花魁鳥は夜に啼く

北大路美葉

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第十七話「六寸釘」

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 青い空の下《もと》、龍泉寺《りゅうせんじ》琴律《ことり》は打刀を振り下ろし、付着した血と脂《あぶら》とを払った。赤い血は黒い刀身から離れて白い石にかかり、静謐で厳粛だった河原を穢《けが》す。
 抜き身の刀身からは、墨のような焔《ほのお》が立ち昇っている。一時はただ黒い色をしているだけの刀であったが、ここへきて、揺らめく気焔が可視化されてきたように思えた。
 ふうと一息つきながら、琴律は顔にかかった黒髪を指で除《の》けると、持っていた刀を川の水に突っ込んだ。左手には刀の鞘と、斬り伏せた女から剥ぎ取った粗末な着物を持っている。
 水から抜いた刀を着物で拭うと、艶のないはずの刀身に鈍い輝きが宿ったかのように、琴律には見えた。
 琴律の背後に転がっているのは、幾十幾百もの女の亡骸《なきがら》。
 白く静かな河原には襤褸《ぼろ》を纏った女たちが居り、琴律は駆け抜けざまに、それらを皆《みな》斬ったのだ。問答無用の凶行であった。
 夢で見た通りに、すべての女に顔がなく、また白髪《はくはつ》であったため区別は難しかったが、中には老婆も混じっていたようであった。俗に奪衣婆《だつえば》と呼ばれる者であろうか。
 髪や乳房がめちゃくちゃに乱れ、——それどころか無惨にも頭やら腕やら脚やらを喪い、最前まで女だったものたちが倒れ伏し動かずにいる。ひとつとして、完全な人型を留めた骸《むくろ》は無い。
(……これを骸と呼ぶべきなのか)
 誰にともなく、琴律は胸中で問う。
 いずれ、生者ではあるまい。——ただ、動く者をひたすらに斬り倒しながら駆け抜けた己《おのれ》を思うと、格好だけは、通り魔的な大量殺人となんら変わりはないのだがな——と、琴律は自嘲した。
(否。迷っている暇はないのだ。それに)
 人を——人の姿をしたものを斬り殺すことは、思っていたよりなんともなかった・・・・・・・・
 ここまでやってしまったからには、もう後戻りなどできない。
 後戻りができないように、敢えて己の退路は絶った。躊躇《ためら》う権利すら、かなぐり捨てた。もう、進むだけなのだ。
 琴律は抜き身の刀を持ったまま肩に担ぎ、周囲を見渡した。辺りはあくまでも静かで、鳥の啼く声ひとつ聴こえない。ただ川のせせらぐ音と、やわらかな風の吹く音だけが耳に優しい。
 川に沿って、しばらく歩く。白く美しい河原には、死んだ児たちによって積み上げられたのであろう石塔がいくつも目についたが、肝心の小児《こども》らの姿はどこにもなかった。
 やっとのことで辿り着いた賽河原《さいのかわら》に、天美大地《あまみだいち》の姿が無い。
 もっと探せば見つかるのだろうか——或いは別の場所になら居るのだろうか?
(兎に角斬らねば。斬らねばならぬ——)
 琴律は再び走り出した。
 目的が何だったかも、半分忘れていた。
 ただ、手元の刀を振るいたい。己に敵対し仇なす者どもを斬り伏せたい。
 それが、今の琴律の慾望となってしまっていた。



 空子は息を切らして疲弊していた。
 エトピリカに変身すれば、体力も持久力も上がるものと、空子は思っていた。それは事実であったし、この非常時にこそ、その能力が有効なのは確かであろう。しかし、平時の何十倍もの距離を走りながら、知らぬ土地で人探しをするのは、思っているよりずっと骨が折れた。
「ああ、ちょっと、ああ、休みたい……」
 汗水漬《あせみづ》くで膝に手を突き、空子は音《ね》を上げる。
 いくら走っても、美しく白い河原が果てしなく続き、景色はまるで変わらない。琴律の姿どころか、河の水以外には動くものひとつ見当たらなかった。この景色が、空子の徒労感を何倍にも大きくしていた。
「お疲れではございましょうが空子様」
「一刻も早く琴律《ことり》様をお引止めいたしませんと」
「何をなさるか分かりません」
「あちらでは景《けい》様達もお待ちでございますし」
「橋姫《はしひめ》めを調伏することの難度も上がってしまうものかと」
「わ、分かってるよぉ……」
 阿吽は相変わらず、表情ひとつ変えることなく空子を追い立てる。
 ふわふわ浮いて楽《ラク》してるくせに、ひと事だと思って——と空子は、肚《はら》の中で毒づいた。
 顔中の汗を腕で拭うと、空子は再び身を起こす。
「……せめて、お水飲みたいよぉ」
 荒い息を無理やり整えながら、空子は三途《さんず》の川に歩み寄って、顔を突っ込もうとする。
「空子様」
「三途の水は阿密哩多《アムリタ》とは異なり飲用には適しておりませんゆえ」
 呆れ顔で阿吽が窘めたとき、空子はふと、澄んだ水の中に赤黒い汚れが混じっていることに気が付いた。
「あれっ……」
 続けて上流から流れてきたのは、穢《きたな》らしく破れた肌襦袢《はだじゅばん》、そして何やら——白い塊。
「なにこれ……あっちには、人がいるのかな」
 手を伸ばして、着物の切れ端らしきものを掴み、掬い上げる。
 襤褸裂《ぼろきれ》の中に包まっていた物を取り出してみた空子は、大声をあげてそれを放り出し、尻餅を搗いてしまった。
「なん、なん、なんでっ」
 空子が掴んだそれは、肘の先からすっぱりと斬り落とされた、人の腕であった。生っ白く不健康な色合いであったが、斬り口からは、水とともにまだ血が滴っている。
 身も起こせずにしばらく震えていた空子であったが、はっと息を呑んで立ち上がった。
「これって、まさかコトちゃんが——!」
 阿吽が飛来し、慌てた様子で空子に告げる。
「空子様」
「この上流にて」
「凶事が行われているようでございます」
「このように鋭利な刃物にて斬られた跡」
「琴律様の御乱心に因るものにまず間違いはないかと」
「うん……分かってる。考えたくないけど、きっとそうだよね」
 空子は、皺の寄った老婆らしき腕を襤褸に包みなおし、そっと川に浮かべて流した。
 手を合わせ、流れてゆく腕を拝む。
「知らない人。……友達が、ごめんなさい。代わりに、謝ります。こんなこと、あたしがやめさせて、もう、させませんっ。許してやってくださいっ」
 空子は河原の砂利石を蹴って駆け出した。川の方はもう見ないようにして、とにかく上流を目指す。この恐ろしい殺傷行為が琴律に因るものなら、何がなんでも食い止めて、連れて帰る。そう心に誓った。



 夏海景《なつみけい》は、濃い闇の中を走った。
 そう長い距離ではなかったが、暗くてろくに目が効かないことと、敵がどこに潜んでいるかが知れないことの所為で、疲労感は甚だしい。加えて、肉を食い千切られた腕の痛みが、景の息を荒げていた。
(畜生……見えん……。あのクソ女も、萵苣《ねいちゃん》も蕃茄《いもうと》も見えんぞ……)
 エトピリカに変身し身体能力を高めているとはいえ、痛いものは痛い。それは本人の意志でどうにかなるものではなかった。
 二の腕を押さえた掌の下では、熱い熱い血がどろどろと流れ出しているのが分かる。
 肉を削がれた痛みを堪えながらでは、このまま橋姫《はしひめ》に追いついたとしても、まともに調伏できるとは思えなかった。
 景の心の中を、恐怖が占め始めていた。
(やばい。あたし、もう……やばい)
「このぉ! ちーーずぅ!」
 不意に、少し離れた距離から、聞き覚えのある叫びが届いた。
(萵苣《れたす》かっ)
 萎み始めていた景の心が、一気に膨れ上がる。
「はん、ばーぐっ!」
 一際大きな掛け声とともに、辺りが明るく照らされた。キャンプファイアーの如く燃え上がる火。
 火の中に見えたのは、直立する全裸の女。その両足には黒いドレスの少女、肩には白いドレスの少女がしがみ付いていた。
「ねいちゃん! 蕃茄っ!」
 白い少女——萵苣《れたす》は炎を上げて燃える両腕で、相手の首を絞め上げている。
 黒い少女——蕃茄《とまと》は敵の動きを封じるべく、力尽くで足を抑え込んでいる。
「おい、大丈夫かよっ」
 景は腕の痛みを堪えつつ、三人に駆け寄ろうとする。が、それを見た裸の女——橋姫が、足元の蕃茄の頭を踏みつけ、続けて後ろ回し蹴りの要領で蹴り飛ばした。
「うわあ」
 蕃茄の身体をまともにぶつけられ、景はその場に倒れてしまう。
「あああ! 蕃茄! 夏海ちゃんっ!」
 女にしがみついたままで、萵苣が叫び声を上げる。
 燃える両腕で頸《くび》を締め上げる萵苣の裸絞《チョーク》すら、橋姫にとっては何の苛苦にもなっていなかったというのか。
「痛い」
 起き上がりながら、蕃茄が頭を下げる。
「ごめんなさい。夏海さん」
 黒いドレスが破れ、伽藍堂《がらんどう》の胴体から、両腕が失われているのが見て取れた。
「いや、お前こそ、それ——」
 景が慌てて蕃茄を搔《か》き抱《いだ》いたとき。
「……憂き世じゃ」
 橋姫が口を聞いた。
「何じゃこの木偶《でく》は——巫山戯《ふざけ》て居《お》るのか。妾を揶揄《からか》い遊んでおるのか。……無礼《なめ》られたものよな!」
 ぎりり——と目だけを動かし、景を睨《ね》め付ける。白目であるはずの部分が、曼珠沙華《しびとばな》のような赤色をしていた。
 獣じみていた先刻とは異なり、俄《にわか》に知能を授かったかのような口ぶりであった。エトピリカである景の肉を食ったことにより、変化が生じたのであろうか。
「手前《てめ》ェ……!」
 景は怒りやら恐怖やらが混じり合った低い震え声で、裸の鬼女——橋姫を威嚇する。
 対して橋姫の顔は、萵苣にしがみ付かれ、その腕から発された火に焼かれているにも拘らず、ぞっとするほどに無表情であった。一糸纏わぬ裸体を晒していながら猶《なお》、女らしさや艶やかさなどとは無縁の佇まいであった。
「此奴《こやつ》めらがエトピリカじゃなどと、妾を謀《たばか》ったな。汝《うぬ》ら小娘共の差金ではあるまい。……あの小役人めらが」
 橋姫は後ろに手を回し、萵苣のドレスを引っ掴んだ。
「わ!」
 慌てる萵苣を背中から引き剥がすと、ドレスごと荷物のように振り被り、アスファルトで舗装された駐車場の地面に、思い切り叩き付ける。
 白いドレスが引き裂かれ、四肢と頭とがちぐはぐに浮いた見えない裸・・・・・が露呈した。
「痛ったーっ!」
 萵苣は絶叫し、ぐったりと倒れ込んだ。
「萵苣《ねいちゃん》っ」
 景は絶望し、短く叫ぶ。
「ふん。此れでは、肉を食らえぬではないか。要らぬ手間を掛けさせおるわ」
 橋姫は破り獲った萵苣のドレスを片手に持ち、しばらくそれを眺めていた。やがて、それを両手で持って引き裂いたかと思うと、己の身体に巻き付けて白い裸身を隠した。それでも全身を覆うほどの布地は無く、白い二の腕やら形のよい蹴脛やらは夜の空気の中に曝け出されたままになった。
 死んだ女の纏う白いドレスは、遠目には死装束の如く幽《かす》かで、朧《おぼろ》であった。
 萵苣の火は橋姫の髪に燃え移り、しかし肉体を焼き尽くすことはできぬ様子で、めらめらと明るく燃え盛っている。
 橋姫の目が、ぎろりと景に向いた。
「妾が肉を食らえるのは、どうやら汝だけではないか。朋輩の小童《こわっぱ》と新造《しんぞ》は居らぬのか」
 燃える髪を揺らめかせて景に歩み寄りながら、橋姫が舌舐めずりをする。
「其の肉、妾が食《は》んでやろうよ、小娘。せめて、跡形も残さず——骨の髄までな!」
「こ、こ、こんな……」
 景は、もう敵《かな》わない——と感じた。これ以上ないほどに単純《シンプル》で原始的《プリミティヴ》な感情であった。歯の根が合わず、かちかちと鳴った。
 これまでも幾度となく危機はあったが、ここまで敵を恐ろしいと思ったのは初めてかもしれなかった。
 先刻肉を食い千切られた腕が、猶《なお》もずきずきと痛む。
 血液とともに、身体の熱が——生命《せいめい》が——流れ出してゆくような感覚。
 死が、状況と直結して、迫っている。
 これ以上、血を溢したくない。血と別れるのが、寂しい。
 血を——命を、喪いたくない。怖い。殺される。死ぬ。
(死ぬ? ここで、あたしが——)
 震えたままで動けない景の腕から、蕃茄が飛び出した。
「!」
 弾丸の如くまっすぐに橋姫に向かい、両腕を失った胴体で、思い切り体当たりを打《ぶ》ちかます。
「苦《く》ッ……」
 不意を喰らって仰反《のけぞ》る橋姫の顎下に蕃茄は更なる頭突きを叩き込み、流れるように膝蹴りで地面に押し倒す。脚と頭とを器用に絡め、蕃茄はその小柄な体躯で橋姫を押さえ込む態勢を取った。
 橋姫の髪を燃え上がらせ、周囲を明るく照らしていた萵苣の炎が、すっと小さくなった。
 闇が急激に増大する。空気の黒さが沈殿するかのように、重く圧《の》し掛かる。
「夏海《なつみ》さん。今」
「お、応《おう》っ」
 呆気に取られていた景は、我に返って立ち上がった。
 蕃茄の体躯はお世辞にも大柄とはいえないものであったが、跨られた橋姫は焦燥と苦悶の表情を浮かべている。
「此の……木偶《がらくた》奴《め》がァッ……!」
 下から蕃茄の頤《おとがい》に掌《てのひら》を突き当てるも、まるで石臼《いしうす》に乗られた猿《ましら》かのように、橋姫は少女ひとりを押し退けることができない。
 相手が動けないなら、なんとかなるかも知れない。勝てるかも知れない、生きて帰れるかも知れない——。
 景の中で、消えかかっていた勇気という名の灯火が、大きく燃え盛った。
 恐ろしい地獄の業火も、自分たちの勇気の炎で燃やし返してやれるのだ。
 腕の痛みを堪えながらも、景は二人に駆け寄る。
「オラぁくそ女《あま》! あたしが相手だ!」
 景は選手交代を促すように、蕃茄の肩に手を置いた。そのまま、憎き霊女の顔面に拳を叩きつける。
「痛みには慣れたよ。お陰様でなあ!」
 左ジャブ、左ジャブ、右ストレート。橋姫の顔面ど真ん中に、景の拳骨《げんこつ》が突き刺さる。
 小気味の良い手応えを得て、景の背筋《せすじ》にむずむずとした快感が奔った。続く渾身の右フック。
 通常の人間であれば頬骨が割れてしまうほどの衝撃を橋姫に喰らわせた景は、鼻息荒く啖呵を切る。
「さっきは、よくもやってくれやがったなァ! 今度はこっちの番だッ!」
 景は左手で橋姫の髪の毛を引っ掴むと、右の拳を固く握り、形の良い鼻柱を目掛けて思い切り突き込んだ。味方である蕃茄に肘が当たるのも構わず、四度、五度と続けて殴る。
 やがて橋姫の後頭部が地面のアスファルトにめり込み、放射状の罅《ひひ》が入り、砕けた破片が周囲に散らばり始めた。
「夏海さん。私に当たって痛いのだけれど」
 ぼそりと蕃茄が洩らした苦情も聞き入れず、景は口元に薄笑いすら浮かべながら、橋姫の顔を殴り続ける。
 蕃茄はのっそりと立ち上がり、橋姫の身体から離れると、何処へかと歩いて行く。が、景はそれには目も呉れない。
 舗装された地面が砕けるほどの衝撃を喰らいながらも橋姫の髪は千切れることなく、景の手に残り続ける。おかげで、景はいくらでも橋姫を殴り続けることができた。幾度となく振り上げられる拳には薄っすらと、どちらのものだか分からぬ血が付いていた。もはや、肉を食い千切られた腕の痛みも忘れてしまったかのようであった。
 殴打を受ける橋姫は、目を閉じることなく、じっと景の顔を見据えていた。景はそれを不気味に思うことすら忘れていた・・・・・
「……そろそろ、手がダリィわ」
 前髪を汗で額に貼り付かせ、さすがに息を荒げた景が、左手で橋姫を持ち上げたとき。頭上から、気配を感じた。
 目を向けて確認することもなく、景は橋姫の長い髪から手を離し、後ろへ飛び退く。
 次の瞬間、景の目の前に、黒いものが降ってきた。蕃茄《とまと》が橋姫の上に落下してきたのであった。
 景に持ち上げられ宙に浮いていた橋姫の身体を、蕃茄は空中で踏みつけ、全体重と落下スピードとを乗算《じょうざん》しつつ駐車場の地面に叩き付けて、轟音を響かせた。
 味方に声をかけるでもなく落下してきた蕃茄を、景は慌てて叱りとばす。
「お前、危ねーだろッ!」
「さっきの。お返し」
 例によって表情を変えず、けろりと言い返してみせる蕃茄の腕には、萵苣の頭部・・・・・が抱えられていた。
「あっ、萵苣《ねいちゃん》!? ——の、首——!?」
「びっくりしたあ! 蕃茄、いきなり抱えて跳ぶんだもん!」
「お、お前、大丈夫なのかよ」
「うん! 歩けなくなっちゃったけど、後で根之國で治してもらえるからね!」
「いや、そういうことじゃなくてな……」
 生首《なまくび》ひとつで喋ってみせる萵苣に、景は開いた口が塞がらない。いくら正体が造られた人形だからといって、只事では済まないのではないか。
「く、く、首だけになっちゃったんか……? しかも妹、腕がまた……」
「あのね! 私は、首だけじゃないよ!」
「姉さまの腕を。私が借りて。私に付けた」
「——ハアア!?」
「返す」
 蕃茄は徐ろに、姉の首を景に渡して寄越した。
「も、持ってろってか!?」
「そう。お願い」
「お願い!」
 姉妹揃った真っ直ぐな目に見詰められ、無言でおずおずと萵苣の頭部を受け取る。人の頭だけ・・・を抱えるなどという経験は初めてのことであり、景はどう扱ってよいものか迷ってしまう。
 姉の首を景に渡した蕃茄は、己《おの》が両腕を互いの手で掴み、肩口から引き抜くような仕草をする。
 すると二本の腕が、萵苣の生首の両側あたりに吸い寄せられ、本人の腕のようにぴたりと備わった。
「ありがと!」
「こちらこそ」
 事も無げにとんでもない真似をしてみせる姉妹に、景は頭がくらくらとした。不思議の域を越えて、もはや奇術めいてすらいる。
「何でもアリなんかよ、お前ら」
「——姉さま。見て」
 景が抱えた萵苣の首を自分の足元に向けて、蕃茄が促す。
 蕃茄の両足の下では、踏み付けられたままの橋姫が横たわり、景ら三人に向けて目を見開いていた。
 蓬莱《ほうらい》姉妹のおかげで頭がクールダウンしつつあった景は、文字通りに死んだその目を見て、氷の塊を呑み込んだような恐怖《ストレス》を覚える。
 まだ、終わったわけではないのだ——。
「くそっ」
 景は反射的に橋姫の首根っこに飛び付いた。力尽くで、めり込んだ地面から無理やり引き剥がすように起こす。
 蕃茄も橋姫の上から跳びのき、景を手伝う格好で、姉のドレスを纏った敵の身体を、器用にも高々と蹴り上げる。
 その拍子に萵苣が地面に落とされ、「きゃん!」と仔犬のような声を上げた。
「此の——弩畜生《どちくしょう》ら奴《め》がァァ!」
 橋姫が海鳴りの如き怒号を発して、景の腕を掴み返す。
 鮫の歯にも似た鋭い爪が喰い込み、猛烈な痛みが襲う。しかし景はそれに気付かないふり・・・・・・・をして叫ぶ。
「やれっ! 萵苣《ねいちゃん》!」
「姉さま。今度は遠慮しなくていいから」
 頭と腕だけの萵苣が、その両腕を大きく広げる。
「いくぞーっ!」
 両腕の間に、いつか見たような炎球を作り出し、
「とーん、ぽー、ろーっ!」
 思い切り勢いをつけて撃ち出した。
 巨大な火の塊が砲弾のごとく白い女体を噴き飛ばし、真っ直ぐに素っ飛んで消えた。
 闇の向こう、ショッピングセンターの建物のある方向で、強烈な光が弾け、爆音が響く。
 辺りは残光に照らされ、大火事も斯くやとばかりの真っ赤な景色が目に焼きつく。
 寸前で橋姫から手と足を離した二人は、少しの間だけ炎と橋姫が消えた方向に向いたまま、荒い息を整える。
 景がぼそりと、「こりゃあ、新聞沙汰だぜ」と呟いた。
 それには反応せず、蕃茄は炎を追いかけ、走り出す。
「夏海さん。姉さまを。お願い」
「しゃあ無ぇなっ」
 景は地面に落ちていた萵苣を拾い上げると、その後を追った。
「どうも! お手数《てかず》かけるね!」

 景らが駆け寄った先では、巨大な建物——ショッピングセンターの一階部分が崩れて、噴煙粉塵が朦々と立ち込めていた。あちこちに火が残り、ぶすぶすと燃え続けている。
 炎とともに橋姫が叩き付けられたのはこの場所に間違いない。となれば、この瓦礫の中に、まだ身体が残っているのであろうか。
 夜の田舎街といえど、既に幾らかの人影が駆け寄って、ざわざわと騒ぎ立てていた。
「やべっ」
 景は近くに立っていた蕃茄の首根っこを掴み、停めてあった自動車の陰に、姉妹とともに慌てて身を潜める。
「こんなに人が寄って来てたら、あたしら近付けんぞ」
「まだ警察は。来ていないみたい」
「橋姫はどうなったかな! やっつけちゃってたら良いんだけど!」
「いやあ……」
 あの・・橋姫が、あの程度でくたばるとは思えなかった。景は冷や汗を垂らしながら、車の陰から顔を出す。
「ま、さすがにこれだけ騒がしくなったら、橋姫《あいつ》も堂々と人を襲うわけにいかんだろうけどなァ」
 突然、ざわつきが悲鳴と怒号に変わった。甲高い女の叫びと、低くくぐもった男の呻き声。
「なんだッ!?」
 驚いて立ち上がった景は、急に飛んできた丸い物を反射的にキャッチする。
「何じゃこりゃ、びっくりした——」
 薄明かりに透かして見れば、見知らぬ中年男の——生首。
「ふ、うわああ!!」
 思わず放り出した首を、地面に置かれた萵苣が「わわ!」と受け止めた。
 先ほど抱えた萵苣のものとはまるで違う——と景は感じた。無理やり引きちぎったことが明らかな斬り口。そこからだらだらと滴《したた》る血液。乱された頭髪。血の流れ出る鼻。物言わぬ口と、何も見詰めていない目。
 死んだ者の目。命を半ばで絶たれた者の目。景はそれをつい(怖《こわ》い)と思ってしまう。
 両掌にべっとりと付いた、赤黒い血。誰とも知らぬ男の血。景はそれをつい(穢《きたな》い)と思ってしまう。
「あンの、クソがああ」
 その思いを認めるわけにはゆかず、景は誤魔化すように叫《おら》んで駆け出した。
 駐車場の地面に倒れ伏す、幾つもの人だったもの・・・・・・。それらを脇目に駆け抜ければ、先にいるのは、人の形をした、鬼。
 食人鬼——橋姫は、地面に膝を突き、倒れた女の胴体を両手で押さえ込み、その胸部に顔を突っ込んでいた。まだ若く見える女は、服《シャツ》も下着《ブラ》もずたずたに割かれ、露《あら》わにされた乳房を橋姫に齧《かぶ》り付かれて、死んでいる。その傍らには、女に手を繋がれた幼児《おさなご》が、首を喪って倒れている——。
「うう——うおああああ」
 景はその酷たらしさに耐えかね、振り払うように声をあげ、橋姫に向かって思い切り拳を振るった。
 橋姫は顔を上げることなく、景のその腕を引っ掴む。
「うぉっ」
 走る勢いを利用されて地面に引き倒された景は、橋姫に腕を捻り上げられ、悲鳴をあげる。
「いっ痛っ——えっ!? ああああああ」
 なんの迷いも躊躇いもなしに、橋姫は景の腕の骨を折り、肩から外した。
 もはや声をあげることすらできず、景は白目を剥いてひくひくと痙攣する。意識を失ってしまった方が増《まし》だとすら思えた。
 旨そうに咀嚼していた人肉を嚥下し、橋姫が立ち上がった。にいっ・・・と歪んだ口からは牙の如き歯が覗き、その周りが血と組織液とで赤く汚れている。
「莫迦《ばか》共が、寄って来おって」
 両手に抱えた人肉——女の胴体を、倒れてもがく景の上に掲げ、力任せに真っ二つに引き裂いて、ショートヘアの頭の上から血を浴びせかけた。
「……ふん。不味い肉とて、食わぬより増《まし》じゃわ。御蔭で妾も、黄泉《よみ》返《がえ》れよう」
 繊維の向きに逆らって裂かれた人体から、細かく崩れた肉がぼとぼとと落ち、景の全身を汚す。
「汝《うぬ》の様に何も知らぬ、何も出来ぬ小娘ごときが、焉《いずく》んぞ死生《ししょう》を往来《ゆきき》するエトピリカか。傍《かたはら》痛いわ」
 橋姫は両手の死骸を、俯《うつぶ》せに倒れた景の頭に叩き付けた。ただの肉塊と化した女は、物言わず景の上でその形《なり》を失う。
「ぐ……ゥ……!」
「死人《しびと》の——黄泉《よみ》の穢《けが》れをその身に浴びよ。蹲《つくば》え。泣き叫《わめ》け。堕ちよ。腐れ。然《さ》すれば、妾が食らうてやろう。せめてもの情けじゃ。ほほほほほほほほほほほほほほほほほ」
 景に覆い被さるのは、熱。臭気。痛苦。そして慄怖。
 橋姫の高笑いが、景にはどこか遠くから聞こえるような気がした。
 すぐ後ろに倒れている警備員らしき制服の男を掴み上げ、両手で卵の如く易々と頭を割って、橋姫はその脳漿髄液を啜り始める。
「夏海《なつみ》ちゃーん!」
 橋姫は振り返り、巻き付けた白いドレスを翻すと、駆け寄ってくる姉妹に躍り掛かった。
 先ず手にしていた男の遺骸を投げつけると、怯んだ蕃茄の顔面を鷲掴み、引き摺り倒し、停めてあった自動車のフロントガラスに力任せに叩き付ける。割れたガラスが蕃茄の顔やら腕やらに突き刺さり、真っ黒な髪を痛々しげに乱す。
「肉すら持たぬ木偶《がらくた》風情が——」
 続いて、地面に落とされてひっくり返った萵苣に摑みかかる。
「このぉ!」
 萵苣は両腕から発生させた炎球を射出するが、橋姫は僅かな動作でそれを躱す。飛び出した炎は自動車にぶち当たり、蕃茄の黒いドレスを焦がした。
「身の程を知れぃ!」
 橋姫は長い髪を振り乱して、萵苣の腕をもぎ取ろうとした。そこへ立ちはだかる景。
「身の程を知るのは手前《てめ》ェだ、死に損ないが!」
 残った気力を振り絞り、橋姫の横っ面をぶん殴る。
「死人《しにん》の分際で、人様《ひとさま》の肉なんぞ食ってんじゃねえよッ!」
 倒れた橋姫に馬乗りになり、折られていない右の拳を振り上げる——が、それ以上動くことができない。電池の切れた玩具のように、景はふらりと頽《くずお》れた。
 抱きつくようにして気を失った景の頸に片手を掛けて、橋姫は無言でその胴体を退かす。
 大口を開き、景の喉笛に食らい付こうとした瞬間。横から飛んできた炎を喰らい、橋姫は翻筋斗《もんどり》打ってぶっ飛ばされる。
「だだだだだだだだだ!」
 萵苣が両掌から拳大の炎球を連射し、転げた橋姫に追撃をかける。明るい爆炎が橋姫の全身を包んだ。
 意識を失って倒れる景のもとに蕃茄が駆け寄り、頬を寄せた。
「夏海さん。目を醒《さま》して」
 両腕の無い蕃茄が覆い被さって体温を分け与えることで、景は薄っすらと目を開くことができた。
「おお……妹ちゃんか。……久しぶりだな」
「良かった。まだ生きていた」
「へっ……生きてるわい。うちの女《じょ》バスは練習キッツイからな。これしきで、くたばるあたしじゃ、ねえよ……!」
 よろよろとしながら、景は身を起こす。
「姉さまが。闘っている。夏海さん。私に。捕まって」
 蕃茄《いもうと》が、萵苣《あね》が炎を射出し続けている方へ目を遣る。それを追うように景も目を向けると、次々と繰り出される炎撃によって無人の駐車場が眩しいほどに照らされ、いくつもの犠牲者《しかばね》の影が浮かび上がっていた。
「あそこへ行って。橋姫に。とどめを刺す」
「よっしゃ、分かった。連れてけ」
 黒いドレスの上から無いはずの・・・・・胴に手を回してしがみ付くと、蕃茄は景をぶら下げて、思い切り跳躍した。
「姉さま。撃つのをやめて」
「はーいよっ!」
 はきはきとしているがどこか緊張感に欠ける返事をして、萵苣が炎を鎮めた。
 親友の弟の仇である憎き橋姫をぶん殴り、二度と復活できぬよう、その紛《まが》い物の肉体を破壊し尽くしてやろう。それがエトピリカとなった自分にできる、死者送り——イオマンテ。数百年前に自ら生命を絶った悲しき遊女・橋姫への、謂わば供養《とむらい》なのだ。
 そう心に決め、景は燃え盛る炎の中へ、蕃茄とともに飛び込む。
 辺りを揺るがす音とともに、二人は地面を踏みしめた・・・・・・・・
 なんの手応えもない。ただ砕けたアスファルトの破片が飛び散るばかりである。
「いない」
 蕃茄が呟くよりも早く、景は炎の中から駆け出す。
「どこだオラァッ! 逃げやがって! くそ女《あま》がアッ」
 牙を剝きだすように吼《ほ》え、怒りをぶつけるように周囲を威嚇する景。
「あっ! あそこ!」
 萵苣の指差す方を見上げると、崩れた建物の二階部分に、人影がある。
 炎が照らし出すそこには、死装束のごとく真っ白な布を纏った女が、黒髪を揺らめかせて立っていた。
「小娘。汝《うぬ》には一つ、礼を言っておかねばならぬな」
「ああ? 何をふざけた事を——」
 怒りに任せて駆け寄ろうとした景は、敵の様子を見て立ち竦む。
 橋姫の顔、左半分が茫《ぼう》と鈍く光っている。
「あれは……」
 見覚えのある輝き。あれは先刻、己が変身したときに、苦し紛れに霊珠《れいじゅ》を叩きつけた部分ではないか——と景は思い出す。冷汗が背中を垂れた。
 橋姫は顔の光る部分に手を当てると、ずるりと引き剥がした。
 光の剥がれた部分には、大きな火傷の痕が見て取れた。
 光は球体となり、橋姫の掌《たなごころ》の中でその光をより強くする。その光を二つに割ると、橋姫は霊珠を両手に分けて持った。
 右手の珠《たま》がすっと長く伸び、細く長い煙管に姿を変える。
「おお——此れじゃ。妾の長羅宇《きせる》じゃ」
 真っ黒な羅宇《らお》部分に頬擦りをして、橋姫は歓喜の声を上げた。
「汝の御蔭で、妾の煙管《きせる》が戻ってきたぞ。ほほほほ」
「畜生ッ……!」
 景はその様を見て悔やむ。自分が霊珠をぶつけたせいで、橋姫が笑っている。
 いま闘っている相手が尸澱《シオル》と呼ばれる死者であり、エトピリカに変身するための霊珠とは死者の念を抽出したものである——則ち、霊珠は尸澱にも使われてしまう、傷すら治してしまう——ということを失念していた。
 完全に、自分のミスだ……と景は自戒し、唇を噛む。
 橋姫は背後に燃える火の中に煙管の雁首を突っ込むと、悠長な所作で息を吸い込み、火を着けた。真っ赤な唇から、紫煙《けむり》が吐き出される。痛々しげな熱傷が火に照らし出された。
「どうしたの、夏海ちゃん!」
 萵苣が叫ぶ。同時に蕃茄が走り寄り、景を促すように声をかける。
「夏海さん。彼女は何か取り出した。とどめを刺さないと。また」
「おい、萵苣《ねいちゃん》を連れて逃げろ! 後はあたしがやる!」
 景は蕃茄をどん・・と突いて、橋姫へ向かい駆け出した。
「何を言っているの。夏海さん」
 蕃茄は驚いて、しかしなんとか姉を連れようとする。
 橋姫の左手にあった霊珠が、一気に長いものへ形を変えた。先刻の煙管などとは較べ物にならないほどの長さのそれは、橋姫の身長すら越えた、木の板へと変容する。
「其の上……ほほほ。根之國《あちら》で、案内《あない》役の小娘めが、面白き術《わざ》を使うておったわ。死人《しびと》どもも、朝露の魑魅《すだま》を鬼面などに変えられるよりも余程、斃仆《くたばり》甲斐《がい》の在ろうというものじゃ。ほほほほ……面白し面白し」
 建物の外壁を二階へ駆け上がろうとした景は、橋姫の手の物を見て、脳裏に厭なイメージをちらつかせた。景はそれを、墓場で見たことがあった。板の卒塔婆《そとば》であった。
「クソったれ……手前ェは、あたしが責任持ってぶっ潰さなきゃならんみたいだ!」
「然《そ》うはゆかぬな」
 燃える火を背に、橋姫は左手に持った卒塔婆を掲げた。板塔婆の平たい面に、なにやら梵字《ぼんじ》と、何者《だれ》かの戒名《かいみょう》が筆でいくつか書かれているのが目に入る。『南無妙法蓮華経 為 令明院殿照夏景捷童女』——。
 景の全身が硬直し、動きが固まる。
「——なんだァ!?」
「夏海さん。私。動けない」
「夏海ちゃん! 蕃茄! どうしたのっ! これ何っ!」
 三人の少女が、一斉に異変を唱える。
 何処《いずこ》より取り出《いだ》したものか、橋姫は六寸の金釘《かなくぎ》を口に咥えている。
「汝等《うぬら》には気の毒だが……此れより、人も厭《きら》いし傷痍《きず》を授くる!」
 釘を板塔婆に添えると、黒檀の煙管を右手に持ち直し、釘の頭に宛てがった。
「一本!」
 振り上げた煙管を金槌に見立て、ぱん、と打ち込む。
「——!?」
 ぶつっ——と音がして、景の右目から血が噴き出した。
「ぐわああッ」
 景はその場に倒れ、目を押さえて転げ回る。
「続けて二本!」
 橋姫が立て続けに釘を打ち込むと、萵苣と蕃茄も、景と同様に悲鳴をあげてのたうち回った。
 燃える炎を背負い、黒髪と白装束の橋姫は、萵苣のドレスから転《まろ》び出た乳房を振り乱して、卒塔婆に六寸釘を打ちまくる。
「死なせはせぬ! だが! 汝等《うぬら》には、絶息を上回る痛みと辱《はずかし》めとを味わわせて呉《く》れよう! ほほほほほほほ」
 それはまさに丑《うし》の刻《こく》参りと見紛うばかりの、鬼気迫る咒詛《まじない》の儀式であった。
「ほほほほ。根之國にも黄泉國にも逝《ゆ》けず、射干玉《ぬばたま》の闇を永劫《とこしえ》に迷いさらばうが好いわ! ほほほほほほほほほ」
 何本も何本も、口に噛んだ太釘を抜き、板塔婆に刺し、力を込めてめちゃくちゃに打ち込む。
 その度に、景ら三人のエトピリカは、その身に太く長い釘を打ち込まれる痛みを味わう。
 咥えていた釘が無くなると、自らの黒髪を抜いて卒塔婆に当てがう。髪の毛は釘に変わり、橋姫はそれに煙管の雁首《がんくび》を叩きつけるようにして打ち込んだ。
 時々、勢いが余り自分の手指にも槌——煙管を打ち込むが、橋姫は全く意にも介さない。
 少女らの全身を、六寸の大釘を打ち込まれた傷と痛みとが襲う。自らの血に塗《まみ》れ、夜のアスファルトの上を、三人の女子中学生が転がる。
「ぐおおあああああああがあああッ」
 喉からも血が出そうなほど、景は断末魔の叫びをあげて藻搔いた。
 仮にエトピリカになっていない素の自分であるとき、実際に太い釘など打たれれば、肉の裂けるショックと出血ですぐに気を失い、死んでしまうのだろう。
 意識を失ってしまえば、或いは死んでしまえば、まだ楽なのかもしれなかった。が、釘を穿たれる痛みはそれをすら赦してはくれない。エトピリカに変身したために肉体強化されている自身を、景は呪った。
 ——橋姫の右手首から先がぼきりと折れた。あまりに力を込めて打つためか、それとも、もともとが仮初《かりそめ》の肉体であるためであろうか——もどかしく思ったものか、橋姫は取り落とした煙管を左手で拾い上げ、卒塔婆を口に咥え直して、しつこく釘を打った。
 何十本——何百本が打たれたのであろうか。やがて蝟《はりねずみ》のごとく釘まみれになった卒塔婆が口から落ち、血塗れの左手から煙管が落ちた。
「はは。ははは」
 釘を打ち尽くした橋姫が、両膝を地に突き、力無く笑った。
 地に転がった卒塔婆には、もはや僅かな隙間すら残されてはいなかったが、釘の打処《うちど》さえあれば、橋姫はまだ打ったのであろう。
 手が失《な》くなったれば足、然《さ》もなくば口——。槌を持てる限り、橋姫は釘を打ったはずであった。
 炎の色に照らされた闇の中で、三人の少女が蛆虫のようにひくつきながら転がっている。
 未だめらめらと燃える炎を背に、全身に怨みを孕んだ霊女がざらざらとした息を吐きながら佇んでいた。
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