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夏祭りで迷子になったら、将来の嫁を見つけたかもしれない(改稿版)

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 もう、20年近く前のことだ。当時の俺は母に連れられ初めて地元の夏祭りに参加した。そこで俺は迷子になった。今では良い思い出だし、迷子になったから「今」がある。
 そんなことを思いながら、彼はちらりと隣を横目で盗み見る。隣には白いキツネのお面を斜めに被り、弧を描く口元だけをみせている妻。腕の中には母親に少しだけ似た赤みがかって見える黒い大きな瞳の7才になる娘。娘は初めての夏祭りに少し興奮気味に辺りを見回している。

******

 一年に一度、土地神様を祀る場所で行われる夏祭りに関する不思議な話。その土地に住む老人達はみな口を揃えて言う。『夏祭りの時は彼方あっち此方こっちが重なるから迷子にはならぬよう気を付けなさい』と。よくよく聞いてみると、夏祭りでは『神隠し』に遭う者が毎年のように現れるのだとか。
 当時を思いながら、彼は自分が『神隠し』に遭う一歩手前だったのだと今更ながらに気付いたのだった。

***

 お祭り特有の、少し高揚した空気。そして、そんな空気の中わいわいと賑わう人の溢れる神社の境内。そこまで続く道に立ち並ぶ沢山の屋台に、色とりどりの浴衣を纏った人達。

 金魚すくいに興じる人。
 射的で目当ての景品を落とそうとする人。
 食べ歩きをする人。

 沢山の人が、年に一度の夏祭りを楽しんでいた。


 「ねぇ、おかあさん。あれがたべたい!!」

 そう言って真っ赤なリンゴ飴を指差す、幼いこどもがいた。母親に買って貰ったリンゴ飴を舐め、にっこりと笑う。

 「甘くておいしいね!」

 にこにこと口を緩めながらリンゴ飴を頬張るこどもは、いつの間にか母親とはぐれてしまっていた。ソコは、さっきまで居たはずの場所とは明らかに違っていた。

 一直線に立ち並ぶ、沢山の真っ赤な鳥居。
 その両脇には光々と輝く屋台の光。
 紗のかかったような、何処か遠い場所に居るようにも見える、色とりどりの浴衣を纏ったモノ達。揺らめきながら押し合っている。

 そんな場所にひとりポツンと立ち竦む、リンゴ飴を舐めるこども。掴んでいたはずの母の浴衣の裾は、何処にも見当たらない。

 「おかぁさん……?どこ……?」

 辺りを見回しても、母親の姿は見えなくて。押し寄せてきた不安に涙が滲む。
 こどもに気付いたモノ達が、ワラワラと押し寄せてくる。

 『ニンゲンダ』
 『育っていないニンゲンは旨いぞ』
 『逃がすな』

 聞こえてくるざわめきは明らかにこどもを獲物として捉えていた。こどもの顔に恐怖の色がよぎる。そんなざわめきの中、澄んだ声が響いた。

 「こっち!」

 こどもの腕を誰かが掴む。こどもは連れられるままに走り出した。ヒトゴミを抜けるとそこは静かな境内だった。ようやく立ち止まって、こどもをヒトゴミから連れ出した腕の主は声をかけた。

 「だいじょうぶ?」

 こどもが顔を上げると、目の前には真っ白なキツネのお面を被った女の子が立っていた。斜めに被ったお面の下から覗く、弧を描いた小さな口元。リンゴ飴みたいに真っ赤な浴衣。こどもよりもいくらか年上に見える女の子だった。

 「彼方あっちから来た子でしょう?長く此方こっちにいちゃダメだよ。戻れなくなっちゃう。……あ。此処からなら戻れるよ」

 澄んだその声を聞いていると、押し寄せていた不安はいつの間にか何処かへいって、滲み始めていた涙は乾いていた。

 「ありがとう!キツネのおねぇちゃん!」

 こどもから返ってきた言葉に、女の子はポカンと小さく口を開けた。そしてゆっくりと大きな弧を描く。

 「キツネのおねぇちゃん、か。ふふっ、そんな呼ばれ方したのは初めて」

 そうして少し弾んだ声で笑う。

 「ほら、おき」

 女の子はこどもの背をそっと押した。

 「振り返っちゃダメだよ?振り返らないで、まっすぐに進んで。そうすれば還れるから!」

 そう、こどもの後ろから優しく声をかける。

 「またね、キツネのおねぇちゃん!」

 そんな言葉を残して、こどもは還っていった。

 「……またね、かぁ。「また」が来ることはないと思うけどな。あったら、その時はよろしくね、童男おぐな

 呟かれた言葉がこどもに届くことはなく、優しく吹いた風だけがそれを聴いていた。

***

 10年前、この夏祭りに来たとき母親とはぐれて迷子になったなぁ、と昔を思い起こしながら彼は屋台の間を進む。真っ白なキツネのお面に弧を描いた口元。リンゴ飴みたいな赤い浴衣。彼は迷子になった自分を助けてくれた初恋の女の子に想いを馳せた。
 いつの間にか、あのときと同じ、沢山の真っ赤な鳥居とその両脇に屋台が並ぶ不思議な場所に来ていた。ソコに居るモノ達は、やっぱり紗のかかった色合いをしているように見えた。

 「あれ?また迷子になったのかい?」

 あのときと同じ、澄んだ声が聞こえた。振り向けば、そこには白いキツネ面を斜めに被った、リンゴ飴みたいな赤い浴衣を着た女性が一人。お面の下から覗く小さな口元は弧を描いている。

 「仕方のない子だね。戻るみち此方こっちだよ」

 そう言って彼女はその小さな手で彼の手を引く。前と違うところをあげるなら、それは、彼の記憶にあるあのとき見上げた彼女の背中が、今は見下ろしてしまえるほどに小さいことだろうか。10年という決して短くはない歳月が彼の身に染みた。

 「ほら、此処から戻れるよ。もう迷子にならないようにね!」

 彼女はそう言って、あの時と同じようにそっと彼の背を押そうとした。けれども彼はそれよりも早く振り向いて、彼女の被るキツネ面に手をかけた。

 カランッ―――

 お面の落ちる音が響いた。
 滑り落ちたお面の下から現れた、驚きを隠しきれないまぁるい紅の瞳。そして、結い上げられた美しい漆黒の髪。
 彼は右手を差し出しながら笑みを浮かべ彼女に言ったのだった。

 「君も一緒に行こう?あのとき、『またね』って言っただろう?」

 くしゃり、と彼女の顔が歪む。泣きそうな顔のまま彼女は言った。

 「『また』がくることはないと思ってた。もしあったら、そのときは童男おぐなと過ごすのも良いかもしれないと思ってた。会いに来てくれてありがとう、童男おぐな

 目尻に浮かんだ涙がきらりと光る。泣き笑いの顔のまま、彼女は彼の右手に己の左手を乗せた。彼は彼女に己の名を告げる。

 「いつまでも童男おとこのこだなんて呼ぶなよ。俺は―――」

******

 腕の中の娘に、彼は幸せそうな笑顔で告げる。

 「この夏祭りでお父さん達は出逢ったんだぞ~」

 「そうなの?おかぁさん」

 娘は母に顔を向け訊ねた。

 「えぇ。迷子になっていたから助けてあげたの。しかもね、2回も迷子になってたのよ」

 クスクスと笑いながら妻は娘に教える。

 「でも、そのおかげで私達は出逢って、『今』があるのよ」

 真っ白なキツネのお面に阻まれ、彼には妻の表情を窺うことができない。けれど、仮面の下から覗く口元が幸せそうな弧を描いているのが見えた。
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