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林から抜け出て右の坂道を登ると、小高い丘の上にぽつんと一軒家があった。
「俺の家だ」と恩人は説明してその家の玄関の鍵を開け、透子に指示する。
「ちょっと待ってろ。アンタ、ずぶ濡れだからな」
透子が不安な思いで玄関の外で待っていると、扉が開いて、火のついたろうそくを持った恩人が顔を出し、透子に「これを使え」と数枚の布を渡された。
「とりあえず髪を拭け。今、火の用意をしてくるから」
恩人の言うとおりだった。
湖に落ちて濡れた服は、絞って時間が経ったとはいえ、生乾き。あの女神によって新しく作られた肉体はやたらと髪が長く、その長い髪が湖の水を吸って、いまだぽたぽたと滴を滴らせている。これで入室したら迷惑に決まっている。
透子は渡された布で顔を拭き、首や手を拭き、髪をはさんで叩いていく。が、布はタオルではなく手拭いで、あっという間に長い髪の水分を吸って使い物にならなくなる。
三枚目の手拭いを濡らした時、玄関の扉がふたたび開いて、恩人が顔を出した。
「拭いたか? 入れ、火がついた」
言って、恩人は玄関の扉を大きく開けてくれる。
「お邪魔します…………」
透子はかるくお辞儀をして入室した。
中は暗かった。靴を脱ぐ習慣はないようだ。恩人が持つろうそくの明かりを頼りに廊下を進み、一つの部屋に通される。
寝台があり、サイドテーブルが置かれていた。そのサイドテーブルに、恩人は持っていた灯りを置く。
「とりあえず着替えろ。母の物だから、寸法が合うかはわからないが」
恩人は透子が抱えていた手拭いを引きとり、持っていた布の束をサイドテーブルに置く。
「そんな、お母様の許可がないのに…………」
「かまわねぇよ。亡くなって、もうずいぶん経つし。たまには誰かが着たほうが、服も役目を果たせるだろ。風邪をひかれたら俺のほうが困るしな」
きっぱり言われ、透子も(それもそうだ)と納得した。
体調をくずしても、今の透子には休める場所がない。
「じゃあ…………お借りします」
「部屋の外にいるから、終わったら呼んでくれ」
言って、青年は部屋を出る。
なにからなにまで世話になっていることを申し訳なく思いながら、ひとまず透子は着替えを済ませることにした。
渡されたのは長い緑の帯と、白い前合わせの着物(たぶん和服でいうところの襦袢だろう)、そして淡い黄色の大きな袖の服。さすがに、透子が下着をつけていないことまでは推測できなかったようだ(まあ、他人の下着を渡されても困るのも事実だが)。黄色い服は、女神からもらった緑の衣とほぼ同じ形だった。
透子は帯を解き、半渇きで肌にはりついていた緑の衣を脱ぐ。濡れた髪に触れないよう、気をつけながら白い着物を羽織ると、乾いた服はそれだけであたたかく感じた。
(襟は…………右が上? 左が上?)
記憶を頼りに襦袢を着て、黄色い衣を重ねて帯を結ぶ。結び方がわからないので、ひとまず女神のところにいた時の形を参考にした。
実際に着てみるとわかるが、こちらの衣装は前合わせといっても完全な和装ではない。和装だと裾が足に巻きついて寸胴型になるが、こちらの衣装の裾はスカート状にひろがるようにできている。帯もうしろではなく前で結ぶようだ。
(和風というより…………中華ファンタジーの世界?)
「お待たせしました」
灯りを持って部屋の外に出ると、家の主がそれを引きとり、暗い廊下を先に立って歩き出す。
(いちいち灯りを持って歩くなんて、不便)と透子は思ったが、日本のようにふんだんに照明を使えない世界では、そうなるのだろう。
透子は大きな部屋に通された。
薄暗い灯りに照らし出された室内に、ちょっと目をみはる。
大きなテーブルがあり、竈には火がついて鉄瓶がかけられ、天井には火のついた提灯っぽい物が吊られている。部屋とテーブルの大きさからいって、日本でいうリビングかダイニングルームだろうか。
テーブルや腰かけの上には「ひとまず」のつもりで置いて、そのままになっているのだろう、服やら袋やら紙の束が積まれ、ゴミ箱らしき容器の中にはゴミがたまっている。
どうも忙しい、もしくはマメでない人柄のようだった。
とはいえ、高校時代に親しかった女友達の中には、これよりひどい部屋の主もいた。あの部屋に比べれば、片付けようとする意思がのぞいている分、このダイニングの方がまだマシだ。
(どうしているかな、涼美ちゃん。同人活動からプロデビューしたって、聞いたけど…………)
イベント前、彼女に頼まれて徹夜で原稿を手伝った夜が思い出される。
「おい、アンタ。こっちに座れ」
家の主は透子が持っていた緑の衣と黒の帯を引きとって竈の近くに干し、竈の前に置かれた腰かけを示す。「あ、はい」と透子はいそいでそちらを向いて――――息を呑んだ。
提灯とテーブルに置かれた灯りの中で、初めて恩人の顔と全身を視認する。
薄暗い室内でもそうとわかる、並外れた美形だった。
180センチはありそうな、すらりとした長身。大きな袖の深い赤の上着をはおり、その下に前合わせの白っぽい衣を着て、下はゆったりしたズボン(?)で裾を長靴の中に入れている。
癖のない、さらりとした黒髪。後頭部で一つに結っているのだが、背が高いので様になるうえ、長髪が不自然にも不潔にも見えないだけの美麗さまで備えている。
日本では、まず漫画やアニメの中でしかお目にかかれないタイプのイケメンだった。
透子はつい見惚れてしまった。
その透子の反応にはかまわず、恩人は再度、指示を寄越してくる。
「こっちに座れって。竈を背にして座れよ?」
「あ、は、はい」
透子は慌てて指示通りに火の前の腰掛けに腰をおろす。
(何故、うしろ向き?)と不思議に思うと、恩人が背後にまわって透子の長い髪をすくいあげ、櫛で梳きはじめた。
「!? 自分でできます…………!」
「どう見たって、一人じゃ時間がかかる長さだろ。しっかり乾かさないと、風邪をひくぞ」
言いながら、恩人は「アンタもやれ」と透子にも櫛を渡してきた。
男性に髪を梳いてもらうなんて、初めての経験だ。謙人にもしてもらったことはない。
透子は火のせいだけでなく頬に熱を感じながら、恩人同様、髪を梳いて乾かしていく。
櫛は本当に『櫛』で、ブラシではない。梳きながら布に水分を吸わせていく仕草を見ながら、(この世界には魔法はないのかな?)と考えた。
異世界転生モノの場合、転生先は魔法が盛んで、ドライヤー代わりに魔法を使って髪を乾かす…………なんて場面も時々見かけるのだが。
炭の火は焚火のように燃えあがらない。かわりに熱がじんわり周囲にひろがっていき、肌に浸透していくにつれて緊張も解け、透子も「これは現実なんだ」「助かったんだ」と実感がわいてくる。
やがてどうにか髪全体を梳き終わり、水分もかなり飛んだ。
「とりあえず、これでいいか」
恩人が一仕事終えたように櫛を回収する。
実際、あらためて確認すると透子の髪は膝下まで伸びており、これだけ長いと乾かすだけでも『一仕事』だった。透子は恩人から髪用の紐を借りて、長すぎる髪を三つ編みにする。
そうして立ちあがり、恩人に正面から向かい合った。
「あの、今更ですけれど。助けていただいて、ありがとうございました」
深く頭をさげる。
「着替えまで貸していただいて、申し訳ないです。事情があって、今は手持ちがなくて…………なんのお礼もできませんが、落ち着いたら必ず、お礼をさせてください」
本心だった。
危ういところを助けてもらった彼には、どれほど感謝しても足りない。
彼が助けてくれなければ、今頃どんな目に遭わされていたことか。
恩人は、ふい、と視線をそらし、素っ気なく応じた。
「まあ、成り行きだ。帰り道だったしな。…………俺は、琳・榛・斉・紅霞。アンタは?」
「リン、シン…………?」
「琳・榛・斉・紅霞。紅霞でいい。アンタは?」
発音はまだしも、西洋人みたいな名前の多さだ。
そう思いながら透子は答える。
「私は…………水瀬透子と言います」
迷ったが、透子は本名を名乗った。名乗ることで身元を怪しまれる危険性はあったが、ここまでしてくれた恩人に嘘はつきたくなかった。
「ミナ…………なんだって?」
「水瀬、透子です。『水瀬』が名字で『透子』が名前です」
「変わった名前だな。ひょっとして外国人か?」
「外国…………ではあります」
なにしろこの世界の人間から見れば『異なる世界から来た異世界人』だ。
紅霞は「へえ…………」と興味深そうな表情を見せたものの、透子の面持ちに「なにか事情がありそうだ」と察したのか。
「とりあえず、なにか食おう。腹が減った」
そう言って話題を変え、テーブルの上の袋から包みをとり出し、がさがさと開いた。
「ああ、もう冷めてるな」
落胆したように呟いて「そら」と、一つを透子に投げるように手渡す。
透子が慌てて受けとると、白い大きな饅頭だった。
和菓子の饅頭ではなく、肉まんとか餡まんの方の饅頭だ。
思わずかぶりついてしまって、自分が空腹なことを自覚する。
考えてみれば、この肉体はあの女神が卵子から一気に成人まで成長させたもので(理論的にはクローンにちかい?)、今この時までなにも食べていなかった。胃に食べ物が入っているはずがない。
透子はひき肉が詰まった饅頭を、あっという間に平らげる。
「ありがとうございます。助けていただいたうえに、ごちそうにまでなって…………」
腹が鳴った。
(嘘…………!)
漫画みたいなタイミングだ。
考えてみれば、これがこの肉体が生まれて初めての食事であり、肉体は成人しており、当然、胃は饅頭一つで満腹になる大きさではないのだろう。
「いや、あの、これは…………」
腹を押える透子に、「今、他になにかあったか?」と紅霞は自分の分の饅頭をくわえながら立ちあがる。行儀悪いが、飛び抜けた美貌のせいで気にならない。
「いえ、大丈夫です。本当にもう、これだけで…………!」
新たな食糧をさがしてくれていると察して透子は止めるが、紅霞は部屋の隅の箱や瓶をあさっていく。
「あいつがいたら、作り置きとか漬物とか、なにかしら出してくるんだけどな…………今は…………あ、これが残ってたか」
(あいつ…………? 誰かと同居して…………いえ、『いたら』ということは、していたってこと?)
あらためて考えると、けっこう危険な状況に思えた。
前提として『危ないところを助けてもらった』とはいえ、今日、出会ったばかりの男性の家にあがり込んでいる。おまけに相手は一人暮らしらしい。
漫画などでは定番のシチュエーションだが(警察とかに預けてしまったら、ストーリーがはじまらないし)、実際にその立場になると(ちょっと無防備では?)と警戒せざるをえない。
透子の迷いや不安には気づかず、紅霞は小さな壺を二つ、差し出してくる。
「干し杏と胡桃が残っていた。食べられるか?」
『杏』ということはドライアプリコットだろう。
「すみません…………」
透子は小さくなりながらも、手を出すことはとめられなかった。
「甘い…………」
思わず顔がほころぶ。
「そうか」と恩人は腰かけに座りなおして、自分の饅頭を食べる。
あらためて間近で見ても、たいそうな美形だった。
目元は凛々しく、それでいて顎や鼻の線は女性のようにすっきりして、男性でありながら女性と見間違えそうな艶っぽさを備える一方、女性と断言するには凛々しすぎる、そんな絶妙なバランスの上に成り立つ美貌だ。
プロのモデルでもやっていける…………というより、モデルでもここまでの美形はそうそういないのではないか。乱雑な室内だというのに、彼の周囲だけ豪華なホテルかレストランのような華やかさに包まれていた。
日本に来れば、さぞやスカウトとアプローチが殺到したことだろう。
(異世界転移して、危ないところを助けてくれた恩人がとびきりの美形って…………漫画やアニメやネット小説の世界じゃない…………)
(今はそれどころじゃない)と透子は三十女の理性と知性を総動員して、意識を現在の状況に集中させようとする。
ちょうど竈の火にかけていた鉄瓶が沸き、紅霞は急須に湯を注いで茶碗を二つ出した。
「熱いから気をつけろよ」
そう言って渡されたのは、白っぽい茶碗に注がれた茶色い液体だ。
匂いに違和感はない。試しに口をつけてみると、紅茶というより中国茶だった。
服といい、食べ物や飲み物といい、やはり中華系ファンタジーの世界に近い。
「で?」
紅霞は、透子が干し杏と胡桃を食べ終え、茶を飲み干して一息ついたところを見計らって、問うてきた。
「透子は、なんであんな所にいたんだ? 《無印》のくせに。親は? 外国人なら、どこの国から来たんだ?」
透子は返答に窮する。
答えずに済むなら、そのほうがいいだろう。助けてもらったとはいえ、目の前の男性がどこまで信用できるか、まだはっきりしない。
けれど透子には、こちらの知識が圧倒的に足りないのも事実だった。
少なくともあの女神が迎えに来るまでは、自力でどうにかする他ない。
「あの…………」
透子は意を決する。
長い話がはじまった。
「俺の家だ」と恩人は説明してその家の玄関の鍵を開け、透子に指示する。
「ちょっと待ってろ。アンタ、ずぶ濡れだからな」
透子が不安な思いで玄関の外で待っていると、扉が開いて、火のついたろうそくを持った恩人が顔を出し、透子に「これを使え」と数枚の布を渡された。
「とりあえず髪を拭け。今、火の用意をしてくるから」
恩人の言うとおりだった。
湖に落ちて濡れた服は、絞って時間が経ったとはいえ、生乾き。あの女神によって新しく作られた肉体はやたらと髪が長く、その長い髪が湖の水を吸って、いまだぽたぽたと滴を滴らせている。これで入室したら迷惑に決まっている。
透子は渡された布で顔を拭き、首や手を拭き、髪をはさんで叩いていく。が、布はタオルではなく手拭いで、あっという間に長い髪の水分を吸って使い物にならなくなる。
三枚目の手拭いを濡らした時、玄関の扉がふたたび開いて、恩人が顔を出した。
「拭いたか? 入れ、火がついた」
言って、恩人は玄関の扉を大きく開けてくれる。
「お邪魔します…………」
透子はかるくお辞儀をして入室した。
中は暗かった。靴を脱ぐ習慣はないようだ。恩人が持つろうそくの明かりを頼りに廊下を進み、一つの部屋に通される。
寝台があり、サイドテーブルが置かれていた。そのサイドテーブルに、恩人は持っていた灯りを置く。
「とりあえず着替えろ。母の物だから、寸法が合うかはわからないが」
恩人は透子が抱えていた手拭いを引きとり、持っていた布の束をサイドテーブルに置く。
「そんな、お母様の許可がないのに…………」
「かまわねぇよ。亡くなって、もうずいぶん経つし。たまには誰かが着たほうが、服も役目を果たせるだろ。風邪をひかれたら俺のほうが困るしな」
きっぱり言われ、透子も(それもそうだ)と納得した。
体調をくずしても、今の透子には休める場所がない。
「じゃあ…………お借りします」
「部屋の外にいるから、終わったら呼んでくれ」
言って、青年は部屋を出る。
なにからなにまで世話になっていることを申し訳なく思いながら、ひとまず透子は着替えを済ませることにした。
渡されたのは長い緑の帯と、白い前合わせの着物(たぶん和服でいうところの襦袢だろう)、そして淡い黄色の大きな袖の服。さすがに、透子が下着をつけていないことまでは推測できなかったようだ(まあ、他人の下着を渡されても困るのも事実だが)。黄色い服は、女神からもらった緑の衣とほぼ同じ形だった。
透子は帯を解き、半渇きで肌にはりついていた緑の衣を脱ぐ。濡れた髪に触れないよう、気をつけながら白い着物を羽織ると、乾いた服はそれだけであたたかく感じた。
(襟は…………右が上? 左が上?)
記憶を頼りに襦袢を着て、黄色い衣を重ねて帯を結ぶ。結び方がわからないので、ひとまず女神のところにいた時の形を参考にした。
実際に着てみるとわかるが、こちらの衣装は前合わせといっても完全な和装ではない。和装だと裾が足に巻きついて寸胴型になるが、こちらの衣装の裾はスカート状にひろがるようにできている。帯もうしろではなく前で結ぶようだ。
(和風というより…………中華ファンタジーの世界?)
「お待たせしました」
灯りを持って部屋の外に出ると、家の主がそれを引きとり、暗い廊下を先に立って歩き出す。
(いちいち灯りを持って歩くなんて、不便)と透子は思ったが、日本のようにふんだんに照明を使えない世界では、そうなるのだろう。
透子は大きな部屋に通された。
薄暗い灯りに照らし出された室内に、ちょっと目をみはる。
大きなテーブルがあり、竈には火がついて鉄瓶がかけられ、天井には火のついた提灯っぽい物が吊られている。部屋とテーブルの大きさからいって、日本でいうリビングかダイニングルームだろうか。
テーブルや腰かけの上には「ひとまず」のつもりで置いて、そのままになっているのだろう、服やら袋やら紙の束が積まれ、ゴミ箱らしき容器の中にはゴミがたまっている。
どうも忙しい、もしくはマメでない人柄のようだった。
とはいえ、高校時代に親しかった女友達の中には、これよりひどい部屋の主もいた。あの部屋に比べれば、片付けようとする意思がのぞいている分、このダイニングの方がまだマシだ。
(どうしているかな、涼美ちゃん。同人活動からプロデビューしたって、聞いたけど…………)
イベント前、彼女に頼まれて徹夜で原稿を手伝った夜が思い出される。
「おい、アンタ。こっちに座れ」
家の主は透子が持っていた緑の衣と黒の帯を引きとって竈の近くに干し、竈の前に置かれた腰かけを示す。「あ、はい」と透子はいそいでそちらを向いて――――息を呑んだ。
提灯とテーブルに置かれた灯りの中で、初めて恩人の顔と全身を視認する。
薄暗い室内でもそうとわかる、並外れた美形だった。
180センチはありそうな、すらりとした長身。大きな袖の深い赤の上着をはおり、その下に前合わせの白っぽい衣を着て、下はゆったりしたズボン(?)で裾を長靴の中に入れている。
癖のない、さらりとした黒髪。後頭部で一つに結っているのだが、背が高いので様になるうえ、長髪が不自然にも不潔にも見えないだけの美麗さまで備えている。
日本では、まず漫画やアニメの中でしかお目にかかれないタイプのイケメンだった。
透子はつい見惚れてしまった。
その透子の反応にはかまわず、恩人は再度、指示を寄越してくる。
「こっちに座れって。竈を背にして座れよ?」
「あ、は、はい」
透子は慌てて指示通りに火の前の腰掛けに腰をおろす。
(何故、うしろ向き?)と不思議に思うと、恩人が背後にまわって透子の長い髪をすくいあげ、櫛で梳きはじめた。
「!? 自分でできます…………!」
「どう見たって、一人じゃ時間がかかる長さだろ。しっかり乾かさないと、風邪をひくぞ」
言いながら、恩人は「アンタもやれ」と透子にも櫛を渡してきた。
男性に髪を梳いてもらうなんて、初めての経験だ。謙人にもしてもらったことはない。
透子は火のせいだけでなく頬に熱を感じながら、恩人同様、髪を梳いて乾かしていく。
櫛は本当に『櫛』で、ブラシではない。梳きながら布に水分を吸わせていく仕草を見ながら、(この世界には魔法はないのかな?)と考えた。
異世界転生モノの場合、転生先は魔法が盛んで、ドライヤー代わりに魔法を使って髪を乾かす…………なんて場面も時々見かけるのだが。
炭の火は焚火のように燃えあがらない。かわりに熱がじんわり周囲にひろがっていき、肌に浸透していくにつれて緊張も解け、透子も「これは現実なんだ」「助かったんだ」と実感がわいてくる。
やがてどうにか髪全体を梳き終わり、水分もかなり飛んだ。
「とりあえず、これでいいか」
恩人が一仕事終えたように櫛を回収する。
実際、あらためて確認すると透子の髪は膝下まで伸びており、これだけ長いと乾かすだけでも『一仕事』だった。透子は恩人から髪用の紐を借りて、長すぎる髪を三つ編みにする。
そうして立ちあがり、恩人に正面から向かい合った。
「あの、今更ですけれど。助けていただいて、ありがとうございました」
深く頭をさげる。
「着替えまで貸していただいて、申し訳ないです。事情があって、今は手持ちがなくて…………なんのお礼もできませんが、落ち着いたら必ず、お礼をさせてください」
本心だった。
危ういところを助けてもらった彼には、どれほど感謝しても足りない。
彼が助けてくれなければ、今頃どんな目に遭わされていたことか。
恩人は、ふい、と視線をそらし、素っ気なく応じた。
「まあ、成り行きだ。帰り道だったしな。…………俺は、琳・榛・斉・紅霞。アンタは?」
「リン、シン…………?」
「琳・榛・斉・紅霞。紅霞でいい。アンタは?」
発音はまだしも、西洋人みたいな名前の多さだ。
そう思いながら透子は答える。
「私は…………水瀬透子と言います」
迷ったが、透子は本名を名乗った。名乗ることで身元を怪しまれる危険性はあったが、ここまでしてくれた恩人に嘘はつきたくなかった。
「ミナ…………なんだって?」
「水瀬、透子です。『水瀬』が名字で『透子』が名前です」
「変わった名前だな。ひょっとして外国人か?」
「外国…………ではあります」
なにしろこの世界の人間から見れば『異なる世界から来た異世界人』だ。
紅霞は「へえ…………」と興味深そうな表情を見せたものの、透子の面持ちに「なにか事情がありそうだ」と察したのか。
「とりあえず、なにか食おう。腹が減った」
そう言って話題を変え、テーブルの上の袋から包みをとり出し、がさがさと開いた。
「ああ、もう冷めてるな」
落胆したように呟いて「そら」と、一つを透子に投げるように手渡す。
透子が慌てて受けとると、白い大きな饅頭だった。
和菓子の饅頭ではなく、肉まんとか餡まんの方の饅頭だ。
思わずかぶりついてしまって、自分が空腹なことを自覚する。
考えてみれば、この肉体はあの女神が卵子から一気に成人まで成長させたもので(理論的にはクローンにちかい?)、今この時までなにも食べていなかった。胃に食べ物が入っているはずがない。
透子はひき肉が詰まった饅頭を、あっという間に平らげる。
「ありがとうございます。助けていただいたうえに、ごちそうにまでなって…………」
腹が鳴った。
(嘘…………!)
漫画みたいなタイミングだ。
考えてみれば、これがこの肉体が生まれて初めての食事であり、肉体は成人しており、当然、胃は饅頭一つで満腹になる大きさではないのだろう。
「いや、あの、これは…………」
腹を押える透子に、「今、他になにかあったか?」と紅霞は自分の分の饅頭をくわえながら立ちあがる。行儀悪いが、飛び抜けた美貌のせいで気にならない。
「いえ、大丈夫です。本当にもう、これだけで…………!」
新たな食糧をさがしてくれていると察して透子は止めるが、紅霞は部屋の隅の箱や瓶をあさっていく。
「あいつがいたら、作り置きとか漬物とか、なにかしら出してくるんだけどな…………今は…………あ、これが残ってたか」
(あいつ…………? 誰かと同居して…………いえ、『いたら』ということは、していたってこと?)
あらためて考えると、けっこう危険な状況に思えた。
前提として『危ないところを助けてもらった』とはいえ、今日、出会ったばかりの男性の家にあがり込んでいる。おまけに相手は一人暮らしらしい。
漫画などでは定番のシチュエーションだが(警察とかに預けてしまったら、ストーリーがはじまらないし)、実際にその立場になると(ちょっと無防備では?)と警戒せざるをえない。
透子の迷いや不安には気づかず、紅霞は小さな壺を二つ、差し出してくる。
「干し杏と胡桃が残っていた。食べられるか?」
『杏』ということはドライアプリコットだろう。
「すみません…………」
透子は小さくなりながらも、手を出すことはとめられなかった。
「甘い…………」
思わず顔がほころぶ。
「そうか」と恩人は腰かけに座りなおして、自分の饅頭を食べる。
あらためて間近で見ても、たいそうな美形だった。
目元は凛々しく、それでいて顎や鼻の線は女性のようにすっきりして、男性でありながら女性と見間違えそうな艶っぽさを備える一方、女性と断言するには凛々しすぎる、そんな絶妙なバランスの上に成り立つ美貌だ。
プロのモデルでもやっていける…………というより、モデルでもここまでの美形はそうそういないのではないか。乱雑な室内だというのに、彼の周囲だけ豪華なホテルかレストランのような華やかさに包まれていた。
日本に来れば、さぞやスカウトとアプローチが殺到したことだろう。
(異世界転移して、危ないところを助けてくれた恩人がとびきりの美形って…………漫画やアニメやネット小説の世界じゃない…………)
(今はそれどころじゃない)と透子は三十女の理性と知性を総動員して、意識を現在の状況に集中させようとする。
ちょうど竈の火にかけていた鉄瓶が沸き、紅霞は急須に湯を注いで茶碗を二つ出した。
「熱いから気をつけろよ」
そう言って渡されたのは、白っぽい茶碗に注がれた茶色い液体だ。
匂いに違和感はない。試しに口をつけてみると、紅茶というより中国茶だった。
服といい、食べ物や飲み物といい、やはり中華系ファンタジーの世界に近い。
「で?」
紅霞は、透子が干し杏と胡桃を食べ終え、茶を飲み干して一息ついたところを見計らって、問うてきた。
「透子は、なんであんな所にいたんだ? 《無印》のくせに。親は? 外国人なら、どこの国から来たんだ?」
透子は返答に窮する。
答えずに済むなら、そのほうがいいだろう。助けてもらったとはいえ、目の前の男性がどこまで信用できるか、まだはっきりしない。
けれど透子には、こちらの知識が圧倒的に足りないのも事実だった。
少なくともあの女神が迎えに来るまでは、自力でどうにかする他ない。
「あの…………」
透子は意を決する。
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