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「すまない、ステラ。私が愛しているのはセアラ、ただ一人なんだ」

 だから自分のことは忘れてくれ。
 ハーバート王子はそう言った。腕に、純白の花嫁衣装を着てヴェールを長く引いたセアラ・スプリングフィールド公爵令嬢を抱えながら。
 さわやかな初夏の一日。
 フォーシーズン王国、第二王子の結婚式の最中である。
 オータムフォレスト伯爵令嬢ステラは、澄んだライムグリーンの瞳をみはった。




『殿下の結婚式では災難でしたわね。ご心痛、察しますわ』

『殿下もつれないこと。なにも、あんな大勢の前でおっしゃらなくとも。オータムフィールド嬢にも立場がおありですのうに』

 頭に響く雑音をはらうため、ステラは亡き母の形見の本を膝に置いて表紙を開く。

『愛しいステラ。わたくしの娘。どうか忘れないで。たとえ世界がどんな役を与えようと、あなたはいつでも、あなたという人生の主人公。けして運命には負けないわ』

 ステラは懐かしい母の筆跡を指先でなぞる。
 もう何度、こうしたことだろう。
 今こそ母の助言を必要としているのに、当の母は六年も前に天の園へ旅立っているのだ。
 ステラはため息をついて本を閉じ、参列者用の長椅子の一つから立ちあがる。
 人が来なくなって久しい礼拝堂はがらんとして神の像さえ置かれておらず、どこもかしこも土埃が積もって天井には蜘蛛の巣も張っている。
 いつものように母の本を抱えて祭壇に近づこうとした、その時だった。
 頭上から激しい羽ばたきの音が聞こえたかと思うと、屋根板が割れる派手な音が響いて黒い大きな影が天井から落下し、床に激突した。衝撃は靴底を通してステラの足裏まで伝わり、積もった埃がもうもうと舞いあがる。
何事? と、まばたきをくりかえすステラの前で、黒い影は形を変えた。
 床に落下した時、たしかに巨大な黒い鳥だったはずのその影は、長い尾羽を消し、全身の黒い羽根を消し、かわりに黒い衣装と黒い髪、長い手足を備えた人間に姿を変えた。
 本を胸に、立ち尽くしたステラの存在に気づいて顔をあげる。
 漆黒の髪と病的なまでに白い肌。黒と見まがうほど深い紫色の瞳の、人間離れした美貌の青年だった。
 ただ、その背に大きな黒い翼を威嚇するようにひろげていることだけが異形の。
 青年は明らかな警戒と緊張の瞳でステラを見――――埃の舞う床に倒れた。

「あの…………っ」

 思わず踏み出したステラの目に、黒い長袖が派手に破れた左腕と、そこに走る深い裂傷が映る。裂傷からは鮮やかな赤い液体がどくどくとあふれていた。




――――お前はすべてを滅ぼす存在もの、世界に拒絶される存在。ゆえに悪夢ナイトメアの名を与えられた。お前は、この世界そのものが見る悪しき夢――――

 ナイトメアは呻いた。暗闇の中、左腕が激しく痛む。その痛みから逃れようともがいて、瞼が開いた。
 金色のやわらかい光が目を刺す。
 ナイトメアが痛みをこらえて顔をあげ、横たわっていた上体を起こすと、彼がいたのは、よりにもよって礼拝堂と思しき空間だった。
 床には土埃が積もり、天井には蜘蛛の巣が張って長い間、使われていないのは明らかだ。が、それでも『悪夢』などという名を与えられる存在の身に、心地よい場所ではない。
 不愉快に眉をしかめながら見あげると、板張りの天井に大きな穴が開いて、陽光が射し込んでいた。おそらく、あの穴を空けたのは自分だろう。人間の狩人ごときに不覚をとったものだ。
 己がしばらく意識を失っていたことを自覚し、屈辱と不甲斐なさをかみしめながら、その人間に遅れをとった証――――痛みに苛まれる左腕を見おろすと、予想外の光景があった。
 傷口に白い布が巻かれている。
 ところどころ赤い血がにじんでいるが、人間達が負傷した際にその箇所に巻く布、『包帯』に違いない。ナイトメアはこんなものを巻いた覚えはない。持参してすらいなかった。
 いったいどういうことだ、と呟きかけた時。
ギイ、と、きしむ音を立てて礼拝堂の扉が開かれ、バスケットを抱えた華奢な人影が入ってきた。

「まあ。目が覚めたのですね」

 愛らしい声がひかえめに響く。
 癖のない鳶色の髪にライムグリーンの瞳が印象的な、可憐な少女だ。

「はじめまして。ステラ・オータムフォレストと申します」

 警戒するナイトメアの前で、少女は片方の手でスカートを摘まんでにこやかに挨拶する。
 瞳と同じライムグリーンのリボン。明るい緑の外出着は、シンプルなデザインだが明らかに富裕層の品物だ。
 少女はゆっくり歩み寄ってきて、ナイトメアにもっとも近い最前列の長椅子の上に、抱えていたバスケットを置く。彼に見えるように中身をとり出した。

「包帯と薬の替えを持ってきました。それから、熱が出た時のための熱冷ましを」

 少女の言葉に、ナイトメアは包帯が巻かれた己の左腕を見る。

「差し出がましいとかと思いましたが、手当てしておきました。勝手に左袖を破って申し訳ありません。あとで替わりの服を用意します。とりあえず、包帯と薬をとり替えますね。ご安心ください、わたくしこれでも村の子供達の怪我で、切り傷や打ち身の治療は慣れているんです」

 言うと、少女はいまだ座り込んだままだったナイトメアの前にそっと膝をつき、彼の左腕へと手を伸ばす。
 ナイトメアはとっさにその細い指を払った。
 少女は戸惑いの表情を浮かべる。

「包帯とお薬を替えたほうがいいと思うのですが…………お一人で、片手では替えにくいと思うのですが、わたくしはいないほうがいいでしょうか?」

 少女は遠慮がちな笑顔で小さく首をかしげる。
 ナイトメアは自分の左腕を見おろし(別にこの人間を頼る必要はない)と思ったが、少し考え、無言で左腕を人間のほうへ突き出した。
 少女は、ぱっと表情を明るくして包帯をほどき、きれいな布を革袋に詰めた水で湿らせ、傷口からにじんで凝固した血を拭いていく。小さな手の動きはていねいで慎重だ。
 傷口をきれいに拭い終えると傷薬を塗り、新しい包帯を巻いていく。最後にきゅっ、と端と端を結んで手当は完了した。

「終わりました」

 ステラと名乗った少女は立ち上がり、長椅子に置いたバスケットに汚れた包帯をしまう。そして新たな包みをとり出した。開けてナイトメアに中身を見せる。

「我が家の料理人に用意させました。塩漬け肉ベーコン腸詰めソーセージを、野菜や薄切りのチーズと一緒にパンにはさんだものです。王太子妃殿下が考案された食べ方で、片手が空くので忙しい時に便利だ、と流行っているんです。よければ召しあがってください。葡萄酒ワインもあります。こちらに置いておきますね」

 少女はパンと酒瓶を長椅子に置くとバスケットを抱え、片手で裾をつまんでお辞儀する。

「それでは失礼します」

 少女は、ぱたぱたと礼拝堂を出て行った。
 騒がしくはないが、風がとおり抜けるような印象だった。
 ナイトメアは少女が長椅子に置いて行ったものを見る。
 ナプキンの上に乗るのは説明通り、厚めに切ったパンに薄めの肉や野菜、チーズをはさんだものだった。その隣には葡萄酒の瓶。
 人間でも動物でもないナイトメアは、このような食料は存在を維持するために必要としない。
 が、気づけばを告げる暇もなかった。
 ナイトメアは呆然と、肩透かしをくらったような錯覚を覚える。




「おや、お嬢様」

 夏も終わりはじめた、夕暮れ前の森の小道。館へといそぐステラを野太い声が呼び止めた。

「まあ、ジョン。ひょっとして、まだ狩りの獲物を探していたの?」

「へぇ。久々の大物だったんです。かなりでかい鳥だった、あれなら相当な値になるはずです。あきらめられません、ビリーのためにも」

 悔しそうに弓をにぎる狩人。生まれたばかりの息子のため、なにかと心を砕く男をステラは気の毒そうに、申し訳なさそうに見つめる。ジョンにはあとでなにか埋め合わせをしなければ。

「そろそろ日が沈みはじめるわ。獲物を探すのは、もう明日にしたほうがいいと思うわ」

「まったくです。最近は日が暮れるのがとんと早くなって。はあ、久々の大物だったのに」

 狩人は弓を抱え直して、来た道を引き返しはじめる。

「お嬢様も、もうお帰りください。ここはお嬢様のお父上の管理する森だが、なにかあったら、あっしらが罰をうけかねない」

「その時は、わたくしには会わなかった、と言えばいいわ。ジョンこそ気をつけて帰ってね」

 ステラもかろやかな足どりで帰路につく。が、一度だけふりむいた。
 久々の大物を逃した狩人の背が、落胆でいつもより小さく見える。

「ごめんなさい、ジョン」

 去っていく背に小さく謝った。
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