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「姉とは五歳違いなんです。妹の私がいうのもなんですが、昔からすごい美人で。高校の時に読モをはじめて、事務所にも――――」
「どくも、ってなんだ?」
「あ、こっちにはないんでしょうか?」
透子は「うーん」と数秒、頭をひねる。
「ええと…………たとえば雑誌の表紙とか新聞の公告は、物の絵の場合が多いですけど、人間を撮った写真の時もあるじゃないですか。ああいう、写真に撮られるのが仕事の…………」
「え? じゃあ、かなりの美人だな?」
「そうです、本当に美人だったんです。こちらにもあるんですね、そういうお仕事」
「あるぜ。というか、それで稼いでいる女も少なくない。ただでさえ女が少ないんだ。美人は引っ張りだこだから、絵や写真のモデルとか、給仕で稼ぐやつは多いぜ?」
《無印》のため外に出られなかった透子には無理な職業だが、そういう仕事自体は存在するようだ。
「でも給仕って、メイドのことですよね? 私の国では、あまり儲かる仕事ではないですけど…………」
むしろこの手のサービス業は薄給のイメージが定着している。
が、『ところ変われば品変わる』というやつで。
「こちらでは一般的な女の仕事だ。学歴や特殊な技術は必要ないし、給仕に女が一人いるだけで男の客の入りが違う。それでなくても女は国から金が出るし、出産もあるから、外で長期間働く女は少ない。だから美人の給仕や酌婦がいる店は、それだけで繁盛する」
「しゃくふ、ってなんですか?」
今度は紅霞が言葉をさがす番だった。
「あー…………酒場で、酌をする女だな。酒場や食堂で出会った女と親しくなって~ってのは、よくある話だぜ?」
「ああ、なるほど」
つまり、カフェやファミレスも、こちらの男性にとっては重要な出会いの場ということか。酌婦はホステスやキャバ嬢だろう。そういえば日本でも明治や大正時代は、カフェの女給は芸術家と出会って恋をして~みたいな、華やかな一面のある職業だったと聞いたことがある。
考えてみれば、こちらの女性は《四気神》の守護があるので、男性に無体されることはない。酔客のセクハラ問題がないなら、キャバ嬢やホステスはいい働き口に違いなかった。
「でも、こちらの女性は国からお金がもらえますよね? わざわざ外に働きに出る必要はありますか?」
「金が出るといっても、二世帯がそこそこ暮らせる額だ。法律では四人の夫を持つことが義務づけられているから、残り二世帯分を稼ぐ必要がある。一般的には、二人の夫が二世帯分を稼いで、二人の夫が妻と三人で家事と子育てを分担する。で、女がもらう国からの金を足して四世帯を支える。けど子供の数が多かったり、借金を作ったり金遣いの荒いやつがいると、女も稼がなきゃならなくなる」
「そういうことですか。夫二人が子育てって、自分以外の夫の子供の世話もするんですか?」
「ああ。夫は全員、妻が産んだ子供をすべて我が子として育てるんだ。でないと、他の夫も安心して外で働けないだろ?」
「たしかに…………」
透子はうなった。「自分の妻が産んだ、自分以外の男の子を育てる」とは、日本ならなかなかの昼ドラ案件だと思うが、こちらはそういう感覚はないらしい。
この世界に来て半年以上経つが、いまだに定期的にカルチャーショックをうけている。
そのたびに思うのは「国が違えば風習も異なる」「その国の特徴、特性に応じた暮らし方がある」ということだった。
「娘が一人生まれれば楽だけどな。未婚でも月のものを迎えれば、国から金が出る。ただ、その娘はなかなか生まれない。娘一人が生まれるまでがんばった結果、十人ちかい息子が生まれる、というわけだ」
「男女比が八対一ですから理論上、女の子一人を産むのに九、十年かかるわけですね。こちらの女性は肉体的に大変そうです。じゃあ、二人以上の娘に恵まれた家は幸運ですね」
「そりゃもう、大騒ぎだ。俺の知人の知人には三人の娘を産んだ妻と、女の双子を産んだ妻がいるが、どちらも大宴会だったらしいぜ?」
「でもそうすると、夫側が働かなくなったりしませんか? 国から娘へお金が入るようになったら…………」
「そういう家は少なくないみたいだけどな。けど、長くはつづかない。どのみち娘は結婚して最低四人の夫を持つから、そちらに金を使うようになる」
「あ、そうか。結婚したら自分の家庭が優先ですね」
「とはいえ、艶梅国で透子の家みたいに二人も娘がいれば、親はそうとう楽だと思うぜ? しかも姉妹そろって美人だから、良縁が期待できる。――――透子みたいに可愛くて気立てもいい娘なら、名家の若様だって寄ってくるんだろうな」
紅霞の言葉はなぜか後半しんみりした口調になったが、透子はその違いに気づかない。
「そんな。言いすぎです…………」
部屋が真っ暗で良かったと、透子は思った。頬が赤い自覚がある。
「俺は透子は美人だと思うぜ? まあ、透子は姉のほうが美人だと思ってるみたいだが」
「美人でしたよ。今は結婚して、モデルも辞めましたけれどね。若い頃は大変だったんです」
「男が殺到したんだろ?」
「良くも悪くも。読モからはじまって、人気の雑誌にも呼ばれるようになって、どんどん信奉者が増えていって…………」
「要らんと言っているのに、しつこく誘ってきたり物を寄越してきたり、尾行されて家や職場で待ち伏せされたり、勝手に恋人だと周囲に吹聴されたり、さらわれそうになったり、金持ちから養子の話が来たり、二人きりになった途端、押し倒されそうになったりしたんだろ?」
「養子の話はありませんでしたが、だいたいそんな感じです。鋭いですね、紅霞さん」
「まあな」
紅霞本人の経験によるものだろう。彼自身、飛び抜けた美貌の持ち主で、かつ中性よりの顔立ちのため、女性の少ないこの世界では、女性の代替にされているふしがある。そうでなくともこれだけの艶麗さなら、その気がない男も惑わされてしまうのではないだろうか。
並外れた美貌というのは、当人がよほどしっかりしていても災難を呼び寄せると、透子は姉の例で思い知らされていた。
「友達からは『あんなにきれいなお姉さんだと、比べられて嫌じゃない?』って、よく訊かれましたし。実際、小さい頃は羨ましかった時もありましたけど…………十歳頃から、醒めました。本当に並外れてきれいな人って、大変なんですよ。ある日突然、知らない人から『俺達、恋人同士なのに』って文句を言われたり、笑っただけで『誘ってる』と言われたり、女の子達からも『私の恋人に手を出した』って言いがかりをつけられたり。子供の私から見ても、人間関係めちゃくちゃというか、恋愛って怖いな、男の人って怖いな、恋愛がからむと女の子も怖いな、って思うようになりました」
おかげで透子は恋愛には消極的となり、姉の凜子に言わせれば『経験値が低いから、あのクズ男に引っかかった』ということになる。
「わかる。こっちは全然知らないやつなのに、急に恋人面で人の友人付き合いに口を出してくるんだ。『オレというものがありながら、なんでそんな男と』ってな。『誰だ、お前』としか言いようがない。でも、透子もよく知っているな。姉さんから聞いたのか?」
「聞いた分もありますけど。向こうが家まで来るんですよ、勝手に。尾行とかして。私も何度か頼まれました。『お姉さんに、これ渡して』とか『お姉さんの予定を教えて』とか。小学せ…………十二歳の私に万札―――――大金をにぎらせて『お姉さんの下着を売って』と中年男性に言われた時は、心底怖くて気持ち悪かったです」
「透子の姉さんも、なかなかだな…………正直、仲良くできそうな気がする」
「たぶん、話は合うと思います。姉は――――凜子というんですけれど、すごい美人で、かつ喧嘩っ早くて頭も回りますから、紅霞さんとはうまが合うと思います」
「――――なんか、含みのある言い方だな?」
うんうん、と頷く透子に、紅霞は納得いかなさそうに呟く。
「…………やっぱり、家族に会いたいか?」
紅霞の声が真剣な響きをはらんだ。
「…………そうですね。挨拶一つせず、こちらに連れてこられてしまいましたから。きっとすごく心配しているだろうし――――なにより私自身が、会いたいです。みんなに…………」
結婚式場で女と逃げた元夫には、未練はもう微塵もない。
しかし家族のことは忘れられないし、愛情以外にも帰らなければならない理由がある。
透子が手に入れた当選金三億円を母と甥に渡して、二人の治療費にあてたいのだ。
「そうか。そりゃ、そうだな…………」
ぽんぽん、と紅霞の手が透子の頭をなでた。透子は思わず声を出しそうになるが、それ以上に彼の寂しげな声が気にかかる。
ふと、今頃になって疑問がわいた。
自分が日本に帰ったら、この人はどうなるのだろう。
紅霞の借金は無事完済した。あとは国境を越えてしまえば、もう彼が《四姫神》に追われることもない。透子が得た多額の印税も、日本に帰る際には残金すべて紅霞に残していく予定だから、すぐに経済的に困窮することもないだろう。
だが、それだけでいいのだろうか。
最愛の伴侶を失っている紅霞はこのあと、誰と、どう生きていくのだろう。
ずっと一人で生きつづける気だろうか。
(誰か、紅霞さんと一緒に生きてくれるような人がいれば…………伴侶でなくても、信頼できる友人とか仲間がいれば…………)
昼間出会った、紅霞の学生時代の友人を思い出す。彼らといた時の紅霞の様子も。
紅霞はちょっと無愛想で、でも本当は嬉しいのが伝わってきた。
国境を越えてしまったら、彼らとも当分は会えなくなるのだ。
(紅霞さんと生きてくれる人が現れるといいな。友人でも家族でも、心を許せて、孤独にならずにすむような人。私がこちらにいる間にそういう人が見つかれば、安心して帰れるんだけど…………)
自分が帰ったあと…………と考え、胸に冷たい風が吹いた。
透子は帰らなければいけない。帰る必要があるのだ。
(紅霞さんと生きるのは、私じゃない。私は日本に帰るんだし…………紅霞さんには翠柳さんがいる。今も紅霞さんは、翠柳さんを忘れていない。私とこうして二人でいるのは、色々あった結果で、紅霞さん側に特別な意味とか感情があったからじゃない。肉体は二十歳でも中身は三十なんだから、都合のいい勘違いをしないようにしないと…………)
透子は己を戒めた。火鉢の熱が足もとを温めるが、心のどこかが冷えている。
「寒くないですか? 紅霞さん。…………紅霞さん?」
透子は視線を動かした。暗くてはっきりしないが、どうやら紅霞は眠ってしまったようだ。静かな寝息が聞こえてくる。
透子はちょっと残念なような安堵したような、相反する気持ちを味わう。
(私も寝よう。明日は国境の封鎖が解けるといい…………)
目を閉じながら透子は願った。
無事に日本に帰れるように、日本の家族が無事でいるように。
そして、自分が帰っても紅霞が寂しくないように、と――――
「どくも、ってなんだ?」
「あ、こっちにはないんでしょうか?」
透子は「うーん」と数秒、頭をひねる。
「ええと…………たとえば雑誌の表紙とか新聞の公告は、物の絵の場合が多いですけど、人間を撮った写真の時もあるじゃないですか。ああいう、写真に撮られるのが仕事の…………」
「え? じゃあ、かなりの美人だな?」
「そうです、本当に美人だったんです。こちらにもあるんですね、そういうお仕事」
「あるぜ。というか、それで稼いでいる女も少なくない。ただでさえ女が少ないんだ。美人は引っ張りだこだから、絵や写真のモデルとか、給仕で稼ぐやつは多いぜ?」
《無印》のため外に出られなかった透子には無理な職業だが、そういう仕事自体は存在するようだ。
「でも給仕って、メイドのことですよね? 私の国では、あまり儲かる仕事ではないですけど…………」
むしろこの手のサービス業は薄給のイメージが定着している。
が、『ところ変われば品変わる』というやつで。
「こちらでは一般的な女の仕事だ。学歴や特殊な技術は必要ないし、給仕に女が一人いるだけで男の客の入りが違う。それでなくても女は国から金が出るし、出産もあるから、外で長期間働く女は少ない。だから美人の給仕や酌婦がいる店は、それだけで繁盛する」
「しゃくふ、ってなんですか?」
今度は紅霞が言葉をさがす番だった。
「あー…………酒場で、酌をする女だな。酒場や食堂で出会った女と親しくなって~ってのは、よくある話だぜ?」
「ああ、なるほど」
つまり、カフェやファミレスも、こちらの男性にとっては重要な出会いの場ということか。酌婦はホステスやキャバ嬢だろう。そういえば日本でも明治や大正時代は、カフェの女給は芸術家と出会って恋をして~みたいな、華やかな一面のある職業だったと聞いたことがある。
考えてみれば、こちらの女性は《四気神》の守護があるので、男性に無体されることはない。酔客のセクハラ問題がないなら、キャバ嬢やホステスはいい働き口に違いなかった。
「でも、こちらの女性は国からお金がもらえますよね? わざわざ外に働きに出る必要はありますか?」
「金が出るといっても、二世帯がそこそこ暮らせる額だ。法律では四人の夫を持つことが義務づけられているから、残り二世帯分を稼ぐ必要がある。一般的には、二人の夫が二世帯分を稼いで、二人の夫が妻と三人で家事と子育てを分担する。で、女がもらう国からの金を足して四世帯を支える。けど子供の数が多かったり、借金を作ったり金遣いの荒いやつがいると、女も稼がなきゃならなくなる」
「そういうことですか。夫二人が子育てって、自分以外の夫の子供の世話もするんですか?」
「ああ。夫は全員、妻が産んだ子供をすべて我が子として育てるんだ。でないと、他の夫も安心して外で働けないだろ?」
「たしかに…………」
透子はうなった。「自分の妻が産んだ、自分以外の男の子を育てる」とは、日本ならなかなかの昼ドラ案件だと思うが、こちらはそういう感覚はないらしい。
この世界に来て半年以上経つが、いまだに定期的にカルチャーショックをうけている。
そのたびに思うのは「国が違えば風習も異なる」「その国の特徴、特性に応じた暮らし方がある」ということだった。
「娘が一人生まれれば楽だけどな。未婚でも月のものを迎えれば、国から金が出る。ただ、その娘はなかなか生まれない。娘一人が生まれるまでがんばった結果、十人ちかい息子が生まれる、というわけだ」
「男女比が八対一ですから理論上、女の子一人を産むのに九、十年かかるわけですね。こちらの女性は肉体的に大変そうです。じゃあ、二人以上の娘に恵まれた家は幸運ですね」
「そりゃもう、大騒ぎだ。俺の知人の知人には三人の娘を産んだ妻と、女の双子を産んだ妻がいるが、どちらも大宴会だったらしいぜ?」
「でもそうすると、夫側が働かなくなったりしませんか? 国から娘へお金が入るようになったら…………」
「そういう家は少なくないみたいだけどな。けど、長くはつづかない。どのみち娘は結婚して最低四人の夫を持つから、そちらに金を使うようになる」
「あ、そうか。結婚したら自分の家庭が優先ですね」
「とはいえ、艶梅国で透子の家みたいに二人も娘がいれば、親はそうとう楽だと思うぜ? しかも姉妹そろって美人だから、良縁が期待できる。――――透子みたいに可愛くて気立てもいい娘なら、名家の若様だって寄ってくるんだろうな」
紅霞の言葉はなぜか後半しんみりした口調になったが、透子はその違いに気づかない。
「そんな。言いすぎです…………」
部屋が真っ暗で良かったと、透子は思った。頬が赤い自覚がある。
「俺は透子は美人だと思うぜ? まあ、透子は姉のほうが美人だと思ってるみたいだが」
「美人でしたよ。今は結婚して、モデルも辞めましたけれどね。若い頃は大変だったんです」
「男が殺到したんだろ?」
「良くも悪くも。読モからはじまって、人気の雑誌にも呼ばれるようになって、どんどん信奉者が増えていって…………」
「要らんと言っているのに、しつこく誘ってきたり物を寄越してきたり、尾行されて家や職場で待ち伏せされたり、勝手に恋人だと周囲に吹聴されたり、さらわれそうになったり、金持ちから養子の話が来たり、二人きりになった途端、押し倒されそうになったりしたんだろ?」
「養子の話はありませんでしたが、だいたいそんな感じです。鋭いですね、紅霞さん」
「まあな」
紅霞本人の経験によるものだろう。彼自身、飛び抜けた美貌の持ち主で、かつ中性よりの顔立ちのため、女性の少ないこの世界では、女性の代替にされているふしがある。そうでなくともこれだけの艶麗さなら、その気がない男も惑わされてしまうのではないだろうか。
並外れた美貌というのは、当人がよほどしっかりしていても災難を呼び寄せると、透子は姉の例で思い知らされていた。
「友達からは『あんなにきれいなお姉さんだと、比べられて嫌じゃない?』って、よく訊かれましたし。実際、小さい頃は羨ましかった時もありましたけど…………十歳頃から、醒めました。本当に並外れてきれいな人って、大変なんですよ。ある日突然、知らない人から『俺達、恋人同士なのに』って文句を言われたり、笑っただけで『誘ってる』と言われたり、女の子達からも『私の恋人に手を出した』って言いがかりをつけられたり。子供の私から見ても、人間関係めちゃくちゃというか、恋愛って怖いな、男の人って怖いな、恋愛がからむと女の子も怖いな、って思うようになりました」
おかげで透子は恋愛には消極的となり、姉の凜子に言わせれば『経験値が低いから、あのクズ男に引っかかった』ということになる。
「わかる。こっちは全然知らないやつなのに、急に恋人面で人の友人付き合いに口を出してくるんだ。『オレというものがありながら、なんでそんな男と』ってな。『誰だ、お前』としか言いようがない。でも、透子もよく知っているな。姉さんから聞いたのか?」
「聞いた分もありますけど。向こうが家まで来るんですよ、勝手に。尾行とかして。私も何度か頼まれました。『お姉さんに、これ渡して』とか『お姉さんの予定を教えて』とか。小学せ…………十二歳の私に万札―――――大金をにぎらせて『お姉さんの下着を売って』と中年男性に言われた時は、心底怖くて気持ち悪かったです」
「透子の姉さんも、なかなかだな…………正直、仲良くできそうな気がする」
「たぶん、話は合うと思います。姉は――――凜子というんですけれど、すごい美人で、かつ喧嘩っ早くて頭も回りますから、紅霞さんとはうまが合うと思います」
「――――なんか、含みのある言い方だな?」
うんうん、と頷く透子に、紅霞は納得いかなさそうに呟く。
「…………やっぱり、家族に会いたいか?」
紅霞の声が真剣な響きをはらんだ。
「…………そうですね。挨拶一つせず、こちらに連れてこられてしまいましたから。きっとすごく心配しているだろうし――――なにより私自身が、会いたいです。みんなに…………」
結婚式場で女と逃げた元夫には、未練はもう微塵もない。
しかし家族のことは忘れられないし、愛情以外にも帰らなければならない理由がある。
透子が手に入れた当選金三億円を母と甥に渡して、二人の治療費にあてたいのだ。
「そうか。そりゃ、そうだな…………」
ぽんぽん、と紅霞の手が透子の頭をなでた。透子は思わず声を出しそうになるが、それ以上に彼の寂しげな声が気にかかる。
ふと、今頃になって疑問がわいた。
自分が日本に帰ったら、この人はどうなるのだろう。
紅霞の借金は無事完済した。あとは国境を越えてしまえば、もう彼が《四姫神》に追われることもない。透子が得た多額の印税も、日本に帰る際には残金すべて紅霞に残していく予定だから、すぐに経済的に困窮することもないだろう。
だが、それだけでいいのだろうか。
最愛の伴侶を失っている紅霞はこのあと、誰と、どう生きていくのだろう。
ずっと一人で生きつづける気だろうか。
(誰か、紅霞さんと一緒に生きてくれるような人がいれば…………伴侶でなくても、信頼できる友人とか仲間がいれば…………)
昼間出会った、紅霞の学生時代の友人を思い出す。彼らといた時の紅霞の様子も。
紅霞はちょっと無愛想で、でも本当は嬉しいのが伝わってきた。
国境を越えてしまったら、彼らとも当分は会えなくなるのだ。
(紅霞さんと生きてくれる人が現れるといいな。友人でも家族でも、心を許せて、孤独にならずにすむような人。私がこちらにいる間にそういう人が見つかれば、安心して帰れるんだけど…………)
自分が帰ったあと…………と考え、胸に冷たい風が吹いた。
透子は帰らなければいけない。帰る必要があるのだ。
(紅霞さんと生きるのは、私じゃない。私は日本に帰るんだし…………紅霞さんには翠柳さんがいる。今も紅霞さんは、翠柳さんを忘れていない。私とこうして二人でいるのは、色々あった結果で、紅霞さん側に特別な意味とか感情があったからじゃない。肉体は二十歳でも中身は三十なんだから、都合のいい勘違いをしないようにしないと…………)
透子は己を戒めた。火鉢の熱が足もとを温めるが、心のどこかが冷えている。
「寒くないですか? 紅霞さん。…………紅霞さん?」
透子は視線を動かした。暗くてはっきりしないが、どうやら紅霞は眠ってしまったようだ。静かな寝息が聞こえてくる。
透子はちょっと残念なような安堵したような、相反する気持ちを味わう。
(私も寝よう。明日は国境の封鎖が解けるといい…………)
目を閉じながら透子は願った。
無事に日本に帰れるように、日本の家族が無事でいるように。
そして、自分が帰っても紅霞が寂しくないように、と――――
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