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気づくと、とても清澄な空間にいた。優しい大気が透子の頬を、肩を、全身を包む。
「ここは…………」
何度かまばたきして、透子はようやく目に映る光景を理解することができた。
「…………木!?」
樹齢数百年どころではない。
そびえたつ山のような大樹が鎮座して枝を空に広げ、根を海に浸している。
彩雲というのだろうか。空は虹色の雲がどこまでもつづき、それでいて薄暗さはなく、透子はその虹色の空の中に浮いていた。
『では、約束を果たしてもらおう』
女神の声が聞こえた。
腹に、質感すら備えたような強烈な熱の塊を感じる。
「熱い…………!」
思わず抵抗しようとした。
その時には事は終わっていた。
『ふむ。きれいに宿ったな。肉体にも精神にも霊体にも、異常はなし。拒絶反応もまったく見られない。すでに《種》はお前という《仮枝》に同調、同化している』
声のほうを向くと、前の世界で見た、古代風の衣装をまとった長い髪の女神がすぐそばに浮いている。
透子は自分を見おろした。特に異変も違和感も見当らない。
裸の腹を撫でてみたが、異物が入っている感触もなかった。
『《種》はこれから、お前を《仮枝》としてその生命を維持する。お前は特になにかをする必要はないが、死ぬなよ? お前が死ねば、新たな《枝》をさがさなければならなくなる』
「それだけ? 死ななければいいだけ?」
『仮の《枝》とはいえ、ただの人間に女神たる私が多くを望むはずもない。《種》を宿し、安定した肉体と精神状態で二年を過ごせばよい』
透子はやや肩透かしをくらった。なんとなく、あれこれ細かい指示を出される予想をしていた。だが女神は「これでこの件は片がついた」と言わんばかりに話を変える。
『さて。それでは、お前の住む場所だが…………』
「あの、その前に」
透子は手を挙げ断固、主張した。
「服を…………貸してください…………!!」
女神は透子に新しい肉体を与えてはくれたものの、服は作ってくれなかったのだ。
今、透子の素肌を隠すのは、やたらと伸びた長い髪だけ。
寒さは感じないが、この格好で人前に出るのは絶対に避けたかった。
『そういえばそうだな』
女神もすんなり応じ、透子の肩をやわらかい感触がふわりと包む。
深い緑色の布地だった。
『服』というより『衣』という表現が似つかわしい。女神が着ている古代ギリシア風の衣装ではなく、長い袖に前開きの、着物っぽい衣装だ。黒っぽい長い布が腰に巻きつき、きゅっ、と一人でにきれいな結び目を作って、帯となる。
『ひとまず、これでしのげ。私は人間の装いにはうといのでな。あとで人間の衣服に詳しい者に、必要な物を調達させる』
ガウン程度の装いだが、首から上と、手首から先以外の肌は隠れたので透子はほっとした。
「そういえば」と己の肉体を見おろし、思い出す。
「あの…………この体、『最盛期』と言っていましたよね? 私から見ても、かなり若かった気がするんですが」
『そうだ。お前の世界の基準では、二十歳前後だな』
「二十歳!」
思わず声が出た。十歳も若返っている。
(ネット小説では、異世界に転生して若返るのは定番だけれど…………)
「私の世界へは、私が事故に遭った時点に戻してくれるんですよね? だとすると、二十歳だと若すぎて、下手をすると別人と思われるのでは…………」
『その時がくれば、相応に老化させてやる。案ずるな。それとも、実際より少しだけ若返らせておこうか? 二十五、六歳なら、もとの年齢と大差あるまい』
いいかも、と透子は思ってしまった。
対外的には三十歳。実年齢は二十五歳。
五歳若返るだけでも、体力とか肌の調子とか健康状態とか色々違うだろうし、その程度なら「メークを変えた」と言えば、「若すぎる」と不審がられることもないだろう。
『それでお前の住まいだが。神域にするか? 人の領域にするか?』
「神域って…………神様の世界のことですか? 私は人間ですけれど、そんなすごい所に住んで、いいんですか?」
透子は驚いた。
『仮とはいえ、次代の世界の礎たる《種》を宿す《枝》だ。粗略な扱いはせぬ。むしろ丁重に扱わねば、困るのはこちらだ。神域に住むならもっと下位の層になるが、お前の家と世話をする者を用意させよう。それとも人の領域がいいか?』
透子は少し考えた。
「この世界の人間社会って、どんな感じですか?」
たとえば洋画やゲームで観るような異国情緒豊かな世界なら、人間社会で暮らすのもありかもしれない。「トラックに轢かれて死んで異世界に~」というのは、ここ数年のネット小説における定番だが、あの手の話では『中世ヨーロッパ風世界』に転生するのがお約束だ。
(『ロード・○ブ・ザ・リ○グ』のホビット庄みたいな所で、のんびりスローライフするのも楽しいかも)
『二年間』と期間を限定されているうえ、不安だった《種》の受容も問題なく完了し、痛みなどの不調も感じられず、家と世話係まで用意してもらえると聞いて、透子の気持ちにはだいぶん余裕が生まれていた。
女神が手をふる。
『こちらも、基本的な理はお前がいた世界と変わらない。水は上から下に落ち、海からの蒸気が上昇気流に乗って上空で雲となり、雨となって地上に降る。重力、大気の構成、食物連鎖に原子や分子の動き、自然現象。根本的な世界の造形は、お前のいた世界と大差ない。そういう世界を選んだしな』
彩雲の空が数ヶ所、切りとられ、画面のようにいくつもの光景を映し出す。
海と砂浜、薄暗い森の中、とうとうと流れる大河に、峻厳な岩のような山々。
『文化レベルはお前のいた世界…………いや、国と比較すると、お前の時間概念では二百年から百年ほど遅れているやもしれん。条件が異なるので、安直には比べられないが』
朱塗りの柱が並んだ巨大な建物と、石畳の広場。大勢の人々が行き交う大きな通りには赤い提灯が並び、荷車を引く馬の姿も映っている。
『お前の世界との一番の違いだが――――』
女神の声に投げ捨てるような冷ややかさが混じった。
『人間の男女の出生率が偏《かたよ》っている。他の生物は自然な雌雄比だが、人間だけは、ざっと女一人に対し男が八人だ』
「えっ…………一対八!?」
透子は思わず声をあげていた。
「女性一人に男性八人って…………そんな割合で、人口を維持できるんですか? すぐに子供の数が減って、絶滅の危機にさらされそうなものですけれど…………」
『少子化の傾向はあるが『今すぐ絶滅』という水準ではない。人間側も、女一人に複数の夫をあてがうなどして、努力はしている。女側も、多産に耐えられるよう進化しつつあるしな』
透子は言葉を失った。
女性一人に対し、男性八人。複数の夫があてがわれる世界。
戸惑う透子に、女神は話を進めていく。
『望むなら、人間社会での住まいと糧を用意する。世話役と守護者も…………いや』
女神は透子の額へ手をかざした。
ふっ、と体の中で一瞬、なにかがゆれたような感覚を覚える。
『守護はこれでよかろう』
女神は言ったが、透子は自分の内側にも外側にも別段、異変は感じない。
『ついでに、こちらの言語と文字も理解できるようにしておいた。それで? どうする?』
女神の問いに、透子は空に浮かぶ画像を観ながら問い返す。
「こちらの神様の領域での暮らしは、どんな感じですか?」
『文字どおりの神域、佳景だ。気候は温暖で実りは豊か。安全は保証するし、働かずとも安穏と暮らせることも約束しよう。無数の人間が移住を願って、夢破れてきた場所だ』
「うーん…………」
透子は悩んだ。
安全と安泰を考えるなら、神様の領域にいたほうがいいだろう。働かずに暮らしていけるのは大変な魅力だ。今の日本で「働くのが楽しい!」と心から口にできる社会人は、どれほどいるだろう。透子だって、まだ八年間の会社員人生の中で何度も「休みたい」と思っていた。
それこそ「宝くじが当たって、一生のんびり暮らせるようになれたらな」なんて夢を見たこともある(実際に当選したら、そう、うまくもいかなかったが)。
しかし世話係や護衛をつけてもらえて、生活の保証もしてもらえるなら、思いきって人間社会で暮らすのも楽しいかもしれない。
異世界なんて、本来なら、一生に一度も訪れる機会の無い場所だ。観光や留学に来たと思えば、色々体験してみるほうが楽しいだろうし、もとの世界に戻った時にも、その経験を活かしてなにかできるかもしれない。
(たとえば異世界の経験をもとに、小説を書く、とか?)
透子は迷い…………決めた。
『決まったか?』
「はい。二年間なら――――」
突然だった。
無数の黒い稲妻が走って、空に映し出されていたいくつもの画面をいっせいに砕く。
「えっ…………」
『また来たか!!』
常に冷静、余裕に満ちていた女神の表情が険しくなる。
『次代ノ…………《種》…………!!』
人間の声帯を通したとも思えぬ声。
声の響くほう、女神がにらみつける先を見ると、そこにいたのは黒い靄のような塊だった。そうとしか表現できないものだ。
虹色の彩雲の空を背に、等身大ほどの真っ黒な靄が浮いていて、そこから黒い稲妻が次々、透子へと飛んでくる。
「きゃあ!!」
寸前で白い光が稲妻をはじき、透子はなんの衝撃も影響も受けずに済む。
『《種》…………ワタシノ…………』
『世迷いの愚者めが!! 疾く、己が世界に還るがいい!!』
女神がしなやかな腕をふると、その先から白い光の槍が何本も飛んで黒い靄を貫く。
『ワタシノ…………《種》…………!!』
黒い靄からひときわ大量の稲妻が放たれ、透子を包み込むように広がる。
『ワタシノモノ…………!』
『道理のわからぬ、愚か者めが!!』
女神の手から再度、白い光の槍が放たれる。
『む…………!』
女神の柳眉がつりあがった。
二種の強力な力のぶつかり合いによって、神域の空に小さいが次元の穴が開く。
「あっ…………」
気づくと透子は放り出されていた。
見えない力で宙に固定されていた肉体がその力を失い、重力に従って落下をはじめたのだ。
「きゃあああ!!」
『しまった…………!!』
透子は悲鳴をあげ、世界を司る女神たる存在は力を飛ばそうとしたが、もう遅い。
《種》を宿した《仮枝》は、神域に空いた次元の穴に落ちてしまっていた。
『ワタシノ…………《種》…………』
女神は黒い靄に八つ当たり気味に光の槍を放って、それを完全に消滅させる。
『余計な手間を…………!』
舌打ちした。
世界を司る身にも、次元に気まぐれに開く穴に関しては支配と予想の外にあった。
女神はすぐに知覚を集中する。幸い、穴はこの世界の外にはつながっていなかったようだ。
であれば、女神たる彼女に《仮枝》が追跡できぬはずはない。
またたきほどの間に《仮枝》の居場所をつきとめた。
さらに、その周辺についての情報も収集する。
状況を理解した女神は、たった今までの焦慮を嘘のように消した。
『ふむ』と思案する。
『人の世に置くなら道観にでも、と思っていたが。これはこれで案外、面白い展開が期待できるやもしれん。守護はすでにつけてある。慌てることもなかろう。しばらく様子を見るか――――』
女神は言い残すと、本来の居場所である《世界樹》のもとへ戻った。
あとには何事もなかったかのように、彩雲がどこまでも広がっていた。
「ここは…………」
何度かまばたきして、透子はようやく目に映る光景を理解することができた。
「…………木!?」
樹齢数百年どころではない。
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彩雲というのだろうか。空は虹色の雲がどこまでもつづき、それでいて薄暗さはなく、透子はその虹色の空の中に浮いていた。
『では、約束を果たしてもらおう』
女神の声が聞こえた。
腹に、質感すら備えたような強烈な熱の塊を感じる。
「熱い…………!」
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声のほうを向くと、前の世界で見た、古代風の衣装をまとった長い髪の女神がすぐそばに浮いている。
透子は自分を見おろした。特に異変も違和感も見当らない。
裸の腹を撫でてみたが、異物が入っている感触もなかった。
『《種》はこれから、お前を《仮枝》としてその生命を維持する。お前は特になにかをする必要はないが、死ぬなよ? お前が死ねば、新たな《枝》をさがさなければならなくなる』
「それだけ? 死ななければいいだけ?」
『仮の《枝》とはいえ、ただの人間に女神たる私が多くを望むはずもない。《種》を宿し、安定した肉体と精神状態で二年を過ごせばよい』
透子はやや肩透かしをくらった。なんとなく、あれこれ細かい指示を出される予想をしていた。だが女神は「これでこの件は片がついた」と言わんばかりに話を変える。
『さて。それでは、お前の住む場所だが…………』
「あの、その前に」
透子は手を挙げ断固、主張した。
「服を…………貸してください…………!!」
女神は透子に新しい肉体を与えてはくれたものの、服は作ってくれなかったのだ。
今、透子の素肌を隠すのは、やたらと伸びた長い髪だけ。
寒さは感じないが、この格好で人前に出るのは絶対に避けたかった。
『そういえばそうだな』
女神もすんなり応じ、透子の肩をやわらかい感触がふわりと包む。
深い緑色の布地だった。
『服』というより『衣』という表現が似つかわしい。女神が着ている古代ギリシア風の衣装ではなく、長い袖に前開きの、着物っぽい衣装だ。黒っぽい長い布が腰に巻きつき、きゅっ、と一人でにきれいな結び目を作って、帯となる。
『ひとまず、これでしのげ。私は人間の装いにはうといのでな。あとで人間の衣服に詳しい者に、必要な物を調達させる』
ガウン程度の装いだが、首から上と、手首から先以外の肌は隠れたので透子はほっとした。
「そういえば」と己の肉体を見おろし、思い出す。
「あの…………この体、『最盛期』と言っていましたよね? 私から見ても、かなり若かった気がするんですが」
『そうだ。お前の世界の基準では、二十歳前後だな』
「二十歳!」
思わず声が出た。十歳も若返っている。
(ネット小説では、異世界に転生して若返るのは定番だけれど…………)
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『その時がくれば、相応に老化させてやる。案ずるな。それとも、実際より少しだけ若返らせておこうか? 二十五、六歳なら、もとの年齢と大差あるまい』
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五歳若返るだけでも、体力とか肌の調子とか健康状態とか色々違うだろうし、その程度なら「メークを変えた」と言えば、「若すぎる」と不審がられることもないだろう。
『それでお前の住まいだが。神域にするか? 人の領域にするか?』
「神域って…………神様の世界のことですか? 私は人間ですけれど、そんなすごい所に住んで、いいんですか?」
透子は驚いた。
『仮とはいえ、次代の世界の礎たる《種》を宿す《枝》だ。粗略な扱いはせぬ。むしろ丁重に扱わねば、困るのはこちらだ。神域に住むならもっと下位の層になるが、お前の家と世話をする者を用意させよう。それとも人の領域がいいか?』
透子は少し考えた。
「この世界の人間社会って、どんな感じですか?」
たとえば洋画やゲームで観るような異国情緒豊かな世界なら、人間社会で暮らすのもありかもしれない。「トラックに轢かれて死んで異世界に~」というのは、ここ数年のネット小説における定番だが、あの手の話では『中世ヨーロッパ風世界』に転生するのがお約束だ。
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女神が手をふる。
『こちらも、基本的な理はお前がいた世界と変わらない。水は上から下に落ち、海からの蒸気が上昇気流に乗って上空で雲となり、雨となって地上に降る。重力、大気の構成、食物連鎖に原子や分子の動き、自然現象。根本的な世界の造形は、お前のいた世界と大差ない。そういう世界を選んだしな』
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朱塗りの柱が並んだ巨大な建物と、石畳の広場。大勢の人々が行き交う大きな通りには赤い提灯が並び、荷車を引く馬の姿も映っている。
『お前の世界との一番の違いだが――――』
女神の声に投げ捨てるような冷ややかさが混じった。
『人間の男女の出生率が偏《かたよ》っている。他の生物は自然な雌雄比だが、人間だけは、ざっと女一人に対し男が八人だ』
「えっ…………一対八!?」
透子は思わず声をあげていた。
「女性一人に男性八人って…………そんな割合で、人口を維持できるんですか? すぐに子供の数が減って、絶滅の危機にさらされそうなものですけれど…………」
『少子化の傾向はあるが『今すぐ絶滅』という水準ではない。人間側も、女一人に複数の夫をあてがうなどして、努力はしている。女側も、多産に耐えられるよう進化しつつあるしな』
透子は言葉を失った。
女性一人に対し、男性八人。複数の夫があてがわれる世界。
戸惑う透子に、女神は話を進めていく。
『望むなら、人間社会での住まいと糧を用意する。世話役と守護者も…………いや』
女神は透子の額へ手をかざした。
ふっ、と体の中で一瞬、なにかがゆれたような感覚を覚える。
『守護はこれでよかろう』
女神は言ったが、透子は自分の内側にも外側にも別段、異変は感じない。
『ついでに、こちらの言語と文字も理解できるようにしておいた。それで? どうする?』
女神の問いに、透子は空に浮かぶ画像を観ながら問い返す。
「こちらの神様の領域での暮らしは、どんな感じですか?」
『文字どおりの神域、佳景だ。気候は温暖で実りは豊か。安全は保証するし、働かずとも安穏と暮らせることも約束しよう。無数の人間が移住を願って、夢破れてきた場所だ』
「うーん…………」
透子は悩んだ。
安全と安泰を考えるなら、神様の領域にいたほうがいいだろう。働かずに暮らしていけるのは大変な魅力だ。今の日本で「働くのが楽しい!」と心から口にできる社会人は、どれほどいるだろう。透子だって、まだ八年間の会社員人生の中で何度も「休みたい」と思っていた。
それこそ「宝くじが当たって、一生のんびり暮らせるようになれたらな」なんて夢を見たこともある(実際に当選したら、そう、うまくもいかなかったが)。
しかし世話係や護衛をつけてもらえて、生活の保証もしてもらえるなら、思いきって人間社会で暮らすのも楽しいかもしれない。
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「はい。二年間なら――――」
突然だった。
無数の黒い稲妻が走って、空に映し出されていたいくつもの画面をいっせいに砕く。
「えっ…………」
『また来たか!!』
常に冷静、余裕に満ちていた女神の表情が険しくなる。
『次代ノ…………《種》…………!!』
人間の声帯を通したとも思えぬ声。
声の響くほう、女神がにらみつける先を見ると、そこにいたのは黒い靄のような塊だった。そうとしか表現できないものだ。
虹色の彩雲の空を背に、等身大ほどの真っ黒な靄が浮いていて、そこから黒い稲妻が次々、透子へと飛んでくる。
「きゃあ!!」
寸前で白い光が稲妻をはじき、透子はなんの衝撃も影響も受けずに済む。
『《種》…………ワタシノ…………』
『世迷いの愚者めが!! 疾く、己が世界に還るがいい!!』
女神がしなやかな腕をふると、その先から白い光の槍が何本も飛んで黒い靄を貫く。
『ワタシノ…………《種》…………!!』
黒い靄からひときわ大量の稲妻が放たれ、透子を包み込むように広がる。
『ワタシノモノ…………!』
『道理のわからぬ、愚か者めが!!』
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『む…………!』
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二種の強力な力のぶつかり合いによって、神域の空に小さいが次元の穴が開く。
「あっ…………」
気づくと透子は放り出されていた。
見えない力で宙に固定されていた肉体がその力を失い、重力に従って落下をはじめたのだ。
「きゃあああ!!」
『しまった…………!!』
透子は悲鳴をあげ、世界を司る女神たる存在は力を飛ばそうとしたが、もう遅い。
《種》を宿した《仮枝》は、神域に空いた次元の穴に落ちてしまっていた。
『ワタシノ…………《種》…………』
女神は黒い靄に八つ当たり気味に光の槍を放って、それを完全に消滅させる。
『余計な手間を…………!』
舌打ちした。
世界を司る身にも、次元に気まぐれに開く穴に関しては支配と予想の外にあった。
女神はすぐに知覚を集中する。幸い、穴はこの世界の外にはつながっていなかったようだ。
であれば、女神たる彼女に《仮枝》が追跡できぬはずはない。
またたきほどの間に《仮枝》の居場所をつきとめた。
さらに、その周辺についての情報も収集する。
状況を理解した女神は、たった今までの焦慮を嘘のように消した。
『ふむ』と思案する。
『人の世に置くなら道観にでも、と思っていたが。これはこれで案外、面白い展開が期待できるやもしれん。守護はすでにつけてある。慌てることもなかろう。しばらく様子を見るか――――』
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