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「…………流されてしまった!」

 透子は寝台に突っ伏し、頭を抱えた。今頃、羞恥が襲ってくる。
 紅霞に「試してみるか」と言われ、明確に「イエス」とも「ノー」とも答えぬまま、彼を受け容れようとしてしまった。

「なんて軽率…………っ」

 あそこで「試してみよう」と言い出す紅霞も紅霞だが、のってしまった自分も大概だと思う。

「そんな、気軽にしていいことじゃないでしょう…………!」

 このへん、透子の考え方は古風というか、紅霞の言葉を借りれば『堅苦しい』。少なくとも「あら、いい男」で「一晩くらいならいいかな」となるタイプではない。
 姉の凜子から「言質はきっちりとりなさい」と、くりかえし教育を受けてきたこともあり、雰囲気に流されてなし崩し的に…………というのは、縁遠い性格――――と、自分でも思っていたのだが。

(邪魔が入ったから中断したけれど…………でなければ、どうなっていたか…………っ)

 廊下では多少音量が落ちたものの、まだ言い争っている声が聞こえてくる。
 でもなあ、と前言を否定する考えも浮かんだ。

「体は二十歳でも、中身は三十歳だし…………毎回『結婚前提でなければ一線を越えません』って、限定する必要ある…………? お互いに合意があるなら、一晩くらいは問題ないのでは? たとえ遊びでも『遊び』と合意しているなら…………いえ、遊びとはちょっと違ったけど…………少なくとも独身同士なら…………あ、でも紅霞さんはともかく、私は法律上は既婚…………いや、でも夫には捨てられていて離婚届けを出す寸前で…………なのに、こちらだけ貞操を守る必要なんて…………いやでも、それを認めたら『離婚はまだだけど、夫婦仲は冷めきっていたので、不倫や不貞にはあたりませーん』っていう女性と同類では…………? もしもの時は、そんな言い訳せずに離婚が成立するまでは待つ、と決めていたのに…………」

 長々とぶつぶつ呟く。
「ああああ」と、寝台の上でじたばたしはじめた透子に、枕元の見た目小鳥が呆れたように、もしくはどうでも良さそうに羽根づくろいしながら、言ってきた。

『そう気に病む問題でもあるまい。種の存続は生物にとっての最重要課題。子作りはその課題唯一の解決策であり、性欲はそのために本能に植えつけられた、根源的な欲求だ。それはこの世界でも、お前が生きていた世界でも、大差ない』

「理論上はそうかもしれませんが、それをそのまま認めてしまったら、『浮気は生物の本能だからしかたない』という話になるんですよ!!」

『実際、そういう話だ』

「それがすべてと認めてしまうと、倫理観とかが崩壊してしまいます! 人間は本能だけで生きているわけじゃないんです。すずさんだって世界を司る女神なら、そういうことも理解しているんじゃないですか!?」

 このへん、結婚式の最中に新郎に別の女と逃げられた経験のある新婦としては、素直にうなずくことのできない部分だ。
 あの傷、あの苦しみを「生物の本能だからしかたない」の一言で済まされては、たまったものではない。

『理解しているから言っているのだが?』

 女神の電話は言った。

『夫婦間の肉体上の相性は、結婚生活を好調かつ安定的に維持するための、重要かつ根深い要素の一つ。あらかじめ相性を確認しておくのは、将来の夫婦関係の破たんを防ぎ、効率よく失点の少ない幸福な人生を送るという点では、効果的な選択だ』

「愛らしい小鳥の姿で、なんてことを提案するんですか!!」

 透子は思わず寝台を叩いたが、女神の電話は平然としたものだ。淡々と持論を述べていく。

『本能という観点を無視して、現在のこの世界における人間社会の風習、価値観などの観点から分析しても、性交渉を積極的かつ円滑に進められるか否かは、夫婦間の重要な問題だ。子作りという課題があるからな。こちらの世界では不妊は離縁の原因や根拠足り得るが、お前のいた地球では異なるのか?』

「それは、原因足り得えますけれど、でも」

『子供が望めないので離縁する、というのは、こちらでもよくある話だ。男の場合は、妻と他の夫との間に生まれた子を養子にして跡取りに、という手もあるが、女側の不妊の場合、離縁を選ぶ男は少なくない。紅霞もお前も生殖能力には問題ないが、にも関わらず子供が産めないという状況は、長期的に見て、お前にとって耐えうる状況か?』

「…………っ」

 透子は言葉を失った。
 たしかに子供の有無は重要な問題だ。
 日本でも不妊治療に大金を費やしたり、子供ができないことをきっかけに離婚に至ったり、逆に子供を望んで結婚に至ることもある。
 透子だって「結婚したら、いずれは子供が欲しい」と望んでいた。むしろ「いずれ子供ができるだろう」と、なんとなく当たり前のようにすら想像していた。
 ここに残る道を選んでも、紅霞とでは、その未来は叶わない可能性もあるのだ。
 だとすれば、将来、ここに残ったことを後悔する日も来るのかもしれない。

「…………」

 透子は押し黙ってしまった。
 紅霞とは一緒にいたい。
 でも彼の性的嗜好上、透子とこれ以上、深い関係になることは難しかったら?
『子供のいない夫婦』どころか、本当に一生『親友止まり』でやっていく覚悟が、自分にはあるだろうか。

『まあ、不妊の原因が男側だけのものなら、子作りは別のに任せる方法もある』

 なにしろ一妻多夫の世界だ。
 好きな夫と、子供を産むための夫。双方の役割をわけることも、一つの手段だろう。
 しかし。

「それはちょっと…………どうでしょう?」

 透子はうなった。
『複数の男性と同時に結婚生活を送る』という選択肢は、透子のこれまでの人生にはなかった発想だ。

「なんというか…………好きな人と結婚して、好きな人の子供を産む。それが当然と考えてきた気がします。――――そうですね、私は漠然とですが、そういう前提で生きてきたと思います。好きな人とでは子供ができないので、別の人と…………というのは、実際にそういう人もいるはずですが…………自分に置き換えては、あまり考えてこなかった仮定です。今ふりかえると、浅慮ですよね。私だって確実に子供に恵まれるとは限らないのに。なんとなく『結婚すれば自動的に授かるもの』と思い込んでいました」

 仮にあのまま何事もなく結婚して、どちらかの不妊が判明していたら。
 きっと、どちらも大きな衝撃をうけ、動揺していたことだろう。
 だって、真剣に考えたことがなかったのだから。
 でも今ふりかえると、ちゃんと考えておくべき事柄だったと思う。
 そういう可能性もあると、頭の隅にひかえておくだけでも、今がもう少し違ったはずだ。
 透子はため息をつく。

『まあ、今回は性的嗜好の問題だ。機能上の問題はないのだから、男側の嗜好を弄って済ませる選択もある』

「? どういうことですか?」

『わかりやすく表現すれば、同性愛者を異性愛者に変える』

「え?」

「はあ!?」

 透子が思わず顔をあげるのと同時に、衝立の向こうから驚愕の声が聞こえた。

「…………紅霞さん?」

「…………悪い。話に集中しているみたいで、口をはさめなかった」

「…………っ」

 透子の顔に血がのぼる。
 廊下に怒鳴りに出て、いつの間にか部屋に戻っていたことに気づかなかった。

「どうして教えてくれないんですか、すずさん、気づいていたんでしょう!?」

『どちらも考えねばならんことだろう』

 小鳥をなじれば、女神のお電話様はしれっと答えて悪びれもしない。
 紅霞が小鳥へと屈みこんだ。

「なあ。今、すずさんが言った『同性愛者を異性愛者に変える』ってのは…………」

『言葉どおりの意味だ。お前は機能上は生殖能力に問題はないのだから、性的な欲求を同性ではなく異性に向けるように変更すれば、問題なく孕ませられる可能性が高い』

「はら…………っ」

 透子は真っ赤になる。

「つまり、透子相手にもその気になるってことか?」

『水瀬透子はむろん、他の女相手にも性的興奮を覚えるようになる』

「えっ! 駄目です!!」

 とっさに言葉が口を飛び出し、透子は一人と一羽の視線を受けて慌てて口をつむぐ。

『性的嗜好を変えるとは、そういうことだ。まあ、お前は性欲の対象となる相手――――許容範囲がせまいというか限定的だが、女を受け容れられるように変化すれば、時には妻以外の相手にそういう欲求を覚えることもあるだろう。本能とはそういうものだ』

「簡単に言ってくれるな」

がいた頃も、夫以外の男に興味がまったくわかなかったわけではあるまい』

「いや、俺は翠柳しか興味なかったぞ?」

 紅霞は断固否定する。

「とにかく、翠柳に対するような気持ちを、透子にも感じるようになるってことだな?」

『そうだ』

 スズメは厳粛に宣言する。

『であれば、問題は一つ片付くだろう。少なくとも、子供をもてない可能性を理由に離れる必要はなくなる』

「すずさん…………ひょっとして、応援してくれているんですか?」

『まだあと一年と四ヶ月少しは《仮枝》なのでな。失恋を苦に「ニホンに帰りたい」と泣き出されても困る』

「そういうことですか」

 透子が肩透かしをくらうと、紅霞はなにやら真剣な顔つきで視線をさ迷わせている。すずさんの提案を考慮しているのだろう。
 その美麗な横顔を見つめながら、透子も考えた。
 たしかに紅霞が女性を愛せるようになれば、透子とこの先も一緒にいられる理由は増える。少なくとも、子供や夫婦生活の件で悩む必要は少なくなる。
 が。

「…………やっぱり、やめましょう」

 透子は言った。

「なんでだ?」

「その、私としては、嬉しい変化ではあるんですが…………でも、そうなったら翠柳さんのことは、どうなるのかと」

紅霞は虚を突かれる。
 
「女性を愛せるようになったら、今度は男性である翠柳さんへの気持ちが変化するのでは、と。それはそれで別件なのかもしれませんけど、でも翠柳さんが好きだからこそ紅霞さん、という気もして…………紅霞さんの嗜好を変えるのは、私の都合でそこを動かすようで、心苦しいというか…………それは違うと思うんです。だから、やめたほうがいい気がします」

「透子」

「いえあの、紅霞さんが普通に女性を愛せるようになったら…………きっと他の女性が放っておかないだろうな、と、そういう心配もあるのも事実なんですが…………」

 透子はごにょごにょ言ってうつむく。
 現実問題、紅霞のような若い美形が普通に女性を相手にできるなら、妻や恋人は浮気の心配が絶えないだろう。
 透子は恥じらいで顔をあげられない。
 透子からのたしかな想いに紅霞もほんのり頬を染め、ほんわかあたたかい気持ちで視線を天井にさ迷わせる。

『逆に、水瀬透子の肉体の性別を変更する選択肢もある』

「えっ!?」

『仮にも女神なのでな。その程度は可能だ』

「つまり…………私の体が男性に、ということですよね?」

「ちゅん」とスズメがうなずく。
 透子は戸惑う。

(戸籍とか書類上の話じゃなくて、肉体そのものが男性になる、ということよね? そうなったら…………どうなるの?)

 すぐには想像もつかない。
 が、視線をあげて気づいた。

「紅霞さん…………なにを考えてるんですか?」

「え」

「まさかと思いますが…………『ちょっといいかも』なんて思ったりしていませんか!?」

「いや、おかしな意味じゃない。ただ透子は身長とか体格が翠柳に似てるから、男になったら俺好みになるかな、と…………」

「…………っ!!」

 紅霞の顔に透子の枕が飛んできて、会話が終わる。
 紅霞は衝立の向こうから謝罪したが、透子はそのまま自分の寝台で、掛布団代わりの衣服をかぶってしまった。

「おーい、透子。悪かったって」

 呼びかける紅霞の声が虚しく響く。

「ちゅん」

 スズメが『あほくさ』という風に欠伸した。
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