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29−2 侯爵

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「エヴリーヌ聖女様。僕と踊っていただけませんか?」
 一人になった途端に男たちから囲まれたエヴリーヌに手を差し出すと、エヴリーヌは安堵した顔を見せて手を取ってくれる。

 初めてのダンスに、心が弾む。エヴリーヌは男たちから逃げられたと、気を許すように笑顔を見せてくれる。
 それだけで、顔が紅潮しそうだ。

「助かったわ。急に集まってきちゃって」
「エヴリーヌ聖女様の魅力に引き寄せられるのでしょう」

 エヴリーヌはたかられるのに気疲れするのか、浅く笑った。まるでハエのようで、すべて叩き落としたくなると言えば、むしろ笑ってくれそうなほどだ。
 父親のせいで都から消えた聖女。貴族の相手などしたくないのだろう。

(こんなことでパーティに参加させられて、おつらいはずだ)

 今の立場で手に触れて近寄ることができる機会は、ダンスを誘うしかないことが口惜しい。
 エヴリーヌは聖女の仕事を行うため香水を付けることはしない。けれど今日は仄かに花のような甘い香りがした。密着しているせいか、その香りに酔いそうだった。胸の高鳴りが止まらなくなりそうだ。

「改めて、おめでとうございます。と言っていいのかしら」
「もちろんです。あの父親の悪行をどうにかして世間の目に晒したかったのです。エヴリーヌ聖女様のおかげで、それが叶いました。ですが、エヴリーヌ聖女様に危険を伴わせてしまったのは、僕の不徳の致すところです」
「一掃するには仕方がなかったのでしょう? よく、決心されたと思うわ」
 エヴリーヌは柔らかな笑みを見せてくる。

 証拠を得るためには、あの場で犯人を捕えるしかなかった。エングブロウ侯爵の命令で動いているのに、息子のシモンが聖女と共にいる。攻撃をするのに混乱しただろう。エヴリーヌの側にいれば、エヴリーヌに危害は与えられない。
 別働隊がいても、エヴリーヌが無事であれば問題ない。

「そのために神殿にいらしていたのね。これからは侯爵として忙しくなるでしょう」
「いえ、エヴリーヌ聖女様のお側であなたをお守りすることこそ、僕の願いです」
「でも、侯爵になられたのに」

 エヴリーヌは意図に気づいていない。
(僕が幼い頃の詫びだけで側にいると思われているのだろう)

 エヴリーヌが色恋にうといことはわかっている。長年共にいるビセンテの視線に気づいていないくらいなのだから。だからと言って、いつまでも意識されないのも困りものだ。

「だからこそです。二年で離婚されるんですよね?」
 耳元で囁けば、エヴリーヌは目を見開いた。誰にも話していないのに。という顔だ。ビセンテには話していたが、他の者は知らないのだろう。

「誰にも申しません。ですから、どうか、約束をしてもらえませんか?」
「約束?」
「離婚後、他の男の手は取らぬと」
 そう口にする前に、曲が終わってダンスの足が止まった。

「聖女、私ともダンスを!」
「聖女! 私とも!」

 すぐに邪魔な男たちが群がってくる。邪魔をするなと蹴散らそうとすれば、呆気に取られた顔をしたエヴリーヌが、背後からの声に顔を上げた。

「エヴリーヌ。疲れたのではないか? あちらで少し休もう」
 現れたカリスが半ば強引に引くようにして、エヴリーヌを促した。カリスは眇めた目を向けて男たちを牽制する。そして、当たり前と言わんばかりにこちらを横目で見て、エヴリーヌの背中を押した。

 エヴリーヌは困惑げにこちらを見たが、カリスに手を引かれて離れていく。
(あの敵対心丸出しの顔。本当に離婚する気はあるのか?)

 やはりエヴリーヌの勘違いではないだろうか。どう見ても、他の男たちを気にしている。夫としての余裕もないほどに。

 邪魔な男だ。怒りが滲み出そうになる。この場でそんな視線を向けるわけにはいかない。拳を握り、それを我慢すると、憎しみを込めた視線を向けている者が自分以外にもいた。

 人々の間から、目立たないように睨みつけている女がいる。ヘルナ・オールソン。性懲りも無く、まだカリスを狙っているのだろう。想うのは構わないが、睨んでいる相手が気に食わない。エヴリーヌを見続けるヘルナの視線が気になった。

 エヴリーヌは社交界に出てくる回数が少ない。出てきても大きなパーティばかり。ヘルナが手を出す真似はできない。できて嫌がらせか。

 だが、あの女は気になる。

 ウエイターからグラスを取り、ヘルナの後を追う。二人の後を追っているのか、一点を見つめたまま歩くヘルナの後ろで、グラスを傾けた。

「これは、失礼を!」
「なっ。失礼どころじゃない、あら、エングブロウ侯爵様」
「申し訳ありません。手が滑り。どうぞこちらへ」

 ドレスにかかったワインを隠すようにしてヘルナをエスコートすると、先ほどの睨みはどこへいったやら、上機嫌になって微笑んでくる。

 あまりにわかりやすく態度を変えてくる姿は露骨で、下品さに虫唾が走った。笑みを返し、部屋に連れていくと、笑いが堪えられないとでもいうように、不気味な笑顔を向けてくる。その視線を合わせないようにひざまずき、ハンカチでドレスを拭いてやった。

「申し訳ありません。美しい方、どうかお詫びを」
 立ち上がり、置いてあるグラスにワインを注ぐ。ヘルナは手を伸ばしながら、にんまりと口元を上げた。

 見ているだけで身の毛がよだつ。ただ、その視線がこちらに向いていれば、やりやすい。
 手渡したワインと自分が持ったワインを寄せて、ヘルナが口にするのを確認した。それだけで十分と、ワインを置いてその部屋を出る。近くにいた、見知らぬ男に声をかけた。

「そこの。令嬢が中でお呼びだ」
 男爵かそこらの若い男が、理解が及ばぬまま言われた通りに部屋に入る。

(身分の低い男との醜聞。お似合いの相手だな)

 簡単な催眠をかけただけだ。あとがどうなろうと、気にすることはない。
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