花魁鳥は夜に啼く

北大路美葉

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第十四話「離別」

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「神社に着《つ》け火《び》たァ、最悪だ」
 昔の不良学生のようなポーズでしゃがんだ景《けい》が、憮然として空を見上げた。
「姉さまが早まったことをしなければ。こんなことにはならなかった」
「ごめんってば! どうしたらいいか分からなかったの!」
 無表情な妹に叱られ、萵苣《れたす》が掌を合わせる。
 雨天も手伝ってなんとか消火はできたものの、社殿の格子戸は燃え失せてしまい、床にも天井にも焦げ跡を作ってしまっていた。鏡を護るように張り巡らされていた注連縄《しめなわ》は琴律の不敬によって踏み千切られて、今すぐには修復などし難い状況であった。御神体の鏡が無事なのが、不幸中の幸いであるといえた。
 四人のエトピリカらは社殿から這々の体で逃げ出し、雨を避けて神社の裏手の杜《もり》に身を潜めていた。空子《そらこ》は一人、周囲を歩き回ったり、高いところに飛び乗ったり、落ち着かぬ様子でうろうろとしていた。
「しっかし、仏さん二人は、つくづく使えねえなァ」
 景が嫌味ったらしく呟くと、当の阿吽《あうん》らはすぐに飛来し、深々と頭を下げる。
「大変申し訳ございません」
「尸澱や醜女が立ち入れぬ神社に居ながら」
「よもや内部から破られるとは思いも寄らず」
「我々の力不足故にこのような」
「——もういいって。それよりも、コトちゃんだよ」
 空子は鳥居の上から飛び降りて来て、杜の茂みに腰を下ろした。
「あと、聖亞センパイも」
「あ? 河津聖亞《かわつせいあ》かよ?」
 景が訝しげに空子の顔を覗き込む。
「なんで、あんな女」
「センパイ、カラダ獲られちゃってるんだよ。橋姫に」
「知ってるわ。それって、あたしが教えてやったろ」
「うん。……センパイ、泣いてた」
「はっ? 泣いてた?」
 景が間の抜けた声で訊き返す。
「うん。あたし、さっき夢で見た。カラダ失くなって、自分なのに、自分がどこにいるか分かんないんだって」
「……」
 景が無言で空子の頭を撫でる。夢の話で悲しんでいる同級生が、景にはどうにも幼く、たまらなく切なく感じられた。
「あの子は。自分の容れ物から追い出されて。それを好き放題に使われているの。行き場の無い中身だけが。宙ぶらりんで彷徨《さまよ》っている」
 蕃茄《とまと》がぽつぽつと言葉を紡いだ。
「それってさ! どっかでその中身を見つけてあげようよ! それを私らが身体に無理やり押し込んだら、橋姫が逆に追い出されちゃうんじゃないかな!」
 やたら元気に萵苣が提案する。
「姉さま。肉体を抜けた“念《おもい》”なんて。どうやって見つけるの。形のあるものではないのだから」
 ふうと息を吐き出しながら、蕃茄は姉を嗜めるように呟く。
「——でもさ。例えば、空気も目には見えないけど、風が吹いたら、空気が動いたぞーってのは分かるよねえ? そんなふうに、気付いて、見つけてあげることってできんのかにゃー?」
 そう言って、空子は立ち上がった。
「……」
 蕃茄は無表情のまま、空子の顔をじっと見た。
「……分からない。そうやって見つけたとしても。肉体に戻すことなんて。できるのかどうか。でも」
 蕃茄も腰を上げた。
「とりあえず私としては。龍泉寺さんが心配。いろいろな意味で」
「あの、莫迦《ばか》ったれが……いきなり変な格好したかと思ったら、なんだよ、あの長刀《ヤッパ》」
 空子の頭をぐりぐり撫でながら、景が苦々しく呟く。
 空子はされるがままになりながら、蓬莱姉妹の方に向き直る。
「コトちゃん、あちらへ行くって……どういうことなんだろ」
「普通に考えたら、根之國《ねのくに》だよね!」
「だろうな。鬼《おに》がどうたら言ってたからな」
「やっぱし……」
「ってことはコトの莫迦、長刀《ヤッパ》提げて、誰か斬ろうっつうのか? わざわざ彼奴《あいつ》が斬らんでも、死人の往くとこだろうが、あそこ」
「——まさか」
 蕃茄が顔を上げて、皆の顔を見渡した。
「黄泉。——とか」
「よみ?」
 空子は言葉の意味がすぐにはわからず、蕃茄の言葉を鸚鵡返しにする。
「黄泉國《よもつくに》」
 阿吽がふわりと寄ってきた。
「お亡くなりになった方が」
「根之國からそれ以上綺麗な処へ往《ゆ》くことなく堕ちる場所」
「天津國《あまつくに》とは対照的なところ」
「寒く暗いところでございます」
「ゲヘナ」
「つまり地獄とでも呼べば分かり易いかと存じます」
「じじじ地獄ぅ!?」
 穏やかでない単語に、空子は思わず飛び上がる。
「コトちゃん、刀持って、地獄へ行っちゃったってこと!?  何それ、そんなことできるの!?」
 思わず詰め寄るようにして問うと、蕃茄は空子の目をじっと見返した。
「まだ分からないけれど。可能性は濃厚」
「そんな……」
 空子は脚を震わせながら、半泣きの顔で曇天を仰いだ。
 阿吽はそんな空子の肩先に寄り、解説を続ける。
「幸か不幸か此処《ここ》は神社でございます」
「この社の奥の杜《もり》へと分《わ》け入《い》ったれば」
「根之國までは直行できるものかと」
「勿論《もちろん》黄泉國《よもつくに》など」
「自由に往き来できるような処ではございません」
「以前皆様をお連れした際も」
「根之國までしかご案内致しませんでした」
「一旦足を踏み入れれば」
「二度と戻っては来られぬ造りになっております故《ゆえ》」
「ふっ」
 景が鼻から皮肉な笑い声を出した。
「そこを戻ってくる奴がたまにいるから、あんたらやあたしらが苦労してるんだろが」
「……」
「……」
 阿吽は二人して押し黙ってしまった。
「ああ——きっと、あれだよ。根之國の『春』って部屋に、髪の毛の化物《ばけもん》がいたろ。あれを倒そうとかって腹《ハラ》じゃねえか——なんつって」
 口調とは裏腹に、仏頂面もここに極まれりといった風情で、景が口を開いた。
「……」
「えーっ! もし、そういうつもりならさ! コトリちゃん、私らと一緒に行けばいいよね! あんな乱暴してまで、私らを置いてく必要無いと思う! だから、あの怪物とかじゃないよね! きっと!」
 腰に手を当てて、萵苣がぷんすかと主張した。
「うん。……悪《わり》ぃけど、そんなことは分かってんだ」
「えっ!」
「言ってみただけだ」
「ええええ!」
 思ってもみなかった景の言葉に、萵苣の上半身ががくっ・・・と傾く。
「——で、どうすんだ? 追うなら追おうぜ。あのエロ莫迦《バカ》女」
「そうだよ! コトリちゃんが根之國に行ったのは、分かってんでしょ!」
「あのね姉さま。まだ分かってはいないの。恐らくそうだというだけで」
「えっ! そうなの!」
 会話の内容をあまり聞いていなかった萵苣は、さらに大きく傾いた。
「それとさ、河津センパイはどうしよう……?」
 空子が恐る恐る切り出す。
「……橋姫は。髪挿《かんざし》がどうとか言っていた」
「かんざし? ってあの、髪留めみたいなやつ?」
 空子が聞き返すと、蕃茄はこくりと頷く。
「恐らくは。それをあの子に渡して。身に付けさせて。あの子の肉体を好きに操っている」
 そういえば——と空子は思い出す。
 一年前、大地にも何やら菓子を与えて、食べさせたのではなかったか。
 本当の肉体を持たない死者が、相手の欲しがりそうなものを掴ませて、身も心も取り入ろうとしているのだろうか。卑劣だ、と空子は思い、拳を握りしめた。
「ケイちゃん。たしかに河津センパイって、あたしたちにひどいこと言ったし、乱暴もしてきたよ。だけど、死んだやつにカラダ獲られたままでいいなんてことないよ。泣いてたもん。あの人あたしに、ごめんって泣いてたもん」
 だんだん震えてくる声と一緒に、空子の両目から、涙が滴り落ちる。
「あのな、クウコ。彼奴《あいつ》は多分もう——」
「助けられるんなら、助けたい!」
「お前……」
 仲が良いわけでもない、むしろ嫌って然るべき上級生を、命懸けで救ってやる事に、なんで此奴こいつはこんなに拘るのか——と景は苛立つ。
 ぐすぐすと洟を啜り上げながら、空子は装束の袖で涙を拭った。
「尸澱《シオル》ってさ、『生きてる人の身体』を獲《と》っちゃうんだよね? ってことは、まだ河津センパイ、生きてるんでしょ? 生きてて苦しんでるんなら、助けてあげようよぅ」
 気絶している間におかしな夢を見て、感傷的になっているのだ——と景は空子の気持を分析する。それなら、と景は空子の頭に手を置いた。
「分かったよ。手分けしようぜ」
「手分け? 別行動するってこと?」
「そうだ。お前、コトの莫迦を追い掛けて、連れて帰ってこいや」
「ええっ、独りで!?」
「阿吽らと一緒にだよ。根之國《あっち》に行くんなら、彼奴《あいつ》らと一緒じゃなきゃ無理だろ。それにあたしら大勢《みんな》で押しかけてったら、あの莫迦ますます興奮して、あの長刀《ヤッパ》抜いて振り回しかねんぜ。そうなったら目も当てられんからな」
 景の話を、空子は黙って聞いた。仲間《みんな》と一緒でなければ厭《いや》だ——と騒ぐこともしなかった。
 単純に、琴律の方が与《くみ》し易《やす》いとも思った。
 なにせ上級生の内《なか》には、悪鬼とも呼ぶべき、あの怖ろしい橋姫《はしひめ》が入り込んでいるのだ。それなら、橋姫の相手は腕っ節の強い景や蓬莱姉妹に任せて、自分は親友である琴律を連れ戻しに行く方がましだと思えた。
「莫迦が暴れるようなら、あたしが殴ってやってもいいんだけどな。お前可愛いから、彼奴《あいつ》も言うこと聞くだろ」
「……」
「そんな顔すんなよ。あたしらで橋姫を探して、河津聖亞から引き摺り出して、ぶちのめしてやるからよ。そんで河津が生きてたら、一件落着ってもんよ」
「……うん。分かった」
 景が空子の頭にぽんと手を置き、蓬莱姉妹の方を見遣る。姉妹は揃って、こっくり頷いた。
「ケイちゃん。萵苣《れたす》。蕃茄《とまと》ちゃん。橋姫を——河津センパイを、お願いね」
「おう。任せろや」
「大丈夫! 私ら、強いからね!」
「心配しないで」
 萵苣がにこにこ顔で手を振った。その横で、蕃茄が相変わらずの面持《おももち》で頷く。
 空子は頭上に浮かぶ男たちを見上げ、声を張り上げる。
「阿ッさん、吽ちゃん!」
「はい」
「ここに」
「あたし、コトちゃんを追いかける。追いついて、なんであんなことしたのか、説明してもらう。もし、なんか乱暴な、酷いことしようと考えてるなら、絶対やめさせるよ。だからお願い、あたしと一緒に、根の国へ行って!」
「はい」
「畏《かしこ》まりました」
 空子は力強く頷き、再び三人の方へ向き直った。突き出した右手の親指を立てる。
「じゃ、コトちゃん連れてくるね。帰ったらみんなで、焼肉バイキング行こ!」
 にっこり笑うと、そのままくるりと踵《きびす》を返す。
「おう」
「お互い頑張ろうね、クウコちゃん!」
「龍泉寺さんを。よろしく」
 三人の声を受け、空子はダッシュで境内の奥へ向かう。続いて阿吽が三人に深々と頭を下げ、空子を追いかけた。



「夏海《なつみ》さん。どうして。天美《あまみ》さんを独りで行かせたの」
「橋姫《はしひめ》のことは、彼奴《あいつ》には荷が重いだろ。学校の先輩まで絡んでんだ。厭なクソ女だけど、あのちび・・はどういう訳か、助けたがってる」
「クウコちゃん、優しいんだね! 意地悪されたのに、泣いてまで助けてあげたいんだね!」
「単純に、人が死ぬってことが怖いんだろ。あたしだってそうだよ。彼奴《あいつ》もあたしも、まだガキだからな。しかもそれが、自分《てめえ》の手で助けられたかも知れん……ってんなら、どんな厭な相手が死ぬんだとしても、怖くてたまらんよ」
「……」
「ま、無下に死なすことは無《ね》えわな。あのクソ女にだって、親はいるんだ」
「夏海ちゃんも優しいね!」
「うるっせぇ」
「分かっているとは思うけれど。あれは私達三人で。何とかできる相手ではない」
「彼奴《あいつ》らが戻って来るのを待てってか。待って、戻って来りゃラッキーなんだがな。……それでも、あの鬼に勝てるかどうかは知らんが」
「……」
「ま、あのちび・・助と一緒にやるよりゃ、気は楽なんじゃねえ? ダメだった時、あたしらのせいにすりゃ済むんだからよ」
「その後は。どうするの。天美さんが一人で帰ってきても。龍泉寺さんと二人で帰ってきても。河津さんに傷をつけず。橋姫だけを倒すなんて」
「ま、無理だろうな」
「えーっ! 夏海ちゃん、その後まで考えてた訳じゃなかったの!」
「仕方無ぇんだよ。団体さんであっちへ行って、コトを探して、引っ張って帰る時間なんて無ぇだろ。こっちにいる橋姫をぶっ倒せなきゃあたしら、仲良く根之國《あのよ》行き、黄泉國《じごく》行きだ」



 空子は走った。暗くて怖いのを我慢して神社の杜へ分け入り、無言で稲荷の階段を駆け上がり、阿密哩多《アムリタ》の滝に飛び込み、黄泉比良坂を駆け上がって、道反《ちがえし》の岩戸の前へと辿り着いた。
「わー! 何これひどいっ」
 生者と死者の世界を隔てるべく、この場で永き時を過ごす最古の岩戸・道反《ちがえし》の大神《おおみかみ》おとろし・・・・は、見る影もなく破壊されていた。
 立ちすくむ空子の足元には注連縄《しめなわ》がちぎれて落ち、ばらばらにされた表面にはあの恐ろしい顔も見えず、ただの崩れた岩として散らばっていた。
 琴律が力任せに抉《こ》じ開け押し通ったのは明白であった。
「阿ッさん……これって、こんな簡単にぶっ壊されちゃうもんなの……」
「いえ」
「どんな怪力があろうが」
「おとろし様を殺め岩戸を砕くことなど」
「人の身には不可能でございます」
「おとろし様則ち岩戸とは謂わば“境界”を視覚的に示すものにすぎず」
「我々阿吽がこの場でおとろし様及び根之國に申請し許可を受けた者でなくては」
「生と死の垣根を乗り越えることなど不可能でございます」
「それなら、なんで……」
 阿吽は少し黙り、考える様子を見せた。
「あの刀でございましょうね」
「琴律様が創り取り出されたあの打刀《うちがたな》」
「あれが琴律様のエトピリカとしての力と共鳴し」
「琴律様の“念《おもい》”を」
「古き神の力をも斬り伏せてしまう破壊の力へと変換してしまったのでございましょう」
「そっか……じゃああの刀が悪いんだね? あの刀のせいで、コトちゃん、悪くなっちゃったんだね!」
 空子は落ちている注連縄を残った岩にかけ、合掌して拝んだ。
「コトちゃんが、すんませんっしたっ」
 そして、
「急ごうっ。案内してっ」
 阿吽の返事を待たず駆け出した。
 阿吽は顔を見合わせ、その背を追う。



「生者よりも死者に近き者でなければ」
「独りで道反《ちがえし》の岩戸をくぐることなど出来ぬ」
「龍泉寺琴律《りゅうせんじことり》」
「他《た》のために念《おもい》溢れ自ら生を棄《す》てようてか」
「うら若き乙女が生者の姿《なり》を棄て」
「死者として他を生かさんとする」
「人とは実《げ》に業深《ごうぶか》きものよ」
「哀れだがそれも亦《また》人の行いか」
「我等の手出し口出しは無用」
「為すべきはただ見守る事のみ」
「行く者には餞《はなむけ》を」
「残る者には幸《さち》を」
「願以此功徳《がんにしくどく》」
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