群青雨色紫伝 ー東雲理音の異世界日記ー

MIRICO

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138 ーひとり旅ー

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「私だけで行くの?」
「違う。別に進むだけだ。後で合流する」
「ふうん」

 囮の一環ってことか。
 口には出さず、その声の主の顔を見上げた。
 表情の読めない顔をしながら、フォーエンは結構な不機嫌声で返してきた。馬車の前。


 小鳥のさえずりと窓の外から届く木漏れ日がまぶたにうつり目が覚めた早朝、いつもよりうっすらと寒さを感じて身震いした。
 起きる時間はいつも同じ。スマフォのアラームで目覚めるわけだが、今日は夜中冷えたのか、アラームより若干早く目が覚めた。ただベッドの上でゆっくりと伸びをしていたので、すぐにアラームが起動する。
 深夜に鳴る鐘に時計を毎日合わせるので、今のところ時間がずれたことはない。
 デジタルをアナログの鐘に合わせなければならない面倒はあったが、それも慣れた。
 こちらの時刻を正確に刻んで動いたスマフォのアラームを止め、ゆっくりとベッドから降りる。

 ツワが計ったかのように扉をノックして部屋に入ると、タライを持ってきてくれた。中には暖かい湯が入っており、それで顔を洗う。
 普段は水なのだが今日はやはり外が冷えるのだろう、ぬるま湯のそれに気遣いを感じた。 
 顔ぐらい自分で洗いに行くのだが、ツワは毎日タライに水を入れて持ってきてくれていた。
 いつも通りそれで顔を洗った後、着替えて朝食につく。朝は決まってお粥で、胃に優しいメニューだ。

 基本お粥なんて風邪を引いて寝込んだ時くらいしか食べないので、味のないそれに抵抗もあったが、フォーエンが醤油のような調味料や刻まれた野菜などをかけて食べていたので、それで味を整える物だと知ってから美味しくいただいている。
 今日は出掛けると聞いていたので、あまり水物をとらないようにした。お茶をいただいて一服したいところだったが、すぐに出ると言うのもあって食事を早めに終わらせる。

 毎度毎度トイレを気にしているので、何なの近いの?とか思いたくもなるだろうが、そうではない。こちらではトイレは死活問題だ。
 旅に出て、あ、トイレ行きたい。と思ってもその辺にコンビニがあるわけではない。高速道路ですらサービスエリアがあるわけだが、こちらではそれすらないのである。
 町に着くまで我慢か、もしくは…。うむ、口にするのはやめよう。
 とにかく女子には辛い時代だな。と思わずにはいられないのだ。

 そんなわけで、食事後ツワに再び着替えさせられた。寝巻きから着替えた時に遠出の服を用意してくれればいいものを、一度普段着ている数枚重ねの着物からお出掛け用の着替えをしたわけである。
 お出掛けとは言え、結構遠くに行くと聞いていたので、そんないい格好で馬車に乗りたくなかったのだが、ツワは有無を言わさず飾り立ててくれた。

 むしろ男物がいいんだけどなあ。とは言えない。これは囮と言うお仕事であるからして、皇帝の女らしく、人の前に出る時と同じ厚化粧とお高そうな着物を羽織り、装飾も施されいくつかの簪を頭に飾られた。
 せめて軽い物にしてほしいとお願いしたので、そこまで頭は重くない。

 そんないい装いで、フォーエンのいる場所まで移動することになった。
 つまり輿に乗るのである。
 初めてこれに乗った時、場所が遠いからかと思っていたが、それよりも周囲に顔を見せたくないと言う意図があるのだと気付いた。

 この輿は屋根付きの箱型になっているので、正面しか見えない作りになっている。
 無論ただの箱ではなく、側面や屋根は細かい装飾が施され、開いている部分に簾と派手な模様が描かれた布が垂れ下がり、理音が中に入っても顔が外から見えづらい作りになっている。

 気分はお神輿の中に入っている感じだ。
 大広場で顔を見せてもそこは厚化粧。本来の顔が見えるわけではない。囮とは言え、顔はしっかり見せないようにしている。

 妃としての存在は出したいが、理音自体は顔を覚えられないようにされている。
 それは暗殺者が後宮に入り込んでも、理音を狙いにくくさせるためなのかもしれない。
 良い着物を着ていても、暗殺者からすれば理音はどう見てもフォーエンの相手には見えない。
 一応安全面を考えられているのかな。と最近は思い始めた。おそらく間違っていない。

 しばらく担がれて揺らされ続け、また酔いそうと思った頃に降ろされた。
 降りてからもパラソルのような大きな日傘を侍女にさされて、その下でゆっくりと石畳の道を歩む。顔を見られないように、建物から離れて広場へと進むのだ。

 前に外出した時と同じ道だなと思いつつ、誘拐されたことをちらりと思い出す。旅は面白かったが、あまり思い出したくない苦い思い出だ。
 また売られるのはごめんだと心に誓い、けれども今回も囮の旅だと思うと、どこかずうんと重い物を感じた。仕方ないと思うのだが、やはりあの時のことは思い出したくない。


 歩いていると、足元が心なしか寒い。ほんのり吹く風が冷たく感じた。日は照っているのでそれを浴びていると暖かい気はするのだが、日陰に入ると途端に気温が変わる気がする。
 少しだけ身震いをして、促されるままに馬車の前へ歩んだ。

 外壁に囲まれた広場の中、ずらりと従者たちが並んでいる。ふと、フォーエンと共に行くには従者が足りないと思った。前は人数も数えられないほどいたのに、今回はさほどでもない。荷物を持つ者たちを入れても三十人いるかどうか。

 それでおかしいな。と思った。
 フォーエンが遅れてこの場に来た時に、表情はいつも通り済ましながらも苦々しい口調で言ったので、そのおかしいな、は現実のものだとわかった。

 いざ出発と言う時に、遅れて別の馬車で行くことになったのだと、目を眇め鋭く睨みながら言う。
 怒りが滲むような低い声を出して、こちらを見て凄まないでほしい。

 自分も同じ馬車で行くのかと思っていた。エシカルに行く時は同じ馬車に乗った。帰りは別々だったが、それでも同じ馬車に乗るものだと思っていた。
 だが今のフォーエンの出で立ちはどう見ても遠出のそれではない。ずるずる裾を地面にするような着物を纏ったまま、馬車になど乗らぬだろう。何日もかかる旅路だ。ツーピースのパンツルックでブーツ姿が妥当である。何かある場合に、立ち回れる格好の方が安全だからだ。
 旅をするにあたって危険性はどうしても伴う。それを考慮しないわけがない。

 時間差で出るとしても、一日、ないし数日はあけて旅立つのではないだろうか。その可能性を感じた。仮にも皇帝陛下が出掛けるのに、従者たちの用意がなされていないのだから。

 疑問に思いながらも、まあ、いいや。と理音は先に停まっていた馬車に乗り込んだ。その姿を見ながら、無表情から仏頂面に結局変えた男は、無言のまま。とにかく機嫌が悪い。
 眉根を寄せて、奥歯を噛みしめるように、口元をキュッと閉じる。

 不機嫌出しまくりは珍しいわけだが、何がそんなに嫌なのか。最初からご機嫌が悪いので、その理由はわからなかった。
 ただ、一緒に行くはずが、別々で行くことになったのだと告げられただけだ。

 なんだよー。一緒の馬車に乗りたかったのかよー。とか言ったら本気で殴られそうなので言わないが、だったらどんな理由で不機嫌になったのか考えてみる。

 後から行くことになったのが嫌なのか。謎。


 フォーエンは自分が出発した後、別の馬車に乗ってどこかで合流するようである。
「先に行って待っていろ」とだけ不機嫌に言い放って、フォーエンはもう一度口を閉じた。

 コウユウ辺りに一緒に行くのはやめてくださいなど言われて止められた可能性を感じた。意見を言われて不機嫌になっているのが妥当だろうか。
 馬車に入った理音を横目に、従者は話が終わったと判断し扉を閉めようとする。しかし、そこにフォーエンがずずいと近づいたので、従者は急いで扉を閉めるのをやめた。

「どうしたの?」
 フォーエンは何も言わない。扉に手をかけるでもなく、入り込むでもなく、けれど側に寄って馬車に乗っている理音を見上げた。
 何をそんなに物言いたげにしているのだろうか。しかし、何を言うでもない。ただ黙って人の顔を仰いで、そうして僅かに目線を地面に下ろした。

「とりあえず、怒られるような真似はしないでおく」
 理音がそう言うと、フォーエンはパッと顔を上げた。驚いたような、何かに気づいたような、そんな表情。それを一瞬させて、薄っすらと笑みを浮かべた。

 まるで美しい女優が儚げに笑んだようだった。それ、あれだ、男がその顔で落とされるやつだ。どこの名女優ぶりを見せて、その顔の整った美麗さを見せつけるんだろうか。とは言わないが、消え入りそうな笑みは理音の心臓も射抜いてくれる。

「馬車の中で暴れるなよ」

 静かに口にしたのはそんな言葉だった。今のところその予定はない。射抜かれた間抜けな顔を誤魔化すように半眼で睨み付けると、フォーエンは小さく顔を綻ばせた。
 フォーエンは何か言いたそうにして、けれど何も言わずいつも通り理音の額に口付けると、扉が閉まるのを眺め、理音を見送った。

 馬車の小さな窓からはそんなに長く彼の姿は見えない。それでも理音は窓から後方を見つめていた。最近何かと気になる仕草をしてくる彼は、案外心配性なのだと思う。
 扉が閉まると一歩足を踏み出したくせに、口にしない。そして、窓から見える表情は明るいものではなかった。
 きゅっと口を結び、柳眉を寄せて、憂いを見せた。


「時折、表情が出るよな」

 ぽそりと呟いて、理音は唇が触れた額を熱があるように手の平で抑えた。
 口付けはフォーエンにとってデフォルトだが、こちらとしては慣れるものではない。
 熱くなった頰を感じながらも、その口付けを名残惜しく思った。

 まるで別れのように。

 いいや、と理音はかぶりを振る。そんなことを考えても仕方がない。
 何があっても、別れは来る。自分は家に帰るのだから。

 理音は広い馬車の座席にしっかり座り直した。馬車と言うものは尻に柔らかなクッションが敷かれていても、ちゃんと座っていないと揺れで痺れてくるのである。
 何かあった時に飛び出せるくらいの用意はしておきたい。尻が痺れて動けないでは困ってしまう。
 先に馬車に積まれていた自分のリュックから紐履を取り出すと、今履いている靴を脱いで履き替えた。

 先に行けば、敵でも出るのかもしれない。と一人馬車の中で考える。
 あの顔はそんな心配の類ではないのだろうか。
 最近フォーエンは囮に対して気を遣い過ぎである。ここ最近と言うか、ここの所ずっとと言うべきか。
 それをコウユウに諌められたかもしれない。囮に肩入れする意味も必要もない。そう、説得でもしただろうか。

 今回はツワもついてこない。前回はついてきたのにな、と思うと同時、前回は話もできなかったのでついてきたのかもしれない。と思い直した。エシカルに言った時は、言葉が理解できなかった。ツワ以外の女性たちは理音を怖がっていたし、仕方なくついてきたのかもしれない。

 最近周りの女官たちは理音を怖がるふりをしなくなった。それでも遠巻きにしているところはあったが、触れるのも恐れたりはしていない。
 だからだろうか、今回は一緒についてくる女官が三人ほどである。それでも顔見知りの女官は一人だけだった。彼女が理音の相手をしてくれるのかもしれない。何せこちらの着物は手伝ってもらわないと理音は着られないのだから。
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