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前編

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「またなの、シュゼット」

「うん…………」

 王立女学院の広い庭園にしつらえられた、談笑用のベンチの一つで、四人の女生徒が話している。非難の響きを含んだルーシーの言葉に、もともと垂れがちの眉尻をさらに下げて、シュゼット・ド・ロワイエがうなずいた。

「妹さんは、先月もあなたから音楽会の独唱ソロパートを奪ったばかりよ。それなのに来週の大聖堂の独唱も、だなんて」

「図々しいにもほどがあるわ、あんまりよ」

 カロリーヌとルーシーがそろって息巻く。
 そこへ新たな声が割り込んできた。

「あら、お姉さま。お友達の方々もごきげんよう」

 愛くるしいストロベリーブロンドの巻き毛に、それを包むレースたっぷりのボンネット。真っ白なレースの手袋に、可憐なパラソル。
 話題の主、コレット・ド・ロワイエ嬢だ。
 イリスの親友シュゼット・ド・ロワイエの二歳下の妹は、にこやかに姉の友人達を誘う。

「急ですけれど、わたくし、来週の大聖堂で催される公子歓迎の合唱コーラスで、独唱を任されましたの。みなさまも、ぜひ聴きにいらして」

 イリスをはじめ、ルーシーもカトリーヌも冷ややかなまなざしでシュゼットの妹を見る。
 代表したつもりはないが、イリスが口を開いた。

「大聖堂での独唱パートは、シュゼットの担当です。あなたは先月の音楽会も、強引に姉君の独唱パートを交替したばかりではありませんか? コレット・ド・ロワイエ嬢」

「まあ、人聞きの悪い。独唱は、お姉さまが自分から『代わる』とおっしゃってくださったのよ、イリス・フォーレ。もうすぐゴーチェ子爵家に嫁入りするわたくしのため、子爵家で軽んじられないように、と活躍の場を与えてくださったの」

「だからといって、あまりに何度も姉君の厚意に甘えるのは、無遠慮ではないですか? コレット嬢はすでに婚約が決まっておられるのですから、もっと姉君に譲られても…………」

「まあ、いやだ」

 イリスの言葉をさえぎり、コレットはわざとらしく目をみはって蔑みの表情を浮かべる。

「ゴーチェ子爵家といえば百年の伝統を持ち、現子爵は事業で大成功をおさめて、莫大な財産を築かれた方。そこらの没落伯爵より、よほど有力な家柄ですのよ。ご存じないの? そんな名家のご子息に望まれたのですもの、功績はいくらあっても足りませんわ。みなさまには縁のないお話かもしれませんけれど」

「まあ」

 いかにも馬鹿にしたように笑ったコレットに、ルーシーやカロリーヌも眉をつりあげる。

「あなたはそれでいいの? シュゼット」

 イリスは親友を見た。どこか地味で平凡な印象をうけるハニーブロンドのシュゼットは、髪の色も性格もコレットとは真逆だ。とにかく無欲で争い事が苦手で、いつもいつも自分の大事なものを妹に持って行かれては、途方に暮れている。
 コレットのいうゴーチェ子爵令息だって、もともとはシュゼットに舞い込んだ縁談だったのに、彼を気に入ったコレットが父親であるロワイエ卿に泣きついて、自分との縁談にすり替えてしまったのだ。
 令息自身も今ではコレットを溺愛する日々だという。

「あ…………私は…………」

 イリスの凛とした紫の瞳に見つめられたシュゼットは、おどおどと視線をさまよわせる。

「お姉さま、『いい』って言ったわよね?」

 妹が念を押すように身を乗り出してきた。

「わたくしがゴーチェ子爵家で恥をかかないように、もうすぐ子爵家に嫁ぐわたくしのために、お姉さまから譲ってくださったのよね? わたくし、とっても感謝していますわ、お姉さま」

「え、ええ、そうね、コレット」

「ほら!」

 コレットは勝ち誇ってイリス達を見た。

「お姉さまは優しい、気遣いのできる方なのよ。それを『無遠慮』だなんて。お姉さまの優しさを侮辱する気?」

「侮辱するつもりはありません。ただ、もう少しシュゼットにも…………」

「そもそも、あなたは何様のつもりなの? イリス・フォーレ。ロワイエ家は位こそ男爵だけれど、二百年の伝統を持つ、れっきとした名門の家柄よ? 大商会の娘だかなんだか知らないけれど、たかが平民風情が、貴族のわたくしになれなれしく口をきかないでいただきたいわ。そちらのほうが、よほど無礼じゃない。お姉さまは貴族らしからぬ気安い方だから、あなたがた、商会やら実業家やらの娘ともお友達付き合いをしているけれど、本来なら口もきけない身分だと、よく理解してもらいたいわ」

 ぐ、とイリスが、ルーシーやカロリーヌが押し黙る。
 そこへ。

「やあ、コレット。こちらにいたのか」

 艶やかな黒髪に宝石のような青い瞳の美青年が、こちらにやってくる。
 王立女学院は基本的に男子禁制だが、女生徒の家族と婚約者に限っては、庭園や聖堂、音楽ホールへの立ち入りが許可されている。

「まあ、オスカー様」

「待たせてすまない、私の姫君。会いたかったよ」

「わたくしもですわ、オスカー様。愛しい方。一昨日お会いしたばかりなのに、どうしてこんなに恋しいのかしら」

 コレットとオスカーは人目もはばからず抱擁をかわす。
 オスカーは小さな包みを婚約者に差し出した。

「これを君に。君のストロベリーブロンドに似合うと思って。マダム・タイヤールの新作だそうだよ」

「まあ、すてき!!」

 有名な人気店の名と、流行のラベンダー色の絹のリボンを出され、コレットの声が明るく跳ねあがる。

「マダム・タイヤールの新作リボンは、絶対にほしかったの! ああオスカー、あなたったら、どうしてわたくしの欲しい物がわかるの!?」

「君のことならなんでもわかるさ、私の姫君」

 見つめ合ったコレットとオスカーは完全に二人だけの世界に入っており、屋外だが、そのまま抱き合ってキスの一つもしそうな勢いだ。はっきりいって、貞淑であるべき結婚前の貴族の男女の態度ではない。
 イリスは白けながらも、いつ破廉恥な展開を迎えるかとひやひやし、ルーシーやカトリーヌは高価な贈り物をされたコレットを「ぐぬぬ」とばかりに、にらんでいる。姉のシュゼットは眉尻と目尻を下げ、憂いに沈んでいた。

「それではお先に失礼しますわ、お姉さま。これからオスカー様とオペラを観に行ってまいります。独唱を成功させるためにも、本職プロの歌を聴いておきたいの」

「努力家だな、コレットは。今の実力に奢らないなんて、なんて謙虚なんだ」

「わたくし、オスカー様の自慢の妻になりたいのだもの。なんてことありませんわ」

 言いながら、ぴったり寄り添い合ってコレットとオスカーは門へと去っていった。
 イリスはため息をつく。

(いくらコレット嬢に骨抜きとはいえ……もとはシュゼットの縁談相手。子爵令息も、もう少し彼女に配慮してくださっても…………)

 ルーシーとカロリーヌも、ふたたび息巻く。

「シュゼット。あなた、もっとはっきり言うべきだわ。あれでは、妹さんのわがままは悪化するだけだわ」

「カロリーヌの言うとおりよ、音楽会や歓迎会は、あなたにとってもチャンスなのよ?」

 女性の社会進出が唱えられはじめた時代…………といっても、上流階級ではまだまだ女性は男性の添え物。高度な教育や、政治的経営的な能力は求められていない。
 そういう国で女性が良縁を得ようとするなら、アピールポイントは大まかに四つ。
 すなわち血筋と、実家の財産や権力。それから大勢の子供を産める若さと健康。そして夫に愛されるための魅力――――美しさや気品、教養深さだ。
 王立女学院はその教養を磨く場であり、女学生達は学院で詩作や楽器やダンスや古語、美しい所作といった、貴婦人の嗜みを習う。
 音楽会や朗読会はそれらの成果を披露する数少ない見せ場で、それゆえ、ここですてきな殿方に見初められようと、はりきる女学生は少なくない。
 つまり、合法的に自分を売り込める舞台なのであり、だからこそ独唱のような目立つパートは競争率が高いし、コレットのような目立ちたがり屋の娘もこだわるのである。
 しかし。

「…………いいの。コレットの言うとおり、あの子は子爵家に嫁ぐのだもの。独唱を務めて、箔をつけておくことは必要だわ。お父様もお母様も、そうおっしゃっておられるし…………」

「シュゼット」

 イリスは親友の目を見つめた。

「あなたのご両親や、妹さんの意見はいいわ。あなた自身はどうなの? ラ・コルデール公爵は名門貴族で、その公子の歓迎会には高貴な方々も大勢招待されているわ。あなただって心の中では、一度は晴れやかな舞台で歌いたい、そう思っていたのではないの?」

 だがシュゼットは親友から視線を外して首をふる。

「私は駄目よ。引っ込み思案で、人前に出るのは大の苦手だもの。歌も上手くないから、堂々としているコレットのほうがふさわしいわ」

「まあ、シュゼット!!」

 ルーシーとカロリーヌが目をみはり、嘆かわしそうに首をふる。

「あなたったら、まだそんなことを。あなたは間違いなく、学院一の歌声の持ち主よ。だから独唱を任されたのに、あなたったら、いつまでも自信がなさすぎて」

「ルーシーの言うとおりだわ。歓迎会の独唱が成功すれば、高位の殿方に見初められる可能性もあるのに、どうして縁談の決まった妹さんに、そこまで遠慮する必要があるの?」

「ありがとう、みんな。でも…………私はこれでいいの。お父様とお母様にも言われたの。私もロワイエ家の一員だもの。妹が嫁ぎ先で大事にされるよう、姉として協力しないと」

「シュゼット…………」

 ルーシーとカロリーヌがそろって肩をおとす。
 ロワイエ家にとって、格上で潤沢な資産も持つゴーチェ子爵家との縁談は、なにがなんでも成立させるべき最優先事項ではあろう。そういった事情は、貴族ではないイリス達にも察することはできる。しかし。

「シュゼットは、本当にそれでいいの?」

 イリスは訊ねずにはおれない。
 独唱の件に限らず、ロワイエ夫妻はシュゼットを軽んじすぎる。
 同じ娘でありながら「雰囲気が暗い」「愛想がない」、そんな理由で夫妻は次女のコレットばかり溺愛して、長女のシュゼットを冷遇し、コレットがシュゼットの持ち物を奪おうが、晴れ舞台を横取りしようが咎めもしない。それどころか「姉なのだから譲ってやりなさい」と、妹のわがままを助長させる始末だ。
 おかげでシュゼットも何事につけても妹を優先し、自分を出さない性格に成長した。
 女学院に入学した十一歳の時からシュゼット(とコレット)を見つづけてきたイリス達は、それが歯がゆくてたまらない。

(シュゼットは、もっと自分に自信を持っていいのに。自分を大切にすべきなのに――――)

 なにをどう責めても励ましても、シュゼットは「コレットが望むから」「お父様もお母様も、そう言っているから」の一点張りだった。

「心配してくれて、ありがとう、三人共。でも、私は大丈夫だから…………」

 そう言ってほほ笑んだシュゼットに、友人達は一様にため息をつく。
 きっとこの先も、シュゼットは妹や両親に利用されつづけるのだろう。
 そしてイリス達にできることはなにもない。
 深いやりきれなさを残して、次の授業へとむかう。





 翌週。
 コレット・ド・ロワイエ嬢は望みどおり、婚約者から送られたドレスに清楚な真珠の首飾りネックレスを合わせて、大聖堂で独唱を務めた。
 この真珠は彼女の祖父が用意した品だが、祖父から贈られたものではない。
 両親に冷遇される姉のシュゼットを不憫がり、彼女を可愛がっている祖父から「大聖堂の独唱では、これを着けなさい。ラ・コルデール公子や高貴な方々の前に出るのだから、上品な格好をしないとな」とシュゼットが贈られたのを、いつもどおりコレットが、

「大聖堂で歌うのは、私よ? その首飾りは歌姫のために贈られたのだから、わたしがもらうのが当然でしょ。公子様の御前で歌うのだもの、みすぼらしい格好はできないわ。ロワイエ家やオスカー様やゴーチェ子爵家の体面のためよ。お姉さまは歌わないのだから、新しいアクセサリーなんて必要ないじゃない。お祖父さまったら、いつもお姉さまばかり高価な贈り物をすして、ずるいわ、贔屓よ」

 と言って奪って行ったのだ。
 愛くるしいストロベリーブロンドの歌姫の清楚な姿と可憐な歌声に、殿方達は大いにわいて、惜しみない拍手を贈った。





 その三日後。
 状況は大きく変化する。
 この日、王宮ではラ・コルデール公子の訪問を歓迎する何度目かの舞踏会が催されたのだが、これは比較的、幅広い身分が招待される気安い会で、慣例として、歓迎会などで歌や演奏を披露した歌姫や音楽家達も、婚約者や家族同伴での出席が許されている。
 当然、大聖堂で歌姫を務めたコレット・ド・ロワイエも婚約者のオスカー・ド・ゴーチェ子爵令息と、家族であるロワイエ男爵夫妻と姉のシュゼットの五人で出席したのだが、そこでシュゼットがラ・コルデール公子に求婚プロポーズされた。
 実はラ・コルデール家は『獣神』の血を継ぐ古い家系で、この『獣神』の特性の一つに「一目見た瞬間から惹かれて生涯、その愛が変わることはない」という『運命の伴侶』がある。
 シュゼットはラ・コルデール公子にとって、その『運命の伴侶』だったらしい。
 古より伝わる血脈と掟により、ラ・コルデール公爵家では、ひとたび『運命の伴侶』と判明すれば、いかなる身分であれ立場であれ、その人物と結ばれることは当然の確定事項とされる。
 つまりシュゼットは、一介の男爵令嬢でありながら、名門公爵家に、跡取り息子の婚約者として迎え入れられることが決定したのである。
 むろん世間は驚いたし、シュゼットの両親であるロワイエ夫妻も「これで我が家も、名門入りだ!」と狂喜乱舞する。
 おさまらなかったのはコレットだ。
 オスカーと出席していながら、なれなれしく公子にあいさつして、あからさまに媚を売っていたという彼女は、姉が公子に求婚される光景を目の当たりにすると「お姉さまばかりズルい!!」と激怒したらしい。

「わたくしのほうが若いし、美しくて賢いのよ!? わたくしのほうが公子様にふさわしいはずだわ!! どうして、お姉さまが選ばれるの!?」

 そうわめき散らして暴れた(比喩でなく、本当に暴れたらしい)そうだが、彼女に賛同する者はなく、侍従達に囲まれて丁重に馬車へと送られたそうだ。
 事態を知ったイリスも、ルーシーやカロリーヌと共に駆けつけ、シュゼットを祝福した。

「すごいわ、シュゼット! こんな幸運ってあるのね、お芝居みたい!」

「おめでとう、シュゼット!お幸せにね」

「結婚後は、ラ・コルデール公子と一緒にラ・コルデール領で暮らすのですって? 寂しくなるわ、元気でね。王都からあなたの幸せを祈っているわ、シュゼット」

「ありがとう、三人共」

 シュゼットの姿は一変していた。
 上等の品はすべて妹に奪われていた姉は、ドレスも靴も香水も、リボンやヘアピンの一本にいたるまで最高品質の高級品を身につけ、どれもシュゼットのハニーブロンドやほっそりした体格を引き立てる、センスの良いものばかりだ。
 すべてラ・コルデール公子からの贈り物だそうで、「もう片時も離れられない」という彼からの熱烈な要望により、シュゼットはすでに王都の一等地に建つラ・コルデール公爵家の壮麗な館に引きとられていた。今後は高価な贈り物を妹に奪われる心配もない。

(よかった)

 公爵家のお茶会でシュゼットと再会したイリスは、親友が公爵家で大切にされていることを確信して安堵するが、当のシュゼットの表情は晴れない。

「心配なの。私なんかが、本当に公子様と結婚していいのか…………公子様は、国内屈指の名門公爵家の後継者。私は、ただの男爵家の娘よ。とてもつりあわないわ」

「シュゼット。誰かに何か言われたの? ひょっとして妹さんが、また文句を言ってきた?」

「いいえ。ここの人達は、みな良くしてくださるし、コレットとも、実家を出て以来、会っていないわ(シュゼットは知らなかったが、ラ・コルデール公子がコレットとの面会や手紙をすべて拒絶していた)。お父様もお母様も、お祖父様もお祖母様も、公子様との婚約をとても喜んでくださっているし…………」

「それなら心配することはないわ。『獣神』の血族にとって『運命の伴侶』は、とても大切な存在なのでしょう? 他の人達がどう言おうと、公子様に選ばれ、公爵家に認めたのはシュゼットなのだから、堂々としていればいいのよ。自信を持って」

 うんうん、とルーシーやカロリーヌもイリスの言葉に同調する。

「女学院でも、シュゼットは成績上位だったじゃない。歌だって、学院で一番上手だったわ。ただ、コレット嬢のせいで披露する場がなかっただけで」

「家庭教師もついて、公爵夫人に必要な嗜みや心得を教わっているのでしょう? シュゼットならすぐに身について、誰も出自なんて気にしなくなるわ」

「でも…………」

「シュゼット」

 垂れ気味の眉尻と目尻を下げた憂い顔の親友の目をまっすぐ見据え、イリスは真剣に訴える。

「あなたはすてきな令嬢よ、シュゼット。あなたが、あなたを知らないだけ。自分で自分の限界をせばめているの。自信を持って。あなたなら、ラ・コルデール公爵夫人も立派に務まるわ」

「そうよ」とルーシーとカロリーヌも同調するが、美しく着飾った親友の表情は晴れない。
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