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「仕事が欲しい…………」
夕食の支度をはじめる前に、裏庭の手押しポンプで桶に水を注ぎながら。
透子はため息とともにぼやいていた。
この夕蓮の街の《四姫神》梅花麗が来訪してから、三日。
ひとまず追加の二万五千阮を支払い、もう十日間の滞在の延長が認められていたが、状況は好転の兆しすら見せていない。
梅花麗については昨日、紅霞が街で「二人目を身ごもった」というニュースを聞いて来ており、母体の安定のため、当面は訪問がやむと予想される。
だが、相変わらず自称・女神は姿を現すどころか気配さえ感じられず、どころか、より深刻な情報を知ってしまった。
(あの《四姫神》さんが、支払いがどうのと言っていたから、ひょっとしたら、とは思っていたけれど…………)
なんと紅霞は、彼女に借金があった!
なんでも翠柳が病に倒れた時に、病院の入院費だの薬代だの、すべての治療費を払ってくれたのが彼女らしい。紅霞はその点については感謝しているようだが、透子としては(お金を貸すことで貸しを作って、紅霞さんが逆らえないように仕向けたんじゃないかな…………)と疑ってしまう(たぶん正解だろう)。
試しに透子が「いくらですか?」と訊いてみたら「四百万阮少し」と返ってきて、絶句した。
紅霞の収入は多くない。日本円に換算して、月収十三万から十八万阮と推定される。貯金もほとんどないらしい。立派に『お金のない若者』だ。
その収入で『借金四百万円』となれば、人生はほぼ詰んでいた。
透子は気が遠くなる。
(ただでさえ、私が泊まっているせいでエンゲル係数があがっているのに…………このうえ借金の返済に滞りまで出たら…………)
そのくせ透子が「十日間の延長にあたって前回同様、二万五千阮を払います」と言うと、「二万でいい。家事をやってもらっているし」などと言い出すのだ。
むろん、透子は反論した。
「そういうわけにはいきません。食費は全部、紅霞さんに出していただいているし、服も紅霞さんのお母様の物をお借りしているんですから」
「あのな、透子」
紅霞はこんこんと説教してきた。
「人が好いのも、ほどほどにしろ。透子の状況を考えると、いつ、どんな事情で大金が必要になるか、わからないぞ? それこそ護衛を雇って、自力で国に帰る可能性だってあるんだ。少しでも貯めておくべきだろ?」
紅霞の正論に、透子はそっと視線を落とす。
「…………自力で帰れる距離なら、良かったんですけれど…………」
「そんなに遠くから連れて来られたのか?」
「…………っ、とにかく!」
透子は断言した。
「お世話になる以上、ちゃんと宿代は出します! そのほうが、私も気が楽なんです! 紅霞さんのためじゃない、私のためと思って受けとってください!」
「ええええ」と紅霞は奇妙なものを見やる目つきで透子を見た。
「なんで、そんなに金を払いたがるんだ…………」
「払いたがっているわけではなくて…………!」
「ああもう、わかった」
こんなやりとりを経て、紅霞に二万五千阮を受けとらせたのだ。
(人が好いのは、どちらですか…………)
透子は暗澹たる気分に襲われる。
「チュン」と肩で呑気な声がした。
「すずさん。なにか、いい仕事をご存じでないですか?」
透子は肩の茶色い小鳥に問いかける。
はたから見るとメルヘンな光景だが、本人はけっこう真剣だった。
ちなみに、すずさんはやたら人慣れしていて、気安く透子の肩や頭に乗ってくる様子を見ると、以前に人に飼われていた経験があるのかもしれない。
「私は《四気神》のいない《無印》だから、安全性を考慮すると、在宅の仕事ということになるんですけれど…………こちらは女性向けの仕事がすごく限られているみたいなんです」
何故なら。
「女は初潮を迎えると、国から生活費が出るからな」
それが紅霞の意見だった。
透子は昨日、食後のお茶をすすりながら紅霞から聞いた話を思い出す。
「艶梅国じゃ、初潮を迎えて出産可能と判断された女には全員、国から毎月、まとまった金額が支給される。庶民なら二世帯が暮らせる金額だ。だから男は結婚したがる。嫁が見つかれば、自分の子供を産んでもらえるだけでなく、経済的にも安定するからな」
(あー…………、そういうことか…………)
透子は深く深く納得した。
仮に『庶民二世帯が一年間、楽に暮らせる金額』を一千万円以上として。
(日本で、年収一千万円以上の若い男性に女性が群がらないはずはない…………男女が入れ替わっているだけで、構造は日本と同じなんだ…………)
「つまりこちらでは、生活の安定を求めて、男性は女性と結婚したがるんですか?」
「生活の安定と自分の子供、だな。子供が生まれれば、自分の家名と財産を継がせられるし、特に娘が生まれれば、その娘にも生活費が支給される。だから、我が家みたいに娘に恵まれないと、妻を失った夫は別の女と再婚するか、息子の嫁をさがす。息子が運よく婿にいければ、父親は自力で稼ぐだけでなく、その息子を頼ることもできる」
「財産や家名を継ぐのは、男性なんですか?」
「《世界樹》が怒る前からの伝統だそうだ。現実問題、家名や財産まで女が継ぐと、男の存在意義が子作り以外、なくなるしな」
「なるほど」
(男女比が異なるだけで、ここまで風習が変わるんだ。文化って、奥が深い…………)
紅霞はさらに説明する。
「女は最低四人の夫を持て、と法で定められている。四人全員が無職でもない限り、働く必要性は薄い。なにより、今はじりじり人口減が進んでいる。女の最優先課題は子供を、特に出産できる娘を一人でも多く生むことだ。で、妊娠すれば時間も体力もごっそり削られる。ますます仕事から遠ざかるわけだ」
「でも、初潮を迎えてから結婚までに、多少の時間はあるのでは?」
「平均して十歳をすぎると迎えるらしいが、結婚の認められる年齢が十五歳だから、たいていは卒業したら、すぐに結婚する。早いやつは十二、三歳で最初の夫が決まっているしな」
「じゃあ…………出産できなくなった女性は? 国は、たとえば高齢や病気で出産できなくなった女性にも、お金を出してくれるんですか?」
「そういう女は警備にまわる。自宅の警備に」
透子の脳裏に『自宅警備員』の単語が浮かぶ。
むろん、紅霞が言うのはそういう意味ではない。
「三十五歳からは、国からの生活費は半減する。けど、産めなくなっても《四気神》は女を守りつづける。だから男が家を留守にしても、女が残って財産や貴重品のそばにいれば、泥棒や強盗に財産を奪われる心配はない。財産を守る女を《四気神》が守るからな。だから《四気神》の憑く女は、年をとっていても重宝されるんだ」
「なるほど」
透子は納得し、感心した。こちらの女性の特性を活かした、理にかなった就職先である。
「あれ? ということは、こちらでは自宅に財産を保管するんですか? 銀行ではなく?」
「銀行は、女のもっとも一般的な就職先だ。金庫の前にずらりと並んでいる」
「じゃあ、王宮とかの警備も、女性の仕事ですか?」
「いや。いないわけじゃないが、絶対数が少ないんで、広い場所だと主力は男の兵士になる」
「なるほど…………」
納得したが、《無印》の透子には不可能な就職先だ。
「《無印》の女性は、どんな仕事に就くんですか?」
「ほぼ就けねぇよ。母親や姉妹に守られながら、一生を家の中で暮らす。守ってくれる存在がいなければ、どこかの金持ちにさらわれるか売られるかして、良くて嫁、悪くて妾として生きていく。あとは、その手の店に売られるか、だな」
ため息をついた透子に、紅霞は言ってくれた。
「心配すんな。泊まっているといっても、透子はちゃんと宿代を払っているし、透子が家の中のことをやってくれるおかげで、俺は前より長く仕事に出られるようになったんだ。おかげで、透子が来る前より収入は増えているんだぜ? 透子が心配することじゃねぇよ」
笑って、わしゃわしゃと透子の頭を撫でた紅霞の表情や言葉に、嘘の響きはなかった。
が、それでも油断はできない。
「私自身が働けるに越したことはないですしね…………」
「チュン」
スズメを肩に乗せ、桶を台所まで運びながら、透子は延々考える。
「日本で在宅の仕事といったら、データ入力とか、イラストレーターとか、ライター…………まずパソコンがない…………内職…………造花作りとか、チラシの封筒入れ…………?」
今一つイメージがわかない。
水瓶に水を足し、もう一度、ポンプへ戻る。
紅霞にも「男性が家で仕事をすることはないんですか?」と訊ねてみたが。
「自分の家なら子守りとか家事、他人の家なら使用人とか下男とかか? 自分の家で稼ぐとなると…………裁縫仕事とか代筆か?」
透子は「うーん」と唸ってしまった。
「裁縫は自信ないですし、代筆もたぶん、字がきれいなことが条件ですよね…………そもそも私、この世界の字や文章を書けるんでしょうか?」
「チュン」
一応、あの自称・女神は『こちらの読み書きもできるようにしておいた』と言っていた気がするのだが、確認はしていない。
桶を置き、ポンプの取っ手を上下に動かす。冷たい水が勢いよくあふれて桶に注がれる。
それを運ぼうとすると、覚えのある声が聞こえた。
「今、帰ったぜ、透子」
「紅霞さん」
家主が裏庭にやって来る。陽光は赤らんできているが、空はまだ明るい。
「今日は早いですね」
「ああ。珍しく仕事が少なくてな。もう帰っていい、と言われた。ただいま」
紅霞は透子の後頭部を抱き、かるく引き寄せる。
透子は内心で小さな悲鳴をあげた。体温と心拍数が一気に跳ねあがる。
「あ、あの、紅霞さん…………」
「ん?」
見あげた紅霞は平然として「なにか問題か?」という表情だ。本気でそう思っているようだ。
《四姫神》の来訪から三日。
紅霞の態度は明らかに変わっていた。
これまではお互い、一緒にいてもどこかぎこちない、距離を測りかねている空気があった。
だが、共に切り倒された木をなんとか処置し、「紅霞は悪くない」と語りあった、あの日。
あの日以来、両者の間には――――少なくとも紅霞のほうは、その心理的な壁がぐんと低くなった、もしくは消えたようだった。
あの日以来、紅霞の透子に対する態度は明らかに軟化している。
具体的には、よく透子に触れるようになった。
朝起きて、台所で顔を合わせた時。仕事に出るのを玄関で見送る時。今のように仕事から帰ってきた時や、夜、互いの部屋に戻る前。
紅霞は気安く透子の頭をなでたり、自分のほうに引き寄せて、背中をぽんぽん叩いたりする。
紅霞の平然とした表情と気負いのない仕草から察するに、本人に特別な意図はまったくないようだ。たぶん、欧米の映画で家族相手に『ただいま』や『行ってきます』の抱擁をするような感覚なのだろう。
あるいはこの世界――――この艶梅国では、ぱっと見は中華風ファンタジーの世界でも、挨拶は欧米流なのかもしれない。
しかし透子のほうは、それで済まなかった。
透子は日本人で、男性を愛する女性で――――困ったことに、紅霞はとびきりの美男子なのである。引き寄せられると、くらくらするほどに。
「中に入ろうぜ。饅頭と菓子を買ってきたんだ。あと土産もあるし」
言いながら、紅霞は水を汲んだ桶を持ちあげる。
「あ、それは私が」
「いいって。俺のほうが力があるしな」
気安い、すてきな笑顔を見せてくれる。
笑顔の回数が明らかに増えたのも、変化の一つだった。
そしてこんな風に、よく気を遣ってくれる。
今までも親切でなかったわけではないが(そもそも親切でなかったら、出会ったばかりの赤の他人を『行くあてがない』という理由で泊めてくれるはずがない)、今はこちらがいたたまれなくなるほど優しくしてくれる。
(死にそう…………心臓がもたない…………)
比喩でも冗談でもなく、透子は思った。
紅霞につづいて台所に戻り、紅霞は水瓶に桶の水を注ぐ。
「お茶、淹れますね」
「夕食には少し早いけど、買ってきた菓子を食おうぜ」
桶を片付けた紅霞は肩にかけていた袋を置き、小さな包みをとり出した。包みを開くと、花の形の小さな菓子が現れる。
「わあ、かわいい」
透子も顔をほころばせる。
わかってきたことだが、紅霞はけっこう甘い物が好きらしい(逆に酒はあまり嗜まない)。
以前からも時折、菓子を買って来ることがあったが、《四姫神》の件以来、毎日、買って来ては透子に「食べようぜ」と誘ってくる。これも気遣いとか優しさの範疇だろうか。
今日はさらにお土産があった。
「あと、こっちだ」
紅霞は四冊の本を透子に差し出した。
「本ですか?」
こちらにもあるんだ、と透子は新情報を頭にインプットする。
手にとると、本は手触りこそ悪いが紙製で、製本も日本と大差ない。庶民の紅霞が四冊も手に入れて来るあたり、やはり中世よりも近世寄りなのだろう。庶民の識字率が高いことも示している。
「貸本屋がいたから、適当に借りてきた。『家事が済むと、することがない』って言ってただろ? 悪いが、一人では外に出してやれないから、俺がいない間はそれで暇を潰していてくれ」
「わざわざ借りて来てくれたんですか? なんだか、お世話になってばかりで…………」
透子は恐縮したが、紅霞の返答は明るい。
「貸本だから、たいした金額じゃねぇよ。何度も言うが、透子はちゃんと宿代を払っていて、家事もやってくれてるんだから、そこまで遠慮すんな」
ぽん、と、またもや頭をなでられる。
心で悲鳴をあげ、透子はとうとう口に出さざるをえなかった。
「あ、あの。そういうの、やめましょう」
「ん? 『そういうの』?」
「その…………頭をなでるとか、肩に手を置くとか…………」
紅霞のさわやかな優しい表情が一瞬で曇る。
「嫌だったのか?」
「違います!」
わりと本気でショックを受けたっぽい反応に、透子は本気で胸が痛んだし、本気で否定していた。
「嫌とかではないんです。本当に。ただ、その…………紅霞さんは男性ですから…………」
「? ああ」
首をかしげる紅霞は、本気で透子の言いたいことがわからないらしい。
透子は真っ赤になりながら、懸命に伝えようとした。
(三十歳、三十歳、肉体は二十歳でも、私は、中身は三十歳! 逃げられたけど、婚約者もいた! 恋愛初心者の中学生じゃない! 三十歳のオバサン!!)
「その、紅霞さんに特別な意図がないのは理解しています。紅霞さんの恋愛対象は男性ですし。でも…………その、私も、私の恋愛対象も男性ですから。あまり頻繁に接触されると、落ち着かないというか…………嫌だというわけではないし、仲良くしたいのはもちろんなのですが、『仲良く』の度合いが問題で…………」
しばし、きょとんとしていた紅霞は(この『きょとん』が、また格別に可愛らしかった)、ふいに「ああ!」と悟った。
「そうか。そうだったな。悪い。透子が女なのはわかってたが、なんというか…………母親とか、そういう感覚でいた。気をつける」
紅霞は頭をかいて謝罪する。
「いえ、気をつけていただければ…………」
そう透子は答えたが、内心でショックを受けているのは否定できなかった。
(家族みたいな感覚だったんだ…………やっぱり…………)
透子と紅霞は男と女だが、紅霞の恋愛対象は異性ではない。ややこしいが、彼にとっての透子は、異性愛者とっての『同性の友人』なのだろう。つまり恋愛対象ではない。
だが異性愛者の透子にとっては、紅霞はれっきとした『恋愛対象になる異性』である。まして、とびきりの美男子で、十日間以上、生活を共にして人柄にも触れ、最近では今まで以上に優しくさえしてもらっている。
いつ『感謝』が『特別な感情』に変化するか、気が気でならなかった。
二年後に日本に帰る予定でいる以上、透子はこの世界で恋人を作る気はない。
離れ離れになることを前提にした関係なんて無責任だと思うし、透子にとっても余分な傷を自分から負う行為だ。
それでなくとも紅霞は、亡くなった伴侶を四年が過ぎた今でも想いつづけている男性であり、同性が恋愛対象である。
「はじめから失恋が確定している恋に、むざむざ落ちて、どうする」としか思えない。
(それでなくとも、夫に逃げられて、まだ一ヶ月も経っていないのに…………現金すぎる)
透子は無理やり自分を納得させ、紅霞の様子をうかがう。
紅霞は怒りや不愉快は見せていなかったが、「しゅん」とも「ちぇっ」とも受けとれる表情をしていた。
(本気で残念がっているのかな…………なんとなく思っていたけれど、いったん打ち解けると、ぐっと距離をちぢめてくるタイプの人っぽいなぁ…………)
優しいが、打ち解けるまでは警戒心が強いというか、慎重な性格なのだろう。
一方で、いったん「こいつは信用できる」と警戒を解くと、一気に打ち解けて気安く接するタイプに見受けられた。
(人によっては、急激な変化にびっくりしそう。変な誤解をさせてしまうタイプかも。…………させたことがあるのかも…………)
「良い奴だ」と信用して警戒を解いた結果、「この人、私が好きなのかも」と女の子に誤解させて告白される…………容易に想像できる光景だ。挙句に「俺は女は好きじゃない」とお断りして「なら、どうしてあんなに優しくしたの!?」と相手を怒らせるか、悲しませた結末まで見える。今の透子は、その簡易バージョンだろう。
透子はひそかに肩を落とし、話題を変えた。
「貸本屋なんてあるんですね。これは、どんな話ですか?」
「ん? ああ。少し前の人気作だ。前・中・後編で、未来世界の主人公が、天空と世界を支配する女王と出会って身分違いの恋に落ちて、政治や戦争をする話」
「未来世界…………ですか?」
SF系だろうか。
「最近の流行だな。未来世界を舞台に、冒険に出たり、戦争が起きたり起こしたり」
「どうして、未来なんですか?」
「夢があるからじゃないか? やっぱり。今、科学が発達して、どんどん便利な機械が発明されて、ちゃんと効く薬も作られて、治らないと思われた病気がいくつも治っているしな」
「夢…………科学がですか?」
「夢だろ? 今はどんどん科学が発達して、農業は生産性があがって、医学も発達している。『このままいけば、未来は楽園に違いない』、そういう考えが小説の世界でも主流なんだろ」
「うーん」と透子は考える。
「ということは…………こちらには魔法は存在しないんですか? 中華風世界なら『方術』とか『道術』でしょうか? 中世とか、昔の世界に憧れたりはしないんですか?」
「昔は全部、人の手でやる不便な生活で、病人はまともな治療を受けられなかった時代だぜ? 憧れる、ってのはないな。道術も、しょせん科学的な知識の無さを利用したインチキだしな」
「ははあ」と透子は察した。
たとえばネットを中心とした最近の日本の小説界隈では、明らかに『中世』とか『魔法』を扱うファンタジー系の話が人気だ。一方でSF業界は、もうずっと下火だ。
あくまで透子の勝手な推測だが、その一因として、化学が発展した日本では、科学の限界も見えはじめ、科学技術の発展にともなうデメリットも明らかになってきており、多くの人は『科学の発展』というものに夢を見にくくなっているのではないか。
だから、科学に代わる『夢』として『魔法』に夢やロマンを感じるようになり、魔法が生きていた中世の時代設定に人気が集まっているのではないか(むろん、実際の中世は過酷なので、そこは『中世風の魔法がある世界』にアレンジされる。それによって、より憧れやすくなっている)。
対して紅霞の世界では、まだ科学がそこまで発達していない。そのため科学の粗も見えていない。一方で、魔法や、科学の未発達な時代はすぐそこにあった『近い過去』であり、ひょっとしたら、地方にでも行けば簡単に触れられる世界であり、だからこそ『夢がない』。
ゆえに『未来世界』という設定が流行っているのではないだろうか。
(まあ、素人の勝手な推測だけれど)
「紅霞さんは、この本を読んだことあるんですか? 面白かったですか?」
「面白かったぜ。恋愛部分はぴんとこなかったけどな」
男女の恋愛を扱った内容なら、紅霞にはそうなるのだろう。
「…………紅霞さんの好きな本はないんですか?」
興味がわいて訊ねてみただけの質問だったが、紅霞は少し眉間を寄せた。
「あるにはあるが…………透子にはわからない内容だと思うぜ?」
「読んでみないと、わからないですよ。どんな本ですか?」
「待ってろ」と紅霞は自室に戻り、一冊の本を持って戻って来た。
「透子には面白くないと思うが…………」
「お借りしますね」
いかにも古本といった風情の、変色しかかった一冊を受けとる。
本は紅霞の手の温度が残っていて、否応なしに透子の胸をあたたかく騒がせた。
透子は礼を述べ、沸いた湯で茶を淹れ、紅霞と二人、遅いおやつの時間を過ごす。
やがて、二人で夕食の支度にとりかかった。
夕食の支度をはじめる前に、裏庭の手押しポンプで桶に水を注ぎながら。
透子はため息とともにぼやいていた。
この夕蓮の街の《四姫神》梅花麗が来訪してから、三日。
ひとまず追加の二万五千阮を支払い、もう十日間の滞在の延長が認められていたが、状況は好転の兆しすら見せていない。
梅花麗については昨日、紅霞が街で「二人目を身ごもった」というニュースを聞いて来ており、母体の安定のため、当面は訪問がやむと予想される。
だが、相変わらず自称・女神は姿を現すどころか気配さえ感じられず、どころか、より深刻な情報を知ってしまった。
(あの《四姫神》さんが、支払いがどうのと言っていたから、ひょっとしたら、とは思っていたけれど…………)
なんと紅霞は、彼女に借金があった!
なんでも翠柳が病に倒れた時に、病院の入院費だの薬代だの、すべての治療費を払ってくれたのが彼女らしい。紅霞はその点については感謝しているようだが、透子としては(お金を貸すことで貸しを作って、紅霞さんが逆らえないように仕向けたんじゃないかな…………)と疑ってしまう(たぶん正解だろう)。
試しに透子が「いくらですか?」と訊いてみたら「四百万阮少し」と返ってきて、絶句した。
紅霞の収入は多くない。日本円に換算して、月収十三万から十八万阮と推定される。貯金もほとんどないらしい。立派に『お金のない若者』だ。
その収入で『借金四百万円』となれば、人生はほぼ詰んでいた。
透子は気が遠くなる。
(ただでさえ、私が泊まっているせいでエンゲル係数があがっているのに…………このうえ借金の返済に滞りまで出たら…………)
そのくせ透子が「十日間の延長にあたって前回同様、二万五千阮を払います」と言うと、「二万でいい。家事をやってもらっているし」などと言い出すのだ。
むろん、透子は反論した。
「そういうわけにはいきません。食費は全部、紅霞さんに出していただいているし、服も紅霞さんのお母様の物をお借りしているんですから」
「あのな、透子」
紅霞はこんこんと説教してきた。
「人が好いのも、ほどほどにしろ。透子の状況を考えると、いつ、どんな事情で大金が必要になるか、わからないぞ? それこそ護衛を雇って、自力で国に帰る可能性だってあるんだ。少しでも貯めておくべきだろ?」
紅霞の正論に、透子はそっと視線を落とす。
「…………自力で帰れる距離なら、良かったんですけれど…………」
「そんなに遠くから連れて来られたのか?」
「…………っ、とにかく!」
透子は断言した。
「お世話になる以上、ちゃんと宿代は出します! そのほうが、私も気が楽なんです! 紅霞さんのためじゃない、私のためと思って受けとってください!」
「ええええ」と紅霞は奇妙なものを見やる目つきで透子を見た。
「なんで、そんなに金を払いたがるんだ…………」
「払いたがっているわけではなくて…………!」
「ああもう、わかった」
こんなやりとりを経て、紅霞に二万五千阮を受けとらせたのだ。
(人が好いのは、どちらですか…………)
透子は暗澹たる気分に襲われる。
「チュン」と肩で呑気な声がした。
「すずさん。なにか、いい仕事をご存じでないですか?」
透子は肩の茶色い小鳥に問いかける。
はたから見るとメルヘンな光景だが、本人はけっこう真剣だった。
ちなみに、すずさんはやたら人慣れしていて、気安く透子の肩や頭に乗ってくる様子を見ると、以前に人に飼われていた経験があるのかもしれない。
「私は《四気神》のいない《無印》だから、安全性を考慮すると、在宅の仕事ということになるんですけれど…………こちらは女性向けの仕事がすごく限られているみたいなんです」
何故なら。
「女は初潮を迎えると、国から生活費が出るからな」
それが紅霞の意見だった。
透子は昨日、食後のお茶をすすりながら紅霞から聞いた話を思い出す。
「艶梅国じゃ、初潮を迎えて出産可能と判断された女には全員、国から毎月、まとまった金額が支給される。庶民なら二世帯が暮らせる金額だ。だから男は結婚したがる。嫁が見つかれば、自分の子供を産んでもらえるだけでなく、経済的にも安定するからな」
(あー…………、そういうことか…………)
透子は深く深く納得した。
仮に『庶民二世帯が一年間、楽に暮らせる金額』を一千万円以上として。
(日本で、年収一千万円以上の若い男性に女性が群がらないはずはない…………男女が入れ替わっているだけで、構造は日本と同じなんだ…………)
「つまりこちらでは、生活の安定を求めて、男性は女性と結婚したがるんですか?」
「生活の安定と自分の子供、だな。子供が生まれれば、自分の家名と財産を継がせられるし、特に娘が生まれれば、その娘にも生活費が支給される。だから、我が家みたいに娘に恵まれないと、妻を失った夫は別の女と再婚するか、息子の嫁をさがす。息子が運よく婿にいければ、父親は自力で稼ぐだけでなく、その息子を頼ることもできる」
「財産や家名を継ぐのは、男性なんですか?」
「《世界樹》が怒る前からの伝統だそうだ。現実問題、家名や財産まで女が継ぐと、男の存在意義が子作り以外、なくなるしな」
「なるほど」
(男女比が異なるだけで、ここまで風習が変わるんだ。文化って、奥が深い…………)
紅霞はさらに説明する。
「女は最低四人の夫を持て、と法で定められている。四人全員が無職でもない限り、働く必要性は薄い。なにより、今はじりじり人口減が進んでいる。女の最優先課題は子供を、特に出産できる娘を一人でも多く生むことだ。で、妊娠すれば時間も体力もごっそり削られる。ますます仕事から遠ざかるわけだ」
「でも、初潮を迎えてから結婚までに、多少の時間はあるのでは?」
「平均して十歳をすぎると迎えるらしいが、結婚の認められる年齢が十五歳だから、たいていは卒業したら、すぐに結婚する。早いやつは十二、三歳で最初の夫が決まっているしな」
「じゃあ…………出産できなくなった女性は? 国は、たとえば高齢や病気で出産できなくなった女性にも、お金を出してくれるんですか?」
「そういう女は警備にまわる。自宅の警備に」
透子の脳裏に『自宅警備員』の単語が浮かぶ。
むろん、紅霞が言うのはそういう意味ではない。
「三十五歳からは、国からの生活費は半減する。けど、産めなくなっても《四気神》は女を守りつづける。だから男が家を留守にしても、女が残って財産や貴重品のそばにいれば、泥棒や強盗に財産を奪われる心配はない。財産を守る女を《四気神》が守るからな。だから《四気神》の憑く女は、年をとっていても重宝されるんだ」
「なるほど」
透子は納得し、感心した。こちらの女性の特性を活かした、理にかなった就職先である。
「あれ? ということは、こちらでは自宅に財産を保管するんですか? 銀行ではなく?」
「銀行は、女のもっとも一般的な就職先だ。金庫の前にずらりと並んでいる」
「じゃあ、王宮とかの警備も、女性の仕事ですか?」
「いや。いないわけじゃないが、絶対数が少ないんで、広い場所だと主力は男の兵士になる」
「なるほど…………」
納得したが、《無印》の透子には不可能な就職先だ。
「《無印》の女性は、どんな仕事に就くんですか?」
「ほぼ就けねぇよ。母親や姉妹に守られながら、一生を家の中で暮らす。守ってくれる存在がいなければ、どこかの金持ちにさらわれるか売られるかして、良くて嫁、悪くて妾として生きていく。あとは、その手の店に売られるか、だな」
ため息をついた透子に、紅霞は言ってくれた。
「心配すんな。泊まっているといっても、透子はちゃんと宿代を払っているし、透子が家の中のことをやってくれるおかげで、俺は前より長く仕事に出られるようになったんだ。おかげで、透子が来る前より収入は増えているんだぜ? 透子が心配することじゃねぇよ」
笑って、わしゃわしゃと透子の頭を撫でた紅霞の表情や言葉に、嘘の響きはなかった。
が、それでも油断はできない。
「私自身が働けるに越したことはないですしね…………」
「チュン」
スズメを肩に乗せ、桶を台所まで運びながら、透子は延々考える。
「日本で在宅の仕事といったら、データ入力とか、イラストレーターとか、ライター…………まずパソコンがない…………内職…………造花作りとか、チラシの封筒入れ…………?」
今一つイメージがわかない。
水瓶に水を足し、もう一度、ポンプへ戻る。
紅霞にも「男性が家で仕事をすることはないんですか?」と訊ねてみたが。
「自分の家なら子守りとか家事、他人の家なら使用人とか下男とかか? 自分の家で稼ぐとなると…………裁縫仕事とか代筆か?」
透子は「うーん」と唸ってしまった。
「裁縫は自信ないですし、代筆もたぶん、字がきれいなことが条件ですよね…………そもそも私、この世界の字や文章を書けるんでしょうか?」
「チュン」
一応、あの自称・女神は『こちらの読み書きもできるようにしておいた』と言っていた気がするのだが、確認はしていない。
桶を置き、ポンプの取っ手を上下に動かす。冷たい水が勢いよくあふれて桶に注がれる。
それを運ぼうとすると、覚えのある声が聞こえた。
「今、帰ったぜ、透子」
「紅霞さん」
家主が裏庭にやって来る。陽光は赤らんできているが、空はまだ明るい。
「今日は早いですね」
「ああ。珍しく仕事が少なくてな。もう帰っていい、と言われた。ただいま」
紅霞は透子の後頭部を抱き、かるく引き寄せる。
透子は内心で小さな悲鳴をあげた。体温と心拍数が一気に跳ねあがる。
「あ、あの、紅霞さん…………」
「ん?」
見あげた紅霞は平然として「なにか問題か?」という表情だ。本気でそう思っているようだ。
《四姫神》の来訪から三日。
紅霞の態度は明らかに変わっていた。
これまではお互い、一緒にいてもどこかぎこちない、距離を測りかねている空気があった。
だが、共に切り倒された木をなんとか処置し、「紅霞は悪くない」と語りあった、あの日。
あの日以来、両者の間には――――少なくとも紅霞のほうは、その心理的な壁がぐんと低くなった、もしくは消えたようだった。
あの日以来、紅霞の透子に対する態度は明らかに軟化している。
具体的には、よく透子に触れるようになった。
朝起きて、台所で顔を合わせた時。仕事に出るのを玄関で見送る時。今のように仕事から帰ってきた時や、夜、互いの部屋に戻る前。
紅霞は気安く透子の頭をなでたり、自分のほうに引き寄せて、背中をぽんぽん叩いたりする。
紅霞の平然とした表情と気負いのない仕草から察するに、本人に特別な意図はまったくないようだ。たぶん、欧米の映画で家族相手に『ただいま』や『行ってきます』の抱擁をするような感覚なのだろう。
あるいはこの世界――――この艶梅国では、ぱっと見は中華風ファンタジーの世界でも、挨拶は欧米流なのかもしれない。
しかし透子のほうは、それで済まなかった。
透子は日本人で、男性を愛する女性で――――困ったことに、紅霞はとびきりの美男子なのである。引き寄せられると、くらくらするほどに。
「中に入ろうぜ。饅頭と菓子を買ってきたんだ。あと土産もあるし」
言いながら、紅霞は水を汲んだ桶を持ちあげる。
「あ、それは私が」
「いいって。俺のほうが力があるしな」
気安い、すてきな笑顔を見せてくれる。
笑顔の回数が明らかに増えたのも、変化の一つだった。
そしてこんな風に、よく気を遣ってくれる。
今までも親切でなかったわけではないが(そもそも親切でなかったら、出会ったばかりの赤の他人を『行くあてがない』という理由で泊めてくれるはずがない)、今はこちらがいたたまれなくなるほど優しくしてくれる。
(死にそう…………心臓がもたない…………)
比喩でも冗談でもなく、透子は思った。
紅霞につづいて台所に戻り、紅霞は水瓶に桶の水を注ぐ。
「お茶、淹れますね」
「夕食には少し早いけど、買ってきた菓子を食おうぜ」
桶を片付けた紅霞は肩にかけていた袋を置き、小さな包みをとり出した。包みを開くと、花の形の小さな菓子が現れる。
「わあ、かわいい」
透子も顔をほころばせる。
わかってきたことだが、紅霞はけっこう甘い物が好きらしい(逆に酒はあまり嗜まない)。
以前からも時折、菓子を買って来ることがあったが、《四姫神》の件以来、毎日、買って来ては透子に「食べようぜ」と誘ってくる。これも気遣いとか優しさの範疇だろうか。
今日はさらにお土産があった。
「あと、こっちだ」
紅霞は四冊の本を透子に差し出した。
「本ですか?」
こちらにもあるんだ、と透子は新情報を頭にインプットする。
手にとると、本は手触りこそ悪いが紙製で、製本も日本と大差ない。庶民の紅霞が四冊も手に入れて来るあたり、やはり中世よりも近世寄りなのだろう。庶民の識字率が高いことも示している。
「貸本屋がいたから、適当に借りてきた。『家事が済むと、することがない』って言ってただろ? 悪いが、一人では外に出してやれないから、俺がいない間はそれで暇を潰していてくれ」
「わざわざ借りて来てくれたんですか? なんだか、お世話になってばかりで…………」
透子は恐縮したが、紅霞の返答は明るい。
「貸本だから、たいした金額じゃねぇよ。何度も言うが、透子はちゃんと宿代を払っていて、家事もやってくれてるんだから、そこまで遠慮すんな」
ぽん、と、またもや頭をなでられる。
心で悲鳴をあげ、透子はとうとう口に出さざるをえなかった。
「あ、あの。そういうの、やめましょう」
「ん? 『そういうの』?」
「その…………頭をなでるとか、肩に手を置くとか…………」
紅霞のさわやかな優しい表情が一瞬で曇る。
「嫌だったのか?」
「違います!」
わりと本気でショックを受けたっぽい反応に、透子は本気で胸が痛んだし、本気で否定していた。
「嫌とかではないんです。本当に。ただ、その…………紅霞さんは男性ですから…………」
「? ああ」
首をかしげる紅霞は、本気で透子の言いたいことがわからないらしい。
透子は真っ赤になりながら、懸命に伝えようとした。
(三十歳、三十歳、肉体は二十歳でも、私は、中身は三十歳! 逃げられたけど、婚約者もいた! 恋愛初心者の中学生じゃない! 三十歳のオバサン!!)
「その、紅霞さんに特別な意図がないのは理解しています。紅霞さんの恋愛対象は男性ですし。でも…………その、私も、私の恋愛対象も男性ですから。あまり頻繁に接触されると、落ち着かないというか…………嫌だというわけではないし、仲良くしたいのはもちろんなのですが、『仲良く』の度合いが問題で…………」
しばし、きょとんとしていた紅霞は(この『きょとん』が、また格別に可愛らしかった)、ふいに「ああ!」と悟った。
「そうか。そうだったな。悪い。透子が女なのはわかってたが、なんというか…………母親とか、そういう感覚でいた。気をつける」
紅霞は頭をかいて謝罪する。
「いえ、気をつけていただければ…………」
そう透子は答えたが、内心でショックを受けているのは否定できなかった。
(家族みたいな感覚だったんだ…………やっぱり…………)
透子と紅霞は男と女だが、紅霞の恋愛対象は異性ではない。ややこしいが、彼にとっての透子は、異性愛者とっての『同性の友人』なのだろう。つまり恋愛対象ではない。
だが異性愛者の透子にとっては、紅霞はれっきとした『恋愛対象になる異性』である。まして、とびきりの美男子で、十日間以上、生活を共にして人柄にも触れ、最近では今まで以上に優しくさえしてもらっている。
いつ『感謝』が『特別な感情』に変化するか、気が気でならなかった。
二年後に日本に帰る予定でいる以上、透子はこの世界で恋人を作る気はない。
離れ離れになることを前提にした関係なんて無責任だと思うし、透子にとっても余分な傷を自分から負う行為だ。
それでなくとも紅霞は、亡くなった伴侶を四年が過ぎた今でも想いつづけている男性であり、同性が恋愛対象である。
「はじめから失恋が確定している恋に、むざむざ落ちて、どうする」としか思えない。
(それでなくとも、夫に逃げられて、まだ一ヶ月も経っていないのに…………現金すぎる)
透子は無理やり自分を納得させ、紅霞の様子をうかがう。
紅霞は怒りや不愉快は見せていなかったが、「しゅん」とも「ちぇっ」とも受けとれる表情をしていた。
(本気で残念がっているのかな…………なんとなく思っていたけれど、いったん打ち解けると、ぐっと距離をちぢめてくるタイプの人っぽいなぁ…………)
優しいが、打ち解けるまでは警戒心が強いというか、慎重な性格なのだろう。
一方で、いったん「こいつは信用できる」と警戒を解くと、一気に打ち解けて気安く接するタイプに見受けられた。
(人によっては、急激な変化にびっくりしそう。変な誤解をさせてしまうタイプかも。…………させたことがあるのかも…………)
「良い奴だ」と信用して警戒を解いた結果、「この人、私が好きなのかも」と女の子に誤解させて告白される…………容易に想像できる光景だ。挙句に「俺は女は好きじゃない」とお断りして「なら、どうしてあんなに優しくしたの!?」と相手を怒らせるか、悲しませた結末まで見える。今の透子は、その簡易バージョンだろう。
透子はひそかに肩を落とし、話題を変えた。
「貸本屋なんてあるんですね。これは、どんな話ですか?」
「ん? ああ。少し前の人気作だ。前・中・後編で、未来世界の主人公が、天空と世界を支配する女王と出会って身分違いの恋に落ちて、政治や戦争をする話」
「未来世界…………ですか?」
SF系だろうか。
「最近の流行だな。未来世界を舞台に、冒険に出たり、戦争が起きたり起こしたり」
「どうして、未来なんですか?」
「夢があるからじゃないか? やっぱり。今、科学が発達して、どんどん便利な機械が発明されて、ちゃんと効く薬も作られて、治らないと思われた病気がいくつも治っているしな」
「夢…………科学がですか?」
「夢だろ? 今はどんどん科学が発達して、農業は生産性があがって、医学も発達している。『このままいけば、未来は楽園に違いない』、そういう考えが小説の世界でも主流なんだろ」
「うーん」と透子は考える。
「ということは…………こちらには魔法は存在しないんですか? 中華風世界なら『方術』とか『道術』でしょうか? 中世とか、昔の世界に憧れたりはしないんですか?」
「昔は全部、人の手でやる不便な生活で、病人はまともな治療を受けられなかった時代だぜ? 憧れる、ってのはないな。道術も、しょせん科学的な知識の無さを利用したインチキだしな」
「ははあ」と透子は察した。
たとえばネットを中心とした最近の日本の小説界隈では、明らかに『中世』とか『魔法』を扱うファンタジー系の話が人気だ。一方でSF業界は、もうずっと下火だ。
あくまで透子の勝手な推測だが、その一因として、化学が発展した日本では、科学の限界も見えはじめ、科学技術の発展にともなうデメリットも明らかになってきており、多くの人は『科学の発展』というものに夢を見にくくなっているのではないか。
だから、科学に代わる『夢』として『魔法』に夢やロマンを感じるようになり、魔法が生きていた中世の時代設定に人気が集まっているのではないか(むろん、実際の中世は過酷なので、そこは『中世風の魔法がある世界』にアレンジされる。それによって、より憧れやすくなっている)。
対して紅霞の世界では、まだ科学がそこまで発達していない。そのため科学の粗も見えていない。一方で、魔法や、科学の未発達な時代はすぐそこにあった『近い過去』であり、ひょっとしたら、地方にでも行けば簡単に触れられる世界であり、だからこそ『夢がない』。
ゆえに『未来世界』という設定が流行っているのではないだろうか。
(まあ、素人の勝手な推測だけれど)
「紅霞さんは、この本を読んだことあるんですか? 面白かったですか?」
「面白かったぜ。恋愛部分はぴんとこなかったけどな」
男女の恋愛を扱った内容なら、紅霞にはそうなるのだろう。
「…………紅霞さんの好きな本はないんですか?」
興味がわいて訊ねてみただけの質問だったが、紅霞は少し眉間を寄せた。
「あるにはあるが…………透子にはわからない内容だと思うぜ?」
「読んでみないと、わからないですよ。どんな本ですか?」
「待ってろ」と紅霞は自室に戻り、一冊の本を持って戻って来た。
「透子には面白くないと思うが…………」
「お借りしますね」
いかにも古本といった風情の、変色しかかった一冊を受けとる。
本は紅霞の手の温度が残っていて、否応なしに透子の胸をあたたかく騒がせた。
透子は礼を述べ、沸いた湯で茶を淹れ、紅霞と二人、遅いおやつの時間を過ごす。
やがて、二人で夕食の支度にとりかかった。
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