで『エルフェ』の姓を名乗っていたと思うの!? 閣下に、私をブランザ侯爵家の者として認める意志がなかったからじゃない! 母だって客をとっていた身だもの、私が確実に閣下の娘だなんて思ってなかったし、私自身、金銭感覚がしっかりしていて女遊びをしない平民の男と結婚できれば、それで良かったのよ! 貴族との玉の輿なんて、王太子妃なんて望んでなかった!! なのにあんたが私の出自を言いふらすもんだから、すべてぱぁ!!」
異母妹の指がレナエルに突きつけられる。
「『娼婦の娘だから尻軽に違いない』って女生徒には遠巻きにされて! 男子生徒に『先生が呼んでいました』と伝言しただけで『たぶらかしそうとしている』って怪しまれて! 挙句に『あの方には婚約者がいます』とか『卑しい身で、わたくしの許嫁に近づかないで』とか、集団で注意される始末!!」
「な…………」
「なにより、あんたが『私に苛められている』なんて、でたらめをとり巻き達に吹聴したせいで!! 私の評判はがた落ち、縁談なんて、もう来ないわよ!!」
セレナの主張は事実だった。
老若男女を問わず、人間というものは醜聞が大好物であり、それが自分に影響しない他人のものである限り、飽きるまで消費しつづける。そこに身分の高低は関係ない。
セレナ・エルフェが娼婦の娘であり、ブランザ侯爵の私生児という話は、あっという間に王立学院中にひろまった。
悪いことに、ここ数年は、巷で姉妹を題材にした物語が大流行していた。
おおまかにいうと「高貴な血筋だが無愛想で冷酷に見えるため、愛想が良くて我が儘な卑しい出自の義理の妹に虐げられる、優秀で心優しい姉」という設定の話なのだが、これが「ブランザ侯爵令嬢とエルフェ嬢の関係そのまま!」と、噂を聞いた生徒達が大はしゃぎしたのだ。
そして勝手に盛りあがった。想像と偏見を糧にして。
「私が侯爵閣下にとりいって、侯爵邸で好き勝手にしているって! お優しくて何も言えないあんたの持ち物を次々奪っている、なんて嘘がひろまったのよ!? 冗談じゃないわよ、同じ侯爵邸って言っても、令嬢のあんたは本館、私は別館住まい! お嬢様で未来の王太子妃のあんたは大勢の侍女もついているのに、どうやったら私一人で苛められるのよ!? 侯爵閣下からは、あんたが私を侯爵邸に住ませるよう勧めた、って聞いたけど、こうやって中傷するために引きとった、っていうの!?」
「ちゅ、中傷じゃないわ! 嘘じゃないわよ!! 現実に一昨年の学院祭で、アンタはあたしの、レナエルのアクアマリンの首飾ネックレスを奪ったじゃない!! お母様の大事な形見だったのに!!」
「あんたが『その飾りは地味だから、これを』って、渡してきたんでしょ!? いかにも高価だから遠慮したのに『姉妹なんだから、遠慮しないで』『あなたの水色の瞳には、アクアマリンがよく合うわ』なんて、お優しい言葉付きで!! 学院祭が終わったら、私が閣下に強請って、無理やり奪ったことになっていて、びっくりしたわよ! ちゃんと返したのに! 身分は違っても家族と認めてもらえたんだ、なんて甘い夢を見た私が馬鹿だったわ! しかも、あんたの持ち物を借りたのはその一回きりだったのに、そのあとは何を着ても『侯爵様に甘えて、お姉様から奪ったのでしょう』って、あんたのとり巻き連中から嫌味を言われつづけて! 何度否定しても、今じゃとり巻き以外の女生徒達も信じきってるし!!」
「それこそ嘘よ! 漫画ではセレナは、レナエルの薔薇色のドレスだの、ダイヤモンドの髪飾りだの、次々借りていっては返さずに――――」
「そもそも、私があんたのドレスを借りても、着られないでしょ! 身長も胸のサイズも、全然違うんだから!!」
ちょっと悔しげにセレナは怒鳴った。
正論だった。
レナエルはすらりと背の高いドレスが映える体型をしており、特に襟を大きく開ける夜会用ドレスを着た時の、その胸の豊満さは明らかだ。
対してセレナは顔一つ分背が低く、全体にほっそりと華奢で胸は…………ないわけではない。
セレナがレナエルのドレスを借りたところで、着られるはずがないのだ。
「髪飾りだって、そう!! あんたの金髪は癖があってやや固いから、髪飾りも留めやすいけど、私の黒髪はさらさらしすぎていて、特に、あんたのいうダイヤモンドの髪飾りのような簪型だと、挿してもすぐに落ちるから借りる意味がないのよ!!」
ぜえぜえとセレナが肩で息をする。
ルイ王太子は気の毒そうに青い瞳を彼女の背に向け、それからかつての婚約者の前に出た。
「レナエル嬢。貴女はどうして、そうまでしてエルフェ嬢の悪い噂を流しつづけた。嘘を吹聴しつづけたんだ?
エルフェ嬢の言うように、物語の登場人物のようになりたかったのか?」
苦悩を含んだ真摯な問いかけ。
ルイ王太子はこの期に及んでなお、真剣にレナエル・ドゥ・ブランザと話し合おうとしていた。
しかしそのルイに「はん」とレナエルは腕組みして、馬鹿にしたような目をむける。
「ほら、やっぱり殿下はセレナを庇うんじゃない。レナエルの婚約者なのに。婚約破棄の前から、そうだったわ。殿下は何度もレナエルに『セレナを苛めるな、悪い噂を流すな』って。セレナをなんとも思っていないなら、どうしてそんなことを言うのよ?」
「貴女の名誉と評価のためだ。学院には貴女のための護衛官が、正体を伏せた状態で王宮から派遣されていた。彼女らは立場上、貴女の行動を諌めることはせず、ただ毎日、貴女の行動を王宮に報告しつづけた。貴女がエルフェ嬢について事実無根の噂を流していることも含めて」
「え?」
「侯爵邸にも、王宮から派遣された、王妃教育のための家庭教師が常駐している。両方の報告を照会すれば、貴女とエルフェ嬢、どちらの言い分が正しいかは、すぐに判明する。貴女が主張するような『侯爵にとりいって貴女の持ち物を強奪した』事実は、一度も報告されなかった。この事実を、どう弁解する? それとも王宮から派遣された人材の能力を疑うか?」
「そ、それは…………」
レナエルの顔色が一気に悪くなる。
「私も問いたい、レナエル。お前は何故、そうも執拗にエルフェ嬢の悪評を広めつづけたのだ」
動揺する娘に父が歩み寄った。
「エルフェ嬢の出自が気に入らぬなら何故、彼女を邸に住まわせるよう、私に勧めた。私は、年頃のお前が彼女の出自に嫌悪感を抱くことを案じて、エルフェ嬢をエルフェ家に住まわすつもりでいたのに…………何故、あれほど熱心に私を説得したのだ」
ブランザ侯爵の目には本気の疑問が浮かんでいた。
「殿下から話を聞いた時も、私は『嘘だ』と思った。誰に対しても思いやり深く、陰口や悪口の類を嫌うお前が、そのようなことをするはずがない、と…………しかし、護衛官やお前のとり巻き達、学院の教師達からも話を聞き…………」
「そ、それは…………」
苦しげに視線を伏せた侯爵に、レナエルもまた苦しげに呻く。
王太子もたたみかけた。
「僕は、貴女と結婚するつもりでいた。恋心とは違ったかもしれないが、誰より貴女が王妃にふさわしいと、貴女以外には務まらないと信じていた。だからこそ護衛官の報告を聞き、忠告をくりかえしたんだ。貴女が王太子妃失格の烙印を押されないよう。たとえ平民が相手といえど、事実無根の噂を流す女性は王妃にはふさわしくない。それなのに貴女は、僕の言葉に耳をかたむけずず…………いったい何故だ?」
父の、かつての婚約者の、異母妹の、その他の男達の視線を浴び、レナエルはばさばさの金髪に指を入れて頭を抱える。
「どうして…………どういうことなのよ、聞いてない、護衛官なんて知らない、スパイがいたなんて、漫画では描かれてなかった! みんな、セレナにだまされたはずなのに。漫画ではセレナはレナエルを虐げるクレクレ異母妹で…………何度も読みかえした漫画だもん、記憶が間違ってるはずないのに…………っ!」
真っ青になったレナエルの、噛みしめた唇が白い。
「どうやら、すべては虚言ということで間違いなさそうですな」
「夢見がちなお年頃であったのでしょう。少々、夢が深すぎたようですが」
「結婚前に判明したのは幸いでした。婚約を破棄して正解でしたな」
大臣達が顔を見合わせ、自分達の結論に誤りがなかったことを確認し合う。
レナエル――――いや、彼女の名を名乗る少女は、救いを求めて魔獣にすがりつく。
「お願い、助けてブランザ。わかってよ、レナエルはアンタの運命の妻で――――」
「前世などというものに、とらわれるからだ」
黒髪の青年が銀色の瞳に一抹の哀れみを混ぜて、冷たく言い放った。
「不要な記憶を宝と思い込んで手放さなかったために、この結末が在る。人間が何故、何も知らぬ状態で生まれて来るか。その意義や理由が理解できたろう」
「…………っ!」
少女の反応を無視して、魔獣の青年はもう一人の少女へと歩み寄る。
「セレナとやら。そうも学院で居心地悪かったなら、何故、逃げ出さなかった? 遠く離れてしまえば、悪評も届かなかったろうに」
「――――学院を卒業するためです」
セレナは疲れたように答えた。
「花街の外に出て、自由になること。それが母との約束でした。母は高級娼婦で、そこらの娼婦よりはるかに教養深かったけど、それでも娼婦は娼婦。花街からは出られなかった。だから私は学院を良い成績で卒業して良縁を得て、できれば仕事も持ってお金を貯めて、お母さんを迎えに行くつもりだったんです。けっきょく、間に合わなかったけど…………」
セレナの王立学院入学を見届けると、母は風邪をこじらせ、あっけなく逝ってしまった。
「だから、なにがあっても絶対に学院を好成績で卒業する、と決めていたんです」
「そうか」
うなずくと、魔獣の青年は大穴が開いた窓へむかった。
数秒後、夜の空に強大な闇色の翼の鳥が飛び立つ。
数日後。王国ではいくつかの発表があった。
まず大神殿では、三十年ごとに催されていたカエルム山での生贄の儀式の中止が宣言される。
代わりに魔獣には毎年、数冊の本が捧げられることとなった。
それからルイ王太子。
婚約が白紙になった彼は、隣国から王女を娶ることが決定した。
ちょうど周辺諸国の情勢がきな臭くなっており、隣国との結びつきを強化する必要に迫られての政略結婚だ。
王立学院ではブランザ侯爵令嬢が退学し、彼女のとり巻き達も追うように、あるいは追い出されるように学院を出る。
侯爵令嬢は療養を名目に、住んでいた王都の侯爵邸から侯爵領へと移り、そこで生涯を未婚で終えることとなった。
そして――――
「待てぇ――――!!」
「あーもー、しつこい!!」
セレナが怒鳴れば「ははっ」と彼女の肩にとまった闇色のカラスが笑う。
旅人も歩かぬ夜の街道。少女が馬で駆け、それを武装した男十人弱が追いかけている。
「これでどうよ!?」
セレナは騎乗したまま背後をふりかえり、腕をふる。
薄青い魔力が放たれ、追っ手にふりそそぐ。
魔力を浴びた男達の半数はたちまち膝を突き、地面に転がって眠り込んだ。
「おのれ、魔女め!!」
「必ず捕まえてやる!!」
残った半数が闘志も露わに、セレナと馬を追いかける。
「一度に五人は上々だ。残りもその調子でいけ」
「一度に五人が限界よ。今ので魔力を使いきったから、貯蔵のためにしばらく待たないと。それまで逃げられればいいけれど」
セレナが肩のカラスに答えると、カラスは「ふむ」と背後をむいて羽ばたいた。
闇色の魔力が放たれて残った追っ手を襲い、男達が次々倒れて眠りにつく。
「ふう…………」と息をついてセレナは馬をとめた。
「止められるなら、最初から止めてよ、ブランザ・シエル」
「修行だ。はじめから手を貸しては、上達しないだろう?」
カラスはセレナの肩から飛び降り、黒髪に銀色の瞳をした端正な青年へと変化する。
「今回は、はじめからお前の正体を知ったうえで、捕らえる気満々だったな。どうやら魔術師連中に、お前の情報が知れ渡っているようだ」
「あーもー、勘弁してほしいわ、まったく。精霊っていっても、先祖よ? 夜の精霊って、そんなに珍しいの?」
「珍しいな。精霊が人間との間に子を成すのは珍しくないが、精霊の血と力を顕現させた人間は稀有だ。魔術の道具としても優れている。魔術師共は血眼でお前を追うだろう」
「はあー…………」と、セレナは頭を抱える。
「あの馬鹿令嬢の妄想が、こんなところだけ実現するなんて…………」
そう。以前、レナエル・ドゥ・ブランザが侯爵や王太子達の前で披露した妄想。
そのほとんどが彼女の思い込みによる妄想だったが、ただ一点。
「セレナ・エルフェは魔女」という話だけは事実だったのだ。
レナエルがカエルム山から返品されたあと。
セレナは好成績で王立学院を卒業して、王都を出た。
エルフェ夫妻は自分達の家にくればいいと言ってくれたし、ブランザ侯爵も縁談を用意すると言ってくれたが、あれほど噂が浸透してしまったあとでは、自分を勧められる男性のほうが気の毒だ。
そう考え、市民権や戸籍だけはそのままにしてくれるよう頼んで、侯爵邸を出たのだ。
そして紆余曲折を経て人買いに捕まり、それがきっかけで、眠っていた精霊の血が目覚める結果となったのである。
以前、ブレナス・シエルがセレナに言った『おかしな気配』も、先祖の血のことだったのだ。
おかげで人買いからは逃げることができたが『精霊の力を持つ稀有な少女』として魔術師界隈では知れ渡り、お尋ね者のごとく逃げ回る羽目になってしまったのである。
「まあ、受け容れることだ。覚醒した精霊魔力を使いこなせるようになれば、あの程度の追っ手から逃れることなど、造作もない」
「使いこなせるようになれば、でしょ?」
「修行に励むことだな」
ブレナス・シエルは笑った。
セレナが精霊の血と魔力を覚醒させて以来、ずっと彼はセレナの隣にいるのだ。
いわく「暇なのでな」である。
現実問題、セレナが慣れない精霊魔力を暴走させて、とある魔術師の隠れ家を家主ごと吹っ飛ばした時も、とある魔術かぶれの貴族サークルを館ごと壊滅させかけた時も、若い娘を襲う盗賊団に捕まって拠点ごと盗賊団を全滅させた時も、その他諸々の時も、彼のおかげで人死に「だけ」は出さずに済んだのだから、邪険にもできないのだ。
「まあ、腕はあがっている。この調子であと十年も鍛えれば、今の地上にお前を捕らえられる魔術師はいなくなるだろう」
「十年かぁ…………」
セレナはため息をついた。
そして街道の先を見る。
「夜の精霊の血が目覚めて以来、昼間はなんとなくだるいし眠いし。宿をとって寝たいけど、王太子の結婚式が近いせいで、どこの宿も観光客でいっぱいなのよね」
それから話題は、王太子の最初の婚約者だった令嬢に移った。
「そういえば、あなたのいう『レナエルの主人格』はどうなったの? 私に嫌がらせしたのは副人格という話だったけど…………主人格に戻したのよね?」
「ああ。かなり抵抗したが、潜在意識の底に眠らせた。生きている間は、もう目覚めることはあるまい。前世の記憶だけならまだしも、人格まで表層に出てくるのはよろしくないからな」
「けど、主人格に戻ったからって、副人格のやったことがなかったことになるわけではないでしょ? 実際、ブランザ嬢は婚約破棄されたまま、領地に引っ込むことになったんだし…………主人格は散々だわ」
「そうでもない。レナエル・ドゥ・ブランザは王太子とは別に、真に愛する者がいたようでな」
ブレナスは説明する。
「レナエル・ドゥ・ブランザに幼い頃に救われ、以後は彼女の執事として、ずっと仕えてきた男だ。レナエル・ドゥ・ブランザは侯爵令嬢で、男は平民。互いに立場をわきまえ、男は令嬢に別れを告げてブランザ領に赴き、二度と王都に戻らぬ心づもりでいたが…………知ってのとおり、レナエル・ドゥ・ブランザのほうから領地に戻ってきた」
「え。じゃあ、その執事と…………」
「むろん、公には生涯未婚で、式も挙げられん。だが身分の高い女が平民の情人を抱えるのは、よくあること。存外、レナエル・ドゥ・ブランザにとっても渡りに船、納まるべきところに納まったのやもしれんぞ? 父親の侯爵にも人格の入れ替わりの件は教えておいたから、娘を幽閉したりはしないだろう」
「なるほど」
セレナの表情が明るくなった。
一人と一羽は、夜の街道を進みはじめる。
夜の空の王たる魔獣が住むと伝わる、カエルム山。
いつの頃からか、山には黒髪に水色の瞳の、夜の精霊も住まうようになったという――――
「聞きましたわ、とうとう婚約解消ですってね」
「王太子殿下直々に、ブランザ嬢に婚約破棄を宣言されたとか」
「ということは、まさか本当に殿下はエルフェ嬢との結婚をお望みに? ブランザ侯爵の娘といっても、エルフェ嬢は卑しい娼婦の娘で私生児。まして侯爵令嬢との婚約は王命ですのに」
「まるで物語のような展開ですわ…………」
王立学院の女子部の庭園のベンチで。ほう、と、ため息をついた女生徒の表情が『私もその場で見てみたかった』と語っている。
「聞いたか? レナエル・ドゥ・ブランザ侯爵令嬢の話」
「ああ。ルイ王太子殿下に婚約破棄されたショックで世を儚み、例の三十年に一度のカエルム山の魔獣の生贄に立候補した、というやつだろう?」
「立候補というか、無理やり本物の生贄と入れ替わったらしい。大神殿だって、さすがに昨日まで王太子殿下の婚約者だった侯爵令嬢を、生贄になんか選べないさ。令嬢が儀式の日に生贄の控室に忍び込んで衣装を交換し、本物には金をつかませて逃がして、自分が魔獣に捧げられたそうだ。ヴェールを深くかぶっていたので、神官達も気づかなかったそうだ」
「おかげで大神殿は大騒ぎだ。令嬢の自主的な工作とはいえ、名門侯爵家の当主の娘を見殺しにしたんだからな。大神官長以下、儀式に出席した神官達はなんらかの処分は免れまい」
「それにしても、王太子殿下との婚約破棄からの魔獣の生贄とは…………まさしく、巷で流行の大衆小説の世界だな」
王立学院男子部の食堂も、ブランザ侯爵令嬢の噂でもちきりだった。
「レナエル嬢の行方は依然、不明のままだ」
ビロードを張った一人用の椅子に腰をおろしたルイ王太子が、長椅子に座る黒髪の少女に告げる。王宮の王太子用の応接室には、紅茶の香りと重々しい空気がただよっている。
「今、陛下がブランザ侯爵と共に、大臣達と今後を話し合っているが…………」
「どうか殿下、ブランザ嬢をお許しくださいませ。婚約が白紙になり、激しく動揺されたのでしょう。侯爵邸に戻ってから、ずっと自室にこもりきりで…………侍女達も抜け出したのに気づかなかった、と口をそろえておりました」
黒髪の少女――――セレナ・エルフェは水色の瞳を曇らせた。
『エルフェ』の姓を名乗ってはいるが、彼女が『ブランザ侯爵と、彼の妾であった高級娼婦の間に生まれた私生児』であり『ブランザ侯爵の一人娘、レナエル・ドゥ・ブランザ嬢の異母妹』であるという話は、学院中に知れ渡っている。
「だとしても、魔獣の生贄とは…………」
「失礼します」と侍従が入室してきて、王太子に「陛下のお呼びです」と告げる。
ルイ王太子とエルフェ嬢は立ちあがり、国王の会議の間へと移動した。
会議の間にはずらりと大臣やその他の側近達が並び、ブランザ侯爵も同席している。豪華な神官服の男達は、大神官長と大神殿長だろうか。
国王は余計な前置きは並べず、さっさと本題に入った。
「まず、ブランザ侯爵令嬢と王太子の婚約は白紙。この決定に変更はない」
ブランザ侯爵が苦渋の表情で視線を落とすのを、セレナは見た。
「そして王太子の新たな婚約についてだが――――」
ガシャーン、と大量のガラスがいっせいに割れる激しい音が響く。
「きゃあああああぁ――――っ!!」
甲高い悲鳴が落ちてきて、室内にいた二十人以上の人間達の度肝を抜いた。
「何事だ!?」
「刺客!? 狼藉者か!? であえ、であえ!!」
「衛兵! 衛兵――――!!」
我に返った者が扉の外へと声をはりあげ、侍従達と大臣の一部が国王をとり囲む。
「父上! ご無事ですか!?」
ルイ王太子が国王のもとへ走り、その王太子の周囲も侍従と飛び込んできた衛兵達が囲む。
「セレナ嬢、無事か!?」
「ブランザ侯爵閣下。ええ、なんとか…………」
人前では常に『エルフェ嬢』と呼ぶ侯爵が、セレナの名を呼んで駆け寄った。
「突然だが、邪魔するぞ」
パリン、パリン、と絨毯に飛び散った山のようなガラスの破片を踏んで、ぬっ、と大きな影が窓と壁に開いた大きな穴から入ってくる。
「鳥…………!?」
燭台の炎に照らされて現れたのは、闇色の羽根に全身を包んだ巨大な鳥だった。
爛々と輝く目と鋭い爪は、刃のように輝く銀色。全体の形は鷲にも鷹にも似ている。
そして大きなくちばしに白い塊をくわえていた。
「返却する」
人間の言葉と共にぼてっ、と絨毯に投げ出されたのは、くしゃくしゃになった白い衣装を着て、長い金髪をばさばさに乱した少女だった。
「あっ…………あぁ…………」
少女は呆然とした面持ちで呻いていたが、やがて我をとり戻す。
憤然と巨大な猛禽にくってかかった。
「なんてことするのよ、死ぬかと思ったじゃない!!」
声と、ばさばさになった前髪の隙間からのぞいた顔を見て、ルイ王太子とブランザ侯爵が驚きの声をあげる。
「レナエル嬢!?」
「レナエル!?」
「ブランザ侯爵令嬢?」
セレナや国王、大臣達もそろって目を丸くした。
「いったい、今までどこに…………」
誰かの呟きに、答えたのは闇色の翼の大鳥だった。
「カエルム山だ。今年の生贄と称して、我がもとにきた。一昨日のことだ」
闇色の鳥はいったん室内を見渡すと「ふむ」とかなんとかうなずき「このままではせまいな」と呟く。
鳥の姿がゆらぎ、煙に包まれたかのようにぼんやりとする。
ゆらぎが収まった時には、一人の青年がそこに立っていた。
上品な黒い衣装、艶やかな闇色の髪と、鋭い銀色の瞳。
獣とは対極の、知性と気品をたたえた端正な青年だった。
「に、人間…………!?」
「ではない。部屋とお前達に合わせて、実体を調整しただけだ。我はカエルムの主にして、夜の空の王ブレナス・シエル」
そこらの貴公子よりよほど優雅で貫録たっぷりに、青年は名乗った。
「ブ、ブレナス・シエル…………! 伝説の、魔獣…………!!」
「魔獣がなんの用だ!? 生贄ならすでに…………!!」
「その贄を返しに来た」
青年は大神官長や大神殿長の問いに、金髪の少女を指さして説明する。
「そもそも、我は人間の贄など必要とせぬ。贄の儀式は百数十年前に当時の神官達が、我の意図を曲解してはじめたもの。それでも人の世には多少の興味があってな。ひとしきりしゃべらせてから密かに街へ戻していたのだが…………今回のこの娘だ」
青年は舌打ちをこらえる表情でレナエル・ドゥ・ブランザ侯爵令嬢を見た。
「これほど性質の悪い贄を寄越されたのは、はじめてだ。本人は帰りたくないと主張するが、我が山に置きたくない。ついでに今後の儀式も止めるよう、警告に来た。以後、我の許しと求めなくして、カエルム山に人間を寄越すことは禁じる」
銀の瞳が大神官長や神殿長をにらみ、神官達がふるえあがる。
「カエルムの主、夜の空の王よ。さしつかえなければ、理由を教えてはいただけまいか。娘を、その、性質の悪い贄と判断した、その根拠や理由を。娘の体かどこかに不具合でもあった、ということだろうか?」
ブランザ侯爵の至極当然の疑問に、魔獣は淡々と説明する。
「体は問題ない。健康そのものだ。が、頭に問題がある」
「あ、頭、とは…………」
「その娘、自分がこの我と結ばれる運命だと、勘違いしている。この我が、夜の空の王妃の器ではないと断言しているのに、伴侶面で世話を焼いてきて、うっとうしい事このうえない」
「それの何が悪いのよ!!」
レナエルが口をはさんだ。
「アンタはブレナス・シエルでしょ!? 夜空の王で、カエルム山の主でしょ!? だったらアタシの、レナエルの夫になって、レナエルを虐めてきたヤツらに復讐して、レナエルをこの国の女王にするのがアンタの未来なのに! どうしてアタシを溺愛しないわけ!? なんで話どおりに進まないのよ!?」
会議の間にいた、ブレナス・シエル以外の全員が「はぁ?」という風に目を丸くする。
「我はいかにもブレナス・シエルだが、貴様の夫になった覚えはない。生贄はそのようなものではないと、何度言えば理解する。貴様のような女を溺愛したり、貴様のために国を傾けるなど、御免こうむる。貴様自身に、とうていその価値はない」
答える青年も見るからに嫌そうな表情をしていた。
「なんでよ!!」と、レナエルは長い髪をふり乱して主張する。
「ブレナス・シエルは、人間から恐れられる魔獣でしょ!? それで何百年間も一人きりだった、孤独な魂でしょ!? だから花を摘んできたり、お菓子を焼いたりしてやって、慰めてあげたんじゃない!! こんだけやってもらって、なんなのよ、その態度は! アンタを癒してあげられるのは、この世界にただ一人、レナエル・ブランザだけ! そういう設定なんだから、素直に甘えなさいよ!!」
「断る」
青年を指さしてわめくレナエルに、ブレナス・シエルは即答した。
「菓子も花も、我は『不要』と伝えた。貴様が勝手にやって、押しつけてきただけだ。我の妻を志願しながら我の話を聞かぬ俗悪な女に甘えるなど、虫唾が走る。だいいち我の力を求め、甘えたがっているのは貴様だろう。復讐を望むなら己の力でやれ」
「はあ!? なによ、偉そうに! 数百年間ぼっちだった、陰キャのくせして!!」
「フン」と青年は鼻で笑った。傲慢なほど堂々と。
「貴様のいう孤独など、矮小な人間の思い違いにすぎぬ。我が本性は夜に属する精霊、その現身だ。この身、この魂は常に大いなる自然界と通じているがゆえに、孤独など感じるはずもない。人の言う孤独とはすなわち、神々の息吹を感じとれぬほど劣化した下等存在の証。太古の時代は、人間ももっと神や精霊の気配に敏感であったものだが…………」
「陰キャが強がってんじゃないわよ、『醜い』と言われつづけた、引きこもりのくせに!!」
「我は精霊だぞ? 何故、人間の美醜の基準、それも内面を無視した表面のみの判断に傷つくと思うのだ? 神々の息吹を感じられぬ下等存在が、我の有する美を感知も理解もできぬのは、当然のこと。憐れんで終わりだ」
歯ぎしりするレナエルに、青年が追い打ちをかける。
「そもそも我が人の姿になった途端、態度を変えて媚びてきたのは、貴様ではないか」
「なっ…………!」
青年の冷ややかな指摘は図星だったか。レナエルが真っ赤になる。
青年は国王達を見た。
「そういうわけで、この贄は返却する。二度と寄越すな。そしてこの娘に限らず、今後はいっさいの生贄が不要だ。もし、また送ってくれば、その時は王都を焼き払うぞ?」
銀色の瞳が鋭く神官達を見て、大神官長達は慌てて「かしこまりました」と跪く。
青年は踵を返すと、今度は呆然と成り行きを見守っていたセレナの前に立つ。
「何者だ?」
「え?」
「おかしな気配をしている。この気配は…………」
魔獣の青年の手がセレナの頬に触れそうになり、甲高い非難の声が飛んできた。
「ちょっと!! なんで、その女に『おもしれー女』仕草するのよ!!」
レナエルだ。
「セレナは魔女でしょ! レナエルの異母妹だけど、純粋な侯爵令嬢のレナエルと違って娼婦の娘で、お父様のお情けで侯爵邸に引きとられたくせに、高貴でなんでもできるレナエルを妬んで、嫌がらせとクレクレをしまくって、レナエルの婚約者の王太子まで色仕掛けでたらし込んで、自分が殿下の婚約者におさまったくせに、レナエルが夜の空の王ブレナスに溺愛された途端、ブレナスに媚びてきて、ふられた腹いせに『夜の魔女』として覚醒する、クズ女なんだから!! そいつのせいで、レナエルは生贄に志願するほど追いつめられたのよ!?」
「…………はぁ?」
セレナが学院で『露のように儚い美少女』と評判の、可憐な顔をゆがめる。
「レナエル嬢。その件に関しては、きちんと話したはずだ」
ルイ王太子が進み出る。
「僕と貴女の婚約解消について、エルフェ嬢にはなんの責任もない。僕達の間にも、なにもない。彼女を咎めるのは筋が違う。貴女のエルフェ嬢に対する評価も、ただの偏見だ」
「はん!!」と、ぼさぼさの頭でレナエルは吐き捨てる。
「なにを偉そうに! ヒドインの見え見えの色気と涙で簡単にだまされた、馬鹿王子キャラの分際で、わきまえなさいよね!!」
ルイ王太子の表情が険しくなり、ブランザ侯爵は青ざめる。国王や大臣達の間にも、ぴりっとした空気が流れた。
常に淑やかにふるまうレナエル嬢の乱暴な言葉遣いにも度肝を抜かされたが、それを抜いても、とんでもない暴言だった。
「アタシと、レナエルとアンタの婚約は王命なのよ? それを『真実の愛』なんて薄っぺらい言葉で勝手に婚約破棄して、ただで済むと思ってるの? アンタは、アタシの夫に泣かされて逃げ帰るだけの『ざまぁ』要員よ、格好つけないでよね」
「その国王陛下が直々に、僕達の婚約の解消を認められた。そう説明しただろう」
「ええ、聞いたわ。つまり国王も、そのクソ異母妹に色仕掛けで懐柔されたってこと。知ってるのよ、親子そろって頭が悪い、ざまぁ要員の悪役なんだから」
「レナエル…………!!」
ブランザ侯爵は怒りのあまり逆に血の気が引き、化け物を見る目つきで娘を見る。
レナエルは父の視線に気づかず、さらにつづけた。
「ここの王宮の男は、馬鹿ばっかりよ。そりゃ、魔獣に王国をのっとられるのも当然よね。レナエルを追い出してから彼女の良さや能力に気づいたって、遅すぎ。セレナみたいな、わかりやすい尻軽女に気づかないあたり、ホントに無能な…………」
「ざっけんじゃないわよ、このクソ女!!」
会議室に罵声が響いた。
数秒、誰もがその罵声の音源をさがして、きょろきょろと周囲を見渡す。
罵声の主は、いかにも儚げな美少女ことセレナ・エルフェ嬢だった。
セレナは小さな肩をいからせて反論する。
「あんたのその思い込みと妄想のおかげで、どんだけ私やまわりの人達が、迷惑をこうむったと思ってんの!?
いい加減に気づきなさいよ、あんたは『意地悪な異母妹に虐げられる、哀れで優秀な姉』じゃない! 虐げられていたのは、こっちだわ!!」
「はあ!?」と、レナエルは眉をつりあげる。
「頭おかしいんじゃない!? レナエルがいつ、セレナを苛めたっていうのよ!!」
「最初から、ずっとよ!!」
セレナは叫んだ。
「なんのために、ブランザ侯爵閣下が、わざわざエルフェ夫妻に養子縁組の依頼をしてくださったと思ってるの!? 王立学院に通うためじゃない!!」
セレナはやや早口で説明する。
「ええ、たしかに私は娼婦の娘よ! 母さんの子よ! そして娼婦の子は、市民権を持っていない。市民権は八歳の誕生日に神殿で洗礼を受けることと、父親の認知が不可欠だから、父親がわからない娼婦の子は、八歳になっても市民権を持てない。だから、たいていは母親がいる娼館の主人が養父という形で認知して市民権を得るけど、娼館の主人に人生をにぎられた娘の行く末なんて、決まりきってるでしょ! だから母さんは、娘の私だけでも花街から出られるよう、侯爵閣下に相談して、エルフェ夫妻を紹介していただいたんじゃない!!」
エルフェ氏は平民だが、有能かつ実直な人柄で侯爵の信頼も厚く、侯爵の事業でも重要な地位にある。その人柄を買われて、セレナを紹介されたのだ。
「娼婦の娘セレナじゃなくて、エルフェ夫妻の娘セレナ・エルフェになれて! 侯爵閣下の推薦で学院にも入学できて! 成績次第で、縁談もお世話していただける約束だったから、入学が遅れた分まで死ぬ思いで勉強してとり戻して、やっと成績上位に入ったのに! あんたがわざわざ『父が娼婦に産ませた隠し子ですの』なんて言いふらすもんだから、全部台無しよ!!」
だん、とセレナが悔しげにガラスの破片の散った絨毯を蹴った。
「私が、なんで『エルフェ』の姓を名乗っていたと思うの!? 閣下に、私をブランザ侯爵家の者として認める意志がなかったからじゃない! 母だって客をとっていた身だもの、私が確実に閣下の娘だなんて思ってなかったし、私自身、金銭感覚がしっかりしていて女遊びをしない平民の男と結婚できれば、それで良かったのよ! 貴族との玉の輿なんて、王太子妃なんて望んでなかった!! なのにあんたが私の出自を言いふらすもんだから、すべてぱぁ!!」
異母妹の指がレナエルに突きつけられる。
「『娼婦の娘だから尻軽に違いない』って女生徒には遠巻きにされて! 男子生徒に『先生が呼んでいました』と伝言しただけで『たぶらかしそうとしている』って怪しまれて! 挙句に『あの方には婚約者がいます』とか『卑しい身で、わたくしの許嫁に近づかないで』とか、集団で注意される始末!!」
「な…………」
「なにより、あんたが『私に苛められている』なんて、でたらめをとり巻き達に吹聴したせいで!! 私の評判はがた落ち、縁談なんて、もう来ないわよ!!」
セレナの主張は事実だった。
老若男女を問わず、人間というものは醜聞が大好物であり、それが自分に影響しない他人のものである限り、飽きるまで消費しつづける。そこに身分の高低は関係ない。
セレナ・エルフェが娼婦の娘であり、ブランザ侯爵の私生児という話は、あっという間に王立学院中にひろまった。
悪いことに、ここ数年は、巷で姉妹を題材にした物語が大流行していた。
おおまかにいうと「高貴な血筋だが無愛想で冷酷に見えるため、愛想が良くて我が儘な卑しい出自の義理の妹に虐げられる、優秀で心優しい姉」という設定の話なのだが、これが「ブランザ侯爵令嬢とエルフェ嬢の関係そのまま!」と、噂を聞いた生徒達が大はしゃぎしたのだ。
そして勝手に盛りあがった。想像と偏見を糧にして。
「私が侯爵閣下にとりいって、侯爵邸で好き勝手にしているって! お優しくて何も言えないあんたの持ち物を次々奪っている、なんて嘘がひろまったのよ!? 冗談じゃないわよ、同じ侯爵邸って言っても、令嬢のあんたは本館、私は別館住まい! お嬢様で未来の王太子妃のあんたは大勢の侍女もついているのに、どうやったら私一人で苛められるのよ!? 侯爵閣下からは、あんたが私を侯爵邸に住ませるよう勧めた、って聞いたけど、こうやって中傷するために引きとった、っていうの!?」
「ちゅ、中傷じゃないわ! 嘘じゃないわよ!! 現実に一昨年の学院祭で、アンタはあたしの、レナエルのアクアマリンの首飾ネックレスを奪ったじゃない!! お母様の大事な形見だったのに!!」
「あんたが『その飾りは地味だから、これを』って、渡してきたんでしょ!? いかにも高価だから遠慮したのに『姉妹なんだから、遠慮しないで』『あなたの水色の瞳には、アクアマリンがよく合うわ』なんて、お優しい言葉付きで!! 学院祭が終わったら、私が閣下に強請って、無理やり奪ったことになっていて、びっくりしたわよ! ちゃんと返したのに! 身分は違っても家族と認めてもらえたんだ、なんて甘い夢を見た私が馬鹿だったわ! しかも、あんたの持ち物を借りたのはその一回きりだったのに、そのあとは何を着ても『侯爵様に甘えて、お姉様から奪ったのでしょう』って、あんたのとり巻き連中から嫌味を言われつづけて! 何度否定しても、今じゃとり巻き以外の女生徒達も信じきってるし!!」
「それこそ嘘よ! 漫画ではセレナは、レナエルの薔薇色のドレスだの、ダイヤモンドの髪飾りだの、次々借りていっては返さずに――――」
「そもそも、私があんたのドレスを借りても、着られないでしょ! 身長も胸のサイズも、全然違うんだから!!」
ちょっと悔しげにセレナは怒鳴った。
正論だった。
レナエルはすらりと背の高いドレスが映える体型をしており、特に襟を大きく開ける夜会用ドレスを着た時の、その胸の豊満さは明らかだ。
対してセレナは顔一つ分背が低く、全体にほっそりと華奢で胸は…………ないわけではない。
セレナがレナエルのドレスを借りたところで、着られるはずがないのだ。
「髪飾りだって、そう!! あんたの金髪は癖があってやや固いから、髪飾りも留めやすいけど、私の黒髪はさらさらしすぎていて、特に、あんたのいうダイヤモンドの髪飾りのような簪型だと、挿してもすぐに落ちるから借りる意味がないのよ!!」
ぜえぜえとセレナが肩で息をする。
ルイ王太子は気の毒そうに青い瞳を彼女の背に向け、それからかつての婚約者の前に出た。
「レナエル嬢。貴女はどうして、そうまでしてエルフェ嬢の悪い噂を流しつづけた。嘘を吹聴しつづけたんだ?
エルフェ嬢の言うように、物語の登場人物のようになりたかったのか?」
苦悩を含んだ真摯な問いかけ。
ルイ王太子はこの期に及んでなお、真剣にレナエル・ドゥ・ブランザと話し合おうとしていた。
しかしそのルイに「はん」とレナエルは腕組みして、馬鹿にしたような目をむける。
「ほら、やっぱり殿下はセレナを庇うんじゃない。レナエルの婚約者なのに。婚約破棄の前から、そうだったわ。殿下は何度もレナエルに『セレナを苛めるな、悪い噂を流すな』って。セレナをなんとも思っていないなら、どうしてそんなことを言うのよ?」
「貴女の名誉と評価のためだ。学院には貴女のための護衛官が、正体を伏せた状態で王宮から派遣されていた。彼女らは立場上、貴女の行動を諌めることはせず、ただ毎日、貴女の行動を王宮に報告しつづけた。貴女がエルフェ嬢について事実無根の噂を流していることも含めて」
「え?」
「侯爵邸にも、王宮から派遣された、王妃教育のための家庭教師が常駐している。両方の報告を照会すれば、貴女とエルフェ嬢、どちらの言い分が正しいかは、すぐに判明する。貴女が主張するような『侯爵にとりいって貴女の持ち物を強奪した』事実は、一度も報告されなかった。この事実を、どう弁解する? それとも王宮から派遣された人材の能力を疑うか?」
「そ、それは…………」
レナエルの顔色が一気に悪くなる。
「私も問いたい、レナエル。お前は何故、そうも執拗にエルフェ嬢の悪評を広めつづけたのだ」
動揺する娘に父が歩み寄った。
「エルフェ嬢の出自が気に入らぬなら何故、彼女を邸に住まわせるよう、私に勧めた。私は、年頃のお前が彼女の出自に嫌悪感を抱くことを案じて、エルフェ嬢をエルフェ家に住まわすつもりでいたのに…………何故、あれほど熱心に私を説得したのだ」
ブランザ侯爵の目には本気の疑問が浮かんでいた。
「殿下から話を聞いた時も、私は『嘘だ』と思った。誰に対しても思いやり深く、陰口や悪口の類を嫌うお前が、そのようなことをするはずがない、と…………しかし、護衛官やお前のとり巻き達、学院の教師達からも話を聞き…………」
「そ、それは…………」
苦しげに視線を伏せた侯爵に、レナエルもまた苦しげに呻く。
王太子もたたみかけた。
「僕は、貴女と結婚するつもりでいた。恋心とは違ったかもしれないが、誰より貴女が王妃にふさわしいと、貴女以外には務まらないと信じていた。だからこそ護衛官の報告を聞き、忠告をくりかえしたんだ。貴女が王太子妃失格の烙印を押されないよう。たとえ平民が相手といえど、事実無根の噂を流す女性は王妃にはふさわしくない。それなのに貴女は、僕の言葉に耳をかたむけずず…………いったい何故だ?」
父の、かつての婚約者の、異母妹の、その他の男達の視線を浴び、レナエルはばさばさの金髪に指を入れて頭を抱える。
「どうして…………どういうことなのよ、聞いてない、護衛官なんて知らない、スパイがいたなんて、漫画では描かれてなかった! みんな、セレナにだまされたはずなのに。漫画ではセレナはレナエルを虐げるクレクレ異母妹で…………何度も読みかえした漫画だもん、記憶が間違ってるはずないのに…………っ!」
真っ青になったレナエルの、噛みしめた唇が白い。
「どうやら、すべては虚言ということで間違いなさそうですな」
「夢見がちなお年頃であったのでしょう。少々、夢が深すぎたようですが」
「結婚前に判明したのは幸いでした。婚約を破棄して正解でしたな」
大臣達が顔を見合わせ、自分達の結論に誤りがなかったことを確認し合う。
レナエル――――いや、彼女の名を名乗る少女は、救いを求めて魔獣にすがりつく。
「お願い、助けてブランザ。わかってよ、レナエルはアンタの運命の妻で――――」
「前世などというものに、とらわれるからだ」
黒髪の青年が銀色の瞳に一抹の哀れみを混ぜて、冷たく言い放った。
「不要な記憶を宝と思い込んで手放さなかったために、この結末が在る。人間が何故、何も知らぬ状態で生まれて来るか。その意義や理由が理解できたろう」
「…………っ!」
少女の反応を無視して、魔獣の青年はもう一人の少女へと歩み寄る。
「セレナとやら。そうも学院で居心地悪かったなら、何故、逃げ出さなかった? 遠く離れてしまえば、悪評も届かなかったろうに」
「――――学院を卒業するためです」
セレナは疲れたように答えた。
「花街の外に出て、自由になること。それが母との約束でした。母は高級娼婦で、そこらの娼婦よりはるかに教養深かったけど、それでも娼婦は娼婦。花街からは出られなかった。だから私は学院を良い成績で卒業して良縁を得て、できれば仕事も持ってお金を貯めて、お母さんを迎えに行くつもりだったんです。けっきょく、間に合わなかったけど…………」
セレナの王立学院入学を見届けると、母は風邪をこじらせ、あっけなく逝ってしまった。
「だから、なにがあっても絶対に学院を好成績で卒業する、と決めていたんです」
「そうか」
うなずくと、魔獣の青年は大穴が開いた窓へむかった。
数秒後、夜の空に強大な闇色の翼の鳥が飛び立つ。
数日後。王国ではいくつかの発表があった。
まず大神殿では、三十年ごとに催されていたカエルム山での生贄の儀式の中止が宣言される。
代わりに魔獣には毎年、数冊の本が捧げられることとなった。
それからルイ王太子。
婚約が白紙になった彼は、隣国から王女を娶ることが決定した。
ちょうど周辺諸国の情勢がきな臭くなっており、隣国との結びつきを強化する必要に迫られての政略結婚だ。
王立学院ではブランザ侯爵令嬢が退学し、彼女のとり巻き達も追うように、あるいは追い出されるように学院を出る。
侯爵令嬢は療養を名目に、住んでいた王都の侯爵邸から侯爵領へと移り、そこで生涯を未婚で終えることとなった。
そして――――
「待てぇ――――!!」
「あーもー、しつこい!!」
セレナが怒鳴れば「ははっ」と彼女の肩にとまった闇色のカラスが笑う。
旅人も歩かぬ夜の街道。少女が馬で駆け、それを武装した男十人弱が追いかけている。
「これでどうよ!?」
セレナは騎乗したまま背後をふりかえり、腕をふる。
薄青い魔力が放たれ、追っ手にふりそそぐ。
魔力を浴びた男達の半数はたちまち膝を突き、地面に転がって眠り込んだ。
「おのれ、魔女め!!」
「必ず捕まえてやる!!」
残った半数が闘志も露わに、セレナと馬を追いかける。
「一度に五人は上々だ。残りもその調子でいけ」
「一度に五人が限界よ。今ので魔力を使いきったから、貯蔵のためにしばらく待たないと。それまで逃げられればいいけれど」
セレナが肩のカラスに答えると、カラスは「ふむ」と背後をむいて羽ばたいた。
闇色の魔力が放たれて残った追っ手を襲い、男達が次々倒れて眠りにつく。
「ふう…………」と息をついてセレナは馬をとめた。
「止められるなら、最初から止めてよ、ブランザ・シエル」
「修行だ。はじめから手を貸しては、上達しないだろう?」
カラスはセレナの肩から飛び降り、黒髪に銀色の瞳をした端正な青年へと変化する。
「今回は、はじめからお前の正体を知ったうえで、捕らえる気満々だったな。どうやら魔術師連中に、お前の情報が知れ渡っているようだ」
「あーもー、勘弁してほしいわ、まったく。精霊っていっても、先祖よ? 夜の精霊って、そんなに珍しいの?」
「珍しいな。精霊が人間との間に子を成すのは珍しくないが、精霊の血と力を顕現させた人間は稀有だ。魔術の道具としても優れている。魔術師共は血眼でお前を追うだろう」
「はあー…………」と、セレナは頭を抱える。
「あの馬鹿令嬢の妄想が、こんなところだけ実現するなんて…………」
そう。以前、レナエル・ドゥ・ブランザが侯爵や王太子達の前で披露した妄想。
そのほとんどが彼女の思い込みによる妄想だったが、ただ一点。
「セレナ・エルフェは魔女」という話だけは事実だったのだ。
レナエルがカエルム山から返品されたあと。
セレナは好成績で王立学院を卒業して、王都を出た。
エルフェ夫妻は自分達の家にくればいいと言ってくれたし、ブランザ侯爵も縁談を用意すると言ってくれたが、あれほど噂が浸透してしまったあとでは、自分を勧められる男性のほうが気の毒だ。
そう考え、市民権や戸籍だけはそのままにしてくれるよう頼んで、侯爵邸を出たのだ。
そして紆余曲折を経て人買いに捕まり、それがきっかけで、眠っていた精霊の血が目覚める結果となったのである。
以前、ブレナス・シエルがセレナに言った『おかしな気配』も、先祖の血のことだったのだ。
おかげで人買いからは逃げることができたが『精霊の力を持つ稀有な少女』として魔術師界隈では知れ渡り、お尋ね者のごとく逃げ回る羽目になってしまったのである。
「まあ、受け容れることだ。覚醒した精霊魔力を使いこなせるようになれば、あの程度の追っ手から逃れることなど、造作もない」
「使いこなせるようになれば、でしょ?」
「修行に励むことだな」
ブレナス・シエルは笑った。
セレナが精霊の血と魔力を覚醒させて以来、ずっと彼はセレナの隣にいるのだ。
いわく「暇なのでな」である。
現実問題、セレナが慣れない精霊魔力を暴走させて、とある魔術師の隠れ家を家主ごと吹っ飛ばした時も、とある魔術かぶれの貴族サークルを館ごと壊滅させかけた時も、若い娘を襲う盗賊団に捕まって拠点ごと盗賊団を全滅させた時も、その他諸々の時も、彼のおかげで人死に「だけ」は出さずに済んだのだから、邪険にもできないのだ。
「まあ、腕はあがっている。この調子であと十年も鍛えれば、今の地上にお前を捕らえられる魔術師はいなくなるだろう」
「十年かぁ…………」
セレナはため息をついた。
そして街道の先を見る。
「夜の精霊の血が目覚めて以来、昼間はなんとなくだるいし眠いし。宿をとって寝たいけど、王太子の結婚式が近いせいで、どこの宿も観光客でいっぱいなのよね」
それから話題は、王太子の最初の婚約者だった令嬢に移った。
「そういえば、あなたのいう『レナエルの主人格』はどうなったの? 私に嫌がらせしたのは副人格という話だったけど…………主人格に戻したのよね?」
「ああ。かなり抵抗したが、潜在意識の底に眠らせた。生きている間は、もう目覚めることはあるまい。前世の記憶だけならまだしも、人格まで表層に出てくるのはよろしくないからな」
「けど、主人格に戻ったからって、副人格のやったことがなかったことになるわけではないでしょ? 実際、ブランザ嬢は婚約破棄されたまま、領地に引っ込むことになったんだし…………主人格は散々だわ」
「そうでもない。レナエル・ドゥ・ブランザは王太子とは別に、真に愛する者がいたようでな」
ブレナスは説明する。
「レナエル・ドゥ・ブランザに幼い頃に救われ、以後は彼女の執事として、ずっと仕えてきた男だ。レナエル・ドゥ・ブランザは侯爵令嬢で、男は平民。互いに立場をわきまえ、男は令嬢に別れを告げてブランザ領に赴き、二度と王都に戻らぬ心づもりでいたが…………知ってのとおり、レナエル・ドゥ・ブランザのほうから領地に戻ってきた」
「え。じゃあ、その執事と…………」
「むろん、公には生涯未婚で、式も挙げられん。だが身分の高い女が平民の情人を抱えるのは、よくあること。存外、レナエル・ドゥ・ブランザにとっても渡りに船、納まるべきところに納まったのやもしれんぞ? 父親の侯爵にも人格の入れ替わりの件は教えておいたから、娘を幽閉したりはしないだろう」
「なるほど」
セレナの表情が明るくなった。
一人と一羽は、夜の街道を進みはじめる。
夜の空の王たる魔獣が住むと伝わる、カエルム山。
いつの頃からか、山には黒髪に水色の瞳の、夜の精霊も住まうようになったという――――
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ももんが38さん、お久しぶりです。
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新作は長編の予定なので、またしばらく更新はなくなりそうです……。
ももんが38さんも、時節柄お体にはお気をつけてください。