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第二章 ツル

06.事情は話せない黒茶の羽

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 クレインは良い人だ。

 ピィは、知っている。
 本当に本当に良い人だから、いくら怒鳴られても、怒られても、別に平気だ。

 だってクレインは自分の感情だけで理不尽に怒ったりしない。一緒にいるのはたった二十日程だけど、ピィにはわかる。自制心が強い人だ。そうでなければたった一人でこの島で自給自足のような生活を何年も送れるわけがない。その上今はピィと言うお荷物を抱えて、文句も言わず世話をしてくれている。

 だから、自分本意な感情だけに任せて怒ったりしないはずだ。怒るとすればそれなりの理由を持って怒るに決まっている。
 そんなクレインを怒らせるようなことをしてしまった自分に対して、悲しい気持ちになってしまう。

 怒らせたいわけじゃなかった。嫌な気持ちにさせたいわけでも、意地悪な気持ちで騙したいと思ったわけでもなかった。

 最初は、本当に純粋な気持ちだったはずで。
 追いかけてくる者から自分を隠したい、それから追われている自分を匿ってくれたクレインの身を、できる限りで危険にさらさないようにと思って魔術を施したつもりだった。

 けれど、今思い返してみたら、多分本音は別にあった。
 最初からクレインとの時間があまりに心地よかったから、少しでも長く過ごしたいと思ってしまっていた事をピィは否定できない。
 クレインはいつも冷静に接してくれていた。なのに、世話をかける側の自分が、ただただ一緒に居たいという感情に引きずられ、安全になるんだからいいよね、と自分自身に言い訳をして魔術を施してしまっていた様に思う。


 その結果が、扉の向こうで激怒しているクレインだ。


 扉に寄りかかり、俯いた。溢れる涙をこぼすように目をぎゅっとつぶり、扉に手をあてる。この向こうに、クレインがいる。


 初めてクレインを見た時。
 切れ長の目にまっすぐで長いまつげが綺麗だと思った。血が透けたような赤い瞳に見られただけで動悸が止まらなくなった。
 まるで青のように白く澄んだような肌が綺麗だと思った。青白い細く長い指が動くさまを見ているだけで目が離せなくなった。
 長くまっすぐな黒髪が絡むように、背中の真っ白な羽に流れる。真っ白く大きな羽はどこまでも曇りなく白く、広げたところを見たいと思ってしまった。
 近くに置いてほしいと願い、だけどそんな感情は初めてだったから戸惑った。ただただ近くに置いてもらえたらその感情の正体がわかるかと思ったのに、どれだけ近くに置いてもらっても、初めての感情が次々現れるのだから、その正体を特定できない。


 戸惑っているうちに感情が大きく膨れて溢れ出し、爆発してしまった今、自分に泣く資格なんてないだろうと唇をかみしめてみているのに、次から次へと涙はこぼれる。


 扉の向こうのクレインは宣言通り扉をあけようとドアノブをまわしている。
 会える、でも、ぐちゃぐちゃの泣き顔はみっともない。
 怒られるのは悲しい、でも、顔が見たい。あと何回、きちんと顔を見られるかなんてわからない。見られるうちにたくさん見たい。

 顔をあげた。
 泣き顔がみっともないことは自覚しているから、なんとか止めようと頑張ったら多分変な顔になってしまった。それでも構わない。クレインの、顔が見たい。

 勢いづいて怖い顔で入ってきたクレインの表情がピィの顔を見て、ふ、と和らいだ。
 それでも顔を合わせたら大きな声で怒られる、と、思っていたピィはいつ怒られてもいいようにお腹に力を入れた。涙はもうどうでもいい。こぼれるならこぼれてくればいい。それよりも、どんな表情でもいいから今目の前にいるクレインを自分の脳裏に焼き付けておきたい。


「お前……」


 ぎゅう、と奥歯を噛み締めた。何を言われるんだろうと身構える。


「なんか……すごい顔、してんな……」
「か、顔?!」
「ん……かわいくないけど、かわいい顔」
「かわいい??!! 私が??!!」
「……涙と、鼻水で、ぐっちゃぐちゃ」


 扉を開けられる前は、どれだけ怒られるかと身構えてきたのに拍子抜けだ。まさかかわいいと言われるとは思っていなかったが、あまりの泣き顔のみっともなさにクレインの怒りが消えたのだとしたら自分の泣き顔も役に立ったのだと思えた。


「涙も、鼻水も、勝手に出てくるんです」
「ああ、……そうだな」


 先程までの勢いが一気に霧散してしまって、ピィはどうしていいかわからない。わからないが、やることは一つだ。


「……あの、クレイン……」
「……なんだ……」
「あの、……ごめん、なさい。勝手なことして、ごめんなさい。私と、私を置いてくれると言ったクレインを守るつもりだった、と言い訳したいのですが、それだけじゃなくて、……」
「それだけじゃなくて……?」


 言ってしまえ、と、頭の中のピィが叫ぶ。自分が思っていたことを、クレインに出会った最初から、ずっと思っていたことを洗いざらい話してしまえ、と、叫ぶ。
 一方で、そんなことを話したらクレインの負担になる。余計なことを言って、これ以上困らせてどうする。と、もうひとりのピィも叫ぶ。まだ曖昧にも感じる想いを伝えた所で永く一緒にいられるわけもない。


「それだけじゃ、なくて……」
「ん」


 促された。


「ごめん、なさい。やっぱり言えない、でも、悪い事をした事はわかっているので謝らせてください。……それから、出かけるのでしょう……? 申し訳ないのですが、ほんの少し、触らせてください。指先だけでいいので……」


 クレインのおでこに指先を滑らせようと手を上げた。だけど、クレインはそれをすいっと避けてしまう。


「なぁピィ。お前、まだ、当分身体は治らないんだよな? 」
「……そう、ですね、多分……あと十日もあれば何かにつかまらなくても歩けるようになるとは思います」
「じゃ、いいや、外出るのやめた。だからいいよ」
「え、でも。……クレイン、外に出なくて、平気ですか、ほんの少し触れさせてもらえれば……」
「お前から……逃げて、冷静になろうとしたんだけど……多分冷静になるのは無理だってその顔見てわかったし。無理なら、向き合った方が健全だと思って……あと十日くらいなら、島を出なくてもなんとかなるから」
「でも」
「島を出ないから、俺に触るのは無しな。触ったらお互いにもう我慢できなくなるのわかってるだろ」
「……私、我慢できます……!」
「俺がもう無理だよ。気付いたから」


 また、涙が出てきた。触りたい。触って欲しい。でも、自分の事も、追われていた理由すら話せない、永くここに留まれない自分には、多分何かを願う事はできない。
 願い望んだ所で、叶えられない事はわかっている。
 どれだけ魔力が強くても、人より大きな羽を背中に持っていても、自分は無力だ。


「おい、ピィ、お前何で泣いてるんだよ」
「わかんないです、自分の無力が情けなくて、……涙がでます……」
「……一つ、聞きたい」
「……」
「お前、自分の正体は話せないと言ったな」
「……はい、言いました」
「島全体に二十日も魔術をかけ続けられるような男が無力だとは思わないが……それはそうと、どうして、そんな事を?」
「え……?」
「さっき、お前は、この島が外部から認識できないと言っただろう。どうしてそんな事を? そんな事をしなくても、元々この島を訪ねる人間はいない。わざわざ魔術で隠す意味は?」
「あ、の……それは」
「悪い奴から……」
「え?」
「悪い奴から、逃げてたりするのか? お前を見てると、……お前が悪い事をできるようには見えないし。
 お前が悪い奴じゃないなら、ここに来た時の状況と、ここを魔術で隠している事実を踏まえて悪い奴から身を隠してるのかと。
 他に思いつかないんだけど」
「……」


 こう聞かれた時、何と返すのが正解だ。
 嘘はつきたくない。でもクレインに迷惑がかかるから、真実なんて話せない。
 嘘をつかず、真実も告げず、この、目の前の優しい人に。


「あの、……どこまで信じてもらえるかわからないのですが……。
 追いかけられているのは、……クレインの想像通り追いかけられてはいるんですけど、悪い奴らから逃げているわけじゃないんです。事情があって追いかけられているというか……。
 それから、私も。……悪い人間ではない、です。訳あって友達や知り合いと言う者がいないので証明はしてもらえませんが、悪事を働いた事はありません。
 でも、悪事は働いていないけど、追いかけられているので……逃げたいというか、もう、何言ってるのかわからないですよね、自分でもわからないです」
「そうか……」
「信じてもらえないでしょうけど、悪いことをしていないのは本当です。……いや、逃げることが悪事になるなら、これは悪いことなんですがそうじゃなくて、……うまく言えませんけど……。
 クレインに何も言わないのは、事情を少しでも知ったら知っている事実だけでクレインに迷惑が、……かかると思うので……言えないんです」
「わかった、信じるよ」
「え」


 まさか信じると言ってもらえるとは思わず、聞き返すような返事になってしまった。


「信じるんですか、こんな……根拠も何も言っていないのに……」
「お前が悪いことをしていないというのを信じる。他のことは……どう理解していいかわからないから……なんとも言えないけど。
 とりあえず、早く身体を治せ。その身体じゃ、……悪いやつじゃないけどお前を追いかけてるやつとかに会っても、逃げられないだろ」


 クレインは右手をあげて、ピィの頬にでも触れようとしたらしいその自身の手を、あ、と言いながらおろした。触るなって言った俺が触ってどうする。と小さく言いながらピィを見つめて密やかに微笑む。
 ピィの目からまた涙が溢れた。


「怪我が治ったら、……絶対、触ってください」


 ピィは涙を流しながらもクレインを見つめた。
 クレインは、そうだな、そろそろ休め。と言いながら部屋を出て行ってしまった。

 目の前で閉められた扉を見ながら、ピィは思った。
 もうごまかすことはできない。自分の心の奥底の、本能の部分がたまらなくクレインを欲している。こんな気持ちになるなんて長いこと生きているけど、知らなかった。


 つがいというものは、「あなたが私の番だ」と宣言されてなるものなのだと思っていた。事実そう教えられていた。
 だけど、違う。
 そんなの嘘だ。
 どうしようもなくどうにもならない気持ちが相手に対して勝手に湧いてきて、そして相手もきっと同じ気持ちになっているものが番なんだと今ならわかる。

 扉を見つめながら思う。

 本当に、こんな気持ちを知らないまま、今までずっとただただ生きてきてしまった。


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