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前編

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「見ろ! 土が掘りかえされている!!」

「昨夜、埋めた死体がない…………! やっぱり、ヘカテの木の下に埋めたのがまずかったんだ! 死体が生き返ったんだ!!」

 空になった穴の前で、男達は蒼白になった。





 その囚人は特別扱いをうけていた。
 一日一食、かたいパンとチーズ一欠片と水だけが決まりのこの牢で、彼だけは二食が出たし、献立も白いパンにチーズ二切れ、キャベツとジャガイモのスープ(時々ソーセージ入り)にリンゴ丸ごと、ミルクかワインがついていた。
 部屋もそこそこ広くてベッドと書き物机が置かれていたし、机の上には本が数冊、置かれていた。服だって、質素だけれどちゃんとした上下だ。
 それでもやっぱり牢は牢で。窓には鉄格子がはまっていたし、出入り口は一つで分厚い木の扉は中からは開けられず、四方は冷たい石に囲まれて敷物一枚、壁掛けタペストリーの一枚もなかった。
 でも、メグはこの囚人が好きだった。
 彼は常に穏やかで儚いほどにおとなしく、一般的な囚人のように騒いで暴れたり、まだ子供のメグに悪態をついたり、聞くに堪えない卑猥な言葉を投げかけてくることもない。
 それどころか、メグのような下働きの下町の子供に対してさえ優しく紳士的に接してくれて、メグが「字が読めない」と言うと、読み書きや計算を教えてくれた。
 彼を交替で見張る下町あがりの兵士達も、騎士のように扱ってくれる彼に対してはいつの間にか好意を抱いていて、時々「世が世なら、こんな場所にいる方ではないのに」と、涙ぐんでいた。
 それでもやっぱりここは牢で、彼は囚人で。
 もともと丈夫でなかったという彼は冬に入ると発熱と咳をくりかえし、ある真冬の朝に息絶えていた。
 メグも見た。
 質素なベッドに横たわった彼。すっかり白くなった短い髪の先が、窓からの風になびいて細い首筋をくすぐっている。薄い胸の上で組まれた骨ばった両手の中に、きれいな銀のロザリオが握られていて、そのきらめきが粗末な牢の中で異質なほど似つかわしくなかった。
 朝に発見された彼の遺体は、昼に上等な服の役人のような男達が来て死亡を確認し、ベッドのシーツを利用して包むと、机の上に置かれていた数冊の本ごと運び出してしまった。下働きの小娘が口をはさむ隙など、どこにもない。

(かわいそう)

 空っぽになった牢の中、射し込む赤い夕方の光でメグは思う。

『世が世なら、こんなところにいなかったのに』

 兵士達の呟きと同じことを思いながら、メグは彼との会話をぼんやり思い出した。
 彼はいろんな話をしてくれた。英雄譚に冒険譚。忘れられた古代の神話に、各地に伝わる昔話。『めでたしめでたし』で終わる、幸せな喜劇。

『ある国に、王子様とお姫様がいたんだ。そして王子様には愛する許嫁がいた――――』

 そんな語りで始まる、悲劇の物語も――――





 ****





「エルドレッド・ラトランド! そなたとソールズベリー公爵令嬢ベアトリスの婚約を解消する! そして王位継承権も剥奪する!!」

 サングィス国王ダライアス二世が宣言した。
 左右に並んだ重臣達も、ぐっ、と腹に力がこもる。

「新たな王太子にはウィルフレッド・ラトランド王子。隣国の女王との婚約が整いかけていたが、いたしかたない。女王にご理解いただいてこれは白紙とし、ベアトリス・ソールズベリー公爵令嬢には瑕疵がないので、あらためてウィルフレッド王太子との婚約が決定した」

 語る国王の前、赤い長い敷物の上には四人の男女。
 長い黒髪に鳶色の瞳のエルドレッド・ラトランド第一王子。
 短い金髪に水色の瞳のウィルフレッド・ラトランド第二王子。
 珍しい銀髪紫眼のベアトリス・ソールズベリー公爵令嬢。
 黒髪茶眼のクレア・タリス男爵令嬢。
 物語ではよくある設定と展開だった。
 要約すれば、王太子であるエルドレッド第一王子は貴族の子女が集まる王立学院で、私生児とも噂されるクレア・タリス男爵令嬢と愛し合い、貢いだ挙句、国王である父の定めた婚約者ベアトリス・ソールズベリー公爵令嬢に婚約破棄を申し出たのだ。
 そしてサングィス国王、及び筆頭貴族であるソールズベリー公爵の激怒を招き、今日のサングィス王の宣言に至ったのである。
 愚鈍な王太子が身分卑しい悪女の手玉にとられて、高貴な婚約者をないがしろにし、けれども名君の裁きによって真実が明らかになり、王太子と悪女は追放。無実の心優しい婚約者は、新たな優秀な王太子の妻となる。
 まさに、市井で大流行の、安っぽい大衆向け恋愛小説の『お約束』『定番』である。
 ただし、現実で起きることはまずない出来事だった。
 王太子や王子の結婚は、国王はじめ重臣達が入念に協議してようやく決定する政治的事項であり、王子一人の意思や感情でどうにかなるようなものではない。まして、有力な実家を抱えた公爵令嬢を捨ててまで下級貴族の娘を選ぶなど、王太子自身の保身という点からもあり得ないことだった。
 公爵令嬢を妃に迎えたあと、男爵令嬢を公妾に迎える。それだけで済む話だ。
 市井の恋愛小説の真似事など、正気の沙汰ではなかった。

「正気を失った者に国を任せるわけにはいかぬ」

 それがサングィス国王の言い分だった。

「お待ちください、陛下!」

「ひかえられよ、グラート・アマニーニ卿。これはサングィス王家の問題。口出しは無用ぞ」

 進み出た初老の黒髪の貴族の言葉を、国王が重々しくさえぎって国王の決定は王命となり、重臣達がいっせいに頭を垂れる。
 緊張から解放されたウィルフレッド王子は、反動で高揚した心のままに兄に告げた。

「兄上のベアトリス嬢へのなさりよう、聞くに耐えませんでした。いくら黒髪が気に入ったからといって、そのような下賤の娘を王妃に迎えようとは」

 そして兄の返事を待たずに、新しく婚約者となったソールズベリー公爵令嬢にむきなおった。

「ベアトリス嬢、いや、ベアトリス。このような成り行きではあるが、どうか私の妻となってくれ。私はずっと貴女に恋していた。貴女が兄に粗略に扱われるのを聞いていながら、なにもできないことが、どれほどもどかしかったことか」

「殿下…………」

 ベアトリス嬢は『紫水晶アメシストのような』と讃えられる美しい瞳を潤ませ、頬を紅潮させてウィルフレッド王子の水色の瞳を見あげる。

「二人共、あとにせよ」

 サングィス国王の横槍が入り、重臣達の中にも咳払いする者がいて、婚約者達は慌ててむきなおる。国王が冷ややかなまなざしで問うた。

「最後になにか申すことはあるか、エルドレッド」

「――――では、一つ」

 エルドレッド元王子は緊張に青ざめながらも、父と弟と元婚約者を順に見て言った。

「いつか真実はどこかで明らかになる」

 国王が役人に命じて、エルドレッド・ラトランド元王子とクレア・タリス男爵令嬢は共に連れて行かれる。
 数日後。国中に布告が出されて、エルドレッド第一王子が不《・》を理由に廃嫡されたこと、ウィルフレッド第二王子が新たに立太子したこと、ソールズベリー公爵令嬢が新王太子の婚約者となったこと、そしてエルドレッド元王子は王家所有の地方の城で療養生活に入ったことが伝えられた。
 タリス男爵令嬢については、なにも伝えられなかった。
 しかし王立学院の生徒達はみな、ぱったりと彼女が来なくなったことで「なにかあった」と察していたし、王宮でも「王家直轄の地方の修道院に王家のお忍び用の馬車が着き、黒髪の男女が下車して修道院に入って行ったのを見た者がいる」という噂がひそやかに、すばやくひろがっていく。

「仮にも王太子に対して厳しすぎる気もするが…………まあ、いい機会だったかもしれん。こう言ってはなんだが、殿下が錯乱してくださったのは僥倖だった」

「なんといっても殿下の母君は、黒髪が美しかった亡きオンディーナ様。あのまま殿下が即位していたら、サングィスの王統は黒髪の王子が継いでいたかも…………」

 無責任に笑いあう貴族達。
 彼らは知らなかった。
 エルドレッド王子の廃嫡が決定した直後、ルビーを抱いた不死鳥フェニックス、サングィス王家の紋章入りの金の指輪、すなわち王太子の証である印章指輪が紛失していたことを。
 廃嫡されるその瞬間まで第一王子の人差し指にはめられていたはずのその指輪は、しかし、徹底的な捜索にもかかわらず発見されることはなく、新しく造るほかなかった。
 王宮の片隅で、一人の令嬢が祈るように一つの言葉をくりかえす。

「私は悪くない。私は悪くない。私は悪くないわ。すべて、殿下のせいだもの。私は悪くない。私はただ、殿下を愛しただけ――――…………」

 サングィス王国、三年前の出来事だった。





****





「私、もう『婚約破棄』には胸焼けがいたしますわ」

 王家の離宮、その庭の一角に建てられた小劇場の観客席で。二十一歳の王太子妃、ベアトリスがぼやいた。
 あの、世間を沸騰させた恋愛小説のような婚約破棄事件と、それによるソールズベリー公爵令嬢とウィルフレッド第二王子の婚約と結婚から、およそ三年。
 世間はこの現実に起きた恋愛事件の虜となり、この三年間、形を変えた『婚約破棄』を扱った恋愛小説や恋愛劇が次々生み出されて、当のベアトリス王太子妃はすっかり食傷してしまったのは、王宮の誰もが知るほほえましい事実だった。
 今夜だって、紹介したのがリベルタ公国大使であるグラート卿でなければ、辞退していただろう。隣国との関係には気を配るのも、王太子妃の役目の一つだった。

「私はあの思い出の時をくりかえしているようで、飽きないがな」

 豪快に笑ったのは隣席に座る夫、王太子ウィルフレッド。
 今年二十一歳の王子は三年前よりさらに背が伸びて体格も優れ、健康で、もともと整っていた顔立ちも精悍さが増して、まさに『美丈夫』と呼ぶにふさわしい。
 対する王太子妃も銀の髪と紫の瞳がますます美しく、色素の薄さが特徴のサングィス人の中にあってさえ、なお稀有な存在感を放っている。優美さも気品も教養の深さも、王太子妃として申し分ない。世間では『軍神マースに寄り添う美神ヴィーナス』と讃えられる、美しい妃だった。
 短所があるとするなら、その迷信深さか。いかなる時も信仰と天上の神の祝福の証であるロザリオや、古来より「悪霊や死霊から身を守る魔除け」と伝わる星型の御守りや品を離さない。
 この夜も金や銀の星型の髪飾りを無数につけ、星型のネックレスとブレスレットと指輪も身につけていた。むろん、小物入れにはロザリオをしまっている。

「これも有名税の一種だ。そう思って耐えるのだな」

 うしろの席で、会話を聞いていたソールズベリー公爵が笑った。

「お父様ったら…………」

 そうこうしているうちに劇がはじまる。
 今夜は「内輪のお楽しみ」という体裁なので、観客は少ない。
 国王夫妻に王太子夫妻。それから王太子妃の両親に、紹介者であるリベルタ公国大使。そして、それぞれが連れてきた少人数の従者が、観客席の壁際に立っているだけだ。
 サングィス王国内でも特に高貴な人々に見守られて、舞台の幕があがった。
 内容はたしかに今時の『婚約破棄』の物語だった。
 ある学院を舞台に、ある公爵令嬢の婚約者である王太子がぽっと出の男爵令嬢にだまされて恋仲となり、さんざん貢いだ挙句に、卒業パーティーの日に大勢の客や同級生達の前で公爵令嬢に婚約破棄を宣言、男爵令嬢との結婚を発表する。
 しかし公爵令嬢は大勢の前で堂々と己に非がないことを立証し、出席していた国王も彼女の言い分を認める。そしてさらに、王太子のほうこそ未来の国王として軽挙妄動がすぎること、男爵令嬢が王妃の座を狙う欲深な野心家であることを、証拠をそろえて指摘し、「こんな愚かな王子に国は任せられない」と断言して短慮な王太子を廃嫡、公爵令嬢は新たに王太子となった優秀な弟王子と婚約するのだ。

(本当に、よくある『婚約破棄』だわ…………とはいえ、ずいぶん展開が早いのね)

 ベアトリスは思った。
 これまで観てきた『婚約破棄』の物語は総じて、公爵令嬢から王太子の心が離れて男爵令嬢に移っていく過程、それを嘆く公爵令嬢の悲しみと、そんな彼女を影から励まして惹かれていく弟王子の描写に場面を費やしていた。つまり、恋愛劇としての面が強かったのである。卒業パーティーのシーンは後半のクライマックスに持ってくるのが定番だった。
 しかしこの劇では、一連の展開を前半で済ませている。

(婚約破棄のあとのシーンが長いのかしら? 大使の言うとおり、定番の『婚約破棄』とは少し違うみたいね)

 舞台の上で国王役が高らかに第一王子と男爵令嬢の国外追放を宣言し、舞台が暗転する。
 しばらく待つと灯りが戻り、豪華な部屋を模した舞台セットを背景に公爵令嬢役の女優が立っていた。

「なんということ。奇跡が起きたわ」

 女優はくるくる回って喜びを表現する。

「この日をどれほど待ち焦がれたことか。ああ、殿下。太陽のごとき黄金の髪と、青玉サファイアのごとき瞳のお方。あの方こそ、この国でもっとも高貴な姫の私にふさわしい。黒髪の王子になど、嫁いでなるものか…………!」

 ぎくっ、とベアトリスは体をこわばらせたし、他の観客達も怪訝そうに眉を寄せる。
 舞台の上で愚かな第一王子を演じた役者は、明るい茶色の髪。黒と表現するほど濃い色ではない。観客達が訝しんだところへ「トントン」と舞台上の扉をノックする音が響く。
 第一王子を篭絡して国外追放を命じられたはずの、金髪の男爵令嬢が現れた。

「よくやってくれたわ」

 公爵令嬢は男爵令嬢をねぎらった。

「あなたのおかげで、計画は大成功。第一王子はあなたの手練手管の虜となり、私との婚約を破棄して、下賤なあなたを王妃にするとまでおっしゃられる始末。国王陛下は激怒のあまり、あの方を廃嫡。私の愛する第二王子殿下が新たな王太子となり、私は殿下の婚約者となった。すべてはあなたの働きのおかげよ」

(!)

「それでは、お約束を守っていただけるのですね」

 男爵令嬢役の女優は金髪のかつらを無造作に脱いだ。現れたのは艶々した黒髪。
 ベアトリスは息を呑む。

「お嬢様の命令で、あのお気の毒な王子様に近づき、身の破滅へとお誘いしました。これで、病に苦しむ男爵家の一人息子に、貴重なお薬を用意してくださるのですね? 飢えと寒さに苦しむ私の弟妹、マーガレットとテディを助けてくださるのですね!?」

(――――っ!!)

「ええ、もちろんよ」

 舞台上の公爵令嬢は朗らかに笑った。

「さあ! 褒美よ!!」

 女優が扇子を持った手を大きく振る。
 するとセットのすべての扉が開いて、黒い布をすっぽりかぶって顔を隠した役者達が現れ、男爵令嬢役の女優をとりかこむ。

「何者です!? お嬢様、これはいったい…………!?」

「それがお前への褒美よ、存分に受け取るがいいわ! 死という名の、甘美なる褒美を!!」

「きゃああああああ――――――――っ!!」

 豊かな声量の悲鳴が舞台上どころか劇場内中に響き渡って、観客達の度肝を抜かせる。
 だから気づいた者はいなかった。
 王太子妃ベアトリスもまた、共に叫んでいたことに。
 舞台がふたたび暗転する。
 と思ったら、観客席の灯りまで消えた。

「!? どうなっている?」

「誰か! 灯りをつけなさい! 演出にしても、この暗さは危ないわ!」

 動揺の声が左右から聞こえるが、ベアトリスはそれどころではない。ビロードを張った椅子から腰を浮かし、手袋をはめた手で扇子をにぎりしめ、全身を小刻みにふるわせていた。灯りがあれば、隣席の夫は妻が蒼白なことに気づいただろう。

「誰か灯りを…………!」

 誰かの呼びかけに、ベアトリスのすぐ隣から女の声が答えた。

「灯りでしたら、ここに」

 不意に視界に飛び込んできた金色の光に、反射的にベアトリスはそちらを向く。
 そして見た。
 暗闇を背景に立つ、闇に溶けるような黒髪の女の姿を。

「どうぞ、お嬢様」

「ひぃっ!」

 ベアトリスは悲鳴をあげた。とっさに後退ろうとして椅子が倒れる。
 脳内で、厳重に封じていたはずの記憶がよみがえって、目の前の現実とぴたり重なった。

「ク、クレア!? クレア・タリス男爵令嬢!?」

「まあ。私のことを覚えていてくださったのですね」

 黒髪の女はにっこり笑った。

「ひどいですわ、お嬢様。私はお嬢様の命令に忠実に従いましたのに。お嬢様は私に『弟妹の面倒を見てやる』と言ったのに。私がお気の毒なエルドレッド殿下に近づき、寵愛をうけて婚約破棄までもっていったあと。晴れてお嬢様がウィルフレッド殿下の婚約者となられたあと、お嬢様は私をどうなさったのでしたっけ? 私は覚えていますわ。あの劇のように――――」

 灯りを持った手が、舞台にむかって伸ばされる。

「お嬢様は覆面の男達に、私の首を絞めて殺させた」

「!!」

「…………!?」

 ベアトリスは絶句した。
 周囲の者達も同じくらい驚愕したが、それに気づく余裕はなかった。

「私が生きていたら、真実を国王陛下や第二王子殿下に告げ口するかもしれない。そう、思われたのでしょう?」

「そんな…………そんなはずはない!」

「なにがです?」

「お前は死んだ! 死んだはずなのよ!! ちゃんと脈が途絶えていたのを、確認したわ!! クレア・タリスがここにいるはずない!!」

 ベアトリスは黒髪の女を指さして叫んだ。
 周囲にいっせいに息を呑む気配がひろがる。

「まあ。私がここにいるのは、お嬢様のおかげですよ?」

 黒髪の女はベアトリスへと一歩、踏み出す。

「だって、お嬢様は私を埋めてくださったでしょう? 王都の外、丘の上のソールズベリー公爵家の大きな館、その広い庭の片隅に」

 ベアトリスの脳内で理解が稲光のようにひらめく。

「じゃあ…………じゃあやっぱり、ヘカテの木、あの木の下に埋めたから…………!!」

「ええ。伝説のとおり。月の光を浴びながらヘカテの木の下に死体を埋めたから。月と死と黒魔術の女神ヘカテの御力で、蘇りました――――」

 女が、首に巻いていた暗い色のショールを外した。その下にはくっきりと、絞殺の跡。
 ベアトリスは悲鳴をあげた。劇場の壁がふるえる。

「あ、あ、あ」

 ベアトリスは声にならない声を出し、しりもちをついて、過去の罪から逃れようと手足を動かす。その姿に優美や気品は欠片も見当らない。

「さあ、お嬢様。エルドレッド殿下もいらっしゃいましたわ――――」

 灯りを持った黒髪の女が一歩さがると、長い黒髪を一つに結んだ青年が進み出た。
 何度目のことか、劇場内に女の悲鳴が響き渡る。





「嘘、嘘、嘘よ。そんなこと、あるはずない。迷信よ。死者が蘇るなんて、そんな――――」

 ベアトリスはふるえる手で小物入れからロザリオをとり出し、目の前の男に見せつけるように掲げる。もう一方の手は、しきりに髪や首筋に触れる。金や銀の星型の飾りは、古来よりこの国では悪霊や死霊を退ける魔除けと伝わるもの。

「帰って! こんなのは嘘よ、私は信じない! 迷信よ!!」

 腰に力が入らない王太子妃は、恥も外聞もかなぐり捨てて大理石の床に手をつき、四つん這いで逃げ出そうとする。
 そこで気づいた。
 いつの間にか観客が消えている。クレア・タリスを名乗る女が持っていた灯りも見当らない。真っ暗だ。
 それなのにベアトリスは、自分の手もドレスも靴の爪先もはっきり見えたし、長い黒髪をゆらして歩み寄ってくる、ほっそりした青年の姿も明瞭に視認できた。
 青白い肌、鳶色の瞳、細い顎と儚いほどに優しげなまなざし。

「エルドレッド殿下…………っ」

『何故』

 と、エルドレッドは口を開いた。

『何故、こんなことをしたのです、ベアトリス』

 耳に届いた声は、間違いなく記憶の中のエルドレッド・ラトランドのもの。

『あなたが私を嫌っていたのは知っていました。あなたはリベルタ公女であった私の母を嫌い、私の中に流れるリベルタ人の血を嫌い、その証であるこの黒髪や鳶色の瞳を嫌い、サングィス人特有の金髪や青い瞳に恵まれたウィルフレッドや、ウィルフレッドの母君であるサンドラ王妃を慕っていた。でも、それなら水面下で陛下やあなたの父君に、婚約の解消をお願いすればよかったこと。何故、あのような方法をとったのです。なぜクレアを犠牲にしたのですか?』

「だって」と、後退って壁際に追い詰められたベアトリスが、必死に口を動かす。

「だって、陛下が婚約解消をお許しくださらなかったのだもの!!」

 ベアトリスは叫んだ。

「私だって、あんな方法はとりたくなかった! 穏便に婚約解消したかったわよ!! でも、何度お願いしても、国王陛下が許してくださらなかったから! 『そなたもソールズベリー公爵家の娘なら、政治や外交のために耐えよ』と、そればかり!! ご自分はオンディーナ王妃様が亡くなった途端、サンドラ王妃様と再婚して、ウィルフレッド殿下ばかり溺愛していたくせに!! 父も『王妃となるのだから我慢しろ』って!! そのうちに、ウィルフレッド殿下と隣国の女王との縁談の噂を聞いて…………相手が女王では、ウィルフレッド殿下は隣国に行ってしまう。結婚後にひそかにお付き合いするどころか、二度と会えなくなってしまう! そして私は黒髪の夫と暮らし、黒髪の子を産んで…………そんなのは耐えられない!!」

『だから、クレアを犠牲にしたのですか?』

「そうよ! 殿下だって、嬉しかったはずだわ!!」

 ベアトリスは眼前の青年に叩きつけるように言った。

「王立学院はサングィス貴族の子女ばかり! 金髪ばかりだったでしょう!? 黒髪のあの娘は、さぞ親近感がわいたはずだわ!! 私があの娘を用意してやったのよ、お礼を言われてもいいくらいだわ!!」

『それでクレアを選んだのですね。後継ぎである一人息子の難病に悩んでいたタリス男爵の、私生児として生まれた彼女を。あなたは最初から、タリス男爵と話をつけていた』

「…………それも知っていたの?」

 ベアトリスの顔がゆがむ。

「そうよ。息子の薬を融通してやるって、話を持ちかけたの。あの薬は、貴族でも入手が困難なほど貴重で高価だった。でも私のサロンの友人に、あの薬を製造する医学大学の教授の妻がいたの。あの男、正妻の産んだ跡継ぎの息子を助けるために、妾の産んだ娘を簡単に差し出したわ。父親が許したのよ、なにが問題あって?」

『…………学生の身で、そこまで周到に用意を整えたとは。あなたが王妃となったら、たしかにサングィス王家に貢献していたことでしょう。ですが』

 鳶色の瞳がまっすぐベアトリスの紫の瞳を見据え、断じる。

『そのために一人の女性の命や人生を踏みにじっていいはずはない。あなたがしたことは権力を盾にした、とても卑劣で冷酷な仕打ちです、ベアトリス』

「…………っ!」

『かわいそうに。クレアは誰にも知られぬ存在となり、今もこの世をさ迷って…………』

「だって、しょうがないでしょう!!」

 ベアトリスは叫んだ。己の罪を糊塗し、そこから全力で顔をそむけるために。

「他にどうすればよかったのよ!? 陛下もお父様も、私のお願いを聞いてくださらなかった! だったら、あなたに消えてもらうしかないじゃない!! あなたから婚約破棄を提案してくれれば、私だってこんなことはしなくて済んだ! 私は悪くないわ、すべてあなたのせいだもの、私は悪くない!! 私はただ、ウィルフレッド殿下を愛しただけ!!」

 紫の瞳が恐怖と悔しさの混じった涙に濡れる。

「どうせ、みんなあなたが嫌いだった! リベルタ人の母から生まれた黒髪黒眼のあなたを、『サングィスの王にふさわしくない』と、陰口を叩いていた!! みんな、金髪碧眼のウィルフレッド殿下の即位を望んでいたもの!! 私だって、そうよ!! サングィス筆頭貴族、ソールズベリー公爵令嬢の私にはウィルフレッド殿下こそふさわしいと、みなが思っていたわ!! だったら、あなた一人が消えればすべてうまくいくんだから、国のためと思って、おとなしく消えなさいよ!! 黒髪の王子には、黒髪の旅芸人の娘がお似合いだわ!!」

 心の底からの嫌悪を叩きつけるようにぶつけられたエルドレッドは、それでも静かにたたずみ、ひっそりと、かつての婚約者を見つめた。

『それでもベアトリス、私はあなたを…………た時も、あっ…………』

 途切れるようにかすかな声は、ベアトリスの耳には届かなかった。

『時間です、ベアトリス。あなたは過去の罪を清算しなければ』

 エルドレッドはベアトリスの背後を指さす。
 ベアトリスがふりむくと、闇の中、処刑台が浮びあがるように明瞭に現れ、クレアが首切り斧を持って、にこにこ笑っていた。

『さあ、お嬢様。断罪のお時間です』
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