36 / 73
35.アリシア
しおりを挟む
夜明け前。天幕を焼いた炎は鎮火した。
消火に駆けまわった兵士達はへとへとで座り込んでいたが、幸い、死者は出ずに済み、怪我人も私の聖魔力で全員、癒すことができた。
アベル・マルケスの行方は知れない。火事の騒ぎにまぎれて逃げおおせたのだ。
予想はしていたが、やはり悔しい。あそこでしっかり捕まえていられれば、デラクルス嬢に対する強力な反撃手段にも取引材料にもなっただろうに。
だが今は、それ以上の大問題が起きていた。
文書が失われたのだ。
百五十年前のセルバ地方の国境線を記した記録。こちらは無事だったが、当時のブルカン城伯がイストリア皇帝に「ブルカン城伯領を譲る」と約束した宣誓書。
これが見つからないのだ。
ものがものだけに、どちらの文書も野営地でもっとも大きく丈夫な貴人用の天幕に保管され、周囲をノベーラ兵とクエント兵士にとり囲んで守られていた。セルバ辺境伯やクエント侯子、両国の宰相や文官達も一日の大半を天幕内で過ごして、寝る時も文書を収めた箱をとり囲んで交代で休みながら、相手が文書を盗んだり燃やしたりしないか互いに見張っていたという。
火事の時も、貴人達はいっせいに、まず文書の無事を確認し、それから箱を抱えて天幕の出口に向かった。
火の手は異様に早く、貴人達の最後の一人が脱出した時には、巨大な天幕のほぼ全体が炎に包まれて、貴人達の寝巻きにも火が移り、消火にあたっていた兵士達は慌てて水をかけて、貴人達が頭からずぶ濡れになって一息ついた頃には、宣誓書は消えていたのである。
国境線の記録は無事だった。宣誓書だけが見つからないのだ。
いそいで兵士に捜索を命じると、近くの天幕の裏で、空になった箱が転がっているのが発見された。心臓を背後から短剣で一突きされて絶命した、ノベーラとクエントの文官一人ずつも。
聖神官が襲われたことも、その場に居合わせたルイス卿その他の兵から報告され、宣誓書の紛失との関係は不明ながらも、大規模な、そして徹底した捜索が行われた。
野営地からは誰一人離れることを禁じられ、外から癒し目的にやってくる村人達も、今回は片端から追い返される。
貴人や文官達はむろん、一兵卒にいたるまで身体検査と持ち物検査を行い、ノベーラ側の持ち物はクエント側が、クエント側の持ち物はノベーラ側が調べまでしたが、それでも発見には至らなかった。
「宣誓書は何者かに盗まれた可能性が高い。だが、誰が、何のために」
貴人達は汗を額に、何度も呻き合う。
そもそもあの宣誓書の存在を知るのは、ごく一握りの貴人と聖神官のみ。野営地の一般の兵士達は存在すら知らない(彼らは「国境線の記録が見つかったらしい」と噂しているだけだ)。
ノベーラとクエントの宮殿には朝一番に早馬が飛ばされ、報告をうけたノベーラ大公とクエント侯及びその重臣達は、そろって仰天する。
捜索範囲は野営地の外にまで広げられたが、これといった手がかりは見つからず、さすがに「これ以上は探しても無駄では」という空気がただよいはじめた、五日目。
事態は再度、急展開した。
それぞれの宮殿からそれぞれの元首の使者がやってきて、それぞれの宰相に主君からの命令が伝えられる。
二国間の貴人はふたたび、新しく張られた天幕にこもって三日三晩話し合い、四日目の朝、晴れて両軍の兵士達に、両国の宰相閣下から戦争終結の決定が宣言されたのである。
百五十年に渡る、国境をめぐるセルバ地方の領土争い。その終止符だった。
兵士達はノベーラ、クエントの区別なく歓喜の声をあげ、隣にいる仲間達と抱き合って涙をにじませる。私も思わず、大きな荷物から解放された気分を味わっていた。
「宣誓書が見つかっていないからな」
そう、説明してきたのはバルベルデ卿だった。
夕方。夕食前の慌ただしい空気にまぎれて、私とルイス卿は人気のない天幕と天幕の影で、バルベルデ卿の話を聞く。
「盗人の正体がわからない以上、イストリアの間者による工作の可能性も否定できない。万一、宣誓書がイストリアへ渡れば、イストリア皇帝がブルカン領主に立候補してくる可能性がある。その前に解決してしまおう、ということで話がまとまった」
人間というのは、共通の敵を前にすると団結しやすいようだ。まして己の利益がかかっているとなれば、なおのこと。「そもそも」とバルベルデ卿は付け加える。
「クエント侯国内でも、エルネスト候子は停戦支持派らしい。ノベーラ兵の捕虜を丁重に扱って送り返してきたのは、そのあらわれだ。そこへクエント兵捕虜の大半が、処刑どころか、聖神官の癒しをうけて戻ってきたので、より停戦派が力を増したんだろう」
バルベルデ卿はさらに推察を述べる。
「あの真珠も、工作の一環だろうな。野営中、ソル聖神官がクエント側の兵士や村人も癒して、クエント側にもノベーラ側にも支持者がいると察し、あえて兵士や村人達の前で高価な真珠を贈ることで、ノベーラ側に友好的な印象を演出したんだ」
言われてみればたしかに、あの金茶色の髪と瞳の侯子殿下は、ここ数日でノベーラ兵達の間でも『気さくで温厚な王子様』の印象が浸透している。
そのイメージが、より休戦や停戦への期待を強めていたふしがあるのは否定できない。
「あれは存外、油断できない人物だな」
バルベルデ卿はぼそっと呟く。
「とりあえず国境線は、神殿地下から発見された記録に従ってさだめられることが決定した。どちらにとっても無難で説得力のある決定だ」
淡々とした物言いに、私は訊いておかずにいられない。
「あの、バルベルデ卿はいいんですか? 国境線の記録については、手に入れられたのはバルベルデ卿が本を手放してくれたからです。卿が発見者になることもできたのに」
将来、文官として宰相の父親を支え、最終的には次期宰相の可能性もあるバルベルデ卿にしてみれば、若い頃の大きな手柄とすることもできたはずだ。
けれどバルベルデ卿は「かまわない」と、無造作に手を振った。
「下手に私が発見者になって、出所を問われるのも困る。国境地帯で、ノベーラとクエント、両国の有力者が発見した、これが一番無難で文句のつけにくい状況だ。私は、あの図書館長と面識を得たことが一番の収穫だ」
「…………そうですか」
バルベルデ卿は最後に「にやり」と笑むと、さっさと行ってしまった。
ある意味、無欲な人物なのかもしれない。少なくとも今回、デレオン将軍とエルネスト候子に手柄を譲って、後悔している様子は見られなかった。
だが私は少々すっきりしない。
(なんか、大きな借りを作った気がする…………)
翌日。正式な公文書が作成されて、二つの国の宰相がそれぞれの主君の代理として署名し、印章を押す。
誰もが停戦を歓迎したわけではない。
「何故、今さら停戦なんだ! 百五十年前の記録など、どうでもいい、無効だろう! クエント兵を皆殺しにして、セルバ全域をノベーラのものにする!! それでこそ、死んでいった我が師や弟や戦友達も浮かばれるというものだ、俺達にはその力がある!!」
そう、タルラゴ卿のように主張する者もいたが、両国元首の決定である。
戦争は終結し、私も兵士達もみな、生き延びた喜びをかみしめ心から安堵し、神に感謝の祈りを捧げたのである。
ちなみに、ささやかだが、変化がもう一つ。
『アベル・マルケスに短剣で襲われかけた時、トキがかばってくれたの。ありがとう』
交換日記の返事は、ただ一言。本の紹介文でもなく『返済しろ』でもなく。
『どういたしまして』
(会話っぽくなっているのは、これが初めてかも)
私は無言で日記を抱きしめた。
心残りもあった。
アベル・マルケス。
あの男に殺されかけるのは、これで二度目だ。天幕に放火したのも、おそらく彼だろう。炎の蛇を操る彼には容易なはずだ。
これ以上、あの男を放置することが良くないことは、私も重々理解している。
けれど私は、彼の名前は誰にも告げずにいた。
アベル・マルケスのうしろには、ノベーラ大公国屈指の名門貴族デラクルス公爵家がいる。
彼が私を殺そうとした確たる証拠があれば、公爵家はさっさと彼を解雇、放逐して自分達は知らぬ存ぜぬを貫くだろう。しかし証拠がなければ、責められるのは私のほうだ。
デラクルス嬢を次代聖女に就けたい公爵家は、ここぞとばかりに私を嘘つき呼ばわりして、私と大神殿を失墜させようと画策するだろう。
(たぶん今回もビブロスの力で、公都から国境地帯まで往復したんだろうな。そうなれば、アベル・マルケスにはたしかな不在証明ができる。公都から国境まで往復するには、本来数日間かかるもの)
ビブロスに頼めば、公都から国境までの移動は一瞬。アベル・マルケスがデラクルス公爵邸を離れていたのは、せいぜい私を襲った数時間だけだろう。彼が魔王に依頼した証拠が見つからない限り「そんな短時間で国境まで往復できるはずがない」と、一蹴されて終わりだ。事件が起きたのが深夜だったことも考慮すれば、彼の外出に気づいた者がいるかも怪しい。
せめて、曲者の顔を見たルイス卿や兵士達が「アベル・マルケスだ」と証言できれば。
けれど彼女らはアベルと面識がない。
(ソル大神殿長様ではないけれど、今は黙っておくほかない――――)
私はひそかに肩を落としたが、このあと公都に戻ると、腹立たしいことにアベル・マルケスがあの晩、国境地帯にいた状況証拠が一つ見つかった。
じゃがいもである。
公都の大神殿に戻ると「デラクルス嬢が神からお告げをうけた」という体で『悪魔の芋』こと、じゃがいもの存在がノベーラ公太子や大公に報告され、デラクルス公爵領や大公領では急ピッチでじゃがいもの生産が進められている…………と、ソル大神殿長様から知らされたのだ。
クエント侯国で観賞用の花として流行しはじめていたじゃがいもは、ノベーラ大公国ではほとんど知られていない。
が、そこは有力貴族で聖女候補のデラクルス嬢と、大公家。彼らと誼を結びたい者達からの『ご挨拶の品』として『遠い異国から輸入された珍しい花』を贈られていたのである。
デラクルス嬢は数少ないじゃがいもを様々に調理させ、試食した大公一家は「これなら新しい食材として通用する」と舌鼓を打ち、じゃがいもの量産と普及がその場で決定する。
季節は、新年をひかえた冬の盛り。本格的な生産は来年の春からだが、まだじゃがいもの株がほとんど入って来ていない今の段階で、デラクルス公爵領と大公領のみ量産に成功すれば、二つの家は大きな利益を上げるに違いない。
すでにクエント侯国と取引のある商人達が、じゃがいもの種芋や株の入手に奔走しているという情報もある。
レオポルド公太子殿下は、
「さすが私のティナ。こんなに何度も、我が国に大きな恵みをもたらしてくれるとは、まさに君こそ正統な聖女だ」
と大喜びし、貴族達の間でも、はや、
「新しい食材まで発見してしまうなんて、やはりデラクルス嬢こそ聖女に違いない」
と、噂されているとかなんとか。
私はひとまず国境地帯でじゃがいもを発見したこと、火事の夜にアベル・マルケスに殺されかけたことを、ソル大神殿長様に報告だけはしておいた。
どちらもルイス卿やセルバ辺境伯、クエント候子その他大勢の証人がいるので、嘘を疑われることはない。
ソル大神殿長様は「またか」と顔をしかめたが、大神殿長様も結論はやはり「今は黙っておけ」だった。
いたしかたない、と私も頭では理解する。
(デラクルス嬢はたぶんニホンから転生してきた人だから、じゃがいも料理を知っていて不思議ではないし。アベル・マルケスがあの野営地でじゃがいもの話を聞いて、デラクルス嬢に報告したんだろうな。言い換えれば、彼があの野営地にいた証拠ではあるけれど…………)
やっぱり腹は立つ。
(これって、原作のマンガではどうなっているの? やっぱり主人公の悪役令嬢が発見したことになっていた? だから世間では「デラクルス嬢がお告げを受けて発見した」ということになったの? だとしても…………)
新しい食材が発見、量産されて食事の量が増え、飢える民が減るなら、喜ばしいことだ。
けれどセルバ行きの件といい、私はこの先ずっと、デラクルス嬢や公太子に人生を左右されつづけるのだろうか。
うんざりと、気が遠くなった。
消火に駆けまわった兵士達はへとへとで座り込んでいたが、幸い、死者は出ずに済み、怪我人も私の聖魔力で全員、癒すことができた。
アベル・マルケスの行方は知れない。火事の騒ぎにまぎれて逃げおおせたのだ。
予想はしていたが、やはり悔しい。あそこでしっかり捕まえていられれば、デラクルス嬢に対する強力な反撃手段にも取引材料にもなっただろうに。
だが今は、それ以上の大問題が起きていた。
文書が失われたのだ。
百五十年前のセルバ地方の国境線を記した記録。こちらは無事だったが、当時のブルカン城伯がイストリア皇帝に「ブルカン城伯領を譲る」と約束した宣誓書。
これが見つからないのだ。
ものがものだけに、どちらの文書も野営地でもっとも大きく丈夫な貴人用の天幕に保管され、周囲をノベーラ兵とクエント兵士にとり囲んで守られていた。セルバ辺境伯やクエント侯子、両国の宰相や文官達も一日の大半を天幕内で過ごして、寝る時も文書を収めた箱をとり囲んで交代で休みながら、相手が文書を盗んだり燃やしたりしないか互いに見張っていたという。
火事の時も、貴人達はいっせいに、まず文書の無事を確認し、それから箱を抱えて天幕の出口に向かった。
火の手は異様に早く、貴人達の最後の一人が脱出した時には、巨大な天幕のほぼ全体が炎に包まれて、貴人達の寝巻きにも火が移り、消火にあたっていた兵士達は慌てて水をかけて、貴人達が頭からずぶ濡れになって一息ついた頃には、宣誓書は消えていたのである。
国境線の記録は無事だった。宣誓書だけが見つからないのだ。
いそいで兵士に捜索を命じると、近くの天幕の裏で、空になった箱が転がっているのが発見された。心臓を背後から短剣で一突きされて絶命した、ノベーラとクエントの文官一人ずつも。
聖神官が襲われたことも、その場に居合わせたルイス卿その他の兵から報告され、宣誓書の紛失との関係は不明ながらも、大規模な、そして徹底した捜索が行われた。
野営地からは誰一人離れることを禁じられ、外から癒し目的にやってくる村人達も、今回は片端から追い返される。
貴人や文官達はむろん、一兵卒にいたるまで身体検査と持ち物検査を行い、ノベーラ側の持ち物はクエント側が、クエント側の持ち物はノベーラ側が調べまでしたが、それでも発見には至らなかった。
「宣誓書は何者かに盗まれた可能性が高い。だが、誰が、何のために」
貴人達は汗を額に、何度も呻き合う。
そもそもあの宣誓書の存在を知るのは、ごく一握りの貴人と聖神官のみ。野営地の一般の兵士達は存在すら知らない(彼らは「国境線の記録が見つかったらしい」と噂しているだけだ)。
ノベーラとクエントの宮殿には朝一番に早馬が飛ばされ、報告をうけたノベーラ大公とクエント侯及びその重臣達は、そろって仰天する。
捜索範囲は野営地の外にまで広げられたが、これといった手がかりは見つからず、さすがに「これ以上は探しても無駄では」という空気がただよいはじめた、五日目。
事態は再度、急展開した。
それぞれの宮殿からそれぞれの元首の使者がやってきて、それぞれの宰相に主君からの命令が伝えられる。
二国間の貴人はふたたび、新しく張られた天幕にこもって三日三晩話し合い、四日目の朝、晴れて両軍の兵士達に、両国の宰相閣下から戦争終結の決定が宣言されたのである。
百五十年に渡る、国境をめぐるセルバ地方の領土争い。その終止符だった。
兵士達はノベーラ、クエントの区別なく歓喜の声をあげ、隣にいる仲間達と抱き合って涙をにじませる。私も思わず、大きな荷物から解放された気分を味わっていた。
「宣誓書が見つかっていないからな」
そう、説明してきたのはバルベルデ卿だった。
夕方。夕食前の慌ただしい空気にまぎれて、私とルイス卿は人気のない天幕と天幕の影で、バルベルデ卿の話を聞く。
「盗人の正体がわからない以上、イストリアの間者による工作の可能性も否定できない。万一、宣誓書がイストリアへ渡れば、イストリア皇帝がブルカン領主に立候補してくる可能性がある。その前に解決してしまおう、ということで話がまとまった」
人間というのは、共通の敵を前にすると団結しやすいようだ。まして己の利益がかかっているとなれば、なおのこと。「そもそも」とバルベルデ卿は付け加える。
「クエント侯国内でも、エルネスト候子は停戦支持派らしい。ノベーラ兵の捕虜を丁重に扱って送り返してきたのは、そのあらわれだ。そこへクエント兵捕虜の大半が、処刑どころか、聖神官の癒しをうけて戻ってきたので、より停戦派が力を増したんだろう」
バルベルデ卿はさらに推察を述べる。
「あの真珠も、工作の一環だろうな。野営中、ソル聖神官がクエント側の兵士や村人も癒して、クエント側にもノベーラ側にも支持者がいると察し、あえて兵士や村人達の前で高価な真珠を贈ることで、ノベーラ側に友好的な印象を演出したんだ」
言われてみればたしかに、あの金茶色の髪と瞳の侯子殿下は、ここ数日でノベーラ兵達の間でも『気さくで温厚な王子様』の印象が浸透している。
そのイメージが、より休戦や停戦への期待を強めていたふしがあるのは否定できない。
「あれは存外、油断できない人物だな」
バルベルデ卿はぼそっと呟く。
「とりあえず国境線は、神殿地下から発見された記録に従ってさだめられることが決定した。どちらにとっても無難で説得力のある決定だ」
淡々とした物言いに、私は訊いておかずにいられない。
「あの、バルベルデ卿はいいんですか? 国境線の記録については、手に入れられたのはバルベルデ卿が本を手放してくれたからです。卿が発見者になることもできたのに」
将来、文官として宰相の父親を支え、最終的には次期宰相の可能性もあるバルベルデ卿にしてみれば、若い頃の大きな手柄とすることもできたはずだ。
けれどバルベルデ卿は「かまわない」と、無造作に手を振った。
「下手に私が発見者になって、出所を問われるのも困る。国境地帯で、ノベーラとクエント、両国の有力者が発見した、これが一番無難で文句のつけにくい状況だ。私は、あの図書館長と面識を得たことが一番の収穫だ」
「…………そうですか」
バルベルデ卿は最後に「にやり」と笑むと、さっさと行ってしまった。
ある意味、無欲な人物なのかもしれない。少なくとも今回、デレオン将軍とエルネスト候子に手柄を譲って、後悔している様子は見られなかった。
だが私は少々すっきりしない。
(なんか、大きな借りを作った気がする…………)
翌日。正式な公文書が作成されて、二つの国の宰相がそれぞれの主君の代理として署名し、印章を押す。
誰もが停戦を歓迎したわけではない。
「何故、今さら停戦なんだ! 百五十年前の記録など、どうでもいい、無効だろう! クエント兵を皆殺しにして、セルバ全域をノベーラのものにする!! それでこそ、死んでいった我が師や弟や戦友達も浮かばれるというものだ、俺達にはその力がある!!」
そう、タルラゴ卿のように主張する者もいたが、両国元首の決定である。
戦争は終結し、私も兵士達もみな、生き延びた喜びをかみしめ心から安堵し、神に感謝の祈りを捧げたのである。
ちなみに、ささやかだが、変化がもう一つ。
『アベル・マルケスに短剣で襲われかけた時、トキがかばってくれたの。ありがとう』
交換日記の返事は、ただ一言。本の紹介文でもなく『返済しろ』でもなく。
『どういたしまして』
(会話っぽくなっているのは、これが初めてかも)
私は無言で日記を抱きしめた。
心残りもあった。
アベル・マルケス。
あの男に殺されかけるのは、これで二度目だ。天幕に放火したのも、おそらく彼だろう。炎の蛇を操る彼には容易なはずだ。
これ以上、あの男を放置することが良くないことは、私も重々理解している。
けれど私は、彼の名前は誰にも告げずにいた。
アベル・マルケスのうしろには、ノベーラ大公国屈指の名門貴族デラクルス公爵家がいる。
彼が私を殺そうとした確たる証拠があれば、公爵家はさっさと彼を解雇、放逐して自分達は知らぬ存ぜぬを貫くだろう。しかし証拠がなければ、責められるのは私のほうだ。
デラクルス嬢を次代聖女に就けたい公爵家は、ここぞとばかりに私を嘘つき呼ばわりして、私と大神殿を失墜させようと画策するだろう。
(たぶん今回もビブロスの力で、公都から国境地帯まで往復したんだろうな。そうなれば、アベル・マルケスにはたしかな不在証明ができる。公都から国境まで往復するには、本来数日間かかるもの)
ビブロスに頼めば、公都から国境までの移動は一瞬。アベル・マルケスがデラクルス公爵邸を離れていたのは、せいぜい私を襲った数時間だけだろう。彼が魔王に依頼した証拠が見つからない限り「そんな短時間で国境まで往復できるはずがない」と、一蹴されて終わりだ。事件が起きたのが深夜だったことも考慮すれば、彼の外出に気づいた者がいるかも怪しい。
せめて、曲者の顔を見たルイス卿や兵士達が「アベル・マルケスだ」と証言できれば。
けれど彼女らはアベルと面識がない。
(ソル大神殿長様ではないけれど、今は黙っておくほかない――――)
私はひそかに肩を落としたが、このあと公都に戻ると、腹立たしいことにアベル・マルケスがあの晩、国境地帯にいた状況証拠が一つ見つかった。
じゃがいもである。
公都の大神殿に戻ると「デラクルス嬢が神からお告げをうけた」という体で『悪魔の芋』こと、じゃがいもの存在がノベーラ公太子や大公に報告され、デラクルス公爵領や大公領では急ピッチでじゃがいもの生産が進められている…………と、ソル大神殿長様から知らされたのだ。
クエント侯国で観賞用の花として流行しはじめていたじゃがいもは、ノベーラ大公国ではほとんど知られていない。
が、そこは有力貴族で聖女候補のデラクルス嬢と、大公家。彼らと誼を結びたい者達からの『ご挨拶の品』として『遠い異国から輸入された珍しい花』を贈られていたのである。
デラクルス嬢は数少ないじゃがいもを様々に調理させ、試食した大公一家は「これなら新しい食材として通用する」と舌鼓を打ち、じゃがいもの量産と普及がその場で決定する。
季節は、新年をひかえた冬の盛り。本格的な生産は来年の春からだが、まだじゃがいもの株がほとんど入って来ていない今の段階で、デラクルス公爵領と大公領のみ量産に成功すれば、二つの家は大きな利益を上げるに違いない。
すでにクエント侯国と取引のある商人達が、じゃがいもの種芋や株の入手に奔走しているという情報もある。
レオポルド公太子殿下は、
「さすが私のティナ。こんなに何度も、我が国に大きな恵みをもたらしてくれるとは、まさに君こそ正統な聖女だ」
と大喜びし、貴族達の間でも、はや、
「新しい食材まで発見してしまうなんて、やはりデラクルス嬢こそ聖女に違いない」
と、噂されているとかなんとか。
私はひとまず国境地帯でじゃがいもを発見したこと、火事の夜にアベル・マルケスに殺されかけたことを、ソル大神殿長様に報告だけはしておいた。
どちらもルイス卿やセルバ辺境伯、クエント候子その他大勢の証人がいるので、嘘を疑われることはない。
ソル大神殿長様は「またか」と顔をしかめたが、大神殿長様も結論はやはり「今は黙っておけ」だった。
いたしかたない、と私も頭では理解する。
(デラクルス嬢はたぶんニホンから転生してきた人だから、じゃがいも料理を知っていて不思議ではないし。アベル・マルケスがあの野営地でじゃがいもの話を聞いて、デラクルス嬢に報告したんだろうな。言い換えれば、彼があの野営地にいた証拠ではあるけれど…………)
やっぱり腹は立つ。
(これって、原作のマンガではどうなっているの? やっぱり主人公の悪役令嬢が発見したことになっていた? だから世間では「デラクルス嬢がお告げを受けて発見した」ということになったの? だとしても…………)
新しい食材が発見、量産されて食事の量が増え、飢える民が減るなら、喜ばしいことだ。
けれどセルバ行きの件といい、私はこの先ずっと、デラクルス嬢や公太子に人生を左右されつづけるのだろうか。
うんざりと、気が遠くなった。
72
お気に入りに追加
303
あなたにおすすめの小説
舞台装置は壊れました。
ひづき
恋愛
公爵令嬢は予定通り婚約者から破棄を言い渡された。
婚約者の隣に平民上がりの聖女がいることも予定通り。
『お前は未来の国王と王妃を舞台に押し上げるための装置に過ぎん。それをゆめゆめ忘れるな』
全てはセイレーンの父と王妃の書いた台本の筋書き通り───
※一部過激な単語や設定があるため、R15(保険)とさせて頂きます
2020/10/30
お気に入り登録者数50超え、ありがとうございます(((o(*゚▽゚*)o)))
2020/11/08
舞台装置は壊れました。の続編に当たる『不確定要素は壊れました。』を公開したので、そちらも宜しくお願いします。
もういらないと言われたので隣国で聖女やります。
ゆーぞー
ファンタジー
孤児院出身のアリスは5歳の時に天女様の加護があることがわかり、王都で聖女をしていた。
しかし国王が崩御したため、国外追放されてしまう。
しかし隣国で聖女をやることになり、アリスは幸せを掴んでいく。
強制力がなくなった世界に残されたものは
りりん
ファンタジー
一人の令嬢が処刑によってこの世を去った
令嬢を虐げていた者達、処刑に狂喜乱舞した者達、そして最愛の娘であったはずの令嬢を冷たく切り捨てた家族達
世界の強制力が解けたその瞬間、その世界はどうなるのか
その世界を狂わせたものは
《勘違い》で婚約破棄された令嬢は失意のうちに自殺しました。
友坂 悠
ファンタジー
「婚約を考え直そう」
貴族院の卒業パーティーの会場で、婚約者フリードよりそう告げられたエルザ。
「それは、婚約を破棄されるとそういうことなのでしょうか?」
耳を疑いそう聞き返すも、
「君も、その方が良いのだろう?」
苦虫を噛み潰すように、そう吐き出すフリードに。
全てに絶望し、失意のうちに自死を選ぶエルザ。
絶景と評判の観光地でありながら、自殺の名所としても知られる断崖絶壁から飛び降りた彼女。
だったのですが。
私は聖女(ヒロイン)のおまけ
音無砂月
ファンタジー
ある日突然、異世界に召喚された二人の少女
100年前、異世界に召喚された聖女の手によって魔王を封印し、アルガシュカル国の危機は救われたが100年経った今、再び魔王の封印が解かれかけている。その為に呼ばれた二人の少女
しかし、聖女は一人。聖女と同じ色彩を持つヒナコ・ハヤカワを聖女候補として考えるアルガシュカルだが念のため、ミズキ・カナエも聖女として扱う。内気で何も自分で決められないヒナコを支えながらミズキは何とか元の世界に帰れないか方法を探す。
婚約破棄され、聖女を騙った罪で国外追放されました。家族も同罪だから家も取り潰すと言われたので、領民と一緒に国から出ていきます。
SHEILA
ファンタジー
ベイリンガル侯爵家唯一の姫として生まれたエレノア・ベイリンガルは、前世の記憶を持つ転生者で、侯爵領はエレノアの転生知識チートで、とんでもないことになっていた。
そんなエレノアには、本人も家族も嫌々ながら、国から強制的に婚約を結ばされた婚約者がいた。
国内で領地を持つすべての貴族が王城に集まる「豊穣の宴」の席で、エレノアは婚約者である第一王子のゲイルに、異世界から転移してきた聖女との真実の愛を見つけたからと、婚約破棄を言い渡される。
ゲイルはエレノアを聖女を騙る詐欺師だと糾弾し、エレノアには国外追放を、ベイリンガル侯爵家にはお家取り潰しを言い渡した。
お読みいただき、ありがとうございます。
失われた力を身に宿す元聖女は、それでも気楽に過ごしたい~いえ、Sランク冒険者とかは結構です!~
紅月シン
ファンタジー
聖女として異世界に召喚された狭霧聖菜は、聖女としての勤めを果たし終え、満ち足りた中でその生涯を終えようとしていた。
いや嘘だ。
本当は不満でいっぱいだった。
食事と入浴と睡眠を除いた全ての時間で人を癒し続けなくちゃならないとかどんなブラックだと思っていた。
だがそんな不満を漏らすことなく死に至り、そのことを神が不憫にでも思ったのか、聖菜は辺境伯家の末娘セーナとして二度目の人生を送ることになった。
しかし次こそは気楽に生きたいと願ったはずなのに、ある日セーナは前世の記憶と共にその身には聖女としての癒しの力が流れていることを知ってしまう。
そしてその時点で、セーナの人生は決定付けられた。
二度とあんな目はご免だと、気楽に生きるため、家を出て冒険者になることを決意したのだ。
だが彼女は知らなかった。
三百年の時が過ぎた現代では、既に癒しの力というものは失われてしまっていたということを。
知らぬままに力をばら撒く少女は、その願いとは裏腹に、様々な騒動を引き起こし、解決していくことになるのであった。
※完結しました。
※小説家になろう様にも投稿しています
『完結』孤児で平民の私を嫌う王子が異世界から聖女を召還しましたが…何故か私が溺愛されています?
灰銀猫
恋愛
孤児のルネは聖女の力があると神殿に引き取られ、15歳で聖女の任に付く。それから3年間、国を護る結界のために力を使ってきた。
しかし、彼女の婚約者である第二王子はプライドが無駄に高く、平民で地味なルネを蔑み、よりよい相手を得ようと国王に無断で聖女召喚の儀を行ってしまう。
高貴で美しく強い力を持つ聖女を期待していた王子たちの前に現れたのは、確かに高貴な雰囲気と強い力を持つ美しい方だったが、その方が選んだのは王子ではなくルネで…
平民故に周囲から虐げられながらも、身を削って国のために働いていた少女が、溺愛されて幸せになるお話です。
世界観は独自&色々緩くなっております。
R15は保険です。
他サイトでも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる