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第二章 ツル
10.浮島と黒茶の羽
しおりを挟む本当は、とっくに潮時だったのだ、と思う。
だって、その時のピィは、既に羽の色を隠すことすら難しくなっていたのだから。
クレインの発情期が終わり、ピィも引きずられて生まれて初めての発情期を迎え、そして終えた。
自身の陰茎は最後まで硬くなる事はなく、だらりと下がったままだったけれど、それ以外の所で感じた快楽も、クレインから与えられる熱量も凄まじく、まるで身体の中と外の両方にクレインが通り抜けていったかのようだった。満足感、充足感、それから、疲労感。全てが歓びに満ちていたし、きっとこの感覚は一生消えずに覚えている。
体力を使い果たしたクレインはそのまま満足そうな顔で深い眠りに入り、ピィは……ピィの体力も限界を超えてはいたけど……クレインが寝入ったことを確認してから、重い身体を引きずるようにその腕を抜け出し、今は見えない真紅の瞳を思って目蓋に口付けた。
大好きで大切で、誰よりも近くにいたい、クレイン。ピィは彼を全ての厄災から護らなくてはいけない。
そっと寝室を抜け出し、龍の部屋、とクレインが呼んでいた部屋へと赴き、触るなと言われていた戸棚を躊躇なく開いた。
この部屋で療養していた時から気づいていた。
大きな布をかけられた機織り機を、毛足の長い絨毯に寝転んで下から見上げていたのだ。下から見えたあの織物の模様は。
ピィは、自分にかけていた目眩しの魔術を解いた。
ピィの羽は、茶色ではない。
黒でもない、紺色でもない。
宝石のような青で碧。
それから星のような金色で、その羽を見た者全てが目の覚めるような輝きを発する、世にも稀な色を持つ、飛ぶにはあまりむいていないが美しさだけは目を瞠るほどの――自身の羽を開いた。
自分の羽と見比べながら、戸棚の中、綺麗に畳んで積まれた布を一枚ずつ眺めていった。
クレインは本当に凄い。
ただの糸を組み合わせるだけで、こんなに美しい織物を紡ぎ出せるだなんて、そんな人をピィは見たことがない。そんな凄い人が、ピィを番にしてくれた。お互いにそんな言葉は使わなかったけど、他には誰にも触らないと約束しあったのだから、そういうことだ。
――ああ、これだ。これが、自分だ。見つけた。
まるで自分の羽を織り込んだような見事な織物を戸棚から取り出してその胸に抱く。そうして、クレインを想う。
「ごめんこれ、俺、絶対発情期はじ、まるっ……発情期、終わったらっ、ピィ、……一緒に、国の外……行こうっ」
唐突にクレインの言葉を思い出す。クレインが、国の外に行こうと言っていた。
その言葉を思い出して微笑む。
一緒に国の外に行って、誰も知らない所で二人、どうでも良い事で喧嘩したり、どうでもいい事で笑いながら死ぬまで仲良く暮らせたら、自分はきっと誰より幸せだ。
だけど、それはできない。
自分の役割を、自分が存在している意義を、ここまできてピィは本当の意味で悟ってしまった。
生まれた時からただ漠然と毎日を言われるがままに過ごしていたけれど、自分が本当に望んでいたのはそんな事じゃなかった。
そんな事に気づかないまま長い年月を過ごしてきてしまった。
もっともっと、もっと早くに気づいて、生きてきた月日を最初から自分の思う通りに過ごしてクレインと出逢っていたら自分の人生は違ったんだろうな、と思う。
でも、早くに気づいてもクレインと出逢えていたかはわからないから、このタイミングで良かったのかもしれない。
クレインが一人、この島に暮らしていた。そこに、ほとんど外に出ることもなかった自分が偶然落ちた。
運命だ、と思っていたい。その偶然は、自分たちの運命だったと思いたい。この世界を司る神が、自分に与えてくれた大切なものだと信じたい。
全部を知ったらクレインは出逢いたくなかったと思うだろうか。
……それでも、自分は、出逢えて良かった。
わがままを言うなら、彼が全てを知った時に、出逢いたくなかったと思われても良いから、もう会いたくない嫌いだとは思わないで欲しい。肝心な事は何も話さず、嫌われたくないなんて虫がいい話だが。
「あ、っつ……」
織物を胸に抱きながらぼんやりとそんなことを考えていたら、ちり、と頭の後ろが焼けつくような感覚にとらわれる。
「時間が……」
島全体にかけ続けていた魔術も、もう限界だ。感傷に浸る暇はない。事実、追手らしきものがこの島を感知した気配を感じる。本当に、時間がない。
ピィは胸に抱いていた織物を広げる。
頭の中で大好きなクレインを想いながら、ピィは自分がなすべき事を始めた。
---------
全てが終わり、ピィは庭に出て振り返る。
この、小さな家が好きだった。どの部屋にいてもクレインを感じられる、大好きなクレインの家だ。
涙が滲み、思わず頭を振った。感傷は判断を鈍らせるから良くない。
最後に残った魔力でクレインの家を隠す。慎重に、外からは自分ですら感知できないように。自分を含め、クレイン以外の人間が庭にいる限りはその誰からも感知できないように。ついでに、庭にも目眩しの魔術を施し、まるでこの島が無人島のように装った。
目を瞑って、頭の中だけで呼びかけた。
クレイン、クレイン。本当の本当に、心から愛してる。クレインを護る為に、私はきっとあなたの心を傷つけてしまう、でも、真実あなたを想ってる。
こんな事、自己満足だ。わかってる。だけど、頭の中にはクレインが「ピィを好きだ」と言ってくれた時の、それから「お前がいたら満足」と告げてくれた時の顔が浮かんできたから、ピィは大丈夫、と思えた。
彼から、クレインから、本当に一生分の幸せを貰えた。だから、この思い出があれば、大丈夫だ。
ばさばさと頭上から大きく羽の音が連なり、ピィは目を開けて空を見た。あの日、ピィが逃げていた一団がこちらへ向かってくるのが見える。
仰いで見ていれば、それらはまるで落下のような勢いで次々とピィの目前に降り立っていく。
ぎりぎりで間に合った。小さく、安堵の息を漏らす。本当は別の島に移動して待ちたかったが、そこまでする時間も魔力も、もうピィには残って無かった。
国の隠密師団と近衛師団の制服に身を包んだ者たちの中、白線の目立つ医官の制服を身に着けた男が、ひときわ大きな羽をばさりと動かしながら目の前に舞い降りる。
薄灰色の肌に、赤黒い瞳。ひどく長身の男が唇を歪めて薄く笑う。見る人によっては人が良さそうな微笑みに見えるそれは、ピィには酷薄そうな表情にしか見えないが。
「ピーファウル、散々に探しましたよ」
「……探索なんて、頼んでいませんよ」
「そんなつれない事を……国中を総出で散々探しまわりましたが……こんな……島、このあたりにありましたか」
「私がこうして立っているのだから、あったのでしょう」
「…………なぜ、逃げたのです。そんな事、今まで一度も……あなたはもっと自覚を持っていると思っていましたが」
自覚。
自覚か。そんなもの、幼い頃から無理やり植え付けられて、ずっと長いこと自身の中で澱のように蓄積されて、だからこそそれが爆発したんじゃないか、と言いたかった。
だけど、言っても無駄なことはピィが一番よく知っている。
「理由を聞いてどうするのですか。バルチャー……あなたの言う通り、逃げました。そして自覚を持って、逃げる事をやめ、こうして戻ることにしました。何か、問題でもありますか」
無理矢理でも話しを終わらせたかった。連れ戻されるのであれば、少しでも早く、余計な話はせずにこの場から遠ざかりたかった。
「問題……問題ですか、……そうですね、あるとすればどこぞの見知らぬ人間と交わったりはしていないか、という事でしょうか。……していたとしたら、問題です」
「あなたが幼い私に貞操帯をつけさせた。そうして、いついかなる時も勃たせてはいけない、精液を出してはいけないと教え込んだ。違いますか。……貞操帯は外さず、未だついています」
「……戻ったら、まずは身体検査をさせてください、ピーファウル。あなたの身体が心配なんです」
「バルチャー、……あなたが心配しているのは私の身体ではなく別のことでしょう」
「あなた以上に心配な事などありませんよ、私の美しいピーファウル」
「……あなたの、ではありません」
「まだそんな事を……まぁ良いでしょう。羽馬と馬車を用意しています。乗ってください、今のあなたでは、自力で飛ぶ事もできなそうだ」
目の前に馬車がつけられた。
これに乗ってしまったら、本当にお別れだ。
家があった方に背中を向けて、一度だけ大きく羽ばたいた。
宝石のような光を放つ羽が太陽の光を反射させ、様々な青色を、緑色を、金色を周囲に振り撒いた。
それが、ピィのこの島での最後となった。
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