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第十八話「黒翼」
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龍泉寺《りゅうせんじ》琴律《ことり》は左手に掴んだ女を蹴り飛ばした。反動の勢いで右手の刀を手前に引くと、女の胴体が腕から離れて吹っ飛んでゆく。
「四千九百八十八!」
朦々たる血煙《ちけぶり》を浴びながら、琴律は熱い息を鞴《ふいご》の如く吐き出した。
次に視界に捉えた女は、振り向いてすぐ、右腕の先にいた。
顔面に彫られた「一」の文字のど真ん中に刀を刺し込む。そのまま力任せに斬り下ろすと、臍の辺りまで一気に着物と肉とが裂けた。
「四千九百八十九!!」
気魄一閃、引き抜いた刀を、後方に立つ女目掛けて投げつける。黒い刀は過《あやま》たず女の喉笛を貫いた。
「四千九百九十ーッ!!!」
琴律の鋭い回し蹴りが女の側頭を薙ぎ払うと、突き刺さった刀を支点として、首がぐるりと横回転して捥げ落ちた。
「大ちゃん……」
立ったまま首を失い動かなくなった女から、刀を乱暴に引き抜く。
琴律は足元に落としていた鞘を拾い上げて、血も拭わぬままの黒い刀身を納めた。
(どうせ、すぐに次を斬るのだもの)
心の中で、独言《ひとりごち》る。
見た夢を根拠《あてど》にし、ひたすらに河原を駆け抜け、顔の無い女達を斬り伏せてきたが、肝心の大地《だいち》の姿どころか、小児《こども》のひとりも見つけることは叶っていない。
舌打ちをして、琴律は最も手近に立っていた女を、長い髪を掴んで捕まえた。
この辺りで見た中でも、最も年嵩の老婆であった。琴律はぐいと顔を近づける。この老婆にもやはり顔はないが、琴律の目には、佇まいがいくらか賢しげに見えた。
鞘から一尺ほど抜いた刀身を老婆の皺だらけの喉元に突きつけ、
「天美大地《あまみだいち》は何処《どこ》か!」と琴律は問うた。
「年端もゆかぬ児《こ》らを、何故あのような目に会わせる!」
綺麗な顔に似合わぬ胴間声に、老婆は何の反応も返さない。
「お前らの一存ではあるまい! あれらの事を子供らに強いている者がいるのか!」
あのような目だの、あれらだのと遠称で問うが、琴律は夢で見た惨状を、現実にその目で見た訳ではないのである。
「ええい、天美大地は何処か!」
背筋を伝う厭な汗を誤魔化すように怒鳴る。
「答えッ!」
ところがいくら問い詰めても、老女は返答をしない。それどころか、琴律になんの反応もしない。
「——ふん。口が聞けないか。見れば分かるものを、私としたことが」
自嘲ぎみに、琴律は口だけで笑う。
そのまま女を河原に叩きつけ、刀を踏んで頸《くび》を圧《お》し斬った。
だらだらだらと勢いなく血が流れ出て、赤黒い色が黒い刀と白い河原を汚す。
「四千九百九十一──」
顔にかかった髪を指で耳に掛け、琴律は刀を拾って肩に担いだ。押っ取り刀でよかろう——と心に言い訳をするが、要するに鞘に納めることも面倒臭くなっていたのだ。
「……」
やがて辺りには、立ち歩く女たちの姿は見えなくなっていた。青い空の下に残っているのは、足元に転がる幾百幾千もの亡骸《なきがら》と、耳に心地よい川のせせらぎ、そして——内《うち》より出《いず》る修羅《しゅら》の妄執《もうしゅう》。
(自覚しているからこそ、性質《たち》が悪い……)
琴律が青空を仰いで、口から何度目かの熱息を噴き出したとき、ばたばたと騒がしい足音が聞こえてきた。
「わああ、何これ! ひどいっ」
よく聞き知った、やけに幼げな声が河原に響く。
琴律は肩から刀を下ろすことなく、首だけでゆっくりとそちらを向いた。
派手な髪色をした幼馴染と、その頭上を飛び回る虫の如き仁王像たち。
「——クウコさん」
「あっ! コトちゃんっ」
互いにとって、望んでいなかった形での友との再会であった。
「私を、追ってきたのですね」
「そうだよっ。コトちゃん、様子変だったから……」
何から喋っていいか分からない——といった様子で、天美空子《あまみそらこ》が駆け寄ってくる。
それよりも速く、阿吽《あうん》が琴律の眼前に飛来した。
「琴律様」
「琴律様はこの根之國よりイオマンテを委託されたエトピリカで在られます」
「この酸鼻を極める有様は」
「琴律様による罪咎《ざいきゅう》では御座いますまいな」
「御手の得物を振るわれた結果だなどとは」
「よもや仰いますまいな」
琴律はちらりと二人に目を遣り、静かに答える。
「ふ。分かりきったことを、態《わざ》とらしく問うのですね」
「じゃ、じゃあこれって……この死んでる人たちって」
「そうです。この婦人《おんな》たちは、全て私が斬り殺しました」
ぐびり——と空子が固唾《かたづ》を呑み込む。
「そ、そ、そんな……コトちゃんこれって、これってひ、人殺し……」
阿吽が揃って芝居がかったポーズで嘆いてみせる。
「なんとまさにこれこそが地獄変相」
「鬼哭啾々」
「霊魂たちがしくしくと泣き啜っております」
琴律はふん、と鼻を鳴らす。
「ではこう言いましょうか。突然この方たちが集団で私を襲ってきたので、か弱き乙女たる私は仕方なく、たまたま手に持っていた一振りの刀を用いてやり返しました。正当防衛を行使したまでです」
「むちゃくちゃだよ! なに考えてんのっ? とにかく、その刀をしまってよ!」
空子が真っ青な顔で怒鳴った。
「嗚呼」
「なんたること」
「万事休す」
「已《や》んぬる哉《かな》」
「根之國に於いての殺戮行為など前例無き事」
「如何なる裁きが降《くだ》るものか考えも及びません」
相変わらずつまらぬ物言いをする男たちだ——と琴律はうんざりする。空子の要求は無視し、刀を担いだままにしていた。
「それで……こんな処まで、一体なんの御用ですか」
「何の用!? コトちゃんも分かってるでしょっ。橋姫がセンパイの体に入り込んでるんだよ。また人を襲って、食べちゃうつもりなんだよ。こんなことしてる場合じゃないでしょ。コトちゃんがいてくれなきゃ、あたしたち」
一気にまくし立てた空子の、声のトーンが落ちる。
「——勝てないよ、橋姫には。コトちゃんがいてくれなきゃ、やっつけられない。だから、帰ろうよ。帰って、一緒に闘ってよ」
「……」
琴律は形のよい唇から、深く息を吐き出した。
「クウコさん。聞いてください」
「えっ」
「私は、地蔵《じぞう》に成《な》るのです」
「は、じぞう? お地蔵様? ——コトちゃん、お地蔵様になるの?」
空子の頭には大きな疑問符が浮かぶ。
「大ちゃんを救うには、私が地蔵菩薩になるしかないんです」
突然出てきた言葉に対し、空子は理解が及ばない。
「ええとそれって、頭を丸めて、よだれ掛けして、石になって……?」
「あなたには、分からなくていいんです」
「何それ、分からなくていいって? あたしがちびで成績も良くないから?」
「……エトピリカ。生きながらにして生前と死後の世界《くに》を往来《ゆきき》できる、稀有な存在ではありませんか。私たちは、それになり、その権限を与えられたのです。せっかく与えられたその能力を、救済《ぐさい》に使わなくてどうします。児《こ》らは、死にたくて死んだのではありません。それを罪と呼び責苦を与えるなら、それ自体が間違っています」
空子は冷汗を掻きながら、琴律の言葉を呑み込もうとする。
言葉は難しいが、死にたくて死んだのではない——という部分だけは間違っていない気がした。
「私達エトピリカに課せられた題務《タスク》、イオマンテ——でしたか。甦りたい、まだ生きたいと願う亡者を、叩き伏せ肉体を潰し、力尽くで黄泉へと反《かえ》す。行為の名前をいくら耳触りの良い言葉に置き換えようと、亡者の意志を無視していることには変わりありません」
「意志? 生き返りたければ、誰もが生き返っていいの!? そんなの、めちゃくちゃになっちゃうでしょー!」
「死が、ある種のけじめだ——とでも言うつもりですか。死ぬべきでなかった者は、生きているべきです。大ちゃんのように! 貴女はそうは思わないのですか、姉として」
「べきべきって、そんなの、誰が判断するの?」
「……」
「コトちゃん、前に『誰か一人が勝手に行き先を決める閻魔《えんま》裁きは勝手だ』みたいなこと言ってたじゃん! それを今は、コトちゃんがやろうとしてるのと同じでしょっ」
「地蔵《じぞう》と閻魔《えんま》は一《いつ》——形相は真反対ですが、どちらも阿弥陀《あみだ》仏《ぶつ》の分身です。慈悲の顔ではなく、忿怒の顔で事を為さねばならぬときもあるんです」
「コトちゃんは言葉が難しすぎて、言ってること全然分かんないよっ」
「橋姫は、自らの意思で黄泉へ堕ちたと、阿吽が言っていたでしょう。そのくせ、また生き返ろうとあがいて、人の肉を食らおうとしています。私は、全ての亡者が甦ればよいなどとは言っていません。ルールを破って無理やり生き返ろうとする者の為に、生きていた者が食い殺されることが赦せないだけなのです」
「ああああーっ」
空子は、頭を掻きむしった。琴律の言葉が詭弁かどうかの判断すらつかない。
自分の口では、琴律を言い負かすことなどできない。それは初めから分かっていた。
「もー、コトちゃんは分からず屋だなあ! こんなことで言い争ってる時間はないんだよっ」
「こんなこと、ですか」
「それをやるのは、今じゃなくてもいいじゃん! 橋姫を放っといたら、また次々に生きてる人を襲って、肉を食べるよ。河津《かわつ》先輩みたいな女の子も、増えてくかもしれないんだよ」
「……」
「あのね、今ケイちゃんたち、橋姫を探しに行ってるんだよ。もし見つけても、ケイちゃんたち三人じゃ、コトちゃんも一緒に闘ってくんなきゃ——無理だよぅ」
担いでいた打刀を納刀し、琴律は空子に対して半身で立った。口元が薄っすらと嗤《わら》っている。
「私は、何百年も前に一度死んだ亡霊を再び死なせるよりも、建設的なことをしたいだけです」
「けんせつてき?」
「死ななくても良かった小児《こども》を、死ななかったことにしてやる。それは私達エトピリカにしかできないこと——エトピリカであればできることだと考えているんです」
「琴律様」
「よもや」
二人の話を聞いていた阿吽が、同時に口を開いた。
「お二人は、少し黙っていてください。今、私とクウコさんが話していますので」
「しかし」
「琴律様」
虫でも追うかのように、琴律は刀の鞘で二人を払った。
阿吽の二人は、刀から薄く立ち上る黒焔に追い立てられ、それ以上近づくことをやめてしまった。
空子は一歩琴律に近づき、刀を持った手にすがろうとする。が、琴律はそれをすっと躱し、また一歩離れる。
「コトちゃん、この女の人たちを殺しに、ここへ来たの!? これって、今やらなきゃいけない事!? 皆んなで力を合わせて、橋姫をやっつけなきゃいけないでしょ!?」
「大ちゃんを救うのは、橋姫を調伏した後にせよという話ですか?」
「いつだなんて関係ない! こんな乱暴な、ひどいことしないでよ!!」
「そもそも、これが人殺しかどうか、分かったものではないでしょう。人の形はしていても、これらは口も聞かぬ、おそらく何者かの傀儡《かいらい》です。それならば、人形を棄てる、ロボットを壊す、ウェイバードやレッドガルが怪人を倒す——それと何が違うのでしょうか」
空子は呆れ始めていた。
論点のずらし、問題の摺り替え。ああ言えばこう言う。答えにくいことには答えない。
やはり自分は、琴律に口では敵わない。
「——コトちゃん。ひとつ訊くんだけど」
「なんですか」
「大ちゃんを、仮に見つけたとしてさ。ここから、どうやって連れ帰るつもりなの。生き返らせるって——その方法って、どうやるの」
「……」
琴律の顔から、薄ら笑いが消えた。
「ただ手を引いて、あっちに戻ることなんてできないよね? 間にはヰ子さんたちもいるし、阿ッさん吽ちゃんもいる。岩戸のおとろしさんはコトちゃんが死なせちゃったみたいだけどさ、一度死んだ子をここから連れ出すことなんて、できないんじゃないの」
琴律が目を伏せた。
「……そうですね。おそらく、ただ連れ戻すことなどできないでしょう。それなら」
「それなら……?」
ぐびりと音を立てて、空子は唾を飲む。
短いけれど濃密な、恐ろしい沈黙。
やがて琴律が、顔を上げた。
「こちらで死ねば、よいのです」
琴律は無表情であった。
「死後の世界であるここ根之國に於いて、エトピリカである私の手で、天美大地《あまみだいち》を殺します」
琴律の手にある刀の鞘が、一際《ひときわ》黒さを増したかに見えた。
「否——大ちゃんには、私が殺してあげる、と言うべきなのでしょうね」
何を言われているのか分からない。
耳がきんと鳴った。空子の手は震え、脚が震え、喉が震えた。
「理屈は通っています。私達の中津國とこちらとは、表裏一体なのですから。根之國や黄泉國で死んだ者がどうなるか、考えてみれば分かることで——」
「ふ、ざけるな!!!」
琴律の顔を睨みつけ、唾を飛ばして空子は吼えた。
「その刀で、大ちゃん——大地を斬るつもり? そうすれば生き返るって!? 橋姫の勝手で殺されちゃって、今度はコトちゃんの勝手で、死んだ後までも斬り殺される大地って何なんだ! 人体実験じゃないぞ! あたしの弟を、大地を、おもちゃにすんな!」
最後の方は、かすれ声になっていた。
癇癪を起こした幼児《おさなご》のように、河原の地面を踏みしめる。轟音とともに地が揺れた。
衝撃波が拡がる。嵐でも来たかのように川の水が暴れる。河原の玉石が宙に浮き上がり、怯えたように弾け飛ぶ。
細かく砕けた石の破片が二人にぶつかり、溢れ返った川の水が雨のように降り注いだ。
「いっぱい本読んでて成績良いくせに馬鹿なコトちゃんは、あたしが連れて帰るんだ! それなら、あたしにだってできるよっ」
「……。火之迦具土《ひのかぐつち》を構えた私に、丸腰で挑むつもりですか。刀と素手、どちらに分があるのか、分からない訳ではないでしょう。……確たる自信があるのか、或いは——只の蛮勇なのか」
「あたし、怒ってるんだからね! コトちゃん、勝手しすぎだよ!」
「私はこれから、正しきを為すのです。友人だからといって、邪魔立てするなら——」
「自分ばっかり正しいってのか!」
空子は琴律に向かって、歯を剥き出して怒鳴った。
握り締めた両の拳を頭上へ掲げ、振り下ろす。足元の石が沈み、空の雲が吹き飛んだ。青い空が、二人の上に広がる。
真っ直ぐ琴律を睨んだまま、空子は荒い息を何度も吐き出す。ごく親しく交わりながら共に育ってきた幼馴染《ともだち》に対して、生まれて初めて顕《あらわ》にする、無遠慮な怒り。
琴律は対面の空子を見て目を細めると、空子を真似るように両の拳を握って、力を入れ始めた。
「……あああッ!」
嬌声とも悲鳴ともつかぬ声を上げ、琴律が上半身を倒す。
肩胛骨のあたり、空子に光翼が生じるのと同じ位置の皮膚が赤い血とともに破れ、黒い骨のようなものが突き出した。
「うわわあ」
琴律に掴みかかろうとしていた空子は慌てて足を止める。
琴律の背から突出した骨には真っ黒に濡れた毛が生えていた。房の形状と大きさから、それが羽毛だと分かる。
「コトちゃんっ、大丈夫!?」
一瞬怯んだ空子は、異常を見咎めて琴律に駆け寄った。ほんの一瞬、怒りは心配に変わった。
「寄るな!」
唾を飛ばし、身を起こしながら、琴律が空子に向かって叫んだ。顎の周りも唾で濡れ汚れている。
「唖唖《ああ》」
ひと声あげて、琴律は背の翼を広げた。
鴉《からす》の羽であった。
墨《すみ》のように黒い。琴律の髪も、装束も、全身に絡みつく焔《ほのお》も——そして翼も、統《すべ》てが付随光を吸収し尽くして、まったく色彩というものが喪われていた。
琴律の装束の面積は少なく、白い肌の多くを露出していたが、それも覆われた部分の黒さを引き立てるのみであった。
背は噴き出した血で汚れ、顔は涙滴と吐き出した唾で汚れ、その表情も汚れていたが、顔貌の造作《ぞうさく》だけはよく知った琴律のまま美しく整っている。それが、空子にはかえって怖ろしく感じられた。
「空子様」
阿吽が肩先に飛来する。
「児《こ》を産んだことのない琴律様がこのような姿になってしまわれたということは」
「他人であるはずの大地《だいち》様を我が子と錯覚なさっておいででございます」
「なに、どういうこと?」
「いわば倒錯なさった状態でございます」
「勿論《もちろん》頭では他人と理解しておいでですが」
「感情の部分で『自らが産んだ』と思い込み擬似的にそのような状態に身を堕とされることで」
「あのような凶々しき力を手になさいました」
「……」
産褥期の雌《めす》動物は、自分が産んだ児を守ろうとするため、外敵に対して、爪と牙を剥くことがある。それは人とて例外ではない。
過剰な防衛本能が惹き起こす憎悪と、それに因る破壊衝動に衝き動かされた、最も始原の「女《めす》」の姿——。
琴律は肩で息をしている。背の痛みを堪えかねているのか、泪《なみだ》と洟《はな》と涎《よだれ》とでぐちゃぐちゃになっている顔を拭いもしない。
地獄の底まで届くかのような深い息を吐き出し、琴律が両目を見開いた。ひと目で、まともな精神状態でないと分かる顔をしていた。
空子は、その琴律の姿を、自分たちエトピリカを完全否定した姿であると解釈した。
「……コトちゃん、それはダメだ。その羽はダメだ」
空子は自分の呼吸リズムが乱れていることを自覚していた。が、それが恐怖からくるものではないことも、自分が今、敵を前にした興奮状態にあることも、この昂りが闘争に直結することも、すべて同様に理解していた。
空子は、生まれて初めて、友人を「粛正せねば」と思った。
年齢の割に心身が幼く、これまではその子供じみた言行を友人らから咎められ正されることの多かった空子であったが、今回ばかりは、大人びた琴律の過《あやま》ちを、自分が正してやらねばならない——と思った。
そう、排除するのではなく、正す。口で言って分からないなら、叩き直す。
大事な友人そのものではなく、彼女に異常行動を取らせている原因を否定し、破壊し、元に戻したい。
しかしその「原因」というのは、空子の弟・大地を救いたい、死んだ大地を生き返らせたい、という念《おも》いなのだ。
空子とて当然、大地には生きていてほしかった。無惨に殺され、世間的には事故扱いにされるなんて、本人も可哀想だし、姉である自分も両親も可哀想だ。生き返った弟と過ごし、笑い合いたいという気持が無いはずはない。
しかし、琴律のやり方は間違っているのだ。苦しんで死んだあとにまで刀で斬りつけられる身にもなってみろと、空子は思う。しかも、生前可愛がってくれていた姉の親友に、である。
惨たらしい、あってはならない弟の死から一年経ち、空子もなんとか気持に整理をつけることができてきたところなのだ。静かに眠らせてやってほしいと、今では願っている。
また、家族や友人らが望めば、死んだ者を生き返らせても良いのか。そもそも死んだ人が生き返って良いのか——と問われれば、いけないに決まっている。
確かに、自分達は特別な存在となった。特例としてではあるが、実際に生前・死後の世界を往き来可能なのだ。世界中のどんな権利よりも稀有で、特別な能力だ。
しかし、いま琴律のやろうとしていることは、その特例を与えられた者による権利濫用にすぎない。
それを正せるのは、ここにいる自分しかいないのだ。
(——あれっ)
ぼんやりと、脳に霞《かすみ》がかかった。
くらくらと目眩《めまい》がするような、背筋がぞくぞくとするような、気持ち悪さと気持ち良さが同時に襲いくる感覚。
友を正そうという、理性からくる決心がぐらついた。
いつしか空子は、目の前に立つ者——琴律を如何に痛めつけ組み伏せるか、それだけを考えていた。そして、それを実行できる力が自分に備わっていることを、幸《さいわ》いと感じた。
より痛く、より屈辱的で、より治り難《にく》い傷をつけてやりたい。
友に対して抱くべき感情ではなかった。
しかし空子は、それを自覚しながら、どろどろとした黒い念《おも》いの噴出を堪えることができない。心が、矛盾を孕んでいる。
なるほど——エトピリカとは、女性の抱く恐怖や憎悪を昂揚に変換し、このような興奮状態に置くことで、戦闘に特化させるシステムなのだ——と、空子は今、身を持って理解した。そしてそれすらも、今の空子にはむしろ、ありがたいとさえ思えた。
(うん——?)
不意に、睨みつけていたはずの琴律の姿が、視界から消えた。その次の瞬間、琴律が刀を鞘ごと振りかぶるのを、至近距離に見た。
空子は、河原の石の上に倒れ伏した。脳天に激痛が走り、眼球の奥に赤い星が飛ぶ。
「ンぐおお」
空子は痛みを堪え、慌てて起き上がる。即座に琴律から距離を取るが、そのあまりの痛さに、頭を押さえて呻くことしかできない。
「なっ……殴ったなアア」
「斬られたくはないでしょう」
口中に不快感を覚え、空子が口を開くと、真っ赤な唾が白い石の上にたらりと垂れた。殴られた拍子に口腔内を噛んでしまい、血がじくじくと染み出した。鉄の味が広がる。
琴律が跳躍してきたのが、全く見えなかった。
空子は、痛さと悔しさに涙を流す。琴律の速さ、強さが恐ろしかった。そして同時に、手加減されているんだ——とも思った。
「くそっ、くそっ! 殴りやがった! くっそぉ」
足元の玉石を力任せに殴りつけ、空子は癇を起こした子供のように悔しがる。
「それとも、鞘《さや》を払わぬのが気に入りませんか。ならば、手は見せませんよ」
琴律が再び、口の端で嗤う。左親指で鯉口を切り、刀の柄を右手で握ると、しゅらりと音を立てて鞘から抜き払った。
青空の下《もと》、長い刀身は陽光を浴びても撥ね返さず、黒い焔《ほのお》だけを刃《やいば》に映しながら禍々しく沈黙する。
「こうなったら、本気でいくっ! 覚悟しろ!」
空子は丹田《たんでん》に力を込め、気魄を吐き出す。
しかし、足元の石が砕けるばかりで、背に光翼は生じなかった。
「——へっ!? あれっ、なんでっ!?」
取り乱す空子の足元を、琴律が黒い刀で横薙ぎに払った。
「うわあ」
反射的に跳び上がった空子の胴体に、琴律が回し蹴りを叩き込む。
河原に積み上がった小さな石塔に空子の全身が叩きつけられ、めちゃくちゃに薙ぎ倒され跳ね散らかった。
「このっ、痛ったいなぁもう! 怪我したらどうすんだよっ」
起き上がりざまに再度蹴飛ばされ、空子の短躯は河原に転がされる。
「くそぉ! 人をボールみたいにぽんすこ蹴るな! あたしを斬るんじゃなかったのか!」
刀を抜いても猶《なお》、手加減されているのか——そう感じた空子は、
「完っ全に、頭にきた!」と憤る。
琴律は自分を侮っている、本気を出させてやりたい。
普段の空子であれば、喧嘩で相手を痛めつけることなど考えたくもなかったし、相手がその気であるなら、それを諌める方向に気が向いたはずである。
しかし、そのような考えができないという異常状態に、空子は置かれていた。
それは意図されたものであり、その力こそが、悪しき亡者・尸澱《シオル》を調伏するために、亡者と同じ力を賦与された闘士・エトピリカの真実なのだった。
思考を頭の隅から追い出し、とうとう空子は怒りに任せて、黒衣の琴律に掴みかかった。
しかし琴律は、逆手に携えた打刀の鞘を空子に向かって突き出し、繰り出される手足に当てて、その勢いを殺してくる。
「くそっ、馬鹿にしてー!」
いくら飛びかかり殴りかかっても、空子の攻撃は琴律の持つ刀の鞘で捌かれてしまう。
琴律はまるで、棒で畜獣でも追い立てるかのように、空子を遇《あし》らった。
右手に持った抜身の刃《やいば》を振るうことなく、どこまでも鞘だけで叩いてくるのを、空子は“無礼《なめ》られている”と感じた。
「友人を斬りたくはありません」
「それなら、大ちゃんのことも斬るなよっ」
「話の分からない人ですね」
攻撃を受け流したその勢いに乗り、琴律の長く肉付きのよい脚が空子に向かって振るわれた。
ずどん、と重い一撃が、空子の横っ腹に刺さる。
「ぐえぶ」
呻く空子に向かって、連続でキックが飛んでくる。
「痛い痛いっ」
琴律は強く、口元には薄ら笑いすら浮かんでいた。
片や空子は、振るわれる長い脚をぎりぎりで躱すのが精一杯である。それでも、全くそれらを喰らわぬという訳にはゆかず、空子の体にはだんだんと打撃の痛みが累積されてゆく。
とにかく、当てられる攻撃の一発一発が痛い。泣くほどに痛い。
エトピリカになり、耐久力や持久力は常人よりも増強されているため、死ぬような激痛ではなかったが、それでも空子の心臓は破れそうであった。
琴律が近づいてくる度に距離を取り、空子は何度も光翼を出そうと試みた。しかし琴律の黒翼の瘴気《しょうき》にでもあてられたものか、どうしても空子の背に羽は生えなかった。
「うそぉ……なんでだよー! なんでできないのー!?」
「私の大ちゃんは——私が彼方《あちら》へ還します。大ちゃんには、ここで死んでもらわねばなりません。大ちゃんに生きてもらう為に」
涙と鼻汁を垂らし、肩で息をする空子と対照的に、琴律は眉ひとつ動かさずに刀を振るい、蹴りを繰り出す。
等しくエトピリカとして変身した二人に、変身者の体格差に依る膂力の違いはない。ただ、手にした刀の有無、そして背の羽の有無が、仕様《スペック》の差異を生んでいた。
人殺しの覚悟を決めた者と、そうでない者との隔たりでもあった。
「オオオオーッ!!!」
刀を振るいながら、空子を威嚇するように、琴律が叫《おら》ぶ。その声にすら、空子は萎縮してしまい、思うように動くことができない。
河原の石に足を捕られて転び、倒れ伏した空子の脇腹を、琴律が思い切り蹴り込んだ。声にならぬ声をあげて、空子は苦悶する。
胃液が込み上げるのを堪えながら、空子は琴律から距離を取ろうと、涙の滲んだ目で相手を探す。しかし、琴律の長駆を捉えることができない。その長い脚が、目に入らない。
「ど、どこだっ?」
はっと気付いて見上げた空子の真上には、黒い羽を広げて空《くう》に浮く琴律の、真っ黒な姿があった。
「あっ、コト——」
慌てて仰向けになった空子が起き上がるよりも速く、琴律が落下してきた。
琴律は両足を揃え、体重をかけて空子の顔面に着地し、河原の玉砂利にめり込ませる。そのまま顔といわず胴体といわず、幼馴染の友人を何度も何度も踏みつけ、滅茶苦茶に蹴りつけた。
それでも琴律は、手に握った抜き身の刀を使うことはなく、鞘も左手に携えたままであった。空子を完全に子供扱いし、無礼《なめ》きっている証左であった。
「ふん——こんなことをしていても、時間の無駄ですね。あなたの言う通りです」
防戦一方どころか、動くことも儘ならなくなった空子の態《ざま》を冷ややかな目で見下ろし、やがて琴律は打刀を高々と振り上げた。長身の琴律から延長して伸びたように、刀はまっすぐ天に向かって掲げられる。
「なんだとぉ……」
河原の石の上に仰向けに転がされた空子は、琴律を見上げて唇を噛む。
「私は私の大ちゃんを捜しに行かねばなりません。この河原にきっと居る筈ですから」
「ふざけたこというな……大ちゃんをコトちゃんの好きになんて、させないぞっ」
「大ちゃんよりも先に、あなたを斬るのは忍びないのですが……聞き分けがない以上、已むを得ませんね」
「聞き分けがないのは……どっちだよっ……」
荒い息の中から言い返すが、正直、琴律に対しやり返す手が無いのは決定的であった。指の一本さえも、動かすことが苦しかった。
大上段に刀を構えた琴律の目が、すっと細められる。
「……命乞いをしても良いんですよ」
「ねえコトちゃん。エトピリカが根の国で死んじゃったら、どうなるのかな」
「……前例のない事らしいですから、分かりません」
「行き場所が無くって、どこにもいなくなるのだけは、いやだなあ」
「……」
琴律はもう、何も言わなかった。
空子は目を閉じ、大地《おとうと》の顔を思い浮かべて、心の中で謝罪する。
(あの時も今も、助けてあげられなかったね。ダメなお姉ちゃんで、ごめんね)
空子の目から、涙が流れた。
不意に顔のすぐ横に、黒い打刀が落ちてきた。空子は驚き、思わず目を瞑る。
何事かと思い見上げると、琴律が顔を——両目を押さえて震えている。
「え……?」
顔を覆った手の間から、琴律らしからぬくぐもり声が漏れ聞こえた。
「ひ——ひぉあおおおおおあ」
両手の下、琴律の顔面に、流涕《りゅうてい》したかのような赤い筋が垂れ落ちる。
「血!?」
突然のことに、空子は目を疑う。
琴律が身体を屈し、どさりと河原に膝を突いた。
顔、首、肩、胸、腕、腹、脚、——全身に、どすどすどすどすどすどすどす——と連続で小さな孔《あな》が穿たれ、ひとつひとつからぶつりぶつりと血が噴き出してゆく。
見目麗しき美少女の全身に、血の花が咲いた。
これは、中津國に於いて打たれた、橋姫の咒詛《まじない》が届いたことによる釘痕《ちょうこん》であった。
「ううっぎあああああああああ」
聞いたこともない声を上げて、琴律がのたうち回る。
「何これ……ど、ど、どうしたのぉ」
「げげぇげげ、げああああああ、ああ、ああ、ああッ、やああああーッ」
空子はよろよろと身を起こすが、琴律をおろおろと見ることしかできない。
琴律の黒目はぐりんと上に剥き、口からは舌がでろんと突き出され、涎《よだれ》が血塗れの顎までずるんと汚ならしく垂れる。
「ひぃーッ! ひぃーッ!」
聞くに堪えぬ声と見るに堪えぬ顔で、琴律は転げ回った。血が滴り落ち、白い河原の石を赤く汚した。
その背の黒翼すらも、萎れたように広がりを失って、羽根が抜け落ちてゆく。
(——今だ!)
最後の力を振り絞って、空子は琴律に跳び付いた。
背に馬乗りになり、真っ黒な翼の片方を両腕で抱え込むと、肩胛骨から直に生えた根元に思い切り力をかける。
「コトちゃん、ごめんっ!」
皮を破り、肉を裂き、骨をへし折る。めきめきと音を立てて、空子は琴律の黒翼をもぎ取った。手応えから一瞬遅れて、血が噴き出す。
「うぎぃあああああああ」
痛みに痛みが重なり、琴律は白目を剥いて呻き声をあげる。
「こっちも!」
反対側の翼も同様にへし折り、力任せにもぎ捨てる。大量の黒い羽根が舞い、鮮血が散った。
「ど、どうだ……」
空子は転がるように琴律から離れ、琴律からもぎ取った翼を三途の川に投げ入れた。二枚一対の翼は三途の川を流れ、すぐに見えなくなった。
はあ、はあ、という荒い息を辺りに響かせ、二人のエトピリカはしばらく河原に横たわっていた。琴律も空子も、琴律の血液に塗《まみ》れていた。
さらさらと流れる川のせせらぎだけが、空子の耳に聴こえていた。
——やがて。先に起き上がったのは、なんと琴律であった。
琴律は、全身に孔《あな》が空き翼をもがれたことによる満身の傷を堪えて、よろよろと震えながら河原を這い、黒い打刀を拾い上げた。刀を杖にして立ち上がり、空子には目も呉れぬまま、川に沿って歩を進めようとする。
「だ、い、ちゃ」
琴律の口から洩れ出た名を聞き、なんという執念か——と空子はぞっとする。琴律を追おうと上半身を起こすが、痛みと疲れのせいで立ち上がることができない。
「コト——」
空子が口を開いて声を発した瞬間。琴律の黒い装束の股座《またぐら》から、びたびたびたっ——と大量の液体が滴った。まるで破水したかの如くに流れ出たそれは、赤茶色をした経血であった。
夥《おびただ》しい量の排血と同時に、打刀に宿っていた黒焔が消えてゆく。
「あ、あ……」
琴律の衣服からも黒味が消え失せ、元のエトピリカの装束に戻る。その背中に、大きな傷と、べっとりと濡れた血の跡が見てとれた。
魂が抜けたようにその場に片膝を突くが、己れの血に穢《よご》れた河原の地面に刀を刺して、琴律はなんとか身を支えた。全身——とりわけ背中、そして尻と腿が、大量の赤黒い血液に染まり、痛々しく見えた。
「コトちゃ——」
気力でなんとか立ち上がり、琴律に追い縋ろうと近づいた空子は、彼女の異常な為熟《しこな》しに気付く。
跪き、地面に突き立てた黒い刀の柄《つか》を握ったまま刃金《はのかね》に白い首筋を当てて、琴律は空子の顔を見上げた。
無言のまま琴律は目を閉じ、刃に沿って首を滑らせ——
「馬鹿あ!」
地を蹴って跳びかかり、空子は全身で琴律にぶつかった。そのまま二人して地面に倒れこむ。
荒い息を整う間も無く見れば、琴律は目を閉じてはいたが、鼻息が漏れていた。気を失っただけのようであった。首筋に刀疵《かたなきず》も見えなかった。間一髪で斬らせずに済んだようである。
さすがに出血が多量すぎた。常人であれば、とっくに死んでいる傷である。その所為で、エトピリカといえど意識を保つことができなかったのであろう。
なんとか琴律を死なせるのを避けられたことに安堵し、空子はほっと息を吐《つ》いた。
「自殺《ジサツ》は最悪だって、自分で言ってたくせに……本当に馬鹿だよ……」
空子は気絶した琴律の顔を見ながら、息も絶え絶えに呟いた。
今度こそ本当に、身体は動かなかった。
「四千九百八十八!」
朦々たる血煙《ちけぶり》を浴びながら、琴律は熱い息を鞴《ふいご》の如く吐き出した。
次に視界に捉えた女は、振り向いてすぐ、右腕の先にいた。
顔面に彫られた「一」の文字のど真ん中に刀を刺し込む。そのまま力任せに斬り下ろすと、臍の辺りまで一気に着物と肉とが裂けた。
「四千九百八十九!!」
気魄一閃、引き抜いた刀を、後方に立つ女目掛けて投げつける。黒い刀は過《あやま》たず女の喉笛を貫いた。
「四千九百九十ーッ!!!」
琴律の鋭い回し蹴りが女の側頭を薙ぎ払うと、突き刺さった刀を支点として、首がぐるりと横回転して捥げ落ちた。
「大ちゃん……」
立ったまま首を失い動かなくなった女から、刀を乱暴に引き抜く。
琴律は足元に落としていた鞘を拾い上げて、血も拭わぬままの黒い刀身を納めた。
(どうせ、すぐに次を斬るのだもの)
心の中で、独言《ひとりごち》る。
見た夢を根拠《あてど》にし、ひたすらに河原を駆け抜け、顔の無い女達を斬り伏せてきたが、肝心の大地《だいち》の姿どころか、小児《こども》のひとりも見つけることは叶っていない。
舌打ちをして、琴律は最も手近に立っていた女を、長い髪を掴んで捕まえた。
この辺りで見た中でも、最も年嵩の老婆であった。琴律はぐいと顔を近づける。この老婆にもやはり顔はないが、琴律の目には、佇まいがいくらか賢しげに見えた。
鞘から一尺ほど抜いた刀身を老婆の皺だらけの喉元に突きつけ、
「天美大地《あまみだいち》は何処《どこ》か!」と琴律は問うた。
「年端もゆかぬ児《こ》らを、何故あのような目に会わせる!」
綺麗な顔に似合わぬ胴間声に、老婆は何の反応も返さない。
「お前らの一存ではあるまい! あれらの事を子供らに強いている者がいるのか!」
あのような目だの、あれらだのと遠称で問うが、琴律は夢で見た惨状を、現実にその目で見た訳ではないのである。
「ええい、天美大地は何処か!」
背筋を伝う厭な汗を誤魔化すように怒鳴る。
「答えッ!」
ところがいくら問い詰めても、老女は返答をしない。それどころか、琴律になんの反応もしない。
「——ふん。口が聞けないか。見れば分かるものを、私としたことが」
自嘲ぎみに、琴律は口だけで笑う。
そのまま女を河原に叩きつけ、刀を踏んで頸《くび》を圧《お》し斬った。
だらだらだらと勢いなく血が流れ出て、赤黒い色が黒い刀と白い河原を汚す。
「四千九百九十一──」
顔にかかった髪を指で耳に掛け、琴律は刀を拾って肩に担いだ。押っ取り刀でよかろう——と心に言い訳をするが、要するに鞘に納めることも面倒臭くなっていたのだ。
「……」
やがて辺りには、立ち歩く女たちの姿は見えなくなっていた。青い空の下に残っているのは、足元に転がる幾百幾千もの亡骸《なきがら》と、耳に心地よい川のせせらぎ、そして——内《うち》より出《いず》る修羅《しゅら》の妄執《もうしゅう》。
(自覚しているからこそ、性質《たち》が悪い……)
琴律が青空を仰いで、口から何度目かの熱息を噴き出したとき、ばたばたと騒がしい足音が聞こえてきた。
「わああ、何これ! ひどいっ」
よく聞き知った、やけに幼げな声が河原に響く。
琴律は肩から刀を下ろすことなく、首だけでゆっくりとそちらを向いた。
派手な髪色をした幼馴染と、その頭上を飛び回る虫の如き仁王像たち。
「——クウコさん」
「あっ! コトちゃんっ」
互いにとって、望んでいなかった形での友との再会であった。
「私を、追ってきたのですね」
「そうだよっ。コトちゃん、様子変だったから……」
何から喋っていいか分からない——といった様子で、天美空子《あまみそらこ》が駆け寄ってくる。
それよりも速く、阿吽《あうん》が琴律の眼前に飛来した。
「琴律様」
「琴律様はこの根之國よりイオマンテを委託されたエトピリカで在られます」
「この酸鼻を極める有様は」
「琴律様による罪咎《ざいきゅう》では御座いますまいな」
「御手の得物を振るわれた結果だなどとは」
「よもや仰いますまいな」
琴律はちらりと二人に目を遣り、静かに答える。
「ふ。分かりきったことを、態《わざ》とらしく問うのですね」
「じゃ、じゃあこれって……この死んでる人たちって」
「そうです。この婦人《おんな》たちは、全て私が斬り殺しました」
ぐびり——と空子が固唾《かたづ》を呑み込む。
「そ、そ、そんな……コトちゃんこれって、これってひ、人殺し……」
阿吽が揃って芝居がかったポーズで嘆いてみせる。
「なんとまさにこれこそが地獄変相」
「鬼哭啾々」
「霊魂たちがしくしくと泣き啜っております」
琴律はふん、と鼻を鳴らす。
「ではこう言いましょうか。突然この方たちが集団で私を襲ってきたので、か弱き乙女たる私は仕方なく、たまたま手に持っていた一振りの刀を用いてやり返しました。正当防衛を行使したまでです」
「むちゃくちゃだよ! なに考えてんのっ? とにかく、その刀をしまってよ!」
空子が真っ青な顔で怒鳴った。
「嗚呼」
「なんたること」
「万事休す」
「已《や》んぬる哉《かな》」
「根之國に於いての殺戮行為など前例無き事」
「如何なる裁きが降《くだ》るものか考えも及びません」
相変わらずつまらぬ物言いをする男たちだ——と琴律はうんざりする。空子の要求は無視し、刀を担いだままにしていた。
「それで……こんな処まで、一体なんの御用ですか」
「何の用!? コトちゃんも分かってるでしょっ。橋姫がセンパイの体に入り込んでるんだよ。また人を襲って、食べちゃうつもりなんだよ。こんなことしてる場合じゃないでしょ。コトちゃんがいてくれなきゃ、あたしたち」
一気にまくし立てた空子の、声のトーンが落ちる。
「——勝てないよ、橋姫には。コトちゃんがいてくれなきゃ、やっつけられない。だから、帰ろうよ。帰って、一緒に闘ってよ」
「……」
琴律は形のよい唇から、深く息を吐き出した。
「クウコさん。聞いてください」
「えっ」
「私は、地蔵《じぞう》に成《な》るのです」
「は、じぞう? お地蔵様? ——コトちゃん、お地蔵様になるの?」
空子の頭には大きな疑問符が浮かぶ。
「大ちゃんを救うには、私が地蔵菩薩になるしかないんです」
突然出てきた言葉に対し、空子は理解が及ばない。
「ええとそれって、頭を丸めて、よだれ掛けして、石になって……?」
「あなたには、分からなくていいんです」
「何それ、分からなくていいって? あたしがちびで成績も良くないから?」
「……エトピリカ。生きながらにして生前と死後の世界《くに》を往来《ゆきき》できる、稀有な存在ではありませんか。私たちは、それになり、その権限を与えられたのです。せっかく与えられたその能力を、救済《ぐさい》に使わなくてどうします。児《こ》らは、死にたくて死んだのではありません。それを罪と呼び責苦を与えるなら、それ自体が間違っています」
空子は冷汗を掻きながら、琴律の言葉を呑み込もうとする。
言葉は難しいが、死にたくて死んだのではない——という部分だけは間違っていない気がした。
「私達エトピリカに課せられた題務《タスク》、イオマンテ——でしたか。甦りたい、まだ生きたいと願う亡者を、叩き伏せ肉体を潰し、力尽くで黄泉へと反《かえ》す。行為の名前をいくら耳触りの良い言葉に置き換えようと、亡者の意志を無視していることには変わりありません」
「意志? 生き返りたければ、誰もが生き返っていいの!? そんなの、めちゃくちゃになっちゃうでしょー!」
「死が、ある種のけじめだ——とでも言うつもりですか。死ぬべきでなかった者は、生きているべきです。大ちゃんのように! 貴女はそうは思わないのですか、姉として」
「べきべきって、そんなの、誰が判断するの?」
「……」
「コトちゃん、前に『誰か一人が勝手に行き先を決める閻魔《えんま》裁きは勝手だ』みたいなこと言ってたじゃん! それを今は、コトちゃんがやろうとしてるのと同じでしょっ」
「地蔵《じぞう》と閻魔《えんま》は一《いつ》——形相は真反対ですが、どちらも阿弥陀《あみだ》仏《ぶつ》の分身です。慈悲の顔ではなく、忿怒の顔で事を為さねばならぬときもあるんです」
「コトちゃんは言葉が難しすぎて、言ってること全然分かんないよっ」
「橋姫は、自らの意思で黄泉へ堕ちたと、阿吽が言っていたでしょう。そのくせ、また生き返ろうとあがいて、人の肉を食らおうとしています。私は、全ての亡者が甦ればよいなどとは言っていません。ルールを破って無理やり生き返ろうとする者の為に、生きていた者が食い殺されることが赦せないだけなのです」
「ああああーっ」
空子は、頭を掻きむしった。琴律の言葉が詭弁かどうかの判断すらつかない。
自分の口では、琴律を言い負かすことなどできない。それは初めから分かっていた。
「もー、コトちゃんは分からず屋だなあ! こんなことで言い争ってる時間はないんだよっ」
「こんなこと、ですか」
「それをやるのは、今じゃなくてもいいじゃん! 橋姫を放っといたら、また次々に生きてる人を襲って、肉を食べるよ。河津《かわつ》先輩みたいな女の子も、増えてくかもしれないんだよ」
「……」
「あのね、今ケイちゃんたち、橋姫を探しに行ってるんだよ。もし見つけても、ケイちゃんたち三人じゃ、コトちゃんも一緒に闘ってくんなきゃ——無理だよぅ」
担いでいた打刀を納刀し、琴律は空子に対して半身で立った。口元が薄っすらと嗤《わら》っている。
「私は、何百年も前に一度死んだ亡霊を再び死なせるよりも、建設的なことをしたいだけです」
「けんせつてき?」
「死ななくても良かった小児《こども》を、死ななかったことにしてやる。それは私達エトピリカにしかできないこと——エトピリカであればできることだと考えているんです」
「琴律様」
「よもや」
二人の話を聞いていた阿吽が、同時に口を開いた。
「お二人は、少し黙っていてください。今、私とクウコさんが話していますので」
「しかし」
「琴律様」
虫でも追うかのように、琴律は刀の鞘で二人を払った。
阿吽の二人は、刀から薄く立ち上る黒焔に追い立てられ、それ以上近づくことをやめてしまった。
空子は一歩琴律に近づき、刀を持った手にすがろうとする。が、琴律はそれをすっと躱し、また一歩離れる。
「コトちゃん、この女の人たちを殺しに、ここへ来たの!? これって、今やらなきゃいけない事!? 皆んなで力を合わせて、橋姫をやっつけなきゃいけないでしょ!?」
「大ちゃんを救うのは、橋姫を調伏した後にせよという話ですか?」
「いつだなんて関係ない! こんな乱暴な、ひどいことしないでよ!!」
「そもそも、これが人殺しかどうか、分かったものではないでしょう。人の形はしていても、これらは口も聞かぬ、おそらく何者かの傀儡《かいらい》です。それならば、人形を棄てる、ロボットを壊す、ウェイバードやレッドガルが怪人を倒す——それと何が違うのでしょうか」
空子は呆れ始めていた。
論点のずらし、問題の摺り替え。ああ言えばこう言う。答えにくいことには答えない。
やはり自分は、琴律に口では敵わない。
「——コトちゃん。ひとつ訊くんだけど」
「なんですか」
「大ちゃんを、仮に見つけたとしてさ。ここから、どうやって連れ帰るつもりなの。生き返らせるって——その方法って、どうやるの」
「……」
琴律の顔から、薄ら笑いが消えた。
「ただ手を引いて、あっちに戻ることなんてできないよね? 間にはヰ子さんたちもいるし、阿ッさん吽ちゃんもいる。岩戸のおとろしさんはコトちゃんが死なせちゃったみたいだけどさ、一度死んだ子をここから連れ出すことなんて、できないんじゃないの」
琴律が目を伏せた。
「……そうですね。おそらく、ただ連れ戻すことなどできないでしょう。それなら」
「それなら……?」
ぐびりと音を立てて、空子は唾を飲む。
短いけれど濃密な、恐ろしい沈黙。
やがて琴律が、顔を上げた。
「こちらで死ねば、よいのです」
琴律は無表情であった。
「死後の世界であるここ根之國に於いて、エトピリカである私の手で、天美大地《あまみだいち》を殺します」
琴律の手にある刀の鞘が、一際《ひときわ》黒さを増したかに見えた。
「否——大ちゃんには、私が殺してあげる、と言うべきなのでしょうね」
何を言われているのか分からない。
耳がきんと鳴った。空子の手は震え、脚が震え、喉が震えた。
「理屈は通っています。私達の中津國とこちらとは、表裏一体なのですから。根之國や黄泉國で死んだ者がどうなるか、考えてみれば分かることで——」
「ふ、ざけるな!!!」
琴律の顔を睨みつけ、唾を飛ばして空子は吼えた。
「その刀で、大ちゃん——大地を斬るつもり? そうすれば生き返るって!? 橋姫の勝手で殺されちゃって、今度はコトちゃんの勝手で、死んだ後までも斬り殺される大地って何なんだ! 人体実験じゃないぞ! あたしの弟を、大地を、おもちゃにすんな!」
最後の方は、かすれ声になっていた。
癇癪を起こした幼児《おさなご》のように、河原の地面を踏みしめる。轟音とともに地が揺れた。
衝撃波が拡がる。嵐でも来たかのように川の水が暴れる。河原の玉石が宙に浮き上がり、怯えたように弾け飛ぶ。
細かく砕けた石の破片が二人にぶつかり、溢れ返った川の水が雨のように降り注いだ。
「いっぱい本読んでて成績良いくせに馬鹿なコトちゃんは、あたしが連れて帰るんだ! それなら、あたしにだってできるよっ」
「……。火之迦具土《ひのかぐつち》を構えた私に、丸腰で挑むつもりですか。刀と素手、どちらに分があるのか、分からない訳ではないでしょう。……確たる自信があるのか、或いは——只の蛮勇なのか」
「あたし、怒ってるんだからね! コトちゃん、勝手しすぎだよ!」
「私はこれから、正しきを為すのです。友人だからといって、邪魔立てするなら——」
「自分ばっかり正しいってのか!」
空子は琴律に向かって、歯を剥き出して怒鳴った。
握り締めた両の拳を頭上へ掲げ、振り下ろす。足元の石が沈み、空の雲が吹き飛んだ。青い空が、二人の上に広がる。
真っ直ぐ琴律を睨んだまま、空子は荒い息を何度も吐き出す。ごく親しく交わりながら共に育ってきた幼馴染《ともだち》に対して、生まれて初めて顕《あらわ》にする、無遠慮な怒り。
琴律は対面の空子を見て目を細めると、空子を真似るように両の拳を握って、力を入れ始めた。
「……あああッ!」
嬌声とも悲鳴ともつかぬ声を上げ、琴律が上半身を倒す。
肩胛骨のあたり、空子に光翼が生じるのと同じ位置の皮膚が赤い血とともに破れ、黒い骨のようなものが突き出した。
「うわわあ」
琴律に掴みかかろうとしていた空子は慌てて足を止める。
琴律の背から突出した骨には真っ黒に濡れた毛が生えていた。房の形状と大きさから、それが羽毛だと分かる。
「コトちゃんっ、大丈夫!?」
一瞬怯んだ空子は、異常を見咎めて琴律に駆け寄った。ほんの一瞬、怒りは心配に変わった。
「寄るな!」
唾を飛ばし、身を起こしながら、琴律が空子に向かって叫んだ。顎の周りも唾で濡れ汚れている。
「唖唖《ああ》」
ひと声あげて、琴律は背の翼を広げた。
鴉《からす》の羽であった。
墨《すみ》のように黒い。琴律の髪も、装束も、全身に絡みつく焔《ほのお》も——そして翼も、統《すべ》てが付随光を吸収し尽くして、まったく色彩というものが喪われていた。
琴律の装束の面積は少なく、白い肌の多くを露出していたが、それも覆われた部分の黒さを引き立てるのみであった。
背は噴き出した血で汚れ、顔は涙滴と吐き出した唾で汚れ、その表情も汚れていたが、顔貌の造作《ぞうさく》だけはよく知った琴律のまま美しく整っている。それが、空子にはかえって怖ろしく感じられた。
「空子様」
阿吽が肩先に飛来する。
「児《こ》を産んだことのない琴律様がこのような姿になってしまわれたということは」
「他人であるはずの大地《だいち》様を我が子と錯覚なさっておいででございます」
「なに、どういうこと?」
「いわば倒錯なさった状態でございます」
「勿論《もちろん》頭では他人と理解しておいでですが」
「感情の部分で『自らが産んだ』と思い込み擬似的にそのような状態に身を堕とされることで」
「あのような凶々しき力を手になさいました」
「……」
産褥期の雌《めす》動物は、自分が産んだ児を守ろうとするため、外敵に対して、爪と牙を剥くことがある。それは人とて例外ではない。
過剰な防衛本能が惹き起こす憎悪と、それに因る破壊衝動に衝き動かされた、最も始原の「女《めす》」の姿——。
琴律は肩で息をしている。背の痛みを堪えかねているのか、泪《なみだ》と洟《はな》と涎《よだれ》とでぐちゃぐちゃになっている顔を拭いもしない。
地獄の底まで届くかのような深い息を吐き出し、琴律が両目を見開いた。ひと目で、まともな精神状態でないと分かる顔をしていた。
空子は、その琴律の姿を、自分たちエトピリカを完全否定した姿であると解釈した。
「……コトちゃん、それはダメだ。その羽はダメだ」
空子は自分の呼吸リズムが乱れていることを自覚していた。が、それが恐怖からくるものではないことも、自分が今、敵を前にした興奮状態にあることも、この昂りが闘争に直結することも、すべて同様に理解していた。
空子は、生まれて初めて、友人を「粛正せねば」と思った。
年齢の割に心身が幼く、これまではその子供じみた言行を友人らから咎められ正されることの多かった空子であったが、今回ばかりは、大人びた琴律の過《あやま》ちを、自分が正してやらねばならない——と思った。
そう、排除するのではなく、正す。口で言って分からないなら、叩き直す。
大事な友人そのものではなく、彼女に異常行動を取らせている原因を否定し、破壊し、元に戻したい。
しかしその「原因」というのは、空子の弟・大地を救いたい、死んだ大地を生き返らせたい、という念《おも》いなのだ。
空子とて当然、大地には生きていてほしかった。無惨に殺され、世間的には事故扱いにされるなんて、本人も可哀想だし、姉である自分も両親も可哀想だ。生き返った弟と過ごし、笑い合いたいという気持が無いはずはない。
しかし、琴律のやり方は間違っているのだ。苦しんで死んだあとにまで刀で斬りつけられる身にもなってみろと、空子は思う。しかも、生前可愛がってくれていた姉の親友に、である。
惨たらしい、あってはならない弟の死から一年経ち、空子もなんとか気持に整理をつけることができてきたところなのだ。静かに眠らせてやってほしいと、今では願っている。
また、家族や友人らが望めば、死んだ者を生き返らせても良いのか。そもそも死んだ人が生き返って良いのか——と問われれば、いけないに決まっている。
確かに、自分達は特別な存在となった。特例としてではあるが、実際に生前・死後の世界を往き来可能なのだ。世界中のどんな権利よりも稀有で、特別な能力だ。
しかし、いま琴律のやろうとしていることは、その特例を与えられた者による権利濫用にすぎない。
それを正せるのは、ここにいる自分しかいないのだ。
(——あれっ)
ぼんやりと、脳に霞《かすみ》がかかった。
くらくらと目眩《めまい》がするような、背筋がぞくぞくとするような、気持ち悪さと気持ち良さが同時に襲いくる感覚。
友を正そうという、理性からくる決心がぐらついた。
いつしか空子は、目の前に立つ者——琴律を如何に痛めつけ組み伏せるか、それだけを考えていた。そして、それを実行できる力が自分に備わっていることを、幸《さいわ》いと感じた。
より痛く、より屈辱的で、より治り難《にく》い傷をつけてやりたい。
友に対して抱くべき感情ではなかった。
しかし空子は、それを自覚しながら、どろどろとした黒い念《おも》いの噴出を堪えることができない。心が、矛盾を孕んでいる。
なるほど——エトピリカとは、女性の抱く恐怖や憎悪を昂揚に変換し、このような興奮状態に置くことで、戦闘に特化させるシステムなのだ——と、空子は今、身を持って理解した。そしてそれすらも、今の空子にはむしろ、ありがたいとさえ思えた。
(うん——?)
不意に、睨みつけていたはずの琴律の姿が、視界から消えた。その次の瞬間、琴律が刀を鞘ごと振りかぶるのを、至近距離に見た。
空子は、河原の石の上に倒れ伏した。脳天に激痛が走り、眼球の奥に赤い星が飛ぶ。
「ンぐおお」
空子は痛みを堪え、慌てて起き上がる。即座に琴律から距離を取るが、そのあまりの痛さに、頭を押さえて呻くことしかできない。
「なっ……殴ったなアア」
「斬られたくはないでしょう」
口中に不快感を覚え、空子が口を開くと、真っ赤な唾が白い石の上にたらりと垂れた。殴られた拍子に口腔内を噛んでしまい、血がじくじくと染み出した。鉄の味が広がる。
琴律が跳躍してきたのが、全く見えなかった。
空子は、痛さと悔しさに涙を流す。琴律の速さ、強さが恐ろしかった。そして同時に、手加減されているんだ——とも思った。
「くそっ、くそっ! 殴りやがった! くっそぉ」
足元の玉石を力任せに殴りつけ、空子は癇を起こした子供のように悔しがる。
「それとも、鞘《さや》を払わぬのが気に入りませんか。ならば、手は見せませんよ」
琴律が再び、口の端で嗤う。左親指で鯉口を切り、刀の柄を右手で握ると、しゅらりと音を立てて鞘から抜き払った。
青空の下《もと》、長い刀身は陽光を浴びても撥ね返さず、黒い焔《ほのお》だけを刃《やいば》に映しながら禍々しく沈黙する。
「こうなったら、本気でいくっ! 覚悟しろ!」
空子は丹田《たんでん》に力を込め、気魄を吐き出す。
しかし、足元の石が砕けるばかりで、背に光翼は生じなかった。
「——へっ!? あれっ、なんでっ!?」
取り乱す空子の足元を、琴律が黒い刀で横薙ぎに払った。
「うわあ」
反射的に跳び上がった空子の胴体に、琴律が回し蹴りを叩き込む。
河原に積み上がった小さな石塔に空子の全身が叩きつけられ、めちゃくちゃに薙ぎ倒され跳ね散らかった。
「このっ、痛ったいなぁもう! 怪我したらどうすんだよっ」
起き上がりざまに再度蹴飛ばされ、空子の短躯は河原に転がされる。
「くそぉ! 人をボールみたいにぽんすこ蹴るな! あたしを斬るんじゃなかったのか!」
刀を抜いても猶《なお》、手加減されているのか——そう感じた空子は、
「完っ全に、頭にきた!」と憤る。
琴律は自分を侮っている、本気を出させてやりたい。
普段の空子であれば、喧嘩で相手を痛めつけることなど考えたくもなかったし、相手がその気であるなら、それを諌める方向に気が向いたはずである。
しかし、そのような考えができないという異常状態に、空子は置かれていた。
それは意図されたものであり、その力こそが、悪しき亡者・尸澱《シオル》を調伏するために、亡者と同じ力を賦与された闘士・エトピリカの真実なのだった。
思考を頭の隅から追い出し、とうとう空子は怒りに任せて、黒衣の琴律に掴みかかった。
しかし琴律は、逆手に携えた打刀の鞘を空子に向かって突き出し、繰り出される手足に当てて、その勢いを殺してくる。
「くそっ、馬鹿にしてー!」
いくら飛びかかり殴りかかっても、空子の攻撃は琴律の持つ刀の鞘で捌かれてしまう。
琴律はまるで、棒で畜獣でも追い立てるかのように、空子を遇《あし》らった。
右手に持った抜身の刃《やいば》を振るうことなく、どこまでも鞘だけで叩いてくるのを、空子は“無礼《なめ》られている”と感じた。
「友人を斬りたくはありません」
「それなら、大ちゃんのことも斬るなよっ」
「話の分からない人ですね」
攻撃を受け流したその勢いに乗り、琴律の長く肉付きのよい脚が空子に向かって振るわれた。
ずどん、と重い一撃が、空子の横っ腹に刺さる。
「ぐえぶ」
呻く空子に向かって、連続でキックが飛んでくる。
「痛い痛いっ」
琴律は強く、口元には薄ら笑いすら浮かんでいた。
片や空子は、振るわれる長い脚をぎりぎりで躱すのが精一杯である。それでも、全くそれらを喰らわぬという訳にはゆかず、空子の体にはだんだんと打撃の痛みが累積されてゆく。
とにかく、当てられる攻撃の一発一発が痛い。泣くほどに痛い。
エトピリカになり、耐久力や持久力は常人よりも増強されているため、死ぬような激痛ではなかったが、それでも空子の心臓は破れそうであった。
琴律が近づいてくる度に距離を取り、空子は何度も光翼を出そうと試みた。しかし琴律の黒翼の瘴気《しょうき》にでもあてられたものか、どうしても空子の背に羽は生えなかった。
「うそぉ……なんでだよー! なんでできないのー!?」
「私の大ちゃんは——私が彼方《あちら》へ還します。大ちゃんには、ここで死んでもらわねばなりません。大ちゃんに生きてもらう為に」
涙と鼻汁を垂らし、肩で息をする空子と対照的に、琴律は眉ひとつ動かさずに刀を振るい、蹴りを繰り出す。
等しくエトピリカとして変身した二人に、変身者の体格差に依る膂力の違いはない。ただ、手にした刀の有無、そして背の羽の有無が、仕様《スペック》の差異を生んでいた。
人殺しの覚悟を決めた者と、そうでない者との隔たりでもあった。
「オオオオーッ!!!」
刀を振るいながら、空子を威嚇するように、琴律が叫《おら》ぶ。その声にすら、空子は萎縮してしまい、思うように動くことができない。
河原の石に足を捕られて転び、倒れ伏した空子の脇腹を、琴律が思い切り蹴り込んだ。声にならぬ声をあげて、空子は苦悶する。
胃液が込み上げるのを堪えながら、空子は琴律から距離を取ろうと、涙の滲んだ目で相手を探す。しかし、琴律の長駆を捉えることができない。その長い脚が、目に入らない。
「ど、どこだっ?」
はっと気付いて見上げた空子の真上には、黒い羽を広げて空《くう》に浮く琴律の、真っ黒な姿があった。
「あっ、コト——」
慌てて仰向けになった空子が起き上がるよりも速く、琴律が落下してきた。
琴律は両足を揃え、体重をかけて空子の顔面に着地し、河原の玉砂利にめり込ませる。そのまま顔といわず胴体といわず、幼馴染の友人を何度も何度も踏みつけ、滅茶苦茶に蹴りつけた。
それでも琴律は、手に握った抜き身の刀を使うことはなく、鞘も左手に携えたままであった。空子を完全に子供扱いし、無礼《なめ》きっている証左であった。
「ふん——こんなことをしていても、時間の無駄ですね。あなたの言う通りです」
防戦一方どころか、動くことも儘ならなくなった空子の態《ざま》を冷ややかな目で見下ろし、やがて琴律は打刀を高々と振り上げた。長身の琴律から延長して伸びたように、刀はまっすぐ天に向かって掲げられる。
「なんだとぉ……」
河原の石の上に仰向けに転がされた空子は、琴律を見上げて唇を噛む。
「私は私の大ちゃんを捜しに行かねばなりません。この河原にきっと居る筈ですから」
「ふざけたこというな……大ちゃんをコトちゃんの好きになんて、させないぞっ」
「大ちゃんよりも先に、あなたを斬るのは忍びないのですが……聞き分けがない以上、已むを得ませんね」
「聞き分けがないのは……どっちだよっ……」
荒い息の中から言い返すが、正直、琴律に対しやり返す手が無いのは決定的であった。指の一本さえも、動かすことが苦しかった。
大上段に刀を構えた琴律の目が、すっと細められる。
「……命乞いをしても良いんですよ」
「ねえコトちゃん。エトピリカが根の国で死んじゃったら、どうなるのかな」
「……前例のない事らしいですから、分かりません」
「行き場所が無くって、どこにもいなくなるのだけは、いやだなあ」
「……」
琴律はもう、何も言わなかった。
空子は目を閉じ、大地《おとうと》の顔を思い浮かべて、心の中で謝罪する。
(あの時も今も、助けてあげられなかったね。ダメなお姉ちゃんで、ごめんね)
空子の目から、涙が流れた。
不意に顔のすぐ横に、黒い打刀が落ちてきた。空子は驚き、思わず目を瞑る。
何事かと思い見上げると、琴律が顔を——両目を押さえて震えている。
「え……?」
顔を覆った手の間から、琴律らしからぬくぐもり声が漏れ聞こえた。
「ひ——ひぉあおおおおおあ」
両手の下、琴律の顔面に、流涕《りゅうてい》したかのような赤い筋が垂れ落ちる。
「血!?」
突然のことに、空子は目を疑う。
琴律が身体を屈し、どさりと河原に膝を突いた。
顔、首、肩、胸、腕、腹、脚、——全身に、どすどすどすどすどすどすどす——と連続で小さな孔《あな》が穿たれ、ひとつひとつからぶつりぶつりと血が噴き出してゆく。
見目麗しき美少女の全身に、血の花が咲いた。
これは、中津國に於いて打たれた、橋姫の咒詛《まじない》が届いたことによる釘痕《ちょうこん》であった。
「ううっぎあああああああああ」
聞いたこともない声を上げて、琴律がのたうち回る。
「何これ……ど、ど、どうしたのぉ」
「げげぇげげ、げああああああ、ああ、ああ、ああッ、やああああーッ」
空子はよろよろと身を起こすが、琴律をおろおろと見ることしかできない。
琴律の黒目はぐりんと上に剥き、口からは舌がでろんと突き出され、涎《よだれ》が血塗れの顎までずるんと汚ならしく垂れる。
「ひぃーッ! ひぃーッ!」
聞くに堪えぬ声と見るに堪えぬ顔で、琴律は転げ回った。血が滴り落ち、白い河原の石を赤く汚した。
その背の黒翼すらも、萎れたように広がりを失って、羽根が抜け落ちてゆく。
(——今だ!)
最後の力を振り絞って、空子は琴律に跳び付いた。
背に馬乗りになり、真っ黒な翼の片方を両腕で抱え込むと、肩胛骨から直に生えた根元に思い切り力をかける。
「コトちゃん、ごめんっ!」
皮を破り、肉を裂き、骨をへし折る。めきめきと音を立てて、空子は琴律の黒翼をもぎ取った。手応えから一瞬遅れて、血が噴き出す。
「うぎぃあああああああ」
痛みに痛みが重なり、琴律は白目を剥いて呻き声をあげる。
「こっちも!」
反対側の翼も同様にへし折り、力任せにもぎ捨てる。大量の黒い羽根が舞い、鮮血が散った。
「ど、どうだ……」
空子は転がるように琴律から離れ、琴律からもぎ取った翼を三途の川に投げ入れた。二枚一対の翼は三途の川を流れ、すぐに見えなくなった。
はあ、はあ、という荒い息を辺りに響かせ、二人のエトピリカはしばらく河原に横たわっていた。琴律も空子も、琴律の血液に塗《まみ》れていた。
さらさらと流れる川のせせらぎだけが、空子の耳に聴こえていた。
——やがて。先に起き上がったのは、なんと琴律であった。
琴律は、全身に孔《あな》が空き翼をもがれたことによる満身の傷を堪えて、よろよろと震えながら河原を這い、黒い打刀を拾い上げた。刀を杖にして立ち上がり、空子には目も呉れぬまま、川に沿って歩を進めようとする。
「だ、い、ちゃ」
琴律の口から洩れ出た名を聞き、なんという執念か——と空子はぞっとする。琴律を追おうと上半身を起こすが、痛みと疲れのせいで立ち上がることができない。
「コト——」
空子が口を開いて声を発した瞬間。琴律の黒い装束の股座《またぐら》から、びたびたびたっ——と大量の液体が滴った。まるで破水したかの如くに流れ出たそれは、赤茶色をした経血であった。
夥《おびただ》しい量の排血と同時に、打刀に宿っていた黒焔が消えてゆく。
「あ、あ……」
琴律の衣服からも黒味が消え失せ、元のエトピリカの装束に戻る。その背中に、大きな傷と、べっとりと濡れた血の跡が見てとれた。
魂が抜けたようにその場に片膝を突くが、己れの血に穢《よご》れた河原の地面に刀を刺して、琴律はなんとか身を支えた。全身——とりわけ背中、そして尻と腿が、大量の赤黒い血液に染まり、痛々しく見えた。
「コトちゃ——」
気力でなんとか立ち上がり、琴律に追い縋ろうと近づいた空子は、彼女の異常な為熟《しこな》しに気付く。
跪き、地面に突き立てた黒い刀の柄《つか》を握ったまま刃金《はのかね》に白い首筋を当てて、琴律は空子の顔を見上げた。
無言のまま琴律は目を閉じ、刃に沿って首を滑らせ——
「馬鹿あ!」
地を蹴って跳びかかり、空子は全身で琴律にぶつかった。そのまま二人して地面に倒れこむ。
荒い息を整う間も無く見れば、琴律は目を閉じてはいたが、鼻息が漏れていた。気を失っただけのようであった。首筋に刀疵《かたなきず》も見えなかった。間一髪で斬らせずに済んだようである。
さすがに出血が多量すぎた。常人であれば、とっくに死んでいる傷である。その所為で、エトピリカといえど意識を保つことができなかったのであろう。
なんとか琴律を死なせるのを避けられたことに安堵し、空子はほっと息を吐《つ》いた。
「自殺《ジサツ》は最悪だって、自分で言ってたくせに……本当に馬鹿だよ……」
空子は気絶した琴律の顔を見ながら、息も絶え絶えに呟いた。
今度こそ本当に、身体は動かなかった。
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