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185 ー価値観ー

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「ちょ、こらっ。何!?」

 着物は二枚を羽織っているので、一枚脱いだところで大した打撃ではないが、それでも意味がわからない。上着は帯がないので腕が変に曲がっても気にしなければ、無理に剥がすことはできる。
 一枚目が腕から抜けて、フォーエンは帯に手をかけた。

「ちょっと、馬鹿。やめろ!えっち!」
「何だ、えっちとは。いいから、大人しくしろ」
「するわけあるか!!」
 理音は仰向けになると、フォーエンの腹に蹴りを入れた。フォーエンはお腹に入った足を見て、眉を大きく吊り上げる。

「足を出すか!?」
「出すわっ!痛いっ!」
 とっさに出した右足は怪我をした方で、蹴りを繰り出せばもちろん痛い。変に体重がかかって痛みに怯むと、フォーエンは腕をとって再び理音をうつ伏せにした。
「ほぎゃっ」
「背中を見せろ。傷があるのだろう!?」
 フォーエンの声に怒りが混じった。

 誰だ言ったの。医者か、ツワか。
 背中の傷が見たいのだと、フォーエンは無遠慮に帯を取り始める。
「こらっ、やめろっ!」
 傷が見たいからって、いきなり脱がし始めるとか、どうかしている。
 医者に見せたのは少し前で、それからフォーエンに会っていなかったこともあったが、すっかり忘れていた。今更持ち出してきて見せろとは、タイムラグありすぎだ。
 そんなこと忘れておけよと思うのだが、知らされてからすぐに来られなかったに違いない。

「いいから、見せろっ!」
 フォーエンは勢いよく襟元を背中に向けてずり下ろした。理音はこれ以上引っ張られないように、布団に張り付く。
 背中が一気に冷える。風が触れてぶるりと震えた。
 背中を見られるぐらい大したことはないが、着物なので引っ張られれば前の方がはだける。背中が丸見えになっても前が見えないように、懸命に襟を掴み続けた。
 肌が冷えて寒気がする。

「ほぎゃっ!冷たっ!」
 フォーエンの指先か、背中に冷たいものが当たった。
 そろりと背筋をなぞられて、ぞわぞわと肌が粟立つ。
 指先は、傷に触れていた。触れている辺りから察するに、傷をなぞっている。
 そうされると、案外広い範囲で傷があるのかもしれないと気づく。
 背中に穴ができたようは痕は今はかさぶたもなく、ただ凹んで肌の色より若干薄れた色になっていた。
 まあ、大きい傷だよな。とは思うが、やはり背中なので、目に入らない分、気にならない。そしてこちらには等身大の鏡がお風呂に置いていないので、全く見る機会がないのだ。

 フォーエンは指を置いたまま、一言も話そうとしない。
 見るにしたって、そんなにじっくり見るものではないだろうに。いつまで経っても何も言わないのは何なのだろうか。
 もういいだろう。思って、ちらりとフォーエンを見やった。起き上がるとはだけるので、顔だけを上げて後方を見上げる。
「もういいでしょ。寒いよ」
 見上げて言って、どきりとした。

 フォーエンは、見たことのない悲壮な表情を浮かべている。部屋に来た時から顔色が悪かったけれど、それよりもずっと青ざめていて、そうして、悲嘆に暮れた顔をしていた。
 理音が起き上がると、その表情のまま、何を言うべくか迷うように、口を半開きにしている。
 だから見せたくなかったのに。
 いや、考えていたよりずっと、フォーエンの方が衝撃を受けている。
 こちらの女性が髪すら切れば、フォーエンはショックでふらつくレベルだったので、背中に傷が残ることはとてつもない大事件なのだろう。
 想定はしていたが、想定以上の反応だ。

「大したことないよ。どうせ背中だし」
「…大したこと、ないわけないだろう…」
 声音は震えているか、動揺が隠し切れていない。
「私見えないし。別に気にしないよ。そのうち消えるんじゃない?」
「…気にするしないの話ではない」
 気にしなければ気にしないと思う。そうではないと言われて、首を傾げた。自分の感性は関係ないようだ。
 世間的に考えて、女性の身体に傷があることが大きな問題となるようだが、しかしそんなもの、脱がなければ気づかれないだろうに。

「気になるんだったら、皮膚の移植手術でもして消すよ。私が気にしないんだから、そんなことやらないけど」
「皮膚のいしょくしゅじゅつ?」
 何の話か。フォーエンは悲壮な顔したまま、眉を傾げた。怒ってるのか悲しんでいるのか良くわからない顔をしている。
「価値観の違いだよ。私は大したことないって思ってる。だからフォーエンが気にする必要はないってこと」
「…そう言う問題ではない…」
 眉を傾げて怒りを見せそうで、しかし声が小声になっていく。

 フォーエンの衝撃が大きすぎた。そこまでのことなのかと、こちらが眉を寄せたくなる。
「水着着たら見えるけど、普段見えないし。大したことないって」
「みずぎとは何だ…?」
 動揺しているくせに、意味のわからない言葉が出てくると気になるようだ。
 水着の写真なんて保存してあるだろうか。奪われた帯をしっかり巻いて着物を直すと、手元にあるスマフォで写真を探す。
「ああ、これこれ。この服」
「何だ。この格好は!?」
 天文部のみんなで海に行った写真を見せると、フォーエンは眉を八の字にしてがなった。いきなり大声を出されて、耳がキーンとする。

「だから水着って」
「何と、破廉恥な格好をっ」
「はれんち…。使うの初めて聞いた。そんな言葉」
「こんなものを収めておくとは、何を考えている!?女だけならばまだしも、男までこのような格好をして、一体何をしているんだ!?」
 至極真面目な顔で激怒されて、理音は別の写真を流れるように探していく。海が写っている写真がない。砂浜ばかりだ。説明しづらい。

「何って、泳ぐのに着るんだよ。こっちじゃ泳がないんだろうね。その反応」
「泳ぐ?女が川で泳ぐのか?」
「川でも海でも泳ぐよ。そう言う、娯楽?夏になったら遊びに行く。泳ぐための施設もあるし、学校でも泳ぎは習うよ」
 その言葉にフォーエンが声も出せないと、口を開いたまま大きく顔をしかめた。学びでこのような破廉恥な物を着るのかと、わなわな震えるほどひどく憤る。
「学校の水着はもっと地味だけどね。水泳の授業は、何であるのかねー。川とか海とかで事故に合わないため?泳ぐ速さを競う競技もあるから、当たり前のことだよ」
 水泳を行うための、普通に着る物だと説明すると、納得はいっていないがそう言うものがあることに渋々頷く。
   
「だから、水着着て背中出さない限り、誰かに見られるわけじゃないじゃない?」
「そう言う問題ではない…」
 ならばどう言う問題なのだろう。そちらこそ納得がいかないと、理音が口を尖らすと、フォーエンは一度唇を噛み締めて、苦味を見せたまま呟いた。
「嫁ぐことがあるのだから、傷などない方がいい。あれば離縁される」
「そんなことー?」
 あっけらと言うと、フォーエンは逆に、なぜそんな感想が出るのかと、呆れた顔をしてきた。価値観の違いは深い。

「この程度の傷気にする男なら、選ばないんじゃない?説明しても気にするような人なら、こっちがお断りだよ」
 理音の言葉に、フォーエンは口を半開きにした。珍しい呆け顔だ。
「傷が噂になれば、まず嫁ぎ先がなくなる…」
 理解できない話が出てきた。そもそも噂にする必要性がわからないのだが。そう言うと、貴族ともなると身体に傷があると大変らしい。
 傷ものの女性を受け入れる家は少なく、傷があることを噂され蹴落とされることも当たり前だとか。陰湿すぎる。
 つまり、後宮では、致命的な欠点となるわけだ。
 しかし、囮である自分に問題はないだろう。本当に嫁いでいるわけではない。

「まあいいよ。こっちの嫁の価値がその程度ってことはわかった」
 さすが男尊女卑の世界。女の価値がそんなことで決まるわけである。
「なぜ、そんな淡々としていられる…?」
 価値観の違いは文化の違い。考え方をすり寄せるのは思うよりも難儀だ。こちらにきて一番理解したことかもしれない。
 フォーエンは理音の考え方が納得できない。その上引け目もあると思う。
 気にしなくていいのに。そもそもこの国で嫁ぐことがない。フォーエンが心配することではなかった。

「フォーエンが気にすることじゃないし、私も気にしない。あとこの国の誰かに嫁ぐことないから、問題ないよ。女性に対しての価値観が低すぎる」
 理音の言葉に、フォーエンは口を閉じた。言葉がきつかっただろうか。フォーエンの表情にあった苦味が、さっと無になる。
「一夫多妻制をとってるくらいだから、女性の価値が低いのはわかってるけど、その価値観は私の価値観と同じじゃないんだよ」
「…お前の国では、妻を多く娶らないのか?」
 そもそもそこの考え方が違う。二股や不倫など行う者がいても、法律では一夫一妻だ。
「重婚は罪だよ。側室の制度は大昔に廃止されてる。それに、最近じゃ結婚しない人も増えてるし、独身でも女性は生きていけるからね」
 こちらでは女性一人で生き抜くのは難しいのだろう。根本に嫁ぐことが生きる条件なのかもしれない。

「えっとね、こっちと私の価値観は全く違うでしょ。だから、本当に大したことないのよ。気にする女性はいるだろうけど、私は気にしない。それで良くない?背中の傷だけで私の価値を決める人たちなんてどうでもいいし、そんなことで私の価値は決まらないよ」
 しかも見えない背中である。心底どうでもいい。
 対面を気にするならば髪型だろう。こればかりはまずい。その辺のチンピラ呼ばわりされるのは、さすがにまずい。
「髪の毛切っちゃったのはこっちの価値観と違っちゃうから、付け毛落とさないように気をつけるね。でも、見えない背中は大丈夫でしょ?だから、いいんだよ」
 理音は肩までしかない髪を撫でて、脱がされた羽織を羽織った。暴れたせいで暖かかったが、静かに話していたせいで寒くなってきた。もう一度お布団に入り直して、ゴロンと横になる。

「もう、寝なー。フォーエン顔色悪いよ。疲れてるんじゃないの?」
 睡眠不足は思考も狭める。一度しっかり眠って頭を空にした方がいい。
 納得させるにも時間がかかりそうなので、理音は話を切り上げた。平行線の会話はするだけ無駄だ。こちらも譲る気はないので、終わりにした方がいい。
 フォーエンが気に病む話ではない。フォーエンは優しすぎるのだと思う。
 それに、自分はこの程度の傷で済んだが、他の人たちは、命を落とした。
 この程度で済んだだけましだ。

 それを口にすることはなく、目を閉じると、フォーエンは諦めたのか、布団の中に入り込んだ。背を向けているのでどんな顔をしているのかわからないが、とりあえずその話をするのはやめてくれた。
 心配してくれたのはわかるが、フォーエンが憂えることなどないのに。
 もっといい言葉でなだめられれば良かったが、言葉が思いつかなかった。彼自身が傷ついていなければいいのだけれど。

 暖かいお布団の中に入ればすぐに眠くなる。図太い精神の理音がうとうとし始めると、横になった背後でそろりと気配がした。
 まだ気になっているのだろう。フォーエンは理音の首元にかかる髪をそっと撫でた。

「お前の思考は、私にとって価値のあるものだ」
 ぽそりと小さな呟きが耳に届くと、髪を撫でていた指が首元に触れた。
「へ?」
 ふかふかの大きな枕と自分の首の間から、にゅっと白い腕が伸びてきて、それがそのまま首に絡みつく。
「うげっ」
 喉を抑えるように引き寄せられると、フォーエンはそのまま背後から理音を抱きしめてきた。
「ちょ。な、何!?」

 いきなりのハグ。しかも背後から。フォーエンの体温を背中に感じて、理音は暴れそうになった。それを抑えるように腕ごと身体を抱きしめてくる。
「もう遅い、眠れ」
 いや、眠れるかっ。

 囁きが耳元に届いて、途端に顔に熱がこもった。
 フォーエンは人を羽交い締めにして、びくとも動かない。離す気はないと、力を入れる。
 眠れるわけがないだろう。ベッドで、ベッドでだ。人を抱きしめるとか、落ち着いて眠れるわけがない。抱き枕じゃないんだぞ。わかっているのだろうか。
 もがきたくとももがけない。動くと首が絞まる。

 これ寝技。足が絡んだら完全に寝技。
 フォーエンは人のもがきなど気にもしない。そのまま寝技がかけられたまま、逃げられることもなく、眠りを迎えたのだ。
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