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閑話4
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「まさか、現実に五百枚を書きあげるなんてな…………」
街を歩きながら、ずっしりと重い分厚い封筒を手に、紅霞は思わず口に出していた。
次兄は気が向いた時に数行、書いては「こんなありきたりな文章じゃ駄目だ!」「俺の表現したいものは、こんな陳腐なものじゃないんだ!」と文豪きどりで吠え、原稿用紙をぐしゃぐしゃに丸めては「ああ…………!」と苦悩の表情で頭を抱えるまでが定番だった。定番すぎて紅霞も翠柳も心配していなかった。
そういう次兄を目の当たりにしていたので、透子が「小説を書く」と言い出した時も、似たような結果に終わるだろうと予想していた。別にそれが悪いとも思わなかった。
透子はずっと、自由に外に出られない状態がつづいているのだ。小説を書いて気がまぎれるなら、それでいい。
そう思っていた。
けれど実際には、透子は五百枚を書きあげた。
この三ヶ月間少し、紅霞が留守の間にこつこつ書きつづけ、終盤には半泣きで「終わらないよう」「手が痛いよう」「小説の神様、助けてください」とくりかえしながら(部屋をのぞいた紅霞は、止めるべきか本気で迷った)、既定どおりの五百枚をきっちり完成させた。
ただの一枚すら書きあげることのなかった次兄とは比ぶべくもない、偉業であろう。
(これで落選したら、寝込むんじゃないか?)
「うーん」と紅霞は唸った。気の毒だが、現実的な予想である。
紅霞は透子が小説を書いた理由を知っていた。
正確には、推測できていると思う。
要は金銭だろう。透子が投稿する予定の賞は、大賞だと二百万阮の賞金がセットだった。
透子が金銭を求める気持ちはわかる。
紅霞が透子を拾って三ヶ月半。最初に自分の衣装を売って百十五万阮を得た透子だが、かたくなに「宿代は払います!」と主張して十日ごとに二万五千阮ずつ払いつづけ、今週で二十八五万を紅霞に渡している。その他にも、着替えなど必要な物を買い込むのに数万を使っていたので、残金は八十五万阮前後というところか。
期待していた迎えが来る気配もなく、透子が手持ちを心配に思うのも無理はない。
だが。
(別に宿代をもらわなくても、追い出しはしないんだが…………)
何度もそう言っているのに、透子は十日後ごとに変わらず宿代を渡してくる。
「受けとってください。ちゃんと宿代を払うから、私も遠慮せずにここでお世話になれるんです。私のためと思ってください」
それが透子の主張だった。
(真面目というか、律儀だな。次兄はタダ飯を食って、出て行ったのに…………)
紅霞は思う。
(俺が留守の間、家事のほとんどをやってくれているし、最近は料理も上手くなって、それで充分なんだけどな…………)
歩きながら、紅霞はここ三ヶ月半の出来事をふりかえる。
最初はいかにも怪しい、危ない匂いのただよう厄介な存在だった。
彼女の置かれた状況は明らかに素人が関わってはならない類のもので、透子本人の人柄が悪くないようだったのが、紅霞の葛藤に拍車をかけた。
(本人が自主的に出て行ってくれるのが、一番安全で問題なさそうなんだが)
そう、思いさえした。
滞在を許したのは「宿代は払う」と言い出し、実際にそのとおりにしたからだ。
透子は何も持っていなかったが、着ていた衣装が百万阮と聞いて(無事、親元に帰せたら、謝礼が出るのでは?)という考えがよぎったのも事実だ。
食費が二人分に増えることを差し引いても、十日で二万五千阮は魅力的だった。
それほど《四姫神》の梅花麗への返済には難儀していた。
今は働かなくとも入ってくる収入があり、家事の手間がなくなって空いた時間を仕事にまわして給料も少し上がり、経済的精神的には透子が来る前より余裕が生まれていた。
借金の返済すら、少し上乗せできているくらいだ(それでも完済までには何十年とかかるが…………)。
今の紅霞には、最初の頃の透子に対する(できれば自主的に出て行ってほしい)という気持ちは完全に消え失せている。
けれどそれは透子がきちんと宿代を払って、家事をこなしているからだけではない(むろん、一因ではあるが)。
透子が、紅霞の母親をのぞいて唯一「そのままの自分を受け容れてくれた」と感じた女だからだ。
あるいは母親以上かもしれない。
あの、翠柳との記念の木を切られた日。
透子は、はっきり言ってくれた。
紅霞は悪くない。
悪いのは無理強いする《四姫神》のほうだ、と――――
そんなことを言われたのは初めてだった。
この夕蓮の街の《四姫神》花麗が紅霞に執心であり、男の伴侶が忘れられない紅霞はそれを拒絶しつづけている、というのは、この街では有名な話だった。
そして、それに対する人々の感想は一貫していた。
『もったいない』『身の程知らず』『見る目がない馬鹿』…………
散々言われたが、要は、《四姫神》で名家の令嬢で『夕蓮一』を謳われる美少女をお断りするなんて、なんて『身の程知らず』で『頭の悪い愚か者』なんだ、『もったいない』、というわけだった。
紅霞のことを知る者は誰でもそうぼやいたし、紅霞の兄弟や友人達すら同じ反応だった。
「あんなすばらしい良縁に恵まれておいて、なにが不満だ」「梅家の花麗の良さが分からないなんて、頭の病気じゃないか」「女は嫌だ? そんなこと根性でどうにかしろ。意思の力で、どうにでもなる」「そもそも、とっくに死んだ伴侶に操を立てて、なんの意味がある」…………
もっと無責任で無神経で勝手な言葉を投げつけられたこともある。
そして、そういった言葉をもらうたびに紅霞の心は反発し、固く閉ざされるばかりだった。
最近では顔を合わせるたびに「さっさと婿入りしてしまえ」と言われるので(彼らに言わせると「《四姫神》様の気が変わらぬ内に」「《四姫神》様が旬の美女の内に」ということらしい)、兄弟とも友人とも疎遠になっていた。
(俺は翠柳一人でいい。あんないけ好かない女と結婚するくらいなら、一生、独り身でいい。新しい伴侶も子供も要らない)
責められるたび、そう決意をくりかえしていた。
一方で、自分が間違っているのでは? と心がゆらぐ時もある。
男女で結婚して子孫を残すのは、人間を含めたあらゆる生物に備わる本能であり、機能だ。天も国も、そう説いている。
そこから外れる自分は、自分と翠柳は不自然な異物ではないか?
女の花麗に婿入りすることこそ正道であり、自分は間違った道を正さなければならないのではないか?
世間に、世界に背いているのは自分のほうではないか?
間違っているのは自分達ではないか?
そう、迷いが、疑問がよぎる夜がある。
そういう時、紅霞は布団をかぶって無理やり眠ってしまうのが常となっていたが、自分一人ならまだしも、自分を選んだ翠柳まで非難の対象となるのはつらかった。
自分が翠柳を間違った方向に導いてしまったのではないか。
いや、引きずり込んだのではないか。
そんな疑問が常に、頭のどこかにこびりついてきた。
その迷いや苦悶を抱えながら、世間や《四姫神》にただ一人で抵抗する日々は、かなりぎりぎりの状態だった。
助けが現れるあてはなく、毎日は灰色に塗り固められ、人生は結果のわかりきった試合を無理やり進めるだけの、生きる意味も価値もない時間だった。
(早く翠柳に会いたい)
事故でも病でも、なんでもいい。
それだけを願っていた。
あとを追わなかったのは、翠柳自身から「あとは追わないで」「僕の分まで人生を楽しんで、おじいさんになってから来て」「たくさんの土産話を楽しみにしているから」と言われていたから。それだけだ。
翠柳は「楽しんで」と言ったが、自分の人生はこのまま、誰からもどこからも根本的な助けが現れることはなく、ひたすら過ぎるのを待つだけの、退屈で苦痛なものに終わるだろう。
唯一の希望は老いること。
老いてこの容姿が衰えれば、あのしつこい《四姫神》も紅霞への執着を失うだろう。
それだけが希望であり、それを得られた時なら、紅霞は自分の人生を歩めるかもしれなかった。
そう考えてきた。それが、否定することのできぬ現実と思っていたのだが。
――――紅霞さんは悪くない――――
あの日、透子が紅霞にかけてくれた言葉。
『忘れないでください。紅霞さんは悪くない。悪いのは紅霞さんじゃない。紅霞さんが翠柳さんを選んだことも、翠柳さんと結婚したことも、《四姫神》さんを嫌って拒否しつづけていることも、全部、自然な気持ちです。間違ってなんかいません。自分は悪くない、と自信を持ってください。紅霞さんも翠柳さんも、悪くないんです――――』
紅霞を全面肯定し、《四姫神》が、世間がおかしいのだと言いきってくれた、あの時。
あの時の全身が痺れるような胸のふるえを思い出すと、今でも涙がにじみそうになる。
あの時、生まれて初めて、紅霞は母親と翠柳以外の人間に、すべてを受け容れてもらえた気がした。
いや、あるいは母親以上かもしれない。
まだ幼いにも関わらず、際立った美貌に目をつけて、養子や行儀見習いという口実で紅霞を引きとろうとしてきた金持ちの女や男達を、母はきっぱりとはねつけてきた。
それでも彼女が紅霞に望んだのは、普通で立派な縁談だった。
紅霞は男だから、女のように国から生活費が支給されることはない。
だから、経済的に安定して、人柄の良い女性のもとへ婿入りしてほしい。
紅霞の母に限らず、今の世で息子を持つ母全員に共通する思いであり、常識であろう。
だから紅霞が「翠柳と結婚する」と言い出した時、母はあからさまに反対こそしなかったものの、良い顔はしなかった。
「降るような良縁に恵まれているのに、どうしてわざわざ男と…………」、それが母の本音だっただろう。
紅霞が何度も「翠柳以外の伴侶は要らない」と訴え、最終的には「翠柳と出て行く」と言いきったことで、紅霞の母も二人の仲を認めた。
しかし二人が結婚したあとも「今からでも良い女性を見つけてほしい」というのが正直な気持ちだったのではないか。
今となっては確かめようのない事柄だが、母の生前、紅霞はなんとなくそういう雰囲気を感じていた。
透子にはそういう雰囲気すらない。
「紅霞さんは間違っていない」と断言し、挙句に「紅霞さんと翠柳さんがうらやましい」「お二人のようになりたかったです」とまで言ってくれたのだ。
世間に「馬鹿だ」「愚かだ」と言われつづけてきた、自分達の関係を。
透子は認めてくれた。
「価値あるものだ」と称賛してくれたのだ。
「女は無理」という男ですら、相手が花麗と知ると「ゆらぐ」と言っていたのに。
紅霞の知る女のほとんどが「間違っている」「今からでも遅くない、私のところにおいで」「女の良さを知らないだけよ」と、『紅霞の側に問題がある』前提で話してきたのに。
透子だけは「それでいいんだ」と言ってくれたのだ。
単に認めてくれた、というだけではない。《無印》とはいえ、『女』の彼女がそう言ってくれたという点が、なおさら紅霞にとっては貴重で心ふるえる部分だった。
あの時を境に、紅霞の中にあった透子に対する壁や警戒心は嘘のように消え、彼女に対する信頼や親しみにとって代わられた。
今の紅霞にはもう、透子に出て行ってほしい気持ちは微塵もない。
どころか(ずっといてほしい)とさえ、本気で思いはじめている。
この先も透子は家に留まってほしい。
母の衣装を着て家事をこなす透子の姿を見ると、どこかなつかしい気分にさえ襲われる。
このまま透子には、朝、起きたら「おはようございます」と言って、帰ってきたら「おかえりなさい」と迎えてほしい。
今の生活が本当に楽しい。あたたかい。明るくて優しい。
(俺…………寂しかったのか?)
寂しかった、と思う。
当然だ。
母と紅霞の父が亡くなったあと、兄弟は母に代わる収入源として、紅霞や翠柳を金持ちの女や男に売ろうとし、それがきっかけで紅霞は翠柳と生まれ育った家を出た。
それでも翠柳がいれば、と思っていたが、その翠柳も逝ってしまった。
寂しくないはずがない。
ただ、それを認められなかったのではなく、認めたところで改善のあても希望もなかったから、認める意味を見出せなかっただけだ。
だが今は透子がいる。
透子が翠柳の空けた穴をふさいだわけではない。翠柳の穴は誰にも埋められない。
ただ、透子との壁が消えたことで、紅霞は透子を『大事な親しい存在』として受容、認識し、それによって紅霞の孤独は違う方向から埋められていった。
今の透子は紅霞にとって『新しい家族』に等しい。
(透子が出て行く必要はないし、出て行ってほしいとも思わない。迎えが来るまで、ずっと家にいてほしい。危ない奴等が透子を追ってきても、絶対に渡したくない。今のまま家にいてほしいんだ。透子には家に閉じこもってもらうことになるが…………)
そこだけが心苦しい。
《四気神》の守護を持たない《無印》の透子は、男が圧倒的に多いこの世界では格好の獲物だ。
《無印》は手の甲を見れば即、見分けがつく。透子が一人で外に出れば、確実に誘拐されて終わるだろう。実際、初めて出会った時もヤクザ者に誘拐されかかっていた。
なので、外出の際は必ず付き添い、男物を着せて男のふりをさせている。
紅霞が付き添えない仕事中は「絶対に外に出るなよ」と口を酸っぱくして言いきかせていた(この点に関しては、この国に来たばかりの透子より、幼い頃から誘拐の危険にさらされてきた紅霞のほうが、状況をよく理解していると思う)。
透子にはさぞ不本意なことだろう。
紅霞だって本当は、透子にちゃんと女物の服を着せ、好きな所に出かけさせてやりたい。
(けど…………家に閉じ込めたい気もする…………)
透子を失いたくない。ずっと家にいてほしい。毎日、紅霞を見送って、毎日、紅霞に「おかえりなさい」と出迎えてほしい。
新しく見つかった『家族』を失いたくない。閉じ込めてしまいたい。
透子の存在が、翠柳の空けた穴のすべてをふさいでいるわけではない。だか透子は翠柳までいなくなった紅霞の孤独を、たしかに埋めてくれた。
自分を、翠柳との関係を認め、「それでいいのだ」と丸ごと肯定してくれた。
翠柳までもがいなくなり、暗い灰色に冷たく塗りつぶされた紅霞の世界と人生に、明るさとあたたかさをとり戻してくれたのは、間違いなく透子だ。
紅霞は透子を手放したくなかった。
ずっと家にいてほしい。
「土産になにか買って帰ろうか」「次の休みには、弁当を持ってどこかに出かけようか」そんな他愛ないことを考え、楽しむことをとり戻すことができたのも、透子のおかげなのに。
透子が、もし外に出てしまったら。あるいは故郷の家族が迎えに来てしまったら。
透子のような若くて可愛い良い娘なら、あっという間に他の男が連れて行くだろう。
あるいは故郷で良縁が用意され、紅霞の知らない男と結婚してしまうに違いない。
それは嫌だ。
紅霞は透子を独占したい。
他の男に透子を奪われたくない。
翠柳がいれば、透子が連れ去られないよう、交代で見張れたのに。
(そういや、翠柳と透子って、どうなんだろうな。…………とりあえず、翠柳が喜んで世話するのは確実だな。…………透子は遠慮しそうだな)
翠柳は他人の世話を焼くのが好きで、困っている人を見ると、すぐに声をかける性格だった。
透子のように『守ってくれる存在も行くあてもない人』など、大喜びで世話したに違いない。
着せ替え人形のように透子を扱う伴侶と、遠慮して逃げ出そうとする透子の姿までが予想できて、紅霞は口もとをほころばせる。
それに、初めて抱きしめた時に気づいたのだが、透子は翠柳と体格が似ている。
もともと(同じくらいの身長だな)と頭のてっぺんを見おろしながら思っていたのだが、抱きしめると肩幅が翠柳より少し小さいくらいで、肩そのものの形や後頭部の形、少し癖のある髪質はよく似ている。なので、ついつい肩を抱き寄せて頭をなでてしまう。
けれど。
『私の恋愛対象も男性ですから。あまり頻繁に接触されると、落ち着かないというか…………』
そう言われた、あの時。
冷や水を浴びせられた。
紅霞はようやく、あるいは初めて気がついた。
紅霞は同性を伴侶に選んだが、透子は異性を伴侶に選んだ女なのだ。
紅霞にとっての透子は『家族』でも、透子から見た紅霞は『家族以外』に変化しない保証はない。
もし、透子が今までに見てきた他の女達同様、紅霞に好意を持ってしまったら。
紅霞を伴侶として『欲しい』と言ってきたら。
(…………っ)
紅霞はそれまでと異なる種類の悩みを抱えた。
紅霞は透子を必要としている。手放したくない。ずっとそばにいてほしい。
けれど、それは『家族の一員』としての感情だ。『恋人』や『伴侶』に対するものではない。
透子が紅霞に恋してしまったら、今までのように『家族同然』というわけにはいかなくなる。
少なくとも透子は、紅霞に同じ種類の気持ちを返してくれることを望むはずだ。
その望みに、紅霞は応えることができない。
紅霞は透子を拒絶する他なく、拒絶されれば透子は紅霞の家を出て行くだろう。
そして、誰か別の男のものになる。
「…………くそ」
紅霞はがしがしと頭を掻いた。
本当に、なんでこうなるのだろう。なんで自分はこんな顔なのだ。
周囲の男達には「贅沢な」と言われつづけてきたが、こんな顔でなければ、もっと平凡な顔だったなら、こんな事柄で悩む必要はなかったかもしれないのに。
(仮に透子に『結婚してくれ』と言われたら…………俺はどうする?)
少なくともこれまでの女達のように「断る」と即答することはできない。
断ったら透子は離れていってしまう、そう迷うだろう。
けれど、じゃあ「いいぜ」と言えるわけでもない。
紅霞は翠柳以外の伴侶が欲しいわけではないのだから。
(とんだ板挟みだ…………)
仮定の想像にすぎなかったが紅霞は葛藤した。
苦悩のあまり、仕事前に寄るはずだった出版社の前を通り過ぎてしまい、慌ててひきかえす。
街を歩きながら、ずっしりと重い分厚い封筒を手に、紅霞は思わず口に出していた。
次兄は気が向いた時に数行、書いては「こんなありきたりな文章じゃ駄目だ!」「俺の表現したいものは、こんな陳腐なものじゃないんだ!」と文豪きどりで吠え、原稿用紙をぐしゃぐしゃに丸めては「ああ…………!」と苦悩の表情で頭を抱えるまでが定番だった。定番すぎて紅霞も翠柳も心配していなかった。
そういう次兄を目の当たりにしていたので、透子が「小説を書く」と言い出した時も、似たような結果に終わるだろうと予想していた。別にそれが悪いとも思わなかった。
透子はずっと、自由に外に出られない状態がつづいているのだ。小説を書いて気がまぎれるなら、それでいい。
そう思っていた。
けれど実際には、透子は五百枚を書きあげた。
この三ヶ月間少し、紅霞が留守の間にこつこつ書きつづけ、終盤には半泣きで「終わらないよう」「手が痛いよう」「小説の神様、助けてください」とくりかえしながら(部屋をのぞいた紅霞は、止めるべきか本気で迷った)、既定どおりの五百枚をきっちり完成させた。
ただの一枚すら書きあげることのなかった次兄とは比ぶべくもない、偉業であろう。
(これで落選したら、寝込むんじゃないか?)
「うーん」と紅霞は唸った。気の毒だが、現実的な予想である。
紅霞は透子が小説を書いた理由を知っていた。
正確には、推測できていると思う。
要は金銭だろう。透子が投稿する予定の賞は、大賞だと二百万阮の賞金がセットだった。
透子が金銭を求める気持ちはわかる。
紅霞が透子を拾って三ヶ月半。最初に自分の衣装を売って百十五万阮を得た透子だが、かたくなに「宿代は払います!」と主張して十日ごとに二万五千阮ずつ払いつづけ、今週で二十八五万を紅霞に渡している。その他にも、着替えなど必要な物を買い込むのに数万を使っていたので、残金は八十五万阮前後というところか。
期待していた迎えが来る気配もなく、透子が手持ちを心配に思うのも無理はない。
だが。
(別に宿代をもらわなくても、追い出しはしないんだが…………)
何度もそう言っているのに、透子は十日後ごとに変わらず宿代を渡してくる。
「受けとってください。ちゃんと宿代を払うから、私も遠慮せずにここでお世話になれるんです。私のためと思ってください」
それが透子の主張だった。
(真面目というか、律儀だな。次兄はタダ飯を食って、出て行ったのに…………)
紅霞は思う。
(俺が留守の間、家事のほとんどをやってくれているし、最近は料理も上手くなって、それで充分なんだけどな…………)
歩きながら、紅霞はここ三ヶ月半の出来事をふりかえる。
最初はいかにも怪しい、危ない匂いのただよう厄介な存在だった。
彼女の置かれた状況は明らかに素人が関わってはならない類のもので、透子本人の人柄が悪くないようだったのが、紅霞の葛藤に拍車をかけた。
(本人が自主的に出て行ってくれるのが、一番安全で問題なさそうなんだが)
そう、思いさえした。
滞在を許したのは「宿代は払う」と言い出し、実際にそのとおりにしたからだ。
透子は何も持っていなかったが、着ていた衣装が百万阮と聞いて(無事、親元に帰せたら、謝礼が出るのでは?)という考えがよぎったのも事実だ。
食費が二人分に増えることを差し引いても、十日で二万五千阮は魅力的だった。
それほど《四姫神》の梅花麗への返済には難儀していた。
今は働かなくとも入ってくる収入があり、家事の手間がなくなって空いた時間を仕事にまわして給料も少し上がり、経済的精神的には透子が来る前より余裕が生まれていた。
借金の返済すら、少し上乗せできているくらいだ(それでも完済までには何十年とかかるが…………)。
今の紅霞には、最初の頃の透子に対する(できれば自主的に出て行ってほしい)という気持ちは完全に消え失せている。
けれどそれは透子がきちんと宿代を払って、家事をこなしているからだけではない(むろん、一因ではあるが)。
透子が、紅霞の母親をのぞいて唯一「そのままの自分を受け容れてくれた」と感じた女だからだ。
あるいは母親以上かもしれない。
あの、翠柳との記念の木を切られた日。
透子は、はっきり言ってくれた。
紅霞は悪くない。
悪いのは無理強いする《四姫神》のほうだ、と――――
そんなことを言われたのは初めてだった。
この夕蓮の街の《四姫神》花麗が紅霞に執心であり、男の伴侶が忘れられない紅霞はそれを拒絶しつづけている、というのは、この街では有名な話だった。
そして、それに対する人々の感想は一貫していた。
『もったいない』『身の程知らず』『見る目がない馬鹿』…………
散々言われたが、要は、《四姫神》で名家の令嬢で『夕蓮一』を謳われる美少女をお断りするなんて、なんて『身の程知らず』で『頭の悪い愚か者』なんだ、『もったいない』、というわけだった。
紅霞のことを知る者は誰でもそうぼやいたし、紅霞の兄弟や友人達すら同じ反応だった。
「あんなすばらしい良縁に恵まれておいて、なにが不満だ」「梅家の花麗の良さが分からないなんて、頭の病気じゃないか」「女は嫌だ? そんなこと根性でどうにかしろ。意思の力で、どうにでもなる」「そもそも、とっくに死んだ伴侶に操を立てて、なんの意味がある」…………
もっと無責任で無神経で勝手な言葉を投げつけられたこともある。
そして、そういった言葉をもらうたびに紅霞の心は反発し、固く閉ざされるばかりだった。
最近では顔を合わせるたびに「さっさと婿入りしてしまえ」と言われるので(彼らに言わせると「《四姫神》様の気が変わらぬ内に」「《四姫神》様が旬の美女の内に」ということらしい)、兄弟とも友人とも疎遠になっていた。
(俺は翠柳一人でいい。あんないけ好かない女と結婚するくらいなら、一生、独り身でいい。新しい伴侶も子供も要らない)
責められるたび、そう決意をくりかえしていた。
一方で、自分が間違っているのでは? と心がゆらぐ時もある。
男女で結婚して子孫を残すのは、人間を含めたあらゆる生物に備わる本能であり、機能だ。天も国も、そう説いている。
そこから外れる自分は、自分と翠柳は不自然な異物ではないか?
女の花麗に婿入りすることこそ正道であり、自分は間違った道を正さなければならないのではないか?
世間に、世界に背いているのは自分のほうではないか?
間違っているのは自分達ではないか?
そう、迷いが、疑問がよぎる夜がある。
そういう時、紅霞は布団をかぶって無理やり眠ってしまうのが常となっていたが、自分一人ならまだしも、自分を選んだ翠柳まで非難の対象となるのはつらかった。
自分が翠柳を間違った方向に導いてしまったのではないか。
いや、引きずり込んだのではないか。
そんな疑問が常に、頭のどこかにこびりついてきた。
その迷いや苦悶を抱えながら、世間や《四姫神》にただ一人で抵抗する日々は、かなりぎりぎりの状態だった。
助けが現れるあてはなく、毎日は灰色に塗り固められ、人生は結果のわかりきった試合を無理やり進めるだけの、生きる意味も価値もない時間だった。
(早く翠柳に会いたい)
事故でも病でも、なんでもいい。
それだけを願っていた。
あとを追わなかったのは、翠柳自身から「あとは追わないで」「僕の分まで人生を楽しんで、おじいさんになってから来て」「たくさんの土産話を楽しみにしているから」と言われていたから。それだけだ。
翠柳は「楽しんで」と言ったが、自分の人生はこのまま、誰からもどこからも根本的な助けが現れることはなく、ひたすら過ぎるのを待つだけの、退屈で苦痛なものに終わるだろう。
唯一の希望は老いること。
老いてこの容姿が衰えれば、あのしつこい《四姫神》も紅霞への執着を失うだろう。
それだけが希望であり、それを得られた時なら、紅霞は自分の人生を歩めるかもしれなかった。
そう考えてきた。それが、否定することのできぬ現実と思っていたのだが。
――――紅霞さんは悪くない――――
あの日、透子が紅霞にかけてくれた言葉。
『忘れないでください。紅霞さんは悪くない。悪いのは紅霞さんじゃない。紅霞さんが翠柳さんを選んだことも、翠柳さんと結婚したことも、《四姫神》さんを嫌って拒否しつづけていることも、全部、自然な気持ちです。間違ってなんかいません。自分は悪くない、と自信を持ってください。紅霞さんも翠柳さんも、悪くないんです――――』
紅霞を全面肯定し、《四姫神》が、世間がおかしいのだと言いきってくれた、あの時。
あの時の全身が痺れるような胸のふるえを思い出すと、今でも涙がにじみそうになる。
あの時、生まれて初めて、紅霞は母親と翠柳以外の人間に、すべてを受け容れてもらえた気がした。
いや、あるいは母親以上かもしれない。
まだ幼いにも関わらず、際立った美貌に目をつけて、養子や行儀見習いという口実で紅霞を引きとろうとしてきた金持ちの女や男達を、母はきっぱりとはねつけてきた。
それでも彼女が紅霞に望んだのは、普通で立派な縁談だった。
紅霞は男だから、女のように国から生活費が支給されることはない。
だから、経済的に安定して、人柄の良い女性のもとへ婿入りしてほしい。
紅霞の母に限らず、今の世で息子を持つ母全員に共通する思いであり、常識であろう。
だから紅霞が「翠柳と結婚する」と言い出した時、母はあからさまに反対こそしなかったものの、良い顔はしなかった。
「降るような良縁に恵まれているのに、どうしてわざわざ男と…………」、それが母の本音だっただろう。
紅霞が何度も「翠柳以外の伴侶は要らない」と訴え、最終的には「翠柳と出て行く」と言いきったことで、紅霞の母も二人の仲を認めた。
しかし二人が結婚したあとも「今からでも良い女性を見つけてほしい」というのが正直な気持ちだったのではないか。
今となっては確かめようのない事柄だが、母の生前、紅霞はなんとなくそういう雰囲気を感じていた。
透子にはそういう雰囲気すらない。
「紅霞さんは間違っていない」と断言し、挙句に「紅霞さんと翠柳さんがうらやましい」「お二人のようになりたかったです」とまで言ってくれたのだ。
世間に「馬鹿だ」「愚かだ」と言われつづけてきた、自分達の関係を。
透子は認めてくれた。
「価値あるものだ」と称賛してくれたのだ。
「女は無理」という男ですら、相手が花麗と知ると「ゆらぐ」と言っていたのに。
紅霞の知る女のほとんどが「間違っている」「今からでも遅くない、私のところにおいで」「女の良さを知らないだけよ」と、『紅霞の側に問題がある』前提で話してきたのに。
透子だけは「それでいいんだ」と言ってくれたのだ。
単に認めてくれた、というだけではない。《無印》とはいえ、『女』の彼女がそう言ってくれたという点が、なおさら紅霞にとっては貴重で心ふるえる部分だった。
あの時を境に、紅霞の中にあった透子に対する壁や警戒心は嘘のように消え、彼女に対する信頼や親しみにとって代わられた。
今の紅霞にはもう、透子に出て行ってほしい気持ちは微塵もない。
どころか(ずっといてほしい)とさえ、本気で思いはじめている。
この先も透子は家に留まってほしい。
母の衣装を着て家事をこなす透子の姿を見ると、どこかなつかしい気分にさえ襲われる。
このまま透子には、朝、起きたら「おはようございます」と言って、帰ってきたら「おかえりなさい」と迎えてほしい。
今の生活が本当に楽しい。あたたかい。明るくて優しい。
(俺…………寂しかったのか?)
寂しかった、と思う。
当然だ。
母と紅霞の父が亡くなったあと、兄弟は母に代わる収入源として、紅霞や翠柳を金持ちの女や男に売ろうとし、それがきっかけで紅霞は翠柳と生まれ育った家を出た。
それでも翠柳がいれば、と思っていたが、その翠柳も逝ってしまった。
寂しくないはずがない。
ただ、それを認められなかったのではなく、認めたところで改善のあても希望もなかったから、認める意味を見出せなかっただけだ。
だが今は透子がいる。
透子が翠柳の空けた穴をふさいだわけではない。翠柳の穴は誰にも埋められない。
ただ、透子との壁が消えたことで、紅霞は透子を『大事な親しい存在』として受容、認識し、それによって紅霞の孤独は違う方向から埋められていった。
今の透子は紅霞にとって『新しい家族』に等しい。
(透子が出て行く必要はないし、出て行ってほしいとも思わない。迎えが来るまで、ずっと家にいてほしい。危ない奴等が透子を追ってきても、絶対に渡したくない。今のまま家にいてほしいんだ。透子には家に閉じこもってもらうことになるが…………)
そこだけが心苦しい。
《四気神》の守護を持たない《無印》の透子は、男が圧倒的に多いこの世界では格好の獲物だ。
《無印》は手の甲を見れば即、見分けがつく。透子が一人で外に出れば、確実に誘拐されて終わるだろう。実際、初めて出会った時もヤクザ者に誘拐されかかっていた。
なので、外出の際は必ず付き添い、男物を着せて男のふりをさせている。
紅霞が付き添えない仕事中は「絶対に外に出るなよ」と口を酸っぱくして言いきかせていた(この点に関しては、この国に来たばかりの透子より、幼い頃から誘拐の危険にさらされてきた紅霞のほうが、状況をよく理解していると思う)。
透子にはさぞ不本意なことだろう。
紅霞だって本当は、透子にちゃんと女物の服を着せ、好きな所に出かけさせてやりたい。
(けど…………家に閉じ込めたい気もする…………)
透子を失いたくない。ずっと家にいてほしい。毎日、紅霞を見送って、毎日、紅霞に「おかえりなさい」と出迎えてほしい。
新しく見つかった『家族』を失いたくない。閉じ込めてしまいたい。
透子の存在が、翠柳の空けた穴のすべてをふさいでいるわけではない。だか透子は翠柳までいなくなった紅霞の孤独を、たしかに埋めてくれた。
自分を、翠柳との関係を認め、「それでいいのだ」と丸ごと肯定してくれた。
翠柳までもがいなくなり、暗い灰色に冷たく塗りつぶされた紅霞の世界と人生に、明るさとあたたかさをとり戻してくれたのは、間違いなく透子だ。
紅霞は透子を手放したくなかった。
ずっと家にいてほしい。
「土産になにか買って帰ろうか」「次の休みには、弁当を持ってどこかに出かけようか」そんな他愛ないことを考え、楽しむことをとり戻すことができたのも、透子のおかげなのに。
透子が、もし外に出てしまったら。あるいは故郷の家族が迎えに来てしまったら。
透子のような若くて可愛い良い娘なら、あっという間に他の男が連れて行くだろう。
あるいは故郷で良縁が用意され、紅霞の知らない男と結婚してしまうに違いない。
それは嫌だ。
紅霞は透子を独占したい。
他の男に透子を奪われたくない。
翠柳がいれば、透子が連れ去られないよう、交代で見張れたのに。
(そういや、翠柳と透子って、どうなんだろうな。…………とりあえず、翠柳が喜んで世話するのは確実だな。…………透子は遠慮しそうだな)
翠柳は他人の世話を焼くのが好きで、困っている人を見ると、すぐに声をかける性格だった。
透子のように『守ってくれる存在も行くあてもない人』など、大喜びで世話したに違いない。
着せ替え人形のように透子を扱う伴侶と、遠慮して逃げ出そうとする透子の姿までが予想できて、紅霞は口もとをほころばせる。
それに、初めて抱きしめた時に気づいたのだが、透子は翠柳と体格が似ている。
もともと(同じくらいの身長だな)と頭のてっぺんを見おろしながら思っていたのだが、抱きしめると肩幅が翠柳より少し小さいくらいで、肩そのものの形や後頭部の形、少し癖のある髪質はよく似ている。なので、ついつい肩を抱き寄せて頭をなでてしまう。
けれど。
『私の恋愛対象も男性ですから。あまり頻繁に接触されると、落ち着かないというか…………』
そう言われた、あの時。
冷や水を浴びせられた。
紅霞はようやく、あるいは初めて気がついた。
紅霞は同性を伴侶に選んだが、透子は異性を伴侶に選んだ女なのだ。
紅霞にとっての透子は『家族』でも、透子から見た紅霞は『家族以外』に変化しない保証はない。
もし、透子が今までに見てきた他の女達同様、紅霞に好意を持ってしまったら。
紅霞を伴侶として『欲しい』と言ってきたら。
(…………っ)
紅霞はそれまでと異なる種類の悩みを抱えた。
紅霞は透子を必要としている。手放したくない。ずっとそばにいてほしい。
けれど、それは『家族の一員』としての感情だ。『恋人』や『伴侶』に対するものではない。
透子が紅霞に恋してしまったら、今までのように『家族同然』というわけにはいかなくなる。
少なくとも透子は、紅霞に同じ種類の気持ちを返してくれることを望むはずだ。
その望みに、紅霞は応えることができない。
紅霞は透子を拒絶する他なく、拒絶されれば透子は紅霞の家を出て行くだろう。
そして、誰か別の男のものになる。
「…………くそ」
紅霞はがしがしと頭を掻いた。
本当に、なんでこうなるのだろう。なんで自分はこんな顔なのだ。
周囲の男達には「贅沢な」と言われつづけてきたが、こんな顔でなければ、もっと平凡な顔だったなら、こんな事柄で悩む必要はなかったかもしれないのに。
(仮に透子に『結婚してくれ』と言われたら…………俺はどうする?)
少なくともこれまでの女達のように「断る」と即答することはできない。
断ったら透子は離れていってしまう、そう迷うだろう。
けれど、じゃあ「いいぜ」と言えるわけでもない。
紅霞は翠柳以外の伴侶が欲しいわけではないのだから。
(とんだ板挟みだ…………)
仮定の想像にすぎなかったが紅霞は葛藤した。
苦悩のあまり、仕事前に寄るはずだった出版社の前を通り過ぎてしまい、慌ててひきかえす。
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