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夫に相手にされない侯爵夫人ですが、記憶を失ったので人生やり直します。
パーティで絡まれました。
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「いつも別の方といらっしゃるのに、本日はお二人で参加ですのね」
真っ赤なドレスがお似合いの金髪美女が話し掛けてきた。話し掛けてきたと言うべきなのだろうか、くすくすと笑う女性たちを伴わせて、こちらを向いて話している。
「ねえ、ご存知かしら? いつも連れていらっしゃる女性が違うのですわよ。どなたかと違って可愛らしく華やかな方ばかり」
鼻にかけた言い方が嫌味っぽいのだが、誰とも言われてもいないので、素通りする。何せ挨拶もしていないので、自分に話し掛けているとは限らない。
「ちょ、無視なさるなんて、失礼でなくて!?」
真っ赤なドレスの令嬢が青筋を立てた。扇で口元を隠していたが、焦った様子で扇が顔から外れて顔が見える。
名前は確か、レジーナ伯爵夫人。彼女の旦那様はご一緒ではないらしい。
「私に話し掛けられていますか?」
「はあ!? 当たり前でしょう!?」
「まあ、そうですか。ご挨拶もなかったので、そんな失礼な真似を伯爵夫人がされるとは思いもしませんでした」
「なっ!?」
残念ながら、身分は侯爵夫人のこちらが上である。こちらが話し掛けてもいないのに挨拶なしに声を掛けるなど、言語道断だ。後ろにいた女性たちも顔を引き攣らせた。二人は子爵夫人なはずだ。
「はっ。いつもご一緒にいらっしゃらないのに、本日だってご一緒ではないでしょう。それで侯爵夫人を名乗るだなんて、図々しいのではないかしら」
どうやらレジーナ伯爵夫人は、こちらが旦那様と一緒にいないため、随分と侮ってかかってきているらしい。旦那様の影響力がないので、突っ掛かっても問題ではないと思っているのだろう。
とてつもなくくだらないものである。とは言え、貴族ではこのようなことが頻繁に起きるものだ。
「夫にご用だったかしら? でしたら、近くにはおりませんけれども?」
「侯爵夫人ともあろう方が、お一人でふらふらとされていて、余程侯爵様はご一緒されたくないのでは?」
人の言葉は無視し、一人を強調した。どうしてもその話がしたいようなので、こちらは正直に話すまでである。
「そうですわねえ。いつもはどなたかといらっしゃるでしょう? 私も驚いてしまって。急に誘われて私も困ってしまいましたの」
ほんのりため息をつくと、レジーナ伯爵夫人と他二名が顔を見合わせ、少しばかり混乱した顔を見せた。予想通りの答えではなかったらしい。
「あ、あの方といらっしゃると思ってましてよ。最近は、あのご婦人とご一緒されてましたものね。ねえ、皆さま」
「ええ。あの、金髪の、」
「まあ、本日はどうしてその方とご一緒じゃないのかしら。あなた方はご存知でいらっしゃるの? 一緒にいらっしゃられる方がご一緒してくれた方が、よろしいのですけれど」
そう答えると、夫人たちがやはり顔を見合わせた。これも期待していた答えではなかったらしい。
「そのお話、詳しくご存知かしら。夫が急に私を呼ばれるなんておかしいでしょう? 今日は誰とも日程が合わなかったのかしら。その方を怒らせでもしたのかしら。理由をご存知?」
「さ、さあ。私たちは存じ上げなくて…」
「あら、そうですの? 残念だわ。では、他の女性たちはどうしているのかしら? 詳しく聞きたいのですけれども!」
食いつくように言うと、何故か夫人たちは逃げるように去っていってしまった。詳しく知っていると言いたげだったのに、どうやら知らないらしい。
まあ興味などはないので、正直なところ旦那様の相手などどれでもいい。
今のことは忘れて飲み物を飲んでいると、再びダンスの誘いがあった。既に一番手のダンスは終えたので、これで文句を言われることはないだろう。了承してダンスホールへ入り踊り始めると、それから急にダンスの誘いが争うように行われた。
「侯爵夫人、私とダンスをお願いいたします」
「私とも、ダンスを」
何が起きたのやら。暇をしていたから付き合ってくれるのか、男性陣のお誘いが止まらない。ダンスを終えると次が待っており、息をつく暇もなくダンスに誘われる。
ダンスは念の為練習してきた。ダンス自体に問題はなかったので、記憶がなくとも身体が覚えているようだった。
「次は、私とも!」
何人目だったか。さすがに疲れてきた。そろそろ休憩をしたいと思い、次のお誘いを断ろうとした時だった。
「エラフィーネ!」
突如誰かを呼んだ声に振り向くと、さっと手を取られた。手を引いたのは旦那様である。エラフィーネは「わたし」の名前だ。忘れていたが、私になって呼ばれたのは初めてな気がする。
旦那様はダンスを申し込んできた男性に睨みをきかせると、人気のないベランダへ私を連れ出した。どこか怒っているかのように思えたが、怒られるような真似はしていない。
(パーティに来るお相手を探っていると思われたかしら。反対しているわけではないのだけれど、誤解をされてしまったかしら?)
「なぜ、他の男とダンスなど!?」
お相手のことについて話したから怒るのかと思えばその質問で、私はきょとんとしてしまった。旦那様は急に振り返ったので、ふわふわの金髪が揺れて少しだけ髪が乱れている。
「なぜとおっしゃりましても、旦那様は近くにいらっしゃいませんでしたし、一人でいるところにダンスを申し込まれましたので、お受けしました。何か問題でもありましたか?」
「それは…っ」
怒られるのならば理由を知っておきたい。なぜ怒られるのかも分からず頷いて、同じことで怒られたくない。
「最初のダンスは、身内と行うべきではないのか?」
「それでしたら、オスカーと踊りました。それに、旦那様はパーティにはいつもどなたかとご一緒されているのだし、多くの女性とダンスをされているのですから、気にされるとは思いませんでした。念の為オスカーにはお願いしましたが」
本当に念の為だった。アルバートの助言を聞いていて良かったのだろう。
よく分からないが旦那様は「わたし」にダンスを踊ってほしくなかったようだ。「わたし」はダンスが下手だったのだろうか。そうでないと思いたい。先ほど存分に踊ってしまった。
「問題ないと判断致しましたが、問題がありましたか?」
文句を言ってきた割に、旦那様はぐっと口を噤んだ。
「い、いや。………何でもない」
その態度は何だろうか。言いたいことがあれば言えばいいのに、なぜか言葉を呑み込む。
旦那様はそのまま帰るとおっしゃり、オスカーを探す間もなく帰路に就くことになった。
馬車の中ではずっと無言。よそを向いてこちらを向かないので、ご機嫌は良くないようだ。
旦那様は余程「わたし」と話したくないのだろう。会話が成立しない。対話をする気がないのなら、こちらもその姿勢は必要ないと考えたくなる。
旦那様の「わたし」への接し方を、記憶を失ったことでまっさらな気持ちで確認することができたわけだが、旦那様は「わたし」を相手にしないことが事実であると言わざるを得なかった。
だが、結局のところ、私にとってはどうでもいいことだと再確認した。オスカーの話は聞けたし、実母も迎え入れてくれると言っているのだから、前よりずっと心が軽いのである。
オスカーに子供が生まれるのならばしばらく忙しいだろう。落ち着いた頃に旦那様の妻であるのが嫌になるようなら、屋敷を出てもいい。そんなことをぼんやり考えた。
「お客様? 私にですか」
パーティが終わって数日後。旦那様が再びお城でお仕事に勤しまれる中、お屋敷にお客様がいらっしゃった。
「どなたかしら」
「それが、バリュー様と名乗られて。亡くなられたバリュー子爵のご夫人かと思われます」
アルバートは言葉を濁した。バリュー子爵との間に子供はいるが、とても幼く、後ろ盾を探していると言う噂のある女性だと言う。それはつまり、旦那様のお相手だ。
「まさか、乗り込んできたんですか!?」
「手紙もよこさず訪問するだなんて、失礼な方のようですね」
メアリが噛み付くように言う。隣でエレーナも同じく罵った。
「わたし」のお友だちと言う発想はないようなので、旦那様のお相手である可能性が高い。
(これは、会わなければならないのでは? あら。ちょっとわくわくするわね)
「お通しして。お話がしてみたいわ。何のご用かしら」
うきうきして客間に通し会いに行くと、そこには金髪の女性が佇んでいた。
予想していたより穏やかな雰囲気の女性で、私より背が低めだ。柔らかく微笑んでスカートを摘み挨拶をする。
「初めまして、エラフィーネ様。バリューと申します」
「お座りになって。私にご用だそうですけれど、お会いしたことありまして?」
「いいえ、初めてですわ。こちらにお伺いしたのは、先日のパーティにご夫妻で出席されたと耳にしまして」
バリュー子爵未亡人は青い瞳をぎらりと光らせた。笑顔のわりに睨みがきつい。器用な真似をされる方だとまじまじ見てしまいそうになる。
(いけない、いけない。旦那様のお相手よ。失礼はいけないわ)
けれど、初めて相手がやって来てくれたのだ。旦那様の相手に興味はなかったが、宣戦布告をしにきた女性を足蹴にするわけにはいかない。つい前のめりになって何しに来たか問うてみる。
「ええ、出席しましたわよ。それで、ご用向きは何かしら?」
「ご存知ないようなので、お伝えしに来たんです」
「うんうん」
「侯爵様は、いつも私にお誘いをくれるんですよ。あの日のパーティも予定を空けておいてくれとおっしゃっていたのです。ですが、急に奥様と出席されると、突然」
「そうなんですの? では、理由はご存知かしら。どうして急に私と出席することに?」
「エラフィーネ様がすがったのではないのですか!? パーティにご出席されなくなって久しいのに、今更侯爵様におすがりになって、まんまと侯爵様とご一緒されて!」
どうやら勘違いをして牽制に来たらしい。愛らしい顔をしているのに、牙を剥き出すように吠えてくる小型犬のような顔をしてきた。
(いえ、それも愛らしいわね。旦那様はこう言った可愛らしい方がお好みなのかしら。きゃんきゃんしていて、和むわあ)
「聞いていらっしゃるの!?」
「ああ、ええ。聞いておりますよ。旦那様が、えー、私を選んだ理由ですか? 何でしょうねえ。私も聞きたいです。急にパーティなんて困るでしょう。急遽ダンスの練習もして、それは充実した日々でしたけれど、高い踵の靴を履いてダンスを続けたものだから、数日足が痛くて。あ、そんな話はしてませんわね」
つい足元を摩りたくなるが、レディとしてあるまじき動作だ。何とか我慢する。
目の前のバリュー子爵未亡人はぷるぷるした。体調でも悪いのだろうか。
「わ、私が行くはずでしたのよ!」
「そうですわねえ。どうして旦那様は急に予定を変えたのかしら。私も聞きたいわ。予定を変えたのは旦那様ですし、何か都合が悪くなったのかしら」
「私に何か悪い都合でもあったとおっしゃるの!?」
「いいえ、そうではなくて、旦那様が、お連れできない理由があったのではと言う意味で。私の方が適度に良い理由があったのかと。まあでも私に問われても分かりませんから、直接旦那様にお聞きくださいな。本日はお戻りになられないでしょうから、お城に出向いた方が良いかもしれないわ。きっとしばらく帰られないのよ」
なので、ここで質問を受けても答えられないのである。そう言うと、バリュー子爵未亡人はぷるぷるしたまま立ち上がり、ぎろりとこちらを睨んで出ていった。忙しい方である。
「何です、あの態度!」
「あんな女を同伴させているだなんて、旦那様も趣味が悪いですね」
エレーナの言葉がひどく鋭い。隣でメアリが大きく頷いた。
「可愛らしい方じゃない。旦那様はああいう方が好みなのねえ」
「奥様! そんな感想」
そんな感想しか持てないので、うふふと笑っておく。私は可愛らしいと言う雰囲気は持っていない。漆黒の髪で少々目が切長なので、可愛いと言う表現はされないだろう。だとしたら、旦那様のお好みの顔ではないのだ。
「エラフィーネ!」
バリュー子爵未亡人が帰ったその日の夕方、ばたばたと騒がしい音が聞こえたと思ったら、旦那様が早い時間に帰宅された。帰宅するなり人の名を呼んで何事だろうか。
「エラフィーネ、客が、来たと聞いた」
旦那様は急いで帰って来たのか、焦った様子でそんなことを聞いてくる。
バリュー子爵未亡人が城に行って文句を言ったようだ。追い出したつもりはないが不満げにして帰られたので、旦那様は私の対応にお怒りなのかもしれない。
そう思って立ち上がったが、旦那様の顔色は凍えたように青白く困惑した表情をしていた。
「お客様でしたらバリュー子爵未亡人がいらっしゃいました。お約束なくいらっしゃったので、急ぎの用かと思い対応させていただきました」
「対応したのか? 君が?」
「ええ。私にご用があったようなので」
「か、彼女は何と?」
「先日のパーティに同行するのは自分だったとおっしゃいました。理由を問われましたので、存じませんと。私に聞かれても理由は分からないため、旦那様に直接問うようお伝えしました」
はっきりと言いすぎたか、旦那様は頭を抱えてしまった。直接的な言葉ではまずかっただろうか。もう少しオブラートに包んで…。いや、問われたことを答えたまでで、理由など思いつかない。知らないとしか言えないだろう。
「ああ、あと、バリュー様は旦那様とパーティのお約束を先になさっていたのに、突然同伴をキャンセルされ驚かれた様子でした。とても心配されていましたので、理由があるならばお伝えした方がよろしいのではないでしょうか」
「君は、君はそう思うのか!?」
「ええ。誘われたのに急にキャンセルさせた上、別の女性を連れるならば、とても心配されると思いますよ。ちゃんとご説明すべきだと思います」
誘ったのは旦那様である。誠意ある対応をすべきだろう。きっとバリュー子爵未亡人はパーティに誘われドレスや宝石類を用意していたに違いない。楽しみにしていたのに突然キャンセルされ、別の女性を連れたと後で聞いたら、さすがにショックだと思う。
旦那様は蒼白になるとふらりと傾いだ。
きっとバリュー子爵未亡人がそこまで驚いていたと知らなかったのだろう。そんなにショックを受けるならば、彼女を連れて行けば良かったのに。
「そうか…」
言って、旦那様はふらふらしながら部屋を出ていった。後できっとバリュー子爵未亡人にお詫びの手紙や花を送ることだろう。
「お、奥様、も、私、ちょっと…っ」
側で話を聞いていたメアリが、お腹を抱えて悶えだした。
「ぐふっ、ごほっ、奥様、もう、最高ですっ!」
「どうしたの、メアリ?」
メアリだけかと思ったが、アルバートとエレーナも何か言いたげにわざとらしい咳をした。
「奥様がとても正直で、感動しただけです」
と、エレーナ。アルバートはもう一度咳払いをして目を泳がせた。
「あのような旦那様は初めて拝見しました。ごほん」
「奥様、もうかっこよすぎますよー。見ました? あの旦那様の顔! きっと話をされて、急いで弁解に来たんですよ。なのに、奥様ったら!」
「弁解に来られたの? 何もおっしゃらなかったけれど?」
「弁解しようにも、あんなはっきり言われたんですもん、何も言えませんよ」
メアリは我慢できないとケタケタ笑った。
「弁解ではないと思うけれど」
「旦那様は焦った様子でしたし、何か奥様にお伝えするつもりではあったと思います。ですが、奥様がはきはきとお答えになられるので、お伝えしても仕方ないと思ったのかもしれません」
エレーナも旦那様が何か言いたげだったと口にする。
そうだろうか。言い訳があったとしても「わたし」に言う必要などない。なぜならいつも女性をパーティに同伴しているのは旦那様だ。さすがに「わたし」も耳にしていただろう。
それを今さら、同伴してる女性の訪問があったところで、「わたし」も驚かないと思うのだが。
首を捻るしかない。旦那様の行動は今さらすぎるのだ。
「出掛けるのか?」
街に買い物に行こうと外出の用意をしている時だった。旦那様が声を掛けて来たのは。
「買い物に参ります」
「なら、私も行こう。アルバート、馬車の用意を」
どういう風の吹き回しか。旦那様はそう言ってエスコートを名乗り出たのだ。
最近の旦那様はお城での仕事が減ったのかお屋敷で仕事をしている。忙しさは変わらず部屋に籠もりきりだったのだが、暇ができたのだろうか。
「何を買う気だったんだ?」
馬車の中はずっと静かで私の隣でエレーナも黙って座っていたのだが、前に座る旦那様が珍しく話し掛けて来た。
「たまには街に出て、お店でも見ようと思っていただけです」
「では、マダムアルターニューの店に行くといい」
本当は今月使うはずのお金に全く手をつけておらず、街で何かを買ったらどうかと提案されたので、ならば皆に何かを買おうかと思っていたのだ。自分の物を買うつもりはないのだが、何を買うのかも説明していないのに旦那様は御者に行き先を指示する。
説明もなく発言されたので、「わたし」も知っているお店だろう。馬車は走り続けると、おしゃれなお店の前で停車した。
お洋服屋さんである。
「いらっしゃいませ。これは、ハーマヒュール侯爵様」
「妻の服を見てやってくれ」
私の買い物ではないのだが、仕方なく頷いて旦那様の言う通りに店に入った。
迎えた男性の合図で女性たちが華やかなドレスをずらりと並べる。
「好きに選ぶといい」
旦那様はそう言ってソファーに腰掛ける。座っているだけならばご自分の用のある店に行かれればいいと思うのだが、そこで待っていてくれるようだ。
「こちらのドレスはいかがですか」
接待の女性たちがたくさんのドレスを合わせてくれる。あまり興味がないので、軽く頷いて見ているふりをしながら宝石の方に目をやった。
「こちらの宝石にご興味が? でしたら、こちらや、これなど」
申し訳ないが、宝石も興味がない。困ってしまってエレーナに目配せすると、エレーナは髪飾りを見せてくれるようお願いした。
「奥様、気に入ったものがないようでしたら、こちらを一品お選びください。それでこの店は出ましょう」
「良いのかしら? 髪飾りも興味ないのだけれど」
「これで十分だとおっしゃって、お礼を言われれば問題ないでしょう」
こそこそ話でそう教えてくれたので、一番気に入った花の形をした髪飾りを購入した。旦那様に買っていただく予定ではなかったのだが、旦那様が買ってくれるらしい。
「それだけで良いのか? ドレスは? 宝石は!?」
「これで十分です。ありがとうございます、旦那様」
「そ、そうか。なら、次の店に行こう」
旦那様はそう言ってすぐに馬車に乗ろうとした。本日の目的は街をぶらぶらすることもあったのだが。
「旦那様、私は歩いて参りますので、ご用があるようでしたらどうぞ馬車をお使いください」
「え、いや、今日は…」
馬車は街中でも借りることができる。侯爵の紋章がない馬車に乗っていけないわけではないのだから、別の馬車に乗るのは可能だ。
良い提案をしたと思ったのだが、旦那様は少しばかり狼狽えた。
(あら、やはり侯爵の紋章がある馬車でなければならなかったかしら? そんなに高価なドレスは着ていないのだから、指定の馬車に乗らなくても良いと思うのだけれど)
「侯爵様! このようなところでお会いできるだなんて!」
その時突然声を掛けて来たのは、派手なドレスを纏った女性だ。身につけている衣装や宝石からそれなりの身分の令嬢だと分かる。
「前のパーティでご一緒できて嬉しかったですわ。またお誘いいただけるとお待ちしてましたのに…」
どうやらパーティ同伴の一人らしい。飴色の髪をした可愛らしい女性はぷっくりとした唇を咎めるよう尖らせた。そうしながらちらりとこちらに視線をよこす。
「あら、こちらの方は?」
「私は街を歩きますので、ここで失礼させていただきますね」
「え。エラフィーネ!?」
「侯爵様、お待ちになって!」
女性が旦那様の腕を抱きしめるように掴んだ。そのまま捕まえていてほしいものである。
「エレーナ、雑貨屋さんに行きたいわ」
「そうですね。参りましょう」
エレーナのこめかみに青筋が見える。さすがに道すがら女性を引っ掛けるとは思わなかったようだ。おどろおどろしい雰囲気が怒りを滲み出させている。
「最悪ですね」
ぼそりと聞こえたが、私はつい笑ってしまう。皆「わたし」を大切にしてくれているのがよく分かるからだ。
「良いのよ。旦那様はそぞろに恋しくなる方なのでしょう」
「それをだらしないと言うのです。奥様は懐が深い方ですが、さすがに許せません!」
遠慮なくきっぱりと断言するが、私はやはり笑うしかなかった。
記憶を失う前はどうかは知らないが、私は旦那様に興味がない。女性と一緒にいる姿を見ようが何の感慨もないのだ。それで反応しろと言うのも無理がある。
結局そのあとはエレーナと皆のお土産を買って帰ることにした。本来の目的は、皆への買い物だったからだ。街中で捕まえた馬車で戻ればまだ旦那様はお帰りではなく、夕食も終えた頃に帰られたようなので、メイドたちの旦那様に対する怒りは凄まじかった。
(確かに、このままにしておくわけにはいかないかしらねえ。私としてはお客様気分だけれど、皆は違うのだし)
離婚しても問題ないように思える。お飾りの妻が必要だと言われたら、離婚は断られるかもしれないが。
(たくさんの女性とお付き合いしたいのならば、断られてしまうかもしれないわねえ)
「さて、どうしましょうかしらね」
寝台に座りながら私は唸った。離婚すると言うのは簡単だが、メイドの皆や執事たちと離れ離れになるのは寂しい。旦那様は今日のように関わることがなければほとんど顔を合わせないのだし、気にならないと言えば全く気にならない。
だから私としては問題ないのだけれど、「わたし」としてはどうなのか。
「離婚する気はあったのかしら。頑張ってみようとは思っていたみたいだけれど」
世間的にも侯爵夫人は侯爵に相手にされていないと思われている。「わたし」はそんなことを耳にしていなかったのだろうか。
記憶はさっぱり戻らない。これっぽっちも何にも思い出せない。
思い出したくないのだろうか。旦那様に相手にされていなかった「わたし」は複雑な気持ちを押し殺し、この屋敷で耐えていたのだろうから。
しかし記憶を失ったとは言え。「わたし」は私である。私であれば、すぱっと、離婚しましょ。とにっこり言える気がするのだが、旦那様を愛していたらそれもできないのだろうか。
真っ赤なドレスがお似合いの金髪美女が話し掛けてきた。話し掛けてきたと言うべきなのだろうか、くすくすと笑う女性たちを伴わせて、こちらを向いて話している。
「ねえ、ご存知かしら? いつも連れていらっしゃる女性が違うのですわよ。どなたかと違って可愛らしく華やかな方ばかり」
鼻にかけた言い方が嫌味っぽいのだが、誰とも言われてもいないので、素通りする。何せ挨拶もしていないので、自分に話し掛けているとは限らない。
「ちょ、無視なさるなんて、失礼でなくて!?」
真っ赤なドレスの令嬢が青筋を立てた。扇で口元を隠していたが、焦った様子で扇が顔から外れて顔が見える。
名前は確か、レジーナ伯爵夫人。彼女の旦那様はご一緒ではないらしい。
「私に話し掛けられていますか?」
「はあ!? 当たり前でしょう!?」
「まあ、そうですか。ご挨拶もなかったので、そんな失礼な真似を伯爵夫人がされるとは思いもしませんでした」
「なっ!?」
残念ながら、身分は侯爵夫人のこちらが上である。こちらが話し掛けてもいないのに挨拶なしに声を掛けるなど、言語道断だ。後ろにいた女性たちも顔を引き攣らせた。二人は子爵夫人なはずだ。
「はっ。いつもご一緒にいらっしゃらないのに、本日だってご一緒ではないでしょう。それで侯爵夫人を名乗るだなんて、図々しいのではないかしら」
どうやらレジーナ伯爵夫人は、こちらが旦那様と一緒にいないため、随分と侮ってかかってきているらしい。旦那様の影響力がないので、突っ掛かっても問題ではないと思っているのだろう。
とてつもなくくだらないものである。とは言え、貴族ではこのようなことが頻繁に起きるものだ。
「夫にご用だったかしら? でしたら、近くにはおりませんけれども?」
「侯爵夫人ともあろう方が、お一人でふらふらとされていて、余程侯爵様はご一緒されたくないのでは?」
人の言葉は無視し、一人を強調した。どうしてもその話がしたいようなので、こちらは正直に話すまでである。
「そうですわねえ。いつもはどなたかといらっしゃるでしょう? 私も驚いてしまって。急に誘われて私も困ってしまいましたの」
ほんのりため息をつくと、レジーナ伯爵夫人と他二名が顔を見合わせ、少しばかり混乱した顔を見せた。予想通りの答えではなかったらしい。
「あ、あの方といらっしゃると思ってましてよ。最近は、あのご婦人とご一緒されてましたものね。ねえ、皆さま」
「ええ。あの、金髪の、」
「まあ、本日はどうしてその方とご一緒じゃないのかしら。あなた方はご存知でいらっしゃるの? 一緒にいらっしゃられる方がご一緒してくれた方が、よろしいのですけれど」
そう答えると、夫人たちがやはり顔を見合わせた。これも期待していた答えではなかったらしい。
「そのお話、詳しくご存知かしら。夫が急に私を呼ばれるなんておかしいでしょう? 今日は誰とも日程が合わなかったのかしら。その方を怒らせでもしたのかしら。理由をご存知?」
「さ、さあ。私たちは存じ上げなくて…」
「あら、そうですの? 残念だわ。では、他の女性たちはどうしているのかしら? 詳しく聞きたいのですけれども!」
食いつくように言うと、何故か夫人たちは逃げるように去っていってしまった。詳しく知っていると言いたげだったのに、どうやら知らないらしい。
まあ興味などはないので、正直なところ旦那様の相手などどれでもいい。
今のことは忘れて飲み物を飲んでいると、再びダンスの誘いがあった。既に一番手のダンスは終えたので、これで文句を言われることはないだろう。了承してダンスホールへ入り踊り始めると、それから急にダンスの誘いが争うように行われた。
「侯爵夫人、私とダンスをお願いいたします」
「私とも、ダンスを」
何が起きたのやら。暇をしていたから付き合ってくれるのか、男性陣のお誘いが止まらない。ダンスを終えると次が待っており、息をつく暇もなくダンスに誘われる。
ダンスは念の為練習してきた。ダンス自体に問題はなかったので、記憶がなくとも身体が覚えているようだった。
「次は、私とも!」
何人目だったか。さすがに疲れてきた。そろそろ休憩をしたいと思い、次のお誘いを断ろうとした時だった。
「エラフィーネ!」
突如誰かを呼んだ声に振り向くと、さっと手を取られた。手を引いたのは旦那様である。エラフィーネは「わたし」の名前だ。忘れていたが、私になって呼ばれたのは初めてな気がする。
旦那様はダンスを申し込んできた男性に睨みをきかせると、人気のないベランダへ私を連れ出した。どこか怒っているかのように思えたが、怒られるような真似はしていない。
(パーティに来るお相手を探っていると思われたかしら。反対しているわけではないのだけれど、誤解をされてしまったかしら?)
「なぜ、他の男とダンスなど!?」
お相手のことについて話したから怒るのかと思えばその質問で、私はきょとんとしてしまった。旦那様は急に振り返ったので、ふわふわの金髪が揺れて少しだけ髪が乱れている。
「なぜとおっしゃりましても、旦那様は近くにいらっしゃいませんでしたし、一人でいるところにダンスを申し込まれましたので、お受けしました。何か問題でもありましたか?」
「それは…っ」
怒られるのならば理由を知っておきたい。なぜ怒られるのかも分からず頷いて、同じことで怒られたくない。
「最初のダンスは、身内と行うべきではないのか?」
「それでしたら、オスカーと踊りました。それに、旦那様はパーティにはいつもどなたかとご一緒されているのだし、多くの女性とダンスをされているのですから、気にされるとは思いませんでした。念の為オスカーにはお願いしましたが」
本当に念の為だった。アルバートの助言を聞いていて良かったのだろう。
よく分からないが旦那様は「わたし」にダンスを踊ってほしくなかったようだ。「わたし」はダンスが下手だったのだろうか。そうでないと思いたい。先ほど存分に踊ってしまった。
「問題ないと判断致しましたが、問題がありましたか?」
文句を言ってきた割に、旦那様はぐっと口を噤んだ。
「い、いや。………何でもない」
その態度は何だろうか。言いたいことがあれば言えばいいのに、なぜか言葉を呑み込む。
旦那様はそのまま帰るとおっしゃり、オスカーを探す間もなく帰路に就くことになった。
馬車の中ではずっと無言。よそを向いてこちらを向かないので、ご機嫌は良くないようだ。
旦那様は余程「わたし」と話したくないのだろう。会話が成立しない。対話をする気がないのなら、こちらもその姿勢は必要ないと考えたくなる。
旦那様の「わたし」への接し方を、記憶を失ったことでまっさらな気持ちで確認することができたわけだが、旦那様は「わたし」を相手にしないことが事実であると言わざるを得なかった。
だが、結局のところ、私にとってはどうでもいいことだと再確認した。オスカーの話は聞けたし、実母も迎え入れてくれると言っているのだから、前よりずっと心が軽いのである。
オスカーに子供が生まれるのならばしばらく忙しいだろう。落ち着いた頃に旦那様の妻であるのが嫌になるようなら、屋敷を出てもいい。そんなことをぼんやり考えた。
「お客様? 私にですか」
パーティが終わって数日後。旦那様が再びお城でお仕事に勤しまれる中、お屋敷にお客様がいらっしゃった。
「どなたかしら」
「それが、バリュー様と名乗られて。亡くなられたバリュー子爵のご夫人かと思われます」
アルバートは言葉を濁した。バリュー子爵との間に子供はいるが、とても幼く、後ろ盾を探していると言う噂のある女性だと言う。それはつまり、旦那様のお相手だ。
「まさか、乗り込んできたんですか!?」
「手紙もよこさず訪問するだなんて、失礼な方のようですね」
メアリが噛み付くように言う。隣でエレーナも同じく罵った。
「わたし」のお友だちと言う発想はないようなので、旦那様のお相手である可能性が高い。
(これは、会わなければならないのでは? あら。ちょっとわくわくするわね)
「お通しして。お話がしてみたいわ。何のご用かしら」
うきうきして客間に通し会いに行くと、そこには金髪の女性が佇んでいた。
予想していたより穏やかな雰囲気の女性で、私より背が低めだ。柔らかく微笑んでスカートを摘み挨拶をする。
「初めまして、エラフィーネ様。バリューと申します」
「お座りになって。私にご用だそうですけれど、お会いしたことありまして?」
「いいえ、初めてですわ。こちらにお伺いしたのは、先日のパーティにご夫妻で出席されたと耳にしまして」
バリュー子爵未亡人は青い瞳をぎらりと光らせた。笑顔のわりに睨みがきつい。器用な真似をされる方だとまじまじ見てしまいそうになる。
(いけない、いけない。旦那様のお相手よ。失礼はいけないわ)
けれど、初めて相手がやって来てくれたのだ。旦那様の相手に興味はなかったが、宣戦布告をしにきた女性を足蹴にするわけにはいかない。つい前のめりになって何しに来たか問うてみる。
「ええ、出席しましたわよ。それで、ご用向きは何かしら?」
「ご存知ないようなので、お伝えしに来たんです」
「うんうん」
「侯爵様は、いつも私にお誘いをくれるんですよ。あの日のパーティも予定を空けておいてくれとおっしゃっていたのです。ですが、急に奥様と出席されると、突然」
「そうなんですの? では、理由はご存知かしら。どうして急に私と出席することに?」
「エラフィーネ様がすがったのではないのですか!? パーティにご出席されなくなって久しいのに、今更侯爵様におすがりになって、まんまと侯爵様とご一緒されて!」
どうやら勘違いをして牽制に来たらしい。愛らしい顔をしているのに、牙を剥き出すように吠えてくる小型犬のような顔をしてきた。
(いえ、それも愛らしいわね。旦那様はこう言った可愛らしい方がお好みなのかしら。きゃんきゃんしていて、和むわあ)
「聞いていらっしゃるの!?」
「ああ、ええ。聞いておりますよ。旦那様が、えー、私を選んだ理由ですか? 何でしょうねえ。私も聞きたいです。急にパーティなんて困るでしょう。急遽ダンスの練習もして、それは充実した日々でしたけれど、高い踵の靴を履いてダンスを続けたものだから、数日足が痛くて。あ、そんな話はしてませんわね」
つい足元を摩りたくなるが、レディとしてあるまじき動作だ。何とか我慢する。
目の前のバリュー子爵未亡人はぷるぷるした。体調でも悪いのだろうか。
「わ、私が行くはずでしたのよ!」
「そうですわねえ。どうして旦那様は急に予定を変えたのかしら。私も聞きたいわ。予定を変えたのは旦那様ですし、何か都合が悪くなったのかしら」
「私に何か悪い都合でもあったとおっしゃるの!?」
「いいえ、そうではなくて、旦那様が、お連れできない理由があったのではと言う意味で。私の方が適度に良い理由があったのかと。まあでも私に問われても分かりませんから、直接旦那様にお聞きくださいな。本日はお戻りになられないでしょうから、お城に出向いた方が良いかもしれないわ。きっとしばらく帰られないのよ」
なので、ここで質問を受けても答えられないのである。そう言うと、バリュー子爵未亡人はぷるぷるしたまま立ち上がり、ぎろりとこちらを睨んで出ていった。忙しい方である。
「何です、あの態度!」
「あんな女を同伴させているだなんて、旦那様も趣味が悪いですね」
エレーナの言葉がひどく鋭い。隣でメアリが大きく頷いた。
「可愛らしい方じゃない。旦那様はああいう方が好みなのねえ」
「奥様! そんな感想」
そんな感想しか持てないので、うふふと笑っておく。私は可愛らしいと言う雰囲気は持っていない。漆黒の髪で少々目が切長なので、可愛いと言う表現はされないだろう。だとしたら、旦那様のお好みの顔ではないのだ。
「エラフィーネ!」
バリュー子爵未亡人が帰ったその日の夕方、ばたばたと騒がしい音が聞こえたと思ったら、旦那様が早い時間に帰宅された。帰宅するなり人の名を呼んで何事だろうか。
「エラフィーネ、客が、来たと聞いた」
旦那様は急いで帰って来たのか、焦った様子でそんなことを聞いてくる。
バリュー子爵未亡人が城に行って文句を言ったようだ。追い出したつもりはないが不満げにして帰られたので、旦那様は私の対応にお怒りなのかもしれない。
そう思って立ち上がったが、旦那様の顔色は凍えたように青白く困惑した表情をしていた。
「お客様でしたらバリュー子爵未亡人がいらっしゃいました。お約束なくいらっしゃったので、急ぎの用かと思い対応させていただきました」
「対応したのか? 君が?」
「ええ。私にご用があったようなので」
「か、彼女は何と?」
「先日のパーティに同行するのは自分だったとおっしゃいました。理由を問われましたので、存じませんと。私に聞かれても理由は分からないため、旦那様に直接問うようお伝えしました」
はっきりと言いすぎたか、旦那様は頭を抱えてしまった。直接的な言葉ではまずかっただろうか。もう少しオブラートに包んで…。いや、問われたことを答えたまでで、理由など思いつかない。知らないとしか言えないだろう。
「ああ、あと、バリュー様は旦那様とパーティのお約束を先になさっていたのに、突然同伴をキャンセルされ驚かれた様子でした。とても心配されていましたので、理由があるならばお伝えした方がよろしいのではないでしょうか」
「君は、君はそう思うのか!?」
「ええ。誘われたのに急にキャンセルさせた上、別の女性を連れるならば、とても心配されると思いますよ。ちゃんとご説明すべきだと思います」
誘ったのは旦那様である。誠意ある対応をすべきだろう。きっとバリュー子爵未亡人はパーティに誘われドレスや宝石類を用意していたに違いない。楽しみにしていたのに突然キャンセルされ、別の女性を連れたと後で聞いたら、さすがにショックだと思う。
旦那様は蒼白になるとふらりと傾いだ。
きっとバリュー子爵未亡人がそこまで驚いていたと知らなかったのだろう。そんなにショックを受けるならば、彼女を連れて行けば良かったのに。
「そうか…」
言って、旦那様はふらふらしながら部屋を出ていった。後できっとバリュー子爵未亡人にお詫びの手紙や花を送ることだろう。
「お、奥様、も、私、ちょっと…っ」
側で話を聞いていたメアリが、お腹を抱えて悶えだした。
「ぐふっ、ごほっ、奥様、もう、最高ですっ!」
「どうしたの、メアリ?」
メアリだけかと思ったが、アルバートとエレーナも何か言いたげにわざとらしい咳をした。
「奥様がとても正直で、感動しただけです」
と、エレーナ。アルバートはもう一度咳払いをして目を泳がせた。
「あのような旦那様は初めて拝見しました。ごほん」
「奥様、もうかっこよすぎますよー。見ました? あの旦那様の顔! きっと話をされて、急いで弁解に来たんですよ。なのに、奥様ったら!」
「弁解に来られたの? 何もおっしゃらなかったけれど?」
「弁解しようにも、あんなはっきり言われたんですもん、何も言えませんよ」
メアリは我慢できないとケタケタ笑った。
「弁解ではないと思うけれど」
「旦那様は焦った様子でしたし、何か奥様にお伝えするつもりではあったと思います。ですが、奥様がはきはきとお答えになられるので、お伝えしても仕方ないと思ったのかもしれません」
エレーナも旦那様が何か言いたげだったと口にする。
そうだろうか。言い訳があったとしても「わたし」に言う必要などない。なぜならいつも女性をパーティに同伴しているのは旦那様だ。さすがに「わたし」も耳にしていただろう。
それを今さら、同伴してる女性の訪問があったところで、「わたし」も驚かないと思うのだが。
首を捻るしかない。旦那様の行動は今さらすぎるのだ。
「出掛けるのか?」
街に買い物に行こうと外出の用意をしている時だった。旦那様が声を掛けて来たのは。
「買い物に参ります」
「なら、私も行こう。アルバート、馬車の用意を」
どういう風の吹き回しか。旦那様はそう言ってエスコートを名乗り出たのだ。
最近の旦那様はお城での仕事が減ったのかお屋敷で仕事をしている。忙しさは変わらず部屋に籠もりきりだったのだが、暇ができたのだろうか。
「何を買う気だったんだ?」
馬車の中はずっと静かで私の隣でエレーナも黙って座っていたのだが、前に座る旦那様が珍しく話し掛けて来た。
「たまには街に出て、お店でも見ようと思っていただけです」
「では、マダムアルターニューの店に行くといい」
本当は今月使うはずのお金に全く手をつけておらず、街で何かを買ったらどうかと提案されたので、ならば皆に何かを買おうかと思っていたのだ。自分の物を買うつもりはないのだが、何を買うのかも説明していないのに旦那様は御者に行き先を指示する。
説明もなく発言されたので、「わたし」も知っているお店だろう。馬車は走り続けると、おしゃれなお店の前で停車した。
お洋服屋さんである。
「いらっしゃいませ。これは、ハーマヒュール侯爵様」
「妻の服を見てやってくれ」
私の買い物ではないのだが、仕方なく頷いて旦那様の言う通りに店に入った。
迎えた男性の合図で女性たちが華やかなドレスをずらりと並べる。
「好きに選ぶといい」
旦那様はそう言ってソファーに腰掛ける。座っているだけならばご自分の用のある店に行かれればいいと思うのだが、そこで待っていてくれるようだ。
「こちらのドレスはいかがですか」
接待の女性たちがたくさんのドレスを合わせてくれる。あまり興味がないので、軽く頷いて見ているふりをしながら宝石の方に目をやった。
「こちらの宝石にご興味が? でしたら、こちらや、これなど」
申し訳ないが、宝石も興味がない。困ってしまってエレーナに目配せすると、エレーナは髪飾りを見せてくれるようお願いした。
「奥様、気に入ったものがないようでしたら、こちらを一品お選びください。それでこの店は出ましょう」
「良いのかしら? 髪飾りも興味ないのだけれど」
「これで十分だとおっしゃって、お礼を言われれば問題ないでしょう」
こそこそ話でそう教えてくれたので、一番気に入った花の形をした髪飾りを購入した。旦那様に買っていただく予定ではなかったのだが、旦那様が買ってくれるらしい。
「それだけで良いのか? ドレスは? 宝石は!?」
「これで十分です。ありがとうございます、旦那様」
「そ、そうか。なら、次の店に行こう」
旦那様はそう言ってすぐに馬車に乗ろうとした。本日の目的は街をぶらぶらすることもあったのだが。
「旦那様、私は歩いて参りますので、ご用があるようでしたらどうぞ馬車をお使いください」
「え、いや、今日は…」
馬車は街中でも借りることができる。侯爵の紋章がない馬車に乗っていけないわけではないのだから、別の馬車に乗るのは可能だ。
良い提案をしたと思ったのだが、旦那様は少しばかり狼狽えた。
(あら、やはり侯爵の紋章がある馬車でなければならなかったかしら? そんなに高価なドレスは着ていないのだから、指定の馬車に乗らなくても良いと思うのだけれど)
「侯爵様! このようなところでお会いできるだなんて!」
その時突然声を掛けて来たのは、派手なドレスを纏った女性だ。身につけている衣装や宝石からそれなりの身分の令嬢だと分かる。
「前のパーティでご一緒できて嬉しかったですわ。またお誘いいただけるとお待ちしてましたのに…」
どうやらパーティ同伴の一人らしい。飴色の髪をした可愛らしい女性はぷっくりとした唇を咎めるよう尖らせた。そうしながらちらりとこちらに視線をよこす。
「あら、こちらの方は?」
「私は街を歩きますので、ここで失礼させていただきますね」
「え。エラフィーネ!?」
「侯爵様、お待ちになって!」
女性が旦那様の腕を抱きしめるように掴んだ。そのまま捕まえていてほしいものである。
「エレーナ、雑貨屋さんに行きたいわ」
「そうですね。参りましょう」
エレーナのこめかみに青筋が見える。さすがに道すがら女性を引っ掛けるとは思わなかったようだ。おどろおどろしい雰囲気が怒りを滲み出させている。
「最悪ですね」
ぼそりと聞こえたが、私はつい笑ってしまう。皆「わたし」を大切にしてくれているのがよく分かるからだ。
「良いのよ。旦那様はそぞろに恋しくなる方なのでしょう」
「それをだらしないと言うのです。奥様は懐が深い方ですが、さすがに許せません!」
遠慮なくきっぱりと断言するが、私はやはり笑うしかなかった。
記憶を失う前はどうかは知らないが、私は旦那様に興味がない。女性と一緒にいる姿を見ようが何の感慨もないのだ。それで反応しろと言うのも無理がある。
結局そのあとはエレーナと皆のお土産を買って帰ることにした。本来の目的は、皆への買い物だったからだ。街中で捕まえた馬車で戻ればまだ旦那様はお帰りではなく、夕食も終えた頃に帰られたようなので、メイドたちの旦那様に対する怒りは凄まじかった。
(確かに、このままにしておくわけにはいかないかしらねえ。私としてはお客様気分だけれど、皆は違うのだし)
離婚しても問題ないように思える。お飾りの妻が必要だと言われたら、離婚は断られるかもしれないが。
(たくさんの女性とお付き合いしたいのならば、断られてしまうかもしれないわねえ)
「さて、どうしましょうかしらね」
寝台に座りながら私は唸った。離婚すると言うのは簡単だが、メイドの皆や執事たちと離れ離れになるのは寂しい。旦那様は今日のように関わることがなければほとんど顔を合わせないのだし、気にならないと言えば全く気にならない。
だから私としては問題ないのだけれど、「わたし」としてはどうなのか。
「離婚する気はあったのかしら。頑張ってみようとは思っていたみたいだけれど」
世間的にも侯爵夫人は侯爵に相手にされていないと思われている。「わたし」はそんなことを耳にしていなかったのだろうか。
記憶はさっぱり戻らない。これっぽっちも何にも思い出せない。
思い出したくないのだろうか。旦那様に相手にされていなかった「わたし」は複雑な気持ちを押し殺し、この屋敷で耐えていたのだろうから。
しかし記憶を失ったとは言え。「わたし」は私である。私であれば、すぱっと、離婚しましょ。とにっこり言える気がするのだが、旦那様を愛していたらそれもできないのだろうか。
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