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紅霞がおずおずと透子の背中に手をまわし、子供をあやすように撫ではじめる。
触れられた部分から優しい熱が伝わり、透子はますます心が解けて、涙が止まらなくなる。
「私は…………お二人のような関係になりたかったです。結婚式に逃げられるような結末ではなく…………」
「…………俺は逆に、少し透子がうらやましい。透子の伴侶は逃げたとはいえ、生きている」
紅霞の切なさそうな声に、透子は顔をあげた。
「翠柳に同じことをされたら…………他の奴を選ばれたら、つらいとは思う。だが…………それであいつが生きていられるなら…………あんなに早く、逝ってしまわずに済むなら…………俺は――――ひょっとしたら、透子のほうの結末を――――」
そこで口をつぐんだ。透子に悪い、と遠慮したのかもしれない。
透子は訊きたかった。
「紅霞さんは、大丈夫なんですか? 翠柳さんに捨てられても…………翠柳さんが他の男性を選んでも、翠柳さんが生きてさえいるなら、それでいい、と…………本気で思えるんですか?」
透子にそれは難しい。異世界につれて来られた今ですら、思い出すと内側から燃えあがるような怒りと嫉妬、屈辱を感じるのに。
「そうだな…………」と紅霞は天井を見あげて、考えながら答える。
「翠柳に出て行かれたら…………そりゃ傷つくだろうな。傷ついて…………怒って…………ひょっとしたら殴る可能性もある(この辺の発想は『男性っぽいな』と透子は思う)。けど」
紅霞は透子に笑いかけた。
「『だまされたとしても、こいつなら』って思ったのが、結婚を決めた理由の一つだしな」
清々しさと哀しさの両方を白い光のように放つ笑顔だった。
普段の艶麗な印象がかき消える。
「たとえだまされたとしても、裏切られたとしても、こいつなら、翠柳ならしかたない。きっと最後には許す。許してしまう。そう思った時、翠柳とずっと一緒にいたいと思った。こいつとなら一生だって共にいられる、と。この世界は、俺達みたいな守ってくれる女を失った下層の男には厳しい世界だ。けど、そんな世界でも、翠柳となら生きていけるし、生きたいと思う。だから…………しかたない。逃げられたとしても…………あいつが生きているなら…………幸せになるなら…………怒って怒って、絶望して…………それでも最後には受け容れて、許す。…………と思う」
哀しげで、とても愛おしそうな笑顔だった。
透子は結婚式以来、ずっとかたく凍りついて動かなかった心の奥がふるえるのがわかった。
紅霞の言葉が透子の胸の奥に届いて、冷たかった部分を水のように溶かしていく。
ふたたび涙がこぼれた。今度は先ほどのような号泣ではなかった。
「うらやましいです」
透子はふるえる唇で言葉を発した。
この男性がまぶしい。
「私も、そんな風に想いたい…………」
憎みつづけ、恨みつづけるのではなく。
祝福はできなくとも、せめて現実を受け容れ、心を切り替えて前へ。
「大丈夫だろ」
紅霞は保証した。気安く、それでいて信頼をにじませる声で。
「透子なら大丈夫だ。透子は本気でそいつに惚れてたんだろ? 今、ここまで泣いているのが、その証拠だ。それだけ惚れてたんなら、いつかは許せる。憎んで恨んで…………それでも同時に、許してしまうんだ。惚れているから。透子の中で、どちらも両立する。その頃には、透子も他の男が見つかってると思うぜ?」
「両立…………」
透子は紅霞を見あげた。
優しい、深い笑みがこちらを見おろしている。
「許せるんでしょうか…………いつか…………私、今でもあの人が許せない。恨んでいます。でも…………それでも、憎みきれなくていいんでしょうか? 『しょうがない』って…………あきらめてしまっても…………受け容れてしまっても、いいんでしょうか? これは…………私は、あの人を許しているんでしょうか?」
透子の肩に紅霞の大きな手が優しく置かれる。
「透子が楽な道を行けばいい。世間がなんと言おうと、許すのが楽なら、許してしまえ。それでいいんだ。透子はそういう人間だって、だけだ。周囲の言葉なんて気にするな。まだ惚れているなら――――それでいいじゃねぇか」
「…………っ」
冷たい氷の壁が割れた気がした。
想いが一気に決壊する。
透子の胸の奥で声が響いた。
(ああ、そうか。私はこのままでいいんだ――――)
憎んでいても、怒っていても、恨んでいても。
憎みきれなくても、恨みきれなくても、心のどこかで『謙人がそれを選んだなら、しかたない』と受け容れて――――あきらめてしまっていても。
だって結婚まで考えた男性だから。
『この人ならしたかない』と思えたから、結婚を決めたのだ。
そこまで好きだったのだ。
憎みきれなくても恨みきれなくても、最後には許してしまっても、しかたないではないか――――
(私は――――このままでいい――――)
いつか、この想いは透子の中で矛盾することなく両立して、新たな道を歩き出せるだろう。
透子は目をつぶる。涙がこぼれる。
幻影を見た気がした。
明るい光の中、透子はまっすぐな心で笑っていて、愛する男性へと駆け寄る。
謙人は愛美と逃げた謙人ではなく、透子の知る昔の謙人で、透子はその優しく笑う彼と手をつないで、今、泣いている透子のもとから去っていく。
透子の胸から一つの想いが放たれて昇華された。
これからはもう、今までのように謙人のことで泣くことはあるまい。
たとえ今、日本に戻って謙人に会うことがあったとしても。
謙人のことで心の芯までゆらぐことは、もはやないだろう。
自分の心が軽くなっていることを透子は自覚した。
涙をぬぐう。
紅霞と向き合い、きっぱりと宣言した。
「さっきの話に戻りますけれど…………紅霞さんも翠柳さんも、絶対に悪くありません。悪いのは、一方的に自分の都合を押しつけてくる《四姫神》さんです。彼女がやっていることは、れっきとしたパワハラとセクハラです。世間がなんと言おうと、それを忘れないでください」
「…………大胆なことを言うな。国の守護者をつかまえて」
苦笑する紅霞に、透子はちょっと恥ずかしそうに視線を落として説明する。
「…………私にも経験あるんです。大学を卒業して、最初の職場で。…………上司に迫られました。四十代の、奥さんも子供もいる人で…………しつこく食事やお酒に誘われました。幸い、別の上司に相談したら、その人はクビになりました。もともと若い女性へのセクハラ問題で何度も注意を受けていたことで有名な人だったんです。おかげで話は早かったし、周囲の理解もすんなり得られました。ですが、そのあと…………」
透子の表情が曇る。
「別の職場に移ったんです。そうしたら別の人にしつこく誘われて…………大変でした。助けてくれる人がいなかったんです」
「なんでだ? 無責任だろ?」
「社長…………職場の最高責任者の息子だったんです。将来は、その人が父親の地位を継ぐと目されていて。若くて高学歴でイケメンで。…………だから、誰も助けてくれなかったんです」
「やっかまれたのか?」
「それもありますけれど…………『いいじゃん、玉の輿じゃん』って…………そういう反応でした。…………私は困っている、と伝わらなかったんです」
紅霞が、はっとした表情になった。
「最初の上司の時は簡単でした。あの人は既婚者で子供もいて、失礼だけれど、イケメンにはほど遠くて。だから『私が嫌がっている』と、すんなり理解してもらえたんです。『あんな人に口説かれても嬉しいはずがない』って。けど…………二人目の時は一見、すてきな男性だったから。『あんな好条件の男性に口説かれて、嫌がる理由がわからない』、そう言われました」
透子は疲れたように前髪をかきあげる。
今までも、あの頃の不安な気持ちを容易に思い出すことができた。
「だから…………紅霞さんの気持ちは、少しはわかるつもりです。紅霞さんは本気で《四姫神》さんを迷惑に思っている。何故なら、紅霞さんは男性が好きな人だし、なによりも翠柳さん一筋だから。でも…………なまじ《四姫神》さんが若くて美人で、お金持ちの実家と高い地位をお持ちで、生活の保証までされているから…………周囲は、紅霞さんが本気で拒否していることを理解できないんですよね。女性が好きで、女性と結婚したい男性から見れば、紅霞さんは夢のような状況だから。紅霞さんを『贅沢な人』としか見ていない…………」
「…………っ」
「私も同じです。二度目のセクハラを受けた時、周囲には、私が本気で嫌がっている、と伝わりませんでした。『本当はその気があるのに、気のないふりをして焦らしている』と、私のほうが悪いみたいな言い方までされて…………」
そこを謙人が助けてくれて、謙人との付き合いがはじまるきっかけとなったのだ。
「…………紅霞さんの場合は、二重三重に紅霞さんのほうが不利な立場です。これからも紅霞さんに対して、あれこれ言ってくる人はいるかもしれません。《四姫神》さんも、まだあきらめていないかもしれません。でも、それでも忘れないでください。紅霞さんは悪くない。悪いのは紅霞さんじゃない。紅霞さんが翠柳さんを選んだことも、翠柳さんと結婚したことも、《四姫神》さんを嫌って拒否しつづけていることも、全部、自然な気持ちです。間違ってなんかいません。自分は悪くない、と自信を持ってください。紅霞さんも翠柳さんも、悪くないんです」
透子は明言した。少しでも紅霞の心が安らぐように。
セクハラやパワハラの被害者に対しては「あなたは悪くない」と、はっきり告げることがとても必要であり、重要であり、救いになると。二度目のセクハラの時、ただ一人、謙人だけが「水瀬さんのせいじゃないよ」と言ってくれた時に、身を持って理解していた。
自然、透子は紅霞に手を伸ばしていた。
指先が、完璧な線を描く頬の横に垂れた、長い黒髪に届く。
「私は、何度だって言えます。紅霞さんは悪くない。非があるのは紅霞さんじゃないんです。嫌がっていることを無理強いするほうが悪いんです。嫌がっているのに強制して許されるのは、虫歯の治療と予防接種くらいですよ。あれは、やっておかないと健康に関わりますから。
ですが、紅霞さんと翠柳さんの気持ちや関係を否定する権利は、誰にもありません。恥じることはありません。紅霞さんは堂々と言っていいんです。『翠柳さんを愛しているから、他の人とは結婚したくない』って。立派な理由です。それでいいと思います。少なくとも私は、お二人の関係をうらやましいと思いますし、紅霞さんの翠柳さんへの想いはとても純粋で、すてきなものだと思っています」
「ね?」という風に透子はほほ笑んだ。
途端、ぐい、と強く引っぱられる。
「えっ…………」
透子は紅霞の胸の中に引き寄せられていた。
「えっ…………ええ!?」
顔から火を噴きそうなほど動揺した。
(女は駄目じゃなかったの!?)
とっさに、そう思ってしまう。
だが紅霞はいたずらや冗談で引き寄せたのではなかった。
「本当に…………そう思うか?」
呟くような、しぼり出すような問いが透子の耳元で聞こえる。
「俺も…………翠柳も…………悪くないと…………俺達の関係は、選択は間違っていないと…………そう言えるか? 間違いなく?」
「…………っ」
透子は胸がしめつけられた。
「間違いないです!」
断言した。
「紅霞さんも翠柳さんも、絶対に間違っていません! どちらかが関係を強要したとか、既婚者なのに伴侶を裏切って逃げた、とかなら、話は別ですけれど…………お二人共、自分の意思でお互いを選んだんでしょう? 自分達で話し合って、末永く添い遂げる、と決めたんでしょう? だったら、それは誰にも否定されることではありません。お二人は大人で、大人がよく考えて出した結論なんです。他人があれこれ口を出すことではないです。お二人は自由に、堂々と生きていく権利があります!」
「…………っ!」
耐えかねたような声が聞こえて、透子は圧倒的なぬくもりと体の固さに包まれる。
抱擁をとおりこして抱きしめられていた。
無言で絶叫する。頭の中が破裂寸前だ。
中身は結婚式を経験した三十女とはいえ、透子の恋愛経験は豊富ではない。
「こっ、紅霞さ…………ん…………」
くらくらする。目が回りそうだ。
「…………とう」
「え?」
「――――ありがとな――――…………」
紅霞は少し体を離し、透子の顔を間近からのぞき込んだ。
「そういう考え方の女に会ったのは、透子が初めてだ」
紅霞は笑った。
「透子を拾って良かった」
嬉しそうな泣き出しそうな、清々しい、背中に太陽を背負っているかのような笑顔だった。
『破壊力抜群』とは、こういう笑顔か。
透子はすべての状況を忘れて、その笑顔に見惚れた。心奪われた。
紅霞は呆然とする透子をもう一度、抱きしめ、大きな手で優しく透子の髪をなでる。
(し、死にそう…………っ)
遠くなりかけた意識を、透子は必死でつなぎとめる。
カラスが鳴きはじめて、室内が薄闇に沈んで相手の顔が見えにくくなるまで、二人はずっと抱き合っていた。
静かな、すべての傷を流すような穏やかな時間に思えた。
触れられた部分から優しい熱が伝わり、透子はますます心が解けて、涙が止まらなくなる。
「私は…………お二人のような関係になりたかったです。結婚式に逃げられるような結末ではなく…………」
「…………俺は逆に、少し透子がうらやましい。透子の伴侶は逃げたとはいえ、生きている」
紅霞の切なさそうな声に、透子は顔をあげた。
「翠柳に同じことをされたら…………他の奴を選ばれたら、つらいとは思う。だが…………それであいつが生きていられるなら…………あんなに早く、逝ってしまわずに済むなら…………俺は――――ひょっとしたら、透子のほうの結末を――――」
そこで口をつぐんだ。透子に悪い、と遠慮したのかもしれない。
透子は訊きたかった。
「紅霞さんは、大丈夫なんですか? 翠柳さんに捨てられても…………翠柳さんが他の男性を選んでも、翠柳さんが生きてさえいるなら、それでいい、と…………本気で思えるんですか?」
透子にそれは難しい。異世界につれて来られた今ですら、思い出すと内側から燃えあがるような怒りと嫉妬、屈辱を感じるのに。
「そうだな…………」と紅霞は天井を見あげて、考えながら答える。
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紅霞は透子に笑いかけた。
「『だまされたとしても、こいつなら』って思ったのが、結婚を決めた理由の一つだしな」
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普段の艶麗な印象がかき消える。
「たとえだまされたとしても、裏切られたとしても、こいつなら、翠柳ならしかたない。きっと最後には許す。許してしまう。そう思った時、翠柳とずっと一緒にいたいと思った。こいつとなら一生だって共にいられる、と。この世界は、俺達みたいな守ってくれる女を失った下層の男には厳しい世界だ。けど、そんな世界でも、翠柳となら生きていけるし、生きたいと思う。だから…………しかたない。逃げられたとしても…………あいつが生きているなら…………幸せになるなら…………怒って怒って、絶望して…………それでも最後には受け容れて、許す。…………と思う」
哀しげで、とても愛おしそうな笑顔だった。
透子は結婚式以来、ずっとかたく凍りついて動かなかった心の奥がふるえるのがわかった。
紅霞の言葉が透子の胸の奥に届いて、冷たかった部分を水のように溶かしていく。
ふたたび涙がこぼれた。今度は先ほどのような号泣ではなかった。
「うらやましいです」
透子はふるえる唇で言葉を発した。
この男性がまぶしい。
「私も、そんな風に想いたい…………」
憎みつづけ、恨みつづけるのではなく。
祝福はできなくとも、せめて現実を受け容れ、心を切り替えて前へ。
「大丈夫だろ」
紅霞は保証した。気安く、それでいて信頼をにじませる声で。
「透子なら大丈夫だ。透子は本気でそいつに惚れてたんだろ? 今、ここまで泣いているのが、その証拠だ。それだけ惚れてたんなら、いつかは許せる。憎んで恨んで…………それでも同時に、許してしまうんだ。惚れているから。透子の中で、どちらも両立する。その頃には、透子も他の男が見つかってると思うぜ?」
「両立…………」
透子は紅霞を見あげた。
優しい、深い笑みがこちらを見おろしている。
「許せるんでしょうか…………いつか…………私、今でもあの人が許せない。恨んでいます。でも…………それでも、憎みきれなくていいんでしょうか? 『しょうがない』って…………あきらめてしまっても…………受け容れてしまっても、いいんでしょうか? これは…………私は、あの人を許しているんでしょうか?」
透子の肩に紅霞の大きな手が優しく置かれる。
「透子が楽な道を行けばいい。世間がなんと言おうと、許すのが楽なら、許してしまえ。それでいいんだ。透子はそういう人間だって、だけだ。周囲の言葉なんて気にするな。まだ惚れているなら――――それでいいじゃねぇか」
「…………っ」
冷たい氷の壁が割れた気がした。
想いが一気に決壊する。
透子の胸の奥で声が響いた。
(ああ、そうか。私はこのままでいいんだ――――)
憎んでいても、怒っていても、恨んでいても。
憎みきれなくても、恨みきれなくても、心のどこかで『謙人がそれを選んだなら、しかたない』と受け容れて――――あきらめてしまっていても。
だって結婚まで考えた男性だから。
『この人ならしたかない』と思えたから、結婚を決めたのだ。
そこまで好きだったのだ。
憎みきれなくても恨みきれなくても、最後には許してしまっても、しかたないではないか――――
(私は――――このままでいい――――)
いつか、この想いは透子の中で矛盾することなく両立して、新たな道を歩き出せるだろう。
透子は目をつぶる。涙がこぼれる。
幻影を見た気がした。
明るい光の中、透子はまっすぐな心で笑っていて、愛する男性へと駆け寄る。
謙人は愛美と逃げた謙人ではなく、透子の知る昔の謙人で、透子はその優しく笑う彼と手をつないで、今、泣いている透子のもとから去っていく。
透子の胸から一つの想いが放たれて昇華された。
これからはもう、今までのように謙人のことで泣くことはあるまい。
たとえ今、日本に戻って謙人に会うことがあったとしても。
謙人のことで心の芯までゆらぐことは、もはやないだろう。
自分の心が軽くなっていることを透子は自覚した。
涙をぬぐう。
紅霞と向き合い、きっぱりと宣言した。
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「…………大胆なことを言うな。国の守護者をつかまえて」
苦笑する紅霞に、透子はちょっと恥ずかしそうに視線を落として説明する。
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透子の表情が曇る。
「別の職場に移ったんです。そうしたら別の人にしつこく誘われて…………大変でした。助けてくれる人がいなかったんです」
「なんでだ? 無責任だろ?」
「社長…………職場の最高責任者の息子だったんです。将来は、その人が父親の地位を継ぐと目されていて。若くて高学歴でイケメンで。…………だから、誰も助けてくれなかったんです」
「やっかまれたのか?」
「それもありますけれど…………『いいじゃん、玉の輿じゃん』って…………そういう反応でした。…………私は困っている、と伝わらなかったんです」
紅霞が、はっとした表情になった。
「最初の上司の時は簡単でした。あの人は既婚者で子供もいて、失礼だけれど、イケメンにはほど遠くて。だから『私が嫌がっている』と、すんなり理解してもらえたんです。『あんな人に口説かれても嬉しいはずがない』って。けど…………二人目の時は一見、すてきな男性だったから。『あんな好条件の男性に口説かれて、嫌がる理由がわからない』、そう言われました」
透子は疲れたように前髪をかきあげる。
今までも、あの頃の不安な気持ちを容易に思い出すことができた。
「だから…………紅霞さんの気持ちは、少しはわかるつもりです。紅霞さんは本気で《四姫神》さんを迷惑に思っている。何故なら、紅霞さんは男性が好きな人だし、なによりも翠柳さん一筋だから。でも…………なまじ《四姫神》さんが若くて美人で、お金持ちの実家と高い地位をお持ちで、生活の保証までされているから…………周囲は、紅霞さんが本気で拒否していることを理解できないんですよね。女性が好きで、女性と結婚したい男性から見れば、紅霞さんは夢のような状況だから。紅霞さんを『贅沢な人』としか見ていない…………」
「…………っ」
「私も同じです。二度目のセクハラを受けた時、周囲には、私が本気で嫌がっている、と伝わりませんでした。『本当はその気があるのに、気のないふりをして焦らしている』と、私のほうが悪いみたいな言い方までされて…………」
そこを謙人が助けてくれて、謙人との付き合いがはじまるきっかけとなったのだ。
「…………紅霞さんの場合は、二重三重に紅霞さんのほうが不利な立場です。これからも紅霞さんに対して、あれこれ言ってくる人はいるかもしれません。《四姫神》さんも、まだあきらめていないかもしれません。でも、それでも忘れないでください。紅霞さんは悪くない。悪いのは紅霞さんじゃない。紅霞さんが翠柳さんを選んだことも、翠柳さんと結婚したことも、《四姫神》さんを嫌って拒否しつづけていることも、全部、自然な気持ちです。間違ってなんかいません。自分は悪くない、と自信を持ってください。紅霞さんも翠柳さんも、悪くないんです」
透子は明言した。少しでも紅霞の心が安らぐように。
セクハラやパワハラの被害者に対しては「あなたは悪くない」と、はっきり告げることがとても必要であり、重要であり、救いになると。二度目のセクハラの時、ただ一人、謙人だけが「水瀬さんのせいじゃないよ」と言ってくれた時に、身を持って理解していた。
自然、透子は紅霞に手を伸ばしていた。
指先が、完璧な線を描く頬の横に垂れた、長い黒髪に届く。
「私は、何度だって言えます。紅霞さんは悪くない。非があるのは紅霞さんじゃないんです。嫌がっていることを無理強いするほうが悪いんです。嫌がっているのに強制して許されるのは、虫歯の治療と予防接種くらいですよ。あれは、やっておかないと健康に関わりますから。
ですが、紅霞さんと翠柳さんの気持ちや関係を否定する権利は、誰にもありません。恥じることはありません。紅霞さんは堂々と言っていいんです。『翠柳さんを愛しているから、他の人とは結婚したくない』って。立派な理由です。それでいいと思います。少なくとも私は、お二人の関係をうらやましいと思いますし、紅霞さんの翠柳さんへの想いはとても純粋で、すてきなものだと思っています」
「ね?」という風に透子はほほ笑んだ。
途端、ぐい、と強く引っぱられる。
「えっ…………」
透子は紅霞の胸の中に引き寄せられていた。
「えっ…………ええ!?」
顔から火を噴きそうなほど動揺した。
(女は駄目じゃなかったの!?)
とっさに、そう思ってしまう。
だが紅霞はいたずらや冗談で引き寄せたのではなかった。
「本当に…………そう思うか?」
呟くような、しぼり出すような問いが透子の耳元で聞こえる。
「俺も…………翠柳も…………悪くないと…………俺達の関係は、選択は間違っていないと…………そう言えるか? 間違いなく?」
「…………っ」
透子は胸がしめつけられた。
「間違いないです!」
断言した。
「紅霞さんも翠柳さんも、絶対に間違っていません! どちらかが関係を強要したとか、既婚者なのに伴侶を裏切って逃げた、とかなら、話は別ですけれど…………お二人共、自分の意思でお互いを選んだんでしょう? 自分達で話し合って、末永く添い遂げる、と決めたんでしょう? だったら、それは誰にも否定されることではありません。お二人は大人で、大人がよく考えて出した結論なんです。他人があれこれ口を出すことではないです。お二人は自由に、堂々と生きていく権利があります!」
「…………っ!」
耐えかねたような声が聞こえて、透子は圧倒的なぬくもりと体の固さに包まれる。
抱擁をとおりこして抱きしめられていた。
無言で絶叫する。頭の中が破裂寸前だ。
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「こっ、紅霞さ…………ん…………」
くらくらする。目が回りそうだ。
「…………とう」
「え?」
「――――ありがとな――――…………」
紅霞は少し体を離し、透子の顔を間近からのぞき込んだ。
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紅霞は笑った。
「透子を拾って良かった」
嬉しそうな泣き出しそうな、清々しい、背中に太陽を背負っているかのような笑顔だった。
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透子はすべての状況を忘れて、その笑顔に見惚れた。心奪われた。
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(し、死にそう…………っ)
遠くなりかけた意識を、透子は必死でつなぎとめる。
カラスが鳴きはじめて、室内が薄闇に沈んで相手の顔が見えにくくなるまで、二人はずっと抱き合っていた。
静かな、すべての傷を流すような穏やかな時間に思えた。
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5歳の時、母が亡くなった。
原因も治療法も不明の病と言われ、発症1年という早さで亡くなった。
そしてまだ5歳の私には母が必要ということで通例に習わず、1年の喪に服すことなく新しい母が連れて来られた。彼女の隣には不思議なことに父によく似た女の子が立っていた。私とあまり変わらないくらいの歳の彼女は私の2つ年上だという。
これからは姉と呼ぶようにと言われた。
そして、私が14歳の時、突然謎の病を発症した。
母と同じ原因も治療法も不明の病。母と同じ症状が出始めた時に、この病は遺伝だったのかもしれないと言われた。それは私が社交界デビューするはずの年だった。
私は社交界デビューすることは叶わず、そのまま治療することになった。
たまに調子がいい日もあるが、社交界に出席する予定の日には決まって体調を崩した。医者は緊張して体調を崩してしまうのだろうといった。
でも最近はグレン様が会いに来ると約束してくれた日にも必ず体調を崩すようになってしまった。それでも以前はグレン様が心配して、私の部屋で1時間ほど話をしてくれていたのに、最近はグレン様を姉が玄関で出迎え、2人で私の部屋に来て、挨拶だけして、2人でお茶をするからと消えていくようになった。
でもそれも私の体調のせい。私が体調さえ崩さなければ……
今では月の半分はベットで過ごさなければいけないほどになってしまった。
でもある日婚約者の裏切りに気づいてしまう。
私は耐えられなかった。
もうすべてに………
病が治る見込みだってないのに。
なんて滑稽なのだろう。
もういや……
誰からも愛されないのも
誰からも必要とされないのも
治らない病の為にずっとベッドで寝ていなければいけないのも。
気付けば私は家の外に出ていた。
元々病で外に出る事がない私には専属侍女などついていない。
特に今日は症状が重たく、朝からずっと吐いていた為、父も義母も私が部屋を出るなど夢にも思っていないのだろう。
私は死ぬ場所を探していたのかもしれない。家よりも少しでも幸せを感じて死にたいと。
これから出会う人がこれまでの生活を変えてくれるとも知らずに。
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※架空のお話です。
※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。
※現実世界とは異なりますのでご理解ください。
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