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しばらくステラはなにが起きたか理解できなかった。
おぞましい悪魔におおいかぶられ、恐ろしさに目を閉じたら轟音が響いて、気づくと体の上から重みがなくなっていた。
おそるおそる瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは一対の黒い大きな翼。それから長い黒髪と黒い服。雪花石膏の横顔の、紫紺の瞳がステラを見下ろしている。
「――――立てるか?」
「ナイトメア様…………」
己の見ている光景が信じられなかった。
「どうしてここに…………」
ナイトメアは答えず、ステラの手をとった。長い指がステラの左の中指に触れる。
「指輪…………」
この指輪のおかげだ、とステラは理解した。
「怪我は?」
素っ気ない口調。けれどステラに向けられた紫紺の瞳には、真剣に案ずる光がのぞいている。
「怪我は…………特にないかと…………」
いそいで長椅子から立ちあがろうとすると、膝の力が抜けた。その場に座り込んでしまう。
「え、どうして…………」
足に力が入らない。指先が小刻みにふるえている。
長い腕が伸びてきて、ステラの華奢な体を立ちあがらせた。
ステラはナイトメアの腕に支えられ、彼の胸に寄りかかる体勢となる。
彼の存在、彼の体格を密接に感じて、一気に感情が決壊した。
「…………っ!」
思わず、人外の青年の胸に顔をうずめて呻く。
「恐ろしかった…………っ」
しぼり出したその一言に、ナイトメアの大きな手が鳶色の頭にのせられようとする。それを邪魔するかのように。
「何事!? なんの騒ぎ!?」
高い声を不愉快そうに響かせて。華やかなローズレッドのティータイム用ドレスを着た王太子妃セアラが飛び込んでくる。
室内の惨状を一目見て言葉を失った。
「え? え? どういうこと!?」
王太子妃専用茶話室は散々な有様だった。
金箔が貼られた白い壁は黒く焼け焦げ、厚地の真紅のカーテンもボロボロ。同じく真紅のビロードを張った猫足のソファはひっくり返って、花を活けていた高価な陶器も粉々だった。
この部屋の修繕だけで、金貨が何百枚と飛んでいくだろう。
モザイク模様の床にサマースカイ侯爵が気を失って転がっている。
「行くぞ」
ナイトメアはセアラの混乱には頓着せず、腕の中に隠すようにステラを抱いて、窓へ誘う。
ガラスがすべて割れた窓は大きく、開ければそのまま庭園に出られる造りになっており、ここから空を飛んで帰るつもりなのだろう、とステラは推測したのだが。
複数の足音が飛び込んできた。王太子ハーバートと二、三人の侍従だ。
「何事だ!? これは、いったい…………!」
彼らも茶話室の惨状に目を丸くしたが、ハーバートは目ざとく窓辺の存在を見つけた。
一人は鳶色の髪にライムグリーンの瞳の、愛らしい少女。
そしてもう一人は――――
「化け物…………!」
有翼の青年を目にした途端、ハーバートの青い瞳に強い敵意がぎらつき出す。侍従達も「ひいっ!」と悲鳴をあげてあとずさる。
「化け物――――か」
「ナイトメア様…………っ」
ナイトメアの、自嘲のようでありながら奥に強い怒りを孕んだ声音に気づいて、ステラは彼の黒い袖を強く握る。「怒らないで」と「傷つかないで」という、二つの気持ちが込められた声。見あげてくるライムグリーンの瞳の、心配そうなまなざし。
ナイトメアは平静をとり戻す。
『世界にとっての悪夢』と定められた存在が、矮小な人間の一言一言にいちいち揺さぶられるなど、情けないことだ。
「行くぞ」
と、再度ステラをうながしたのだが。
「待て!!」
ハーバートが声をあげた。
警備の兵も数名、轟音を聞いて駆けつけ、窓際の異形の不審者へと槍の先を向ける。
彼らの背に守られる格好でハーバートが怒鳴った。
「動くな! ステラを離せ! 殺されたくなければ、彼女から離れろ!!」
ハーバートの剣幕と主張にステラは動揺するが、ナイトメアは平然としている。
「え、殺すって…………」
セアラが戸惑うが、ハーバートは新妻を気遣うそぶりもなく、視線さえ向けない。
ナイトメアもハーバートを無視して窓を開け、ステラを連れて出て行こうとする。
「動くなと言ってるだろ!!」
ハーバートは怒鳴り、兵士達が不審者を捕えようと踏み込んだが、異形の青年は武器をかまえた男達を警戒する風もなく、無造作に空いている方の腕を横に払った。
途端、真っ黒い稲妻が兵士達を襲い、全員が悲鳴をあげて床に転がる。
「な…………」
ハーバートと侍従達が唖然と立ち尽くす。
「ナ、ナイトメア様…………!」
「気絶させただけだ。大きな怪我もない」
驚き、兵士達を案ずるステラに、ナイトメアはさらりと説明する。
今度こそ茶話室を出ようとすると「待って!」と服の裾をつかむ手があった。
「どういうこと!? ナイトメアはもっと後の登場でしょ!? それに、なんでその女を助けるのよ!?」
「セアラ様?」
「ナイトメアは『この世界にとっての悪夢』と呼ばれる魔王で、その運命を悲嘆していて、主人公の悪役令嬢であるセアラに救われて、セアラを愛するようになるキャラじゃない! 最終的には、ヒーローのレオン達と一緒にセアラを溺愛するのよ!? それがどうしてステラを助けるのよ、正ヒロインのヒドインじゃない!!」
ステラは耳を疑った。
「セアラ様、それはどういう意味ですか?」
今、セアラはたしかに『世界の悪夢』と言った。『悪役』とか『令嬢』とか『ヒロイン』とも。
ナイトメアと初めて出会った彼女が、何故そんなことを知っているのか。
ステラの脳裏に母の言葉がよみがえる。
『あなたは乙女ゲーム上はヒロインだけれど、物語としては悪役の令嬢で、公爵令嬢がゲーム上の悪役令嬢だけれど、物語としては主人公で…………ややこしいわね。いいわ。とにかく、今はあなたが悪役の令嬢と考えておいて』
ステラの母から『やがてコウリャクタイショウの殿方達と、世界を救う運命にある令嬢』と予言されていたセアラ・スプリングフィールド公爵令嬢。
まさか彼女は、すでに自分の運命を知っているのか?
ならば『いずれ世界を滅ぼす』という、ステラの運命も――――
「くだらん」
ステラの疑念もセアラの混乱も切り捨てて。
ナイトメアが断言する。
「貴様が何故、その呼び名を知っているかは知らんが。貴様の語る運命など知ったことか。俺は――――」
紫紺の瞳がまっすぐにステラを見た。
「自分の運命は自分で決める」
(ああ)
ステラも悟った。
『自分の運命は自分で決める』
それだけだ。
ただ、それだけなのだ。
(お母さま)
「はい――――…………」
ステラは己の肩に置かれたナイトメアの手に自分の手を重ね、紫紺の瞳を正面から見つめ返して短くうなずく。
それは二人の間でだけ通じるやりとり。
互いの心をさらけ合った者同士だから伝わる、大事な言葉。
「わたしの運命は、私の意志で――――決めます」
澄んだライムグリーンの瞳が決意にきらめく。
ナイトメアはうなずき返し――――淡く、けれどはっきりと笑みを浮かべた。
ステラは初めて見る彼のほほ笑みに、ぽうっと見惚れる。そこへ。
「なに、二人の世界を作ってるのよ!!」
セアラの甲高い声が空気を引き裂く。
「ナイトメアは私の、セアラのものよ!! レオンが来なくて馬鹿王子のハーバートと結婚せざるをえなかったんだもの、せめてナイトメアくらいは溺愛してもらわないと、割に合わないわよ!! あんたはさっさと追放されなさいよ、このヒドイン!!」
「あっ!」
セアラは力いっぱいステラを突き飛ばした。
ステラは窓の縁に肩をぶつけて、膝を折りそうになる。
「なにをする!」
ナイトメアが怒りの声をあげ、黒い稲妻がセアラを襲った。
セアラは悲鳴をあげて吹き飛び、壁に叩きつけられる。
「ステラ…………!」
「大丈夫です…………」
肩を押えるステラを抱えようとして、ナイトメアは完全に室内に背をむける。
その、ナイトメアの全注意がステラに集中した、一瞬の隙を狙って。
「失せろ! 化け物!!」
ハーバートが全脚力をこめて突進してきた。
彼の手には長めの短剣が握られている。
「ステラは私のものだ! ハーバートのオレに惚れるキャラなんだよ!!」
「ナイトメア様!!」
甲高い悲鳴があがり、短剣の刃が深々と生身の肉に突き刺さる。
一見、殺傷力の低そうなそれは、神殿で浄化の力を授かった、強力な聖なる武器だった。
ステラが呻く。
「ステラ!?」
『世界にとっての悪夢』が驚愕に目をみはる。
ハーバートの短剣が貫いたのは、人間の少女の腹だった。
ナイトメアより先に気づいたステラが、彼をかばって飛び出したのだ。
「な…………どうして…………っ」
ハーバートは思わず短剣から手を離し、青ざめ、後退
る。
「ステラ!!」
ナイトメアが倒れかけるステラを抱きとめる。
華奢な体は力を失い、腹に刺さった刃の縁から赤い液体がにじんで、ドレスに染みていく。
「ナイトメア、様…………」
小さな手が弱々しくあげられる。
ナイトメアはその手をにぎりしめていた。
「わたし…………自分で、自分の運命を…………決め、ま…………」
「ステラ――――!!」
大音響が響いた。
王宮にいた誰もかれもが度肝を抜かれて、その音の発生源を確かめようとするが、あまりに大きな音はどこから聞こえているか判別もできない。
黒い霧のような魔力が嵐のようにあふれて、セアラ達を襲った。
「なんだこれは!?」
「ナイトメア! ナイトメア、やめて!!」
ハーバートが、セアラが叫ぶが、効き目はない。
『世界にとっての悪夢』と定められた青年は黒い翼をひろげ、長い髪を逆巻いて少女を胸に抱いていた。彼の翼から強力な魔力が怒涛のごとくあふれて、一秒ごとに嵐は威力を増していく。
「ナイトメア、聞いて!」
突風にあおられる長い髪や裾に難儀しつつ、セアラはナイトメアへと声をはりあげる。
「『私、知っているの』! 『あなたは寂しかったのよね』! 『私は知っているわ、あなたが本当は優しい人だってこと』!!」
ハーバートは「突然なにを言い出すのか」と、セアラを見た。
「『あなたは怒っていただけよ』! 『理不尽な望まない運命に怒っていただけ』! ええと、『あなたは悪夢なんかじゃない』! 『私が証明するわ』!!
ええと…………ねぇ、聞いてる、ナイトメア!? どうして効果がないのよ、原作はこういう風に」
「うるさい」もしくは「邪魔だ」とでも言わんばかりに、黒い稲妻が飛んできた。
セアラは悲鳴をあげ、力づくで黙らされる。
ナイトメアはすべてを呪いたい気持ちだった。
どうしてステラがこんな目に遭う。
どうして彼女がこんな目に遭わなければならない。
そして気づいた。
自分にとってステラは運命に対する対抗策だった。
ステラに優しくし、彼女に喜んでもらうことで、自分にさだめられた『悪夢』という運命をくつがえすことができるような、逃れることができるような気がした。
だから彼女に優しくした。共に逃げようとした。
だが、そうではない。
「俺が…………そうしたかっただけだ――――」
ナイトメア自身が、ステラに優しくしたかった。笑わせたかった。笑ってほしかった。
理不尽な運命も対抗策もどうでもいい。
ナイトメア自身が、ただステラを幸せにしたかった、守りたかっただけなのだ――――
「ステラ…………!!」
彼女の肩を抱く手に力が入り、あふれる魔力がいっそう強くほとばしって、視界のすべてを埋め尽くそうとする。見える世界一帯を壊そうとする。
茶話室の壁が砕けて、天井が吹き飛んだ。誰かの悲鳴が聞こえた気がしたが、どうでもいい。
(すべて消えてしまえばいい)
本気でそう思った。
その時。
小さな声が耳に届く。
「ナイト、メア、さ…………」
とっさに腕の中を見おろす。
小さな唇がかろうじて動いていた。
人間には聞きとれない、人外だったからこそ聞きとれた、しぼり出すようなか細い声。
「どうか…………一緒に…………わたし、あなたと共に…………」
潤んだライムグリーンの瞳が、ナイトメアを見つめる。
ああそうだ、とナイトメアは我に返った。
こんなことをしている場合ではない。こんな所でぐずぐずしている場合ではないのだ。
「わかった」
吹き荒れていた魔力の嵐が嘘のようにぴたりとやむ。
「すぐに行く」
黒い翼を大きくひろげ、力強く羽ばたいた。
少女を抱えた体が空へと飛びあがり、あっと言う間に見えなくなる。
あとにはめちゃくちゃに破壊されて、部屋とすら表現できなくなった茶話室が残された。
少女と悪夢は飛びつづける。
どこまでも、どこまでも、二人が一緒にいられる場所へ――――
おぞましい悪魔におおいかぶられ、恐ろしさに目を閉じたら轟音が響いて、気づくと体の上から重みがなくなっていた。
おそるおそる瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは一対の黒い大きな翼。それから長い黒髪と黒い服。雪花石膏の横顔の、紫紺の瞳がステラを見下ろしている。
「――――立てるか?」
「ナイトメア様…………」
己の見ている光景が信じられなかった。
「どうしてここに…………」
ナイトメアは答えず、ステラの手をとった。長い指がステラの左の中指に触れる。
「指輪…………」
この指輪のおかげだ、とステラは理解した。
「怪我は?」
素っ気ない口調。けれどステラに向けられた紫紺の瞳には、真剣に案ずる光がのぞいている。
「怪我は…………特にないかと…………」
いそいで長椅子から立ちあがろうとすると、膝の力が抜けた。その場に座り込んでしまう。
「え、どうして…………」
足に力が入らない。指先が小刻みにふるえている。
長い腕が伸びてきて、ステラの華奢な体を立ちあがらせた。
ステラはナイトメアの腕に支えられ、彼の胸に寄りかかる体勢となる。
彼の存在、彼の体格を密接に感じて、一気に感情が決壊した。
「…………っ!」
思わず、人外の青年の胸に顔をうずめて呻く。
「恐ろしかった…………っ」
しぼり出したその一言に、ナイトメアの大きな手が鳶色の頭にのせられようとする。それを邪魔するかのように。
「何事!? なんの騒ぎ!?」
高い声を不愉快そうに響かせて。華やかなローズレッドのティータイム用ドレスを着た王太子妃セアラが飛び込んでくる。
室内の惨状を一目見て言葉を失った。
「え? え? どういうこと!?」
王太子妃専用茶話室は散々な有様だった。
金箔が貼られた白い壁は黒く焼け焦げ、厚地の真紅のカーテンもボロボロ。同じく真紅のビロードを張った猫足のソファはひっくり返って、花を活けていた高価な陶器も粉々だった。
この部屋の修繕だけで、金貨が何百枚と飛んでいくだろう。
モザイク模様の床にサマースカイ侯爵が気を失って転がっている。
「行くぞ」
ナイトメアはセアラの混乱には頓着せず、腕の中に隠すようにステラを抱いて、窓へ誘う。
ガラスがすべて割れた窓は大きく、開ければそのまま庭園に出られる造りになっており、ここから空を飛んで帰るつもりなのだろう、とステラは推測したのだが。
複数の足音が飛び込んできた。王太子ハーバートと二、三人の侍従だ。
「何事だ!? これは、いったい…………!」
彼らも茶話室の惨状に目を丸くしたが、ハーバートは目ざとく窓辺の存在を見つけた。
一人は鳶色の髪にライムグリーンの瞳の、愛らしい少女。
そしてもう一人は――――
「化け物…………!」
有翼の青年を目にした途端、ハーバートの青い瞳に強い敵意がぎらつき出す。侍従達も「ひいっ!」と悲鳴をあげてあとずさる。
「化け物――――か」
「ナイトメア様…………っ」
ナイトメアの、自嘲のようでありながら奥に強い怒りを孕んだ声音に気づいて、ステラは彼の黒い袖を強く握る。「怒らないで」と「傷つかないで」という、二つの気持ちが込められた声。見あげてくるライムグリーンの瞳の、心配そうなまなざし。
ナイトメアは平静をとり戻す。
『世界にとっての悪夢』と定められた存在が、矮小な人間の一言一言にいちいち揺さぶられるなど、情けないことだ。
「行くぞ」
と、再度ステラをうながしたのだが。
「待て!!」
ハーバートが声をあげた。
警備の兵も数名、轟音を聞いて駆けつけ、窓際の異形の不審者へと槍の先を向ける。
彼らの背に守られる格好でハーバートが怒鳴った。
「動くな! ステラを離せ! 殺されたくなければ、彼女から離れろ!!」
ハーバートの剣幕と主張にステラは動揺するが、ナイトメアは平然としている。
「え、殺すって…………」
セアラが戸惑うが、ハーバートは新妻を気遣うそぶりもなく、視線さえ向けない。
ナイトメアもハーバートを無視して窓を開け、ステラを連れて出て行こうとする。
「動くなと言ってるだろ!!」
ハーバートは怒鳴り、兵士達が不審者を捕えようと踏み込んだが、異形の青年は武器をかまえた男達を警戒する風もなく、無造作に空いている方の腕を横に払った。
途端、真っ黒い稲妻が兵士達を襲い、全員が悲鳴をあげて床に転がる。
「な…………」
ハーバートと侍従達が唖然と立ち尽くす。
「ナ、ナイトメア様…………!」
「気絶させただけだ。大きな怪我もない」
驚き、兵士達を案ずるステラに、ナイトメアはさらりと説明する。
今度こそ茶話室を出ようとすると「待って!」と服の裾をつかむ手があった。
「どういうこと!? ナイトメアはもっと後の登場でしょ!? それに、なんでその女を助けるのよ!?」
「セアラ様?」
「ナイトメアは『この世界にとっての悪夢』と呼ばれる魔王で、その運命を悲嘆していて、主人公の悪役令嬢であるセアラに救われて、セアラを愛するようになるキャラじゃない! 最終的には、ヒーローのレオン達と一緒にセアラを溺愛するのよ!? それがどうしてステラを助けるのよ、正ヒロインのヒドインじゃない!!」
ステラは耳を疑った。
「セアラ様、それはどういう意味ですか?」
今、セアラはたしかに『世界の悪夢』と言った。『悪役』とか『令嬢』とか『ヒロイン』とも。
ナイトメアと初めて出会った彼女が、何故そんなことを知っているのか。
ステラの脳裏に母の言葉がよみがえる。
『あなたは乙女ゲーム上はヒロインだけれど、物語としては悪役の令嬢で、公爵令嬢がゲーム上の悪役令嬢だけれど、物語としては主人公で…………ややこしいわね。いいわ。とにかく、今はあなたが悪役の令嬢と考えておいて』
ステラの母から『やがてコウリャクタイショウの殿方達と、世界を救う運命にある令嬢』と予言されていたセアラ・スプリングフィールド公爵令嬢。
まさか彼女は、すでに自分の運命を知っているのか?
ならば『いずれ世界を滅ぼす』という、ステラの運命も――――
「くだらん」
ステラの疑念もセアラの混乱も切り捨てて。
ナイトメアが断言する。
「貴様が何故、その呼び名を知っているかは知らんが。貴様の語る運命など知ったことか。俺は――――」
紫紺の瞳がまっすぐにステラを見た。
「自分の運命は自分で決める」
(ああ)
ステラも悟った。
『自分の運命は自分で決める』
それだけだ。
ただ、それだけなのだ。
(お母さま)
「はい――――…………」
ステラは己の肩に置かれたナイトメアの手に自分の手を重ね、紫紺の瞳を正面から見つめ返して短くうなずく。
それは二人の間でだけ通じるやりとり。
互いの心をさらけ合った者同士だから伝わる、大事な言葉。
「わたしの運命は、私の意志で――――決めます」
澄んだライムグリーンの瞳が決意にきらめく。
ナイトメアはうなずき返し――――淡く、けれどはっきりと笑みを浮かべた。
ステラは初めて見る彼のほほ笑みに、ぽうっと見惚れる。そこへ。
「なに、二人の世界を作ってるのよ!!」
セアラの甲高い声が空気を引き裂く。
「ナイトメアは私の、セアラのものよ!! レオンが来なくて馬鹿王子のハーバートと結婚せざるをえなかったんだもの、せめてナイトメアくらいは溺愛してもらわないと、割に合わないわよ!! あんたはさっさと追放されなさいよ、このヒドイン!!」
「あっ!」
セアラは力いっぱいステラを突き飛ばした。
ステラは窓の縁に肩をぶつけて、膝を折りそうになる。
「なにをする!」
ナイトメアが怒りの声をあげ、黒い稲妻がセアラを襲った。
セアラは悲鳴をあげて吹き飛び、壁に叩きつけられる。
「ステラ…………!」
「大丈夫です…………」
肩を押えるステラを抱えようとして、ナイトメアは完全に室内に背をむける。
その、ナイトメアの全注意がステラに集中した、一瞬の隙を狙って。
「失せろ! 化け物!!」
ハーバートが全脚力をこめて突進してきた。
彼の手には長めの短剣が握られている。
「ステラは私のものだ! ハーバートのオレに惚れるキャラなんだよ!!」
「ナイトメア様!!」
甲高い悲鳴があがり、短剣の刃が深々と生身の肉に突き刺さる。
一見、殺傷力の低そうなそれは、神殿で浄化の力を授かった、強力な聖なる武器だった。
ステラが呻く。
「ステラ!?」
『世界にとっての悪夢』が驚愕に目をみはる。
ハーバートの短剣が貫いたのは、人間の少女の腹だった。
ナイトメアより先に気づいたステラが、彼をかばって飛び出したのだ。
「な…………どうして…………っ」
ハーバートは思わず短剣から手を離し、青ざめ、後退
る。
「ステラ!!」
ナイトメアが倒れかけるステラを抱きとめる。
華奢な体は力を失い、腹に刺さった刃の縁から赤い液体がにじんで、ドレスに染みていく。
「ナイトメア、様…………」
小さな手が弱々しくあげられる。
ナイトメアはその手をにぎりしめていた。
「わたし…………自分で、自分の運命を…………決め、ま…………」
「ステラ――――!!」
大音響が響いた。
王宮にいた誰もかれもが度肝を抜かれて、その音の発生源を確かめようとするが、あまりに大きな音はどこから聞こえているか判別もできない。
黒い霧のような魔力が嵐のようにあふれて、セアラ達を襲った。
「なんだこれは!?」
「ナイトメア! ナイトメア、やめて!!」
ハーバートが、セアラが叫ぶが、効き目はない。
『世界にとっての悪夢』と定められた青年は黒い翼をひろげ、長い髪を逆巻いて少女を胸に抱いていた。彼の翼から強力な魔力が怒涛のごとくあふれて、一秒ごとに嵐は威力を増していく。
「ナイトメア、聞いて!」
突風にあおられる長い髪や裾に難儀しつつ、セアラはナイトメアへと声をはりあげる。
「『私、知っているの』! 『あなたは寂しかったのよね』! 『私は知っているわ、あなたが本当は優しい人だってこと』!!」
ハーバートは「突然なにを言い出すのか」と、セアラを見た。
「『あなたは怒っていただけよ』! 『理不尽な望まない運命に怒っていただけ』! ええと、『あなたは悪夢なんかじゃない』! 『私が証明するわ』!!
ええと…………ねぇ、聞いてる、ナイトメア!? どうして効果がないのよ、原作はこういう風に」
「うるさい」もしくは「邪魔だ」とでも言わんばかりに、黒い稲妻が飛んできた。
セアラは悲鳴をあげ、力づくで黙らされる。
ナイトメアはすべてを呪いたい気持ちだった。
どうしてステラがこんな目に遭う。
どうして彼女がこんな目に遭わなければならない。
そして気づいた。
自分にとってステラは運命に対する対抗策だった。
ステラに優しくし、彼女に喜んでもらうことで、自分にさだめられた『悪夢』という運命をくつがえすことができるような、逃れることができるような気がした。
だから彼女に優しくした。共に逃げようとした。
だが、そうではない。
「俺が…………そうしたかっただけだ――――」
ナイトメア自身が、ステラに優しくしたかった。笑わせたかった。笑ってほしかった。
理不尽な運命も対抗策もどうでもいい。
ナイトメア自身が、ただステラを幸せにしたかった、守りたかっただけなのだ――――
「ステラ…………!!」
彼女の肩を抱く手に力が入り、あふれる魔力がいっそう強くほとばしって、視界のすべてを埋め尽くそうとする。見える世界一帯を壊そうとする。
茶話室の壁が砕けて、天井が吹き飛んだ。誰かの悲鳴が聞こえた気がしたが、どうでもいい。
(すべて消えてしまえばいい)
本気でそう思った。
その時。
小さな声が耳に届く。
「ナイト、メア、さ…………」
とっさに腕の中を見おろす。
小さな唇がかろうじて動いていた。
人間には聞きとれない、人外だったからこそ聞きとれた、しぼり出すようなか細い声。
「どうか…………一緒に…………わたし、あなたと共に…………」
潤んだライムグリーンの瞳が、ナイトメアを見つめる。
ああそうだ、とナイトメアは我に返った。
こんなことをしている場合ではない。こんな所でぐずぐずしている場合ではないのだ。
「わかった」
吹き荒れていた魔力の嵐が嘘のようにぴたりとやむ。
「すぐに行く」
黒い翼を大きくひろげ、力強く羽ばたいた。
少女を抱えた体が空へと飛びあがり、あっと言う間に見えなくなる。
あとにはめちゃくちゃに破壊されて、部屋とすら表現できなくなった茶話室が残された。
少女と悪夢は飛びつづける。
どこまでも、どこまでも、二人が一緒にいられる場所へ――――
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