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「いや、わかってる!!」
紅霞は大きな手を前に突き出し、言い訳するように言葉を並べていく。
「わかってんだ。透子は家に帰らなきゃならない理由があるし、親や姉にも会いたいんだろ? くじで当たった金だって、病気の母親に渡さないと困るし! わかってんだ!! その…………透子は男が好きな女で、男の俺からこういうことを言われるのは困る、ってことも!!」
「紅霞さん」
「けど、俺もいい加減な気持ちで言っているわけじゃない」
紅霞は片膝をついた。彼は平均よりも長身のため、屈んでようやく寝台に座る透子より視線が低くなる。
「俺は真剣に、透子と一緒にいたい。真剣に、透子に帰ってほしくないんだ」
大きな手が、万年筆のインクの染みが残る手をとる。
「俺の我が儘だってのは、よくわかってる。無理いって困らせてることも。俺はこれからも出世とは無縁だろうし、透子のように大金を稼ぐ才能もない。人に自慢できるのはこの顔くらいで、それだってあと何年かしたら劣化していく」
(言い方…………)と透子は内心で突っ込む。
「俺が透子に返せるものは、たぶんなにもない。透子は俺に金を貸してくれたり《朱雀》の力をくれたり、助言をくれたり、いろいろしてくれた。俺の毎日がまた明るくなったのは、間違いなく、透子のおかげだ。なのに、なにも返せない。たぶんそれは、これからもたいして変わらない」
「紅霞さん、そんな」
「けど!」
紅霞は力を込めた。真正面からこちらを見る二つの瞳に、見間違えようのない熱が宿る。
「俺は絶対、透子を守ると約束する。《四姫神》だろうと国王だろうと、誰にも傷つけさせない。毎日楽しく過ごして、寂しい思いもさせない。誓う。だから…………だから、ここに残ってくれないか」
「…………っ」
「ここにいてくれ、透子。帰るな。俺は…………俺は透子のこと、家族みたいに大切な存在だと思っている。透子の望む言葉じゃないだろうが、俺は翠柳以来、久しぶりに家族と思える誰かに出会えた。俺はこの先もずっと、透子と一緒にいたい。夕蓮にいた時のように、透子と暮らしつづけていきたいんだ――――」
「紅霞さん…………」
透子の手を包んで己の額にあてた紅霞は、まさに『懇願』という風情だった。
透子は激しく動揺する。
この時の気持ちを一言で言い表すのは難しい。
自分も惹かれていた相手にここまで言ってもらえた、求めてもらえた、という気持ちと。
ここまできて、やはり家族どまりなのか、という肩透かし感と。
途方に暮れる。
どう返すのが正解なのだろう。
にぎられた手から熱い体温が伝わり、それが透子の腕、肩、首とのぼってきて、透子の顔の熱といっしょくたに混じる。
「…………駄目か?」
「駄目というか、あの、その」
透子は頭の中がごちゃごちゃになる。(体は二十歳でも中身は三十歳なんだから、相応に落ち着いた冷静な対応をしないと)と心がけていたことも吹き飛ぶ。
正直にいえば、嬉しい。
忘れられぬ存在がいると言われても、同性が好きだと言われても、けっきょく透子は紅霞に惹かれている。有り体に言って、好きだ。
好きな相手から「ずっと一緒にいてほしい」と言われて、嬉しくないはずがない。
でも透子にはここにいられない、戻らなければならない事情がある。
透子が生きて戻らねば、透子が得た当選金三億円を遺産という形で、透子を捨てた夫が相続し、母や甥っ子の治療費にあてられなくなる。
それに。
「…………やっぱり嫌か?」
「嫌ではないです!」
透子は反射的に答えていた。
「嫌ではなくて、その…………」
透子は必死でうまい言い訳をさがすが、頭は空回りするばかりで、ちっとも働かない。
「嬉しいといえば、嬉しい…………というか、すごく嬉しいし、光栄だと思うんですけれど…………」
透子の手をにぎる大きな手に力がいっそうこもり、紅霞が身を乗り出す。
(そんな期待のまなざしで見ないでください…………!)
ただでさえ美麗な顔が、すぐ下からまっすぐ見あげてくる。
「でも私、紅霞さんにいろいろ要求してしまうと思うんです!」
「? なにが欲しいんだ? 俺は透子から山ほどもらった。少しでも返せるなら、そうしたい」
「その、そうではなくて…………」
「なくて?」
(ああもう、どうにでもなれ!!)
「その、紅霞さんは男の人が好きな方でしょう!?」
「…………っ」
紅霞の動きがとまる。
「やっぱり…………そこか?」
「そこ、というか、その」
透子は必死で口を動かした。
「男性を好きなのは、かまわないんです。それは紅霞さんの自由です。でも…………私も、紅霞さんのことを、恋愛として好きだから」
はっ、と紅霞が見つめてくるのがわかった。
恥ずかしさと罪悪感で首を括りたい。
「家族なら…………家族とだけ思えたなら、一緒にいられたかもしれません。今後、紅霞さんが新しい男性を好きになっても、家族として祝福して、家族として新しい家庭に送り出すこともできたかも。でも、私は恋愛としての『好き』ですから。紅霞さんに新しい恋人ができたら、嫉妬しないはずがないと思いますし」
「それは…………っ」
「なにより」
透子は、もうどうにでもなれ、とばかりに口に出した。
「私だって…………なにもないのは嫌なんですよ!」
「…………?」
紅霞がきょとんと首をかしげた。
(あああ、もおおお、そこから!?)
心の中で絶叫する。
「だから…………いろいろ求めてしまうんですよ! 今は、こうやって手をつなぐくらいは、けっこう日常的にやっていますけど! それ以上の…………キスとか、それ以上とか…………求めてしまうんです!!」
(し、死にたい…………っ)
「恥ずかしすぎて死ねる」とは、こういう心地か。
透子は身をもって思い知る。
紅霞も数秒置いて透子の言わんとすることを察し、「あ」と漏らした。
非常にきまずい、居心地悪い空気が流れる。息がつまる。
(死にたい…………)
なんで三十歳にもなって、こんな学生のような会話をしなければならないのか。もっとスマートなかわしかた、話の持っていき方はなかったのか。やはり言わなければ良かった、でも言わなければ伝わりそうになかった。
そんなぐるぐるする透子の思案を、紅霞が断ち切る。
「なら…………いっそ試してみるか?」
「は?」
「そのほうが早いよな。ちょっと試させてくれ」
「へっ!?」
紅霞は腰を浮かせた。そのまま透子の寝台の上、彼女の隣に座る。
「あ、あの、紅霞さん!?」
「『それ以上』ができるかできないか、試してみようぜ。――――試させてくれ。それで一つ、話が進むだろ? わかれば話も進めやすくなるんだ」
艶麗な顔が接近する。真剣だけれどいたずらっ子のような、魅力的な表情だ。
「紅霞さん…………!?」
思わず後退しかけた透子の肩を、紅霞の右手がつかんで引き寄せた。
「しっ」と、紅霞は左の長い人差し指を唇の前に立てる(こういうジェスチャーは日本と共通しているらしい)。
「外に聞こえる。安宿だから壁が薄いんだ」
それはもうとっくに知っています、と答える間もなかった。
透子は紅霞の両腕に抱擁される。
脳内に自分の悲鳴が響いた。顔を、体中を熱が駆け巡る。
「あ、あの、紅霞さん…………っ」
「…………嫌か?」
「嫌、とかではなく…………」
くらくらする頭の端で(どうしよう)と焦れば、ふっ、とタイミングよく、ろうそくの火が消える。
「ちゅん」と、ささやかな鳴き声が聞こえたところをみると、すずさんが吹き消したらしい。
(どうして、スズメがそんな気を遣うんですか!)
「透子」
紅霞の手が透子の背に回され、寝間着の上から肩や腕をなでていく。
「…………っ」
紅霞と密着したのは、これがはじめてではない。
ここ最近は真夜中が寒くて、何度も寝間着一枚で同じ寝台にもぐって寝ていた。
でも今感じる恥じらいや熱は異常だ。頭の中がどろりと溶けて、思考を放棄したくなる。
家のこともお金のことも、全部考えるのをやめてしまいそうだ。
「透子」
「透子、透子」と大好きな声が自分の名をくりかえし、呼ばれるごとに力が抜け、ただ目の前の胸にしがみついてすべてを預け、任せてしまいたいと、嵐のごとく思う。
(待って待って、いろいろ問題が…………)
家のこと、翠柳のこと、当選金のこと、治療のこと。様々な事柄を思い出して冷静さをとり戻そうと試みながら、悪魔がささやくように一つの考えが芽生える。
(一度くらいなら)
一度だけなら。日本に帰るまでなら、こういうこともありではないか?
どうせ帰るのなら、一度だけ。帰るくらいまでは。
だって一つくらいは、思い出がほしい。
一度くらいは、思い出としてあってもいいのではないか?
そもそも透子も紅霞も独身だ。
紅霞は伴侶を失くしているし、透子も戸籍上法律上は既婚だが、当の夫は結婚式中に他の女と逃げて、離婚届を送りつけてきた。事実上、婚姻生活は破たんしている。
であれば透子と紅霞が一線を越えたところで、文句を言われる筋合いはないはずである。ましてや、ここは誰も追ってこられぬ異なる世界。
透子はきゅ、と目をつぶった。力を抜き、抵抗を放棄する。
紅霞の唇が透子の名を呼びながら、額、頬、耳と触れてくる。
粗末な寝台にそっと横たえられた。
あまりの熱に気が遠くなる。
その時。
「てめぇ、どこ見てやがんだ!!」
「ああ!? ちょっとかすっただけだろうがぁ!! やんのか、テメェ!!」
「お客さん! 静かに!!」
ムードもなにもあったものではない野太い怒鳴り声が、薄い壁を透過して室内に届いた。
透子も紅霞も一気に現実に引き戻される。
「うるせぇ! コイツが因縁つけてきたんだ!!」
たぶん外で呑んで、そのまま宿に帰って来た酔客だろう。従業員が止めようとして、かえって怒声が大きくなっていく。
「…………場所をあらためましょうか」
「そうだな」
透子が提案すると紅霞もあっさり承諾し、透子の上から素直にどいて寝台を降りた。
そのまま自分の寝台に戻るのかと思いきや、紅霞は部屋を出て廊下の奥へと怒鳴りつける。
「うるせぇ!! 今、何時だと思ってやがんだ!!」
美麗な顔からチンピラのような罵声が飛び出してくる。
(そういうところが女性にモテない要因ですよ…………)
廊下に出て行く紅霞の背を見送りつつ、透子は上体を起こして乱れた寝間着を直した。
「ちゅん」
すずさんが透子の枕元に飛んできて丸くなる。
紅霞は大きな手を前に突き出し、言い訳するように言葉を並べていく。
「わかってんだ。透子は家に帰らなきゃならない理由があるし、親や姉にも会いたいんだろ? くじで当たった金だって、病気の母親に渡さないと困るし! わかってんだ!! その…………透子は男が好きな女で、男の俺からこういうことを言われるのは困る、ってことも!!」
「紅霞さん」
「けど、俺もいい加減な気持ちで言っているわけじゃない」
紅霞は片膝をついた。彼は平均よりも長身のため、屈んでようやく寝台に座る透子より視線が低くなる。
「俺は真剣に、透子と一緒にいたい。真剣に、透子に帰ってほしくないんだ」
大きな手が、万年筆のインクの染みが残る手をとる。
「俺の我が儘だってのは、よくわかってる。無理いって困らせてることも。俺はこれからも出世とは無縁だろうし、透子のように大金を稼ぐ才能もない。人に自慢できるのはこの顔くらいで、それだってあと何年かしたら劣化していく」
(言い方…………)と透子は内心で突っ込む。
「俺が透子に返せるものは、たぶんなにもない。透子は俺に金を貸してくれたり《朱雀》の力をくれたり、助言をくれたり、いろいろしてくれた。俺の毎日がまた明るくなったのは、間違いなく、透子のおかげだ。なのに、なにも返せない。たぶんそれは、これからもたいして変わらない」
「紅霞さん、そんな」
「けど!」
紅霞は力を込めた。真正面からこちらを見る二つの瞳に、見間違えようのない熱が宿る。
「俺は絶対、透子を守ると約束する。《四姫神》だろうと国王だろうと、誰にも傷つけさせない。毎日楽しく過ごして、寂しい思いもさせない。誓う。だから…………だから、ここに残ってくれないか」
「…………っ」
「ここにいてくれ、透子。帰るな。俺は…………俺は透子のこと、家族みたいに大切な存在だと思っている。透子の望む言葉じゃないだろうが、俺は翠柳以来、久しぶりに家族と思える誰かに出会えた。俺はこの先もずっと、透子と一緒にいたい。夕蓮にいた時のように、透子と暮らしつづけていきたいんだ――――」
「紅霞さん…………」
透子の手を包んで己の額にあてた紅霞は、まさに『懇願』という風情だった。
透子は激しく動揺する。
この時の気持ちを一言で言い表すのは難しい。
自分も惹かれていた相手にここまで言ってもらえた、求めてもらえた、という気持ちと。
ここまできて、やはり家族どまりなのか、という肩透かし感と。
途方に暮れる。
どう返すのが正解なのだろう。
にぎられた手から熱い体温が伝わり、それが透子の腕、肩、首とのぼってきて、透子の顔の熱といっしょくたに混じる。
「…………駄目か?」
「駄目というか、あの、その」
透子は頭の中がごちゃごちゃになる。(体は二十歳でも中身は三十歳なんだから、相応に落ち着いた冷静な対応をしないと)と心がけていたことも吹き飛ぶ。
正直にいえば、嬉しい。
忘れられぬ存在がいると言われても、同性が好きだと言われても、けっきょく透子は紅霞に惹かれている。有り体に言って、好きだ。
好きな相手から「ずっと一緒にいてほしい」と言われて、嬉しくないはずがない。
でも透子にはここにいられない、戻らなければならない事情がある。
透子が生きて戻らねば、透子が得た当選金三億円を遺産という形で、透子を捨てた夫が相続し、母や甥っ子の治療費にあてられなくなる。
それに。
「…………やっぱり嫌か?」
「嫌ではないです!」
透子は反射的に答えていた。
「嫌ではなくて、その…………」
透子は必死でうまい言い訳をさがすが、頭は空回りするばかりで、ちっとも働かない。
「嬉しいといえば、嬉しい…………というか、すごく嬉しいし、光栄だと思うんですけれど…………」
透子の手をにぎる大きな手に力がいっそうこもり、紅霞が身を乗り出す。
(そんな期待のまなざしで見ないでください…………!)
ただでさえ美麗な顔が、すぐ下からまっすぐ見あげてくる。
「でも私、紅霞さんにいろいろ要求してしまうと思うんです!」
「? なにが欲しいんだ? 俺は透子から山ほどもらった。少しでも返せるなら、そうしたい」
「その、そうではなくて…………」
「なくて?」
(ああもう、どうにでもなれ!!)
「その、紅霞さんは男の人が好きな方でしょう!?」
「…………っ」
紅霞の動きがとまる。
「やっぱり…………そこか?」
「そこ、というか、その」
透子は必死で口を動かした。
「男性を好きなのは、かまわないんです。それは紅霞さんの自由です。でも…………私も、紅霞さんのことを、恋愛として好きだから」
はっ、と紅霞が見つめてくるのがわかった。
恥ずかしさと罪悪感で首を括りたい。
「家族なら…………家族とだけ思えたなら、一緒にいられたかもしれません。今後、紅霞さんが新しい男性を好きになっても、家族として祝福して、家族として新しい家庭に送り出すこともできたかも。でも、私は恋愛としての『好き』ですから。紅霞さんに新しい恋人ができたら、嫉妬しないはずがないと思いますし」
「それは…………っ」
「なにより」
透子は、もうどうにでもなれ、とばかりに口に出した。
「私だって…………なにもないのは嫌なんですよ!」
「…………?」
紅霞がきょとんと首をかしげた。
(あああ、もおおお、そこから!?)
心の中で絶叫する。
「だから…………いろいろ求めてしまうんですよ! 今は、こうやって手をつなぐくらいは、けっこう日常的にやっていますけど! それ以上の…………キスとか、それ以上とか…………求めてしまうんです!!」
(し、死にたい…………っ)
「恥ずかしすぎて死ねる」とは、こういう心地か。
透子は身をもって思い知る。
紅霞も数秒置いて透子の言わんとすることを察し、「あ」と漏らした。
非常にきまずい、居心地悪い空気が流れる。息がつまる。
(死にたい…………)
なんで三十歳にもなって、こんな学生のような会話をしなければならないのか。もっとスマートなかわしかた、話の持っていき方はなかったのか。やはり言わなければ良かった、でも言わなければ伝わりそうになかった。
そんなぐるぐるする透子の思案を、紅霞が断ち切る。
「なら…………いっそ試してみるか?」
「は?」
「そのほうが早いよな。ちょっと試させてくれ」
「へっ!?」
紅霞は腰を浮かせた。そのまま透子の寝台の上、彼女の隣に座る。
「あ、あの、紅霞さん!?」
「『それ以上』ができるかできないか、試してみようぜ。――――試させてくれ。それで一つ、話が進むだろ? わかれば話も進めやすくなるんだ」
艶麗な顔が接近する。真剣だけれどいたずらっ子のような、魅力的な表情だ。
「紅霞さん…………!?」
思わず後退しかけた透子の肩を、紅霞の右手がつかんで引き寄せた。
「しっ」と、紅霞は左の長い人差し指を唇の前に立てる(こういうジェスチャーは日本と共通しているらしい)。
「外に聞こえる。安宿だから壁が薄いんだ」
それはもうとっくに知っています、と答える間もなかった。
透子は紅霞の両腕に抱擁される。
脳内に自分の悲鳴が響いた。顔を、体中を熱が駆け巡る。
「あ、あの、紅霞さん…………っ」
「…………嫌か?」
「嫌、とかではなく…………」
くらくらする頭の端で(どうしよう)と焦れば、ふっ、とタイミングよく、ろうそくの火が消える。
「ちゅん」と、ささやかな鳴き声が聞こえたところをみると、すずさんが吹き消したらしい。
(どうして、スズメがそんな気を遣うんですか!)
「透子」
紅霞の手が透子の背に回され、寝間着の上から肩や腕をなでていく。
「…………っ」
紅霞と密着したのは、これがはじめてではない。
ここ最近は真夜中が寒くて、何度も寝間着一枚で同じ寝台にもぐって寝ていた。
でも今感じる恥じらいや熱は異常だ。頭の中がどろりと溶けて、思考を放棄したくなる。
家のこともお金のことも、全部考えるのをやめてしまいそうだ。
「透子」
「透子、透子」と大好きな声が自分の名をくりかえし、呼ばれるごとに力が抜け、ただ目の前の胸にしがみついてすべてを預け、任せてしまいたいと、嵐のごとく思う。
(待って待って、いろいろ問題が…………)
家のこと、翠柳のこと、当選金のこと、治療のこと。様々な事柄を思い出して冷静さをとり戻そうと試みながら、悪魔がささやくように一つの考えが芽生える。
(一度くらいなら)
一度だけなら。日本に帰るまでなら、こういうこともありではないか?
どうせ帰るのなら、一度だけ。帰るくらいまでは。
だって一つくらいは、思い出がほしい。
一度くらいは、思い出としてあってもいいのではないか?
そもそも透子も紅霞も独身だ。
紅霞は伴侶を失くしているし、透子も戸籍上法律上は既婚だが、当の夫は結婚式中に他の女と逃げて、離婚届を送りつけてきた。事実上、婚姻生活は破たんしている。
であれば透子と紅霞が一線を越えたところで、文句を言われる筋合いはないはずである。ましてや、ここは誰も追ってこられぬ異なる世界。
透子はきゅ、と目をつぶった。力を抜き、抵抗を放棄する。
紅霞の唇が透子の名を呼びながら、額、頬、耳と触れてくる。
粗末な寝台にそっと横たえられた。
あまりの熱に気が遠くなる。
その時。
「てめぇ、どこ見てやがんだ!!」
「ああ!? ちょっとかすっただけだろうがぁ!! やんのか、テメェ!!」
「お客さん! 静かに!!」
ムードもなにもあったものではない野太い怒鳴り声が、薄い壁を透過して室内に届いた。
透子も紅霞も一気に現実に引き戻される。
「うるせぇ! コイツが因縁つけてきたんだ!!」
たぶん外で呑んで、そのまま宿に帰って来た酔客だろう。従業員が止めようとして、かえって怒声が大きくなっていく。
「…………場所をあらためましょうか」
「そうだな」
透子が提案すると紅霞もあっさり承諾し、透子の上から素直にどいて寝台を降りた。
そのまま自分の寝台に戻るのかと思いきや、紅霞は部屋を出て廊下の奥へと怒鳴りつける。
「うるせぇ!! 今、何時だと思ってやがんだ!!」
美麗な顔からチンピラのような罵声が飛び出してくる。
(そういうところが女性にモテない要因ですよ…………)
廊下に出て行く紅霞の背を見送りつつ、透子は上体を起こして乱れた寝間着を直した。
「ちゅん」
すずさんが透子の枕元に飛んできて丸くなる。
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