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 一ヶ月後、透子の原稿が本となった。
 これも紅霞を通して、一足早く見本をもらう。
 透子は我慢できず、「一回だけ」という約束で紅霞に街に連れて行ってもらった。
 大きな本屋の前に、見本と同じ表紙の本がずらりと並べられ、どんどん男性客が手にとって店内に持って行く。

「夢みたいです…………信じられません…………!」

「そればっかりだな」

 物陰からのぞく透子の一言に、紅霞は笑った。
 そして念願の印税も受けとる。
 比喩ではなく『受けとった』のだ。
 銀行はあるがネット回線は存在しないため、こちらでは給料は手渡しが『普通』だった。

「ぶ…………ぶ厚い…………」

 編集長から封筒を受けとった透子は、思わず呟く。

「今は紙幣だから、便利ですよ。私の若い頃なんて、まだ銅貨や銀貨が主流だったから、運ぶにも一苦労で」

 編集長が笑う。
 こちらの印税額が妥当かどうかは知らないが、とりあえず透子は『二百五十万阮』という金額を手にした。
 付き添っていた紅霞も目を丸くする。

「ところで、続編の進み具合はどうです?」

「今、下書きが八割がた済んだので、来月の下旬には…………」

 そんな会話をかわして、「お気をつけて」と編集長に見送られて建物を出る。
 透子はこの時ほど(銀行振り込みって、ありがたかったんだ!)と思ったことはない。
 宝くじの三億円にしても、もし、あれが全額、現金払いだったとしたら…………。

「とりあえず銀行にいくか?」

 紅霞はそう言ったが、透子は口座がない。
 口座を作るための身元保証もできない。
 困難を承知で、いったん現金を家に持ち帰らせてもらった。

「やっと着いた…………」

 玄関に入って鍵をかけた瞬間、紅霞は大きく息を吐き出して肩を落とした。
 透子もここまで半端ない緊張感だった。
 こんな大金を持って外を移動する経験は、この先、二度とないだろう。

「今日ほど母の…………《四気神》の存在がありがたかったことはないぜ。もし今日、《四姫神》に『家まで送る』って言われてたら、『乗せてってくれ』って言っただろうな」

 紅霞は台所に惣菜の袋を運び、水瓶から水を汲む。透子も彼のあとに喉を湿らせた。
 そして荷物の片づけを待って、彼をダイニングのテーブルに座らせた。

「お話があるんです」

「…………どうした、急に」

 透子が切り出すと、何故か紅霞は『ぎくっ』とした反応を見せた。後ろめたい事情でもあるかのように。
 実はこの時、紅霞は「大金を得た透子がとうとう『この家を出て行く』と言い出すのではないか」と案じたのだ。
 しかし透子の用件はまったく異なる内容だった。
 透子は部屋に隠していた受賞作の賞金二百万阮と、今回の原稿料と印税でもらった二百五十万阮をテーブルの上に置き、紅霞へ差し出す。

「手をつけていないので、ちょうど四百五十万阮あります。これで《四姫神》さんからの借金をすべて返済してきてください」

「…………はあ!?」

 数泊おいて紅霞は声をあげた。

「今すぐ、借金の残額を確認してください。一度で全額を返済するんです。これ以上、《四姫神》さんに付きまとわれないために」

「いやいや、ちょっと待て!!」

 紅霞は手をあげて透子を制した。

「なんで、そうなる!? それは透子の金だ、透子が自分の力で稼いだ金だろ!? 俺じゃなくて、自分のために使え!!」

 自分も多額の借金を抱えて困っているくせに、即座にこういう返答を返せる紅霞の人柄に、透子は尊敬で胸があたたかくなる。
 しかし今はそれどころではない。

「私はいいんです。編集長さんの話から判断する限り、まだ当分は受賞作の増刷がつづくはずです。続編も準備していますし。私より紅霞さんのほうが緊急です。《四姫神》さんが出産を終えて、もう一ヶ月でしょう? そろそろ体調も戻って、またこの家に来るはずです」

「…………っ」

「あちらにも面子があります。名家の令嬢なうえに、高い地位にもある女性が、庶民の男性にずっと求婚を拒まれているなんて、体面が悪すぎます。《四姫神》さん本人だけでなく、《四姫神》さんの一族や、ご夫君達も不愉快に思っているはずです。紅霞さんの敵は《四姫神》さん一人ではないでしょう」

「…………」

 紅霞は押し黙った。図星だったからだ。
 これまで紅霞はいくつかの職種を経験してきたが、現在の薄給の仕事に甘んじているのは、見えない力からの妨害がつづいた結果だ。紅霞が条件の良い仕事を見つけても、しばらくすると雇い主から「辞めてくれ」と言われてしまう。理由を訊ねても言葉を濁されるだけ。
 ただでさえ《四姫神》花麗の実家は夕蓮で一、二を争う名門なうえ、彼女の夫も有力な家の出身ぞろいだ。
 単純な嫌がらせか。それとも経済的に困窮させれば、いずれ折れる、という計算か。それはわからないが、借金返済のめども立たない以上、じりじり追い詰められていくだけなのは明らかだった。

「けど、透子が来てからは宿代をもらって、家事までやってもらってるおかげで収入は増えているし。その分、借金も余分に返せるようになっているから…………」

「それでも、三十年が二十年にちぢんだ程度の差ですよね?」

 透子が確認すると紅霞は視線をそらす。

「お忘れですか? 紅霞さん。私は長くても二年…………いえ、もう一年半後には帰る予定なんです。私が帰ったら、また今までの返済ペースに戻ってしまいますよ?」

「…………っ」

 透子は身を乗り出した。
 受賞の賞金を受けとってから、ずっと考えてきた事柄だった。

「たぶん、今が大きな分岐点です。ここで全額きれいさっぱり返済して、《四姫神》さんが付け入る隙を失くすか。それとも今までと同じペースで細々と返しつづけて、この先も《四姫神》さんの訪問を受けつづけるか」

 透子は少し表情をくもらせた。

「…………後者の場合、近い未来に私の存在も知られると考えるべきです」

「…………!」

 紅霞は息を呑んだ。
 もし、《四姫神》花麗に透子の存在を知られたら。
 花麗は即座に透子を紅霞から引き離すだろう。
 勝手に押しかけて、力ずくで人の家の木を切り倒すような女だ。
 透子一人、どうにでもできるだけの力と権力と性格を、あの女は有している。
 まして透子は《四姫神》を持たない《無印》。
 抵抗の術も力も持たないのだ。
 紅霞は想像しただけでぞっとした。
《四姫神》はただでさえ《四気神》より強力な《四貴神》に守護されている。
 このうえ透子が《無印》と知られれば――――

「借金を返済してください、紅霞さん。こういう言い方は気に障るかもしれませんが、今の状態がつづくことを、翠柳さんも望んでいないと思います。むしろ、ずっと心苦しく思っているのではないでしょうか? 紅霞さんの《四姫神》さんへの借金は、翠柳さんの治療費を工面するために作ったものなんでしょう?」

「それは…………」

 紅霞は苦しげに言葉をしぼり出す。

「俺は、後悔していない」

 断言した。

「たとえ、あいつを結果的には助けられなくても…………こんな借金を背負う羽目になっても…………少しでも、あいつを救う可能性があったなら…………翠柳が苦しまずに済んだなら…………俺はかまわない」

「翠柳さんも、紅霞さんのそういう気持ちはわかっていたと思います」

 紅霞から聞く限り、透子の中の翠柳はそういうイメージだ。

「でも、だからこそ翠柳さんも心苦しいと思います。紅霞さんも、もし立場が逆転していたら、同じように思うのではないですか?」

 紅霞は無言で形良い唇を噛む。

「紅霞さん。これは『借金を完全に返済して、めでたしめでたし』という単純な話ではありません。最終的には、紅霞さんはこの夕蓮の街を出たほうがいいと思います」

 紅霞が怪訝そうに眉根をよせる。

「私からお金をもらうのが嫌なら、借りる形でかまいません。借用書も作りましょう。でも、返済したら即、この街を出ましょう。当面は帰ってこない覚悟を決めてください」

 透子は説明した。

「どんな形であれ、紅霞さんが借金を完済すれば《四姫神》さんは必ず不審を抱きます。今まで細々としか返済できなかった人が突然、大金を用意するんだから当然です。《四姫神》さんはお金の出どころを調査して…………たぶん、私の存在が知られます。紅霞さんの家に、翠柳さんの遠縁というふれこみで私が滞在していること、私が受賞して多額の印税が入ったこと、《四姫神》さんならすぐに調べがつくはずです」

「…………っ」

「私が女と知られれば、《四姫神》さんは怒るはずです。私が彼女の立場なら、間違いなく怒ります。自分の求婚を断りつづけていた男性が、知らないうちに知らない女と暮らしているんですから。かといって、女とばれなくても結果は微妙です。紅霞さんは翠柳さんと結婚していたんですから、『また新しい男と結婚するのか』と逆鱗に触れる可能性があります」

「…………女はどうしても駄目なんだって、あきらめてもらうことはできないか?」

「その可能性が皆無とは断言できませんが…………低いと思います。思うに《四姫神》さんは、紅霞さんに関しては意固地になっていると思うんです。もう、なにがなんでも紅霞さんと結婚しなければ、自尊心プライドが回復しないんじゃないでしょうか」

「意固地…………かもな」

 紅霞は深いため息をついた。
 たしかに花麗は、あまりにかたくなな紅霞にむきになってもいるのだろう。

「ですから、紅霞さんが借金を返済して自由の身になったら、すぐに夕蓮を出たほうがいいと思います。ほとぼりが冷めるまで、どこか別の街でひっそり暮らしたほうがいいのではないかと。もちろん、紅霞さんにとってはこの家は、翠柳さんとの思い出の詰まった大切な場所だと思いますが…………」

 紅霞は押し黙る。すぐには返事できなかった。

「…………少し考えさせてくれ」

「はい」

 透子は無理強いせず、まずはよく考えてもらうことにする。
 席を立ち、話を変えた。

「夕食の支度をしますね。昨日のおいしいお肉がまだ少し残っていますから、あれを食べてしまいましょう」

「――――透子」

「はい?」

 前掛けをしようとしていた透子は、紅霞の真剣な声に手をとめる。

「透子は…………どうするんだ?」

「え?」

「仮に、俺が透子から金を借りて借金を返済して、夕蓮を出るとして…………透子はどうするんだ? 夕蓮に残るのか? それとも…………」

「それは…………」

 透子は顔を赤らめた。
 相談しなければならないことだが、ついつい後回しにしていた部分だった。

「私も、こちらのことは、まだよく知りませんし…………なにより《無印》ですし…………他に信用できる人もいませんし、その…………できれば、紅霞さんとご一緒させていただければ、と…………」

 いそいで付け足す。

「あ、もちろん、旅費は自分でどうにかします。衣を売ったお金がまだ残っていますし、続編の印税も入るでしょうし。だから本当に、同行させていただくだけで…………」

 本当に、紅霞には迷惑をかけてばかりだ、と透子は思う。
 だが、こちらを見る紅霞の顔には、呆れや迷惑そうな表情はいっさい浮かんでいなかった。

「そうか」

 嬉しそうな、ほっとしたような表情だった。
 とりあえず、嫌がられてはいないらしいと判断して、透子は胸をなでおろす。
 それから透子は夕食の支度にとりかかり、紅霞もあれこれ手伝ってくれる。
 二人で夕食をとり、食後のお茶が済むと、それぞれの部屋に引っ込んだ。
 透子は薄暗い灯りを頼りに、執筆の最後の仕上げにとりかかる。
 紅霞は二人で使っていた寝室で一人、静かに考え込んでいた。
 手には、結婚の記念に撮った写真。
 透子の提案は賛同できる部分もあれば、できない部分もあった。
 借金はさっさと返済してしまいたい。けれど、それであの《四姫神》と完全に手を切れるかは、さだかではない。透子から金を借りて、という部分も引っかかる。
 この家だって場所は不便だが、結婚後に翠柳と二人で過ごしてきた思い出の場所だった。
 思い出と引き換えに自由を得るか。自由を犠牲にして思い出をとるか。

「おまえは、どう思う? 翠柳」

 写真の中の伴侶は嬉しそうにはにかむだけで、紅霞の問いには答えない。
 紅霞の脳裏に昔の声がよみがえる。

『大人になったら、旅に出よう。二人で、もっとたくさんの所を見に行こうよ、紅兄』

『借金を返し終えたら、この街を出よう。この街を出て、どこか――――誰も僕達を知らない、僕と紅霞と二人で、静かに暮らせる場所に――――…………』

 写真立てを持つ手に力がこもる。
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