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後編
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「お姉ちゃん、これ。殿下から、お姉ちゃんに。遅れて、ごめんね。すべてが終わるまで、お守り代わりに持っていたかったの。殿下もすべてを見届けたいんじゃないか、って思ったから」
マーガレットはエルドレッド王子と面識があった。
なぜなら、投獄されたあとの彼の世話係の一人だったからだ。
クレアの遺体と共にサングィス王国を脱出して、アマニーニ伯爵邸にたどり着き、すでに伯爵邸の庭の片隅に埋葬されていた母の墓、その隣に姉を埋葬したあと。
マーガレットとテディは話し合い、サングィス王国に戻った。
クレアの死の原因の一端となった人物、エルドレッド王子の話を聞きたかったからだ。
クレアの言葉を信じるならば、王子は彼女の目的に気づいていた。
『殿下は、私がタリス男爵とソールズベリー公爵令嬢に命じられてご自分に近づいてきたことを、察しておられたの。知っていて、私をお側に置いてくださったのよ。私を拒絶するのは簡単だけれど、それでは私が「使い物にならない役立たず」と見なされて、父か公爵令嬢に処分されてしまう。それを憐れんでくださったのよ。そして「隙を見て逃げろ」と、なにかと私に贈り物をして、逃亡資金の捻出を手伝ってくださったの』
泣きながら語るクレアは哀れで、けれどもマーガレットが今までに見たことのない美しさをたたえていた。姉が初めて見せた表情に、声もなく見入ってしまったことを覚えている。
だからマーガレットはサングィス王国に戻ったのだ。危険を承知で。
公には『療養のため地方の離宮に移った』と発表されたエルドレッド王子は、実際は王家直轄の修道院の内部に造られた、王族やその周辺の罪人専用の牢獄に軟禁されていた。
マーガレットは『メグ』と名乗り、その修道院に下働きとして雇われることに成功する。
王子は一日に数回、定められた祈祷の時間をこなす以外は自由に過ごしていたが、それでも囚人にかわりはない。
王子の部屋の窓には鉄格子がはまっていたし、出入り口は一つで分厚い木の扉は中からは開けられず、四方は冷たい石に囲まれて敷物一枚、壁掛けの一枚もなかった。
でもマーガレットは、この王子様が好きになった。
彼は常に穏やかで儚いほどにおとなしく、一般的な囚人のように騒いで暴れたり、まだ子供のメグに悪態をついたり、聞くに堪えない卑猥な言葉を投げかけてくることもない。
それどころか、マーガレットのような下働きの下町の子供に対してさえ優しく紳士的に接してくれて、マーガレットが「字が読めない」と嘘をつくと、読み書きや計算を教えてくれた。
彼を交替で見張る下町あがりの兵士達も、自分達を一人前の騎士のように扱ってくれる彼に対しては、いつの間にか好意や敬意を抱いていて、時々「世が世なら、こんな場所にいる方ではないのに…………」と、愚痴混じりに涙ぐんでいた。
王子はいろんな話をしてくれた。母親のリベルタ公女やクレアから聞いた、リベルタの英雄譚に冒険譚。忘れられた古代の神話に、サングィスの各地に伝わる昔話。『めでたしめでたし』で終わる幸せな喜劇。
マーガレットはエルドレッド王子に身元を明かさなかった。けれど王子は気づいていたはずだ。王子はマーガレットが小出しにしたヒントに気づかないふりをして(おそらくはマーガレットの身に危険が及ばないよう)、ただ、
『ある国に、王子様とお姫様がいたんだ。そして王子様には愛する許嫁がいた――――』
そんなよくある物語の体裁で、自分達の悲劇を語ってくれた。
エルドレッド王子は自分の命が長くないことを悟っていた。
もともと体が丈夫でなく、ましてや、ろくに火を用意してもらえないこの牢では、自分は冬を越せずに命尽きるだろう。
もともと細かった体は不自由な生活でますます痩せ細り、手も骨ばって老人のようで、なにより痛々しかったことに、投獄の際にばっさり切られた長い黒髪は、つらい牢獄生活を経てすっかり真っ白に変わっていた。
『せめてこれを君に』
と、王子は銀色のロザリオをマーガレットに見せてくれた。
『私が死んだら、修道院長や王宮の役人達がここに来て、私の遺体や持ち物をすべて運び出してしまう前に、このロザリオを持って行きなさい。これはリベルタから嫁いできた私の母上が、そのまた母上からいただいたもの。私にとっては母と祖母、二人の形見であり、リベルタの地を思うよすがだ。だから役人に横流しされたり、父上の手に戻って処分されるよりも、同じリベルタの血を引く君に持っていてもらいたい。そして可能なら、そのロザリオをアマニーニ伯爵のもとに、リベルタの地に持って行っておくれ――――』
だからマーガレットはエルドレッド王子が亡くなったあの朝、白髪の王子の遺体から、王子が胸に抱いていたこのロザリオを抜きとった。『盗み』という意識はなかった。王子自身が望んだことだから。
なにより王子は、自分の心を込めたであろうこのロザリオを、アマニーニ伯爵邸に埋葬されたと察したクレアの墓前に持って行ってほしがっている、と感じたから。
ただ、王子の死を確認したマーガレットがテディと合流して、リベルタのアマニーニ伯爵邸に戻っても、ロザリオをすぐにクレアの墓前に供えることはできなかった。
マーガレットとテディの意思は決まっていた。
何年、何十年かかろうと、必ず自分達親子を引き裂いた張本人に復讐する。
リベルタ人の血を引いているというだけで、黒髪というだけで、優しい姉を、一人ぼっちの王子様を死に追いやって踏み潰したソールズベリー公爵令嬢に、絶対に思い知らせてやるのだ。
計画をほぼ完ぺきにこなしたベアトリス・ソールズベリーのほぼ唯一の誤算は、使い捨てた男爵令嬢に、大人顔負けの度胸と行動力を備えた、はしこく頭が回る弟妹がいることを知らなかったことだろう。
二人は何度も話し合い、情報を集めた。
ソールズベリー公爵令嬢は物的証拠をほとんど残さず、クレアを殺した男達も覆面で顔はわからない。となれば、公爵令嬢自ら白状するような状況を作りあげる他ない。
二人はソールズベリー公爵令嬢について情報を集める過程で、令嬢が『信心深い』という噂を聞いた。ロザリオを片時も手放さず、全身に魔除けの星の飾りをつけているのだ、と。
星の魔除けは悪魔や悪霊、それから死霊を退けると伝えられる。
ソールズベリー公爵令嬢は、ヘカテの木の下から消えた遺体が「蘇った」と疑い、自分のもとにやって来ることを恐れているのではないか? 目の前で人間一人を殺して平然としているほど、公爵令嬢も肝が太いわけではないのではないか?
ならば、そこにつけ込む。
二人は計画を練り、今回の劇を思いついた。
上演は母の昔の仲間達が協力を申し出てくれ、脚本はマーガレット達が手に入れた情報と二人が目撃した光景をもとに作成された。
三年かかった。
人々の記憶からエルドレッド王子とクレア・タリス男爵令嬢の名が薄れるまで三年待ち、マーガレットとテディは旅の一座と共にサングィスに戻って、例の上演に至ったのである。
計画は大成功。ソールズベリー公爵令嬢は、姉そっくりに成長したマーガレットや、黒髪を伸ばして背も伸びたテディの演じた王子の姿に、こちらの予想をはるかに超えてふるえあがり、国王や夫の前で自ら過去の罪を白状したのだ。
その後、二人は観客の注意が公爵令嬢に集中している間に灯りを消し、段取りどおり劇場を抜け出した。
はじめから劇は最後まで上演する予定はなかった。
灯りを消し、マーガレットとテディがソールズベリー公爵令嬢に迫る。それを合図に、一座の者達は全員、劇場から脱出する。彼らはみな、劇の衣装の下に庭師や下働きの服を着込んでおり、衣装を脱ぎ捨てると使用人のふりをして、ばらばらに離宮を脱出したのである。
一座の荷馬車が帰った音がしなかったのも当然だ。荷馬車は、劇がはじまって観客達の意識がそちらに釘付けになる頃、空の状態で先に離宮を出ていた。そして少し離れた場所で仲間を待ち、ばらばらに脱出してきた彼らを乗せて走り去ったのだ。
国王が一座の捜索を命じた時には全員、隠れ家にたどり着いていた。
マーガレットとテディは劇の進行上、最後まで残らざるをえなかったが、それでも内|《・》部からの手引きにより、安全に逃げきることができた。
エルドレッド王子の印章指輪を残したのも、マーガレット達だ。
もともとあの印章指輪は、エルドレッド王子の人差し指にはめられていた。
それを三年前のあの日、役人達に連れていかれる一瞬の隙をついて、クレアに渡していたのである。
それは「逃亡資金に」という王子なりの気遣いだったかもしれないし、自分を陥れた者達へのせめてもの嫌がらせ、一矢報いる行動だったかもしれない。
とにかく、指輪をうけとったクレアはそれを服の中に隠した。そして印章指輪の紛失が明らかになる前に、真相の隠ぺいを図ったソールズベリー公爵令嬢によってひそかに王宮から連れ出され、ソールズベリー公爵邸へと連れていかれたのだ。
公爵令嬢はまさかクレアがそんな物を持っているとは夢にも思わず、彼女を絞殺すると、持ち物も調べずにまとめて庭に埋めてしまい、クレアの遺体を掘り起こして連れ帰ったマーガレットとテディの手に渡った…………というわけだった。
指輪は劇の最後にソールズベリー公爵令嬢の足もとに残して行き、狙いどおり観客達は「もしや、本当にエルドレッド王子がここに来ていたのでは…………」と青ざめた、と聞いている。
すべては計画通りだった。
「…………行こうか」
マーガレットはテディをうながす。
「行くのかね?」
穏やかな声が背後から割り込んだ。
白髪が増えて黒髪が灰色に見えるようになったこの館の主、アマニーニ伯爵である。
「せっかく母親と姉君の墓があるんだ。ここに留まらないのか?」
「いいえ」
「ここはリベルタだ。サングィス王国よりは暮らしやすいだろう」
マーガレットもテディも首をふった。
「行くあてはあるのかね?」
「特に。でも親方が同行させてくれるって言うから。しばらく、あちこちを旅してまわります」
このままこんな上流貴族の館にいて、また何かの陰謀に巻き込まれてはたまらない…………とは口に出さない。ここまではアマニーニ伯爵は協力してくれたのだ。
「では、餞別を用意させよう。食料に旅費も…………」
「大丈夫です。報酬はすでに受け取っているんだし」
「しかし」
「どうにか、やりますよ。俺達、ずっとそうして生きてきたんだ」
口数の少ないテディが珍しく伯爵に言葉を発した。
「ありがとう、伯爵。あなたのおかげで、あたし達はお姉ちゃんの仇がとれました」
マーガレットの言葉にテディがうなずき、アマニーニ伯爵は苦笑いする。
「それはこちらの台詞だ。君達のおかげで私もサングィス王家に一矢報いることができた」
「さよなら」
黒髪の兄妹は手をつなぎ、墓前を離れて歩き出す。
初老の伯爵は彼らの細い背中としっかりした足どりを、見えなくなるまで見送った。
「黒髪だから、か」
マーガレットは一歳違いの兄を見あげた。
「ねえ、テディ。あたし達、この髪を大事にしようね。この髪はあたし達の歴史。お母さんの血もクレアお姉ちゃんの心もエルドレッド殿下の心も、全部、このリベルタの黒髪の中に入っているのよ」
「ああ」
二人は見つめ合い、ぎゅっ、と手をにぎりあう。
自分達は踏みつけられるだけの弱者ではない。権力の上位にいる連中だって、必要とあらば必ず一矢報いてやる。
それが自分達、黒髪の民の誇り。リベルタの民の、そして旅芸人の誇りだった。
風が吹いて、少年少女の黒い髪を優しくなでていく。
墓石に添えられた銀のロザリオ。
それを、リベルタ大使グラート・アマニーニ伯爵は屈んで手にとった。
彼は亡きエルドレッド王子の数少ない後見人だった。
アマニーニ伯爵の姉は先代リベルタ公に嫁いでオンディーナ公女や公子を産み、公女は現サングィス国王に嫁いでエルドレッド王子を産んだ。
アマニーニ伯爵はリベルタ大使として、公女の輿入れに伴ってサングィスに移り、そのまま公女と公女の産んだ王子の後見人となり、愛する姉の血筋を見守ってきたのだ。
だが、サングィスでの暮らしは想像以上に困難なものだった。
オンディーナ公女は王子を産んでわずか三年後に亡くなり、そのためサングィス国王は早々にサングィス貴族の王妃を迎え、その王妃があっという間に次男を産んで、エルドレッド王子の存在感は一気に霞んでしまった。
リベルタ公国との関係を慮ってエルドレッド王子を王太子に据えはしたものの、サングィス国王の愛情と関心はウィルフレッド王子に集中していたし、それは他のサングィス貴族達についても同様だった。
そしてエルドレッド王子の王立学院入学と、男爵令嬢との醜聞である。
王子からひそかにクレア・タリス男爵令嬢を紹介され、彼女の口からソールズベリー公爵令嬢についての証言を聞いた時、アマニーニ伯爵はとうてい信じられなかった。
いくら結婚相手が気に入らないからと言って、公爵令嬢ともあろう者が王太子の排斥を画策するだろうか。そんなことをすれば、自分も王太子妃の座を失うというのに。
だが王宮でソールズベリー公爵令嬢の動向を注視するうち、伯爵の疑惑は確信に変わった。
ソールズベリー公爵令嬢は間違いなく、エルドレッド王子を嫌悪している。
そしてウィルフレッド王子を愛し、王子もまた、兄の婚約者を愛している。
公爵令嬢にとって、エルドレッド王子は疑いの余地なく『邪魔者』だった。
アマニーニ伯爵は防衛に動いた。リベルタ公国のため姉の孫のため、なんとしてもエルドレッド王子の命と地位を守らなければならない。
しかし、三年前のアマニーニ伯爵に打てる手は少なかった。
ソールズベリー公爵令嬢は若さに似合わぬ慎重さと周到さで、確たる証拠やしっぽをつかませなかったし、なによりリベルタに応援を頼もうにも、この時の故国は先代リベルタ公の急な崩御にともなう後継者争いで、他国をかまう余裕すらなかったのが痛恨の極みだった。
「いくら見下しているリベルタ人の血を引くとはいえ、一国の王太子を安直に廃嫡したりはしないだろう」「サングィス国王も、そこまでリベルタ公国を軽んじはしないだろう」という油断と楽観もあった。
結果はすでに出ているとおり。
エルドレッド王子は一瞬の隙をソールズベリー公爵令嬢に突かれて、例の婚約破棄事件へと突き落とされ、サングィス国王はそれを根拠に彼を廃嫡したのである。
あの婚約破棄は仕組まれたものだった。
エルドレッド王子自身には、婚約破棄の意思も希望もなかった。
だがソールズベリー公爵令嬢は言いがかりと揚げ足とりのような理屈で、サングィス国王に「エルドレッド殿下に婚約破棄を命じられました。殿下はタリス男爵令嬢を王妃に迎えるおつもりです」と告げ口し、そこから言った言わないの水掛け論となり、公爵令嬢の巧みな誘導によって最終的に『エルドレッド王子がソールズベリー公爵令嬢に婚約破棄を伝えた』と公認されてしまったのである。
サングィス国王が公爵令嬢の計画を知っていたふしはない。
しかし国王がウィルフレッド王子に王位を継がせたがっていたのは明らかであり、あの事件に『渡りに船』と便乗したのは明らかだった。
アマニーニ伯爵はすべてを知りながらも有効な手を打つことができず、王子は知らない内に知らない場所へと運ばれ、伯爵が居場所を知ったのは王子が亡くなってからのことだった。
『クレアお姉ちゃんから名前を聞いていたから』
そう語る、黒髪の少女と少年が遺体と共に伯爵邸を訪れなければ、彼は永遠に王子の牢での生活を知ることはできなかったろう。
マーガレットから王子の話を聞くごとに、アマニーニ伯爵はサングィス国王とその宮廷への怒りと恨みを募らせ、姉の孫の仇を討つためリベルタ公国の威信を守るため、旅芸人の兄妹の計画に協力を申し出て、あの離宮で関係者が一堂に集う状況を整えたのである。
現在、サングィス宮廷は表面的には平穏をたもっている。
ソールズベリー公爵令嬢が過去の罪と陰謀を白状しても、サングィス国王は彼女を処分せず、あの夜に起きた出来事は不問となった。
一国の王がたかだか一人の娘に踊らされて、仮にも己が公認した王太子を廃嫡したなど、公表できるはずのない恥だ。
しかしサングィス国王のソールズベリー公爵に対する態度には変化が生じているし、王宮で見かけるソールズベリー公爵も明らかに生彩を欠いている。
そしてソールズベリー公爵令嬢ことベアトリス王太子妃は、あの夜からいっさいの暗闇を受けつけなくなった。
昼間は落ち着いて見える。しかし夜になると半狂乱になり、部屋中に大量の灯りを用意させて、夫がいようと夫婦の寝室だろうと、真昼のように明るくしなければ一睡もできない。
今まで以上にロザリオを手離さず、星型の髪飾りだのネックレスだのブローチだのを全身に身につけては、しきりにそれらに触れて、一つ欠けただけで大騒ぎする。
なによりベアトリス王太子妃は、夫からの愛情が薄れはじめていた。
あの劇の夜、妻の過去を知ったウィルフレッド王太子は、彼女に隔意を示すようになった。王子はエルドレッド王子を慕っていたわけではないが、それでも自分と結婚するために当時の婚約者だった一国の王太子を陥れ、一人の女性を利用して殺害までした妻に対して、不信と怯えを抱かずにはおれないのだろう。
精神の不安定を抱え、サングィス国王と王太子からの好意も失われた今、ベアトリス王太子妃がその地位を失うのは遠くないだろう。遠からず彼女は療養を名目に実家に戻されて事実上の離婚となり、いずれ王太子は新たな妃を迎えるはずだ。
アマニーニ伯爵は墓守を呼んで、銀のロザリオをクレア・タリスの墓に一緒に埋めるよう命じると、踵を返して歩き出した。
『アマニーニ伯爵』と『リベルタ大使』の地位と役目を背負う彼は、あの少年少女のように自由に旅立つことはできない。
しかし、やるべきことは決まっていた。
三年前、エルドレッド王子が廃嫡された時、リベルタ公国内は後継者争いで乱れていた。
だが今は、あの争いを制して即位した新リベルタ公が辣腕をふるって、公国は急速に国力を回復させ、ふたたびサングィスの脅威になろうとしている。
リベルタ貴族は一丸となってサングィスにぶつかり、その実力と誇りを見せつける。
それが亡くなったリベルタ公女への、そして公女の産んだ哀れな王子への、せめてものはなむけだった。
まずは、来週に迫った両国間の関税についての会議だ。
サングィス国王はソールズベリー公爵令嬢の自白を認めていないし、調査の予定もない。
が、リベルタ大使である彼に、王太子妃の自白を聞かれてしまったこと。これはくつがえしようのない事実だ。
サングィス国王はリベルタ側に配慮せざるをえないし、リベルタ側もサングィス側に強く出る理由ができた。
譲歩させられるだけ譲歩させてやる。
「明日、サングィスに戻る」
アマニーニ伯爵は館に戻り、従者に命じた。
「そういえばさ」
ガタゴトと、先を行く荷馬車を徒歩でのんびり追いながら。
テディがマーガレットに話しかける。
「あの劇でさ。オレが王子役で、マーガレットのあとにベアトリスの前に出ただろ?」
「うん」
「あの時、なんでベアトリスはあんなにぺらぺら、自分のしたことをしゃべったんだろ?」
「そりゃあ、死んだと思っていたクレアお姉ちゃんやエルドレッド殿下が、生き返ったと勘違いして怖くなったからでしょ?」
「そうなんだけど、それだけかな?」
テディは首をかしげた。
「ベアトリスの白状の仕方は、誰かと話しているみたいだった。王子役のオレがなにか言う前に、誰かとしゃべっているみたいに一人で勝手にべらべら白状して…………それにあの時、ベアトリスは誰もいない壁をふりかえって、姉ちゃんの名前を叫んだだろ?」
「そうねえ」とマーガレットは笑う。
「ひょっとして、本当に殿下やお姉ちゃんがいたのかも? 二人が、ベアトリスが白状するよう手伝ってくれたのかもよ?」
「だとしたら、ざまあみろだな。ベアトリスの自業自得だ」
弟妹は笑いあう。
「おーい。そろそろ昼飯にするぞー」
親方の声が響き、二人はいそいで荷馬車へ走った。
マーガレットはエルドレッド王子と面識があった。
なぜなら、投獄されたあとの彼の世話係の一人だったからだ。
クレアの遺体と共にサングィス王国を脱出して、アマニーニ伯爵邸にたどり着き、すでに伯爵邸の庭の片隅に埋葬されていた母の墓、その隣に姉を埋葬したあと。
マーガレットとテディは話し合い、サングィス王国に戻った。
クレアの死の原因の一端となった人物、エルドレッド王子の話を聞きたかったからだ。
クレアの言葉を信じるならば、王子は彼女の目的に気づいていた。
『殿下は、私がタリス男爵とソールズベリー公爵令嬢に命じられてご自分に近づいてきたことを、察しておられたの。知っていて、私をお側に置いてくださったのよ。私を拒絶するのは簡単だけれど、それでは私が「使い物にならない役立たず」と見なされて、父か公爵令嬢に処分されてしまう。それを憐れんでくださったのよ。そして「隙を見て逃げろ」と、なにかと私に贈り物をして、逃亡資金の捻出を手伝ってくださったの』
泣きながら語るクレアは哀れで、けれどもマーガレットが今までに見たことのない美しさをたたえていた。姉が初めて見せた表情に、声もなく見入ってしまったことを覚えている。
だからマーガレットはサングィス王国に戻ったのだ。危険を承知で。
公には『療養のため地方の離宮に移った』と発表されたエルドレッド王子は、実際は王家直轄の修道院の内部に造られた、王族やその周辺の罪人専用の牢獄に軟禁されていた。
マーガレットは『メグ』と名乗り、その修道院に下働きとして雇われることに成功する。
王子は一日に数回、定められた祈祷の時間をこなす以外は自由に過ごしていたが、それでも囚人にかわりはない。
王子の部屋の窓には鉄格子がはまっていたし、出入り口は一つで分厚い木の扉は中からは開けられず、四方は冷たい石に囲まれて敷物一枚、壁掛けの一枚もなかった。
でもマーガレットは、この王子様が好きになった。
彼は常に穏やかで儚いほどにおとなしく、一般的な囚人のように騒いで暴れたり、まだ子供のメグに悪態をついたり、聞くに堪えない卑猥な言葉を投げかけてくることもない。
それどころか、マーガレットのような下働きの下町の子供に対してさえ優しく紳士的に接してくれて、マーガレットが「字が読めない」と嘘をつくと、読み書きや計算を教えてくれた。
彼を交替で見張る下町あがりの兵士達も、自分達を一人前の騎士のように扱ってくれる彼に対しては、いつの間にか好意や敬意を抱いていて、時々「世が世なら、こんな場所にいる方ではないのに…………」と、愚痴混じりに涙ぐんでいた。
王子はいろんな話をしてくれた。母親のリベルタ公女やクレアから聞いた、リベルタの英雄譚に冒険譚。忘れられた古代の神話に、サングィスの各地に伝わる昔話。『めでたしめでたし』で終わる幸せな喜劇。
マーガレットはエルドレッド王子に身元を明かさなかった。けれど王子は気づいていたはずだ。王子はマーガレットが小出しにしたヒントに気づかないふりをして(おそらくはマーガレットの身に危険が及ばないよう)、ただ、
『ある国に、王子様とお姫様がいたんだ。そして王子様には愛する許嫁がいた――――』
そんなよくある物語の体裁で、自分達の悲劇を語ってくれた。
エルドレッド王子は自分の命が長くないことを悟っていた。
もともと体が丈夫でなく、ましてや、ろくに火を用意してもらえないこの牢では、自分は冬を越せずに命尽きるだろう。
もともと細かった体は不自由な生活でますます痩せ細り、手も骨ばって老人のようで、なにより痛々しかったことに、投獄の際にばっさり切られた長い黒髪は、つらい牢獄生活を経てすっかり真っ白に変わっていた。
『せめてこれを君に』
と、王子は銀色のロザリオをマーガレットに見せてくれた。
『私が死んだら、修道院長や王宮の役人達がここに来て、私の遺体や持ち物をすべて運び出してしまう前に、このロザリオを持って行きなさい。これはリベルタから嫁いできた私の母上が、そのまた母上からいただいたもの。私にとっては母と祖母、二人の形見であり、リベルタの地を思うよすがだ。だから役人に横流しされたり、父上の手に戻って処分されるよりも、同じリベルタの血を引く君に持っていてもらいたい。そして可能なら、そのロザリオをアマニーニ伯爵のもとに、リベルタの地に持って行っておくれ――――』
だからマーガレットはエルドレッド王子が亡くなったあの朝、白髪の王子の遺体から、王子が胸に抱いていたこのロザリオを抜きとった。『盗み』という意識はなかった。王子自身が望んだことだから。
なにより王子は、自分の心を込めたであろうこのロザリオを、アマニーニ伯爵邸に埋葬されたと察したクレアの墓前に持って行ってほしがっている、と感じたから。
ただ、王子の死を確認したマーガレットがテディと合流して、リベルタのアマニーニ伯爵邸に戻っても、ロザリオをすぐにクレアの墓前に供えることはできなかった。
マーガレットとテディの意思は決まっていた。
何年、何十年かかろうと、必ず自分達親子を引き裂いた張本人に復讐する。
リベルタ人の血を引いているというだけで、黒髪というだけで、優しい姉を、一人ぼっちの王子様を死に追いやって踏み潰したソールズベリー公爵令嬢に、絶対に思い知らせてやるのだ。
計画をほぼ完ぺきにこなしたベアトリス・ソールズベリーのほぼ唯一の誤算は、使い捨てた男爵令嬢に、大人顔負けの度胸と行動力を備えた、はしこく頭が回る弟妹がいることを知らなかったことだろう。
二人は何度も話し合い、情報を集めた。
ソールズベリー公爵令嬢は物的証拠をほとんど残さず、クレアを殺した男達も覆面で顔はわからない。となれば、公爵令嬢自ら白状するような状況を作りあげる他ない。
二人はソールズベリー公爵令嬢について情報を集める過程で、令嬢が『信心深い』という噂を聞いた。ロザリオを片時も手放さず、全身に魔除けの星の飾りをつけているのだ、と。
星の魔除けは悪魔や悪霊、それから死霊を退けると伝えられる。
ソールズベリー公爵令嬢は、ヘカテの木の下から消えた遺体が「蘇った」と疑い、自分のもとにやって来ることを恐れているのではないか? 目の前で人間一人を殺して平然としているほど、公爵令嬢も肝が太いわけではないのではないか?
ならば、そこにつけ込む。
二人は計画を練り、今回の劇を思いついた。
上演は母の昔の仲間達が協力を申し出てくれ、脚本はマーガレット達が手に入れた情報と二人が目撃した光景をもとに作成された。
三年かかった。
人々の記憶からエルドレッド王子とクレア・タリス男爵令嬢の名が薄れるまで三年待ち、マーガレットとテディは旅の一座と共にサングィスに戻って、例の上演に至ったのである。
計画は大成功。ソールズベリー公爵令嬢は、姉そっくりに成長したマーガレットや、黒髪を伸ばして背も伸びたテディの演じた王子の姿に、こちらの予想をはるかに超えてふるえあがり、国王や夫の前で自ら過去の罪を白状したのだ。
その後、二人は観客の注意が公爵令嬢に集中している間に灯りを消し、段取りどおり劇場を抜け出した。
はじめから劇は最後まで上演する予定はなかった。
灯りを消し、マーガレットとテディがソールズベリー公爵令嬢に迫る。それを合図に、一座の者達は全員、劇場から脱出する。彼らはみな、劇の衣装の下に庭師や下働きの服を着込んでおり、衣装を脱ぎ捨てると使用人のふりをして、ばらばらに離宮を脱出したのである。
一座の荷馬車が帰った音がしなかったのも当然だ。荷馬車は、劇がはじまって観客達の意識がそちらに釘付けになる頃、空の状態で先に離宮を出ていた。そして少し離れた場所で仲間を待ち、ばらばらに脱出してきた彼らを乗せて走り去ったのだ。
国王が一座の捜索を命じた時には全員、隠れ家にたどり着いていた。
マーガレットとテディは劇の進行上、最後まで残らざるをえなかったが、それでも内|《・》部からの手引きにより、安全に逃げきることができた。
エルドレッド王子の印章指輪を残したのも、マーガレット達だ。
もともとあの印章指輪は、エルドレッド王子の人差し指にはめられていた。
それを三年前のあの日、役人達に連れていかれる一瞬の隙をついて、クレアに渡していたのである。
それは「逃亡資金に」という王子なりの気遣いだったかもしれないし、自分を陥れた者達へのせめてもの嫌がらせ、一矢報いる行動だったかもしれない。
とにかく、指輪をうけとったクレアはそれを服の中に隠した。そして印章指輪の紛失が明らかになる前に、真相の隠ぺいを図ったソールズベリー公爵令嬢によってひそかに王宮から連れ出され、ソールズベリー公爵邸へと連れていかれたのだ。
公爵令嬢はまさかクレアがそんな物を持っているとは夢にも思わず、彼女を絞殺すると、持ち物も調べずにまとめて庭に埋めてしまい、クレアの遺体を掘り起こして連れ帰ったマーガレットとテディの手に渡った…………というわけだった。
指輪は劇の最後にソールズベリー公爵令嬢の足もとに残して行き、狙いどおり観客達は「もしや、本当にエルドレッド王子がここに来ていたのでは…………」と青ざめた、と聞いている。
すべては計画通りだった。
「…………行こうか」
マーガレットはテディをうながす。
「行くのかね?」
穏やかな声が背後から割り込んだ。
白髪が増えて黒髪が灰色に見えるようになったこの館の主、アマニーニ伯爵である。
「せっかく母親と姉君の墓があるんだ。ここに留まらないのか?」
「いいえ」
「ここはリベルタだ。サングィス王国よりは暮らしやすいだろう」
マーガレットもテディも首をふった。
「行くあてはあるのかね?」
「特に。でも親方が同行させてくれるって言うから。しばらく、あちこちを旅してまわります」
このままこんな上流貴族の館にいて、また何かの陰謀に巻き込まれてはたまらない…………とは口に出さない。ここまではアマニーニ伯爵は協力してくれたのだ。
「では、餞別を用意させよう。食料に旅費も…………」
「大丈夫です。報酬はすでに受け取っているんだし」
「しかし」
「どうにか、やりますよ。俺達、ずっとそうして生きてきたんだ」
口数の少ないテディが珍しく伯爵に言葉を発した。
「ありがとう、伯爵。あなたのおかげで、あたし達はお姉ちゃんの仇がとれました」
マーガレットの言葉にテディがうなずき、アマニーニ伯爵は苦笑いする。
「それはこちらの台詞だ。君達のおかげで私もサングィス王家に一矢報いることができた」
「さよなら」
黒髪の兄妹は手をつなぎ、墓前を離れて歩き出す。
初老の伯爵は彼らの細い背中としっかりした足どりを、見えなくなるまで見送った。
「黒髪だから、か」
マーガレットは一歳違いの兄を見あげた。
「ねえ、テディ。あたし達、この髪を大事にしようね。この髪はあたし達の歴史。お母さんの血もクレアお姉ちゃんの心もエルドレッド殿下の心も、全部、このリベルタの黒髪の中に入っているのよ」
「ああ」
二人は見つめ合い、ぎゅっ、と手をにぎりあう。
自分達は踏みつけられるだけの弱者ではない。権力の上位にいる連中だって、必要とあらば必ず一矢報いてやる。
それが自分達、黒髪の民の誇り。リベルタの民の、そして旅芸人の誇りだった。
風が吹いて、少年少女の黒い髪を優しくなでていく。
墓石に添えられた銀のロザリオ。
それを、リベルタ大使グラート・アマニーニ伯爵は屈んで手にとった。
彼は亡きエルドレッド王子の数少ない後見人だった。
アマニーニ伯爵の姉は先代リベルタ公に嫁いでオンディーナ公女や公子を産み、公女は現サングィス国王に嫁いでエルドレッド王子を産んだ。
アマニーニ伯爵はリベルタ大使として、公女の輿入れに伴ってサングィスに移り、そのまま公女と公女の産んだ王子の後見人となり、愛する姉の血筋を見守ってきたのだ。
だが、サングィスでの暮らしは想像以上に困難なものだった。
オンディーナ公女は王子を産んでわずか三年後に亡くなり、そのためサングィス国王は早々にサングィス貴族の王妃を迎え、その王妃があっという間に次男を産んで、エルドレッド王子の存在感は一気に霞んでしまった。
リベルタ公国との関係を慮ってエルドレッド王子を王太子に据えはしたものの、サングィス国王の愛情と関心はウィルフレッド王子に集中していたし、それは他のサングィス貴族達についても同様だった。
そしてエルドレッド王子の王立学院入学と、男爵令嬢との醜聞である。
王子からひそかにクレア・タリス男爵令嬢を紹介され、彼女の口からソールズベリー公爵令嬢についての証言を聞いた時、アマニーニ伯爵はとうてい信じられなかった。
いくら結婚相手が気に入らないからと言って、公爵令嬢ともあろう者が王太子の排斥を画策するだろうか。そんなことをすれば、自分も王太子妃の座を失うというのに。
だが王宮でソールズベリー公爵令嬢の動向を注視するうち、伯爵の疑惑は確信に変わった。
ソールズベリー公爵令嬢は間違いなく、エルドレッド王子を嫌悪している。
そしてウィルフレッド王子を愛し、王子もまた、兄の婚約者を愛している。
公爵令嬢にとって、エルドレッド王子は疑いの余地なく『邪魔者』だった。
アマニーニ伯爵は防衛に動いた。リベルタ公国のため姉の孫のため、なんとしてもエルドレッド王子の命と地位を守らなければならない。
しかし、三年前のアマニーニ伯爵に打てる手は少なかった。
ソールズベリー公爵令嬢は若さに似合わぬ慎重さと周到さで、確たる証拠やしっぽをつかませなかったし、なによりリベルタに応援を頼もうにも、この時の故国は先代リベルタ公の急な崩御にともなう後継者争いで、他国をかまう余裕すらなかったのが痛恨の極みだった。
「いくら見下しているリベルタ人の血を引くとはいえ、一国の王太子を安直に廃嫡したりはしないだろう」「サングィス国王も、そこまでリベルタ公国を軽んじはしないだろう」という油断と楽観もあった。
結果はすでに出ているとおり。
エルドレッド王子は一瞬の隙をソールズベリー公爵令嬢に突かれて、例の婚約破棄事件へと突き落とされ、サングィス国王はそれを根拠に彼を廃嫡したのである。
あの婚約破棄は仕組まれたものだった。
エルドレッド王子自身には、婚約破棄の意思も希望もなかった。
だがソールズベリー公爵令嬢は言いがかりと揚げ足とりのような理屈で、サングィス国王に「エルドレッド殿下に婚約破棄を命じられました。殿下はタリス男爵令嬢を王妃に迎えるおつもりです」と告げ口し、そこから言った言わないの水掛け論となり、公爵令嬢の巧みな誘導によって最終的に『エルドレッド王子がソールズベリー公爵令嬢に婚約破棄を伝えた』と公認されてしまったのである。
サングィス国王が公爵令嬢の計画を知っていたふしはない。
しかし国王がウィルフレッド王子に王位を継がせたがっていたのは明らかであり、あの事件に『渡りに船』と便乗したのは明らかだった。
アマニーニ伯爵はすべてを知りながらも有効な手を打つことができず、王子は知らない内に知らない場所へと運ばれ、伯爵が居場所を知ったのは王子が亡くなってからのことだった。
『クレアお姉ちゃんから名前を聞いていたから』
そう語る、黒髪の少女と少年が遺体と共に伯爵邸を訪れなければ、彼は永遠に王子の牢での生活を知ることはできなかったろう。
マーガレットから王子の話を聞くごとに、アマニーニ伯爵はサングィス国王とその宮廷への怒りと恨みを募らせ、姉の孫の仇を討つためリベルタ公国の威信を守るため、旅芸人の兄妹の計画に協力を申し出て、あの離宮で関係者が一堂に集う状況を整えたのである。
現在、サングィス宮廷は表面的には平穏をたもっている。
ソールズベリー公爵令嬢が過去の罪と陰謀を白状しても、サングィス国王は彼女を処分せず、あの夜に起きた出来事は不問となった。
一国の王がたかだか一人の娘に踊らされて、仮にも己が公認した王太子を廃嫡したなど、公表できるはずのない恥だ。
しかしサングィス国王のソールズベリー公爵に対する態度には変化が生じているし、王宮で見かけるソールズベリー公爵も明らかに生彩を欠いている。
そしてソールズベリー公爵令嬢ことベアトリス王太子妃は、あの夜からいっさいの暗闇を受けつけなくなった。
昼間は落ち着いて見える。しかし夜になると半狂乱になり、部屋中に大量の灯りを用意させて、夫がいようと夫婦の寝室だろうと、真昼のように明るくしなければ一睡もできない。
今まで以上にロザリオを手離さず、星型の髪飾りだのネックレスだのブローチだのを全身に身につけては、しきりにそれらに触れて、一つ欠けただけで大騒ぎする。
なによりベアトリス王太子妃は、夫からの愛情が薄れはじめていた。
あの劇の夜、妻の過去を知ったウィルフレッド王太子は、彼女に隔意を示すようになった。王子はエルドレッド王子を慕っていたわけではないが、それでも自分と結婚するために当時の婚約者だった一国の王太子を陥れ、一人の女性を利用して殺害までした妻に対して、不信と怯えを抱かずにはおれないのだろう。
精神の不安定を抱え、サングィス国王と王太子からの好意も失われた今、ベアトリス王太子妃がその地位を失うのは遠くないだろう。遠からず彼女は療養を名目に実家に戻されて事実上の離婚となり、いずれ王太子は新たな妃を迎えるはずだ。
アマニーニ伯爵は墓守を呼んで、銀のロザリオをクレア・タリスの墓に一緒に埋めるよう命じると、踵を返して歩き出した。
『アマニーニ伯爵』と『リベルタ大使』の地位と役目を背負う彼は、あの少年少女のように自由に旅立つことはできない。
しかし、やるべきことは決まっていた。
三年前、エルドレッド王子が廃嫡された時、リベルタ公国内は後継者争いで乱れていた。
だが今は、あの争いを制して即位した新リベルタ公が辣腕をふるって、公国は急速に国力を回復させ、ふたたびサングィスの脅威になろうとしている。
リベルタ貴族は一丸となってサングィスにぶつかり、その実力と誇りを見せつける。
それが亡くなったリベルタ公女への、そして公女の産んだ哀れな王子への、せめてものはなむけだった。
まずは、来週に迫った両国間の関税についての会議だ。
サングィス国王はソールズベリー公爵令嬢の自白を認めていないし、調査の予定もない。
が、リベルタ大使である彼に、王太子妃の自白を聞かれてしまったこと。これはくつがえしようのない事実だ。
サングィス国王はリベルタ側に配慮せざるをえないし、リベルタ側もサングィス側に強く出る理由ができた。
譲歩させられるだけ譲歩させてやる。
「明日、サングィスに戻る」
アマニーニ伯爵は館に戻り、従者に命じた。
「そういえばさ」
ガタゴトと、先を行く荷馬車を徒歩でのんびり追いながら。
テディがマーガレットに話しかける。
「あの劇でさ。オレが王子役で、マーガレットのあとにベアトリスの前に出ただろ?」
「うん」
「あの時、なんでベアトリスはあんなにぺらぺら、自分のしたことをしゃべったんだろ?」
「そりゃあ、死んだと思っていたクレアお姉ちゃんやエルドレッド殿下が、生き返ったと勘違いして怖くなったからでしょ?」
「そうなんだけど、それだけかな?」
テディは首をかしげた。
「ベアトリスの白状の仕方は、誰かと話しているみたいだった。王子役のオレがなにか言う前に、誰かとしゃべっているみたいに一人で勝手にべらべら白状して…………それにあの時、ベアトリスは誰もいない壁をふりかえって、姉ちゃんの名前を叫んだだろ?」
「そうねえ」とマーガレットは笑う。
「ひょっとして、本当に殿下やお姉ちゃんがいたのかも? 二人が、ベアトリスが白状するよう手伝ってくれたのかもよ?」
「だとしたら、ざまあみろだな。ベアトリスの自業自得だ」
弟妹は笑いあう。
「おーい。そろそろ昼飯にするぞー」
親方の声が響き、二人はいそいで荷馬車へ走った。
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