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(ああもう、本当にどうしてこんなことに…………)
透子は叫びたい思いだった。今すぐふりきって走り出したい。
(まさか、自分が人身売買のオークションにかけられる日が来るなんて…………)
BL大好物の友人が貸してくれたBL漫画では何度か見たシチュエーションだが、自分が経験する時がくるとは考えたこともなかった。
(涼美ちゃんなら、この状況も「受けの気持ちを味う貴重な経験!」って喜びそう…………)
あえて馬鹿馬鹿しい想像をして、平静をたもつ努力をする。パニックになったら負けだ。
「こんなもんかね。いいじゃないか、ずいぶん見栄えがよくなった」
すぐ背後から声がかけられる。
透子も視線をあげ、目の前の大きな鏡を見た。
たしかに『ずいぶんよくなって』いる。
鏡に映るのは、正真正銘の女性。
それも簪を挿して紅もひいた、こちら風の若い女性。
むろん、透子だ。
着ていた男装を脱がされ、女物の衣装を着せられて女性らしい髪型に直されたのである。
(あらためて見ると、あまり違和感ない。意外…………)
癖のある髪質には「髪はまっすぐなのが最高なんだけどね」と文句を言われたが、着付けと化粧を一人でこなした背後の老女が何度も髪油で梳いたため、一時的に直毛に見えるようになっており、印象も変わっている。
中華系ファンタジーで見かける漢服に似た薄紫色の衣装も肌の色になじんでいるし、少々派手に見えた大きめの花飾りも、実際に挿すとちょうどいいポイントとなって、髪の色にも髪型にも合っている。
(コスプレ感がないというか…………しっくりきている。どう違うんだろう?)
「センスがいいんですね」
つい透子がそう言うと、背後の老女は化粧道具を箱にしまいながら鼻を鳴らした。
「これで五十年間、食ってきたんだ。悪いはずがないだろう」
透子はやや驚いた。
「五十年ですか? 若い頃から、ずっとこのお仕事を?」
「若い頃は別の仕事だよ。娼妓として働いていたさ。これでも『若竹亭の黒珠姫』といえば『贈られた恋文で一晩暖をとれる』っていう、人気の娼妓だった」
「娼妓」
「十歳で親に売られて、この街に来て。十四から店に出るようになって、三十九まで二十五年間、客の相手をしてきた。それから裏方にまわって、今年めでたく六十の大台だよ」
「つまり、十歳からお化粧を」
六十歳というわりには老けて見えるが、このあたりは生活環境や食事事情、それらによる栄養状態の影響が大きいのかもしれない。日本だって、半世紀前は五十歳で老人扱いだったと聞いたことがあるし。
「客の相手はしなくても、給仕なんかは子供らの役目だからね。客の前に出るからには、身なりは整えるもんだ」
「なるほど」
透子はあえて淡々とした反応をかえす。
本当は言いたいことはたくさんある。親が十歳の子供を花街に売るとか、十四歳で店に出して接客させるとか、現代日本の感覚で言えば、れっきとした児童虐待だ。
が、それをここで、この老女相手に叫んでも誰かが救われるわけでも助かるわけでもなく、今の透子は自分自身にこそ危険が迫っている状態だ。
(安易に「かわいそう」と言うのも、逆に怒らせたり傷つけたりする可能性もあるし。難しい)
老女自身は憐れみや同情を求めていないかもしれないのに、透子の基準で勝手に「かわいそう」と決めつければ、相手にとっては不快にしかならないだろう。
(なんだかな)と思った。
(一応これでも、条件付きで女神様から強い力はもらっているのに。私って全然、一般的な異世界転移チート主人公っぽくないんだ)
一般的な異世界転移の話なら、転移して大きな力をもらったあとは、その力を使って(本人としては消極的なつもりでも)世界を守ったり変革したりするものではなかろうか。
それこそ花街だの人身売買だのに遭遇したら、それをぶっ壊して不幸な人達を解放して助けてあげるのも、一つの定番だろうに。
(でも私にはそこまでの力はない)
透子に与えられたのは、あくまで《仮枝》を務める間だけの《守護者》だけ。
それも今は《朱雀》の力を宿している紅霞一人。
突き詰めれば、この力は《種》を守るためだけのものであって、世界を変えるためのものではないのだ。
(私、なんのためにこの世界にいるんだろう)
透子ははじめて疑問に感じた。
むろん、第一の理由は『延命』だ。
事故死した透子が生きて帰らねば、三億円を母や甥に渡すことができず、二人の病気を治すことができない。
だがそれとは別に、透子は違う理由が欲しかった。
この世界にいてほしいと、いていいのだと思える理由。世界から求められるなにか。
それがあれば、透子ももっとすんなり前向きな気持ちで「この世界に残る」と言うことができる。
だが現実にそのような理由はない。
《仮枝》の役目が終われば、この世界は透子を必要としない。
彼女がいてもいなくても、この世界は変わらず在りつづけ、変化しつづけるだろう。
透子はこの世界になんの変化も価値ももたらさない。
でもそれは、地球にいた時も同じではないか?
地球にいても、透子はあの世界になんの変化も価値ももたらさない。
透子がいてもいなくても、地球は変わらず在りつづけ、毎日毎日回転をつづける。
それでも地球で、日本で、透子が不要な存在とならなかったのは。
(家族が…………友達とか大事な人達がいて、その人達が私を必要としてくれていたから。地球が私を必要としなくても、家族や友人は私を必要としてくれて、私もみんなが大切だった。だからあそこにいた。――――人の存在理由って、そういうことかもしれない。世界に必要とされようとされなくとも――――いえ、世界が必要としないからこそ、自分の手で自分のいたい場所をつかまえなければ、きっとすぐに離れてしまって、二度とつかめない)
透子は己の手を見た。
(私は――――今、私がいたい世界は――――)
「用意できたかい」
別の声が割り込んできて、透子は物思いを覚まされる。
髪をきっちりまとめた、いかにも『女将』『女帝』という雰囲気の厳めしい風貌の女が入ってきて、透子を頭の上から爪先まで眺めまわす。
化粧係の老女が「これ」と透子の肩を叩き、立つよう手で合図した。
透子が立ちあがると「ふむ」と女将はうなずいた。
「悪くないね。肉付きはふっくらしているし、指もきれいで、髪にも肌にも艶がある。これなら良家のお嬢様で売れる。やはり下町の貧乏人より、いいとこのお嬢様のほうが客の食いつきが違うからねぇ」
「…………」
(人を、品評会の犬か牛のように…………あと、そんなに太ってませんよ! 平均です!!)
透子はおとなしく両手を重ねて怒りをこらえ、一方で強くなっていく不安や焦りも堪える。
(紅霞さん…………)
「いいだろう、連れてお行き」
女将が指示した。入口で待機していた男が透子に歩み寄る。
腕をつかまれそうになり、反射的に身をよじって抵抗すると、小さな光が鋭く目の前をよぎった。白いクリオネのようなこの光には、覚えがある。
「おとなしくおし。《四気神》のいない《無印》なんて、女はむろん、男の腕力にだって敵わないんだからね」
女将の指先で白い光が一つ、くるくる回っている。
透子はちょっと意外だった。
「あなたは《無印》ではないんですか?」
なんとなく「花街にいる女性は全員《無印》」と思っていたのだが。
女将は鼻を鳴らす。
「あたしは、ちゃんと《世界樹》の祝福をうけて四体の《四気神》を授かった女だよ。あんた達《無印》みたいな、生まれながらの罪人とは違う。あたしの《四気神》はあたしの守護だけでなく、多少の攻撃もできる。つまらない真似をするなら、遠慮なく差し向けるよ」
女将は右手を挙げて《印》の浮かぶ甲を見せつける。赤く塗られた長い爪の先に、白いクリオネが蝶のようにとまる。
透子は腑に落ちなかった。
「《四気神》がいるなら、どうして花街にいるんです? 売られたりしたわけではないんでしょう?」
「もちろん、自分の意志だよ。あたしの母親の店をそのまま継いだんだ」
なるほど、そういうケースもあるのか。
「つまり、お母様も同じ商売を。こういうお店って、世襲なんですか?」
「親から継ぐ時もあれば、外から優秀なやつを養子に迎える時もある。わかったんなら、さっさとお行き。逃げようなんて無駄なことは考えるんじゃないよ」
女将は「しっしっ」と言う風に手をふって、男に合図する。
透子も今度は逆らわず、腕をつかまれる前に歩き出した。
部屋を出ると、化粧係の老女が呆れたように口を開く。
「抵抗する娘は珍しくないが、あんなことを訊く娘は初めてだよ。おかしな娘だね」
まさか「別の世界から来たので、こちらのものはなんでも珍しいんです」とは答えられない。
「外の世界をよく知らないので…………」
そうごまかした。
老女も「ふん」と鼻を鳴らして怪しんだ様子はない。
「その年齢まで親元にいられたなら、充分だよ。これからはこの街がアンタの故郷。このあと買われる店が、アンタの家だ。そう思って働くんだね。なに、良い店に買われれば、いい暮らしもできるさ」
「娼妓なのに?」
「娼妓だからじゃないか。花街でも数えるほどしか存在しない、女の娼妓だ。さてはアンタ、女の娼妓の価値を知らないね?」
「ええ、まったく。花街なのに、娼妓が少ないんですか?」
「《無印》の娼妓は別格だよ。男の娼妓は履いて捨てるほどいるし、《四気神》付きの酌婦もそれなりの数いるが、《無印》の娼妓はそうそういない。《無印》自体の数が少ないうえ、多くは母親や姉妹のもとで暮らすから、花街にいるのは親に売られるか、アンタのようにさらわれて来た女ばかりだ」
つまり非常に限られたケース、ということか。
「だが、そのぶん値段は高い。世の中、女と遊びたいのに女と関わる機会のない男は、わんさかいるからね。《無印》の娼妓が一人店に入れば、その店は十年もつと言われるほどだ」
「なるほど。需要が山ほどあるのに、供給が圧倒的に足りていない、ということですね?」
「そういうことだね」
透子は納得した。
この世界は男女比が八対一。女性は四人の夫を持つことが義務付けられているが、それでも計算上、四人の男性が余る。それこそ女性と結婚したり愛し合ったりしたくても、一生縁がないまま死んでいくような男も少なくないはずだ。
紅霞も「女給や酌婦は儲かる」と言っていた。料金を払いさえすれば相手してもらえる商売女は、こちらの男性には貴重な存在なのだ。
さらに透子は裏の事情も推測する。
《四気神》に守護される女性が自ら就く女給や酌婦は、手軽に高給を得て、かつセクハラの心配もない、よい仕事だろう。
けれど《無印》にはその守護がない。
客側からすれば、セクハラもそれ以上もやりたい放題だ(むろん、店側の指定する金額を払ったうえで、だが)。
料金を払ってもセクハラは許されない《四気神》付きの女性と、料金を払えばセクハラも買春も可能な《無印》の女性。
たしかに、女給や酌婦以上に需要のある存在に違いなかった。
(紅霞さん…………)
透子は長い袖をぎゅっとにぎる。
紅霞に会いたいだけではない。
(もし、本当にそんなことになったら…………親に顔向けできなさすぎるってものですよ、わかっているんですか? すずさんっ!?)
込みあげてくる不安や焦りに懸命に耐えつづける。
気をまぎらわせるため、透子は質問をつづけた。
「つまり《無印》の娼妓という時点で、ある程度の地位というか、金額が約束されている、と考えていいんですか?」
「そういうことだね。あとは客あしらいだの容姿だの教養だので、差が出る」
「教養」
「《無印》の娼妓は数が少ない分、遊ぶにも金がかかる。金がかかるということは、金を持っている客しか遊べない。つまり、豪商とか高位の官吏達だ。地方から来た豪農の場合もある。そういう客を相手にするなら、それなりの知識や教養がないと駄目だ。読み書きができないと恋文を書けないし、歌舞音曲くらいはできないと、飽きられるのも早い。詩とか文学に通じていると会話が長くつづくし、歴史とか政治的な話も、できるにこしたことはない。まあ、そのへんはこれからアンタを買う主人の采配次第だ、アンタが心配することじゃない。アンタは言われたとおりに、真面目に習えばいいのさ」
老婆の説明を聞きながら、透子は頭を回転させた。
(つまり、昔の日本でいう花魁みたいな地位? あれも遊女の中では最高位で、教養のない女性はなれなかった、っていうし。…………花魁もののBL漫画を描いていた時の涼美ちゃんから聞いた話を、こういうところで思い出すとは…………)
「じゃあ《四気神》のいる酌婦や女給より、《無印》の娼妓のほうが料金は高いんですね?」
「花代だね。文字どおり『桁違い』だよ。酌婦や女給は花街以外の食堂や喫茶店でも働いているが、《無印》の娼妓は、花街の中でも一部の高級店にしかいない。当然、額が違う」
「娼妓は全員《無印》ですか? 《四気神》を持つ女性が娼妓になることは、ないんですか?」
まあでもキャバ嬢程度ならともかく、買春となると…………と思ったら、違った。
「そこそこいるよ。花街で働いていると、なんだかんだで娼妓を見る機会が多くなるからね。高級品で飾る娼妓を見て『自分も』って思う女は少なくない。《四気神》がいて安全も保証されているから『娼妓になって、もっと稼ぎたい』って自分から志願するんだ」
これも透子は納得した。
日本でもよく聞くコースだ。最初は普通のパパ活で満足していたのが、もの足りなくなってキャバ嬢へ、それ以上へ、というパターンである。
こういう話を聞くと、良くも悪くも(こっちの人も同じだな)と親近感を覚える。
「とはいえ《無印》の娼妓と違って、《四気神》がいる娼妓は強気というか、客を選ぶからね。それで客が離れたり、《無印》の娼妓に横取りされたり、客や店ともめてクビになるのも、まあまあ聞く話だよ。だから《四気神》がいて人気が出る娼妓は、そうとうなやり手だね。文字どおり、客の心をつかんで離さない力があるんだ」
「へえ」と透子は興味深く聞き入った。
「とにかく、そういうわけで《無印》の娼妓は恵まれているんだ。男娼なんて大変だよ。代わりはいくらでもいるうえ、《四気神》の守護もないからね」
「男娼…………男性の娼妓もいるんですか?」
「花街の娼妓の大半は男娼だよ。娼妓や酌婦がいる店のほうが限られている。女と遊ぶ金のない男や、男が好きな男が男娼と遊ぶんだ」
「…………ひょっとして男娼も、さらわれて売られた人とかいますか? 今の私みたいに」
「子供だと多いね。きれいな顔の子はさらわれたり、親に売られたり。大人だと腕力で抵抗もできるけど、ヤクザに借金を作ったりすると、やっぱり連れていかれるね」
「…………」
透子の脳裏に、並外れて美麗な面影が一つ浮かぶ。
(紅霞さん…………本当にあの人は、この世界で生きるのが大変な人だなぁ…………)
ため息をつく。
なにを勘違いしたか、老女は励ますように笑った。
「まあ、アンタはまだ若いし、肌も髪もきれいで見目も悪くない。ちょっとぼんやりしているが、抜け目ない女を嫌う男は多いから、にぶいくらいでちょうどいいだろう。あとは習い事を身につけて愛想よくしていれば、そこそこ稼げるだろうから、せいぜい良い店に引きとられるよう、にこにこしているんだね」
褒めたのか、けなしたのか。
ある扉の前に来ると、老女は手をふって廊下の反対側へと去って行った。
透子は男にうながされて扉の中に入る。
オークション会場か、と身構えたが、どうやら待合室のようだった。
殺風景なせまい部屋に、若い娘が二人。手持無沙汰な様子で座っている。
どちらも緊張と不安に青ざめ、これから起こる出来事を察している様子だった。
透子もどっと現実が迫ってくる。
手近な空いている腰かけに座って、天井を見あげた。
(管轄が違う、あるいは神が関与する分野ではないのかもしれませんが…………目の当たりにすると、やっぱりちょっと恨むというか、文句も言いたくなりますよ。仮にも神を名乗るなら、どうしてもっと優しい世界に作ってくれないんですか、すずさん。《世界樹》の女神様)
膝に置いた手に力がこもる。
透子は叫びたい思いだった。今すぐふりきって走り出したい。
(まさか、自分が人身売買のオークションにかけられる日が来るなんて…………)
BL大好物の友人が貸してくれたBL漫画では何度か見たシチュエーションだが、自分が経験する時がくるとは考えたこともなかった。
(涼美ちゃんなら、この状況も「受けの気持ちを味う貴重な経験!」って喜びそう…………)
あえて馬鹿馬鹿しい想像をして、平静をたもつ努力をする。パニックになったら負けだ。
「こんなもんかね。いいじゃないか、ずいぶん見栄えがよくなった」
すぐ背後から声がかけられる。
透子も視線をあげ、目の前の大きな鏡を見た。
たしかに『ずいぶんよくなって』いる。
鏡に映るのは、正真正銘の女性。
それも簪を挿して紅もひいた、こちら風の若い女性。
むろん、透子だ。
着ていた男装を脱がされ、女物の衣装を着せられて女性らしい髪型に直されたのである。
(あらためて見ると、あまり違和感ない。意外…………)
癖のある髪質には「髪はまっすぐなのが最高なんだけどね」と文句を言われたが、着付けと化粧を一人でこなした背後の老女が何度も髪油で梳いたため、一時的に直毛に見えるようになっており、印象も変わっている。
中華系ファンタジーで見かける漢服に似た薄紫色の衣装も肌の色になじんでいるし、少々派手に見えた大きめの花飾りも、実際に挿すとちょうどいいポイントとなって、髪の色にも髪型にも合っている。
(コスプレ感がないというか…………しっくりきている。どう違うんだろう?)
「センスがいいんですね」
つい透子がそう言うと、背後の老女は化粧道具を箱にしまいながら鼻を鳴らした。
「これで五十年間、食ってきたんだ。悪いはずがないだろう」
透子はやや驚いた。
「五十年ですか? 若い頃から、ずっとこのお仕事を?」
「若い頃は別の仕事だよ。娼妓として働いていたさ。これでも『若竹亭の黒珠姫』といえば『贈られた恋文で一晩暖をとれる』っていう、人気の娼妓だった」
「娼妓」
「十歳で親に売られて、この街に来て。十四から店に出るようになって、三十九まで二十五年間、客の相手をしてきた。それから裏方にまわって、今年めでたく六十の大台だよ」
「つまり、十歳からお化粧を」
六十歳というわりには老けて見えるが、このあたりは生活環境や食事事情、それらによる栄養状態の影響が大きいのかもしれない。日本だって、半世紀前は五十歳で老人扱いだったと聞いたことがあるし。
「客の相手はしなくても、給仕なんかは子供らの役目だからね。客の前に出るからには、身なりは整えるもんだ」
「なるほど」
透子はあえて淡々とした反応をかえす。
本当は言いたいことはたくさんある。親が十歳の子供を花街に売るとか、十四歳で店に出して接客させるとか、現代日本の感覚で言えば、れっきとした児童虐待だ。
が、それをここで、この老女相手に叫んでも誰かが救われるわけでも助かるわけでもなく、今の透子は自分自身にこそ危険が迫っている状態だ。
(安易に「かわいそう」と言うのも、逆に怒らせたり傷つけたりする可能性もあるし。難しい)
老女自身は憐れみや同情を求めていないかもしれないのに、透子の基準で勝手に「かわいそう」と決めつければ、相手にとっては不快にしかならないだろう。
(なんだかな)と思った。
(一応これでも、条件付きで女神様から強い力はもらっているのに。私って全然、一般的な異世界転移チート主人公っぽくないんだ)
一般的な異世界転移の話なら、転移して大きな力をもらったあとは、その力を使って(本人としては消極的なつもりでも)世界を守ったり変革したりするものではなかろうか。
それこそ花街だの人身売買だのに遭遇したら、それをぶっ壊して不幸な人達を解放して助けてあげるのも、一つの定番だろうに。
(でも私にはそこまでの力はない)
透子に与えられたのは、あくまで《仮枝》を務める間だけの《守護者》だけ。
それも今は《朱雀》の力を宿している紅霞一人。
突き詰めれば、この力は《種》を守るためだけのものであって、世界を変えるためのものではないのだ。
(私、なんのためにこの世界にいるんだろう)
透子ははじめて疑問に感じた。
むろん、第一の理由は『延命』だ。
事故死した透子が生きて帰らねば、三億円を母や甥に渡すことができず、二人の病気を治すことができない。
だがそれとは別に、透子は違う理由が欲しかった。
この世界にいてほしいと、いていいのだと思える理由。世界から求められるなにか。
それがあれば、透子ももっとすんなり前向きな気持ちで「この世界に残る」と言うことができる。
だが現実にそのような理由はない。
《仮枝》の役目が終われば、この世界は透子を必要としない。
彼女がいてもいなくても、この世界は変わらず在りつづけ、変化しつづけるだろう。
透子はこの世界になんの変化も価値ももたらさない。
でもそれは、地球にいた時も同じではないか?
地球にいても、透子はあの世界になんの変化も価値ももたらさない。
透子がいてもいなくても、地球は変わらず在りつづけ、毎日毎日回転をつづける。
それでも地球で、日本で、透子が不要な存在とならなかったのは。
(家族が…………友達とか大事な人達がいて、その人達が私を必要としてくれていたから。地球が私を必要としなくても、家族や友人は私を必要としてくれて、私もみんなが大切だった。だからあそこにいた。――――人の存在理由って、そういうことかもしれない。世界に必要とされようとされなくとも――――いえ、世界が必要としないからこそ、自分の手で自分のいたい場所をつかまえなければ、きっとすぐに離れてしまって、二度とつかめない)
透子は己の手を見た。
(私は――――今、私がいたい世界は――――)
「用意できたかい」
別の声が割り込んできて、透子は物思いを覚まされる。
髪をきっちりまとめた、いかにも『女将』『女帝』という雰囲気の厳めしい風貌の女が入ってきて、透子を頭の上から爪先まで眺めまわす。
化粧係の老女が「これ」と透子の肩を叩き、立つよう手で合図した。
透子が立ちあがると「ふむ」と女将はうなずいた。
「悪くないね。肉付きはふっくらしているし、指もきれいで、髪にも肌にも艶がある。これなら良家のお嬢様で売れる。やはり下町の貧乏人より、いいとこのお嬢様のほうが客の食いつきが違うからねぇ」
「…………」
(人を、品評会の犬か牛のように…………あと、そんなに太ってませんよ! 平均です!!)
透子はおとなしく両手を重ねて怒りをこらえ、一方で強くなっていく不安や焦りも堪える。
(紅霞さん…………)
「いいだろう、連れてお行き」
女将が指示した。入口で待機していた男が透子に歩み寄る。
腕をつかまれそうになり、反射的に身をよじって抵抗すると、小さな光が鋭く目の前をよぎった。白いクリオネのようなこの光には、覚えがある。
「おとなしくおし。《四気神》のいない《無印》なんて、女はむろん、男の腕力にだって敵わないんだからね」
女将の指先で白い光が一つ、くるくる回っている。
透子はちょっと意外だった。
「あなたは《無印》ではないんですか?」
なんとなく「花街にいる女性は全員《無印》」と思っていたのだが。
女将は鼻を鳴らす。
「あたしは、ちゃんと《世界樹》の祝福をうけて四体の《四気神》を授かった女だよ。あんた達《無印》みたいな、生まれながらの罪人とは違う。あたしの《四気神》はあたしの守護だけでなく、多少の攻撃もできる。つまらない真似をするなら、遠慮なく差し向けるよ」
女将は右手を挙げて《印》の浮かぶ甲を見せつける。赤く塗られた長い爪の先に、白いクリオネが蝶のようにとまる。
透子は腑に落ちなかった。
「《四気神》がいるなら、どうして花街にいるんです? 売られたりしたわけではないんでしょう?」
「もちろん、自分の意志だよ。あたしの母親の店をそのまま継いだんだ」
なるほど、そういうケースもあるのか。
「つまり、お母様も同じ商売を。こういうお店って、世襲なんですか?」
「親から継ぐ時もあれば、外から優秀なやつを養子に迎える時もある。わかったんなら、さっさとお行き。逃げようなんて無駄なことは考えるんじゃないよ」
女将は「しっしっ」と言う風に手をふって、男に合図する。
透子も今度は逆らわず、腕をつかまれる前に歩き出した。
部屋を出ると、化粧係の老女が呆れたように口を開く。
「抵抗する娘は珍しくないが、あんなことを訊く娘は初めてだよ。おかしな娘だね」
まさか「別の世界から来たので、こちらのものはなんでも珍しいんです」とは答えられない。
「外の世界をよく知らないので…………」
そうごまかした。
老女も「ふん」と鼻を鳴らして怪しんだ様子はない。
「その年齢まで親元にいられたなら、充分だよ。これからはこの街がアンタの故郷。このあと買われる店が、アンタの家だ。そう思って働くんだね。なに、良い店に買われれば、いい暮らしもできるさ」
「娼妓なのに?」
「娼妓だからじゃないか。花街でも数えるほどしか存在しない、女の娼妓だ。さてはアンタ、女の娼妓の価値を知らないね?」
「ええ、まったく。花街なのに、娼妓が少ないんですか?」
「《無印》の娼妓は別格だよ。男の娼妓は履いて捨てるほどいるし、《四気神》付きの酌婦もそれなりの数いるが、《無印》の娼妓はそうそういない。《無印》自体の数が少ないうえ、多くは母親や姉妹のもとで暮らすから、花街にいるのは親に売られるか、アンタのようにさらわれて来た女ばかりだ」
つまり非常に限られたケース、ということか。
「だが、そのぶん値段は高い。世の中、女と遊びたいのに女と関わる機会のない男は、わんさかいるからね。《無印》の娼妓が一人店に入れば、その店は十年もつと言われるほどだ」
「なるほど。需要が山ほどあるのに、供給が圧倒的に足りていない、ということですね?」
「そういうことだね」
透子は納得した。
この世界は男女比が八対一。女性は四人の夫を持つことが義務付けられているが、それでも計算上、四人の男性が余る。それこそ女性と結婚したり愛し合ったりしたくても、一生縁がないまま死んでいくような男も少なくないはずだ。
紅霞も「女給や酌婦は儲かる」と言っていた。料金を払いさえすれば相手してもらえる商売女は、こちらの男性には貴重な存在なのだ。
さらに透子は裏の事情も推測する。
《四気神》に守護される女性が自ら就く女給や酌婦は、手軽に高給を得て、かつセクハラの心配もない、よい仕事だろう。
けれど《無印》にはその守護がない。
客側からすれば、セクハラもそれ以上もやりたい放題だ(むろん、店側の指定する金額を払ったうえで、だが)。
料金を払ってもセクハラは許されない《四気神》付きの女性と、料金を払えばセクハラも買春も可能な《無印》の女性。
たしかに、女給や酌婦以上に需要のある存在に違いなかった。
(紅霞さん…………)
透子は長い袖をぎゅっとにぎる。
紅霞に会いたいだけではない。
(もし、本当にそんなことになったら…………親に顔向けできなさすぎるってものですよ、わかっているんですか? すずさんっ!?)
込みあげてくる不安や焦りに懸命に耐えつづける。
気をまぎらわせるため、透子は質問をつづけた。
「つまり《無印》の娼妓という時点で、ある程度の地位というか、金額が約束されている、と考えていいんですか?」
「そういうことだね。あとは客あしらいだの容姿だの教養だので、差が出る」
「教養」
「《無印》の娼妓は数が少ない分、遊ぶにも金がかかる。金がかかるということは、金を持っている客しか遊べない。つまり、豪商とか高位の官吏達だ。地方から来た豪農の場合もある。そういう客を相手にするなら、それなりの知識や教養がないと駄目だ。読み書きができないと恋文を書けないし、歌舞音曲くらいはできないと、飽きられるのも早い。詩とか文学に通じていると会話が長くつづくし、歴史とか政治的な話も、できるにこしたことはない。まあ、そのへんはこれからアンタを買う主人の采配次第だ、アンタが心配することじゃない。アンタは言われたとおりに、真面目に習えばいいのさ」
老婆の説明を聞きながら、透子は頭を回転させた。
(つまり、昔の日本でいう花魁みたいな地位? あれも遊女の中では最高位で、教養のない女性はなれなかった、っていうし。…………花魁もののBL漫画を描いていた時の涼美ちゃんから聞いた話を、こういうところで思い出すとは…………)
「じゃあ《四気神》のいる酌婦や女給より、《無印》の娼妓のほうが料金は高いんですね?」
「花代だね。文字どおり『桁違い』だよ。酌婦や女給は花街以外の食堂や喫茶店でも働いているが、《無印》の娼妓は、花街の中でも一部の高級店にしかいない。当然、額が違う」
「娼妓は全員《無印》ですか? 《四気神》を持つ女性が娼妓になることは、ないんですか?」
まあでもキャバ嬢程度ならともかく、買春となると…………と思ったら、違った。
「そこそこいるよ。花街で働いていると、なんだかんだで娼妓を見る機会が多くなるからね。高級品で飾る娼妓を見て『自分も』って思う女は少なくない。《四気神》がいて安全も保証されているから『娼妓になって、もっと稼ぎたい』って自分から志願するんだ」
これも透子は納得した。
日本でもよく聞くコースだ。最初は普通のパパ活で満足していたのが、もの足りなくなってキャバ嬢へ、それ以上へ、というパターンである。
こういう話を聞くと、良くも悪くも(こっちの人も同じだな)と親近感を覚える。
「とはいえ《無印》の娼妓と違って、《四気神》がいる娼妓は強気というか、客を選ぶからね。それで客が離れたり、《無印》の娼妓に横取りされたり、客や店ともめてクビになるのも、まあまあ聞く話だよ。だから《四気神》がいて人気が出る娼妓は、そうとうなやり手だね。文字どおり、客の心をつかんで離さない力があるんだ」
「へえ」と透子は興味深く聞き入った。
「とにかく、そういうわけで《無印》の娼妓は恵まれているんだ。男娼なんて大変だよ。代わりはいくらでもいるうえ、《四気神》の守護もないからね」
「男娼…………男性の娼妓もいるんですか?」
「花街の娼妓の大半は男娼だよ。娼妓や酌婦がいる店のほうが限られている。女と遊ぶ金のない男や、男が好きな男が男娼と遊ぶんだ」
「…………ひょっとして男娼も、さらわれて売られた人とかいますか? 今の私みたいに」
「子供だと多いね。きれいな顔の子はさらわれたり、親に売られたり。大人だと腕力で抵抗もできるけど、ヤクザに借金を作ったりすると、やっぱり連れていかれるね」
「…………」
透子の脳裏に、並外れて美麗な面影が一つ浮かぶ。
(紅霞さん…………本当にあの人は、この世界で生きるのが大変な人だなぁ…………)
ため息をつく。
なにを勘違いしたか、老女は励ますように笑った。
「まあ、アンタはまだ若いし、肌も髪もきれいで見目も悪くない。ちょっとぼんやりしているが、抜け目ない女を嫌う男は多いから、にぶいくらいでちょうどいいだろう。あとは習い事を身につけて愛想よくしていれば、そこそこ稼げるだろうから、せいぜい良い店に引きとられるよう、にこにこしているんだね」
褒めたのか、けなしたのか。
ある扉の前に来ると、老女は手をふって廊下の反対側へと去って行った。
透子は男にうながされて扉の中に入る。
オークション会場か、と身構えたが、どうやら待合室のようだった。
殺風景なせまい部屋に、若い娘が二人。手持無沙汰な様子で座っている。
どちらも緊張と不安に青ざめ、これから起こる出来事を察している様子だった。
透子もどっと現実が迫ってくる。
手近な空いている腰かけに座って、天井を見あげた。
(管轄が違う、あるいは神が関与する分野ではないのかもしれませんが…………目の当たりにすると、やっぱりちょっと恨むというか、文句も言いたくなりますよ。仮にも神を名乗るなら、どうしてもっと優しい世界に作ってくれないんですか、すずさん。《世界樹》の女神様)
膝に置いた手に力がこもる。
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