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北の小国、シュネーゼ。そのとある貴族の館で、おしゃべり雀達が無責任にささやき合う。
「お聞きになりました? 『白の湖の女神姫』のお話」
「ええ、もちろん。『雪薔薇姫』のことでしょう? 今度は魔王に見初められたのですってね」
「おかげで公子殿下との婚約は解消。殿下は新たに聖女との婚約が決定したとか」
「佳人薄命。美しさも度を越せば不幸を招くとは昔から言いますけれど、あの姫ほどそれを証明なさっている方もおられませんわ。『佳人薄命の体現』とは、よく言ったものですこと」
「なんだか大変なことになりましたねぇ」
ちっとも大変と思っていなさそうな声で、ハイリヒトゥームの大神殿から駆けつけた聖女ベルティーナは、花嫁のヴェールを直した。白銀の髪にふわりとかぶせられた繊細なレースは、粉雪が散ったかのようだ。
「運命の女神様も情けのないことを。貴女は見目は女神で、頭は筋肉だけれど、根は恋する乙女の部分も持ち合わせていらっしゃるのに」
「けなしているのか、同情しているのか…………まあ、なるようにしかならないでしょう」
花嫁はすっくと立ちあがった。
衣装は流行の真紅。ベルベットの裾は引きずるほど長く、襟や袖のレースも金糸の刺繍もひかえめで、胸の下で金のベルトを締めただけのシンプルな意匠だ。それが逆に着ている者のすらりとした体つきや、しなやかな身のこなしを引き立てている。
長いヴェールに顔を隠していても、しゃんと背筋を伸ばして胸をはったその立ち姿は、大理石の女神像のように優美で気品にあふれていた。
「これを」と、聖職に就く友人が簡素な小瓶をアレクシアの手ににぎらせる。
「聖水です。聖女として友人として、あなたの多幸と武運を祈ります。どうぞ、お健やかに。――――最後まで希望は捨てないでください。凛々しい王子が助けに来てくれるかもしれませんよ、美しい姫君の危機なのですから」
「…………いっそ、物語なら良かったけど」
友人の憂いを含んだ笑みに、アレクシアもヴェールの中でひっそりと応えた。
さすがの自分も、今夜ばかりは虚勢をはりきれるか自信がない。
魔王の花嫁――――という名の生贄にされる今夜は。
(でもまあ、意地くらいは見せつけてやりたい)
愛用の竪琴をうけとったアレクシアは、ヴェールの薄霧に包まれたせまい世界で思った。
美しき黒の森と雪の湖の国、シュネーゼ公国。
その一年でもっとも緑に満ちた、輝かしい季節のある夜に。
美しき姫君が魔王の花嫁となる。
月がぽかりと浮かんでいた。満月だ。
聖女の友人に祝福を贈られ、父母との別れもすませて一刻(約二時間)ほど。
アレクシアは約束の場所、シュネーゼの南東にひろがるエーデの荒野に来ていた。
夏が終われば一面、紫色のヒースにおおわれる場所だが、初夏の今は蕾もついていない。
手頃な岩を見つけて腰かけ、愛用の竪琴をポロンポロンと奏ではじめる。流行曲がそよ風に乗って荒野にひろがりだす。
妙なる音色。そして、それ以上に優美な奏者。
月光の下、白霧のようなヴェールをかぶり、背筋をしゃんと伸ばしてしなやかな指をなめらかに動かす様は、音楽の女神の降臨と告げても疑う者はないだろう。
思いつくままに奏でていくと、だんだん曲調が激しくなってきた。
「うにゃん」と可愛らしい呑気な声が膝の上で鳴く。
「退屈ですか? 私も飽きてきたところです」
アレクシアは手をとめ、高価な花嫁衣装の裾の上に乗る愛猫をなでた。猫は嬉しそうに喉を鳴らす。
何度目のことか、周囲を見渡した。
夜の荒野には人影はむろん、羊や狼の姿もなく、夜の風もこれから起きることに遠慮しているのか怯えているのか、そよとも吹かない。月のささやきさえ聞こえてきそうな静寂の中、アレクシアはふたたび竪琴を奏でながら、我が身に起きた出来事をふりかえった。
まったく、自分はどうしてこんな所にいるのだろう。本当なら今頃はオリス公子との結婚式を挙げ、愛する夫との幸せな日々がはじまっているはずだったのに。
音色が乱れて飼い主の鬱屈が伝わったのか、「うにゃ?」と愛猫が見あげてくる。
「大丈夫ですよ」
アレクシアは手をとめずに笑った。
「やすやすと言いなりにはなりません。父、ヴァーリック・フォン・プファンクーヘンの名においても、せめて一矢報いてやります。人間の女の意地を見せてやりますとも」
懐には、聖女の友人から贈られた聖水の瓶をしまっている。
と。急に熱いほどの強風が吹きつけ、レースのヴェールが大きくあおられた。
アレクシアは手をとめ、竪琴と愛猫を抱えて立ちあがる。
月と星しか光源のなかった荒野に、赤い光が生まれて大きくふくらむ。
光は人の大きさとなって、青年へと形を変えた。
青年、ではあった。
金味を帯びた燃えるような赤い髪に、皮肉と冷笑が似合う薄めの唇、秀麗な顔立ち。たくましい体と、それを包む古風で典雅な衣装。首や手首や額には、赤い石をはめた重厚な金細工が飾られている。
なにより人の目をとらえるのは、二つの瞳。
燃えあがる炎より赤く輝くそれは、人間にはありえない力強さと吸引力を有していた。
「よく来た、花嫁よ。逃げ出すような愚か者ではなかったようだな、けっこうだ。魔族の王の妃たるもの、最低限の知性を備えて身の程をわきまえているのは重畳だ」
青年が口を開いた。よく通る良い声だった。
(ええと)と、アレクシアはひとまずあいさつすることにした。愛猫が肩に移動したので、竪琴を抱えたまま、片手で裾をつまんで一礼する。
「はじめまして。ご指名いただきました、アイスヴェルク伯爵ヴァーリック・フォン・プファンクーヘン将軍の娘、アレクシア・フォン・プファンクーヘンです。目当ての女人が賢いか否かも調べずに結婚をお決めになるとは、性急な方ですね」
玲瓏たる美声の冷ややかな口調は聞いた者を怯えさせるか、「生意気だ」と反発させるものだった。しかし魔族の王はどちらの反応も見せなかった。
妙に真剣な、不機嫌にさえ見えるまなざしと表情で、薄いヴェールの上からアレクシアの顎をつかみ、ぐい、と仰向かせる。
「そのとおりだ。まったく、魔王ともあろう者が、軽率のそしりをまぬがれぬ性急さだった。だが、わかっていても他の男に渡すわけにはいかなかった。その魂を、我が眼が見つけた瞬間から」
言うなり、赤い石の指輪をはめた魔王の手が、アレクシアのかぶっていたヴェールをはぎとる。糸の芸術品は無造作に投げ捨てられ、灌木をふわりとおおう。
花嫁の顔が露わになった。
美女だった。
それも、ただの美女ではない。世にこれほど完璧に創造された人間がいるのかと、人のみならず獣も鳥も植物さえも見惚れてしまいそうな、類い稀な美姫だ。
真紅の花嫁衣装に引き立つ雪花石膏の肌、寸分の狂いなく整った顔立ち、薔薇色の唇。背中に流れる豊かな髪には蛍石の髪飾りを挿し、月光を反射する様は銀の滝が流れるようだ。
『花の中の花』『宝石の中の宝石』『白の湖の女神姫』『雪薔薇姫』『蛍石の妖精』『シュネーゼのダイヤモンド』『公国の優美の化身』『美の女神の最高傑作』…………数えきれぬ賛辞を雨のように浴び、星のように飾ってきた、『絶世』の表現にふさわしい美貌だった。
特筆すべきはその瞳。
全体に薄い緑色だが、上の縁は濃い紫色。
蛍石によく見られるその色合いは神秘的な気品をたたえ、『蛍石をそのままはめ込んだような』と詩人達が絶賛する稀有な宝石だった。
その奇跡の双眸を、魔王の赤い瞳が凝視する。
「愚か者と嘲笑されようが、見つけたからには我が手中に収めぬわけにはいかぬ。天界の乙女よ、そなたは我の妃だ」
重苦しささえ感じる真剣な声音。
『天界の乙女』とは初めての褒め方――――などと、呑気なことを思う間もなかった。
アレクシアは顔を引き寄せられ、魔王に唇をふさがれる。
(…………っ)
正直、反射的に「斬ってやりたい」と思った。
けれどそれをしたら、家や両親や公子達に迷惑がかかる。
アレクシアはぐっとこらえた。
幸い、魔王の唇はすぐ離れた。
「我が眷属といえど、我が妃の口づけを味わわせるのは過剰な恩恵。失念していた」
意味不明な言葉を呟いて魔王は舌打ちする。
きょとんとするアレクシアに、魔王は金の指輪をはめた手を突き出した。
「来い、アレクシア・フォン・プファンクーヘン。我が赤の王城で、そなたの夫が待っている」
『王』を名乗るにふさわしい堂々たる誘い。その風格。威厳。
アレクシアも観念した。
ここで自分がこの魔族の花嫁とならねば、家も公子も危ない――――
差し出された手へと自分の手を持ちあげた、その時。
「うにゃん!」と横槍が入った。
「ねこさん」
アレクシアがあげた手に愛猫が乗り、「行くな」と主張している。
こう書くと小鳥のようだが、ねこさんは並みの猫より二回りは大きく、片手で長時間抱えるのはけっこう重労働である。
「先ほどから気になっていたが、なんだ、その下等な生き物は」
魔王は顔をしかめる。アレクシアはねこさんを片手に乗せたまま主張した。
「私の大事な友達です。侮辱するなら、王であろうと夫であろうと許しません」
魔族の王は鼻で笑った。
「友だと? 貴様は猫一匹のために魔王に逆らい、自らの命を危険にさらすというのか?」
「夫を名乗るなら、妻の友にも最低限の礼節を持って接するべきでしょう。妻の友を大事にせずに、妻を大事にすると言えるでしょうか。あなたが私の友達を粗略に扱うなら、私はあなたを夫と認めないし、あなたの友人にも礼儀正しく接することはありません。それが気に入らないなら、ここで私を殺して、私の亡骸を『妃』と呼べばいい」
アレクシアは竪琴を持つ手に力を込め、愛猫を胸に抱きなおし、その動作を利用して懐から小瓶をとり出し、手の中に隠す。
傍目には凛々しいまなざしと表情だったが、内心では緊張に張りつめていた。
愛猫を軽んじられて腹が立ったのは事実でも、人間が魔王に逆らって無事で済むとは、さすがに思っていない。いくらあちらが望んだ花嫁とはいえ、気分を害せば最悪、殺されるだろう。
そう覚悟を決めていたのだか。
「ふん」と鼻を鳴らす音が聞こえたかと思うと、魔王の手が流れるようにすばやく動いて、アレクシアの手に触れる。気づくと聖水の小瓶は魔王の手に握られていた。
魔王は無造作にそれを背後に投げ、離れた位置で瓶の割れる音が響く。
アレクシアの緊張が頂点に達した。
魔王はアレクシアの抱える竪琴に手を乗せ、顔を近づけて笑う。
「気が強いのは気に入った。王ともなると、畏敬や恐怖の視線は日常でな。怯えて何も言えぬ女は、三日で飽きる。我が妃たる女、気位くらい高くなくてはな」
面白そうに細められた赤い瞳がアレクシアの白いかたい手をとり、口づける。
そのまま愛猫ごと手を引かれ、魔王の城に連れていかれるのか、とアレクシアが思った、その時。
ごうっ、と洪水のような光が押し寄せ、周囲が一気に明るくなった。
「!?」
魔王は動きをとめ、人間のアレクシアも突然のまぶしさにまばたきをくりかえす。
蛍石の瞳に映ったのは、ひらひら飛ぶ蝶。
それも一匹二匹ではない。二百を超す群れが押し寄せ、夜空の下を飛びかっている。
「白い…………光の蝶?」
アレクシアは瞬きした。
蝶は一羽一羽が青白く光り、おかげで周囲は真昼のように明るい。一匹、アレクシアの頬のすぐそばをかすめていき、それで蝶が熱も放っていることに気づいた。
青白く燃える蝶なのだ。
「いったい、どこから…………」
アレクシアは竪琴を抱えなおし、ねこさんは「うにゃっ」と彼女の肩にのぼって、飼い主が両手を動かせるよう計らう。
「天界の宝物――――人間どものいう『聖遺物』だな。聖遺物使いが来たか」
『聖遺物』という魔王の言葉に、アレクシアも竪琴をかまえる。
すると。
「お、いた。あそこだ」
魔王と花嫁と猫以外、誰もいなかった荒野に三人目の声が響いた。
青白い蝶の群れの中、背の高い人影が長い腕をふりつつ、こちらにやって来る。
「おーい、アンタが魔王?」
青白く輝く長い刃を肩に担いだ人影は、アレクシア達の前までやってくると名乗った。
「フリューリングフルス王国第四王子、ジークフリートだ。アンタと戦いに来た」
『散歩に行こう』くらいの口調だった。
「お聞きになりました? 『白の湖の女神姫』のお話」
「ええ、もちろん。『雪薔薇姫』のことでしょう? 今度は魔王に見初められたのですってね」
「おかげで公子殿下との婚約は解消。殿下は新たに聖女との婚約が決定したとか」
「佳人薄命。美しさも度を越せば不幸を招くとは昔から言いますけれど、あの姫ほどそれを証明なさっている方もおられませんわ。『佳人薄命の体現』とは、よく言ったものですこと」
「なんだか大変なことになりましたねぇ」
ちっとも大変と思っていなさそうな声で、ハイリヒトゥームの大神殿から駆けつけた聖女ベルティーナは、花嫁のヴェールを直した。白銀の髪にふわりとかぶせられた繊細なレースは、粉雪が散ったかのようだ。
「運命の女神様も情けのないことを。貴女は見目は女神で、頭は筋肉だけれど、根は恋する乙女の部分も持ち合わせていらっしゃるのに」
「けなしているのか、同情しているのか…………まあ、なるようにしかならないでしょう」
花嫁はすっくと立ちあがった。
衣装は流行の真紅。ベルベットの裾は引きずるほど長く、襟や袖のレースも金糸の刺繍もひかえめで、胸の下で金のベルトを締めただけのシンプルな意匠だ。それが逆に着ている者のすらりとした体つきや、しなやかな身のこなしを引き立てている。
長いヴェールに顔を隠していても、しゃんと背筋を伸ばして胸をはったその立ち姿は、大理石の女神像のように優美で気品にあふれていた。
「これを」と、聖職に就く友人が簡素な小瓶をアレクシアの手ににぎらせる。
「聖水です。聖女として友人として、あなたの多幸と武運を祈ります。どうぞ、お健やかに。――――最後まで希望は捨てないでください。凛々しい王子が助けに来てくれるかもしれませんよ、美しい姫君の危機なのですから」
「…………いっそ、物語なら良かったけど」
友人の憂いを含んだ笑みに、アレクシアもヴェールの中でひっそりと応えた。
さすがの自分も、今夜ばかりは虚勢をはりきれるか自信がない。
魔王の花嫁――――という名の生贄にされる今夜は。
(でもまあ、意地くらいは見せつけてやりたい)
愛用の竪琴をうけとったアレクシアは、ヴェールの薄霧に包まれたせまい世界で思った。
美しき黒の森と雪の湖の国、シュネーゼ公国。
その一年でもっとも緑に満ちた、輝かしい季節のある夜に。
美しき姫君が魔王の花嫁となる。
月がぽかりと浮かんでいた。満月だ。
聖女の友人に祝福を贈られ、父母との別れもすませて一刻(約二時間)ほど。
アレクシアは約束の場所、シュネーゼの南東にひろがるエーデの荒野に来ていた。
夏が終われば一面、紫色のヒースにおおわれる場所だが、初夏の今は蕾もついていない。
手頃な岩を見つけて腰かけ、愛用の竪琴をポロンポロンと奏ではじめる。流行曲がそよ風に乗って荒野にひろがりだす。
妙なる音色。そして、それ以上に優美な奏者。
月光の下、白霧のようなヴェールをかぶり、背筋をしゃんと伸ばしてしなやかな指をなめらかに動かす様は、音楽の女神の降臨と告げても疑う者はないだろう。
思いつくままに奏でていくと、だんだん曲調が激しくなってきた。
「うにゃん」と可愛らしい呑気な声が膝の上で鳴く。
「退屈ですか? 私も飽きてきたところです」
アレクシアは手をとめ、高価な花嫁衣装の裾の上に乗る愛猫をなでた。猫は嬉しそうに喉を鳴らす。
何度目のことか、周囲を見渡した。
夜の荒野には人影はむろん、羊や狼の姿もなく、夜の風もこれから起きることに遠慮しているのか怯えているのか、そよとも吹かない。月のささやきさえ聞こえてきそうな静寂の中、アレクシアはふたたび竪琴を奏でながら、我が身に起きた出来事をふりかえった。
まったく、自分はどうしてこんな所にいるのだろう。本当なら今頃はオリス公子との結婚式を挙げ、愛する夫との幸せな日々がはじまっているはずだったのに。
音色が乱れて飼い主の鬱屈が伝わったのか、「うにゃ?」と愛猫が見あげてくる。
「大丈夫ですよ」
アレクシアは手をとめずに笑った。
「やすやすと言いなりにはなりません。父、ヴァーリック・フォン・プファンクーヘンの名においても、せめて一矢報いてやります。人間の女の意地を見せてやりますとも」
懐には、聖女の友人から贈られた聖水の瓶をしまっている。
と。急に熱いほどの強風が吹きつけ、レースのヴェールが大きくあおられた。
アレクシアは手をとめ、竪琴と愛猫を抱えて立ちあがる。
月と星しか光源のなかった荒野に、赤い光が生まれて大きくふくらむ。
光は人の大きさとなって、青年へと形を変えた。
青年、ではあった。
金味を帯びた燃えるような赤い髪に、皮肉と冷笑が似合う薄めの唇、秀麗な顔立ち。たくましい体と、それを包む古風で典雅な衣装。首や手首や額には、赤い石をはめた重厚な金細工が飾られている。
なにより人の目をとらえるのは、二つの瞳。
燃えあがる炎より赤く輝くそれは、人間にはありえない力強さと吸引力を有していた。
「よく来た、花嫁よ。逃げ出すような愚か者ではなかったようだな、けっこうだ。魔族の王の妃たるもの、最低限の知性を備えて身の程をわきまえているのは重畳だ」
青年が口を開いた。よく通る良い声だった。
(ええと)と、アレクシアはひとまずあいさつすることにした。愛猫が肩に移動したので、竪琴を抱えたまま、片手で裾をつまんで一礼する。
「はじめまして。ご指名いただきました、アイスヴェルク伯爵ヴァーリック・フォン・プファンクーヘン将軍の娘、アレクシア・フォン・プファンクーヘンです。目当ての女人が賢いか否かも調べずに結婚をお決めになるとは、性急な方ですね」
玲瓏たる美声の冷ややかな口調は聞いた者を怯えさせるか、「生意気だ」と反発させるものだった。しかし魔族の王はどちらの反応も見せなかった。
妙に真剣な、不機嫌にさえ見えるまなざしと表情で、薄いヴェールの上からアレクシアの顎をつかみ、ぐい、と仰向かせる。
「そのとおりだ。まったく、魔王ともあろう者が、軽率のそしりをまぬがれぬ性急さだった。だが、わかっていても他の男に渡すわけにはいかなかった。その魂を、我が眼が見つけた瞬間から」
言うなり、赤い石の指輪をはめた魔王の手が、アレクシアのかぶっていたヴェールをはぎとる。糸の芸術品は無造作に投げ捨てられ、灌木をふわりとおおう。
花嫁の顔が露わになった。
美女だった。
それも、ただの美女ではない。世にこれほど完璧に創造された人間がいるのかと、人のみならず獣も鳥も植物さえも見惚れてしまいそうな、類い稀な美姫だ。
真紅の花嫁衣装に引き立つ雪花石膏の肌、寸分の狂いなく整った顔立ち、薔薇色の唇。背中に流れる豊かな髪には蛍石の髪飾りを挿し、月光を反射する様は銀の滝が流れるようだ。
『花の中の花』『宝石の中の宝石』『白の湖の女神姫』『雪薔薇姫』『蛍石の妖精』『シュネーゼのダイヤモンド』『公国の優美の化身』『美の女神の最高傑作』…………数えきれぬ賛辞を雨のように浴び、星のように飾ってきた、『絶世』の表現にふさわしい美貌だった。
特筆すべきはその瞳。
全体に薄い緑色だが、上の縁は濃い紫色。
蛍石によく見られるその色合いは神秘的な気品をたたえ、『蛍石をそのままはめ込んだような』と詩人達が絶賛する稀有な宝石だった。
その奇跡の双眸を、魔王の赤い瞳が凝視する。
「愚か者と嘲笑されようが、見つけたからには我が手中に収めぬわけにはいかぬ。天界の乙女よ、そなたは我の妃だ」
重苦しささえ感じる真剣な声音。
『天界の乙女』とは初めての褒め方――――などと、呑気なことを思う間もなかった。
アレクシアは顔を引き寄せられ、魔王に唇をふさがれる。
(…………っ)
正直、反射的に「斬ってやりたい」と思った。
けれどそれをしたら、家や両親や公子達に迷惑がかかる。
アレクシアはぐっとこらえた。
幸い、魔王の唇はすぐ離れた。
「我が眷属といえど、我が妃の口づけを味わわせるのは過剰な恩恵。失念していた」
意味不明な言葉を呟いて魔王は舌打ちする。
きょとんとするアレクシアに、魔王は金の指輪をはめた手を突き出した。
「来い、アレクシア・フォン・プファンクーヘン。我が赤の王城で、そなたの夫が待っている」
『王』を名乗るにふさわしい堂々たる誘い。その風格。威厳。
アレクシアも観念した。
ここで自分がこの魔族の花嫁とならねば、家も公子も危ない――――
差し出された手へと自分の手を持ちあげた、その時。
「うにゃん!」と横槍が入った。
「ねこさん」
アレクシアがあげた手に愛猫が乗り、「行くな」と主張している。
こう書くと小鳥のようだが、ねこさんは並みの猫より二回りは大きく、片手で長時間抱えるのはけっこう重労働である。
「先ほどから気になっていたが、なんだ、その下等な生き物は」
魔王は顔をしかめる。アレクシアはねこさんを片手に乗せたまま主張した。
「私の大事な友達です。侮辱するなら、王であろうと夫であろうと許しません」
魔族の王は鼻で笑った。
「友だと? 貴様は猫一匹のために魔王に逆らい、自らの命を危険にさらすというのか?」
「夫を名乗るなら、妻の友にも最低限の礼節を持って接するべきでしょう。妻の友を大事にせずに、妻を大事にすると言えるでしょうか。あなたが私の友達を粗略に扱うなら、私はあなたを夫と認めないし、あなたの友人にも礼儀正しく接することはありません。それが気に入らないなら、ここで私を殺して、私の亡骸を『妃』と呼べばいい」
アレクシアは竪琴を持つ手に力を込め、愛猫を胸に抱きなおし、その動作を利用して懐から小瓶をとり出し、手の中に隠す。
傍目には凛々しいまなざしと表情だったが、内心では緊張に張りつめていた。
愛猫を軽んじられて腹が立ったのは事実でも、人間が魔王に逆らって無事で済むとは、さすがに思っていない。いくらあちらが望んだ花嫁とはいえ、気分を害せば最悪、殺されるだろう。
そう覚悟を決めていたのだか。
「ふん」と鼻を鳴らす音が聞こえたかと思うと、魔王の手が流れるようにすばやく動いて、アレクシアの手に触れる。気づくと聖水の小瓶は魔王の手に握られていた。
魔王は無造作にそれを背後に投げ、離れた位置で瓶の割れる音が響く。
アレクシアの緊張が頂点に達した。
魔王はアレクシアの抱える竪琴に手を乗せ、顔を近づけて笑う。
「気が強いのは気に入った。王ともなると、畏敬や恐怖の視線は日常でな。怯えて何も言えぬ女は、三日で飽きる。我が妃たる女、気位くらい高くなくてはな」
面白そうに細められた赤い瞳がアレクシアの白いかたい手をとり、口づける。
そのまま愛猫ごと手を引かれ、魔王の城に連れていかれるのか、とアレクシアが思った、その時。
ごうっ、と洪水のような光が押し寄せ、周囲が一気に明るくなった。
「!?」
魔王は動きをとめ、人間のアレクシアも突然のまぶしさにまばたきをくりかえす。
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それも一匹二匹ではない。二百を超す群れが押し寄せ、夜空の下を飛びかっている。
「白い…………光の蝶?」
アレクシアは瞬きした。
蝶は一羽一羽が青白く光り、おかげで周囲は真昼のように明るい。一匹、アレクシアの頬のすぐそばをかすめていき、それで蝶が熱も放っていることに気づいた。
青白く燃える蝶なのだ。
「いったい、どこから…………」
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『聖遺物』という魔王の言葉に、アレクシアも竪琴をかまえる。
すると。
「お、いた。あそこだ」
魔王と花嫁と猫以外、誰もいなかった荒野に三人目の声が響いた。
青白い蝶の群れの中、背の高い人影が長い腕をふりつつ、こちらにやって来る。
「おーい、アンタが魔王?」
青白く輝く長い刃を肩に担いだ人影は、アレクシア達の前までやってくると名乗った。
「フリューリングフルス王国第四王子、ジークフリートだ。アンタと戦いに来た」
『散歩に行こう』くらいの口調だった。
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