152 / 244
152 ー提案ー
しおりを挟む
痛い。と思った。そうなると思っていたから。
思っていたのに何の衝撃もなく、理音はそろりとつぶった目を開いた。
目の前に見えた朱の瞳は憂いを帯び、持っていた剣を地面に落として、理音を抱えていた。
「捕らえろ!城に連れて行け!」
レイシュンの命令に、兵士たちは慌てて地面でへばっていた男たちを捕まえる。既に事切れている者も、あるべき部位がない者もいたが、生きているのはおそらく今の男だけだろう。
その男も意識を失っている。
引いた手綱に、馬がぐるりと一回転した。足元に何かが向かってくれば、蹴り上げるのが馬の習性だ。
男は理音の乗っていた馬に蹴られて、地面に吹っ飛ばされたのだ。
その代わり理音はバランスをくずし、地面に落ちそうになったところを、レイシュンに受け止めてもらった。
「リオンちゃん!あんなこと、二度としないで!」
憂いたのかと思ったら、レイシュンはいきなり怒鳴った。耳元で怒鳴られたので、つい耳を塞ぐ。
怒っている。うん、怒られるだろう。
剣を持った男の前。レイシュンが斬ろうと剣を持ったのにも関わらず、馬で乗り出すとは、自殺行為そのものである。悪くすればどちらにも斬られていた。
だが、そんな突然の瞬間など、どう動くかなんてわからない。
「すみません。体当たりすべきが、馬乗ってたんで、つい勢い良く馬のお腹蹴っちゃって」
馬は蹴れば走るくらいの知識なので、どう動くかなど考えもしなかった。
ついでに手綱を引けば止まるくらいの知識である。それもどう動くのか全く知らない。
悪くすれば、蹴り上げたのはレイシュンだったかもしれない。あ、それやったら私が殺されるわ。
「そうじゃないよっ。…君はもうっ」
怒鳴ろうとするのを、レイシュンは大きなため息で何とか我慢したようだ。
「ここの始末は任せた。残党も必ず捕らえよ」
レイシュンは命令すると、理音を馬に乗せた。横乗りは落ちそうになる。着物のまま気にせず跨ごうとすると、レイシュンはその前に背に乗って理音の腰を引いた。
「うわ、わ」
腰を引かれたまま馬が動き出すと、自動的にレイシュンの胸にぶつかった。レイシュンは理音を片手で押さえたままだ。理音の両手の行き場がなくなる。
「私の胸に掴まって。飛ばすよ」
レイシュンは気にせず馬を走らせた。勢い良く走り出した馬の背で、何も掴まらないなんて無理がある。
理音はレイシュンの言われた通り、胸に掴まるしかなかった。
フォーエンに抱きしめられるのとはまた違う。胸回りが若干厚いのかもしれない。がっしりとした身体に体温を感じると、さすがに羞恥する。免疫がないって何て面倒なのだろう。
けれど、血の臭いを感じて、意識がそちらに向いた。
この世界では、簡単に相手を傷つける。逆も然り。簡単に殺されることだってあるのだ。
レイシュンはなぜ狙われたのだろうか。
「レイシュン様。戻られたんですか?」
城に入るなり、ギョウエンは涼しい顔をして問うた。レイシュンに抱かれて運ばれている理音に目をやりながら。
「腰でも抜かされましたかね?」
ときたものだ。
レイシュンが動いているならば、ギョウエンはもちろん今回のことは知っている。巻き込まれて腰を抜かしたと思われるのは心外だ。
レイシュンが左右に首を振ると、とりあえず服を何とかしてくださいと、侍女たちを呼んだ。レイシュンにかかっていた返り血が、理音の着物にもついてしまっていたのだ。
「湯あみの用意もさせろ」
「え、お湯は大丈夫…」
「髪にもつけてしまったから、洗ってもらうといいよ」
穏やかにそう言って、レイシュンは廊下を颯爽と歩いた。レイシュンの腕の中は居心地が悪いのだが、歩けると言っても下ろそうとしない。
兵士が代わりに理音を運ぼうと寄ってきたが、
「彼女は私が運ぶ」
と一蹴した。いや、運ばなくても歩けるって。
レイシュンはそのまま城の人々の目も気にせず、湯殿に理音を連れた。軽く、服も脱がしてあげようか?とのたまってくれるが、睨みをきかせて外に出てもらった。
侍女たちが急いで理音の湯浴みを手伝ってくれる。人にお湯の手伝いをさせるとか、お断りしたくて堪らない。
何とかお断りをして、湯殿に足を踏み入れた。
「ひろーい…」
石畳の地面に石で囲われた浴槽。石の細工が細かに飾られており、タイル画のように壁面を覆っている。浴槽の中には花びらが浮かべられ、どこぞの王国の風呂かと突っ込みたくなる。
レイセン宮にも湯殿はある。桶一杯のお湯だけだったり、人一人入るくらいのバスタブでお湯をもらうこともあったが、湯殿と言うものは存在していて、そこに入ったことは何回かあった。
その広さは中々なもので、同じく石でできた風呂だったが、装飾は華やかなものだった。
それと同じくらいか、それ以上の造りだ。
お湯を沸かすという行為が、こちらでは大変な作業であるのは常々感じていた。
そりゃ、ガスも電気もないのだし、沸かすというならば人力で、薪をくべて沸かすのであるのだから、お風呂というものは大変豪勢なものなのだろう。
なので、湯殿と聞くと、若干申し訳ない気持ちになるのだが。
足の怪我もあって、湯船に入るのは中々骨が折れる。しかし、それでも嬉しいのは確かだ。
「はー。幸せ~」
湯殿には香が焚かれ、仄かな明かりも丁度良い。湯船には月桂樹の葉が浮いており、暖かさが増す気がした。
月桂樹は腰痛や肩こりを緩和したり、炎症を緩和したりさせる効能がある。冷え性にもよく、今の理音にぴったりな薬である。何と言っても抗酸化作用があるので、美容にいい。母がよく月桂樹のお茶を飲んでいたが、その香りを思い出させた。
レイシュンは理音を巻き込んだ事に対し、それなりに気が引けたのだろうか。
そもそもは理音を置いて討伐の指揮をする雰囲気だったわけだが、急にやめたのはなぜなのだろう。
しかし、理由が見つからない。
ただ気が向いただけだろうか。
ともあれ、リラックスには最高なので、いただけるお湯は気にせずゆっくりいただく事にした。こちらでは風呂に入る回数が極端に少ないので、結構ストレスになるのは否めない。
来てすぐ思った、トイレと風呂問題。
怪我をしている身なので、レイシュンの厄介になってからは湯船は皆無である。
なので、堪能させていただいた。
「ゆっくりできた?」
風呂上がりに、既にお医者がスタンバッていて、取ってしまった包帯を巻き直してもらい、その後着物を広げた侍女たちに囲まれ、なぜか髪やら化粧やらを施されたのち、連れられた部屋にレイシュンはいた。
レイシュンも湯に入ったのか、髪の毛が少し濡れて艶があった。しかもいい匂いがする。
着ている着物は赤の刺繍の入ったものだったが、それがやけに似合っていた。この人、赤似合いすぎる。
「ありがとうございました。久しぶりのおっきいお風呂。すごく良かったです。月桂樹のお陰で暖まりました」
温泉に行った気分である。大浴場なんて中々入る事がない。
「…そう」
レイシュンは少しの間を置いて、不自然にニッコリと笑った。おかしなことを言っただろうか。
「髪、可愛く結ってもらったね」
言いながら触れるのがレイシュンだ。短い髪を何とかまとめようと、侍女たちがやけに手を入れて飾り付けてくれた。二つに分けて、左右にお団子もどき。お団子が結えるほど長くないので、花をつけてごまかしてある。
花である。花。左右にお花が咲いているのである。クロッカスを模した花のようで、雌蕊の真っ赤な柱頭がよく目立つ。
その赤の雌蕊をサフランと言う。サフランってスペイン料理などに使う、あのスパイスだ。頭にのせるのは微妙だが、飾りとなると案外可愛い。自分が着けるのはともかくだが。
薄紫の宝石がついた金属の簪は、花弁が開いているよう装飾されている。これ、フォーエン見たら絶対笑う。鼻で笑う。
「すごく似合ってる」
なんて、緩やかに柔らかく微笑まれて囁かれても、フォーエンの横目で鼻で笑う姿しか思いつかなかった。
「侍女さんたち頑張ってくれたんで、かろうじてくっついてます」
返した言葉に、レイシュンは再び間をあけた。そうしてニッコリ笑むと、席に座れるよう手を回してくる。
レイシュンは時折、返答に間をあける。それがくせなのか、まあ、さして気にすることはないだろう。
腰に触れるのはもうデフォルトである。座るのに足に体重をかけにくいので、理音も助かるのだが、レイシュンは人をからかう節があるので、優しさなのかどうか微妙なところだ。
ついでにセクハラもしてくる。
「いい香り、するね」
首元に顔を近付けたかと思うと、それである。人が避けられないとわかっているあたり、意地が悪い。
「髪に何かつけてくれたみたいです。首は匂いませんよ。首は」
レイシュンは遠慮なく人の首を匂って、クスリと笑った。
「その花の花言葉知っている?」
「クロッカスのですか?」
何だっけ。と思いつつ、むしろレイシュンが花言葉を知っていることに驚き、花言葉がこちらにあることも驚いた。
いや、同じ植物があるのだからあってもおかしくないのだが。
クロッカスの花言葉は確か、
「陽気。リオンちゃんに似合うよ」
そう言って、顔を近付けないでほしい。
花言葉もどうやら同じだが、同じ植物や動物がいるのだから同じになるのだろうか。不思議で仕方がない。別にこの世界が過去という訳ではないのだから、同じっておかしくないだろうか。
考えたところで答えは出ないので、とりあえず今疑問に思っていることを口にする。
「それより、なぜこんな格好を?」
押しやって話を変えることにする。
基本オシャレは囮でしかやらない。それが当たり前になってしまっているので、こんなところでも装われると、不安にしかならない。
「私のせいで汚してしまったからね。お茶もしたかったし。さ、飲んでみて。きっと気にいると思うんだ」
出された茶器に入る白茶色の飲み物に、理音は首を傾げた。そのお茶は白色で、湯気が立っており、甘い香りと嗅ぎ慣れた匂いがした。
ずるいなあ。こういうところで出してくるんだ。
「レイシュンさんは、女性の扱いうまそうですよね」
「ええっ、そこでそんな感想なの?」
「嘘です。おいしいです。ミルクティー、久しぶりに飲んだ」
出されたお茶は、牛乳の比率が高いミルクティーだった。ハチミツも入っており、ほんのり甘くてお茶が濃く、鼻に茶葉の香りが残った。
レイシュンはにこやかに笑うだけ。自身も同じミルクティーを淹れさせて、香りと味を楽しんだ。少し甘いかなと言いながら。
不思議な男だ。時折鋭いくせに、ふいに柔らかな笑顔を向ける。
女性の扱いがうまいのだろうなと思うし、全てが計算されているのかと思うこともあるが、それでも優しさが残った。
いい人なのか、そうでないのか。一概に分けるのは難しい。
ただ、フォーエンの敵でなければいいと思うだけだ。理音にとって、それが一番の振り分けの基準だった。
レイシュンは、どうなのだろう。
「驚かせちゃったからね」
わかりやすく詫びの品だと言いたいのだろう。
「次は先に伝えてください。心構えが違うので」
「もうしないよ。君を巻き込む気もなかったんだけどね。これは言い訳だけど、予定では君を先に帰すつもりだったんだ。けど、あまりにも喜んでるから、私も楽しくなっちゃってね」
「楽しかったですけどね」
王都でもお使いをしながら町を見るのは楽しかった。あれから町には出ていないし、初めて来たこの町を見るのは、やはり心踊る。
フォーエンに教えることができればと思うと、なおさら細かに見なければと思っていた。
「それで、今日のお相手は、どなただったんですか?」
「聞きたいんだ?」
「聞きたいですね」
相手は確実にレイシュンを狙ってきた。どこが相手なのかは覚えておきたい。ついでになぜそうなったかの経緯もだ。
「リオンちゃんは、まるで監査機関のようだね」
監査機関?聞き返しそうになって、言葉を止めた。無知はレイシュンに誤解されかねない。そんな仕事があるのだろう。
「なんてね。リオンちゃんの常識だと、監査機関の仕事は難しいかなあ」
レイシュンは笑ってみせるが、内心心臓が止まりそうになる。当たらずも遠からずだ。ここでのことはフォーエンに包み隠さず話す気なのだから。
「あいつらはね、前に話した、最近気になっている部族の手下だよ」
貴族とつるんで、金を不当に集めている部族のことだ。
「ちょっかいを出したら、わかりやすく動いて来たんだ」
レイシュンはふんわりと笑む。
この人、笑うと悪い顔に見えるのはなぜだろう。どうにも悪巧みをしている顔にしか見えない。
しかもちょっかいって、一体どんなちょっかいを出したのか、聞いてみたいところだ。
「それでも尻尾は掴ませてくれないよね。今日襲って来たのはバラク族には見えなかったから」
「特徴ある顔なんですか?」
「少し肌が浅黒いかな。あとほりが深い。さっき襲って来たやつらはその辺のチンピラだろうね。金を積まれて私を狙うって噂は耳に入ってるんだ」
「自ら囮は感心しませんが」
偉い人が囮になったらダメだろうに。フォーエンもそうだが、なぜ囮になりたがるのか。指導者が囮になって何かあったらその後の動きが損なわれる。まともな指導者であればあるほどだ。
危険があるのならば避けた方がいい。命をかけても死ねばそこで終わりだろうが。無駄にしなければならない命など、ただの美徳でしかないと思うのだが。
「私を狙ってくるならば、わかりやすくていいことだよ」
そう澄ました顔で言って、銀食器で紅茶を飲むのだから、何とも言い難い気持ちになる。
一見チャラいが頭の中は恐ろしく器用。表なのか裏なのか、レイシュンは気安くありながら、人の内面を見定めるかのように話をする。
だから、レイシュンが突如おかしなことを言っても、何かしら意図があるのだろう。
紅茶を飲み終えたレイシュンは、それは面白い冗談を口にした。
「ねえ、リオンちゃん。私のところに、本当にお嫁に来る?」
「はい?」
脈絡のない言葉に、理音は間抜けに問い返したのだ。
思っていたのに何の衝撃もなく、理音はそろりとつぶった目を開いた。
目の前に見えた朱の瞳は憂いを帯び、持っていた剣を地面に落として、理音を抱えていた。
「捕らえろ!城に連れて行け!」
レイシュンの命令に、兵士たちは慌てて地面でへばっていた男たちを捕まえる。既に事切れている者も、あるべき部位がない者もいたが、生きているのはおそらく今の男だけだろう。
その男も意識を失っている。
引いた手綱に、馬がぐるりと一回転した。足元に何かが向かってくれば、蹴り上げるのが馬の習性だ。
男は理音の乗っていた馬に蹴られて、地面に吹っ飛ばされたのだ。
その代わり理音はバランスをくずし、地面に落ちそうになったところを、レイシュンに受け止めてもらった。
「リオンちゃん!あんなこと、二度としないで!」
憂いたのかと思ったら、レイシュンはいきなり怒鳴った。耳元で怒鳴られたので、つい耳を塞ぐ。
怒っている。うん、怒られるだろう。
剣を持った男の前。レイシュンが斬ろうと剣を持ったのにも関わらず、馬で乗り出すとは、自殺行為そのものである。悪くすればどちらにも斬られていた。
だが、そんな突然の瞬間など、どう動くかなんてわからない。
「すみません。体当たりすべきが、馬乗ってたんで、つい勢い良く馬のお腹蹴っちゃって」
馬は蹴れば走るくらいの知識なので、どう動くかなど考えもしなかった。
ついでに手綱を引けば止まるくらいの知識である。それもどう動くのか全く知らない。
悪くすれば、蹴り上げたのはレイシュンだったかもしれない。あ、それやったら私が殺されるわ。
「そうじゃないよっ。…君はもうっ」
怒鳴ろうとするのを、レイシュンは大きなため息で何とか我慢したようだ。
「ここの始末は任せた。残党も必ず捕らえよ」
レイシュンは命令すると、理音を馬に乗せた。横乗りは落ちそうになる。着物のまま気にせず跨ごうとすると、レイシュンはその前に背に乗って理音の腰を引いた。
「うわ、わ」
腰を引かれたまま馬が動き出すと、自動的にレイシュンの胸にぶつかった。レイシュンは理音を片手で押さえたままだ。理音の両手の行き場がなくなる。
「私の胸に掴まって。飛ばすよ」
レイシュンは気にせず馬を走らせた。勢い良く走り出した馬の背で、何も掴まらないなんて無理がある。
理音はレイシュンの言われた通り、胸に掴まるしかなかった。
フォーエンに抱きしめられるのとはまた違う。胸回りが若干厚いのかもしれない。がっしりとした身体に体温を感じると、さすがに羞恥する。免疫がないって何て面倒なのだろう。
けれど、血の臭いを感じて、意識がそちらに向いた。
この世界では、簡単に相手を傷つける。逆も然り。簡単に殺されることだってあるのだ。
レイシュンはなぜ狙われたのだろうか。
「レイシュン様。戻られたんですか?」
城に入るなり、ギョウエンは涼しい顔をして問うた。レイシュンに抱かれて運ばれている理音に目をやりながら。
「腰でも抜かされましたかね?」
ときたものだ。
レイシュンが動いているならば、ギョウエンはもちろん今回のことは知っている。巻き込まれて腰を抜かしたと思われるのは心外だ。
レイシュンが左右に首を振ると、とりあえず服を何とかしてくださいと、侍女たちを呼んだ。レイシュンにかかっていた返り血が、理音の着物にもついてしまっていたのだ。
「湯あみの用意もさせろ」
「え、お湯は大丈夫…」
「髪にもつけてしまったから、洗ってもらうといいよ」
穏やかにそう言って、レイシュンは廊下を颯爽と歩いた。レイシュンの腕の中は居心地が悪いのだが、歩けると言っても下ろそうとしない。
兵士が代わりに理音を運ぼうと寄ってきたが、
「彼女は私が運ぶ」
と一蹴した。いや、運ばなくても歩けるって。
レイシュンはそのまま城の人々の目も気にせず、湯殿に理音を連れた。軽く、服も脱がしてあげようか?とのたまってくれるが、睨みをきかせて外に出てもらった。
侍女たちが急いで理音の湯浴みを手伝ってくれる。人にお湯の手伝いをさせるとか、お断りしたくて堪らない。
何とかお断りをして、湯殿に足を踏み入れた。
「ひろーい…」
石畳の地面に石で囲われた浴槽。石の細工が細かに飾られており、タイル画のように壁面を覆っている。浴槽の中には花びらが浮かべられ、どこぞの王国の風呂かと突っ込みたくなる。
レイセン宮にも湯殿はある。桶一杯のお湯だけだったり、人一人入るくらいのバスタブでお湯をもらうこともあったが、湯殿と言うものは存在していて、そこに入ったことは何回かあった。
その広さは中々なもので、同じく石でできた風呂だったが、装飾は華やかなものだった。
それと同じくらいか、それ以上の造りだ。
お湯を沸かすという行為が、こちらでは大変な作業であるのは常々感じていた。
そりゃ、ガスも電気もないのだし、沸かすというならば人力で、薪をくべて沸かすのであるのだから、お風呂というものは大変豪勢なものなのだろう。
なので、湯殿と聞くと、若干申し訳ない気持ちになるのだが。
足の怪我もあって、湯船に入るのは中々骨が折れる。しかし、それでも嬉しいのは確かだ。
「はー。幸せ~」
湯殿には香が焚かれ、仄かな明かりも丁度良い。湯船には月桂樹の葉が浮いており、暖かさが増す気がした。
月桂樹は腰痛や肩こりを緩和したり、炎症を緩和したりさせる効能がある。冷え性にもよく、今の理音にぴったりな薬である。何と言っても抗酸化作用があるので、美容にいい。母がよく月桂樹のお茶を飲んでいたが、その香りを思い出させた。
レイシュンは理音を巻き込んだ事に対し、それなりに気が引けたのだろうか。
そもそもは理音を置いて討伐の指揮をする雰囲気だったわけだが、急にやめたのはなぜなのだろう。
しかし、理由が見つからない。
ただ気が向いただけだろうか。
ともあれ、リラックスには最高なので、いただけるお湯は気にせずゆっくりいただく事にした。こちらでは風呂に入る回数が極端に少ないので、結構ストレスになるのは否めない。
来てすぐ思った、トイレと風呂問題。
怪我をしている身なので、レイシュンの厄介になってからは湯船は皆無である。
なので、堪能させていただいた。
「ゆっくりできた?」
風呂上がりに、既にお医者がスタンバッていて、取ってしまった包帯を巻き直してもらい、その後着物を広げた侍女たちに囲まれ、なぜか髪やら化粧やらを施されたのち、連れられた部屋にレイシュンはいた。
レイシュンも湯に入ったのか、髪の毛が少し濡れて艶があった。しかもいい匂いがする。
着ている着物は赤の刺繍の入ったものだったが、それがやけに似合っていた。この人、赤似合いすぎる。
「ありがとうございました。久しぶりのおっきいお風呂。すごく良かったです。月桂樹のお陰で暖まりました」
温泉に行った気分である。大浴場なんて中々入る事がない。
「…そう」
レイシュンは少しの間を置いて、不自然にニッコリと笑った。おかしなことを言っただろうか。
「髪、可愛く結ってもらったね」
言いながら触れるのがレイシュンだ。短い髪を何とかまとめようと、侍女たちがやけに手を入れて飾り付けてくれた。二つに分けて、左右にお団子もどき。お団子が結えるほど長くないので、花をつけてごまかしてある。
花である。花。左右にお花が咲いているのである。クロッカスを模した花のようで、雌蕊の真っ赤な柱頭がよく目立つ。
その赤の雌蕊をサフランと言う。サフランってスペイン料理などに使う、あのスパイスだ。頭にのせるのは微妙だが、飾りとなると案外可愛い。自分が着けるのはともかくだが。
薄紫の宝石がついた金属の簪は、花弁が開いているよう装飾されている。これ、フォーエン見たら絶対笑う。鼻で笑う。
「すごく似合ってる」
なんて、緩やかに柔らかく微笑まれて囁かれても、フォーエンの横目で鼻で笑う姿しか思いつかなかった。
「侍女さんたち頑張ってくれたんで、かろうじてくっついてます」
返した言葉に、レイシュンは再び間をあけた。そうしてニッコリ笑むと、席に座れるよう手を回してくる。
レイシュンは時折、返答に間をあける。それがくせなのか、まあ、さして気にすることはないだろう。
腰に触れるのはもうデフォルトである。座るのに足に体重をかけにくいので、理音も助かるのだが、レイシュンは人をからかう節があるので、優しさなのかどうか微妙なところだ。
ついでにセクハラもしてくる。
「いい香り、するね」
首元に顔を近付けたかと思うと、それである。人が避けられないとわかっているあたり、意地が悪い。
「髪に何かつけてくれたみたいです。首は匂いませんよ。首は」
レイシュンは遠慮なく人の首を匂って、クスリと笑った。
「その花の花言葉知っている?」
「クロッカスのですか?」
何だっけ。と思いつつ、むしろレイシュンが花言葉を知っていることに驚き、花言葉がこちらにあることも驚いた。
いや、同じ植物があるのだからあってもおかしくないのだが。
クロッカスの花言葉は確か、
「陽気。リオンちゃんに似合うよ」
そう言って、顔を近付けないでほしい。
花言葉もどうやら同じだが、同じ植物や動物がいるのだから同じになるのだろうか。不思議で仕方がない。別にこの世界が過去という訳ではないのだから、同じっておかしくないだろうか。
考えたところで答えは出ないので、とりあえず今疑問に思っていることを口にする。
「それより、なぜこんな格好を?」
押しやって話を変えることにする。
基本オシャレは囮でしかやらない。それが当たり前になってしまっているので、こんなところでも装われると、不安にしかならない。
「私のせいで汚してしまったからね。お茶もしたかったし。さ、飲んでみて。きっと気にいると思うんだ」
出された茶器に入る白茶色の飲み物に、理音は首を傾げた。そのお茶は白色で、湯気が立っており、甘い香りと嗅ぎ慣れた匂いがした。
ずるいなあ。こういうところで出してくるんだ。
「レイシュンさんは、女性の扱いうまそうですよね」
「ええっ、そこでそんな感想なの?」
「嘘です。おいしいです。ミルクティー、久しぶりに飲んだ」
出されたお茶は、牛乳の比率が高いミルクティーだった。ハチミツも入っており、ほんのり甘くてお茶が濃く、鼻に茶葉の香りが残った。
レイシュンはにこやかに笑うだけ。自身も同じミルクティーを淹れさせて、香りと味を楽しんだ。少し甘いかなと言いながら。
不思議な男だ。時折鋭いくせに、ふいに柔らかな笑顔を向ける。
女性の扱いがうまいのだろうなと思うし、全てが計算されているのかと思うこともあるが、それでも優しさが残った。
いい人なのか、そうでないのか。一概に分けるのは難しい。
ただ、フォーエンの敵でなければいいと思うだけだ。理音にとって、それが一番の振り分けの基準だった。
レイシュンは、どうなのだろう。
「驚かせちゃったからね」
わかりやすく詫びの品だと言いたいのだろう。
「次は先に伝えてください。心構えが違うので」
「もうしないよ。君を巻き込む気もなかったんだけどね。これは言い訳だけど、予定では君を先に帰すつもりだったんだ。けど、あまりにも喜んでるから、私も楽しくなっちゃってね」
「楽しかったですけどね」
王都でもお使いをしながら町を見るのは楽しかった。あれから町には出ていないし、初めて来たこの町を見るのは、やはり心踊る。
フォーエンに教えることができればと思うと、なおさら細かに見なければと思っていた。
「それで、今日のお相手は、どなただったんですか?」
「聞きたいんだ?」
「聞きたいですね」
相手は確実にレイシュンを狙ってきた。どこが相手なのかは覚えておきたい。ついでになぜそうなったかの経緯もだ。
「リオンちゃんは、まるで監査機関のようだね」
監査機関?聞き返しそうになって、言葉を止めた。無知はレイシュンに誤解されかねない。そんな仕事があるのだろう。
「なんてね。リオンちゃんの常識だと、監査機関の仕事は難しいかなあ」
レイシュンは笑ってみせるが、内心心臓が止まりそうになる。当たらずも遠からずだ。ここでのことはフォーエンに包み隠さず話す気なのだから。
「あいつらはね、前に話した、最近気になっている部族の手下だよ」
貴族とつるんで、金を不当に集めている部族のことだ。
「ちょっかいを出したら、わかりやすく動いて来たんだ」
レイシュンはふんわりと笑む。
この人、笑うと悪い顔に見えるのはなぜだろう。どうにも悪巧みをしている顔にしか見えない。
しかもちょっかいって、一体どんなちょっかいを出したのか、聞いてみたいところだ。
「それでも尻尾は掴ませてくれないよね。今日襲って来たのはバラク族には見えなかったから」
「特徴ある顔なんですか?」
「少し肌が浅黒いかな。あとほりが深い。さっき襲って来たやつらはその辺のチンピラだろうね。金を積まれて私を狙うって噂は耳に入ってるんだ」
「自ら囮は感心しませんが」
偉い人が囮になったらダメだろうに。フォーエンもそうだが、なぜ囮になりたがるのか。指導者が囮になって何かあったらその後の動きが損なわれる。まともな指導者であればあるほどだ。
危険があるのならば避けた方がいい。命をかけても死ねばそこで終わりだろうが。無駄にしなければならない命など、ただの美徳でしかないと思うのだが。
「私を狙ってくるならば、わかりやすくていいことだよ」
そう澄ました顔で言って、銀食器で紅茶を飲むのだから、何とも言い難い気持ちになる。
一見チャラいが頭の中は恐ろしく器用。表なのか裏なのか、レイシュンは気安くありながら、人の内面を見定めるかのように話をする。
だから、レイシュンが突如おかしなことを言っても、何かしら意図があるのだろう。
紅茶を飲み終えたレイシュンは、それは面白い冗談を口にした。
「ねえ、リオンちゃん。私のところに、本当にお嫁に来る?」
「はい?」
脈絡のない言葉に、理音は間抜けに問い返したのだ。
0
お気に入りに追加
80
あなたにおすすめの小説
王女、騎士と結婚させられイかされまくる
ぺこ
恋愛
髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。
性描写激しめですが、甘々の溺愛です。
※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
獣人の里の仕置き小屋
真木
恋愛
ある狼獣人の里には、仕置き小屋というところがある。
獣人は愛情深く、その執着ゆえに伴侶が逃げ出すとき、獣人の夫が伴侶に仕置きをするところだ。
今夜もまた一人、里から出ようとして仕置き小屋に連れられてきた少女がいた。
仕置き小屋にあるものを見て、彼女は……。
異世界召喚されたけどヤバい国だったので逃げ出したら、イケメン騎士様に溺愛されました
平山和人
恋愛
平凡なOLの清水恭子は異世界に集団召喚されたが、見るからに怪しい匂いがプンプンしていた。
騎士団長のカイトの出引きで国を脱出することになったが、追っ手に追われる逃亡生活が始まった。
そうした生活を続けていくうちに二人は相思相愛の関係となり、やがて結婚を誓い合うのであった。
慰み者の姫は新皇帝に溺愛される
苺野 あん
恋愛
小国の王女フォセットは、貢物として帝国の皇帝に差し出された。
皇帝は齢六十の老人で、十八歳になったばかりのフォセットは慰み者として弄ばれるはずだった。
ところが呼ばれた寝室にいたのは若き新皇帝で、フォセットは花嫁として迎えられることになる。
早速、二人の初夜が始まった。
聖女を騙った少女は、二度目の生を自由に生きる
夕立悠理
恋愛
ある日、聖女として異世界に召喚された美香。その国は、魔物と戦っているらしく、兵士たちを励まして欲しいと頼まれた。しかし、徐々に戦況もよくなってきたところで、魔法の力をもった本物の『聖女』様が現れてしまい、美香は、聖女を騙った罪で、処刑される。
しかし、ギロチンの刃が落とされた瞬間、時間が巻き戻り、美香が召喚された時に戻り、美香は二度目の生を得る。美香は今度は魔物の元へ行き、自由に生きることにすると、かつては敵だったはずの魔王に溺愛される。
しかし、なぜか、美香を見捨てたはずの護衛も執着してきて――。
※小説家になろう様にも投稿しています
※感想をいただけると、とても嬉しいです
※著作権は放棄してません
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
【完結】嫌われ令嬢、部屋着姿を見せてから、王子に溺愛されてます。
airria
恋愛
グロース王国王太子妃、リリアナ。勝ち気そうなライラックの瞳、濡羽色の豪奢な巻き髪、スレンダーな姿形、知性溢れる社交術。見た目も中身も次期王妃として完璧な令嬢であるが、夫である王太子のセイラムからは忌み嫌われていた。
どうやら、セイラムの美しい乳兄妹、フリージアへのリリアナの態度が気に食わないらしい。
2ヶ月前に婚姻を結びはしたが、初夜もなく冷え切った夫婦関係。結婚も仕事の一環としか思えないリリアナは、セイラムと心が通じ合わなくても仕方ないし、必要ないと思い、王妃の仕事に邁進していた。
ある日、リリアナからのいじめを訴えるフリージアに泣きつかれたセイラムは、リリアナの自室を電撃訪問。
あまりの剣幕に仕方なく、部屋着のままで対応すると、なんだかセイラムの様子がおかしくて…
あの、私、自分の時間は大好きな部屋着姿でだらけて過ごしたいのですが、なぜそんな時に限って頻繁に私の部屋にいらっしゃるの?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる