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ヘライーヌ

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「珍しい人が来た」

 椅子の上で小さく丸まっていたヘライーヌがこちらに気付くと、椅子に座ったまま、顔を後ろ向きに上げた。

 机の上には、いくつもの瓶や、何かを書き付けた紙や木札が散乱している。一人用の机はそれだけで埋まっており、棚には蓋のしまった瓶がいくつも置いてあった。乱雑に置かれている瓶は、地面にも転がっている。部屋は人が数人入られるくらいの部屋で、机と椅子と棚しか置いていない、さほど広くない部屋だった。

「何か、ご用ですかー」
「随分と、狭い部屋なのね。ここで植物増やしたって、聞いたけれど?」

 フィルリーネは、周囲を見回して頭上を見上げる。階高はあるが、イムレスの書庫と違って何もない。ただ白いはずの壁には、黄色や黄緑色のシミが残っていた。

 少しばかりすえた匂いがするのは、ヘライーヌが風呂に入らず、ここで実験を繰り返すからだろうと推測する。ここは、植物園の研究員の部屋と違ってガラスでできていないので、何の実験をしているかは分からないようになっており、窓もないので、換気もできないのだ。

「ここ、鍵かかってたんですけどー。入られないようにしてるんですけどー」
「そうね」

 後ろの扉だけでなく、この部屋全体に魔導が行き渡っている。扉から入るには、ヘライーヌの許可が必要だ。魔法陣の結界を解除するには、それなりの力が必要だろう。
「研究を邪魔されない程度の結界でしょう。大したことないわ」

 前に部屋から籠もって出てこなかった時、イムレスが魔法陣の解除を行ったところ、強力な毒性の罠が仕掛けられていたという。もしものことがあったら困ることより、ヘライーヌが食事も睡眠もとらず死んでいることも考えられるので、無駄に強力な結界は作るなと怒ったそうだ。
 それからは、そこまでの魔法陣は敷いていないと聞いていたように、解除に力はかからなかった。ただ、普通より癖が強かっただけだ。

「手前の部屋は無人なのね。そこは魔法陣がなかったから、失礼させていただいたわ」
「姫さんが入られるような結界じゃないんだけど」
「あら、そう」

 ヘライーヌは、暗闇のような瞳をこちらに向けてくる。不信に思っていると言うより、寝不足で虚ろな感じだ。怒られても、まだ眠らず、研究をしていたのだろう。

「いつものお付きがいないんだ? 一人?」
「そうね。もう一人いるわね」
「へえ」

 ヘライーヌがぴくりと眉を上げた。フィルリーネの肩に、ふわりと布が触れる。巻きついてきた腕に、ヘライーヌは半目だったその瞳を、大きく開いた。

「ラグアルガの谷の洞窟に行ったのよ。面白い物が動いていたのだけれど、お前は知っていて?」
「事によっては、抹殺ものなんだけど。あんた、分かってんの?」

 エレディナが、フィルリーネの肩からヘライーヌに凄んだ。浮き上がり、透けた身体を見上げて、ヘライーヌがぽかんと口を開く。

「姫さんが、興味を持つものだと思わなかったけど」
「誰もが興味を持つものだと思うけれど? あそこで、何が起こっているのか、お前は知っているのでしょう?」

 ヘライーヌは見開いた目を半目に戻す。そうして、くつくつと笑いはじめた。
「は、はは。姫さんすごいや。あの国王の娘だけあるね。精霊従えて、見に行ったの?」
「精霊たちが、恐ろしさで知らせてきたのよ」
「ああー。だから、周りにくっつけて歩いてたんだ。よく見てないふりできたね。あんなに囲まれてたのに」

 ヘライーヌは思い出したように、お腹を押さえて笑いはじめる。エレディナが、笑える話なんてしてないわよ。と凄むと。ピタリと笑うのをやめた。

「精霊たちが怯えている。何をしたか、分かっていて、研究に手を貸したの?」
「わたしは知らないよ。作ったのはわたしだけど。面白い実験だって」
 エレディナの魔導がぶわっと強まる。ヘライーヌが目を眇めて、丸くなっている身体に力を入れたのが分かった。

「話せないよ。わたしも楽しみだから。どうなってるか、知らないけど」
 ヘライーヌは洞窟へ行ったことはあるが、その後どうなったのか知らないと言う。イムレスがカサダリアに行っている間に訪れた時以降、あの洞窟には入っていないようだ。

「交換条件よヘライーヌ。お前が誰かに傅くなど考えていないわ。忠義などに囚われないことは分かっている」
 興味のあるものへの探究心。ただそれだけの、子供のような動機。ヘライーヌの欲求を満たせるものがあれば、それだけで引き込むことはできる。

「お前にとっての利益をあげるわ。冬の館で面白いものを見せてあげる。それを研究するのね」
 イムレスが精霊の書を訳していても、あの場所に興味を持たない研究者はいない。

「いらしゃい、ヘライーヌ。見せてあげるわ」



 冬の館の、芽吹きの儀式の洞窟。そこの入り口に魔法陣の結界はあるが、ラグアルガの洞窟で行ったのと同じく、穴を開けて通り抜ける。普段使われない儀式の舞台は結界だけで閉じられていて、それ以外守るものもなかった。ここが何のためにあるのか分かっていても、冬の館の中は、守りが弱い。

 エレディナに連れられて、フィルリーネはヘライーヌと儀式の洞窟へと入り込む。洞窟の魔導に、ヘライーヌは目を瞬かせた。先ほどまで虚ろな顔をしていたのに、今ではぱっちり瞳を開き、子供のように口を大きく開け、周囲を見回している。

「転ぶわよ。こっちにいらっしゃい」
「姫さん、ここ何!? すごいすごい」
「声が大きいわよ。もっと凄い場所があるから、大人しくついてきなさい」

 ヘライーヌは周りを見ながらも、大人しくついてくる。興味が優っているようで、フィルリーネの言うことを聞いた。洞窟を歩き、広い場所に出た時、ヘライーヌは当然のように頭上を見上げた。

「何あれ。うわーお。魔導の塊!? 姫さん、ここ、何!?」
「私も知りたいのよ」
「知りたいだらけだね! あの壁の魔鉱石から上に繋がってるの? この魔導は、魔鉱石だらけってことじゃん。すごいね。これだけあれば、何百年城が動けるかな」
「芽吹きの枝を入れる穴があって、そこから魔導を奪うと、上の球体に魔導が届くの。それから何処かへ、その魔導が飛んで行ったわ。王の選定と言われているらしいけど、詳しくは分かっていないそうよ。原文はイムレス様が持っているから、あとでお借りしなさいな」
「姫さん、これはすごいよ。この国にもこうゆーのあるんだね。ラータニアにはありそうだけどさ」

 浮島があるのならば、ラータニアにも似たような場所はあるだろうか。だが、ここが最後の、芽吹き。この舞台はここにしかないだろう。

「調べたいのならば、エレディナが連れてくるわ。どうするの、ヘライーヌ?」
 残念ながら、ヘライーヌが興味を持ちそうなことが、これくらいしか思い付かない。この場所は、エレディナの転移の力がなければ来られない。エレディナが監視できるのだから、ここが一番適当な場所だった。

「いいよ。姫さんにつこうか」
「そんなのいらないわ。面白いものがあったら、すぐに気が変わるのでしょう」
「はは。面白いなあ。姫さん。意外だ」
 ヘライーヌは口を大きく半月の形にすると、にんまりと笑った。

「分かるところまでしか教えられないけど、教えてあげるよ。実験が成功したかは聞いてないから、聞いてみる。それからでいい?」
「……構わないわ。けれど、何かあれば、分かっているわよね?」

 こんなことで脅しにはならないだろうが、ヘライーヌはフィルリーネの瞳を見つめると、真面目な顔をして、静かに頷いた。




「フィリィ姉ちゃん」
「マットルー!」

 癒しの笑顔が駆け寄ってきて、自分も駆け寄ると、ぎゅっと上から抱き潰した。久し振りすぎて、羽交い締め状態に、マットルがバシバシ人の腰を叩く。

「さっきから、変なおじさんが、フィリィ姉ちゃんのこと待ってる」
「うん。ありがとう。これ、玩具ね。みんなで遊んで」

 フィリィはマットルを離すと、カバンから新しい玩具を渡す。マットルは花が咲くような笑顔を見せて、子供たちを呼びに走った。
 はあ、私の癒したち。可愛すぎる。まだまだグングナルドは暑いので、みんな水場で水遊びだ。いいねえ。私も飛び込みたい。

「こんなとこに呼び出すのはいいがよ。あんた、結構適当にうろついてんだな」
「むしろ城にいる方が少ないわよ」

 用水路の側で寝転がっていた男は、ゆっくりと座り直す。ニュアオーマは制服姿だったが、気にせず寝転がっていたようだ。相変わらず、皺だらけの服を着ている。

「うるさいやつが時々戻ってくるの、何とかしてくれねえかなあ。他の奴らと話してる時に話し掛けられると、何言ってるのか分からなくなるんだよ」

 それは同感だ。ほんのり生暖かい目で見て、返答を避ける。ヨシュアには時々、ニュアオーマに情報を得に行ってもらっている。今はずっとついているわけではないが、時と場合を気にせず話し掛けるようで、邪魔なのだろう。
 私、いつもそんなだけどね。

「そんで? 洞窟がどうのって、何の話だ? ヨシュアだと話が通じなくてよ」
『通じなくない。精霊が変な精霊で、大きい魔獣がいる』

 合っているが、それで理解しろという方が無理だ。ニュアオーマには直接話すつもりだったので、ヨシュアには詳しく話していない。ここに連れてこいと伝えただけだった。

「情報があって。ラータニアに繋がる谷、知っているでしょう?」
「ラグアルガの谷か?」
 ニュアオーマは言いながら、水を指につけると、長い線を描く。

 ラグアルガの谷と言っても、川の跡全てを言うので、どこの谷か分からない。フィルリーネはその線に、村や町を水で記す。ラータニアの国境に近い場所だ。
 精霊の集まる木の付近は、人がうろつく場所ではない。森も多く、岩だらけの場所が続くからだ。この場所は、小型艇に乗る者くらいが知っている程度だろう。
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