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ある婚約破棄のその後

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「そういうわけで、お前とは結婚できなくなったんだ、希美のぞみ。俺は社長のお嬢さんと結婚する。もう両親に紹介したし、式場も決まって招待状の発注も済ませたんだ。悪いけど、お前との婚約は破棄させてほしい」

 二人が待ち合わせに利用している、いつものカフェ。
 希美の向かいの席に座ってコーヒーを飲み干した、昨日までは――――いや、ほんの数分前までは希美じぶんの婚約者だと信じていた男、相沢あいざわ誠也せいやは一人で勝手にしゃべっていく。

「慰謝料は払うよ。まあ、指輪を贈っただけで親への紹介とかはまだだったから、世間的に認められていたわけじゃないし、離婚の場合ほどは払えないけど、気持ちとして」

 言外に『本当はそこまでやる必要ないけれど、誠意として払ってやるんだから、察して納得してくれ』という意味と雰囲気をにじませて、「じゃあ」と誠也は立ちあがる。

「ここは俺が払っとくから」

 と、呆然とする希美の返事を待たずに、誠也は待ち合わせていたカフェを出て行った。
 飯島いいじま希美、誕生日を来週末にひかえた二十八歳のある夜の出来事だった。





「もうっ、さいっってぇぇぇっ!! なにが『そういうわけで』よ、どういうわけだっつぅの!!」

 希美はどん! とビールのジョッキを居酒屋のテーブルに置いて突っ伏す。

「たしかに最低よねぇ」

 大学時代からの仲良しグループの一人、外岡とのおかたまきも「かける言葉もない」という風に賛同する。

「いやあ。でも希美と誠也が付き合ってたとは、知らなかったわ。三年前からでしょ? 全然、気づかなかった」

 ごくごくとジョッキをかたむける環に、希美は罪悪感がわいて顔をあげる。

「ごめん、黙ってて。はじまりが『じゃ、付き合おっかー?』みたいな軽いノリで、どこまでつづくかわかんなかったし、環はそれどころじゃなさそうだったから話しにくくって」

「いいよ、いいよ。別に昔からの付き合いだからって、全部、話さなきゃならないわけじゃないし。三年前は、あたしが彼氏と別れたばかりだったからね。気ぃ遣ってくれたんでしょ?」

 環は赤らんできた顔で笑い、ジョッキを持つのと反対の手をふった。

「その後、元彼とは? 中原さん、だっけ?」

「『さん』なんて、つけるような男じゃないわよ。相変わらずフリーター。あちこち渡り歩いているみたい。金がなくなると連絡してくるの。ホント、叩き出して正解だった」

 苦々しげに、三年前までの同居人について環は語る。

「だから、誠也みたいな男を捕まえた女はラッキーだなって、思ってたんだけどね。大企業の正社員で成績優秀で、あたし達の中じゃ一番の出世頭じゃない? はじめはノリでも、三年間、デートや旅行もして、指輪ももらってプロポーズされたんでしょ? そこまでやっといて『社長からお嬢さんを勧められたんで、そっちと結婚する』ってのは、ないわぁー」

「…………ごめんね、急に呼び出して。誰かに聞いてもらいたかったんだけと、妃美きみとか奈緒美なおみには話しにくくって…………」

「妃美は新婚でラブラブだし、奈緒美も来月に初産で、幸せいっぱいだからねぇ。あ、知ってる? 絵梨佳えりかも同棲中の彼氏から、やっとプロポーズだって。誕生日デートで指輪をプレゼントされたんだって。絵梨佳の誕生石のサファイア」

「知ってる。だから絵梨佳もやめたの」

「その点、あたしなら気を遣う必要ないし?」

「本当にごめん。環には迷惑だろうけど…………」

「いいって、いいって。ぱーっと、なんでも話しちゃいな。こういう時は話してすっきりするのが一番。あ、頼みたい物って、それ?」

 環がジョッキを希美の荷物へ向けた。希美が愛用しているバッグの隣に、大きめの紙袋が置かれている。

「ホント、ごめん。面倒なことを頼んで」

「いいって、いいって。誠也に返せばいいんでしょ?」

 希美が紙袋を環に渡し、環は紙袋をぶら下げて重さを確認する。

「そんなに重くないね」

「誕生日やクリスマスに誠也からもらった、バッグとか小物だから。…………一応、指輪も入れといたけど…………あとは、あいつがあたしの部屋に忘れて行ったハンカチとメモ帳。それから写真」

「写真?」

「ほとんどはスマホで撮ったんだけどね。北海道に旅行した時、スマホの調子が悪くて使い捨てカメラを買ったの。その時の写真」

 希美は自分のスマホを操作する。誠也とのツーショット写真がずらずら表示される。

「さっさと消しちゃいなよ」と環に言われた。

「わかった。じゃ、これはあたしが誠也に渡しとく」

「お願い。ごめんね、面倒くさいことを頼んで。あいつ、もう相手のお嬢様と同棲してるとかで、今の住所を知らないの」

「気にすんな、たいした手間じゃないし」

「お礼に、ここはあたしが奢るから。…………もっと、いい店にしとけば良かったね」

「いいって、いいって。こういう時は、ぱーっと飲んで愚痴って、忘れるのが一番! おしゃれなレストランやバーじゃ、思いきり話せないでしょ?」

 全国展開しているチェーン店の居酒屋。
 たしかに、店内は酔って騒ぐ客にあふれ、希美達の会話を気にする者など一人もいない。

「よっしゃ! 今夜は飲むよ! 飲んで愚痴れ! そして忘れろ!! 手始めにビール、もう一杯!!」

 メニュー片手に店員を呼ぶ環につられて、希美も残っていたビールを飲み干し、チューハイを注文する。
 その晩は「これでもか!」というほど愚痴り尽くし、翌朝、希美は声が出ないほどの喉の痛みと渇きに苦しめられた。





「誠也が環を、って…………本当ですか? 本当に、誠也が…………環を…………」

「本当です」

 呆然と呟く希美に、刑事はあっさり断言した。
 環と飲んだ、翌週末。
 突然、一人暮らしの希美の部屋を訪れた二人の刑事は、希美に淡々と告げた。

「外岡環さんが亡くなりました」と。

 それも

「相沢誠也に殺されました」

 と。

「正確には、『殺すつもりはなかった。引き止めようと肩をつかんだら、環が足をすべらせて階段から落ちた』と証言しています」

 部屋にあがった刑事の話はだった。
 いわく、昨夜、環はとあるビルのレストランで誠也と会っていた。食事を終え、レストランを出て帰ろうとした環を誠也が引き止めようとして失敗し、環はビルの階段を転げ落ちた。運悪く、環がはいていたのはピンヒールで、それも不幸な結果を招いた一因だろう。
 落ち方が悪かったらしく、環は頭を強打して意識不明となった。

「即、救急車を呼んでいれば、一命はとりとめたかもしれません。しかし相沢誠也は、とっさに外岡環さんの荷物やポケットをさぐっており…………その間に階段を降りてきた別の客に見つかり、悲鳴をあげられて事態が露見した、という経緯のようです」

 希美は信じられなかった。

「どうして、そんなことに…………」

「相沢誠也の話によれば、外岡環は相沢を脅迫してきたそうです。五百万円を用意しなければ、婚約者の令嬢とその父親の社長に、あなたとのことをばらす、と。もともと、あちこちで脅迫をくりかえしては、小金を稼いでいたようです」

「脅迫…………!?」

「外岡環が持っていた通帳にも、高額の入金が不自然にくりかえされていました」

 刑事はそう語った。
 もう一人の刑事が希美に質問してくる。

「外岡環の金使いについて、違和感を覚えたことは?」

「…………派遣なのに、服とか靴とか高いコスメとか…………色々持っているな、とは思っていました。よく旅行とかイベントにも行っていたみたいだし…………でも以前、そのことを訊ねたら『派遣と言っても、有利な資格をいくつか持っているから、他の人より給料がいい』『実家暮らしだから、お金に余裕がある』って聞いて、そんなものかと…………友達でも、そのへんは突っ込んで訊くべきじゃないと思ったので…………」

「こちらは外岡環の部屋から発見された物です」

 刑事はテーブルの上に数枚の写真を並べた。どれも見覚えある写真だった。

「去年の誠也との北海道旅行の時の写真です…………スマホの調子が悪くて、最終日だけ使い捨てカメラで…………誠也に渡してって、環に預けたんです。他の物と一緒に…………」

 希美は訊かれるままに、先週、環と居酒屋で会って飲んだ時のことを話した。

「大学時代からの友人とのことですが、あなたと外岡環さんは、ここ数年は数えるほどしか会っていないと聞きました。何故、彼女を誘ったんですか? 他の友人ではなく」

「他の子達には話しづらくて…………妃美は新婚で、旦那さんとの幸せな話ばかり聞いていたし、奈緒美は来月出産で気を遣わせたら良くないと思ったし、絵梨佳もプロポーズされたって聞いて、私だけ誠也に捨てられたと思うと…………」

 恨みがましい、卑屈な響きは抑えきれなかったかもしれない。
 希美は、二人の刑事が少しひるんだ気がした。

「環は、三年前に同棲していた彼氏と別れて以来、ずっとフリーだって聞いていたから…………環のほうが話しやすいと思って…………誠也への荷物も頼みたかったし…………」

「何故、郵送ではなく、外岡環に?」

「誠也の今の住所は知らないんです。先週、別れ話をされた時に『もう相手の女性と同棲している』って聞いて…………」

「会社に送ろうとは?」

「社長令嬢との結婚が決まって部署も変わった、って聞いたんです。異動先も教えてもらえなくて…………環に話したら、『届けてあげる』って言われて…………環は派遣で、短期間だけど誠也の会社にも勤めたことがあるのを知っていたから、『じゃあ』と思って…………」

 その、希美が渡した品を『証拠』に、環は誠也を脅したのだ。

『令嬢と出会った時点で、すでにプロポーズして指輪まで渡した女がいたのに、それを秘密にしたまま令嬢と交際していた。令嬢と社長にばらされたくなければ、五百万円用意しろ』と――――

 なんでも社長は昔、妻が不倫の末に家を出て行っており、そのせいで社長も令嬢も浮気や不倫には人一倍、厳しいらしい。
 そんな二人に『実は婚約者がいたのに、令嬢と出会って乗り換えました。すぐには別れず、しばらく二股状態でした』などと知られたら。
 破談は目に見えている。
 少なくとも誠也は、そう確信したのだ。

「相沢誠也は昨夜、外岡環に指定されたレストランで彼女と会い、あなたが彼女に預けた品と引き換えに、彼女に五百万円を渡しています。そしてレストランを二人で出たのですが、別れ際に『実は、写真は手元に残してある』と告げられたそうです。外岡環は『なにか会った時の保険に』と言っていたそうですが、その言葉を聞いて相沢誠也はカッとなった」

 グループの中では出世頭と言っても、五百万円は誠也にとっても安い金額ではない。それを支払ってまで証拠を回収したかったのに、『実は、まだ残っています』では話が違いすぎる。契約不履行もいいところだし、なにより誠也にしてみれば「その写真をネタに、また脅迫されるかもしれない」という恐れが生じた。

「怒った相沢誠也は、外岡環を引き止めようとして…………」

 突然、肩をつかまれたピンヒールの環はバランスを崩し、足をすべらせ、階段の一番上から転げ落ちて、後頭部を強打したのである。

「即、救急車を呼んでいれば、一命はとりとめたかもしれません。しかし倒れた彼女を目の当たりにして、相沢誠也はとっさに彼女の荷物やポケットをさぐって、あなたとの写真をさがしたそうです。外岡環のスマホまでチェックしたようですね。写真は彼女の部屋に保管されていたので、無駄だったわけですが…………」

 写真をさがす作業にてこずって、誠也は環の蘇生に不可欠だった、貴重な十数分を浪費してしまった。
 そして目撃者に発見され、悲鳴をあげられて事が露見してしまったのである――――





 その後、希美はさらに刑事からいくつかの質問をうけたが、特に重要な情報はなく、刑事も質問を終えるとあっさり帰って行った。

「はあ…………」

 希美は一人になったワンルームで大きく息を吐き出す。
 すっかり休日が潰れてしまった。
 刑事に出したお茶を片付ける意欲もわかず、しばらくぼうっとしているとスマホの着信音が響いた。
 グループのメンバーの一人、妃美からだった。

『聞いたよ、誠也のこと。さっき、刑事さんが来てね。…………二人、付き合ってたんだね』

 スマホから聞こえる妃美の声は動揺が隠せない。
 希美は疲れを感じながらも一人になる気はわかず、しばし友人との会話に没頭した。
 希美の話を聞いた妃美は、驚きながらも同情してくれた。

『最近の誠也が、誰かと付き合っているんだろうな、とは思ってたの。時々、女性うけするお店とかプレゼントについて相談されたし。でもまさか、希美と社長令嬢と二股だったなんて…………ひどすぎる』

 妃美の声には友人の裏切りに対する明確な嫌悪がにじんでいた。
 その事実にささやかに励まされながら『そろそろ旦那が帰って来るから、夕食の支度をしないと』という彼女の言葉をきっかけに、希美は通話を終えた。
 希美は何度目かのため息と共に茶を片付け、財布とスマホを持って部屋を出る。
 とても作る気にはなれず、夕食はコンビニで済ませることにして最寄りの店に向かった。
 歩きながら、先週の環との会話を思い出す。
 誠也の件を環に愚痴り、プレゼントその他を環に預けたのは、わざとだった。
 何故なら、環は口が軽かったから。
 大学時代から、環は他人のプライベートを根ほり葉ほり聞き出しては、それを別の相手にぺろっと話し、さらに他の人間のプライベートをさぐる。それを誰かに責められても、けろりとして「なにが悪いの?」という態度だ。
 だから希美は少しずつ、環とは距離を置くようになっていた。
 特に、誠也との交際は環には絶対に気づかれまいと、細心の注意をはらっていた。
 それでなくとも、彼氏と別れて苛立っていた環のこと。誠也と付き合っていると知られれば、他のメンバー達にどんな形で広められるか、わかったものではなかった。
 その環に誠也との一件を話したのは、それこそ他のメンバーに広めてほしかったからだ。
 かるいノリから始まったため、いつまで続くかわからない誠也との交際を、希美は他のメンバーには話さずにいた。誠也も話していなかった。
 そのため誠也と社長令嬢の婚約は、仲間内で祝福を持って迎えられた。
 希美はそれが許せなかった。
 出世のために自分を切り捨て、のうのうと別の女と結婚し、出世し、それを仲間内で祝われる。希美が傷ついたことを、誰にも知られぬまま終わる。
 それが、どうしても許せなかった。
 誰かに知ってほしかった。
 むしろ、せめて仲間内だけでも本当のことを知ってもらい、誠也の仕打ちを非難してほしかった。せめて仲間内でぐらい、誠也のことを「ひどい男だ」と言ってほしかった。
 だから環に話したのだ。
 環なら絶対、希美の話に尾ひれをいくつもつけて、グループ内に言いふらしてくれると確信していたから。
 それでメンバーが誠也の結婚式を欠席でもしてくれれば、それで満足だった。
 だから、自分がした話と渡した品物が原因で、環が誠也に過失とはいえ殺される結果になったと知り、希美は後悔と後ろめたさに襲われた。
 自分があんな話をしなければ…………。
 そう思った。
 けれどその後悔も、環が誠也と関係を持っていたと刑事から聞いて吹き飛んだ。
 三年前に彼氏と別れてから、環は誠也と定期的に会い、ホテルに行っていたらしい。
 真面目な交際ではなく、『セフレ』に近い関係だったそうだ。
 一方で誠也は希美とも付き合い、環とのことは希美にいっさい話していなかった。
 社長令嬢と二股どころか、三股をかけていたのである。
 その事実もまた、誠也が焦って環を引きとめた一因だったろう。
 環が希美と居酒屋で会った時、口では「誠也と付き合ってたとは知らなかった」と言いながら、裏では誠也から希美と付き合っていると聞いていたのである。
 希美は環に対する罪悪感をきれいに失っていた。

(そもそも私、悪いことをしたわけじゃないし)

 希美は環に『誠也を脅してくれ』なんて、一言も頼んでいない。
 希美はあくまで誠也との一件を環に愚痴り、誠也からのプレゼントを預けただけ。
 失恋を友人に愚痴ってはいけないとか、元彼へプレゼントを返す際、友人に頼んではいけない、という法律はない。
 誠也への脅迫は、あくまでも環の独断。環が一人で勝手にしたこと。
 むしろ環のほうこそ、誠也を脅すよいネタが飛び込んできた、と、腹の中で笑いながら希美の話を聞いて、プレゼントを受けとったに違いないのだ。
 希美はむしろ、失恋を利用された被害者。
 友人の失恋につけ込んで、別の友人兼セフレを脅迫した環こそひどい人間であり、事態はあくまで環の独断、そして誠也の過失だった。
 希美はコンビニに入り、迷った末にパスタとサラダを購入する。

『とんでもないことになったけど…………希美は悪くないわよ。誠也のことは忘れちゃいな?』

 電話で妃美に、そう言われた。

(うん、忘れる)

 心の中で返事した希美は、コンビニからの帰り道でケーキ屋の前を通り、主にカロリー面で迷ったものの、入店して自分用にケーキを一つ選んだ。チョコレートのプレートに『ハッピーバースディ』の文字を入れてもらう。
 希美はケーキの箱とコンビニの袋を持って自宅に帰り、二十九歳の誕生日をささやかに祝ったのだった。
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