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 しばらくステラはなにが起きたか理解できなかった。
おぞましい悪魔におおいかぶられ、恐ろしさに目を閉じたら轟音が響いて、気づくと体の上から重みがなくなっていた。
 おそるおそる瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは一対の黒い大きな翼。それから長い黒髪と黒い服。雪花石膏の横顔の、紫紺の瞳がステラを見下ろしている。

「――――立てるか?」

「ナイトメア様…………」

 己の見ている光景が信じられなかった。

「どうしてここに…………」

 ナイトメアは答えず、ステラの手をとった。長い指がステラの左の中指に触れる。

「指輪…………」

 この指輪のおかげだ、とステラは理解した。

「怪我は?」

 素っ気ない口調。けれどステラに向けられた紫紺の瞳には、真剣に案ずる光がのぞいている。

「怪我は…………特にないかと…………」

 いそいで長椅子から立ちあがろうとすると、膝の力が抜けた。その場に座り込んでしまう。

「え、どうして…………」

 足に力が入らない。指先が小刻みにふるえている。
 長い腕が伸びてきて、ステラの華奢な体を立ちあがらせた。
 ステラはナイトメアの腕に支えられ、彼の胸に寄りかかる体勢となる。
 彼の存在、彼の体格を密接に感じて、一気に感情が決壊した。

「…………っ!」

 思わず、人外の青年の胸に顔をうずめて呻く。

「恐ろしかった…………っ」

 しぼり出したその一言に、ナイトメアの大きな手が鳶色の頭にのせられようとする。それを邪魔するかのように。

「何事!? なんの騒ぎ!?」

 高い声を不愉快そうに響かせて。華やかなローズレッドのティータイム用ドレスを着た王太子妃セアラが飛び込んでくる。
 室内の惨状を一目見て言葉を失った。

「え? え? どういうこと!?」

 王太子妃専用茶話室は散々な有様だった。
 金箔が貼られた白い壁は黒く焼け焦げ、厚地の真紅のカーテンもボロボロ。同じく真紅のビロードを張った猫足のソファはひっくり返って、花を活けていた高価な陶器も粉々だった。
 この部屋の修繕だけで、金貨が何百枚と飛んでいくだろう。
 モザイク模様の床にサマースカイ侯爵が気を失って転がっている。

「行くぞ」

 ナイトメアはセアラの混乱には頓着せず、腕の中に隠すようにステラを抱いて、窓へ誘う。
 ガラスがすべて割れた窓は大きく、開ければそのまま庭園に出られる造りになっており、ここから空を飛んで帰るつもりなのだろう、とステラは推測したのだが。
 複数の足音が飛び込んできた。王太子ハーバートと二、三人の侍従だ。

「何事だ!? これは、いったい…………!」

 彼らも茶話室の惨状に目を丸くしたが、ハーバートは目ざとく窓辺の存在を見つけた。
 一人は鳶色の髪にライムグリーンの瞳の、愛らしい少女。
そしてもう一人は――――

「化け物…………!」

 有翼の青年を目にした途端、ハーバートの青い瞳に強い敵意がぎらつき出す。侍従達も「ひいっ!」と悲鳴をあげてあとずさる。

「化け物――――か」

「ナイトメア様…………っ」

 ナイトメアの、自嘲のようでありながら奥に強い怒りを孕んだ声音に気づいて、ステラは彼の黒い袖を強く握る。「怒らないで」と「傷つかないで」という、二つの気持ちが込められた声。見あげてくるライムグリーンの瞳の、心配そうなまなざし。
 ナイトメアは平静をとり戻す。
『世界にとっての悪夢』と定められた存在が、矮小な人間の一言一言にいちいち揺さぶられるなど、情けないことだ。

「行くぞ」

 と、再度ステラをうながしたのだが。

「待て!!」

 ハーバートが声をあげた。
 警備の兵も数名、轟音を聞いて駆けつけ、窓際の異形の不審者へと槍の先を向ける。
 彼らの背に守られる格好でハーバートが怒鳴った。

「動くな! ステラを離せ! 殺されたくなければ、彼女から離れろ!!」

 ハーバートの剣幕と主張にステラは動揺するが、ナイトメアは平然としている。

「え、殺すって…………」

 セアラが戸惑うが、ハーバートは新妻を気遣うそぶりもなく、視線さえ向けない。
 ナイトメアもハーバートを無視して窓を開け、ステラを連れて出て行こうとする。

「動くなと言ってるだろ!!」

 ハーバートは怒鳴り、兵士達が不審者を捕えようと踏み込んだが、異形の青年は武器をかまえた男達を警戒する風もなく、無造作に空いている方の腕を横に払った。
 途端、真っ黒い稲妻が兵士達を襲い、全員が悲鳴をあげて床に転がる。

「な…………」

 ハーバートと侍従達が唖然と立ち尽くす。

「ナ、ナイトメア様…………!」

「気絶させただけだ。大きな怪我もない」

 驚き、兵士達を案ずるステラに、ナイトメアはさらりと説明する。
 今度こそ茶話室を出ようとすると「待って!」と服の裾をつかむ手があった。

「どういうこと!? ナイトメアはもっと後の登場でしょ!? それに、なんでその女を助けるのよ!?」

「セアラ様?」

「ナイトメアは『この世界にとっての悪夢』と呼ばれる魔王で、その運命を悲嘆していて、主人公の悪役令嬢であるセアラに救われて、セアラを愛するようになるキャラじゃない! 最終的には、ヒーローのレオン達と一緒にセアラを溺愛するのよ!? それがどうしてステラを助けるのよ、正ヒロインのヒドインじゃない!!」

 ステラは耳を疑った。

「セアラ様、それはどういう意味ですか?」

 今、セアラはたしかに『世界の悪夢』と言った。『悪役』とか『令嬢』とか『ヒロイン』とも。
 ナイトメアと初めて出会った彼女が、何故そんなことを知っているのか。
 ステラの脳裏に母の言葉がよみがえる。
『あなたは乙女ゲーム上はヒロインだけれど、物語としては悪役の令嬢で、公爵令嬢がゲーム上の悪役令嬢だけれど、物語としては主人公で…………ややこしいわね。いいわ。とにかく、今はあなたが悪役の令嬢と考えておいて』
 ステラの母から『やがてコウリャクタイショウの殿方達と、世界を救う運命にある令嬢』と予言されていたセアラ・スプリングフィールド公爵令嬢。
 まさか彼女は、すでに自分の運命を知っているのか?
 ならば『いずれ世界を滅ぼす』という、ステラの運命も――――

「くだらん」

 ステラの疑念もセアラの混乱も切り捨てて。
 ナイトメアが断言する。

「貴様が何故、その呼び名を知っているかは知らんが。貴様の語る運命など知ったことか。俺は――――」

 紫紺の瞳がまっすぐにステラを見た。

「自分の運命は自分で決める」

(ああ)

 ステラも悟った。

『自分の運命は自分で決める』

 それだけだ。
 ただ、それだけなのだ。

(お母さま)

「はい――――…………」

 ステラは己の肩に置かれたナイトメアの手に自分の手を重ね、紫紺の瞳を正面から見つめ返して短くうなずく。
 それは二人の間でだけ通じるやりとり。
 互いの心をさらけ合った者同士だから伝わる、大事な言葉。

「わたしの運命は、私の意志で――――決めます」

 澄んだライムグリーンの瞳が決意にきらめく。
ナイトメアはうなずき返し――――淡く、けれどはっきりと笑みを浮かべた。
 ステラは初めて見る彼のほほ笑みに、ぽうっと見惚れる。そこへ。

「なに、二人の世界を作ってるのよ!!」

 セアラの甲高い声が空気を引き裂く。

「ナイトメアは私の、セアラのものよ!! レオンが来なくて馬鹿王子のハーバートと結婚せざるをえなかったんだもの、せめてナイトメアくらいは溺愛してもらわないと、割に合わないわよ!! あんたはさっさと追放されなさいよ、このヒドイン!!」

「あっ!」

 セアラは力いっぱいステラを突き飛ばした。
 ステラは窓の縁に肩をぶつけて、膝を折りそうになる。

「なにをする!」

 ナイトメアが怒りの声をあげ、黒い稲妻がセアラを襲った。
 セアラは悲鳴をあげて吹き飛び、壁に叩きつけられる。

「ステラ…………!」

「大丈夫です…………」

 肩を押えるステラを抱えようとして、ナイトメアは完全に室内に背をむける。
 その、ナイトメアの全注意がステラに集中した、一瞬の隙を狙って。

「失せろ! 化け物!!」

 ハーバートが全脚力をこめて突進してきた。
 彼の手には長めの短剣が握られている。

「ステラは私のものだ! ハーバートのオレに惚れるキャラなんだよ!!」

「ナイトメア様!!」

 甲高い悲鳴があがり、短剣の刃が深々と生身の肉に突き刺さる。
 一見、殺傷力の低そうなそれは、神殿で浄化の力を授かった、強力な聖なる武器だった。
 ステラが呻く。

「ステラ!?」

『世界にとっての悪夢』が驚愕に目をみはる。
 ハーバートの短剣が貫いたのは、人間の少女の腹だった。
 ナイトメアより先に気づいたステラが、彼をかばって飛び出したのだ。

「な…………どうして…………っ」
 ハーバートは思わず短剣から手を離し、青ざめ、後退
る。

「ステラ!!」

 ナイトメアが倒れかけるステラを抱きとめる。
 華奢な体は力を失い、腹に刺さった刃の縁から赤い液体がにじんで、ドレスに染みていく。

「ナイトメア、様…………」

 小さな手が弱々しくあげられる。
 ナイトメアはその手をにぎりしめていた。

「わたし…………自分で、自分の運命を…………決め、ま…………」

「ステラ――――!!」

 大音響が響いた。
 王宮にいた誰もかれもが度肝を抜かれて、その音の発生源を確かめようとするが、あまりに大きな音はどこから聞こえているか判別もできない。
 黒い霧のような魔力が嵐のようにあふれて、セアラ達を襲った。

「なんだこれは!?」

「ナイトメア! ナイトメア、やめて!!」

 ハーバートが、セアラが叫ぶが、効き目はない。
『世界にとっての悪夢』と定められた青年は黒い翼をひろげ、長い髪を逆巻いて少女を胸に抱いていた。彼の翼から強力な魔力が怒涛のごとくあふれて、一秒ごとに嵐は威力を増していく。

「ナイトメア、聞いて!」

 突風にあおられる長い髪や裾に難儀しつつ、セアラはナイトメアへと声をはりあげる。

「『私、知っているの』! 『あなたは寂しかったのよね』! 『私は知っているわ、あなたが本当は優しい人だってこと』!!」

 ハーバートは「突然なにを言い出すのか」と、セアラを見た。

「『あなたは怒っていただけよ』! 『理不尽な望まない運命に怒っていただけ』! ええと、『あなたは悪夢なんかじゃない』! 『私が証明するわ』!!
ええと…………ねぇ、聞いてる、ナイトメア!? どうして効果がないのよ、原作はこういう風に」

「うるさい」もしくは「邪魔だ」とでも言わんばかりに、黒い稲妻が飛んできた。
 セアラは悲鳴をあげ、力づくで黙らされる。
 ナイトメアはすべてを呪いたい気持ちだった。
 どうしてステラがこんな目に遭う。
 どうして彼女がこんな目に遭わなければならない。
 そして気づいた。
 自分にとってステラは運命に対するだった。
 ステラに優しくし、彼女に喜んでもらうことで、自分にさだめられた『悪夢』という運命をくつがえすことができるような、逃れることができるような気がした。
 だから彼女に優しくした。共に逃げようとした。
 だが、そうではない。

「俺が…………そうしたかっただけだ――――」

 ナイトメア自身が、ステラに優しくしたかった。笑わせたかった。笑ってほしかった。
 理不尽な運命も対抗策もどうでもいい。
 ナイトメア自身が、ただステラを幸せにしたかった、守りたかっただけなのだ――――

「ステラ…………!!」

 彼女の肩を抱く手に力が入り、あふれる魔力がいっそう強くほとばしって、視界のすべてを埋め尽くそうとする。見える世界一帯を壊そうとする。
 茶話室の壁が砕けて、天井が吹き飛んだ。誰かの悲鳴が聞こえた気がしたが、どうでもいい。

(すべて消えてしまえばいい)

 本気でそう思った。
 その時。
 小さな声が耳に届く。

「ナイト、メア、さ…………」

 とっさに腕の中を見おろす。
 小さな唇がかろうじて動いていた。
 人間には聞きとれない、人外だったからこそ聞きとれた、しぼり出すようなか細い声。

「どうか…………一緒に…………わたし、あなたと共に…………」

 潤んだライムグリーンの瞳が、ナイトメアを見つめる。
 ああそうだ、とナイトメアは我に返った。
 こんなことをしている場合ではない。こんな所でぐずぐずしている場合ではないのだ。

「わかった」

 吹き荒れていた魔力の嵐が嘘のようにぴたりとやむ。

「すぐに行く」

 黒い翼を大きくひろげ、力強く羽ばたいた。
 少女を抱えた体が空へと飛びあがり、あっと言う間に見えなくなる。
 あとにはめちゃくちゃに破壊されて、部屋とすら表現できなくなった茶話室が残された。


 少女と悪夢は飛びつづける。
 どこまでも、どこまでも、二人が一緒にいられる場所へ――――
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