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第2章 スプーン・ダンス
2-3 弟
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午後5時、自宅の鍵を開ける。
ただいまと声を発しても、反応してくれる人はいない。
玄関ドアの内側に入るとWi-Fiが反応して、わたしは水を得た魚になる。
通学用カバンをソファに投げて、誰もいないリビングをつかつかと横切る。
洗面台でハンドソープを乱暴にプッシュして、学校という魔界の汚れを落とす。
自室のベッドに寝転んで、最新のSNSを漁る。
Xの通知を開くと、予想外の文字が並んでいた。
――ぽめP さんがあなたのポストをいいねしました
がばと起きる。背筋が伸びた。
「最近買ったものは何ですか? #ぽめとおさんぽ」
見返すと恥ずかしくなるくらい、超くだらない質問。
だけどぽめPは「ウォーキングマシンです」と丁寧に画像付きでリポストしてくれていた。
「推し」と会話できちゃったってこと?
わたしは予想外のプチハッピーに浮かれた。
どうだ見たか、ひなの! わたしだって推しと繋がれるんだぞ!
それからもう一度スマホを見て――わたしはすんと冷静になった。
何、喜んでるんだろ。わたしなんかが、ひなのに勝てるはずないのに。
わたしはぽめPの素顔も、本名も、本当の性格も知らない。
「推し」は女子高生の煩悩なんか届かないくらい、ずっと遠い存在でいてくれたのに。
ガレージから車のエンジン音が聞こえた。
窓から覗くと、母さんが車から弟の車いすを降ろすのが見えた。
11歳の太一が、母親に車いすを押されて玄関に入ってくる。
「たー坊、おかえり」
「ねえね」
特別支援学校の小学部に通う弟は「あー」とリラックスした声を出した。
「母さん、今日も太一にブレザー着せたの? さすがに暑くない?」
「そうだけど、この子はじろじろ見られちゃうからね」
母さんは太一の正面で屈み、羽織っていたブレザージャケットを脱がせた。
「私立の学校に通っているように見えた方が、太一にとっていいのかなって」
実際には、太一の小学校に制服なんてない。
それっぽいエンブレムと金属のボタンが付いたブレザーを着せるようになったのは、母さんだった。
わたしは『ぴよ』を思い出し、心の中で舌打ちした。
――見えない障害が何だっていうの。
脳性まひがある太一の下半身は内反足で、動きがぎこちない。
表情は乏しいし、斜視でいつも視線がさまよっている。
制服という「鎧」がないと奇異の目で見られてしまう弟。
本人もわたしたち家族も、今までたくさん傷ついてきた。
「桃花、お弁当は? お腹空いたでしょ。お惣菜、買ってきたよ」
まつ毛が疲れの重さに耐えきれていなかった。
「うん、大丈夫。ありがと」
わたしはとびきりの笑顔で答えた。
「お弁当箱、洗っておくね」
菓子パンを詰めたお弁当は、母さんなりの愛情表現。
「仕方ない」をポジティブに言い換えると「大丈夫」になった。
「ねえね、ぼうる、せんせ」
「今日も先生とボール遊びしたの? よかったねぇ」
太一は笑わない。
だからその分、わたしが笑ってあげるんだ。
お弁当箱の隅で、水の粒が縮こまっていた。
ただいまと声を発しても、反応してくれる人はいない。
玄関ドアの内側に入るとWi-Fiが反応して、わたしは水を得た魚になる。
通学用カバンをソファに投げて、誰もいないリビングをつかつかと横切る。
洗面台でハンドソープを乱暴にプッシュして、学校という魔界の汚れを落とす。
自室のベッドに寝転んで、最新のSNSを漁る。
Xの通知を開くと、予想外の文字が並んでいた。
――ぽめP さんがあなたのポストをいいねしました
がばと起きる。背筋が伸びた。
「最近買ったものは何ですか? #ぽめとおさんぽ」
見返すと恥ずかしくなるくらい、超くだらない質問。
だけどぽめPは「ウォーキングマシンです」と丁寧に画像付きでリポストしてくれていた。
「推し」と会話できちゃったってこと?
わたしは予想外のプチハッピーに浮かれた。
どうだ見たか、ひなの! わたしだって推しと繋がれるんだぞ!
それからもう一度スマホを見て――わたしはすんと冷静になった。
何、喜んでるんだろ。わたしなんかが、ひなのに勝てるはずないのに。
わたしはぽめPの素顔も、本名も、本当の性格も知らない。
「推し」は女子高生の煩悩なんか届かないくらい、ずっと遠い存在でいてくれたのに。
ガレージから車のエンジン音が聞こえた。
窓から覗くと、母さんが車から弟の車いすを降ろすのが見えた。
11歳の太一が、母親に車いすを押されて玄関に入ってくる。
「たー坊、おかえり」
「ねえね」
特別支援学校の小学部に通う弟は「あー」とリラックスした声を出した。
「母さん、今日も太一にブレザー着せたの? さすがに暑くない?」
「そうだけど、この子はじろじろ見られちゃうからね」
母さんは太一の正面で屈み、羽織っていたブレザージャケットを脱がせた。
「私立の学校に通っているように見えた方が、太一にとっていいのかなって」
実際には、太一の小学校に制服なんてない。
それっぽいエンブレムと金属のボタンが付いたブレザーを着せるようになったのは、母さんだった。
わたしは『ぴよ』を思い出し、心の中で舌打ちした。
――見えない障害が何だっていうの。
脳性まひがある太一の下半身は内反足で、動きがぎこちない。
表情は乏しいし、斜視でいつも視線がさまよっている。
制服という「鎧」がないと奇異の目で見られてしまう弟。
本人もわたしたち家族も、今までたくさん傷ついてきた。
「桃花、お弁当は? お腹空いたでしょ。お惣菜、買ってきたよ」
まつ毛が疲れの重さに耐えきれていなかった。
「うん、大丈夫。ありがと」
わたしはとびきりの笑顔で答えた。
「お弁当箱、洗っておくね」
菓子パンを詰めたお弁当は、母さんなりの愛情表現。
「仕方ない」をポジティブに言い換えると「大丈夫」になった。
「ねえね、ぼうる、せんせ」
「今日も先生とボール遊びしたの? よかったねぇ」
太一は笑わない。
だからその分、わたしが笑ってあげるんだ。
お弁当箱の隅で、水の粒が縮こまっていた。
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