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11−4 紫焔

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「まったく、どちらとも残らぬとは」

 華鈴と紫焔を交互に見遣って、宗主は首を振った。
 宗主は小さな身体から、大きな息を吐き出す。明らかに非難した表情をされて、華鈴は首をすくめた。華鈴だけが残るとは、宗主も考えていなかったのだろう。

「今回こそはと、思ったんだがの」
「初めから僕には必要ないと、お伝えしていましたが? 僕の相手は、僕が決めます」
「お前が自ら決めるのならば、それで良い」
「なら、良いではないですか」
「だが、人間はダメだ」
「結婚するのは僕ですから。宗主の好みは聞いていませんよ。どうしてそこまでこだわるのですか」

 二人は結婚の話をし始めた。紫焔の声は少しだけ低くなる。宗主も眉間に皺を寄せた。
 紅音と和子が出ていったので、結婚話は振り出しに戻った。しかし、華鈴が残っているので、宗主は紫焔が華鈴と結婚する気だと思っているのだろう。

 結婚について、紫焔としっかり話しているわけではない。紫焔はその気なのだろうか。
 紫焔を見上げれば、華鈴の視線にすぐに気付き、ゆるりと微笑む。

「僕はその気だよ。華鈴。前から言っているようにね」
 何も言っていないのに、膝に乗せていた華鈴の手をそっと握って引き寄せた。大きな手が華鈴の手を包む。温かさに顔まで熱くなってくるようだ。

 紫焔について、好きか嫌いかと問われれば嫌いではないし、おそらく好きな方なのだろうが、結婚する相手として好きかと問われると、まだよくわからなかった。
 ただ、一緒にいて苦ではないし、話すのに緊張しても、嫌なわけではない。なにより、安心する。

 子供の頃、誰かの名前を呼ぶのは怖かった。顔を見て、その人の名前を知るのも怖かった。そのせいで、今でも人の顔を見るのは苦手だ。呼び方によっては相手の意思を奪ってしまう。
 力の使い方は制御できるようになった。曽祖父の手伝いをするようになって、色々な人と会うことも増えた。

 それでも、時折、聞かずとも名前がわかるのが怖くて、顔を見ないように俯いてばかりだった。
 しかし、紫焔はそれすらも許すかのように名を呼べと言った。それがどれだけ華鈴の心を軽くしたことか。

「華鈴、お前は源蔵の家に帰りたいのではないのかね? これを開いてごらん」

 宗主は華鈴に問いながら、幅の広い巻物を華鈴によこした。その巻物を広げれば、見覚えのある絵が描かれていた。

「どうして、宗主がこんなものを!?」
「そんな顔をするのでないよ」

 凄んだのは紫焔だった。宗主はただ目を眇めるだけで紫焔の凄みを抑える。
 華鈴は震える手で絵を広げた。そこに描かれていたのは、懐かしい我が家。曽祖父と一緒に暮らした、大切な家だ。

「ひいじいの家だわ。この絵は、ひいじいが描いた、ひいじいの家です。残った絵は、屏風しかないと聞いていたのに」
「あちらに行ったことのないわしが、頼んで描いてもらったものだ。これを描いた後、源蔵は帰っていった。自分の家を描けば、帰れるのだと気付いたのだろう」

 曽祖父は突然家に戻ったという。紫焔はそのきっかけを語らなかったが、宗主が絵を依頼した際に、絵によって道を繋げられると気付いたのかもしれない。この絵の他にもう一枚家を描いて、帰っていったのだ。

「源蔵は絵を全て焼いていった。残ったのは源蔵の部屋の屏風だけだ。それでも、お主が追ってくるとは思わなかっただろうなあ」

 宗主は意味ありげに口にする。

(その言い方じゃ、まるで、ひいじいがこちらを捨てたみたいな)

 そろりと見遣った先、紫焔の表情には影がさしていた。

「なにが言いたいのですか。宗主」
「こちらに残したのは、ただの風景画だけで、それ以外はなにもなく、お前に挨拶もせずに行ったのだろう。源蔵はこちらに思い残すことなどなかったということだ。こちらに留まる理由もない。帰れる道がわかれば、さっさと帰る。その娘のように」

 宗主の言葉に華鈴はギクリとする。帰るための道がわかれば、とっくに帰っている。最初にこの絵を見せてもらえれば、すぐに帰っていた。
 曽祖父もまた、帰り道がわかっていれば、さっさとこの地を去ったはずだ。

 曽祖父は間違えてこちらに来てしまった。帰り道がわかれば帰るだろう。あちらには、結婚した妻がいた。ずっと帰りたがっていたのだから。

 けれど、どうして紫焔に挨拶もせず帰っていったのだろう。
 紫焔はただ黙って聞いているだけだ。

「源蔵は人間だ。我らとは違う。源蔵は家を描き、人間の世界を思い出したのだろう。我らの生き方とは違うのだと。源蔵はお前を助け、手伝いをしたが、それはバケモノを倒していたと思っていたに過ぎない。燐家に来てバケモノが我らの世界に生きているモノだと気付いた。それからの源蔵が、お前の手伝いをすることはなかったはずだ」

 曽祖父は街中にいるモノたちから恐れられたり恨まれたりしている。それは紫焔を助けるために恐ろしい術を使っていたからだ。
 華鈴を追ってくる黒い影のようなモノたちと戦っていると思ったら、丸吉のように心優しいモノもいることに気付いたのかもしれない。それが人間と変わりなく、バケモノではないとわかり、曽祖父はその力を使うのをやめたのだ。

「源蔵は人間に戻りたかったのだよ。だから、お前に何も言わず、この地を去ったのだ」
 宗主の言葉に、紫焔は無言で返した。ただ、ぎゅっと拳を握っている。

 人間に戻りたかった。しかし、曽祖父はあちらに戻って愕然としただろう。かつての妻は自分よりずっと年をとり、知らない間に子供を産んで育てていた。しかも、その子供は自分と同じくらいの年になっていたのだから。
 人間に戻りたくても、あちらに戻って、昔には戻れないことに、何を思っただろうか。

「そのひ孫を娶れば、同じことになるだろう。家に帰りたがる。またお前は一人になるよ。睦火。子供の頃は何にも興味なく過ごしていながら、人間と関わって戻ってくるのだから、当時は驚いたものだよ。お前にとってこちらの興味は薄く、兄たちに比べて強欲さもなかった。だから、あのまま死んでしまうと思っていたのに」

 宗主の言葉に、華鈴はどこか引っかかりを覚えた。
 まるで、紫焔が誘拐された後を知っているかのような言い方だ。
 紫焔は口を閉じたまま、宗主の方をまっすぐに向いた。

「宗主となるならば、その上に立つものとして、それなりに下のものたちの面倒を見なければならない。周囲に興味のないお前はそれを怠るだろう」
「ならば宗主は別のモノにすれば良いのでは? 僕は好んでませんから」
「それができるのならば。お前は兄たちとは比べものにならない力の持ち主だ。選びようがない。そうでなければ、お前はあの場で死ぬべきだったのだから」
「待ってください。宗主は、紫焔さんがどこに閉じ込められていたのか、知っていたんですか!?」

 華鈴は立ち上がった。紫焔は幼い頃に拐かされて、戻ってきた時には成長した姿だったという。どれだけ長い間閉じ込められていたのか。皆が死んでしまったと諦めるほどには、長い時間戻って来なかったのだろう。
 けれど、宗主は、それを知っていた上で、放置していたかのような発言をしたのだ。

「華鈴。いいんだよ。こちらでは生きるか死ぬか、力があるかないかが重要なんだ。助ける必要なんてない。自分でなんとかできなければ、結局すぐに死んでしまうのだから」
「でも、」
「無気力に生きていたのだ。他に興味を引くことなどなく。放置などせずとも、戻ってこられる力を持ちながら、ただ捕らえられていただけにすぎないのだよ。睦火に戻る気がなかったのだから」

 紫焔は戻る力がありながら、それに抗わなかったのだと、ただ頷く。

「どうしてそんな? 帰ってこられるのなら、帰ってくればよかったのに」
「生きる気がなかったからだ。源蔵がその場にいなければ、今でもそこにいたのだろう。睦火が人間に興味を持たなければ、その場を離れる気も起こさなかったはずだ」
「そんなことありませんよ」

「力がありすぎたために、すべてに興味を失っていた。けれど、人間という弱き者を前にして、源蔵の力に心奪われたのだろう。人間が側にいないと、お前はとても無気力だよ。だからまた人間興味を持つ。その娘に名前を与えられて、その名に変わるほど。だが、その娘はあちらに帰ることができる。ここに留まる理由はない」
「それで、そんな物をわざわざ出してきたんですか?」

「お前が強いものに惹かれるのは当然だ。けれど、人間はダメだ。仕方なく留まるものを見続けるほどつらいものはなかったではないか。その娘もあちらに戻るのだから、同じ思いをする。その娘も帰りたがっているのだろう」

 曽祖父の絵があれば、華鈴は家に帰ることができる。曽祖父の家がそこに描かれていれば、造作もないだろう。
 しかし、紫焔はにっこりと笑顔を作った。微笑むとは違う、作られたような笑顔だ。そこにはどこか怒りが滲んでいるように見えた。

「華鈴。帰っても、あの化け物がついていったら困るだろう。だから、こちらにいないと」

 華鈴はあの黒い影を思い出す。華鈴についてくる可能性があるため、あちらに戻ればあの黒い影もついてくるかもしれない。
 それを考えれば、曽祖父の家に戻るのは怖さがあった。今まで敷地内に入ってこなかったのが、入ってくるようになったのだから。

「あの程度の輩、どうにでもできるだろうに。それを放置しているのだから、お前の答えが出ているな」
「どういうことですか?」
「燐家の中にすら入ることのできないモノが、何になるという。宗主になれるだけの力を持って、何もできないと思っているのかね」

 華鈴は紫焔を見上げた。紫焔の顔色がさっと悪くなる。

(ああ、そうだったわ)

 宗主になれるほどの力があるからこそ、紫焔は次の宗主に選ばれた。それがどの程度なのか華鈴にはわからないが、紫焔にならばどうとでもできる力があるのだ。紫焔がその気になれば、あの黒い影をどうにかするくらい容易い。

「お前に嫁を得ろと言ったのは、それで少しでも守る心が生まれればと思ったからだ。だが、どうにも、同じ仲間たちには興味を示さぬのだな。人間が珍しいからなのか。お前に力がありすぎるからこそ、弱き存在だと思っていた人間に力があったことが、そんなに面白かったのか」
「華鈴、僕は、」

 紫焔の顔色が見る見る青ざめていく。こちらに留まらせるために嘘を吐いていたことに罪悪感でもあるのか、紫焔には見たことがないほど、焦りを感じさせた、困惑した表情を見せた。
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