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 叔父と二曲踊ったあと、叔父が友人を見つけたので、ステラはいったん叔父と離れた。普段なら『伯爵令嬢の婿』の座を狙う殿方達から次々ダンスに誘われるが、今宵は『王太子に失恋した』という噂に遠慮してか、誰からも声がかからない。
 ステラは気分を変え、おいしいケーキに舌鼓を打つ。するとどよめきがあがり、(なにかしら)とステラがふり向くと、今一番見たくない顔を見てしまった。
 ハーバート王太子がやってくる。
 招待客の列は勝手に割れ、ハーバートはなんの障害もなくステラの前に来た。白い礼服を飾る金モールと金髪が、ホールを照らす無数の灯りにきらきら反射する。
 ステラは周囲の貴族達が息をつめて自分達を見守るのがわかった。

「こんばんは、ステラ・オータムフォレスト嬢。久しぶりだね」

「お久しぶりでございます。王太子殿下にはご機嫌麗く…………」

 挨拶されてしまった以上はしかたない。ステラは覚悟を決めてケーキの皿をテーブルに置き、ドレスの裾をつまんで一礼すると、貴族の令嬢として完璧な笑顔をはりつける。

「父君の、オータムフォレスト伯爵の容態はどう? ずっとメープル男爵の代筆がつづいているね」

「ご心配ありがとうございます、殿下。医者からは『今は休養に徹すること』と指示されておりますので、念のため療養をつづけております」

『一進一退』とは口にしない。こんな大勢が耳をすませている場所で、正確な内情を明らかにするものではない。

「来月の狩りではお会いできるかな? オータムフォレストの森は本当にすばらしい。私も陛下も楽しみにしているんだ」

「光栄にございます」

 オータムフォレスト伯爵領は、位置的には『田舎』と揶揄される場所にある。
 が、伯爵領が内包する広大な森はフォーシーズン王国一の狩り場で、狩り好きの貴族達からは「一生に一度はオータムフォレストの森で狩ってみたい」「オータムフォレストの森を知らずして、狩りを語るな」と絶賛される、憧れの地だ。
 オータムフォレスト伯爵家は代々この森を利用して幅広く顔と家名を売り込み、フォーシーズン王家とも『王家御用達の狩り場』の所有者として縁を深めてきた。
 ハーバートも八歳の頃から父王に連れられてオータムフォレストの森を訪れており、ゆえにステラとは幼なじみのような関係にあったのだが。

「来月の狩りは、王太子殿下と妃殿下のご成婚のお祝いも兼ねておりますから。オータムフォレスト伯爵家一同、せいいっぱいのおもてなしをさせていただきます」

 今回、ステラが気の進まないのに王都に来たのは、これが理由だった。
 オータムフォレストの森は毎秋、国王一家とその周辺が狩りを楽しみに訪れるのが恒例だ。が、今年は規模も期間も格段に例年を上回る。
 当然、王宮の役人達との入念な打ち合わせは欠かせず、けれど毎年進行を担ってきた父は病床で、普段はオータムフォレスト領にいない叔父に進行のすべてを任せるのも不安が勝る。
 そこで、父の仕事をそばで見てきたステラが出て来ざるをえなかったのである。
 そして来ていると知られている以上、パーティーに出席しないわけにはいかなかった。
 下手に欠席して「失恋の痛手で…………」などと噂されてもたまらない。

「楽しみにしているよ。今年はぜひ、鹿を撃ちたいんだ。去年は陛下に先を越されてしまったからね」

 笑うハーバートは王族らしくきらびやかで、こんな状況でなければステラも見惚れていたかもしれない。
 太陽のような金髪に、サファイアの瞳と凛々しい目鼻立ち。王太子ハーバートは王都中の女性が憧れるにふさわしい、理想の王子様だった。
 ステラをのぞいて。

(もう離れていただけないかしら…………)

 ステラはひやひやする思いで笑顔を作りつづける。

「おや、曲が終わったね」

 ハーバートがオーケストラをふりむく。
 むろん、パーティーはまだお開きではない。すぐに次の曲がはじまる。

「ちょうどいい、ステラ嬢。一曲…………」

 ハーバートがにこやかにステラに手を差し出そうとする。
 ステラは最悪の展開を察して、心の悲鳴をあげた。
 今の状況でハーバートと踊ったりしたら、社交界でどのような醜聞の的となることか。
 視線で叔父を探そうとしたステラの耳に、突き刺さるように声が飛んできた。

「まあ、こちらにいらしたのですね、ハーバート殿下」

 ふたたび、どよめきがあがる。
 人波を割ってセアラ王太子妃が現れた。
 ふんわりした袖に、肩と首を大胆に露出したデザインは今年の流行の最先端。ストロベリーブロンドには無数の小さなダイヤモンドの花を飾り、歩くたびきらきら光る。
 王太子妃はオータムフォレスト嬢に見せつけるかのように甘やかに、夫に寄り添った。

「さがしましたわ、殿下。そろそろ踊りませんこと? わたくし、もっと殿下と踊りたいですわ」

 夫に甘える王太子妃の姿に、王太子に口を開く隙を与えずにステラが賛同する。

「妃殿下のおっしゃるとおりですわ、ぜひ踊ってくださいませ、殿下。お二人のダンスはとても見事だと、社交界中で評判です。ねぇ、みなさま」

 ステラはさも「名案を思いついた」という明るい声と表情で夫妻に勧め、前置きなく周囲の招待客――――いや、野次馬達に同意を求める。
 客達は突然、話をふられ、動揺をとりつくろいながらも愛想笑いを浮かべた。

「そ、そう、評判でございます」

「ぜひ踊ってくださいな」

 口々に勧められてはハーバートも断るわけにはいかず、「では」と新妻と腕を組んでホール中央に進み出る。
 周囲から拍手があがり、指揮者がさっ、と腕をあげてオーケストラが演奏をはじめた。
 セアラの紫色のドレスの裾がひるがえり、絹地がシャンデリアの灯りに光沢を放つ。
 優雅なダンスにそこここから称賛の声があがり、人々の注目が王太子夫妻に移ったのを察知して、ステラはほっと一息ついた。
 なんとかしのぐことができたようだ。まったく、父が病に倒れて婿探しに力を入れなければならない時に、とんだ災難だ。
 ステラはテーブルの上の食べかけのケーキに手をつける気にもなれず、(いっそ帰りたい)と心の中でぼやいていると、背後から静かな声がかけられる。

「踊らないのか?」

「あまり気分が乗らなくて…………」

 うっかり本音をこぼしてしまってから、はたと、その声がで聞こえるはずのない相手のものだということに気がつく。
 ステラはいそいでふりむいた。

「気乗りしないのか? ダンスは好きだと言っていなかったか?」

 長い黒髪、黒と見まがう紫紺の瞳、雪花石膏アラバスターの肌。
 長身を黒の礼服に包んで、背にあったはずの黒い翼は失って。
 異形の青年、ナイトメアがそこにいた。

「ど、どうしてここに…………!」

 大声を出してしまいそうな衝動を必死にこらえて、ステラは小声の早口で問う。
 王宮は国内でもっとも重要な人物達が集合する場所。
 現に今、ホール中央では未来の国王夫妻がダンスを披露し、現国王夫妻も貴族達に囲まれて談笑している。
 こんな所で異形の存在がまぎれこんでいる、と周囲に知れたら。
 だが青年は平然としたものだった。

「会いに来た」

「どなたに?」

「お前だ。他に誰がいる」

「…………っ」

 ステラは心臓が跳ねあがったのを感じた。頬に血がのぼるのがわかる。胸にこみあげてくるのは、たしかに喜び。
 ステラはナイトメアに会えたのが嬉しい。
 一週間前に別れて以来、ずっと頭のどこかで彼のことを考えていた気がする。

「踊るか?」

 ナイトメアが指の長い大きな手を差し出してきた。あの星の湖での夜とは立場が逆だ。

「…………正体が露見しませんか?」

「そんなへまはしない」

 淡々としていながらも、たしかな自信を秘めた落ち着いた声。

「では…………」

 ステラの白い手がナイトメアの手に重ねられた。
 三度目のどよめきがあがる。
 視線の集中を感じてステラは息を呑んだが、異形の青年は落ち着き払っている。むしろ礼服に身を包んだ彼は、この広いホールの誰より堂々として凛々しい。
 ナイトメアはステラと向かい合い、彼女の手と細い腰を支えると、いとも自然にパートナーをリードして、するりとダンスの輪へ加わった。
 ステラは頭が爆発しそうだった。
 ナイトメアの顔と体がすぐ目の前にある。
 あの夜だってこうしていたのに、なぜ今夜はこんなにどきどきするのだろう。礼服を着た彼は本当に人間にしか見えなくて、まるで今日はじめて出会った殿方と踊るようだ。
 周囲のざわめきが聞こえる。口々に「あの方はどなた?」と、ささやきあっている。当然、誰も心当たりがなくて困惑しているが、警戒する様子は、まして「追い出すべきだ」と言う者はいない。
 オータムフォレスト伯爵令嬢をリードして踊るナイトメアは、本当に自然で優雅な身のこなしで、黒地に銀の刺繍の礼服は高級感にあふれていて、誰も人ならぬ存在どころか貴族の身分すら持たぬとは、夢にも思わないのだ。
 ステラは踊りながら彼の顔から目が離せない。

「どうした?」

「…………以前より、ずっとお上手です」

「二度目だからな」

「だとしても、上達しすぎです。こんなに上手くなるなんて…………」

 おかげでステラはなんの心配もなく、彼のリードに身を任せていられる。
 それどころか、ナイトメアと踊っている自分まで素晴らしい踊り手に見えているらしかった。友人の令嬢達が「ステラって、あんなにダンスが上手だった?」と目を丸くしている。
「そうか?」とナイトメアは特に不思議がっていない。もしや人外の存在は、上達の速度も人外なのか。
 そんなことを考えているうちに音楽が終了して、どのペアも足を止めて挨拶しあう。周囲からも拍手があがる。
 拍手自体は形式というかマナーのようなものだが、今回に限っては、客達の目は本物の興奮と感激に輝いていた。むろん、名も知らぬ優美な青年と彼のパートナーを務めたオータムフォレスト伯爵令嬢に対してである。
 次の曲まで、しばし間が空く。この間にパートナーを変えたり、休憩用のソファに戻ったりする。ステラ達の周囲には、はや謎の美貌の青年に声をかけられたい令嬢達が集まっていたが、ナイトメアは目もくれずにステラに確認してきた。

「このあと、予定はあるのか?」

「え? いいえ。パーティーの終了を待って帰宅するだけですが…………」

「では、まだ踊ろう。これは夜中までつづくのだろう?」

 当たり前のようにナイトメアは提案してきた。
 ステラはまた嬉しくなった。喜びが全身を満たして、指先をじんじん痺れさせる。
 が、不安も少し。

「ありがたいですけれど…………よろしいのですか? 伴侶や婚約者以外の方と立てつづけに何度も踊るのは、その…………」

「まあ、仲がよろしいこと」と、あっという間に貴婦人達の噂の種になってしまう。異性と必要以上に親しくしない慎みも、洗練された貴婦人に要求される美徳なのだ。

 異形の人外の青年も、人間の少女の言いたいことを察する。

「誤解されて不都合があるのか?」

 訊ねられ、あらためてステラは考えた。
 彼との仲を誤解されて、都合の悪いことはあるだろうか。すでに王太子の軽挙のおかげで、つまらないスキャンダルに巻き込まれている最中だ。逆に、ここでナイトメアと親しく見せたほうが、王太子との誤解も解けやすくなるのではないか?
 なによりステラ自身が今、彼ともっと踊りたい。

「そうですね」

 ステラは笑った。差し出された手に、自分の手を重ねる。
 周囲から拍手があがって次の曲がはじまる。

「それでは、次の曲もお願いします」

「承知した」

 ナイトメアはふたたびステラをリードしてダンスの輪に加わる。
 もはや誰も王太子夫妻のダンスに注目する者はいない。
 ステラ自身、ハーバートの存在が頭から消え失せている。
 出会った時からずっと口数が少なく、常に淡々としていたナイトメアが、今夜はなんだか優しく話しかけてくれるほうが、比べものにならぬほど嬉しかった。
 ナイトメアの黒のズボンにステラの白いドレスの裾が何度も絡みつく。
 ダンスホール中の注目を浴びながら、ステラは人外の青年と踊りつづける。

「こんな名手は、一生に何度見られることか――――」

 誰もが感嘆のため息をついて、可憐な伯爵令嬢と謎の美青年のダンスに見惚れた。
 その中で一部だけ、異なる理由、異なる感情から二人を凝視する人間がいる。

「魔王、ナイトメア――――!?」

 注目を奪われてダンスをやめた王太子とその妃が、美貌の黒髪の青年を凝視する。
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