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「全然、解けない…………」
万年筆を置いて、透子はため息をついた。原稿用紙もひろげた様は、一見すると難問にお手上げの受験生だが、透子が言っているのは国境の封鎖の件である。
この街に来てから、五日目。
相変わらず封鎖は解ける気配もなく、役所には連日、国境を行き来する商人その他からの抗議が押し寄せ、日に日にその数が増えているとも聞く。
(もとをただせば、私が《四姫神》さんに目をつけられたせいで…………申し訳ない)
気が重くて筆も進まない。
(いやまあ、単純にスランプになってきているのも、事実なんだけど)
封鎖が解けず、観光名所もひととりまわり終えて時間が余った透子は、雲翔に紹介された喫茶店で執筆していた。宿だと部屋に机がなく、隣室や廊下の音も筒抜けで集中できないのだ。
灯りが提灯だったり竜の置き物が置かれていたり、水墨画っぽい絵が飾られていたりと、内装は中華風だが、日本だったら『レトロな雰囲気の喫茶店』と評される店ではないだろうか(この街の人から見れば、今時の店だろうが)。
雲翔から「物書きが集まる店」と聞いて、作家志望の男達があれこれ文学論に花を咲かせて、互いの作品を批評し合うようなにぎやかな雰囲気を想像していたのだが、実際には書き物に集中する一人客が大半で、鉛筆や万年筆のカリカリという音が響く以外は静かな空間だった。
(日本に帰るまで、あと一年半弱。それまでに書き溜めておきたいのに…………)
新作原稿は紅霞に託し、自分が帰ったあとも、それを出版社に売って生活の足しにしてほしいのだ。そのためには一作でも多く書いておくべきだと、頭では理解しているのに。
(ネタが切れはじめている…………っ)
(ああああ)と透子は頭を抱えた。
これまで透子は日本のネット小説を参考に、定番やお約束を多用した話を書きあげていた。
が、三作目ともなると、さすがにネタも枯渇してくる。
書こうにも(あのネタは使ったし、このお約束も前作とかぶるし)と詰まってしまうのだ。
「うーん…………」
「進んでいますか?」
けっこう真剣に追いつめられていると、さらに追いつめられるような台詞がふってきた。
「露月さん」
顔をあげると、いかにも育ちの良さそうな若者が立っている。
「こんにちは。露月さんは、今日のお仕事は終わりですか?」
「一休みです。息抜きしたくて、ちょっと出てきました」
露月はいつものにこやかな雰囲気で、透子の向かいの席に腰をおろす。
「と、いうのは口実で」と声をひそめた。
「実は…………どうしても会いたくて、来てしまったんです」
「え」
「ひょっとしたら、新作が読めるかな、と…………」
「そういうことですか」
一瞬どきっとしたが、事情がわかって透子は笑った。
「こちらが新作ですか?」
露月がテーブルにひろげられた書きかけの原稿用紙を見る。まなざしが興味津々だ。
「読んでくださって、かまいませんよ。といっても、読むほどの量はありませんけれど」
「いいんですか?」
「はい。正直、展開に詰まっているんです。読んで、なにか感想でも言ってください。『面白い』でも、『つまらない』でも」
詰まりすぎて、なかば投げやりな気持ちで透子は露月に原稿用紙を勧める。
「では、遠慮なく」と露月は珈琲っぽい飲み物を注文して、原稿用紙をめくりはじめた。透子も中国茶のお代わりを注文する。見渡すと他の席にもちらほら、同じように行き詰っていると思われる客がいて、透子はひっそり親近感を覚えた。
十分と待たずに、露月が数枚の紙を置く。
「導入は面白いと思いますが…………これは本当に『導入』ですね。工事現場の事故で意識を失った主人公が、目を覚ますと丘の上にいて。…………今回は、前作のように未来世界ではないんですか?」
「はい」と透子はうなずく。
「まず、親しみやすい、共感しやすい主人公ということで、よくいる『お金のない日雇い労働の青年』という設定にして。その先の『どんな世界に行ったか』で困っているんです」
「未来世界にしないんですか? 今、流行だし、前作もそうだったのに」
「少し迷っていまして。平たく言うと、前二作が未来世界だったので、今度は過去へ行く話を検討しているんです」
「過去ですか? 時代次第で面白くなりそうですが…………」
透子は声をひそめて身を乗り出す。
「実は、女体化に手を出そうかと思っているんです」
「ニョタイカ…………とは?」
「あ、そこからですか」
透子は説明をはじめる。ついつい周囲に視線を走らせてしまうのは、他の客達も書き物をしているため「万一、盗み聞きされてネタを持って行かれたら」という心配ゆえだ。
「簡単にいうと、男性を女性に変えることです」
「男性を女性に…………面白いですか? それは」
「もちろん、書き方次第です。普通の男性がある日突然、女性になってしまい、女性として生きていかざるを得なくなって、四苦八苦しながら女性の嗜みとかを身につけていく、という話もありますけれど。今、考えているのは偉人の女体化です」
「偉人が女性になる、という意味ですか?」
「誰もが知る偉人とか英雄を『実は女性だった~』という設定で話を進めていくんです」
現代日本ではゲームをはじめとして、だいぶん浸透した設定である。
「え。つまり『猛虎将軍』とか『乱世の救世公子』が女性だった、という話ですか? うーん…………面白いですかねえ…………?」
露月はひたすら首をかしげる。
「正直、筋骨たくましい髭面の壮年男性が女性だったとしても、あまり嬉しくないというか…………それなら、小柄な少年と思っていた相手が実は女性だった、という展開のほうが面白いと思います。実際、そういう話もありますし」
露月がちらりと透子を見るが、透子は話に集中している。
「男装とは別物です。だから、設定や書き方が重要なんです。たとえば…………えっと、目が覚めると昔の世界だった。ただし本当の昔の世界ではなく、よく似た別の世界で、そこではもとの世界では男性と伝わっていた偉人達が、若く美しい女性として生きているんです」
「ほう?」
「立身出世するにしても、男性の将軍とか王様に認められるより、きれいな女将軍や女王様に認められて出世するほうが、男性としては楽しくないですか? で、最終的にはその将軍様や女王様と結婚するかもしれません。もちろん、もともとのイメージもあるし、それを壊したくない人も多いでしょうから『似ているけれど別の世界』という設定が必要だし、名前も少し変えて『似て非なる別人』という部分を強調します」
「なるほど、そういう…………」
「過去っぽい世界ですから。原稿では『日雇いの青年』ではじめてしまったけれど、むしろ腕のいい医者とか大工のほうが、技術の進んでいない昔の世界では重宝されて、出世しやすいかもしれません。偉い人の目にもとまりやすいでしょうし。ただこの話だと、前提として歴史の勉強が必須なんですよね…………」
透子は肩をおとした。
露月がきょとんとする。
「歴史は苦手ですか? 意外です。小説を読んだ限りでは、幅広い知識がなければ書けないだろうと、よく勉強された方だと思っていたのですが」
「習ったけれど、卒業してだいぶん経つので、あちこち忘れました」
(小説のほうは『ス○ーウォ○ズ』とか、既存の世界観をベースにしていたからです…………私のオリジナルではないんです、すみません)
口と腹で別々の言い訳をしながら、透子は内省する。
こちらに来て一年半以上を過ごしたが、ふりかえれば歴史を学ぶ機会はほとんどなかった。
空いた時間に本や新聞を読んで過ごすことはあったが、家主である紅霞もそちら方面の興味は薄かったせいもあり、概要程度の知識すらないと、今回の話を思いついた時に気づいたのだ。
「誰もが知るような人気の英雄だと、周辺の歴史や人間関係にも詳しい人が多いですから。上手に創作を織り込まないと、面白がってもらえないんです。その点、無名の英雄は創作の余地は大きいですけど、そういう英雄や偉人を知っているほど歴史に詳しいか、というと…………」
「わかります」と露月はうなずく。
「『救世公子』や『紅蓮智将』とか『猛虎将軍』あたりは、有名なだけに扱っている作家も多いですからね。すでに『蒼紅大河』という大長編の傑作も出ていますし、あれを越えるのは並大抵のことではないと思います。それでなくとも、あのへんの時代は有名無名を問わず、多くの作品が出ていますし」
「そういうことです。たんに『若い美女だった』というだけでなく『こういう解釈や創作の仕方も有りか!』みたいな、驚かせる部分が必要だと思うんですよね」
『救世公子』だの『紅蓮智将』だの、こちらにも中二病的なネーミングセンスは存在するのだなあ、と妙な部分に感心しつつ、透子は話を合わせる。『蒼紅大河』も、露月の口調からして誰もが知る有名な作品だろうが「はじめて耳にした」とは口にしない。
それを告げて、これ以上身元を怪しまれる事態になることは避けなければならない。
「けっきょく、歴史の勉強が必要なことに変わりはないんですよ」
「まあでも、前作があんなに面白かったんですから。きっと今度も上手くいきますよ」
重いため息をつく透子を、露月が鼓舞する。
その励ましや信頼が、今の透子にはプレッシャーとなって肩にのしかかる。
「『蒼紅大河』はたしかに有名ですが、俺はむしろ『春の魁』とか『紅梅語り』あたりの時代が好きですね。『梅の兄、菊の弟』の通称で伝わる苞家兄弟とか…………」
「すみません、よく知らないです…………」
「ですよね。あまり知られていない話だと思います。『蒼紅大河』より五十年ほどあとの時代の話で…………」
それからしばらく、露月は声の大きさに注意しつつも、いくつかの逸話を披露してくれた。彼は歴史の知識が豊富なうえに語りも巧みで、透子もいつしか引き込まれる。
いかにも楽しげに語りあうその光景を、入り口で紅霞がむすっとした表情で見守っていた。
ちなみに肩には、喫茶店に入れなかったすずさんが乗っている。
「入らんのか?」
「今、邪魔だろ」
あからさまに不機嫌な応答に、雲翔は奇妙なものを見るような、納得しかねるような表情で、旧友の美麗な横顔をしげしげ見つめる。
「お前、あんだけ『女は嫌いだ』って言っておきながら、なにがどうなって、あの嬢…………坊ちゃんには、そこまで入れ込んどるんだ?」
「てめぇには関係ない」
「やっぱ、胸か? 大きそうだったもんなあ。やはり女子の胸はすべてを解決する…………」
雲翔の顔面に紅霞の拳が決まる。
「お客さん! 店で暴れないで!!」
入口に留まって入って来ない二人連れを邪魔に思っていた店員がすかさず声をあげ、他の客達が顔をあげ、透子と露月も紅霞と雲翔に気がつく。
「なにしているんですか、紅霞さん!」
透子はいそいで原稿用紙を集め、万年筆をしまう。
「よかったら明日にでも、歴史関係の本を持って来ます。読みやすくて面白いのが何冊か、家にあるので」
露月はそう早口で透子に提案すると、入り口にむかった。
「まったく、お前達は…………!」
紅霞と雲翔は露月に引っぱられて店の外に連れ出され「いい歳した男が二人そろって、みっともない」と、至極真っ当な小言をくらう。
「紅霞のやつが手を出して来たのに、なんで俺まで…………」
「どうせ、お前が要らん一言で紅霞をあおったんだろう」
子供のように拗ねる雲翔に、露月が鋭く切りかえす。
透子もさすがに注意せざるをえない。
「前々から言わせてもらっていますが。紅霞さんは、少し手が早すぎます。二十四歳でしょう? もう少し節制できませんか?」
我ながら母親か先生のようなお説教だと思ったが、肝心の生徒というか、大きな息子は形のよい唇をへの字に曲げてそっぽを向き、反省の欠片も見あたらない。
「…………紅霞さん」
「…………」
数十秒間、沈黙が流れ、透子の肩に戻ってきたすずさんが「ちゅん」と退屈そうに鳴いた。透子は「子供ですか」と、ため息をつく。
「あと一年半弱で帰国の予定なのに…………これじゃ、安心して帰れそうにないです。紅霞さん、私が帰ったあとも、いろんな人に喧嘩を売って暮らすんじゃないですか?」
「…………だったら、帰らなきゃいいだろ」
ぼそっとした呟きが透子の耳に届く。
「透子がずっと、こっちにいればいいんだ」
「紅霞さん」
紅霞はちらりと透子を見、困ったような表情を確認すると、再度そっぽを向いた。
「――――忘れろ」
そう言って透子の手をつかみ、露月と雲翔を「昼飯にしようぜ」と誘って歩き出す。
露月と雲翔の「あの店はどうだ」「この店はいい」と検討する声が、透子の耳を通り過ぎていく。
(今のは、どういう意味…………?)
気になるけれど気にしてはならないであろう、疑問。
透子は無言のまま、紅霞に手を引かれるままに歩きつづける。
紅霞は透子を見ようとしない。
ただ透子の手をしっかりにぎりつづけて、店に着くまで離さそうとしなかった。
万年筆を置いて、透子はため息をついた。原稿用紙もひろげた様は、一見すると難問にお手上げの受験生だが、透子が言っているのは国境の封鎖の件である。
この街に来てから、五日目。
相変わらず封鎖は解ける気配もなく、役所には連日、国境を行き来する商人その他からの抗議が押し寄せ、日に日にその数が増えているとも聞く。
(もとをただせば、私が《四姫神》さんに目をつけられたせいで…………申し訳ない)
気が重くて筆も進まない。
(いやまあ、単純にスランプになってきているのも、事実なんだけど)
封鎖が解けず、観光名所もひととりまわり終えて時間が余った透子は、雲翔に紹介された喫茶店で執筆していた。宿だと部屋に机がなく、隣室や廊下の音も筒抜けで集中できないのだ。
灯りが提灯だったり竜の置き物が置かれていたり、水墨画っぽい絵が飾られていたりと、内装は中華風だが、日本だったら『レトロな雰囲気の喫茶店』と評される店ではないだろうか(この街の人から見れば、今時の店だろうが)。
雲翔から「物書きが集まる店」と聞いて、作家志望の男達があれこれ文学論に花を咲かせて、互いの作品を批評し合うようなにぎやかな雰囲気を想像していたのだが、実際には書き物に集中する一人客が大半で、鉛筆や万年筆のカリカリという音が響く以外は静かな空間だった。
(日本に帰るまで、あと一年半弱。それまでに書き溜めておきたいのに…………)
新作原稿は紅霞に託し、自分が帰ったあとも、それを出版社に売って生活の足しにしてほしいのだ。そのためには一作でも多く書いておくべきだと、頭では理解しているのに。
(ネタが切れはじめている…………っ)
(ああああ)と透子は頭を抱えた。
これまで透子は日本のネット小説を参考に、定番やお約束を多用した話を書きあげていた。
が、三作目ともなると、さすがにネタも枯渇してくる。
書こうにも(あのネタは使ったし、このお約束も前作とかぶるし)と詰まってしまうのだ。
「うーん…………」
「進んでいますか?」
けっこう真剣に追いつめられていると、さらに追いつめられるような台詞がふってきた。
「露月さん」
顔をあげると、いかにも育ちの良さそうな若者が立っている。
「こんにちは。露月さんは、今日のお仕事は終わりですか?」
「一休みです。息抜きしたくて、ちょっと出てきました」
露月はいつものにこやかな雰囲気で、透子の向かいの席に腰をおろす。
「と、いうのは口実で」と声をひそめた。
「実は…………どうしても会いたくて、来てしまったんです」
「え」
「ひょっとしたら、新作が読めるかな、と…………」
「そういうことですか」
一瞬どきっとしたが、事情がわかって透子は笑った。
「こちらが新作ですか?」
露月がテーブルにひろげられた書きかけの原稿用紙を見る。まなざしが興味津々だ。
「読んでくださって、かまいませんよ。といっても、読むほどの量はありませんけれど」
「いいんですか?」
「はい。正直、展開に詰まっているんです。読んで、なにか感想でも言ってください。『面白い』でも、『つまらない』でも」
詰まりすぎて、なかば投げやりな気持ちで透子は露月に原稿用紙を勧める。
「では、遠慮なく」と露月は珈琲っぽい飲み物を注文して、原稿用紙をめくりはじめた。透子も中国茶のお代わりを注文する。見渡すと他の席にもちらほら、同じように行き詰っていると思われる客がいて、透子はひっそり親近感を覚えた。
十分と待たずに、露月が数枚の紙を置く。
「導入は面白いと思いますが…………これは本当に『導入』ですね。工事現場の事故で意識を失った主人公が、目を覚ますと丘の上にいて。…………今回は、前作のように未来世界ではないんですか?」
「はい」と透子はうなずく。
「まず、親しみやすい、共感しやすい主人公ということで、よくいる『お金のない日雇い労働の青年』という設定にして。その先の『どんな世界に行ったか』で困っているんです」
「未来世界にしないんですか? 今、流行だし、前作もそうだったのに」
「少し迷っていまして。平たく言うと、前二作が未来世界だったので、今度は過去へ行く話を検討しているんです」
「過去ですか? 時代次第で面白くなりそうですが…………」
透子は声をひそめて身を乗り出す。
「実は、女体化に手を出そうかと思っているんです」
「ニョタイカ…………とは?」
「あ、そこからですか」
透子は説明をはじめる。ついつい周囲に視線を走らせてしまうのは、他の客達も書き物をしているため「万一、盗み聞きされてネタを持って行かれたら」という心配ゆえだ。
「簡単にいうと、男性を女性に変えることです」
「男性を女性に…………面白いですか? それは」
「もちろん、書き方次第です。普通の男性がある日突然、女性になってしまい、女性として生きていかざるを得なくなって、四苦八苦しながら女性の嗜みとかを身につけていく、という話もありますけれど。今、考えているのは偉人の女体化です」
「偉人が女性になる、という意味ですか?」
「誰もが知る偉人とか英雄を『実は女性だった~』という設定で話を進めていくんです」
現代日本ではゲームをはじめとして、だいぶん浸透した設定である。
「え。つまり『猛虎将軍』とか『乱世の救世公子』が女性だった、という話ですか? うーん…………面白いですかねえ…………?」
露月はひたすら首をかしげる。
「正直、筋骨たくましい髭面の壮年男性が女性だったとしても、あまり嬉しくないというか…………それなら、小柄な少年と思っていた相手が実は女性だった、という展開のほうが面白いと思います。実際、そういう話もありますし」
露月がちらりと透子を見るが、透子は話に集中している。
「男装とは別物です。だから、設定や書き方が重要なんです。たとえば…………えっと、目が覚めると昔の世界だった。ただし本当の昔の世界ではなく、よく似た別の世界で、そこではもとの世界では男性と伝わっていた偉人達が、若く美しい女性として生きているんです」
「ほう?」
「立身出世するにしても、男性の将軍とか王様に認められるより、きれいな女将軍や女王様に認められて出世するほうが、男性としては楽しくないですか? で、最終的にはその将軍様や女王様と結婚するかもしれません。もちろん、もともとのイメージもあるし、それを壊したくない人も多いでしょうから『似ているけれど別の世界』という設定が必要だし、名前も少し変えて『似て非なる別人』という部分を強調します」
「なるほど、そういう…………」
「過去っぽい世界ですから。原稿では『日雇いの青年』ではじめてしまったけれど、むしろ腕のいい医者とか大工のほうが、技術の進んでいない昔の世界では重宝されて、出世しやすいかもしれません。偉い人の目にもとまりやすいでしょうし。ただこの話だと、前提として歴史の勉強が必須なんですよね…………」
透子は肩をおとした。
露月がきょとんとする。
「歴史は苦手ですか? 意外です。小説を読んだ限りでは、幅広い知識がなければ書けないだろうと、よく勉強された方だと思っていたのですが」
「習ったけれど、卒業してだいぶん経つので、あちこち忘れました」
(小説のほうは『ス○ーウォ○ズ』とか、既存の世界観をベースにしていたからです…………私のオリジナルではないんです、すみません)
口と腹で別々の言い訳をしながら、透子は内省する。
こちらに来て一年半以上を過ごしたが、ふりかえれば歴史を学ぶ機会はほとんどなかった。
空いた時間に本や新聞を読んで過ごすことはあったが、家主である紅霞もそちら方面の興味は薄かったせいもあり、概要程度の知識すらないと、今回の話を思いついた時に気づいたのだ。
「誰もが知るような人気の英雄だと、周辺の歴史や人間関係にも詳しい人が多いですから。上手に創作を織り込まないと、面白がってもらえないんです。その点、無名の英雄は創作の余地は大きいですけど、そういう英雄や偉人を知っているほど歴史に詳しいか、というと…………」
「わかります」と露月はうなずく。
「『救世公子』や『紅蓮智将』とか『猛虎将軍』あたりは、有名なだけに扱っている作家も多いですからね。すでに『蒼紅大河』という大長編の傑作も出ていますし、あれを越えるのは並大抵のことではないと思います。それでなくとも、あのへんの時代は有名無名を問わず、多くの作品が出ていますし」
「そういうことです。たんに『若い美女だった』というだけでなく『こういう解釈や創作の仕方も有りか!』みたいな、驚かせる部分が必要だと思うんですよね」
『救世公子』だの『紅蓮智将』だの、こちらにも中二病的なネーミングセンスは存在するのだなあ、と妙な部分に感心しつつ、透子は話を合わせる。『蒼紅大河』も、露月の口調からして誰もが知る有名な作品だろうが「はじめて耳にした」とは口にしない。
それを告げて、これ以上身元を怪しまれる事態になることは避けなければならない。
「けっきょく、歴史の勉強が必要なことに変わりはないんですよ」
「まあでも、前作があんなに面白かったんですから。きっと今度も上手くいきますよ」
重いため息をつく透子を、露月が鼓舞する。
その励ましや信頼が、今の透子にはプレッシャーとなって肩にのしかかる。
「『蒼紅大河』はたしかに有名ですが、俺はむしろ『春の魁』とか『紅梅語り』あたりの時代が好きですね。『梅の兄、菊の弟』の通称で伝わる苞家兄弟とか…………」
「すみません、よく知らないです…………」
「ですよね。あまり知られていない話だと思います。『蒼紅大河』より五十年ほどあとの時代の話で…………」
それからしばらく、露月は声の大きさに注意しつつも、いくつかの逸話を披露してくれた。彼は歴史の知識が豊富なうえに語りも巧みで、透子もいつしか引き込まれる。
いかにも楽しげに語りあうその光景を、入り口で紅霞がむすっとした表情で見守っていた。
ちなみに肩には、喫茶店に入れなかったすずさんが乗っている。
「入らんのか?」
「今、邪魔だろ」
あからさまに不機嫌な応答に、雲翔は奇妙なものを見るような、納得しかねるような表情で、旧友の美麗な横顔をしげしげ見つめる。
「お前、あんだけ『女は嫌いだ』って言っておきながら、なにがどうなって、あの嬢…………坊ちゃんには、そこまで入れ込んどるんだ?」
「てめぇには関係ない」
「やっぱ、胸か? 大きそうだったもんなあ。やはり女子の胸はすべてを解決する…………」
雲翔の顔面に紅霞の拳が決まる。
「お客さん! 店で暴れないで!!」
入口に留まって入って来ない二人連れを邪魔に思っていた店員がすかさず声をあげ、他の客達が顔をあげ、透子と露月も紅霞と雲翔に気がつく。
「なにしているんですか、紅霞さん!」
透子はいそいで原稿用紙を集め、万年筆をしまう。
「よかったら明日にでも、歴史関係の本を持って来ます。読みやすくて面白いのが何冊か、家にあるので」
露月はそう早口で透子に提案すると、入り口にむかった。
「まったく、お前達は…………!」
紅霞と雲翔は露月に引っぱられて店の外に連れ出され「いい歳した男が二人そろって、みっともない」と、至極真っ当な小言をくらう。
「紅霞のやつが手を出して来たのに、なんで俺まで…………」
「どうせ、お前が要らん一言で紅霞をあおったんだろう」
子供のように拗ねる雲翔に、露月が鋭く切りかえす。
透子もさすがに注意せざるをえない。
「前々から言わせてもらっていますが。紅霞さんは、少し手が早すぎます。二十四歳でしょう? もう少し節制できませんか?」
我ながら母親か先生のようなお説教だと思ったが、肝心の生徒というか、大きな息子は形のよい唇をへの字に曲げてそっぽを向き、反省の欠片も見あたらない。
「…………紅霞さん」
「…………」
数十秒間、沈黙が流れ、透子の肩に戻ってきたすずさんが「ちゅん」と退屈そうに鳴いた。透子は「子供ですか」と、ため息をつく。
「あと一年半弱で帰国の予定なのに…………これじゃ、安心して帰れそうにないです。紅霞さん、私が帰ったあとも、いろんな人に喧嘩を売って暮らすんじゃないですか?」
「…………だったら、帰らなきゃいいだろ」
ぼそっとした呟きが透子の耳に届く。
「透子がずっと、こっちにいればいいんだ」
「紅霞さん」
紅霞はちらりと透子を見、困ったような表情を確認すると、再度そっぽを向いた。
「――――忘れろ」
そう言って透子の手をつかみ、露月と雲翔を「昼飯にしようぜ」と誘って歩き出す。
露月と雲翔の「あの店はどうだ」「この店はいい」と検討する声が、透子の耳を通り過ぎていく。
(今のは、どういう意味…………?)
気になるけれど気にしてはならないであろう、疑問。
透子は無言のまま、紅霞に手を引かれるままに歩きつづける。
紅霞は透子を見ようとしない。
ただ透子の手をしっかりにぎりつづけて、店に着くまで離さそうとしなかった。
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