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45.セレスティナ
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「お義姉さん!!」
何度か呼ばれて、わたくしは我に返りました。
いったい何事が起きたのでしょう。
呆然と周囲を見渡すと、床には高名な陶芸家の作である花器が粉々になって散らばり、少し離れた場所にしゃがみこんで頬を押さえる娘の背を、義母が心配そうになでて、家政婦もおろおろと娘とわたくしを見比べています。
「落ち着きましたか、お義姉さん」
すぐ背後から聞こえてくる、忌まわしい声。
あれほど注意しているのに、いまだに「様」ではなく「さん」などと庶民の口調があらたまらないあたり、この女は心底から上流には合わない性根でした。
どうやらわたくしは、その庶民の女に羽交い締めにされているようです。
女は、義母に娘を部屋へ連れて行くよう頼み、家政婦は破片の掃除のため、道具を取りに行きます。わたくしは女の手をふり払い、下賤の身から離れました。
「大丈夫ですか、お義姉さん。怪我は――――」
わたくしはなんと答えたでしょうか。覚えていませんが、気づけば目の前の女を糾弾していました。
「全部、あなたのせいです! 娘が血迷ったのも、夫やお義兄様が娘を止めないのも! 全部、あなたがそそのかしたんでしょう、わかっています! 身分をわきまえない下賤の女が、わたくしの娘を汚し、我が家を汚染して、なにが目的です!?」
女はどのような顔をしていたでしょうか。
仮に己の罪を認めて悔いていたとしても、わたくしは容赦する気はありませんでした。
「お義兄様をたぶらかして、高貴な世界にまぎれ込んで、自分も上流になった気でいるのでしょう? わたくしはだまされません! あなたが身の程をわきまえていれば、我が家が被害をこうむることはなかったのです! お義兄様があなたと結婚したことは、お義兄様の人生最大にして唯一の汚点です!! 出て行きなさい!!」
「――――私が××さんにふさわしい妻でないことは、最初からわかっています。それでも、あの人は私の夢を叶えるため、あの娘の志を継ぐため、自分の力を貸そうと、私と結婚してくれたんです。私はそれで充分です」
「あの娘?」
「××さんは、コトコの夢をかなえてあげたいんです。あの人の心には、今もコトコがいる。それを承知の上で、私も××さんと結婚しました。コトコの夢を叶える同志として。二人でコトコの意思を継ごうと、約束したんです――――」
「コトコ…………?」
その名には聞き覚えがありました。
目の前のこの女、アリサを慰め、励ましていた女。
きれいごとばかり語りながら、なに一つ成し遂げることなく死んだ『意識高い系』の女。
「××さんは、コトコが好きだったんです。コトコは就活の際、OBだった××さんに話を聞きに行って、××さんと出会って――――コトコの就職が決まったら、××さんはコトコに告白するつもりだったんです。なのに、その前にコトコが…………」
「…………っ!」
わたくしは信じられぬ思いでした。
この女は、なにを言っているのだろう。
義兄が、あんなに優れた立派な男性が、あの偽善者の女を愛していたというのか。
義兄が長い間、結婚せずにいたのは、あの女を忘れられなかったからだとでも?
「嘘です!! お義兄様が、あんなすばらしい方が、あんな下賤な偽善者を――――!!」
目の前の女がむっ、と眉をつりあげます。
「私を罵るのも見下すのも、かまいませんが。コトコのことは悪く言わないでください!!」
「この…………!!」
そう、すべてはあの『コトコ』という偽善者が元凶でした。
アリサという身の程知らずな女が、分不相応な野心を抱いたのも。
そのせいでわたくしの家や娘が汚染され、大事な義兄が奪われたのも。
すべては、あの口先だけのあざとい偽善者のせいでした。
この騒ぎのあと、わたくしは嫁家を追い出されました。
誰より高貴で優れていたはずのわたくしが「精神の不安定」を理由に実家に戻され、別荘での療養を強いられ、なのにあの女は責められるどころか、本格的に義兄の妻、婚家の女主人として居座りつづけて婚家をますます汚染し、わたくしが戻ってこられないように画策して、最終的にわたくしは夫から正式に離婚を告げられ、実家の別荘で人生を終えることとなったのです。
――――話がそれました。
とにかく、わたくしはイストリア皇国第三皇子ヒルベルト殿下に、かつての義兄の面影を見出しました。
そして深窓の令嬢の常として、世間ずれしておらず、恋愛にも奥手だったわたくしは、この時ようやく、前世の自分が義兄を愛していたことを自覚したのです。
わたくしが本当に結ばれるべきは義兄でした。
けれど不幸な偶然が重なってそれは叶わず、義兄はあの偽善者の意志を継いだ卑しい女に奪われ、汚染されてしまったのです。
ですが、わたくしはふたたび機会を得ました。
愛する男性は前世同様、いえ、前世以上に輝かしい優れた皇子としてわたくしの前に現れ、わたくしと結ばれるのを待っている!
わたくし達の出会いは運命です。
前世で引き裂かれた哀れな二人が、今生でふたたび高貴な男女として再会した。
これこそを運命と呼ばずして、なんと呼べばいいのでしょう。
まして今生では、神すらわたくし達に味方しています。
悪役令嬢セレスティナとヒルベルト皇子は結ばれるさだめ、選ばれし聖女と皇子でした。
わたくしの脳裏に、女の顔が浮かびます。
それは前世の娘であり、今生で出会ったアリシア・ソルであり、前世でわたくしの幸せを散々邪魔した、あのコトコでした。
思えば、あの何一つ成し遂げずに死んだ、きれいごとばかりの|偽善者の女こそ、悪役令嬢を貶めんとする偽りの聖女、あざといヒドインにふさわしい。
わたくしの中で、コトコとアリシア・ソルの姿が一つに重なります。
あの女は前世の災いであり、今生でも倒すべき敵であり、高貴な聖女を貶めんとする最悪の魔女でした。
(負けるわけにはいかない。わたくしはセレスティナ・デラクルス公爵令嬢。この世界の悪役令嬢、誰より高貴で神聖な主人公なのだから――――!)
わたくしは椅子から立ちあがって窓に寄り、分厚いカーテンを少し開けて、ぽかりと浮いた三日月に似た色の髪を持つ男性――――レオポルド殿下にひっそりと別れを告げます。
「さようなら、レオ様。わたくし達はやはり、漫画どおり結ばれぬ運命でした――――」
思えば、あれほどレオ様からの愛を感じていながら、わたくしの心は常にどこかが満たされずにいました。やはり、レオ様との結ばれぬ宿命を悟っていたのでしょう。
けれど、いずれは終わる恋だったとしても、レオ様からの惜しみない愛や情熱は、セレスティナ・デラクルスを美しく気高い姫君へと磨きあげました。
わたくしが魅力的な悪役令嬢へと成長するには、レオ様との悲恋も必要不可欠だったのです。
「さようなら、レオ様。どうか、いつまでもわたくしを忘れないでくださいませ――――」
月を見上げながら、水晶のような一雫を頬につたわらせたわたくしに、アベルが静かに、けれど重々しく念を押します。
「レオポルド殿下とお別れすると。ヒルベルト皇子と共にイストリア皇国へ赴くと、決断されたのですね、セレスティナお嬢様」
「ええ」
わたくしは涙をぬぐって説明します。
「漫画のとおり、わたくしはヒルベルト様と出会ってしまった――――ヒルベルト様も、セレスティナに惹かれはじめているわ、あの方の瞳が語っている。それに、あなたも見たでしょう、アベル。大神殿でのイサークの姿を。あの魔女と、あんなに親しそうに…………っ。状況は少しずつ漫画本来の展開に戻ってきている。ニコラスやロドルフォが篭絡されるのも、時間の問題だわ。そして、レオ様がわたくしを忘れるのも…………」
わたくしは首をふります。
「わかって、アベル。わたくしはそんなレオ様を見たくない。レオ様がアリシア・ソルに汚染され、堕落なさる前に、ヒルベルト様とこの国を去ってしまいたいのよ」
「承知いたしました、セレスティナお嬢様。では、すぐに支度をはじめましょう」
わたくしは、わたくしの忠実な下僕にうなずきます。
わたくしがヒルベルト様とこの国を去れば、アリシア・ソルがどう動くにせよ、漫画本来の展開に沿うことになり、アリシア・ソルの本性は暴かれ、あの女が横取りしていた聖魔力もわたくしに戻るでしょう。今は《聖印》がなければ発現できない星銀の聖魔力も、自在に操れるようになるのは間近です。
あの魔女ですら、わたくしの聖魔力のおかげで、偽りとはいえ聖女を名乗っていられたのです。本物であるわたくしが力をとり戻せば、世間がわたくしこそ真の聖女と認めるのは、容易で自然なこと。
なにをせずとも、主人公たる悪役令嬢の持つ高貴な魂の稀有なる輝きが、人々を惹きつけて離さぬことでしょう。
わたくしはレオ様との別れを終えると、頭を切り替えました。
「さあ。ヒルベルト様とイストリアに行くといっても、具体的には、どこから手をつければいいかしら?」
「では、このような案はいかがでしょう、セレスティナお嬢様」
何度か呼ばれて、わたくしは我に返りました。
いったい何事が起きたのでしょう。
呆然と周囲を見渡すと、床には高名な陶芸家の作である花器が粉々になって散らばり、少し離れた場所にしゃがみこんで頬を押さえる娘の背を、義母が心配そうになでて、家政婦もおろおろと娘とわたくしを見比べています。
「落ち着きましたか、お義姉さん」
すぐ背後から聞こえてくる、忌まわしい声。
あれほど注意しているのに、いまだに「様」ではなく「さん」などと庶民の口調があらたまらないあたり、この女は心底から上流には合わない性根でした。
どうやらわたくしは、その庶民の女に羽交い締めにされているようです。
女は、義母に娘を部屋へ連れて行くよう頼み、家政婦は破片の掃除のため、道具を取りに行きます。わたくしは女の手をふり払い、下賤の身から離れました。
「大丈夫ですか、お義姉さん。怪我は――――」
わたくしはなんと答えたでしょうか。覚えていませんが、気づけば目の前の女を糾弾していました。
「全部、あなたのせいです! 娘が血迷ったのも、夫やお義兄様が娘を止めないのも! 全部、あなたがそそのかしたんでしょう、わかっています! 身分をわきまえない下賤の女が、わたくしの娘を汚し、我が家を汚染して、なにが目的です!?」
女はどのような顔をしていたでしょうか。
仮に己の罪を認めて悔いていたとしても、わたくしは容赦する気はありませんでした。
「お義兄様をたぶらかして、高貴な世界にまぎれ込んで、自分も上流になった気でいるのでしょう? わたくしはだまされません! あなたが身の程をわきまえていれば、我が家が被害をこうむることはなかったのです! お義兄様があなたと結婚したことは、お義兄様の人生最大にして唯一の汚点です!! 出て行きなさい!!」
「――――私が××さんにふさわしい妻でないことは、最初からわかっています。それでも、あの人は私の夢を叶えるため、あの娘の志を継ぐため、自分の力を貸そうと、私と結婚してくれたんです。私はそれで充分です」
「あの娘?」
「××さんは、コトコの夢をかなえてあげたいんです。あの人の心には、今もコトコがいる。それを承知の上で、私も××さんと結婚しました。コトコの夢を叶える同志として。二人でコトコの意思を継ごうと、約束したんです――――」
「コトコ…………?」
その名には聞き覚えがありました。
目の前のこの女、アリサを慰め、励ましていた女。
きれいごとばかり語りながら、なに一つ成し遂げることなく死んだ『意識高い系』の女。
「××さんは、コトコが好きだったんです。コトコは就活の際、OBだった××さんに話を聞きに行って、××さんと出会って――――コトコの就職が決まったら、××さんはコトコに告白するつもりだったんです。なのに、その前にコトコが…………」
「…………っ!」
わたくしは信じられぬ思いでした。
この女は、なにを言っているのだろう。
義兄が、あんなに優れた立派な男性が、あの偽善者の女を愛していたというのか。
義兄が長い間、結婚せずにいたのは、あの女を忘れられなかったからだとでも?
「嘘です!! お義兄様が、あんなすばらしい方が、あんな下賤な偽善者を――――!!」
目の前の女がむっ、と眉をつりあげます。
「私を罵るのも見下すのも、かまいませんが。コトコのことは悪く言わないでください!!」
「この…………!!」
そう、すべてはあの『コトコ』という偽善者が元凶でした。
アリサという身の程知らずな女が、分不相応な野心を抱いたのも。
そのせいでわたくしの家や娘が汚染され、大事な義兄が奪われたのも。
すべては、あの口先だけのあざとい偽善者のせいでした。
この騒ぎのあと、わたくしは嫁家を追い出されました。
誰より高貴で優れていたはずのわたくしが「精神の不安定」を理由に実家に戻され、別荘での療養を強いられ、なのにあの女は責められるどころか、本格的に義兄の妻、婚家の女主人として居座りつづけて婚家をますます汚染し、わたくしが戻ってこられないように画策して、最終的にわたくしは夫から正式に離婚を告げられ、実家の別荘で人生を終えることとなったのです。
――――話がそれました。
とにかく、わたくしはイストリア皇国第三皇子ヒルベルト殿下に、かつての義兄の面影を見出しました。
そして深窓の令嬢の常として、世間ずれしておらず、恋愛にも奥手だったわたくしは、この時ようやく、前世の自分が義兄を愛していたことを自覚したのです。
わたくしが本当に結ばれるべきは義兄でした。
けれど不幸な偶然が重なってそれは叶わず、義兄はあの偽善者の意志を継いだ卑しい女に奪われ、汚染されてしまったのです。
ですが、わたくしはふたたび機会を得ました。
愛する男性は前世同様、いえ、前世以上に輝かしい優れた皇子としてわたくしの前に現れ、わたくしと結ばれるのを待っている!
わたくし達の出会いは運命です。
前世で引き裂かれた哀れな二人が、今生でふたたび高貴な男女として再会した。
これこそを運命と呼ばずして、なんと呼べばいいのでしょう。
まして今生では、神すらわたくし達に味方しています。
悪役令嬢セレスティナとヒルベルト皇子は結ばれるさだめ、選ばれし聖女と皇子でした。
わたくしの脳裏に、女の顔が浮かびます。
それは前世の娘であり、今生で出会ったアリシア・ソルであり、前世でわたくしの幸せを散々邪魔した、あのコトコでした。
思えば、あの何一つ成し遂げずに死んだ、きれいごとばかりの|偽善者の女こそ、悪役令嬢を貶めんとする偽りの聖女、あざといヒドインにふさわしい。
わたくしの中で、コトコとアリシア・ソルの姿が一つに重なります。
あの女は前世の災いであり、今生でも倒すべき敵であり、高貴な聖女を貶めんとする最悪の魔女でした。
(負けるわけにはいかない。わたくしはセレスティナ・デラクルス公爵令嬢。この世界の悪役令嬢、誰より高貴で神聖な主人公なのだから――――!)
わたくしは椅子から立ちあがって窓に寄り、分厚いカーテンを少し開けて、ぽかりと浮いた三日月に似た色の髪を持つ男性――――レオポルド殿下にひっそりと別れを告げます。
「さようなら、レオ様。わたくし達はやはり、漫画どおり結ばれぬ運命でした――――」
思えば、あれほどレオ様からの愛を感じていながら、わたくしの心は常にどこかが満たされずにいました。やはり、レオ様との結ばれぬ宿命を悟っていたのでしょう。
けれど、いずれは終わる恋だったとしても、レオ様からの惜しみない愛や情熱は、セレスティナ・デラクルスを美しく気高い姫君へと磨きあげました。
わたくしが魅力的な悪役令嬢へと成長するには、レオ様との悲恋も必要不可欠だったのです。
「さようなら、レオ様。どうか、いつまでもわたくしを忘れないでくださいませ――――」
月を見上げながら、水晶のような一雫を頬につたわらせたわたくしに、アベルが静かに、けれど重々しく念を押します。
「レオポルド殿下とお別れすると。ヒルベルト皇子と共にイストリア皇国へ赴くと、決断されたのですね、セレスティナお嬢様」
「ええ」
わたくしは涙をぬぐって説明します。
「漫画のとおり、わたくしはヒルベルト様と出会ってしまった――――ヒルベルト様も、セレスティナに惹かれはじめているわ、あの方の瞳が語っている。それに、あなたも見たでしょう、アベル。大神殿でのイサークの姿を。あの魔女と、あんなに親しそうに…………っ。状況は少しずつ漫画本来の展開に戻ってきている。ニコラスやロドルフォが篭絡されるのも、時間の問題だわ。そして、レオ様がわたくしを忘れるのも…………」
わたくしは首をふります。
「わかって、アベル。わたくしはそんなレオ様を見たくない。レオ様がアリシア・ソルに汚染され、堕落なさる前に、ヒルベルト様とこの国を去ってしまいたいのよ」
「承知いたしました、セレスティナお嬢様。では、すぐに支度をはじめましょう」
わたくしは、わたくしの忠実な下僕にうなずきます。
わたくしがヒルベルト様とこの国を去れば、アリシア・ソルがどう動くにせよ、漫画本来の展開に沿うことになり、アリシア・ソルの本性は暴かれ、あの女が横取りしていた聖魔力もわたくしに戻るでしょう。今は《聖印》がなければ発現できない星銀の聖魔力も、自在に操れるようになるのは間近です。
あの魔女ですら、わたくしの聖魔力のおかげで、偽りとはいえ聖女を名乗っていられたのです。本物であるわたくしが力をとり戻せば、世間がわたくしこそ真の聖女と認めるのは、容易で自然なこと。
なにをせずとも、主人公たる悪役令嬢の持つ高貴な魂の稀有なる輝きが、人々を惹きつけて離さぬことでしょう。
わたくしはレオ様との別れを終えると、頭を切り替えました。
「さあ。ヒルベルト様とイストリアに行くといっても、具体的には、どこから手をつければいいかしら?」
「では、このような案はいかがでしょう、セレスティナお嬢様」
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