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月夜の狐は優しく笑う
しおりを挟むそれは晩夏の夜。
リーン リーン
町から外れた田舎道。
森の近くを歩いていると草むらから鈴虫の音が響いてきた。それが秋の訪れを知らせてくる様で風流に感じ、目的があるわけではないが俺はそんな夏の夜を楽しみながら歩いていた。
リーン リーン リ……
月明かりが道を照らし、未だ夏の熱気もはらんだ風がフワリと髪を撫でる。
ふと、鈴虫の音が止み、風と共に燻した香りと微かな血の臭いがした。
「おや、こんな時間に珍しいじゃないか」
唐突に声をかけられ振り向くと、そこには何やら独特な雰囲気を持つ男が僅かな笑みを浮かべて立っていた。
今時珍しい着流しを慣れた様に着崩し、手には煙管を緩く持っている。
肩の辺りで縛られた金色の髪が夜風に揺れると、先程香ってきた匂いが強くなる。
「ああ、あんたか」
「おや驚かないのか、どうして分かった?」
人を小馬鹿にした喋り方は、相変わらずらしい。
この男とは俺が幼い頃に知り合い、それからと言うもの今日の様に突然現れては他愛もない話をする仲になった。しかしのらりくらりとしており、まともに掛け合うと疲れるので適当にあしらう術を身につけたのはいつ頃だったか。
「匂いがしたから」
俺がそう言うと元々細長の目が更に三日月の様に細められ、瞳の奥の黄金色が月明かりに反射して怪しく光る。
「くくっ、やっぱり晴明は感が良い」
そう言いながら男は、煙管を吹かした。
「益々欲しくなる」
「………」
この男はこの街を囲うように聳え立つ山の主である。
大きな山の山頂に存在する神社を住処としていて、「セイタイケイのセイリだ」とかなんとか言いながら、たまに今日の様に血の臭いをさせながら月夜を徘徊しているのだ。
そして俺はよくそこに出くわしては、今日の様にからかわれる。
「くくっ」
男が喉を鳴らすように笑う。
「何が可笑しいの?」
眉間にしわを寄せ問うと、男は笑いを止め俺を見すえた。
「主のその何も考えていない様でいて、全く隙を感じさせない所が本当に良いと思ってな」
「……?」
「ははっ、無自覚と言う所がまた面白い」
何年一緒にいても飽きないよ。
そう言ってまた一つ煙管を吹かした。
言っている事はよく分からないが、この男の機嫌が良い事は分かる。
俺がそんな事を考えていると、男は近付いてきた。
「して、今夜はどうした。散歩か?」
「そう、風が気持ち良くて」
「そうさの、月明かりも綺麗だしこんな夜長は歩きたくもなる」
軽く笑みを浮かべながら穏やかな表情で近付いてくる男。しかし俺の目の前に来た瞬間にヒュッと右手を俺の顔の横に突き出した。
グシャッ
「ギャーーーーーー!!!」
同時に俺の真後ろから人とも獣とも思われる生き物の断末魔が聞こえてきた。
慌てて振り向こうとするが、男の左手が俺の頭を抑えて自分の胸元に押しつけるので振り返る事が出来ない。
「しかし。今日はならぬ」
直後更に強くなる血の臭い。
一体俺の背後で何が起こったのか。振り向きたくとも男の手は相変わらず俺の頭を抑え続ける。確認したくもあり、見てしまったら最後帰って来れなくなりそうで怖い。
(帰って来れなく……?)
俺は突如わいた自分の思考に疑問を持った。
帰るって、何処から何処へ?
無意識に顔を押し付けられている目の前の男の襟をギュッと握りしめる。
(何処に帰って来れなく…ッ……)
深く思考の波に沈み込みそうになった時、頭の奥がズキンと痛んだ。
「あーあー、晴明無理をするな」
そんな俺の様子に気付いたのか、男が俺の頭をそっと撫でる。
「ーーー…?」
朦朧とする意識の中、俺は男の名を呼んだ。
いや、この男の名前は何だったか。まだ聞かされていないはず。昔から名を聞くと曖昧な笑顔ではぐらかされてしまうのだ。
またもやズキンッと頭が痛む。
「ほら、だから無理に思い出そうとするなと言うに」
そう言って男は、あぶら汗の伝う俺の額に掛かった髪をかき上げ、視線を合わせてきた。
「晴明。ワシの目を見ろ」
「…ッ……?」
朦朧とする意識の中、何とか男の瞳に焦点を合わす。昔からこの男の言う事には逆らえない、いや逆らうと言う思考にすらならないのだ。
この男が俺を害する事が無い事を“知っている”から…
金色に輝く男の瞳をジッと見る。縦長の瞳孔がキュッと締まった。
「まだ思い出さなくてよい、まだ時ではないのだ」
まるで暗示にでも掛けられているかの様にぼうっと金色を見続ける。
まだ思い出さなくて良い、まだその時じゃないーー
大丈夫。彼の言う通りにしていれば、何も怖くない。だって彼は俺の………
俺の……?
***
リーン リーン
風が頬を撫でる。
「…….あれ?」
目を開けると自分の家の縁側に横になっていた。
庭の木々の側から鈴虫の音が聞こえてくる。
「ああ、晴明。目を覚ましたか」
真上から声がする。
びっくりして声の方を見ると、男が煙管を吹かしていた。
俺は膝枕をされていたらしい。
慌てて身体を起こす。
「あ、ごめんっ」
「ああ、そんなに慌てて起きるな」
「イタッ……あ、頭痛い…」
「言わんこっちゃない」
溜息をついた男は、そっと俺の頭を撫でた。
何かを思い出し掛けたが、直ぐに忘れる。
「俺、何でここであんたに膝枕されてるんだ?」
痛みで涙目になりながらも、男の手から伝わる体温に段々と痛みが和らいできたので、気持ち良さに目を瞑りながらここに至るまでの経緯を聞いてみた。
確か散歩中にこの男と出会って立ち話をしていたはず。
「晴明の散歩中に出くわしたのだが、話している途中で主が頭が痛いと言って蹲ってしまったのよ」
「え、本当?」
「うむ。そのまま意識を無くしたのでワシがここまで運んでやったのだ」
くくっと喉の奥で男は笑い、俺の髪をクシャッと撫でた。
「ご、ごめん!重かっただろ?」
いくら彼とは身長差があるとは言え、男子高校生1人運ぶとなるとかなり大変だったはず。
俺は再び頭を下げた。
「ふん、晴明の1人や2人どうと言うこともないわ」
そう言って、この話はもう終いだとでも言う様に、手に持った煙管を緩く吹かした。
その優しさが有難い。
俺もその優しさに乗らせてもらい、よっこいしょと立ち上がる。
「何かお腹空いちゃった。あんたも何か食べてく?ここまで運んでくれたお礼も兼ねてさ」
「おー、晴明の飯は絶品だ。御相伴にあずかるとしよう」
「わかった。冷酒も用意しよう」
「ククッ、分かっておるのう」
楽しそうに笑う男に準備が出来たら声を掛けるよと言い置いてその場を離れる。
何を作ろう。冷蔵庫の中は何が残ってたかな。
「ゆっくりでよいのだ……晴明」
台所に向かいながら何を食べてもらおうか考えていた俺には、縁側で月を眺めながら煙管を吹かす男がそう呟いていた事を聞くことは無かった。
END
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