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「一等は…………一、八、七の…………」
スマホで宝くじの公式ホームページを検索し、当選番号を確認していく。
「…………あれ?」
なんだか一致する数が多い。
透子は目を疑った。
「…………当ってる? …………一等!?」
透子はホームページを見た。
「…………二億円!?」
指で数字を追いながら、何度も確認した。けれど数字は変わらなかった。
一等二億円の当選番号が、透子の手元のくじの番号とそっくり同じ。組違いですらない。宝くじの名前も『第○回』という数字も、すべて同じだ。
「嘘…………」
呆然と呟く。そして気づいた。
「これ、連番…………!」
ということは。
前後賞も当たっていた。
合計三億円。
透子はめまいを覚えた。
「信じられない…………結婚前に、こんなことが起こるなんて…………」
これは神様から贈られた、結婚への祝いだろうか。
透子は自分達の結婚が祝福されていると感じた。
結婚式の五日前の出来事である。
結論から述べると、透子と謙人は離婚が決定した。
婚姻届を出してから十日も経っていない、スピード離婚である。
慰謝料はむろん、式場のキャンセル料金もすべて謙人が負担することで合意した。
最初の話し合いの二日後、水瀬家と工藤家は再度の話し合いの場をもうけたのだが、謙人の意思も主張も変わらず、工藤夫妻は一貫して息子の味方をした。
母の体調が心配だったため、透子は父と姉の三人で話し合いに応じたが、「愛美と結婚する」とくりかえした末に席を立った夫の姿に、もはや追いすがる気力も意欲も失い、気づけば「もういい」と告げていた。
ちなみに、愛美はすでに工藤家に滞在しているらしい。
「あちらのお母さまはカンカンでね。もう愛美さんは、ウチで暮らそうってことになったの。毎日、謙人と二人で、あちこちに必要な物を買いそろえに行っているのよ」
そんなことを、義母はご近所さんでも相手にするかのように、笑いながら話す。
「謙人も三十四でしょう? 私達もいい年齢だし、早く孫の顔を見たくて。だから謙人には早く結婚して、世間にもきちんと認められて欲しいの。だから、離婚が決まったのにあんまり書類の提出が遅れると…………」
「それは我が家には無関係です!」
透子の父が一喝した。
「不倫や浮気は離婚自由になるが、不倫した側に離婚の自由はないと、法的にも認められている! 不倫したのが謙人君である以上、そちらの都合は一切、考慮しない! 届けの提出は、完全に透子の都合で行わせる! 文句があるなら、不倫した謙人君に言いなさい!!」
透子の父がぴしゃりと言いきり、娘二人を連れて工藤家を出た。
「待って、透子ちゃん。お願いだから、届けは早く…………!」
玄関から声が聞こえたが、誰もふりかえらない。
翌日、謙人の名前の記入と捺印が済んだ状態で、離婚届が水瀬家に速達で届いた。
最初に受けとって中身を確認した母は紙を床に叩きつけ、透子もわざわざ速達で郵送した謙人の態度に、あらためて傷つけられた。
そんなに自分と離婚したいのか
そんなにあの女と結婚したいのか。
本当なら自分達は今頃、のんびりハネムーンを満喫しているはずだったのに。
「いそぐ必要はない。心が決まったら、出せばいい」
父はそう言ってくれた。
謙人との離婚が決定して、一週間。
透子は抜け殻のような状態だった。
一日中、実家の自室のベッドに寝転がって、部屋の明るさが変わっていくのをただ見つめる。
サイドテーブルには、自分の名を記入し終えた離婚届。
判はまだ押していない。
七日目の夜に、透子は母から「会社はどうするの?」と訊かれた。
新婚旅行のために取得した有給は二週間。明日で終わりだ。
「なんなら、お母さんが『もう少し休む』って、会社に連絡しておくけれど?」
透子は母の気遣いをうけた。
とても仕事が手につく状態ではない。
特に、透子と謙人は社内結婚だ。二人の仲は社内中の社員が知っている。
とても顔を出す勇気はない。
今日のところは休みを延長してもらうとしても、最悪の場合は退職も視野に入れなければならない。
謙人は堂々と会社に顔を出しているのだろうか。工藤家で見た、あの『純愛を貫いただけです』『やましいことは一つもありません』という顔で。
透子は母に連絡を頼むため、出勤用の鞄からスマホをとり出す。
スマホは山のようなメールと電話を受信していた。ずっと電源を切っていたのだ。
ざっと送信名を確認していくと、ほとんどが心配する友人や同僚達のものだったが、違うものも混じっていた。
「銀行から…………?」
なんだろう、と内容を確認して思い出す。
「そうだ…………宝くじ…………!」
結婚前、仕事帰りに宝くじを買う同僚に「結婚する水瀬さんの幸運をわけて」と頼まれて同行し、ついでに透子も購入していたのだ。
それが見事に一等と前後賞に当選し、合計三億円が当たっていることを確認したのが、結婚式の五日前。
翌日、準備で忙しい中をぎりぎりで銀行に飛び込み、当たりくじを預けて「入金は二週間後」と告げられていた。
その『二週間後』の連絡だった。
すっかり忘れていた。
結婚式に夫に逃げられてから、約二週間。
はじめて透子の頭の中から、一時、謙人の面影が吹き飛んだ。
「本当に…………当選したの…………?」
実際に通帳を見るまでは信用できない。けれど。
透子は結婚式の時とは別な意味で、途方に暮れた。
「どうしよう…………」
仮に、この当選が現実のものとして。
こんな大金、どう扱えばいいのだ。
すると一つの考えがよぎる。
(三億円あったら…………謙人は戻って来てくれる…………?)
それは悪魔のささやきだった。
透子の内に、嵐のような動揺が生じる。
(まさか、そんな。お金で人を動かすようなこと…………)
だが、一度生まれた考えはぴたりと脳裏にへばりついて、はがれようとしない。
透子は泥の中を泳ぐような足どりで母にスマホを渡し、会社に休暇の連絡をしてもらって、ベッドに戻った。
頭の中にぐるぐる、一つの考えがめぐる。
(「三億円を渡す」って言ったら…………渡さなくても、私が「三億円当たった」って謙人に教えたら…………)
謙人は、どうするだろう。
「やっぱり透子がいい」、そう言って戻ってくるだろうか――――?
人込みの中に謙人がいた。愛美の肩を抱き、家具店に入って行こうとする。
「謙人!!」
透子は謙人を追いかけた。
透子の声に謙人と愛美がふりかえる。その他人を見るまなざし。
透子は通帳を突き出した。
「謙人。私、三億円が当たったの。これをあげるから、もう一度、私の所に戻って来て」
透子は真剣だった。
謙人もまっすぐに透子を見た。
「馬鹿じゃねぇ?」
それが謙人の第一声だった。
「金で人の心が、どうにかなると思ってんの? 最低な女だな。三億? それで俺が愛美を捨てるとか、俺のこと、そんな風に思ってたのかよ。やっぱ、お前、捨てて正解だったわ。行こうぜ、愛美。こんなクズに付き合ってたら、こっちがクズになる」
謙人が愛美の肩を抱いて、透子に背をむける。
「待っ…………」
透子は手を伸ばす。二人のうしろ姿はかき消えて、透子には追えなくなる。
「待って!!」
透子は思わず叫んでいた。
その叫びで目を覚ました。
頬が涙に濡れている。
明かりを消した自分の部屋だった。
「…………夢…………?」
透子はのろのろと体を起こした。
「はあ…………」と大きく息を吐き出す。額がかすかに汗ばんでいた。
(夢でこんなに動揺するなんて…………)
でも(しかたない)とも思った。
実際の本人に比べると口は悪かったが、透子はたしかに夢で謙人に非難された。
『最低だ』『クズだ』と、ののしられ…………しかも謙人の主張のほうが正論だった。
大金とはいえ、人の心がお金で動くはずがない。謙人はそんな人間ではない。
謙人と愛美のつながりは、お金で動くようなものではないのだ。
(馬鹿みたい…………)
涙がにじんだ。
いっそ謙人が三億円に目がくらんで「透子がいい」と言っていれば、ここまで傷つかなかったかもしれない。でも、夢でも謙人は愛美を愛していて、それは透子もお金も割り込む余地のない、強固なものだった。
夢の中とはいえ、透子は「三億円あげるから戻って来て」と言った自分が恥ずかしかった。
自分は謙人の人柄にも、愛美への愛情にも負けたのだ。
(馬鹿みたい…………っ)
泣き出しかけた透子の耳に、かすかな音が届く。
「香子!?」
ドアを開ける音と、父の声。
部屋を出ると、とっくに寝ているはずの母が、パジャマ姿で廊下の壁に手をついてうずくまり、同じくパジャマ姿の父が声をかけている。
「発作だな!? 待っていろ!」
父は夫婦の寝室に駆け込み、枕元に備えていた母の薬と水を持って戻ってくる。
母は差し出された薬と水を飲み、壁にもたれた。
しばらくすると母の呼吸と表情が落ち着いてくる。
「ありがとう。もう大丈夫…………」
母は父に告げ、トイレにむかう。父はその背を廊下で見守り、透子は母の状態が安定したのを視認して、部屋にそっと戻った。
ベッドに戻りながら、再度、自分を恥じる。
(私、なにをやっているんだろう。お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、みんな心配してくれているのに、私は自分のことばかり…………挙句に『三億円をあげれば謙人が戻ってくるかも』なんて…………)
母の苦しむ様に、動揺していた頭が完全に醒めた。
お金を渡すべきは、もっと他にいる。
(三億円あれば、お母さんの手術ができる。颯太も…………!)
透子の母、香子は心臓に病を抱えていた。
手術すれば治る病気だが、治療費が高額で、母はずっと薬でしのいでいた。
そして姉の凜子の息子、透子の甥にあたる颯太も、六歳で心臓に病を抱えていた。
病気が判明した時、母は「私のせいだ」と大泣きしていた。
(三億あれば、二人の病気を治療できる。どうして、そうしないの――――)
逃げた男を追いかけている場合だろうか。
母と、まだ幼い甥の健康がかかっているのに。
(なんで、もっと早く、思いつかないんだろう)
透子は自分を恥じた。
そしてこれを機に、絶望に沈んでいた心が浮上をはじめた。
この当選金が本物だとして、手に入る三億円は母や甥のために使うべきだ。
断じて、謙人をとり戻すためではない。
(お金で人の心を動かそうというのが、無理な話なのよ。謙人はそんな人じゃない。そんな方法で戻って来ても、それは本物の気持ちじゃないし、長くつづくはずもない。幸せになんて、なれるはずないのよ)
透子の目から一粒の涙がこぼれる。
ただし絶望の涙ではない。
哀しみを含みながらも過去との決別を決意した、覚悟の涙だった。
透子はサイドテーブルの上のライトをつけ、置きっぱなしだった書類に、この一週間、どうしても押せなかった判を押す。
(明日、役所に出しに行こう。それから入金を確認して…………確認したら、すぐにお母さんとお姉ちゃん達に話さないと)
「実際に現物を見るまでは信用できない」と、透子は自分以外の誰にも当選の件を話していなかった。
本当なら、新婚旅行から帰ったら即、確認して、まっさきに謙人に伝えるつもりだったのだ。
涙をこらえて、ライトを消す。
(立ち直ろう。これは神様からのプレゼント。早く前を見て新しい人生を歩めって、神様が応援してくれているのよ。三億円なんて、新しい人生をはじめるには充分すぎる金額じゃない)
きっとうまくいくはずだ。
…………そのあと、透子はふたたび夢を見た。
夢の中では両親も姉も甥もなんの屈託なく笑っていて、透子もとてもすっきりした気分で笑いながら、とても大きなケーキをみんなで分け合って食べていた。
スマホで宝くじの公式ホームページを検索し、当選番号を確認していく。
「…………あれ?」
なんだか一致する数が多い。
透子は目を疑った。
「…………当ってる? …………一等!?」
透子はホームページを見た。
「…………二億円!?」
指で数字を追いながら、何度も確認した。けれど数字は変わらなかった。
一等二億円の当選番号が、透子の手元のくじの番号とそっくり同じ。組違いですらない。宝くじの名前も『第○回』という数字も、すべて同じだ。
「嘘…………」
呆然と呟く。そして気づいた。
「これ、連番…………!」
ということは。
前後賞も当たっていた。
合計三億円。
透子はめまいを覚えた。
「信じられない…………結婚前に、こんなことが起こるなんて…………」
これは神様から贈られた、結婚への祝いだろうか。
透子は自分達の結婚が祝福されていると感じた。
結婚式の五日前の出来事である。
結論から述べると、透子と謙人は離婚が決定した。
婚姻届を出してから十日も経っていない、スピード離婚である。
慰謝料はむろん、式場のキャンセル料金もすべて謙人が負担することで合意した。
最初の話し合いの二日後、水瀬家と工藤家は再度の話し合いの場をもうけたのだが、謙人の意思も主張も変わらず、工藤夫妻は一貫して息子の味方をした。
母の体調が心配だったため、透子は父と姉の三人で話し合いに応じたが、「愛美と結婚する」とくりかえした末に席を立った夫の姿に、もはや追いすがる気力も意欲も失い、気づけば「もういい」と告げていた。
ちなみに、愛美はすでに工藤家に滞在しているらしい。
「あちらのお母さまはカンカンでね。もう愛美さんは、ウチで暮らそうってことになったの。毎日、謙人と二人で、あちこちに必要な物を買いそろえに行っているのよ」
そんなことを、義母はご近所さんでも相手にするかのように、笑いながら話す。
「謙人も三十四でしょう? 私達もいい年齢だし、早く孫の顔を見たくて。だから謙人には早く結婚して、世間にもきちんと認められて欲しいの。だから、離婚が決まったのにあんまり書類の提出が遅れると…………」
「それは我が家には無関係です!」
透子の父が一喝した。
「不倫や浮気は離婚自由になるが、不倫した側に離婚の自由はないと、法的にも認められている! 不倫したのが謙人君である以上、そちらの都合は一切、考慮しない! 届けの提出は、完全に透子の都合で行わせる! 文句があるなら、不倫した謙人君に言いなさい!!」
透子の父がぴしゃりと言いきり、娘二人を連れて工藤家を出た。
「待って、透子ちゃん。お願いだから、届けは早く…………!」
玄関から声が聞こえたが、誰もふりかえらない。
翌日、謙人の名前の記入と捺印が済んだ状態で、離婚届が水瀬家に速達で届いた。
最初に受けとって中身を確認した母は紙を床に叩きつけ、透子もわざわざ速達で郵送した謙人の態度に、あらためて傷つけられた。
そんなに自分と離婚したいのか
そんなにあの女と結婚したいのか。
本当なら自分達は今頃、のんびりハネムーンを満喫しているはずだったのに。
「いそぐ必要はない。心が決まったら、出せばいい」
父はそう言ってくれた。
謙人との離婚が決定して、一週間。
透子は抜け殻のような状態だった。
一日中、実家の自室のベッドに寝転がって、部屋の明るさが変わっていくのをただ見つめる。
サイドテーブルには、自分の名を記入し終えた離婚届。
判はまだ押していない。
七日目の夜に、透子は母から「会社はどうするの?」と訊かれた。
新婚旅行のために取得した有給は二週間。明日で終わりだ。
「なんなら、お母さんが『もう少し休む』って、会社に連絡しておくけれど?」
透子は母の気遣いをうけた。
とても仕事が手につく状態ではない。
特に、透子と謙人は社内結婚だ。二人の仲は社内中の社員が知っている。
とても顔を出す勇気はない。
今日のところは休みを延長してもらうとしても、最悪の場合は退職も視野に入れなければならない。
謙人は堂々と会社に顔を出しているのだろうか。工藤家で見た、あの『純愛を貫いただけです』『やましいことは一つもありません』という顔で。
透子は母に連絡を頼むため、出勤用の鞄からスマホをとり出す。
スマホは山のようなメールと電話を受信していた。ずっと電源を切っていたのだ。
ざっと送信名を確認していくと、ほとんどが心配する友人や同僚達のものだったが、違うものも混じっていた。
「銀行から…………?」
なんだろう、と内容を確認して思い出す。
「そうだ…………宝くじ…………!」
結婚前、仕事帰りに宝くじを買う同僚に「結婚する水瀬さんの幸運をわけて」と頼まれて同行し、ついでに透子も購入していたのだ。
それが見事に一等と前後賞に当選し、合計三億円が当たっていることを確認したのが、結婚式の五日前。
翌日、準備で忙しい中をぎりぎりで銀行に飛び込み、当たりくじを預けて「入金は二週間後」と告げられていた。
その『二週間後』の連絡だった。
すっかり忘れていた。
結婚式に夫に逃げられてから、約二週間。
はじめて透子の頭の中から、一時、謙人の面影が吹き飛んだ。
「本当に…………当選したの…………?」
実際に通帳を見るまでは信用できない。けれど。
透子は結婚式の時とは別な意味で、途方に暮れた。
「どうしよう…………」
仮に、この当選が現実のものとして。
こんな大金、どう扱えばいいのだ。
すると一つの考えがよぎる。
(三億円あったら…………謙人は戻って来てくれる…………?)
それは悪魔のささやきだった。
透子の内に、嵐のような動揺が生じる。
(まさか、そんな。お金で人を動かすようなこと…………)
だが、一度生まれた考えはぴたりと脳裏にへばりついて、はがれようとしない。
透子は泥の中を泳ぐような足どりで母にスマホを渡し、会社に休暇の連絡をしてもらって、ベッドに戻った。
頭の中にぐるぐる、一つの考えがめぐる。
(「三億円を渡す」って言ったら…………渡さなくても、私が「三億円当たった」って謙人に教えたら…………)
謙人は、どうするだろう。
「やっぱり透子がいい」、そう言って戻ってくるだろうか――――?
人込みの中に謙人がいた。愛美の肩を抱き、家具店に入って行こうとする。
「謙人!!」
透子は謙人を追いかけた。
透子の声に謙人と愛美がふりかえる。その他人を見るまなざし。
透子は通帳を突き出した。
「謙人。私、三億円が当たったの。これをあげるから、もう一度、私の所に戻って来て」
透子は真剣だった。
謙人もまっすぐに透子を見た。
「馬鹿じゃねぇ?」
それが謙人の第一声だった。
「金で人の心が、どうにかなると思ってんの? 最低な女だな。三億? それで俺が愛美を捨てるとか、俺のこと、そんな風に思ってたのかよ。やっぱ、お前、捨てて正解だったわ。行こうぜ、愛美。こんなクズに付き合ってたら、こっちがクズになる」
謙人が愛美の肩を抱いて、透子に背をむける。
「待っ…………」
透子は手を伸ばす。二人のうしろ姿はかき消えて、透子には追えなくなる。
「待って!!」
透子は思わず叫んでいた。
その叫びで目を覚ました。
頬が涙に濡れている。
明かりを消した自分の部屋だった。
「…………夢…………?」
透子はのろのろと体を起こした。
「はあ…………」と大きく息を吐き出す。額がかすかに汗ばんでいた。
(夢でこんなに動揺するなんて…………)
でも(しかたない)とも思った。
実際の本人に比べると口は悪かったが、透子はたしかに夢で謙人に非難された。
『最低だ』『クズだ』と、ののしられ…………しかも謙人の主張のほうが正論だった。
大金とはいえ、人の心がお金で動くはずがない。謙人はそんな人間ではない。
謙人と愛美のつながりは、お金で動くようなものではないのだ。
(馬鹿みたい…………)
涙がにじんだ。
いっそ謙人が三億円に目がくらんで「透子がいい」と言っていれば、ここまで傷つかなかったかもしれない。でも、夢でも謙人は愛美を愛していて、それは透子もお金も割り込む余地のない、強固なものだった。
夢の中とはいえ、透子は「三億円あげるから戻って来て」と言った自分が恥ずかしかった。
自分は謙人の人柄にも、愛美への愛情にも負けたのだ。
(馬鹿みたい…………っ)
泣き出しかけた透子の耳に、かすかな音が届く。
「香子!?」
ドアを開ける音と、父の声。
部屋を出ると、とっくに寝ているはずの母が、パジャマ姿で廊下の壁に手をついてうずくまり、同じくパジャマ姿の父が声をかけている。
「発作だな!? 待っていろ!」
父は夫婦の寝室に駆け込み、枕元に備えていた母の薬と水を持って戻ってくる。
母は差し出された薬と水を飲み、壁にもたれた。
しばらくすると母の呼吸と表情が落ち着いてくる。
「ありがとう。もう大丈夫…………」
母は父に告げ、トイレにむかう。父はその背を廊下で見守り、透子は母の状態が安定したのを視認して、部屋にそっと戻った。
ベッドに戻りながら、再度、自分を恥じる。
(私、なにをやっているんだろう。お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、みんな心配してくれているのに、私は自分のことばかり…………挙句に『三億円をあげれば謙人が戻ってくるかも』なんて…………)
母の苦しむ様に、動揺していた頭が完全に醒めた。
お金を渡すべきは、もっと他にいる。
(三億円あれば、お母さんの手術ができる。颯太も…………!)
透子の母、香子は心臓に病を抱えていた。
手術すれば治る病気だが、治療費が高額で、母はずっと薬でしのいでいた。
そして姉の凜子の息子、透子の甥にあたる颯太も、六歳で心臓に病を抱えていた。
病気が判明した時、母は「私のせいだ」と大泣きしていた。
(三億あれば、二人の病気を治療できる。どうして、そうしないの――――)
逃げた男を追いかけている場合だろうか。
母と、まだ幼い甥の健康がかかっているのに。
(なんで、もっと早く、思いつかないんだろう)
透子は自分を恥じた。
そしてこれを機に、絶望に沈んでいた心が浮上をはじめた。
この当選金が本物だとして、手に入る三億円は母や甥のために使うべきだ。
断じて、謙人をとり戻すためではない。
(お金で人の心を動かそうというのが、無理な話なのよ。謙人はそんな人じゃない。そんな方法で戻って来ても、それは本物の気持ちじゃないし、長くつづくはずもない。幸せになんて、なれるはずないのよ)
透子の目から一粒の涙がこぼれる。
ただし絶望の涙ではない。
哀しみを含みながらも過去との決別を決意した、覚悟の涙だった。
透子はサイドテーブルの上のライトをつけ、置きっぱなしだった書類に、この一週間、どうしても押せなかった判を押す。
(明日、役所に出しに行こう。それから入金を確認して…………確認したら、すぐにお母さんとお姉ちゃん達に話さないと)
「実際に現物を見るまでは信用できない」と、透子は自分以外の誰にも当選の件を話していなかった。
本当なら、新婚旅行から帰ったら即、確認して、まっさきに謙人に伝えるつもりだったのだ。
涙をこらえて、ライトを消す。
(立ち直ろう。これは神様からのプレゼント。早く前を見て新しい人生を歩めって、神様が応援してくれているのよ。三億円なんて、新しい人生をはじめるには充分すぎる金額じゃない)
きっとうまくいくはずだ。
…………そのあと、透子はふたたび夢を見た。
夢の中では両親も姉も甥もなんの屈託なく笑っていて、透子もとてもすっきりした気分で笑いながら、とても大きなケーキをみんなで分け合って食べていた。
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