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第十五話「山椒魚」
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月輪《がちりん》の下、駅前通りに巨大な墓石のごとき影を落として、ショッピングセンターがそびえ立っている。
地方都市の大型モールは当《まさ》に“摩訶《ばか》でかい”と称すべき規模の商業施設で、もしも子供や年寄り一人で迷ってしまうと、二度と出て来られないのではないか——という杞憂さえ起こさせた。
これが町にできるというとき、既存の小売店が挙《こぞ》って猛反対した理由も、今なら景《けい》にもよく分かる。
「——土地、余ってンだなあ」
少し前の方所を歩く姉妹に聞こえぬ程度の声で、独り言を呟く。
一年前までの夏海景《なつみけい》にとって、その中に居を構えるゲームコーナーが放課後の溜まり場のひとつであった。『超法戦騎《ちょうほうせんき》レッドガル』のゲームで、空子、琴律らとモニター越しに共闘した時間は、何にも代え難い楽しい思い出——となるはずである。
そう考えた景は、ふん、と鼻を鳴らした。
(あー、何が思い出だよ。婆臭《ばばくせ》え)
深いブルーのTシャツに、以前蓬莱萵苣に貸し与えたこともあるショートパンツを合わせて身につけた景は、人通りの無い駅前通りを歩むスピードを上げた。
著しく利用者の少ない駅は閑散としており、それを挟む道路も時たま車が通過する程度で、とても県庁所在地の主要駅とは思えない。
「おい。こんなとこうろうろしてて、本当にあの幽霊女が出てくンのかよ。やっぱ、あの寺で待ち伏せしてた方が良かったんじゃね?」
一時間ほど前、景と蓬莱姉妹は待ち合わせて合流し、予《あらかじ》め醜女《シコメ》が出そうだと当たりをつけておいた場所へ、警邏に出ていた。姉妹の経験則から予測されたという駅前通りは、本通りから一本逸れただけで廃墟と見紛う暗さと、車のライトに時折照らされ浮かび上がる人の影とによって、なるほどお化けでも出そうな雰囲気である。
「今の橋姫《はしひめ》は。女子中学生の姿だから。全くひと気の無い所には行かないはず。もしも誰かに見られたときに。面倒なことになるから。逆に。人がたくさんいる所は明るすぎるから。出て来られない」
蓬莱蕃茄《ほうらいとまと》が景の方を振り向き、ぽつぽつと説明する。
「そっか、幽霊ってのは、あんまり明るいと出られんのか。こういう店とか駅とかで、人を襲って食えばいいのに——とか思ってたよ。彼奴《あいつ》らもあれでなかなか難儀なんだなア」
「夏海ちゃん! 同情は禁物だよ! 尸澱《シオル》は自分勝手で人を食べるんだからね!」
腰に手を当てて、萵苣がぷんすかと叱ってみせた。
「別に、同情なんてしてねえよ。皮肉ってんのが分からんのか、お前」
「えっ!」
「姉さま。警戒を怠らないで」
蕃茄が姉の胸のふくらみを指でつん、と突つく。
「ひょわ!」
今夜も相変わらず白いロリイタ服姿の萵苣は、飛び上がらんばかりに反応した。真っ赤に染まっているはずの顔は、暗闇で見えない。
「何すんの蕃茄! どこ触ってんの!」
「別に」
こちらも代わり映えのないゴシックロリイタで身を包んだ蕃茄は、眠たげな目で前を向いて、すたすたと歩き出す。
「もー! 蕃茄はやらしい子だよ!」
ぷりぷりと怒る萵苣の横に並び、景はその豪奢なドレスを下から盛り上げるふくらみに目を遣った。
突《つつ》かれた処には、“何も無い”はずである。
これが、造り物の人形だというのか。生前と変わらぬ姿に造られたとはいえ、説明されなければとても信じ難いほどに人間らしいと、景は感心していた。
性格や仕草なども、生きていた頃と変わらないのだろうな——と思った景は、敢えて軽口を叩いてみる。
「でか乳はコトで見慣れてたけどよ。ねいちゃんの方、わりと良い感じにあるんだなあ。十代らしく健康的なサイズで、大変よいぞ」
「ええええ! 夏海ちゃんまで何言ってるの! おじさんの言うことだよそれ!」
「おじさんにもちょっと触らせろや」
「こらー! 真面目にやってよー! 橋姫《はしひめ》来ちゃうよ!」
雲が、すうっ——と月を隠した。
喧《かまびす》しくじゃれ会う年上二人を尻目に、蕃茄がショッピングモールの駐車場に踏み込んだ。車を止めるバーも監視カメラも御構い無しに、無人の駐車場を歩いてゆく。
「あれっ! ちょっと蕃茄! なに勝手に入ってんの! 警備の人に怒られるよ!」
「匂う」
「えっ!」
蕃茄が立ち止まった。
月光が隠されたとはいえ、建物を取り囲んでだだっ広く広がる駐車場は、やけに暗い。
黒いドレスを着た蕃茄のショートヘアをぬるい夏の夜風が揺らしている。モノクロームの光景が、景からは薄ぼんやりとして、古い映画のワンシーンのようにも見えた。
「なんだ。何の匂いがするって?」
「あの子」
「なに?」
それっきり蕃茄は答えず、再び建物の方へと歩き始める。
「蕃茄! あの子ってもしかして!」
萵苣が慌てて後を追った。
景は薫々《くんくん》と風を嗅いでみたが、生ぬるい温度と近くを流れる川の匂いが僅かに流れて来るばかりで、誰かの匂いと思えるものは感じられなかった。
「よりによって、店の中にいるとか言わねえだろうな……」
頭を掻きながら、景は二人の背中を追うように歩き出す。
だんだん目が慣れて来たとはいえ辺りはあまりに暗く、どこに何が出ようと、それを捉えることは難しいだろうな、と景は思った。
今のうちに変身しておこうか——とも考えたが、空子と琴律がいないと、揃いの和装束にはなれないらしい。ボディペイントと見紛うほどに体に貼り付くボディスーツは、自分のイメージが形になったものと言われても、それこそ誰が見ているかも分からない場所で“着ておく”には向いていないと思えた。
現代日本にはどうにも場違いなロリイタ服をいつでも着込んでいる蓬莱姉妹を思い、景は深く息を吐《つ》く。
ふと顔を上げると、姉妹の姿を見失っていた。
「あ……やべっ」
黒髪に黒ドレスの蕃茄は闇夜の烏《からす》であるが、萵苣の白ドレスは夜目にもはっきりと目立つ。そこまで離れて歩いていたわけでもない。こんな短時間のうちに見えなくなるものであろうか——と景は焦った。
突然。
「出た。姉さまっ」
離れたところから、悲鳴めいた蕃茄の声が聴こえたかと思うと、ガラスの割れる音が続いた。
「!」
景は咄嗟に身構える。蕃茄のあんな逼迫した声音《こわね》は聞いたことがなかった。
「蕃茄《とまと》ー! 蕃茄ー! ……夏海《なつみ》ちゃーんっ!」
これも遠くから聴こえた萵苣の叫びを最後に、辺りは再びしんと静まった。
「おいッ。どうした、おぉいッ」
景は慌てて闇雲に走りだし、声を荒げて姉妹の名を呼んだ。
「お前ら返事しろ! 何があった!? おーいッ」
ショッピングセンターの建物の方から、再びガラスの割れる音が聞こえ、続いてぱっぱっと、燃え上がる火の光が見えた。萵苣の声らしき怒号も耳に届いた。
暗闇の中で、姉妹が闘っているらしい。そう思った景は、すわ変身すべきかと考えながら身構える。
「ふぉおおわぐらあああ!」
今度ははっきりと、萵苣の発する奇声が聞こえた。
建物の下から、高い壁に向かって火球を連射しているらしい。着弾する度に火が燃え上がって、壁面を駆け上がる影を映し出した。
セーラー服姿の少女が、地球の引力を否定するかのように、ショッピングセンターの壁に垂直に立って、走り回っている。雨霰《あめあられ》と撃ち出される火球をひょいひょいと躱す姿は、見間違いようもない、河津聖亞《かわつせいあ》の姿であった。
やがて痺れを切らしたと見え、萵苣は大きく跳び上がり、聖亞と同じように壁面に立つと、そのまま駆け上がる。
「ぱーん、けぇえ、きいい!」
勢いをつけて聖亞の首根っこに跳びついた萵苣は、ショッピングセンターの窓ガラスに相手の身体を押し付けた。
壁面のガラスに着地した聖亞は、両足でガラスを踏み割って留まり、身を翻して萵苣を壁面に叩きつける。
互いに組み合った二人はそのまま、窓ガラスを割りながら、壁を走り回って暴れた。ときおり萵苣の発射する炎が、物理法則を無視して繰り広げられる激闘を、巨大な建物の壁面に浮かび上がらせる。
「おいおいおい。あんなの無茶苦茶だろ!? あたし、あんなことできんぜ……」
景はあきれながら、萵苣に加勢しようと立ち上がったが、不意に、何の音も光もしなくなった。
「……お、終わったんか?」
あまりにも突然訪れた静寂に、景は不安を抱く。
「おおいっ萵苣《れたす》よーい! ねいちゃーんっ」
呼びかけるが、返事はない。
視界の左端、濃い闇の中に、ちらりと白い手が見え——次の瞬間、その手は景の首に絡みつき、気色の悪い冷たさで締め上げて来た。
「うぉぐ……」
伸びてきた腕が、四十五キログラムの人体を軽々と吊るし上げた。
月を覆っていた雲が退き、暗かった駐車場にも光が差す。
案の定、半袖のセーラー服から伸びた白い腕は、河津聖亞のものであった。
(出やがった!)
最前まで、離れたビルの壁面に立っていたはずの敵が、いきなり自分の首を絞めている。どういう理屈なのか、考える暇も無かった。
河津聖亞《かわつせいあ》——の身体を乗っ取り勝手に使っている橋姫《はしひめ》は、前回遭遇した際と同じく、聖亞の桜桃色の髪を結わえることなしに、へらへらと笑っている。
喉を締め上げられる苦しさの中で、景の目には、聖亞の顔の左半分が焼け焦げているように見えた。
(なんだありゃ……蓬莱のねいちゃんが火傷《やけど》させたんか?)
「汝《うぬ》ら、何処《いずこ》へ逃げ果《おお》せたかと思えば……のこのこと斯様な処へまで出張《でば》って来たかや。余程、この娘に未練があるものと見える。憂《う》き世《よ》じゃ——憂《う》き世《よ》じゃ」
少女の鈴音のような声に、地獄の色を含ませて、女が呻いた。
いくら仲の良くない先輩であろうとも、聖亞の可愛らしい顔と声が、昔死んだはずの霊女に操られているのを見るのは、忍びなかった。
「へっ、笑わすな。……そんなんじゃねえよ、糞っ垂れ……ただ手前《てめ》ェを……ぶん殴って、そのふざけた身体から引き摺り出して……やりたい、だけだ。この……死に損ないの、ど腐《ぐさ》れ淫売屋がよ……」
橋姫は顔から笑いを消し、聖亞の細腕で、喉をつかんだままの景の身体を、駐車場のアスファルトへ叩きつけた。
「この……痛ってえなあッ……」
聖亞の身体が景に馬乗りになる。やはり、聖亞の顔の左側、目の周りから耳にかけて、大きく焼けた痕《あと》があった。
喉に食い込んでいた指が上に滑り、景の顎と頬とを掴む。
「おっ、ごぉ」
無理矢理抉じ開《あ》けられた口の中に、指が捻じ込まれた。聖亞の白魚《しらうお》のような人差し指と中指とが、景の喉奥——舌の付け根を侵《おか》す。喉頭から気管へと続く道を直接塞がれ、息が詰まる。鼻も口も機能せず、目から涙だけが流れた。
「ンぐゥ……」
自分よりも小柄な女が胸に乗っているだけだというのに、その体を跳ね除けるどころか、口に突っ込まれる指に歯で噛みつくことすら、景にはできない。
「ほほほほ。苦しんで死ねい」
文字通り息の根を止めようという確固たる悪意が、景の喉から流れ込む。
「汝《うぬ》を殺したら、其《そ》の肉は喰らうてやろう。妾の肉体《しし》と成るが好いぞ。次は彼《あ》の新造《しんぞ》と童女《わらわめ》の番じゃわ。ほほほほ」
(ふざけやがって! ……食われてたまるか!)
景は聖亞の手首から片手を離した。更に深く喰い込む指先。いよいよ息も詰まろうかという瞬間、景は力の入らぬ指で、ショートパンツのポケットを探り、鈍く光るものを取り出した。
ポケットの外へ出た瞬間、小さな光は掌サイズの霊珠へと姿を変える。
「——其れは」
橋姫が息を呑むのが分かった。喉に這入《はい》り込んだ指が、僅かに緩んだ。
景は気力を振り絞り、片手で聖亞の腕を口から追い出した。夜の空気を肺いっぱいに吸い込む。
仕返しとばかりに、思い切り唾を吐き出す。
唾は聖亞の顔の焼け爛れた部分に引っかかる。景の首から、白い手が離れる。
「おぉらあ!」
景は手に握った霊珠を、聖亞の側頭部へ叩きつけた。
珠が割れ砕ける手応えとともに、光が猛烈な勢いで噴き出す。
「ぐぁおおおおおお」
橋姫はうめき、聖亞の顔面及び耳の周辺から無数の光の粒を撒き散らしながら、ばったりと倒れ伏した。
その光の粒は、霊珠から溢れ出る光と合流し、一瞬で景の全身をコーティングしてゆく。
——命を、もう一度。
景の耳元に、囁くような声が届く。
景の身体から剥がれた光は爆風の如き勢いで周囲に広がり、やがて消え失せた。
「ふんっ」
エトピリカの装束を身体にぴったりと貼り付け、鼻息荒く立ち上がった景は、足元に聖亞が俯《うつぶ》せになっているのを一瞥する。
足の爪先で聖亞の頭を軽く小突くが、聖亞はぴくりとも動かない。
「……手前《てめ》ェは、死んだふりがお上手だからなア」
少女趣味のピンク色に染められた髪の毛を鷲掴みにして持ち上げ、アスファルトの地面へ顔面を叩きつける。
鼻の骨の折れた音と手応えを感じ、景は首元をくすぐられるような快感を得ている。
髪を掴んだまま仰向けに起こす。童顔ながらも端正な顔貌をした河津聖亞は、鼻腔から血を流し、額に擦り傷を作り、ぐったりと目を閉じていた。顔の左半分、ちょうど景が霊珠を叩きつけた箇所には大きな火傷の痕があったはずだが、きれいさっぱり消えてしまっていた。
「……」
無言で突き放すように聖亞を投げ出すと、景は素早く周りの闇に目を走らせる。
今しがたの光の奔流のせいで、辺りに闇が濃く圧《の》し掛かっていた。月光も再び雲に遮られている。
景は萵苣らが闘っていたはずの建物の方向すら完全に見失っていた。
「おーい、どこにいる?」
闇に向かって呼びかけてみたが、姉妹の返事はなかった。
(あたし達を殺して食うだと? くそ女《あま》、相変わらずふざけたことを言いやがる……)
蕃茄に至っては最前から姿が見えないが、どうなったのだろうか。縦《よ》しんばやられてしまったとしても、あの短時間に、人《ひと》二人分の肉を食うことなどできないはずだ。それなら最悪の事態からは免れるだろう——もちろん根拠などないが、そう考えるしかない。
再び聖亞に目を向けるが、動く様子はない。
矢庭《やにわ》に、寂しさが迫ってきた。
田舎の夜の駐車場に、自分独りでいる。
連れ立ってやって来た者たちとは、逸《はぐ》れてしまった。
足元に転がった少女は、生きているのか死んでいるのか。死んでいるなら、自分が殺してしまったのか。——否、死ぬほどの暴力を振るった訳ではないから、もし死んでしまったのなら、それは死人《しびと》に取り憑かれた所為《せい》だ——。
粗雑で厭な考えが頭の中を巡る。
早く姉妹を捜して、連れて逃げよう、と景は思い直した。闇の中でさらに黒々とそびえ立つショッピングセンターの建物に向かって立ち上がる。
「うっ、ぶほっ」
背後で、咳の声がした。
振り向いた景の目に、身を起こし激しく咳き込む聖亞の姿が飛び込んだ。
「あっ、おい!」
此奴《こいつ》は、既に橋姫ではない。——そう直感した景は慌てて小柄な先輩に駆け寄り、肩を掴んだ。
「おいッ、あんた——河津さん! 大丈夫か? 苦しいんか?」
ひいっ——と息を吸い込んで一瞬仰け反ると、聖亞は腹を押さえ、景の腕の中で芋虫のように身を捩《よじ》り始めた。学校指定のローファーの靴が片方、すぽんと脱げた。
「気持ち悪いのか! 救急車呼ぶか!?」
見れば、聖亞の下腹部が、大きく膨れていた。
「……なんだ……?」
景の背を、冷や汗が流れる。
聖亞は呻き悶えながら、埃で汚れた制服のプリーツスカートを自ら捲り上げ、赤い下着に手をかけて下ろそうとしている。
「何をやってんだよ、おいこらッ」
刀を産み落としたときの琴律を連想し、景はつい、その手を掴んで止めようとする。
「うおおおああ」
目を剥き、口からは舌を突き出して、聖亞が声を上げた。
もう片方の靴も脱げ落ち、両足ともが白色のルーズソックスを履いただけの状態になる。両脚を踏ん張り、股を大きく広げた格好で、聖亞は腰を浮かせる。
ぶりゅ、と湿った音がして、聖亞の穿いている下着が不恰好に盛り上がった。
「わ」
景は瞠若《どうじゃく》としながらも、動けず立ち尽くしてしまう。
聖亞はとうとう下着を膝小僧までずり下げ、下半身を完全に露出させてしまった。
薄っすらと生え茂った黒毛と、その中心の両脚の間から、ぬらぬらと濡れた肉塊が飛び出しているのが景の目に入る。お世辞にも気持の良い有様とはいえないのに、景はどうしてもそこから視線を引き剥がせない。
ずるり、ずるり——と湿った音を立てながら、膝に引っ掛かった下着を押し退けるようにして、肉塊は聖亞の股座《またぐら》より自ら這い出してくるように見えた。
「なんだ!? なんだよこれ!?」
景は自分でも気付かぬうちに目から涙を流し、己と歳の変わらぬ少女が出産する様子を見つめた。
やがて、紐のようなものの付いた大きな塊を放《ひ》り出し、聖亞はぐったりと倒れ込んだ。
だだっ広い夜の駐車場に、聖亞が激しく酸素を求める音だけが響いている。
景は頬の涙を拭うことも忘れ、がっくりと膝を落とした。力を入れて掴んでいた聖亞の両手も離してしまう。
目の前で起きたこと、そして目の前でぴくぴくと震える二つの“存在”について、頭で処理しきれない。
「……」
あられもなく脚を広げて横たわった聖亞の腰のまわりや内腿には、血の混じった粘液が纏わり付いて汚れている。両足首に絡んだままの赤い下着が妙にいやらしく見え、恰《あたか》も凌辱されたかのような、昏《くら》い連想をさせる。
股の間からは太い肉の帯がはみ出しており、その先には両掌を広げたほどの大きさの塊が繋がっていた。
これを聖亞が“産んだ”と考えるなら、帯状のものは臍帯《へそのお》——母体《はは》と児《こ》とを有機的《オーガニック》に橋渡しするパイプと考えて間違いない。
景は、聖亞の産み落とした肉塊《それ》を見ているうちに、胸の奥から湧き上がってくるどす黒い衝動に気付いた。それは憎悪を超えて殺意とも呼ぶべき感情の粟立《あわだ》ちで、景は握り締めた己の拳の 硬さに驚きもしない。
景は膝で歩み寄り、聖亞の裸股と下着の間でぬらぬらといやらしく蠢動する肉塊をじっと見つめた。
頬に残った涙の筋が、乾いてゆく。
感情の失せた目をしながら、景は頭上へと拳を振り上げる。
その途端、肉の帯で聖亞とつながった塊が、気色《きしょく》の悪い音を立てて、一瞬で膨れ上がった。
「!?」
人の子供ほどの大きさになった肉色のそれは、さらにぴくんぴくんと蠕《うごめ》く四肢を生やす。
全体の大きさに対して小さすぎる手足をじたばたと動かす肉塊は、巨大な胎児そのものであった。美少女の産み落としたそれは慥《たし》かに生きており、どっく、どっく、という音すら聴こえてくるかのように蠕動する。
「この糞袋《くそぶくろ》が——」
肉塊のあまりの穢《きたな》らしさ、醜さに嘔吐感を覚えた景は、羅刹の如き形相で拳を振り下ろす。
景の拳骨《げんこつ》が届く前に、肉塊がばくりと口を開き——そして待ち構えていたかのように、景の腕にかぶりついた。
「あああ!?」
あまりのことに、景は甲高い悲鳴をあげる。
肘から先を咥えて離さないそれは、体長一メートルを優に超える大山椒魚《おおさんしょううお》であった。
あまりに小さな目と四肢、対照的に大きすぎる図体。全身を覆う疣《いぼ》。それらが不潔に黄濁した滑《ぬら》つきに覆われ、景の背筋に悪寒を走らせる。
「や、いやっ——」
側扁した尾が、聖亞の両脚の間に続いていた。
巨大な両棲類が、景の腕と聖亞の股とを繋いでいる——。
これを、聖亞が産み落としたというのか。景は食いつかれた痛みよりも不快感に煽られ、巨大両棲類に呑まれたのと反対側の手で、太い尾を引きちぎった。
力任せにちぎられても猶《なお》、大山椒魚は景の腕から離れない。胴体から離れた側の尾はびちびちと跳ね回り、聖亞の股や太腿に打ち当たって、噴き出した粘液で少女の肌を穢した。
「ふざけやがって!」
大山椒魚の口に手をかけ、力任せに抉《こ》じ開ける。鋸《のこぎり》のような歯を引き抜くと同時に、景の腕から血が噴き出し流れ出す。
尾をちぎられ、投げ捨てられた大山椒魚は、口を開いたままアスファルトの上でどたどたと鈍重な身体を振り回した。
右腕から幾筋も血を滴らせ、肩で息をする景の目の前で、大山椒魚は口を印度大鰐魚《ガビアル》の如く大きく開く。
大山椒魚の口内から、にょっきりと白い手が突き出された。
「……なんだァ……?」
剃刀で切りつけたような傷を利き腕に幾つもつけられた景は、痛みと驚きに顔を顰める。
エトピリカとして活動をしている以上、何があっても驚くまいと思っていたが、これほどの異常事態が次々と起こっては、理解が追いつかない。
二本の白い手が、内側から大山椒魚の両顎を押し開くようにし、骨と肉をめきめきと裂いた。
両腕の間から、長い黒髪が見えた。
「まさか——」
景が見ている前で、腕は大山椒魚を内側から裂いてしまい、その持ち主の全身をすっかり顕《あらわ》にした。
両棲類の体液やら血液やらで汚らしく濡れた全裸の女が、景の前に立ちはだかる。
白く豊かな乳房が夜の闇に浮かび上がって見え、景は唇を噛み締める。
「このっ……手前《てめ》ェ……」
怒りに震える景を嘲笑うかのように、女は前半分が真っ二つに裂けた大山椒魚を引っ掴み、投げつけた。
「うわっ」
巨大な両棲類をいきなり叩きつけられた景は一瞬怯み、腕で顔を覆う。その隙に女が走り、近付いてきたことに気付けなかった。
女が景の顔面を両手で掴む。
「うっ」
いま産まれたばかりの女の顔面、額のど真ん中に、黒々とした横線があった。おそらく入墨《いれずみ》として刻み込まれたのであろうそれは、景には漢字の「一」の文字のように見えた。
「うおぅ……うおん」
唸り声をあげて、冷ややかに美しい唇から、女は牙を剥きだす。知性の欠片《かけら》も感じさせない、野獣のようであった。
「やめっ、ろっ」
景は女の顎下に掌底を当てがい、力尽くで引き剥がす。
「ニ肉ううをヲヲ」
女はその景の前腕に、がぶりと喰らい付いた。
「痛《い》っ——てええええなあ! 畜生が!」
反対の手で拳骨《げんこつ》を作り、力任せに女の頭を殴る。
女の顎は開くことなく、そのまま景の腕から、肉片を噛みちぎった。
「うわああ! うわあ!」
景は後ろへひっくり返り、喰いちぎられた腕を押さえてのたうち回る。駐車場のアスファルトに、夥《おびただ》しい量の血が流れる。
「ぐおーッ! ぐわーッ!」
あまりの痛みに、景は獣のごとく吠え、垂れ流した涙と涎で顔をどろどろに汚す。
景から離れた女は、ぐちゃぐちゃと肉を咀嚼し、ごくりと嚥下した。
こちらも獣のごとく四つん這いであった女は、いま目覚めたばかりのように腰を伸ばす。白い裸身を夜の闇に晒しながらくるりと踵を返すと、暗い駐車場の奥の、濃い闇へと走り去った。
「——あっ! このォ、待て橋姫《はしひめ》ッ」
気力を振り絞って立ち上がり、慌ててその後を追って走り出した景は、もはや息も絶え絶えであった。点々と血が落ち、駐車場のアスファルトを汚す。
(くそっ、ねいちゃんと妹は、どこ行ったんだよぉ!)
景が走り去った後の真っ暗な駐車場で、上下二つに裂かれた大山椒魚《おおさんしょううお》が動き出した。よたよたと身を起こし、前半分が巨大な口になってしまった胴体で不恰好に這いずる。無残な格好で横臥する産後の母体を残して闇の中へと姿を晦ますと、やがてショッピングモールの裏手を流れる川面に、どぷんと低い水音を立てた。
水音がやんだ後には、意識のない母体《・・》がひとり残された。
真っ暗な駐車場には、河津《かわつ》聖亞《せいあ》のいまだ調《ととの》わぬ息遣いだけが残っていたが、やがてそれも小さくなり、誰も聞くものがいなくなった。
その頭髪には、古めかしい鼈甲《べっこう》の髪挿《かんざし》が挿されていたが、それもアスファルトの地面にこぼれ落ち、からりと乾いた音を立てた。
地方都市の大型モールは当《まさ》に“摩訶《ばか》でかい”と称すべき規模の商業施設で、もしも子供や年寄り一人で迷ってしまうと、二度と出て来られないのではないか——という杞憂さえ起こさせた。
これが町にできるというとき、既存の小売店が挙《こぞ》って猛反対した理由も、今なら景《けい》にもよく分かる。
「——土地、余ってンだなあ」
少し前の方所を歩く姉妹に聞こえぬ程度の声で、独り言を呟く。
一年前までの夏海景《なつみけい》にとって、その中に居を構えるゲームコーナーが放課後の溜まり場のひとつであった。『超法戦騎《ちょうほうせんき》レッドガル』のゲームで、空子、琴律らとモニター越しに共闘した時間は、何にも代え難い楽しい思い出——となるはずである。
そう考えた景は、ふん、と鼻を鳴らした。
(あー、何が思い出だよ。婆臭《ばばくせ》え)
深いブルーのTシャツに、以前蓬莱萵苣に貸し与えたこともあるショートパンツを合わせて身につけた景は、人通りの無い駅前通りを歩むスピードを上げた。
著しく利用者の少ない駅は閑散としており、それを挟む道路も時たま車が通過する程度で、とても県庁所在地の主要駅とは思えない。
「おい。こんなとこうろうろしてて、本当にあの幽霊女が出てくンのかよ。やっぱ、あの寺で待ち伏せしてた方が良かったんじゃね?」
一時間ほど前、景と蓬莱姉妹は待ち合わせて合流し、予《あらかじ》め醜女《シコメ》が出そうだと当たりをつけておいた場所へ、警邏に出ていた。姉妹の経験則から予測されたという駅前通りは、本通りから一本逸れただけで廃墟と見紛う暗さと、車のライトに時折照らされ浮かび上がる人の影とによって、なるほどお化けでも出そうな雰囲気である。
「今の橋姫《はしひめ》は。女子中学生の姿だから。全くひと気の無い所には行かないはず。もしも誰かに見られたときに。面倒なことになるから。逆に。人がたくさんいる所は明るすぎるから。出て来られない」
蓬莱蕃茄《ほうらいとまと》が景の方を振り向き、ぽつぽつと説明する。
「そっか、幽霊ってのは、あんまり明るいと出られんのか。こういう店とか駅とかで、人を襲って食えばいいのに——とか思ってたよ。彼奴《あいつ》らもあれでなかなか難儀なんだなア」
「夏海ちゃん! 同情は禁物だよ! 尸澱《シオル》は自分勝手で人を食べるんだからね!」
腰に手を当てて、萵苣がぷんすかと叱ってみせた。
「別に、同情なんてしてねえよ。皮肉ってんのが分からんのか、お前」
「えっ!」
「姉さま。警戒を怠らないで」
蕃茄が姉の胸のふくらみを指でつん、と突つく。
「ひょわ!」
今夜も相変わらず白いロリイタ服姿の萵苣は、飛び上がらんばかりに反応した。真っ赤に染まっているはずの顔は、暗闇で見えない。
「何すんの蕃茄! どこ触ってんの!」
「別に」
こちらも代わり映えのないゴシックロリイタで身を包んだ蕃茄は、眠たげな目で前を向いて、すたすたと歩き出す。
「もー! 蕃茄はやらしい子だよ!」
ぷりぷりと怒る萵苣の横に並び、景はその豪奢なドレスを下から盛り上げるふくらみに目を遣った。
突《つつ》かれた処には、“何も無い”はずである。
これが、造り物の人形だというのか。生前と変わらぬ姿に造られたとはいえ、説明されなければとても信じ難いほどに人間らしいと、景は感心していた。
性格や仕草なども、生きていた頃と変わらないのだろうな——と思った景は、敢えて軽口を叩いてみる。
「でか乳はコトで見慣れてたけどよ。ねいちゃんの方、わりと良い感じにあるんだなあ。十代らしく健康的なサイズで、大変よいぞ」
「ええええ! 夏海ちゃんまで何言ってるの! おじさんの言うことだよそれ!」
「おじさんにもちょっと触らせろや」
「こらー! 真面目にやってよー! 橋姫《はしひめ》来ちゃうよ!」
雲が、すうっ——と月を隠した。
喧《かまびす》しくじゃれ会う年上二人を尻目に、蕃茄がショッピングモールの駐車場に踏み込んだ。車を止めるバーも監視カメラも御構い無しに、無人の駐車場を歩いてゆく。
「あれっ! ちょっと蕃茄! なに勝手に入ってんの! 警備の人に怒られるよ!」
「匂う」
「えっ!」
蕃茄が立ち止まった。
月光が隠されたとはいえ、建物を取り囲んでだだっ広く広がる駐車場は、やけに暗い。
黒いドレスを着た蕃茄のショートヘアをぬるい夏の夜風が揺らしている。モノクロームの光景が、景からは薄ぼんやりとして、古い映画のワンシーンのようにも見えた。
「なんだ。何の匂いがするって?」
「あの子」
「なに?」
それっきり蕃茄は答えず、再び建物の方へと歩き始める。
「蕃茄! あの子ってもしかして!」
萵苣が慌てて後を追った。
景は薫々《くんくん》と風を嗅いでみたが、生ぬるい温度と近くを流れる川の匂いが僅かに流れて来るばかりで、誰かの匂いと思えるものは感じられなかった。
「よりによって、店の中にいるとか言わねえだろうな……」
頭を掻きながら、景は二人の背中を追うように歩き出す。
だんだん目が慣れて来たとはいえ辺りはあまりに暗く、どこに何が出ようと、それを捉えることは難しいだろうな、と景は思った。
今のうちに変身しておこうか——とも考えたが、空子と琴律がいないと、揃いの和装束にはなれないらしい。ボディペイントと見紛うほどに体に貼り付くボディスーツは、自分のイメージが形になったものと言われても、それこそ誰が見ているかも分からない場所で“着ておく”には向いていないと思えた。
現代日本にはどうにも場違いなロリイタ服をいつでも着込んでいる蓬莱姉妹を思い、景は深く息を吐《つ》く。
ふと顔を上げると、姉妹の姿を見失っていた。
「あ……やべっ」
黒髪に黒ドレスの蕃茄は闇夜の烏《からす》であるが、萵苣の白ドレスは夜目にもはっきりと目立つ。そこまで離れて歩いていたわけでもない。こんな短時間のうちに見えなくなるものであろうか——と景は焦った。
突然。
「出た。姉さまっ」
離れたところから、悲鳴めいた蕃茄の声が聴こえたかと思うと、ガラスの割れる音が続いた。
「!」
景は咄嗟に身構える。蕃茄のあんな逼迫した声音《こわね》は聞いたことがなかった。
「蕃茄《とまと》ー! 蕃茄ー! ……夏海《なつみ》ちゃーんっ!」
これも遠くから聴こえた萵苣の叫びを最後に、辺りは再びしんと静まった。
「おいッ。どうした、おぉいッ」
景は慌てて闇雲に走りだし、声を荒げて姉妹の名を呼んだ。
「お前ら返事しろ! 何があった!? おーいッ」
ショッピングセンターの建物の方から、再びガラスの割れる音が聞こえ、続いてぱっぱっと、燃え上がる火の光が見えた。萵苣の声らしき怒号も耳に届いた。
暗闇の中で、姉妹が闘っているらしい。そう思った景は、すわ変身すべきかと考えながら身構える。
「ふぉおおわぐらあああ!」
今度ははっきりと、萵苣の発する奇声が聞こえた。
建物の下から、高い壁に向かって火球を連射しているらしい。着弾する度に火が燃え上がって、壁面を駆け上がる影を映し出した。
セーラー服姿の少女が、地球の引力を否定するかのように、ショッピングセンターの壁に垂直に立って、走り回っている。雨霰《あめあられ》と撃ち出される火球をひょいひょいと躱す姿は、見間違いようもない、河津聖亞《かわつせいあ》の姿であった。
やがて痺れを切らしたと見え、萵苣は大きく跳び上がり、聖亞と同じように壁面に立つと、そのまま駆け上がる。
「ぱーん、けぇえ、きいい!」
勢いをつけて聖亞の首根っこに跳びついた萵苣は、ショッピングセンターの窓ガラスに相手の身体を押し付けた。
壁面のガラスに着地した聖亞は、両足でガラスを踏み割って留まり、身を翻して萵苣を壁面に叩きつける。
互いに組み合った二人はそのまま、窓ガラスを割りながら、壁を走り回って暴れた。ときおり萵苣の発射する炎が、物理法則を無視して繰り広げられる激闘を、巨大な建物の壁面に浮かび上がらせる。
「おいおいおい。あんなの無茶苦茶だろ!? あたし、あんなことできんぜ……」
景はあきれながら、萵苣に加勢しようと立ち上がったが、不意に、何の音も光もしなくなった。
「……お、終わったんか?」
あまりにも突然訪れた静寂に、景は不安を抱く。
「おおいっ萵苣《れたす》よーい! ねいちゃーんっ」
呼びかけるが、返事はない。
視界の左端、濃い闇の中に、ちらりと白い手が見え——次の瞬間、その手は景の首に絡みつき、気色の悪い冷たさで締め上げて来た。
「うぉぐ……」
伸びてきた腕が、四十五キログラムの人体を軽々と吊るし上げた。
月を覆っていた雲が退き、暗かった駐車場にも光が差す。
案の定、半袖のセーラー服から伸びた白い腕は、河津聖亞のものであった。
(出やがった!)
最前まで、離れたビルの壁面に立っていたはずの敵が、いきなり自分の首を絞めている。どういう理屈なのか、考える暇も無かった。
河津聖亞《かわつせいあ》——の身体を乗っ取り勝手に使っている橋姫《はしひめ》は、前回遭遇した際と同じく、聖亞の桜桃色の髪を結わえることなしに、へらへらと笑っている。
喉を締め上げられる苦しさの中で、景の目には、聖亞の顔の左半分が焼け焦げているように見えた。
(なんだありゃ……蓬莱のねいちゃんが火傷《やけど》させたんか?)
「汝《うぬ》ら、何処《いずこ》へ逃げ果《おお》せたかと思えば……のこのこと斯様な処へまで出張《でば》って来たかや。余程、この娘に未練があるものと見える。憂《う》き世《よ》じゃ——憂《う》き世《よ》じゃ」
少女の鈴音のような声に、地獄の色を含ませて、女が呻いた。
いくら仲の良くない先輩であろうとも、聖亞の可愛らしい顔と声が、昔死んだはずの霊女に操られているのを見るのは、忍びなかった。
「へっ、笑わすな。……そんなんじゃねえよ、糞っ垂れ……ただ手前《てめ》ェを……ぶん殴って、そのふざけた身体から引き摺り出して……やりたい、だけだ。この……死に損ないの、ど腐《ぐさ》れ淫売屋がよ……」
橋姫は顔から笑いを消し、聖亞の細腕で、喉をつかんだままの景の身体を、駐車場のアスファルトへ叩きつけた。
「この……痛ってえなあッ……」
聖亞の身体が景に馬乗りになる。やはり、聖亞の顔の左側、目の周りから耳にかけて、大きく焼けた痕《あと》があった。
喉に食い込んでいた指が上に滑り、景の顎と頬とを掴む。
「おっ、ごぉ」
無理矢理抉じ開《あ》けられた口の中に、指が捻じ込まれた。聖亞の白魚《しらうお》のような人差し指と中指とが、景の喉奥——舌の付け根を侵《おか》す。喉頭から気管へと続く道を直接塞がれ、息が詰まる。鼻も口も機能せず、目から涙だけが流れた。
「ンぐゥ……」
自分よりも小柄な女が胸に乗っているだけだというのに、その体を跳ね除けるどころか、口に突っ込まれる指に歯で噛みつくことすら、景にはできない。
「ほほほほ。苦しんで死ねい」
文字通り息の根を止めようという確固たる悪意が、景の喉から流れ込む。
「汝《うぬ》を殺したら、其《そ》の肉は喰らうてやろう。妾の肉体《しし》と成るが好いぞ。次は彼《あ》の新造《しんぞ》と童女《わらわめ》の番じゃわ。ほほほほ」
(ふざけやがって! ……食われてたまるか!)
景は聖亞の手首から片手を離した。更に深く喰い込む指先。いよいよ息も詰まろうかという瞬間、景は力の入らぬ指で、ショートパンツのポケットを探り、鈍く光るものを取り出した。
ポケットの外へ出た瞬間、小さな光は掌サイズの霊珠へと姿を変える。
「——其れは」
橋姫が息を呑むのが分かった。喉に這入《はい》り込んだ指が、僅かに緩んだ。
景は気力を振り絞り、片手で聖亞の腕を口から追い出した。夜の空気を肺いっぱいに吸い込む。
仕返しとばかりに、思い切り唾を吐き出す。
唾は聖亞の顔の焼け爛れた部分に引っかかる。景の首から、白い手が離れる。
「おぉらあ!」
景は手に握った霊珠を、聖亞の側頭部へ叩きつけた。
珠が割れ砕ける手応えとともに、光が猛烈な勢いで噴き出す。
「ぐぁおおおおおお」
橋姫はうめき、聖亞の顔面及び耳の周辺から無数の光の粒を撒き散らしながら、ばったりと倒れ伏した。
その光の粒は、霊珠から溢れ出る光と合流し、一瞬で景の全身をコーティングしてゆく。
——命を、もう一度。
景の耳元に、囁くような声が届く。
景の身体から剥がれた光は爆風の如き勢いで周囲に広がり、やがて消え失せた。
「ふんっ」
エトピリカの装束を身体にぴったりと貼り付け、鼻息荒く立ち上がった景は、足元に聖亞が俯《うつぶ》せになっているのを一瞥する。
足の爪先で聖亞の頭を軽く小突くが、聖亞はぴくりとも動かない。
「……手前《てめ》ェは、死んだふりがお上手だからなア」
少女趣味のピンク色に染められた髪の毛を鷲掴みにして持ち上げ、アスファルトの地面へ顔面を叩きつける。
鼻の骨の折れた音と手応えを感じ、景は首元をくすぐられるような快感を得ている。
髪を掴んだまま仰向けに起こす。童顔ながらも端正な顔貌をした河津聖亞は、鼻腔から血を流し、額に擦り傷を作り、ぐったりと目を閉じていた。顔の左半分、ちょうど景が霊珠を叩きつけた箇所には大きな火傷の痕があったはずだが、きれいさっぱり消えてしまっていた。
「……」
無言で突き放すように聖亞を投げ出すと、景は素早く周りの闇に目を走らせる。
今しがたの光の奔流のせいで、辺りに闇が濃く圧《の》し掛かっていた。月光も再び雲に遮られている。
景は萵苣らが闘っていたはずの建物の方向すら完全に見失っていた。
「おーい、どこにいる?」
闇に向かって呼びかけてみたが、姉妹の返事はなかった。
(あたし達を殺して食うだと? くそ女《あま》、相変わらずふざけたことを言いやがる……)
蕃茄に至っては最前から姿が見えないが、どうなったのだろうか。縦《よ》しんばやられてしまったとしても、あの短時間に、人《ひと》二人分の肉を食うことなどできないはずだ。それなら最悪の事態からは免れるだろう——もちろん根拠などないが、そう考えるしかない。
再び聖亞に目を向けるが、動く様子はない。
矢庭《やにわ》に、寂しさが迫ってきた。
田舎の夜の駐車場に、自分独りでいる。
連れ立ってやって来た者たちとは、逸《はぐ》れてしまった。
足元に転がった少女は、生きているのか死んでいるのか。死んでいるなら、自分が殺してしまったのか。——否、死ぬほどの暴力を振るった訳ではないから、もし死んでしまったのなら、それは死人《しびと》に取り憑かれた所為《せい》だ——。
粗雑で厭な考えが頭の中を巡る。
早く姉妹を捜して、連れて逃げよう、と景は思い直した。闇の中でさらに黒々とそびえ立つショッピングセンターの建物に向かって立ち上がる。
「うっ、ぶほっ」
背後で、咳の声がした。
振り向いた景の目に、身を起こし激しく咳き込む聖亞の姿が飛び込んだ。
「あっ、おい!」
此奴《こいつ》は、既に橋姫ではない。——そう直感した景は慌てて小柄な先輩に駆け寄り、肩を掴んだ。
「おいッ、あんた——河津さん! 大丈夫か? 苦しいんか?」
ひいっ——と息を吸い込んで一瞬仰け反ると、聖亞は腹を押さえ、景の腕の中で芋虫のように身を捩《よじ》り始めた。学校指定のローファーの靴が片方、すぽんと脱げた。
「気持ち悪いのか! 救急車呼ぶか!?」
見れば、聖亞の下腹部が、大きく膨れていた。
「……なんだ……?」
景の背を、冷や汗が流れる。
聖亞は呻き悶えながら、埃で汚れた制服のプリーツスカートを自ら捲り上げ、赤い下着に手をかけて下ろそうとしている。
「何をやってんだよ、おいこらッ」
刀を産み落としたときの琴律を連想し、景はつい、その手を掴んで止めようとする。
「うおおおああ」
目を剥き、口からは舌を突き出して、聖亞が声を上げた。
もう片方の靴も脱げ落ち、両足ともが白色のルーズソックスを履いただけの状態になる。両脚を踏ん張り、股を大きく広げた格好で、聖亞は腰を浮かせる。
ぶりゅ、と湿った音がして、聖亞の穿いている下着が不恰好に盛り上がった。
「わ」
景は瞠若《どうじゃく》としながらも、動けず立ち尽くしてしまう。
聖亞はとうとう下着を膝小僧までずり下げ、下半身を完全に露出させてしまった。
薄っすらと生え茂った黒毛と、その中心の両脚の間から、ぬらぬらと濡れた肉塊が飛び出しているのが景の目に入る。お世辞にも気持の良い有様とはいえないのに、景はどうしてもそこから視線を引き剥がせない。
ずるり、ずるり——と湿った音を立てながら、膝に引っ掛かった下着を押し退けるようにして、肉塊は聖亞の股座《またぐら》より自ら這い出してくるように見えた。
「なんだ!? なんだよこれ!?」
景は自分でも気付かぬうちに目から涙を流し、己と歳の変わらぬ少女が出産する様子を見つめた。
やがて、紐のようなものの付いた大きな塊を放《ひ》り出し、聖亞はぐったりと倒れ込んだ。
だだっ広い夜の駐車場に、聖亞が激しく酸素を求める音だけが響いている。
景は頬の涙を拭うことも忘れ、がっくりと膝を落とした。力を入れて掴んでいた聖亞の両手も離してしまう。
目の前で起きたこと、そして目の前でぴくぴくと震える二つの“存在”について、頭で処理しきれない。
「……」
あられもなく脚を広げて横たわった聖亞の腰のまわりや内腿には、血の混じった粘液が纏わり付いて汚れている。両足首に絡んだままの赤い下着が妙にいやらしく見え、恰《あたか》も凌辱されたかのような、昏《くら》い連想をさせる。
股の間からは太い肉の帯がはみ出しており、その先には両掌を広げたほどの大きさの塊が繋がっていた。
これを聖亞が“産んだ”と考えるなら、帯状のものは臍帯《へそのお》——母体《はは》と児《こ》とを有機的《オーガニック》に橋渡しするパイプと考えて間違いない。
景は、聖亞の産み落とした肉塊《それ》を見ているうちに、胸の奥から湧き上がってくるどす黒い衝動に気付いた。それは憎悪を超えて殺意とも呼ぶべき感情の粟立《あわだ》ちで、景は握り締めた己の拳の 硬さに驚きもしない。
景は膝で歩み寄り、聖亞の裸股と下着の間でぬらぬらといやらしく蠢動する肉塊をじっと見つめた。
頬に残った涙の筋が、乾いてゆく。
感情の失せた目をしながら、景は頭上へと拳を振り上げる。
その途端、肉の帯で聖亞とつながった塊が、気色《きしょく》の悪い音を立てて、一瞬で膨れ上がった。
「!?」
人の子供ほどの大きさになった肉色のそれは、さらにぴくんぴくんと蠕《うごめ》く四肢を生やす。
全体の大きさに対して小さすぎる手足をじたばたと動かす肉塊は、巨大な胎児そのものであった。美少女の産み落としたそれは慥《たし》かに生きており、どっく、どっく、という音すら聴こえてくるかのように蠕動する。
「この糞袋《くそぶくろ》が——」
肉塊のあまりの穢《きたな》らしさ、醜さに嘔吐感を覚えた景は、羅刹の如き形相で拳を振り下ろす。
景の拳骨《げんこつ》が届く前に、肉塊がばくりと口を開き——そして待ち構えていたかのように、景の腕にかぶりついた。
「あああ!?」
あまりのことに、景は甲高い悲鳴をあげる。
肘から先を咥えて離さないそれは、体長一メートルを優に超える大山椒魚《おおさんしょううお》であった。
あまりに小さな目と四肢、対照的に大きすぎる図体。全身を覆う疣《いぼ》。それらが不潔に黄濁した滑《ぬら》つきに覆われ、景の背筋に悪寒を走らせる。
「や、いやっ——」
側扁した尾が、聖亞の両脚の間に続いていた。
巨大な両棲類が、景の腕と聖亞の股とを繋いでいる——。
これを、聖亞が産み落としたというのか。景は食いつかれた痛みよりも不快感に煽られ、巨大両棲類に呑まれたのと反対側の手で、太い尾を引きちぎった。
力任せにちぎられても猶《なお》、大山椒魚は景の腕から離れない。胴体から離れた側の尾はびちびちと跳ね回り、聖亞の股や太腿に打ち当たって、噴き出した粘液で少女の肌を穢した。
「ふざけやがって!」
大山椒魚の口に手をかけ、力任せに抉《こ》じ開ける。鋸《のこぎり》のような歯を引き抜くと同時に、景の腕から血が噴き出し流れ出す。
尾をちぎられ、投げ捨てられた大山椒魚は、口を開いたままアスファルトの上でどたどたと鈍重な身体を振り回した。
右腕から幾筋も血を滴らせ、肩で息をする景の目の前で、大山椒魚は口を印度大鰐魚《ガビアル》の如く大きく開く。
大山椒魚の口内から、にょっきりと白い手が突き出された。
「……なんだァ……?」
剃刀で切りつけたような傷を利き腕に幾つもつけられた景は、痛みと驚きに顔を顰める。
エトピリカとして活動をしている以上、何があっても驚くまいと思っていたが、これほどの異常事態が次々と起こっては、理解が追いつかない。
二本の白い手が、内側から大山椒魚の両顎を押し開くようにし、骨と肉をめきめきと裂いた。
両腕の間から、長い黒髪が見えた。
「まさか——」
景が見ている前で、腕は大山椒魚を内側から裂いてしまい、その持ち主の全身をすっかり顕《あらわ》にした。
両棲類の体液やら血液やらで汚らしく濡れた全裸の女が、景の前に立ちはだかる。
白く豊かな乳房が夜の闇に浮かび上がって見え、景は唇を噛み締める。
「このっ……手前《てめ》ェ……」
怒りに震える景を嘲笑うかのように、女は前半分が真っ二つに裂けた大山椒魚を引っ掴み、投げつけた。
「うわっ」
巨大な両棲類をいきなり叩きつけられた景は一瞬怯み、腕で顔を覆う。その隙に女が走り、近付いてきたことに気付けなかった。
女が景の顔面を両手で掴む。
「うっ」
いま産まれたばかりの女の顔面、額のど真ん中に、黒々とした横線があった。おそらく入墨《いれずみ》として刻み込まれたのであろうそれは、景には漢字の「一」の文字のように見えた。
「うおぅ……うおん」
唸り声をあげて、冷ややかに美しい唇から、女は牙を剥きだす。知性の欠片《かけら》も感じさせない、野獣のようであった。
「やめっ、ろっ」
景は女の顎下に掌底を当てがい、力尽くで引き剥がす。
「ニ肉ううをヲヲ」
女はその景の前腕に、がぶりと喰らい付いた。
「痛《い》っ——てええええなあ! 畜生が!」
反対の手で拳骨《げんこつ》を作り、力任せに女の頭を殴る。
女の顎は開くことなく、そのまま景の腕から、肉片を噛みちぎった。
「うわああ! うわあ!」
景は後ろへひっくり返り、喰いちぎられた腕を押さえてのたうち回る。駐車場のアスファルトに、夥《おびただ》しい量の血が流れる。
「ぐおーッ! ぐわーッ!」
あまりの痛みに、景は獣のごとく吠え、垂れ流した涙と涎で顔をどろどろに汚す。
景から離れた女は、ぐちゃぐちゃと肉を咀嚼し、ごくりと嚥下した。
こちらも獣のごとく四つん這いであった女は、いま目覚めたばかりのように腰を伸ばす。白い裸身を夜の闇に晒しながらくるりと踵を返すと、暗い駐車場の奥の、濃い闇へと走り去った。
「——あっ! このォ、待て橋姫《はしひめ》ッ」
気力を振り絞って立ち上がり、慌ててその後を追って走り出した景は、もはや息も絶え絶えであった。点々と血が落ち、駐車場のアスファルトを汚す。
(くそっ、ねいちゃんと妹は、どこ行ったんだよぉ!)
景が走り去った後の真っ暗な駐車場で、上下二つに裂かれた大山椒魚《おおさんしょううお》が動き出した。よたよたと身を起こし、前半分が巨大な口になってしまった胴体で不恰好に這いずる。無残な格好で横臥する産後の母体を残して闇の中へと姿を晦ますと、やがてショッピングモールの裏手を流れる川面に、どぷんと低い水音を立てた。
水音がやんだ後には、意識のない母体《・・》がひとり残された。
真っ暗な駐車場には、河津《かわつ》聖亞《せいあ》のいまだ調《ととの》わぬ息遣いだけが残っていたが、やがてそれも小さくなり、誰も聞くものがいなくなった。
その頭髪には、古めかしい鼈甲《べっこう》の髪挿《かんざし》が挿されていたが、それもアスファルトの地面にこぼれ落ち、からりと乾いた音を立てた。
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