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14.セレスティナ
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その晩。みなが寝静まるのを待って、わたくしは寝間着にガウンをはおり、自室にアベルを招き入れました。
アベルは絨毯に魔法陣を描いた紙をひろげ、淡々と説明します。
「儀式自体は単純です。召喚に必要な作業はすべてこの魔法陣に圧縮されていますので、あとは魔力を送って起動させるだけ。生贄なども不要です。ただ、本を何冊かご用意ください」
「本? どんな本かしら?」
「基本的にはどのような分野でもかまいませんが、珍しい、貴重な本ほど望ましいです」
わたくしはしばし悩んで本棚から数冊選ぶと、それを侍従にテーブルの上へ移動させます。するとアベルが魔法陣の前で何事か唱えはじめました。
わたくしの胸も高鳴ります。
魔王や魔物が存在する世界設定であることは、前世の記憶ですでに知っていました。セレスティナの美しさや気高さに魅了された魔王が、彼女を助ける展開もあります。
ただ、どのような展開で魔王と出会うのか。それがわからなかったのです。
魔法陣は、ぱっと光ると黒い炎に包まれました。
「えっ」
魔法陣が燃えてしまった、と思ったのですが。
「久しぶり、かな。魔女ブルハの息子。アベル、だっけ?」
思いのほか若々しい、どこかつまらなさそうな声。
「図書館の魔王ビブロス。召喚に応じて参上した。話は対価次第で聞くよ」
わたくしとアベルしかいなかった部屋に、第三の人物が立っていました。
(まあ。このキャラクターは)
裾の長い黒の衣装に、青白い肌。白の長髪と対照的な漆黒の瞳。
何度か記憶の中に出てきた、セレスティナを助ける予定の魔王です。
(ここで登場するキャラクターだったのかしら)
アベルは即座に本題に入りました。
「召喚に応じてもらい感謝します、魔王ビブロス。さっそくですが、想起の術を求めています。赤ん坊の頃だろうと、母親の胎内にいた頃やそれ以前だろうと、望む記憶を自在に引き出す。そんな魔術が必要なのです」
「その水準だと、こちらかな」
魔王の青年が掲げた手の上に一冊の古びた本が現れ、浮かびます。比喩ではなく、本当に浮かんでいるのです。
「古の大魔女アンフェルが、すべての魔女の母にして師、そして守り手である冥府の女王から伝授された魔術を書き写した『アンフェルの書』。過去も現在も、これを越える魔術書はない」
古びた本は紙ではなく羊皮紙のようでした。
「等級は最上。世界でも稀な稀覯本だ。対価は払えるかい?」
「え?」と、わたくしは声をもらします。
魔王はこちらを向いて淡々と説明しました。
「僕は取引の対価には本、もしくは魔力で応じている。本の内容は不問。魔術書に図鑑や詩集、大衆小説、料理本でもかまわないし、文字で記されているなら、記録や書簡の類も受け付けている。言語は問わない。楽譜はものによりけり」
「あと」と付け加えます。
「手記の類は、記した人間によって等級が変動する。歴史に名を残すような有名人の直筆は価値が上がるし、名もなき一般人ならその逆だ。ただし内容や情報量によっては等級が上がる」
「ええと。どういう内容ならいいのかしら?」
「一般人の日記や書簡でも、その時代の風俗習慣や歴史的大事件、その前後の様子を詳細に記しているようなものなら、後世の重要な研究資料となるので、等級を高く設定している」
「そうなのね」と、わたくしは納得しました。
「でも、それではこの本では不足かしら?」
わたくしはあらかじめテーブルに用意していた数冊をふりかえります。
本はふわり、と浮いて魔王の手前まで飛びました。
「歴史書、地理、詩集に古典、文法の教本。全部、印刷本か」
「学院で使っている教科書と、家庭教師の授業で使っている本よ。わたくしの本はそれくらいなの。あとは必要に応じて、学院の図書館やお父様の書斎の本をお借りしているの」
「悪いけど、印刷本は等級を低く設定している。昔の手書きと違って複写が安易だからね。特にこれは教本だから、流通量が多い分、稀少価値は低い。等級でいえば下の中だ。全部もらっても、こちらの魔術書の表紙一枚も渡せないな」
「そんな。どうにかできないかしら、とても大切な情報なの」
「セレスティナお嬢様、ご心配なく」
弱ったわたくしを、アベルが制しました。
「欲しいのは情報のみ、内容さえ同一なら、魔術書そのものは手に入らなくてもかまいません」
「じゃあ、写本かな」
魔王の手にさらに二冊の本が現れました。
一冊は魔術書にそっくりの古びた本。もう一冊は紙の束です。
「こちらは僕が本物そっくりに作成した複製本。紙もインクも当時の物を使用して、筆跡も汚れ具合も完璧に写してある。人間の眼と技術では、まず見破れない。こちらは中身だけを書き写したもの。複製本は上の下、書写本は中の中だよ」
最上から一気に下がりました。わたくしは魔王に訊ねます。
「書写はまだしも、複製はそんなに価値が低いのかしら?」
「僕が作ったと、僕にはわかるからね。内容によってはもっと下がるよ」
「書写本を。丸ごとではなく、目的の魔術に関するページだけいただきたい。それならセレスティナお嬢様の教本数冊で足りるのでは?」
魔王はわたくしの教本を見つめ、長い指で示します。
「その条件だと、この歴史書と地理、それから文法の三冊をもらおうか。版が新しいからね」
「新しいほうがいいの?」
「まだ持っていない版だからね」
魔王の手に三冊の本が残り、他はテーブルに戻ります。
浮いていた書写本が勝手に開いて、数枚の頁が破れて離れ、それをアベルが受けとりました。
「終わりです、セレスティナお嬢様。魔王を名乗る者は複数存在しますが、この図書館の魔王は対価さえ渡せば話が通じますし、対価自体も本で片付くので、取引にはうってつけです」
「まあ、そういうことなのね」
理解したわたくしは急速にもの寂しい気持ちに襲われました。
せっかく会えた魔王。日本にはいなかった存在です。もっと話してみたい。
「ね、よかったら少しお話していかないかしら? お礼に、アベルにお茶を淹れさせるわ。サクランボのケーキもあるの、甘い物はお好き?」
「セレスティナお嬢様!?」
「不要だよ。取引は公平に成立した。お礼をされる義理はない」
すげなく魔王は断言しました。魔王の周囲に浮かんでいた魔術書やわたくしの教本がすうっ、と消えます。
「用件が済んだなら僕は帰るよ。それじゃ」
「待って! わたくしと契約してくれないかしら!? わたくしの味方になってほしいの!!」
「なにをおっしゃるのです!? お嬢様!!」
思わず呼び止めたわたくしの言葉に、珍しくアベルが動揺を見せます。
わたくしは説明しました。
「だって、わたくしの聖魔力はアリシア・ソルが持ったままだわ。わたくしは魔術を使えないし、魔王が味方になってくれれば、心強いでしょう?」
「おやめください、お嬢様。魔王との契約が明るみになれば、婚約破棄どころでは済まされません」
「アリシア・ソル。大神殿の聖神官見習いのことかな? 今、話題の」
「知っているの?」
「噂程度に。十六歳。ストロベリーブロンドにミントグリーンの瞳の、可憐な少女。次期聖女と、もっぱらの評判だ。いま公都で一番有名な娘かな」
淡々とした言い様でしたが、わたくしの胸には靄が生じました。
「あなたもアリシア・ソルを聖女と思うの? 魔王ならわかるのかしら? 彼女は本当に本物の聖女なの? 偽物とか、借りものの力ということはない?」
「さあね。調べることはできるけれど、対価をもらうよ。等級は上の下。印刷本では引き受けられないな」
「そんなに?」
「アンブロシアは、この世界の行く末に関わる重要事項だ。それに本の提供以外の依頼は、二等級高く設定してある。僕は図書館の主であって、使い走りじゃない」
「…………っ」
「契約も断るよ。僕は対価と引き換えなら依頼はうけるけれど、人間の下につく気はない」
「そう…………」
魔王の冷えた口調は、こちらの胸まで冷やすようでした。
わたくしは食い下がります。
「では、わたくしに魔力があるかどうかは、わかるかしら?」
「下の中だね。先ほどの教本で足りるよ」
テーブルからわたくしの詩集二冊が魔王の手の中に飛ぶと、魔王は淡々と説明をはじめます。
「そもそも君に限らず、生きた人間は誰しも魔力を有している。量が多いか少ないか、質が良いか悪いかの違いだ。聖魔力は特に純度の高い魔力で、それを有益な水準で日常的に発揮できる量と技術を有しているのが、聖神官。その中でも、さらに純度と量で飛び抜けているのがアリシア・ソルというわけだ。で、君自身の魔力だけれど」
漆黒の瞳に見つめられ、わたくしは背筋が伸びます。
「君の魔力は、一般人よりは頭一つ飛び抜けている。けれど聖神官には程遠い。そういう水準だ。修行である程度の研磨は可能だから、鍛えれば、初歩的な魔術を数日間に一回使える程度にはなるはずだ」
「…………っ」
わたくしは膝が折れそうになり、倒れかけた体をアベルが支えます。
そういえば漫画でも、セレスティナは「悪役令嬢なので魔力が弱い」と説明されていた記憶がありました。いわば生まれつきの性質なのでしょう、努力でどうにかなるものではないのです。
「お気をたしかに。セレスティナお嬢様は未来の聖女。アリシア・ソルの聖魔力は、いずれお嬢様に移る運命ではありませんか。いま有している魔力の心配など無用です」
「それはそうだけれど…………」
わたくしには不安要素がありました。
(おそらくアリシア・ソルは、漫画のことを知っている転生者。漫画本来の展開のように、神に聖魔力をとりあげられるような失態はおかしそうにない。それはつまり、わたくしが聖魔力を受け継ぐかも、不確定になったということ…………!!)
「お願い、ビブロス。わたくしと契約して。わたくしの力になってほしいの。それができないなら、せめてわたくしが魔術を使えるようにして」
「いけません、セレスティナお嬢様!! アリシア・ソルは私がどうにかいたします。ですから、どうかお嬢様は安心して日々をお過ごしください」
普段、冷静沈着なアベルが珍しく必死でした。今にもわたくしの肩をゆさぶりそうです。
アベルの制止に、魔王まで言葉を重ねてきました。
「魔術を体得したければ、信用できる師を見つけて地道に修行することだね。すぐに行使したくて魔王と契約する者は多いけれど、使える術に制限がかかる。長い目で見れば、損だよ」
「でも、わたくしも魔術を使ってみたいわ。お願いよ、アベル」
「セレスティナお嬢様…………っ」
せっかくファンタジーの世界に転生したのです。少しは魔法を体験してみたい。それに使ってみれば、眠っていた力が目覚める可能性もあります。主人公特典とはそういうものでしょう。
わたくしは魔王に向き直りました。
「初歩でいいの。わたくしに魔術を授けて、ビブロス。わたくしには、どうしても勝たなければならない敵がいるのです」
「魔術を体得できるかは、基本的に本人の努力次第だよ」
前置きして魔王はつづけました。
「魔力は基本的に体内をめぐって、外には出ない仕組みになっている。魔術師や聖神官達は、まず、この体内の魔力を任意で体外に出せるようになる修行からはじめる。初歩ということは、この技術の体得から、ということになるよ?」
「わたくしが、わたくしの体内の魔力を自在に外に出せるようになる。その手伝いをあなたがしてくれる、ということね? 魔力を外に出せるようになれば魔術が使えるのなら、お願いするわ」
「出せるようになっても、魔術の行使には修行が必要だよ。魔法陣を用いれば手順は省略できるが、魔法陣を起動させるために、陣に魔力を流す技術が必要になる」
「わかったわ。では、わたくしの魔力を、わたくしの意思で体の外に出せるようにしてちょうだい。あとは、わたくしが自分でなんとかするわ」
「下の上だよ。魔術師を目指す人間の最初にして最大の試練だけれど、僕ら魔王にとってはたやすい作業だし、そのために呼び出されることもしょっちゅうな、定番の依頼だ。印刷本数冊で手を打とう」
テーブルに残っていた教本がすべて魔王へと飛びました。が、「足りないな」と言われます。
わたくしは学習用の部屋に魔王を案内し直接、選んでもらいました。アベルが渋面で本棚を物色する魔王を見つめます。
「これと、これと、これかな」
真新しい本を三冊、魔王は抜き出しました。
「あなた、恋愛小説なんて読むの?」
意外です。魔王が手にとったのは安価な大衆本で、学院で女生徒達と話を合わせるために購入したものの、面白くなかったので召使いにでも与えようと思っていた本でした。
「下の上だから、こんなものだよ。人気作家の最新作で、僕の図書館にはない話だ。充分対価になる」
『コレクター魂』というものでしょうか。『図書館の魔王』と名乗るほどですし、集めることに意義を見出すタイプなのかもしれません。
「それじゃあ」
魔王ビブロスがわたくしへ向き、わたくしの額に指先をほんの一瞬、かすかにあてました。
「済んだよ。これで体内の魔力を自在に出し入れできる」
「あ…………」
言われてみると、たしかになにかが体内をめぐる感覚があります。
突然、流れ出したのではなく、今まで流れていたのに、今はじめて気づいたような。
「じゃあ僕はこれで」
わたくしが生まれてはじめて感じる魔力の流れに興奮している隙に、図書館の魔王は消えてしまいました。わたくしは「はあ」と脱力します。
「すごい…………めまぐるしい夜だったわ…………」
アベルが苦渋に眉間を寄せ、丁重にわたくしの手をとりました。
「セレスティナお嬢様…………魔術に手を染めるなど…………魔王との契約は便利なことばかりではありません。長期的には、契約した者に大きな不幸をもたらすこともしばしばです」
「まあ。大丈夫よ、アベル。ちゃんと対価は払ったもの。それに相手は転生者よ? こうでもしければ勝てないわ」
「――――いたしかたありません。こうなった以上、私はアリシア・ソルだけでなく、魔術の反動からもお嬢様をお守りします。セレスティナお嬢様が必ずや、お嬢様の望んだ幸福にたどりつけるように」
「ありがとう、アベル」
ほほ笑みを返すと、わたくしは頭を切り替えました。
「さあ、魔力も使えるようになったことだし、さっそく例の魔術を試してみましょう。アベル、先ほどの写本を出してちょうだい」
アベルから新品の紙を受けとります。
色鮮やかなインク。見た目は完全に最近のメモでした。
わたくしはうきうきとベッドに向かいます。
結論から述べれば、今回の判断は大正解でした。
わたくしは今までどうやっても思い出せなかった前世の記憶を、一晩でたっぷりと思い出すことができたのです。
図書館の魔王ビブロスと取引をした夜から三日目。
三回の魔術の行使により、夢を介してわたくしはこの漫画『婚約破棄されたけど、私は皇子に溺愛されている悪役令嬢ですっ!』について、かなり詳細に思い出せていました。
「八割ちかくは思い出せたと思うわ。あなたのおかげよ、アベル」
思い出した情報を片端から記録していたわたくしがペンを置いて、かたわらのテーブルでお茶を淹れているアベルに笑いかけると、アベルも「ありがたきお言葉にございます」と、いつもの恭しい態度で返してきます。
「それで今後のことなのだけれど――――確認したいことができたの」
わたくしはひそひそとアベルに伝えると召使いを呼び、外出の支度を命じました。
アベルは絨毯に魔法陣を描いた紙をひろげ、淡々と説明します。
「儀式自体は単純です。召喚に必要な作業はすべてこの魔法陣に圧縮されていますので、あとは魔力を送って起動させるだけ。生贄なども不要です。ただ、本を何冊かご用意ください」
「本? どんな本かしら?」
「基本的にはどのような分野でもかまいませんが、珍しい、貴重な本ほど望ましいです」
わたくしはしばし悩んで本棚から数冊選ぶと、それを侍従にテーブルの上へ移動させます。するとアベルが魔法陣の前で何事か唱えはじめました。
わたくしの胸も高鳴ります。
魔王や魔物が存在する世界設定であることは、前世の記憶ですでに知っていました。セレスティナの美しさや気高さに魅了された魔王が、彼女を助ける展開もあります。
ただ、どのような展開で魔王と出会うのか。それがわからなかったのです。
魔法陣は、ぱっと光ると黒い炎に包まれました。
「えっ」
魔法陣が燃えてしまった、と思ったのですが。
「久しぶり、かな。魔女ブルハの息子。アベル、だっけ?」
思いのほか若々しい、どこかつまらなさそうな声。
「図書館の魔王ビブロス。召喚に応じて参上した。話は対価次第で聞くよ」
わたくしとアベルしかいなかった部屋に、第三の人物が立っていました。
(まあ。このキャラクターは)
裾の長い黒の衣装に、青白い肌。白の長髪と対照的な漆黒の瞳。
何度か記憶の中に出てきた、セレスティナを助ける予定の魔王です。
(ここで登場するキャラクターだったのかしら)
アベルは即座に本題に入りました。
「召喚に応じてもらい感謝します、魔王ビブロス。さっそくですが、想起の術を求めています。赤ん坊の頃だろうと、母親の胎内にいた頃やそれ以前だろうと、望む記憶を自在に引き出す。そんな魔術が必要なのです」
「その水準だと、こちらかな」
魔王の青年が掲げた手の上に一冊の古びた本が現れ、浮かびます。比喩ではなく、本当に浮かんでいるのです。
「古の大魔女アンフェルが、すべての魔女の母にして師、そして守り手である冥府の女王から伝授された魔術を書き写した『アンフェルの書』。過去も現在も、これを越える魔術書はない」
古びた本は紙ではなく羊皮紙のようでした。
「等級は最上。世界でも稀な稀覯本だ。対価は払えるかい?」
「え?」と、わたくしは声をもらします。
魔王はこちらを向いて淡々と説明しました。
「僕は取引の対価には本、もしくは魔力で応じている。本の内容は不問。魔術書に図鑑や詩集、大衆小説、料理本でもかまわないし、文字で記されているなら、記録や書簡の類も受け付けている。言語は問わない。楽譜はものによりけり」
「あと」と付け加えます。
「手記の類は、記した人間によって等級が変動する。歴史に名を残すような有名人の直筆は価値が上がるし、名もなき一般人ならその逆だ。ただし内容や情報量によっては等級が上がる」
「ええと。どういう内容ならいいのかしら?」
「一般人の日記や書簡でも、その時代の風俗習慣や歴史的大事件、その前後の様子を詳細に記しているようなものなら、後世の重要な研究資料となるので、等級を高く設定している」
「そうなのね」と、わたくしは納得しました。
「でも、それではこの本では不足かしら?」
わたくしはあらかじめテーブルに用意していた数冊をふりかえります。
本はふわり、と浮いて魔王の手前まで飛びました。
「歴史書、地理、詩集に古典、文法の教本。全部、印刷本か」
「学院で使っている教科書と、家庭教師の授業で使っている本よ。わたくしの本はそれくらいなの。あとは必要に応じて、学院の図書館やお父様の書斎の本をお借りしているの」
「悪いけど、印刷本は等級を低く設定している。昔の手書きと違って複写が安易だからね。特にこれは教本だから、流通量が多い分、稀少価値は低い。等級でいえば下の中だ。全部もらっても、こちらの魔術書の表紙一枚も渡せないな」
「そんな。どうにかできないかしら、とても大切な情報なの」
「セレスティナお嬢様、ご心配なく」
弱ったわたくしを、アベルが制しました。
「欲しいのは情報のみ、内容さえ同一なら、魔術書そのものは手に入らなくてもかまいません」
「じゃあ、写本かな」
魔王の手にさらに二冊の本が現れました。
一冊は魔術書にそっくりの古びた本。もう一冊は紙の束です。
「こちらは僕が本物そっくりに作成した複製本。紙もインクも当時の物を使用して、筆跡も汚れ具合も完璧に写してある。人間の眼と技術では、まず見破れない。こちらは中身だけを書き写したもの。複製本は上の下、書写本は中の中だよ」
最上から一気に下がりました。わたくしは魔王に訊ねます。
「書写はまだしも、複製はそんなに価値が低いのかしら?」
「僕が作ったと、僕にはわかるからね。内容によってはもっと下がるよ」
「書写本を。丸ごとではなく、目的の魔術に関するページだけいただきたい。それならセレスティナお嬢様の教本数冊で足りるのでは?」
魔王はわたくしの教本を見つめ、長い指で示します。
「その条件だと、この歴史書と地理、それから文法の三冊をもらおうか。版が新しいからね」
「新しいほうがいいの?」
「まだ持っていない版だからね」
魔王の手に三冊の本が残り、他はテーブルに戻ります。
浮いていた書写本が勝手に開いて、数枚の頁が破れて離れ、それをアベルが受けとりました。
「終わりです、セレスティナお嬢様。魔王を名乗る者は複数存在しますが、この図書館の魔王は対価さえ渡せば話が通じますし、対価自体も本で片付くので、取引にはうってつけです」
「まあ、そういうことなのね」
理解したわたくしは急速にもの寂しい気持ちに襲われました。
せっかく会えた魔王。日本にはいなかった存在です。もっと話してみたい。
「ね、よかったら少しお話していかないかしら? お礼に、アベルにお茶を淹れさせるわ。サクランボのケーキもあるの、甘い物はお好き?」
「セレスティナお嬢様!?」
「不要だよ。取引は公平に成立した。お礼をされる義理はない」
すげなく魔王は断言しました。魔王の周囲に浮かんでいた魔術書やわたくしの教本がすうっ、と消えます。
「用件が済んだなら僕は帰るよ。それじゃ」
「待って! わたくしと契約してくれないかしら!? わたくしの味方になってほしいの!!」
「なにをおっしゃるのです!? お嬢様!!」
思わず呼び止めたわたくしの言葉に、珍しくアベルが動揺を見せます。
わたくしは説明しました。
「だって、わたくしの聖魔力はアリシア・ソルが持ったままだわ。わたくしは魔術を使えないし、魔王が味方になってくれれば、心強いでしょう?」
「おやめください、お嬢様。魔王との契約が明るみになれば、婚約破棄どころでは済まされません」
「アリシア・ソル。大神殿の聖神官見習いのことかな? 今、話題の」
「知っているの?」
「噂程度に。十六歳。ストロベリーブロンドにミントグリーンの瞳の、可憐な少女。次期聖女と、もっぱらの評判だ。いま公都で一番有名な娘かな」
淡々とした言い様でしたが、わたくしの胸には靄が生じました。
「あなたもアリシア・ソルを聖女と思うの? 魔王ならわかるのかしら? 彼女は本当に本物の聖女なの? 偽物とか、借りものの力ということはない?」
「さあね。調べることはできるけれど、対価をもらうよ。等級は上の下。印刷本では引き受けられないな」
「そんなに?」
「アンブロシアは、この世界の行く末に関わる重要事項だ。それに本の提供以外の依頼は、二等級高く設定してある。僕は図書館の主であって、使い走りじゃない」
「…………っ」
「契約も断るよ。僕は対価と引き換えなら依頼はうけるけれど、人間の下につく気はない」
「そう…………」
魔王の冷えた口調は、こちらの胸まで冷やすようでした。
わたくしは食い下がります。
「では、わたくしに魔力があるかどうかは、わかるかしら?」
「下の中だね。先ほどの教本で足りるよ」
テーブルからわたくしの詩集二冊が魔王の手の中に飛ぶと、魔王は淡々と説明をはじめます。
「そもそも君に限らず、生きた人間は誰しも魔力を有している。量が多いか少ないか、質が良いか悪いかの違いだ。聖魔力は特に純度の高い魔力で、それを有益な水準で日常的に発揮できる量と技術を有しているのが、聖神官。その中でも、さらに純度と量で飛び抜けているのがアリシア・ソルというわけだ。で、君自身の魔力だけれど」
漆黒の瞳に見つめられ、わたくしは背筋が伸びます。
「君の魔力は、一般人よりは頭一つ飛び抜けている。けれど聖神官には程遠い。そういう水準だ。修行である程度の研磨は可能だから、鍛えれば、初歩的な魔術を数日間に一回使える程度にはなるはずだ」
「…………っ」
わたくしは膝が折れそうになり、倒れかけた体をアベルが支えます。
そういえば漫画でも、セレスティナは「悪役令嬢なので魔力が弱い」と説明されていた記憶がありました。いわば生まれつきの性質なのでしょう、努力でどうにかなるものではないのです。
「お気をたしかに。セレスティナお嬢様は未来の聖女。アリシア・ソルの聖魔力は、いずれお嬢様に移る運命ではありませんか。いま有している魔力の心配など無用です」
「それはそうだけれど…………」
わたくしには不安要素がありました。
(おそらくアリシア・ソルは、漫画のことを知っている転生者。漫画本来の展開のように、神に聖魔力をとりあげられるような失態はおかしそうにない。それはつまり、わたくしが聖魔力を受け継ぐかも、不確定になったということ…………!!)
「お願い、ビブロス。わたくしと契約して。わたくしの力になってほしいの。それができないなら、せめてわたくしが魔術を使えるようにして」
「いけません、セレスティナお嬢様!! アリシア・ソルは私がどうにかいたします。ですから、どうかお嬢様は安心して日々をお過ごしください」
普段、冷静沈着なアベルが珍しく必死でした。今にもわたくしの肩をゆさぶりそうです。
アベルの制止に、魔王まで言葉を重ねてきました。
「魔術を体得したければ、信用できる師を見つけて地道に修行することだね。すぐに行使したくて魔王と契約する者は多いけれど、使える術に制限がかかる。長い目で見れば、損だよ」
「でも、わたくしも魔術を使ってみたいわ。お願いよ、アベル」
「セレスティナお嬢様…………っ」
せっかくファンタジーの世界に転生したのです。少しは魔法を体験してみたい。それに使ってみれば、眠っていた力が目覚める可能性もあります。主人公特典とはそういうものでしょう。
わたくしは魔王に向き直りました。
「初歩でいいの。わたくしに魔術を授けて、ビブロス。わたくしには、どうしても勝たなければならない敵がいるのです」
「魔術を体得できるかは、基本的に本人の努力次第だよ」
前置きして魔王はつづけました。
「魔力は基本的に体内をめぐって、外には出ない仕組みになっている。魔術師や聖神官達は、まず、この体内の魔力を任意で体外に出せるようになる修行からはじめる。初歩ということは、この技術の体得から、ということになるよ?」
「わたくしが、わたくしの体内の魔力を自在に外に出せるようになる。その手伝いをあなたがしてくれる、ということね? 魔力を外に出せるようになれば魔術が使えるのなら、お願いするわ」
「出せるようになっても、魔術の行使には修行が必要だよ。魔法陣を用いれば手順は省略できるが、魔法陣を起動させるために、陣に魔力を流す技術が必要になる」
「わかったわ。では、わたくしの魔力を、わたくしの意思で体の外に出せるようにしてちょうだい。あとは、わたくしが自分でなんとかするわ」
「下の上だよ。魔術師を目指す人間の最初にして最大の試練だけれど、僕ら魔王にとってはたやすい作業だし、そのために呼び出されることもしょっちゅうな、定番の依頼だ。印刷本数冊で手を打とう」
テーブルに残っていた教本がすべて魔王へと飛びました。が、「足りないな」と言われます。
わたくしは学習用の部屋に魔王を案内し直接、選んでもらいました。アベルが渋面で本棚を物色する魔王を見つめます。
「これと、これと、これかな」
真新しい本を三冊、魔王は抜き出しました。
「あなた、恋愛小説なんて読むの?」
意外です。魔王が手にとったのは安価な大衆本で、学院で女生徒達と話を合わせるために購入したものの、面白くなかったので召使いにでも与えようと思っていた本でした。
「下の上だから、こんなものだよ。人気作家の最新作で、僕の図書館にはない話だ。充分対価になる」
『コレクター魂』というものでしょうか。『図書館の魔王』と名乗るほどですし、集めることに意義を見出すタイプなのかもしれません。
「それじゃあ」
魔王ビブロスがわたくしへ向き、わたくしの額に指先をほんの一瞬、かすかにあてました。
「済んだよ。これで体内の魔力を自在に出し入れできる」
「あ…………」
言われてみると、たしかになにかが体内をめぐる感覚があります。
突然、流れ出したのではなく、今まで流れていたのに、今はじめて気づいたような。
「じゃあ僕はこれで」
わたくしが生まれてはじめて感じる魔力の流れに興奮している隙に、図書館の魔王は消えてしまいました。わたくしは「はあ」と脱力します。
「すごい…………めまぐるしい夜だったわ…………」
アベルが苦渋に眉間を寄せ、丁重にわたくしの手をとりました。
「セレスティナお嬢様…………魔術に手を染めるなど…………魔王との契約は便利なことばかりではありません。長期的には、契約した者に大きな不幸をもたらすこともしばしばです」
「まあ。大丈夫よ、アベル。ちゃんと対価は払ったもの。それに相手は転生者よ? こうでもしければ勝てないわ」
「――――いたしかたありません。こうなった以上、私はアリシア・ソルだけでなく、魔術の反動からもお嬢様をお守りします。セレスティナお嬢様が必ずや、お嬢様の望んだ幸福にたどりつけるように」
「ありがとう、アベル」
ほほ笑みを返すと、わたくしは頭を切り替えました。
「さあ、魔力も使えるようになったことだし、さっそく例の魔術を試してみましょう。アベル、先ほどの写本を出してちょうだい」
アベルから新品の紙を受けとります。
色鮮やかなインク。見た目は完全に最近のメモでした。
わたくしはうきうきとベッドに向かいます。
結論から述べれば、今回の判断は大正解でした。
わたくしは今までどうやっても思い出せなかった前世の記憶を、一晩でたっぷりと思い出すことができたのです。
図書館の魔王ビブロスと取引をした夜から三日目。
三回の魔術の行使により、夢を介してわたくしはこの漫画『婚約破棄されたけど、私は皇子に溺愛されている悪役令嬢ですっ!』について、かなり詳細に思い出せていました。
「八割ちかくは思い出せたと思うわ。あなたのおかげよ、アベル」
思い出した情報を片端から記録していたわたくしがペンを置いて、かたわらのテーブルでお茶を淹れているアベルに笑いかけると、アベルも「ありがたきお言葉にございます」と、いつもの恭しい態度で返してきます。
「それで今後のことなのだけれど――――確認したいことができたの」
わたくしはひそひそとアベルに伝えると召使いを呼び、外出の支度を命じました。
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