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第十三話「冒涜」
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「神影《みかげ》住宅街で爆発か 大きな音と光、目撃情報相次ぐ」
二十五日午前零時四十分すぎ、神影市の住宅街で大きな爆発音とともに明るい光を見たという目撃情報が相次いで通報された。県警は何らかの爆発とみて、事件と事故の両面から捜査中。神影市に本社を置くエムケイ都市ガス株式会社および各爆発物取扱事業所らは、いずれも異常はないと回答している。
『神影中央新報二千××年八月二十五日夕刊九面地域情報欄より抜粋』
*
「——姉さま。無闇に大きな火を出せばいいというものではないの。私達まで危ないでしょう」
「ごめん! つい!」
住宅街から少し離れた小さな神社の小さな本殿。その中で、正座した蓬莱萵苣《ほうらいれたす》が妹に叱られていた。
御神体としてであろう、社《やしろ》の奥には円《まる》い鏡が祀《まつ》られている。これに外からの光が反射して、本殿の中は仄《ほの》明るい。
「味方が敵の近くにいる時に。何も考えず攻撃をするなんて。考えられない」
「うん! 気を付けるよ!」
「まったく。姉さまは力加減というものを知らない。考えて行動してほしい」
萵苣が満身の力を込めて繰り出した巨大な火球が、敵ばかりか仲間の身をも焼いてしまおうとする、その刹那。蕃茄は姉の背を支えることをやめ、倒れた空子に駆け寄って、その口に拾った霊珠を押し込んだ。
その結果、空子の全身から放たれ拡がった閃光によって、聖亞——の姿をした橋姫——は吹き飛ばされ、何処《いずこ》へかと姿を眩ませた。
空子、琴律、景は、危ういところでなんとか一命を取り留めた。
背中の支えを失った萵苣は遥か後方へ転げ、しばらく目を回すことになった。
空子は失神したまま無理やり変身させられたからか、エトピリカの装束に身を包んではいても、その背に光の翼は見当たらず、また景と琴律の傷を治癒することはできていたが、意識付かせるまではできなかった様子であった。
爆音と閃光を見咎めた住民たちが駆けつけてくる寸前、萵苣は空子を、蕃茄は景と琴律を抱えて遁走し、這々《ほうほう》の体《てい》で手近な神社に身を隠したのであった。
「とにかく。醜女《シコメ》が神社に入ってくることは無いだろうから。このまま三人が目を覚ますのを待とうと思うの」
蕃茄は板の間に横たわらせた三人を見遣り、目を伏せた。
「——あ! そういえば、阿吽たちはどうしたんだろ!」
しゅんと項垂《うなだ》れていた萵苣が飛び上がるようにして背筋を伸ばすと、
「はい」
「ここに」
格子の窓から、阿吽の二人が飛来する。
「おっ、居たのか! ねえ! これからどうしよう!」
「左様でございますね」
「やはり蕃茄様の仰います通り」
「このまま三人様が気付かれるのを待ち」
「その上で橋姫奴の足取りを辿られるのが宜しいかと」
「彼女は。“器《うつわ》”に入り込んでいるようだけれど」
仰向けに寝かせた空子の額を撫でながら、蕃茄が阿吽に問う。
「——できるの。追うことが」
「器か! 私らが闘ったのって、本当の橋姫じゃないってことだよね!」
「はい」
「仰有るとおりでございます」
阿吽が揃って頷く。
「しかし」
「あの姿とて仮初《かりそめ》の肉体」
「中身が橋姫のままではございますが」
「あれだけの荒事を演じて“器《うつわ》”も傷だらけになっております故」
「探知追跡することは決して困難ではございません」
「それも我々阿吽の仕事でございます」
「えっ!」
萵苣が素っ頓狂な声をあげた。
「でも! あの女の子って、クウコちゃんたちのお友達なんでしょ! じゃあさっきのは、尸澱《シオル》が化けてるのかな!」
「姉さま。あれは化けているわけではないらしいの。本来なら尸澱は肉体を持てないから。生きた人から魂を追い出して。無理やり他者の肉体に入り込んでいる」
「蕃茄様の仰有るとおりでございます」
「それがいわゆる“醜女《シコメ》”というもの」
「あらぬ手段で仮の肉体を得た女の尸澱でございます」
「住居を失った者が。誰かの家から住人を追い出して。無理やり住まうようなもの」
「じゃあ! やっぱりあれは、クウコちゃん達の、本物のお友達なんだね!」
「——友達、じゃねえな」
横たわっていた景が、突然口を開いた。
「あ! 夏海《なつみ》ちゃん!」
「良かった。何ともなくて」
空子や琴律と較べれば軽傷であったためか、景はすぐに起き上がることができた。
「別に、あんなん友達ってわけじゃねえよ。知ってる奴ってだけだ」
「そうなの。どうして」
「知ってる子なんだよね! 仲良いわけじゃないのかな!」
「ちょっと喋ったことがあるだけで仲良しの友達になるんなら、その辺の店員とか、道を訊いてきたおっさんだってオトモダチだわぃ」
「……」
「……」
蕃茄ばかりか、萵苣までが黙って景の顔を見る。
外から、久方の雨の降り出す音が聞こえた。
三人は神社の格子戸を透かして、不透明な明るさの、鈍色《にびいろ》をした明け方の空を見上げた。雨音がさあっと広がり、小高い杜《もり》の境内を包む。
空子と琴律は、未だ目を覚まさない。
*
天美空子《あまみそらこ》は、真っ黒《くろ》な処にいた。
ひんやりとして、とにかく狭い。手足もろくに動かせなかった。
真ん前に、河津聖亞《かわつせいあ》がいた。顔や姿は見えないが、たしかにそうだと、空子には分かった。
(聖亞、先輩……)
空子が気づいて声を掛けると、聖亞は泣き声を出した。
助けて。
(えっ。今、なんて)
助けてよ。謝るからさ。
先日の聖亞と同一人物とは思い難い、控えめで萎《しお》らしい声音《こわね》であった。
(先輩……つらいの!?)
あんたに酷いこと言ったし、乱暴もした。それは謝るよ。だから、助けて。助けて。
(先輩、カラダ盗《と》られちゃったんだよね!? あのお化けのネエチャンに、カラダ盗られて、勝手に使われてるんでしょ!)
厭《や》だよう。こんなの、いやだ。あたしはいるのに、いるって分からないんだもん。誰にも。あたしにも。
(わ、分かった。助けるよ。あたし、エトピリカなんだ。お化け退治やってるんだよ。あいつをやっつけて、先輩を助けてあげる。そんで、また改めて謝ってよ。それで、赦してあげるからさ!)
助けて。お願いだよ。お願い。
(うんっ! 約束するよ!)
目の前から、聖亞が消えた。
代わりに、
「ほほ。憂《う》き世じゃ。憂き世じゃ」
「!」
聴き憶えのある——否、忘れようにも忘れられない声が聴こえた。
「汝《うぬ》は、目の前で弟の死ぬるのを見て、惨《むご》さというものを知った気になっておろう」
「橋姫《はしひめ》、だな!」
「汝等《うぬら》はこの穏やかなる浮世《うきよ》に生を受け、長じ、永らえるばかりの孑孒《ぼうふら》であろう。せめて、浮世こそが実《げ》に憂き世なりと知らぬうちに滅するが好いわ。此れも、或いは縁《えにし》であろう。妾の、せめてもの情《なさけ》じゃ」
黒々とした闇に、いくつかの青白い火が灯った。火は瞬く間に炎となり、空子を囲み、めらめらと燃えあがる。それなのに、闇は一向に晴れなかった。
空子は全く動かすことのできない目で、禍々しく燃える炎を睨みつける。
「お前なんか、怖くないっ。憎いだけだ! 聖亞先輩のカラダを返せ! 大ちゃんを——弟を返せ!」
「いや——恐れた方が好《よ》いぞ。ほほほほほほほ。ふひひひひひひゃ」
やがて狂った笑い声は途切れ、静寂が耳を浸《ひた》した。炎もいつの間にか消え失せ、空子の視界はただの黒《くろ》に戻っている。
「待てっ、お前なんか、やっつけてやる!」
*
龍泉寺琴律《りゅうせんじことり》は、真っ白《しろ》な処にいた。
暖かく、広く、全身をのびのびと動かせた。背に翼が生えて、飛び回れそうな心地がした。実際、眼下には雲が浮いていた。
「私は——死んだ?」
琴律の耳に、水のせせらぎが聴こえた。
足元の、遥か下の方に、川が流れている。
「あれがいわゆる、三途《さんず》の川になるものか……」
川の周りには、大小の石がごろごろと転がる河原がどこまでも広がっており、小さく人影らしきものも確認できた。
行ってみよう、と思った瞬間、琴律はすうっと下降し、川の畔に降り立っていた。
河原で蠢いていたのは、幾人もの小児《こども》であった。
ようやく歩けるようになった年頃の児《こ》から、琴律と然程《さほど》変わらない年頃の児まで、男女半々ずつの小児《こども》らがいた。彼らは皆裸で、何事かを呟きながら、河原に転がる石を手に取り、足元に積み上げている。
小児の声でも唸るかのように聴こえるそれは、和讃のような七五調の文句であった。
一ォつ積んでは母のため
二ァつ積んでは父のため
三ィッつ積んでは国のため
四ォッつ積んでは誰のため——
皆、念仏でも唱えるかのように、その抑揚に乏しい御詠歌を口ずさんでいる。
視線を遠くへ投ずるほど、河原は無限と思えるほどに広く続いており、そのどこまでもに小児《こども》の姿があった。
琴律は、このような様子を本で読んだことがあった。
「これはもしや——あの、賽《さい》の河原か。やはり、私は死んだものとみえる」
同時に、厭なことを思い出す。
「ここでは、石を積んでも——子らは決して」
ふと気が付けば、琴律のすぐ横に、覚えのある気配があった。
琴律の腰までほどの背丈。
ゆるく波がかった頭髪。
女の子に間違われることもある、優形《やさがた》の面立ち。
動き方。
匂い。
「だい——」
裸のその小児を抱きすくめ頬ずりしようと、琴律は両腕を広げる。が。
「——えっ!?」
小児はしゃがんだ琴律の背後にいた。
たった今、その腕に掻き抱《いだ》いたと思ったばかりなのに。
琴律は慌てて振り向き、小児の背中に縋りつこうとする。
しかし気付くと、かれは琴律から離れたところに立ち、虚空を見つめてぶつぶつと数《かぞ》え歌《うた》を唱えている。
「く……」
琴律は駆け寄ろうとするが、河原の石に足を獲られ、思うように歩くことができない。先程までは思った通りに身体が動かせていたというのに、一体どうしたことであろう。琴律は焦る。
とうとう足首までが石と石との間に沈んで嵌まり込み、琴律は一歩も歩くことができなくなってしまった。
小児《こども》は表情のない顔をしながらしゃがみ込み、小さな手に石を取り上げる。離れた位置から琴律が見守るなか、辺りから掻き集めるようにして、かれは石を積み上げてゆく。
塚《つか》を築いているのだ——と、琴律は本で読んだ話を思い出す。
かれらが口ずさむ歌詞のとおり、誰の為なのか分からない塚を、かれらは築き上げてゆく。
(自分自身の為に祈ることは許されないのか——)
琴律は目頭が熱くなるのを堪え、唇を噛み締める。
下から数えて何個めになるであろうか、積み上がった石の塔がかれの頭の高さを超えようとした、その時。
目の前の川の水面から、ぷかりと人の頭が浮かんだ。
「えっ」
琴律ははじめ、それが人とは分からなかった。顔のあるはずの肉色《にくいろ》の部分には目鼻口が一切無く、代わりに「一」という漢数字が黒く刻まれており、そのうえ毛髪が白かったからであった。
岸に上がってきたのは、真っ白な髪を垂らした、襦袢一枚の女であった。粗末な襦袢が濡れて裸身に貼り付き、痩せた体躯を浮き上がらせている。その様はエロティックさなどよりもむしろ、惨めさを感じさせた。
琴律がじっと見つめても、女の顔は凹凸の無いのっぺら坊《・》で、長い髪と薄い体つきから、女であろうということしか推定できない。その髪はまっすぐ豊かだが、その白さゆえに老いているのか若いのかすら、琴律には判別がつかなかった。
「あっ、あの——」
顔に横一文字を彫り付けられた女は、震え声の呼びかけにも反応すること無く琴律の前を通過し、目の前の小児に向かって歩み寄る。
そして次の瞬間、女は、積み上げられた石の塚を手で押した。
積まれた石がぐらりと揺れ、崩れて落ちた。
石は狙ったように小児の小さな身体に激しくぶつかり、裸の皮膚を破り血を噴き出させる。
かれの喉から、金切り声が上がった。
それはあまりにも悲痛な叫びで、琴律の耳を劈《つんざ》いた。それまでのかれが茫《ぼう》とした虚ろな面持《おももち》で、言葉など発する気配がなかった分、琴律はその叫びを聞いて、なにやら恐ろしいような気持さえした。
赤い血に混じって涙やら鼻汁やら唾やらが飛び散り、可愛らしい顔が見る影もなく汚れる。
「一」の女はその様子をしゃがみ込んで見ていたが、やがて少年の泣き声が細くなり、喉から絞り出すように弱々しくなってくると、すっと立ち上がった。
「あなたッ——」
動けない琴律が声を上げても女はやはり反応せず、川の水の中へ身を沈めて行った。
琴律は肺から息を吐き出した。脚が震え、河原の石の上にへたり込む。
少年はよろよろと起き上がり、再び石を手にとって積み始めた。
「やめて」
琴律は矢も盾もたまらず、足首を捕らわれていることも忘れてまたも駆け寄ろうとし、その場にばたりと倒れ伏す。河原の石は硬く鋭く、琴律の膝小僧に切り傷を作った。
「もうやめてっ……」
声をあげたつもりであったが、喉がひりつき、かすれた音が出ただけであった。
小学生になったばかりの幼い手によって石が積み上げられると、ある程度の高さになったところでやはり江浦草髪《つくもがみ》の女が現れた。
今度の女の顔には、片仮名の「ナ」のような文字が刻まれていた。顔の無い女は先と同じく石の塔を崩し、石は幼い少年の顔やら腹やらを打つ。少年の腕も腿も皮が破れ、赤い肉がはみ出した。
次に現れた女は「大」の文字、その次の女は「犬」の文字を顔に刻まれていた。それでとうとう文字が完成に至ったらしく、それからは、その四画の黥《げい》を顔に彫り込まれた女たちが、入れ替わり立ち替わり現れて、少年の積んだ石の塚を崩した。
そのたび火がついたように泣くかれを、琴律はとても直視していることなどできなかった。せめて、川から現れる女をどうにか止めたいとも思ったが、河原の石は不思議なほど琴律の足首と脛《すね》に喰い込み、虎挟みにかかったも同然であった。
晴れた青空のもと、広々とした白い河原に、小児《こども》の泣き声が響き渡る。そしてそれは、琴律の傍だけではなく、河原じゅうにいる全ての小児の声でもあった。
琴律のすぐ後ろに、今度は別の人影があった。
琴律はしばらくその人影を、例によって川から現れる女かと思い、顔を背けて耳を塞いでいた。が、今度はそれがどうやら本当の老女であるらしき雰囲気が感じ取れた。
それを場違いに思った琴律は、その人影の方へ恐る恐る目を向ける。そしてそれが、琴律自身が見知った人物であると気付いた。
それは、昨年の春、二人の孫が小中学校に入学するのを待っていたかのように他界した、天美《あまみ》姉弟の祖母であった。
彼女は死装束を纏い、身を動かすことなく、ただ立っていた。——否、立たされていた。
彼女が裸足で立つ石の足場には、足を置くぎりぎりの部分だけを残して、鋭利な剃刀のごとき刃《やいば》が上を向いて生えており、歩くどころか膝を屈することすら赦されていなかった。
裸の孫が石を積まさせられ、自らの手で積んだ石に打たれて血を流す様。それをただ立たされて、彼女は見せられていた。
顔に文字を彫り込まれた女たちが川の中から何人も現れ、少年を取り囲む。そのうち一人が、かれの頭を平手で叩いた。すると女たちは次々と手を出し、少年を小突き回し始めた。かれはしゃくり上げながらも、足元の石になおも手を伸ばし、石を積もうとする。
祖母は堪らず顔を背けたが、女の一人に頭をつかまれ、ぐいと孫の方へと向き直させられた。
——うちの子に、こんな小さな子に、かわいそうなことをさせないで。私が代わります。打つのなら、私を打って——。
身動《みじろ》ぎすらできない状態の彼女は、涙と鼻汁を流しながら、声をあげて泣いていた。
十四年ほどしか人生経験の無い琴律にとって、老女の咽び泣く声、洟《はな》を啜る音というものが、これほどまで聞くに堪えぬものとは、知る由もなかった。
これは、誰の犯した罪なのか。何を償う為の罰なのか——。
琴律の目からも流れる涙が、ただ河原の石に落ちて、乾いてゆく。
やがて祖母は、半狂乱の叫び声とともに、足場の周りにびっしりと突き立った刃の上へ踏み出した。
当然の如く刃は刺さり、足の裏が切れ、ずくずくと血が流れる。
祖母は孫の名を叫びながら、刃の中に身を躍らせる。紙のように薄い刃と髪のように細い針とが伸び、老女の細い身を苛《さいな》む。白い装束が、真っ赤に染まる。
何の罪なのか。何の為の罰なのか。
琴律は耐え切れず、喉から振り絞るようにして泣き声をあげた。
「やめてやめてやめて! もうやめて! こんな事——」
そのとき琴律は、青空のもとに広がる白い河原で、足元からゆらりと立ち昇る黒い陽炎《かげろう》に包まれた。
それは、まるで火群《ほむら》のように、哭《おら》ぶ琴律を包み込んで、燃えた。
*
「待てえっ!」
空子《そらこ》は板の間の上で跳ね起きた。
景《けい》と、蓬莱《ほうらい》姉妹が顔を覗き込んでいた。
「やっと起きたか」
「おはよう! クウコちゃん!」
「おはよう。天美《あまみ》さん」
「あ。お。おはよう」
寝汗でびっしょりの空子は、大きく息を吐《つ》いて、周りを眺めた。
しとしとと降る雨のせいでまだ薄暗い、小さな神社の本殿の中。
「夢かぁ。ま、夢だよなぁ」
エトピリカの装束のまま、腹に手を突っ込んでぼりぼりと掻く。
「なんだ。怖い夢でも見たんか」
「ん。まあ、そんなとこかにょ」
やれやれと言いたげな顔で、景が空子の金色めいたハニーブラウンの髪を撫でる。
「——夢というのは。案外莫迦にできないもの」
空子の傍らにしゃがみ込みながら、蕃茄《とまと》が独り言のように呟いた。
「自分の中に無いものは。夢にも見られないから」
「どういう意味?」
空子がきょとんとして訊ねる。景も黙って、蕃茄の顔を見ながら返事を待つ。
「人の記憶というのは。脳の中でばらばらに散らばっているの。現実に見たことでなくても。自分で考えたこと——つまり想像も。記憶として脳に残る」
「……なんの話だ?」
突然、普段考えたこともない内容の話が始まり、景は面食らう。蕃茄はそんな景を意に介す風もなく、言葉を拾い集め組み立てるようにして紡ぎ続ける。
「コンピュータに喩えるなら。それは脳のデフラグ。人が眠っている間に。脳が記憶を整理する。眠りの浅いときには。まとまる前のそれらが。ぼんやりと見えることがある。それが夢」
蕃茄は喋り慣れない様子で、ぽつりぽつりと発言する。
「つまり。夢の中で見たり知ったりしたように思えるものは。実はもともと自分の中にあったもの」
空子は腕組みをして、ふぅん、と鼻を鳴らす。
「そっかあ。たしかに、そう言われたらそうかもね」
「そう。厭《いや》なもの穢《きたな》いもの赦《ゆる》せないもの。すべて私たち自身の中にあるからこそ。眠っている間に頭の中で見ることができる。だから。夢を憎むというのは筋違いなの」
「でもよ」
景が口を挟んだ。
「寝てる間に、なんか外から聞いたりとかして、夢に見るってこともあるんじゃねえ?」
蕃茄は静かに頷き、景の目を覗き込む。
景は蕃茄のこの仕草が少し苦手であった。嫌いというわけではないが、歳の近い同性、しかも琴律などとはタイプの違う美少女に、され慣れていないことをされると、なんだか気恥ずかしくなり、どうも調子が狂ってしまう。景は意識して、蕃茄の黒い瞳から目を逸らした。
「寝ているときに。全く知らない言葉や事柄を囁かれても。自分の中で処理できないの。だから。もしそれを夢に見たのだとしたら。それはどこかで知って。忘れているだけ」
「そんなものかぁ……そういうものかぁ、怖い夢って」
空子は伸びをしながら呟いた。
「——それでさ! これからなんだけど!」
小難しげな話のときは意図的に黙っているとしか思えない萵苣《れたす》が、ぱんと膝を叩いて立ち上がった。
「阿吽たち、橋姫《はしひめ》を追えるって言ってるよ!」
「えっうそっ、まじで!?」
空子は大声とともに跳ね上がった。
「だったら、すぐに——」
「——おはようございます」
空子から少し離れたところ、鏡の傍《かたわら》に、琴律《ことり》が立っていた。
「あ。コトちゃん、おはよう」
社中に琴律がいたことに気付かなかった空子は、わずかに驚いて挨拶を返した。
琴律は、本殿の格子戸から外を眺めたまま、顔を向けずに口を開く。
「私も、夢を見ました」
「そうなんだ……」
琴律の輪郭が、ゆらりと揺れたように見えた。
「エトピリカの不思議な力が作用して、本当の景色を見たものか。それともただの夢なのか。それは分かりません。しかし、あのようなことが仮にも行われているとしたら——私は今すぐに駆け出し、あの子を救いに行きたい」
「あの子だ? コトお前、なんの話をしてる?」
「それって、大ちゃん!?」
「河津聖亞《かわつせいあ》——じゃねえわな。さすがに」
「……」
琴律は唇を噛み締め、装束の袂に手を差し入れて、触れ合ってしゃらしゃらと音を立てる玉を取り出した。尸澱《シオル》を退治した後に遺《のこ》る、勾玉《まがたま》であった。
「志半ばにして死んだ者、大切な誰かを遺して死んだ者など、決して珍しくはないでしょう。それらが皆、あの橋姫《はしひめ》のように、生き返りたいと願って狂うのか……。仮にそうだとして、私たちは、それら全てを潰して回らねばならないのか……」
「コトちゃん……?」
「琴律様」
阿吽《あうん》が琴律の肩先に飛来した。
「そのお考えは大変危険でございます」
「エトピリカはここにおられる皆様だけではございません」
「決して琴律様やお仲間だけが負担を強いられるわけでは」
「……阿吽さん。私達、何をしてるんでしょうね」
「龍泉寺《りゅうせんじ》さん」
蕃茄が歩み寄り、ほとんど表情を映さぬ顔で、琴律の手を取る。
「阿吽さん。親を残して死ぬことは、親不孝なのでしょうか。——それが自殺ならば、よく分かります。それは説明してくださいましたよね。生命を全《まっと》うすることもなく己《おの》が手で絶とうなどと考えるのは、莫迦《ばか》者です。親不孝の最《さい》たるものであり、最悪の殺人者ですらあるでしょう。……然れど! それが他者の凶手に因るものだとすれば!」
「コトちゃん。何を見てきたん? どんな夢を見たん?」
空子も顔を向けてさえくれぬ琴律の腰にしがみ付く格好で、問う。
「——私が夢に見たあれは、本当の景色なのでしょう。根拠はありません。しかし、私の中に蠢《うごめ》く“女”が——“母”が、私の内《うち》を引っ掻くのです。あれを確信せよ、と」
すん——と洟《はな》を啜る音が聞こえたかと思うと、琴律の目頭を伝い、涕涙《なみだ》が玉となって落ちた。顎が小刻みに震え、ははははッ……と断続的に息が漏れる。
「えっ」
空子は思わず、琴律から一歩離れた。
蕃茄が動かぬまま、眉をわずかに顰《ひそ》めて、琴律の顔を見る。
「龍泉寺さん」
「コトリちゃん!」
「コト、お前……泣いてんのか!?」
仲間たちの顔に一瞥をくれることもなく、琴律は俯いて唇を噛む。
再び、ぼろりと涙の玉が落ちて、琴律の掌に乗せられていた勾玉にぶつかり、濡らした。
濡れた瑪瑙玉《めのうだま》は琴律の震える手から落ち、足元の床とぶつかって音を立てる。
「あの小児《こども》達を救いたい。大ちゃんを。そしてこれから生まれて儚くも死んでしまう、子供達を。私達は。私は」
琴律の髪の周りの空気が、目に見えて揺らめいた。揺らぎは雨の匂いとともに立ちのぼり、陽炎《かげろう》のごとく琴律を包む。
見ている誰もが、錯覚だと思っていた。
「私が。がまあ」
変な声を出したかと思うと、琴律は首だけでかくんと上を向き、喉を中天に、両目を空子に向けた。ひどく充血した、真っ赤な眼球。
琴律が足元に落ちた勾玉を靴の踵で踏みつけ、力を込める。ぴきり、と音がした。
琴律の踵の下から、水中に漂う墨液がごとく、真っ黒な色をした焰《ほのお》が立ちのぼる。黒い焰が、脚絆《きゃはん》を着けた脚に纏わり付く。
やがて、黒い焰が長い髪の先まですっかり琴律を包んでしまったとき。琴律は初めて仲間たちのいる方へ身体を向けた。
顔貌《かおかたち》は何も変わらないが、その目つきと佇まいは、空子たちの知っている琴律のものとはとても思えなかった。顔を向けてはいるが、その双眸は何も映してはいなかった。
板張りの床を踏み締めるように、一歩、一歩と足を進めた琴律は、社《やしろ》の中心——御神体の鏡の前に立った。
「コト、ちゃん……?」
空子の震える声で名を呼ばれた瞬間、琴律は片脚を持ち上げ、鏡の周囲に張られた細い注連縄《しめなわ》に足をかけた。そしてそのまま、力を入れて踏み下ろし、縄と紙垂《しで》とを千切ってしまった。
「コトちゃんっ」
「琴律様」
「いけません」
空子の叫びとともに阿吽が駆けつけた時には既に遅く、切れた注連縄が社殿の板の間に落ちた。
琴律は再度片足を持ち上げ、祀《まつ》られた鏡の枠に突いて、エトピリカの装束の裾を持ち上げる。
格子戸から射し込む朝の外光を受け、鏡が煌《きら》めく。社殿の中に、長身の少女の白い腿と淡色の下着が浮かび上がる。
「おまっ……何してんだよっ」
罰当たりな振る舞いを見咎め、景が琴律に歩み寄ろうとする——が、琴律の表情の異様さに臆し、その足は動かない。
琴律の大きく見開かれた両瞼《りょうけん》からは紅に染まった白目が覗き、滲み出て溜まった涙が今にも零れそうである。しかし、薄紅色の唇は捻じ曲がり、宛《さなが》ら道化師のごとき泣き笑いが模《かたど》られている。
どこかで見たような赤い目だ——と景は思い、背中から首筋へ這い登ってきた悪寒に震える。
琴律は、開いた脚の間へ自らの指を持ってゆくと、空色のショーツを横へ引っ張って寄せた。本来覆われているべきところが外気に晒され、景の立っている位置から、黒い縮毛《ちぢれげ》が目に入る。
「冗談やってんのか!?」
景は、友人の淫猥な姿に眉を顰《ひそ》めた。同い年ながらも目指すべき女性の姿として私《ひそ》かに憧れていた琴律が、浅ましい姿を晒している。それは景にとって、黙って見過ごせるものではなかった。それゆえ、その気持を怒りのオブラートに包んで、景は声を放つしかない。
剥き出しにした局部へ自らの指を持ってゆき、泣き笑いの顔で、琴律は何やらまさぐるような仕草をする。
足元の板の間に、たたた——と汁気が落ちた。
「琴律様」
「どうかしばらく」
阿形、吽形も頭上から飛び寄ろうとするが、琴律の全身を薄っすらと包む黒い焰に炙られ、あわや焼け落とされる寸前で身を躱す。
「ちょっとコトリちゃん! どうしちゃったの!」
萵苣も駆け寄ろうとしたが、やはり半透明の黒焰に阻まれ、うぐ、と息を飲んで立ち竦む。
空子は琴律の様子に言い知れぬ精神緊張《ストレス》を覚え、その異常さに脂汗《あぶらあせ》を滲ませた。喉がひくついて音を立てる。これは、——誰だ?
琴律の全身は常軌を逸した発汗でじっとりと湿り、頬は紅潮していた。口から吐き出す荒い呼気は熱を帯びて、夏の朝の社殿に琴律の匂いを充満させた。床に突いた片足が小刻みに震えている。
琴律が嬌声をあげた。
局部に潜り込ませた指が、何か硬いものを掴み取っていた。
そのままぐいぐいと、汁気に覆われた物体が琴律の指で引っ張り出される。
どこを睨むともなく、真っ赤な両目から涙を流して笑う琴律。その姿は、恰《あたか》も怪なる産《さん》——尋常ならざる分娩であった。
やがて琴律は仲間が見守る中、人体に決して納まっているはずのないサイズと形状の、いくらか反りのある長物《ながもの》を、自らの内《なか》から抜き出した。
あえかなる十四歳の少女が産み落としたそれは、ひと振りの打刀《うちがたな》であった。
琴律は肩で息をしながら、汁気を拭うこともなく下着を戻した。鏡の枠から脚を下ろして、自らの胎内《なか》から引き摺り出した刀を捧げ持つ。
ご丁寧に鞘まで付いた刀を両手で押し戴き、目の前に持ってきて、す——と三寸ほど抜く。琴律は透き通るような白刃に目を落とし、一呼吸おいて、ぱちんと納刀した。
「——コ、コトちゃん……大丈夫!?」
「なんだこれ、なんなんだ!?」
硬直していた空子と景が、やっとの事で声を出し、琴律に向かって歩み寄ろうとする。
琴律は友人らの顔に一瞥をくれると、鞘に収めたままの刀を片手で持って振るい、その場でくるりと横回転《スピン》した。
「うわ」
予想していなかった琴律の行動に驚き、空子は尻餅を搗いてしまう。
「おい、何すんだよッ」
鼻先すれすれを掠めた鞘の鐺《こじり》を既《すんで》のところで躱《かわ》した景は、手を伸ばして琴律に掴みかかろうとする。
「お前まさか——なんぞ勝手に莫迦《ばか》なこと、やらかそうとしてねえよなァ!?」
その喉元に、すらりと鞘から抜かれた氷のごとき刃が突き付けられた。
「——!?」
琴律の全身を覆っていた半透明の陽炎のような黒い焔が、持っている刀に移り、すっと消えた。焔を内に閉じ込めたかのごとく、刀身が艶のない暗灰色《ガンメタルグレイ》に染まる。
「コトリちゃん!」
「龍泉寺さん」
蓬莱姉妹も、それ以上の声が出せない様子で、身を 固くしている。
「——夏海《なつみ》さん」
地の底から響くような、しかし美しい声音で、琴律が友人の名を口にする。
「な……なんだよっ」
怯えていることを気取《けど》られぬよう、景は気を張り、尋常ならざる様子の友人の目を見据える。喉がからからに乾いていた。
「これより私は彼方《あのかた》へ征《ゆ》き、地獄の鬼——私自身の心に巣食った鬼を斬ります。もしも邪魔立てするようなら——貴女《あなた》とて、火之迦具土《ひのかぐつち》の錆《さび》にしてくれましょう」
「てっ、めぇ……何考えてんだ? 何するつもりだ……!?」
琴律の赤い目に視線を縫い付けられたまま、景は掠れた声を出す。
「ちょっとコトリちゃん! さっきから何やってんの!」
ようやく一歩踏み出した萵苣が、人差し指に炎を点《とも》し、琴律に向かって拳銃のように突きつける。
「夏海《なつみ》ちゃんから、その刀を下ろして!」
琴律は充血した目だけを動かし、萵苣を見た。そして萵苣の脚がわずかに震えていることを確認し、そのまま視線を景の顔に戻す。
「えぇい! ごめん!」
萵苣が目をぎゅっと瞑り、指先から炎を射出した。
琴律は景の顔から視線を外さぬまま、片手で刀を振るい、拳大の火球を斬る。
赤茄子《トマト》のごとく真っ二つに割られた火球は、琴律の背後の格子戸にぶち当たり、ぼんと燃え上がった。
「姉さま。あれほど言ったのに。また無茶をする」
蕃茄《とまと》が背後から姉を羽交い締めにし、琴律から遠ざけるように後ずさった。
「この莫迦《ばか》が!」
自分から刀が外された隙を突き、拳を構えて景は琴律に躍りかかった。
琴律は最小動作で片足を繰り出し、鋭く適確に、踵《かかと》を景の腹へと突き立てる。げえ、と呻いて、景は社《やしろ》の板の間に転がった。
「ぐおおお」
痛みに身を捩《よじ》る景を見て、空子は涙を浮かべて取り乱す。
「なんで!? コトちゃん、なんでこんな乱暴すんの!? カラダ大丈夫なの!?」
琴律は深く踏み込み、身を低くして、握った刀の柄頭《つかがしら》で小さな空子の肩先を突いた。
「痛《い》ったあ!」
空子がひっくり返るのを見届ける間も無く、そのまま流れるように左手の鞘を振るって、蓬莱姉妹を順に殴る。
仲間四人を叩きのめした琴律は、燃える格子戸を蹴倒して、社殿の外へ躍り出た。
「ああ! コトリちゃん!」
板の間に伏したまま身を起こせぬ萵苣は、再び炎を投げつけようとしたが、妹に止められた。
琴律は左手の鞘に刀を納めると、形の良い顎を仰け反らせ、異常な姿勢で空子の方を向いた。悪天候の朝の薄暗い空気の中に、赤く血走った目がはっきりと見えた。空子は思わず息を呑む。長い黒髪が雨に濡れ、琴律の整った顔にへばりついていた。
琴律はそのまま、煙が風に吹かれるように、何処《いずこ》へかと姿を消した。
「手前《てめ》ェ……意味わっかんねえよ……!」
景は腹を押さえたまま、不敬にも、社殿の板の間に唾を吐いた。
二十五日午前零時四十分すぎ、神影市の住宅街で大きな爆発音とともに明るい光を見たという目撃情報が相次いで通報された。県警は何らかの爆発とみて、事件と事故の両面から捜査中。神影市に本社を置くエムケイ都市ガス株式会社および各爆発物取扱事業所らは、いずれも異常はないと回答している。
『神影中央新報二千××年八月二十五日夕刊九面地域情報欄より抜粋』
*
「——姉さま。無闇に大きな火を出せばいいというものではないの。私達まで危ないでしょう」
「ごめん! つい!」
住宅街から少し離れた小さな神社の小さな本殿。その中で、正座した蓬莱萵苣《ほうらいれたす》が妹に叱られていた。
御神体としてであろう、社《やしろ》の奥には円《まる》い鏡が祀《まつ》られている。これに外からの光が反射して、本殿の中は仄《ほの》明るい。
「味方が敵の近くにいる時に。何も考えず攻撃をするなんて。考えられない」
「うん! 気を付けるよ!」
「まったく。姉さまは力加減というものを知らない。考えて行動してほしい」
萵苣が満身の力を込めて繰り出した巨大な火球が、敵ばかりか仲間の身をも焼いてしまおうとする、その刹那。蕃茄は姉の背を支えることをやめ、倒れた空子に駆け寄って、その口に拾った霊珠を押し込んだ。
その結果、空子の全身から放たれ拡がった閃光によって、聖亞——の姿をした橋姫——は吹き飛ばされ、何処《いずこ》へかと姿を眩ませた。
空子、琴律、景は、危ういところでなんとか一命を取り留めた。
背中の支えを失った萵苣は遥か後方へ転げ、しばらく目を回すことになった。
空子は失神したまま無理やり変身させられたからか、エトピリカの装束に身を包んではいても、その背に光の翼は見当たらず、また景と琴律の傷を治癒することはできていたが、意識付かせるまではできなかった様子であった。
爆音と閃光を見咎めた住民たちが駆けつけてくる寸前、萵苣は空子を、蕃茄は景と琴律を抱えて遁走し、這々《ほうほう》の体《てい》で手近な神社に身を隠したのであった。
「とにかく。醜女《シコメ》が神社に入ってくることは無いだろうから。このまま三人が目を覚ますのを待とうと思うの」
蕃茄は板の間に横たわらせた三人を見遣り、目を伏せた。
「——あ! そういえば、阿吽たちはどうしたんだろ!」
しゅんと項垂《うなだ》れていた萵苣が飛び上がるようにして背筋を伸ばすと、
「はい」
「ここに」
格子の窓から、阿吽の二人が飛来する。
「おっ、居たのか! ねえ! これからどうしよう!」
「左様でございますね」
「やはり蕃茄様の仰います通り」
「このまま三人様が気付かれるのを待ち」
「その上で橋姫奴の足取りを辿られるのが宜しいかと」
「彼女は。“器《うつわ》”に入り込んでいるようだけれど」
仰向けに寝かせた空子の額を撫でながら、蕃茄が阿吽に問う。
「——できるの。追うことが」
「器か! 私らが闘ったのって、本当の橋姫じゃないってことだよね!」
「はい」
「仰有るとおりでございます」
阿吽が揃って頷く。
「しかし」
「あの姿とて仮初《かりそめ》の肉体」
「中身が橋姫のままではございますが」
「あれだけの荒事を演じて“器《うつわ》”も傷だらけになっております故」
「探知追跡することは決して困難ではございません」
「それも我々阿吽の仕事でございます」
「えっ!」
萵苣が素っ頓狂な声をあげた。
「でも! あの女の子って、クウコちゃんたちのお友達なんでしょ! じゃあさっきのは、尸澱《シオル》が化けてるのかな!」
「姉さま。あれは化けているわけではないらしいの。本来なら尸澱は肉体を持てないから。生きた人から魂を追い出して。無理やり他者の肉体に入り込んでいる」
「蕃茄様の仰有るとおりでございます」
「それがいわゆる“醜女《シコメ》”というもの」
「あらぬ手段で仮の肉体を得た女の尸澱でございます」
「住居を失った者が。誰かの家から住人を追い出して。無理やり住まうようなもの」
「じゃあ! やっぱりあれは、クウコちゃん達の、本物のお友達なんだね!」
「——友達、じゃねえな」
横たわっていた景が、突然口を開いた。
「あ! 夏海《なつみ》ちゃん!」
「良かった。何ともなくて」
空子や琴律と較べれば軽傷であったためか、景はすぐに起き上がることができた。
「別に、あんなん友達ってわけじゃねえよ。知ってる奴ってだけだ」
「そうなの。どうして」
「知ってる子なんだよね! 仲良いわけじゃないのかな!」
「ちょっと喋ったことがあるだけで仲良しの友達になるんなら、その辺の店員とか、道を訊いてきたおっさんだってオトモダチだわぃ」
「……」
「……」
蕃茄ばかりか、萵苣までが黙って景の顔を見る。
外から、久方の雨の降り出す音が聞こえた。
三人は神社の格子戸を透かして、不透明な明るさの、鈍色《にびいろ》をした明け方の空を見上げた。雨音がさあっと広がり、小高い杜《もり》の境内を包む。
空子と琴律は、未だ目を覚まさない。
*
天美空子《あまみそらこ》は、真っ黒《くろ》な処にいた。
ひんやりとして、とにかく狭い。手足もろくに動かせなかった。
真ん前に、河津聖亞《かわつせいあ》がいた。顔や姿は見えないが、たしかにそうだと、空子には分かった。
(聖亞、先輩……)
空子が気づいて声を掛けると、聖亞は泣き声を出した。
助けて。
(えっ。今、なんて)
助けてよ。謝るからさ。
先日の聖亞と同一人物とは思い難い、控えめで萎《しお》らしい声音《こわね》であった。
(先輩……つらいの!?)
あんたに酷いこと言ったし、乱暴もした。それは謝るよ。だから、助けて。助けて。
(先輩、カラダ盗《と》られちゃったんだよね!? あのお化けのネエチャンに、カラダ盗られて、勝手に使われてるんでしょ!)
厭《や》だよう。こんなの、いやだ。あたしはいるのに、いるって分からないんだもん。誰にも。あたしにも。
(わ、分かった。助けるよ。あたし、エトピリカなんだ。お化け退治やってるんだよ。あいつをやっつけて、先輩を助けてあげる。そんで、また改めて謝ってよ。それで、赦してあげるからさ!)
助けて。お願いだよ。お願い。
(うんっ! 約束するよ!)
目の前から、聖亞が消えた。
代わりに、
「ほほ。憂《う》き世じゃ。憂き世じゃ」
「!」
聴き憶えのある——否、忘れようにも忘れられない声が聴こえた。
「汝《うぬ》は、目の前で弟の死ぬるのを見て、惨《むご》さというものを知った気になっておろう」
「橋姫《はしひめ》、だな!」
「汝等《うぬら》はこの穏やかなる浮世《うきよ》に生を受け、長じ、永らえるばかりの孑孒《ぼうふら》であろう。せめて、浮世こそが実《げ》に憂き世なりと知らぬうちに滅するが好いわ。此れも、或いは縁《えにし》であろう。妾の、せめてもの情《なさけ》じゃ」
黒々とした闇に、いくつかの青白い火が灯った。火は瞬く間に炎となり、空子を囲み、めらめらと燃えあがる。それなのに、闇は一向に晴れなかった。
空子は全く動かすことのできない目で、禍々しく燃える炎を睨みつける。
「お前なんか、怖くないっ。憎いだけだ! 聖亞先輩のカラダを返せ! 大ちゃんを——弟を返せ!」
「いや——恐れた方が好《よ》いぞ。ほほほほほほほ。ふひひひひひひゃ」
やがて狂った笑い声は途切れ、静寂が耳を浸《ひた》した。炎もいつの間にか消え失せ、空子の視界はただの黒《くろ》に戻っている。
「待てっ、お前なんか、やっつけてやる!」
*
龍泉寺琴律《りゅうせんじことり》は、真っ白《しろ》な処にいた。
暖かく、広く、全身をのびのびと動かせた。背に翼が生えて、飛び回れそうな心地がした。実際、眼下には雲が浮いていた。
「私は——死んだ?」
琴律の耳に、水のせせらぎが聴こえた。
足元の、遥か下の方に、川が流れている。
「あれがいわゆる、三途《さんず》の川になるものか……」
川の周りには、大小の石がごろごろと転がる河原がどこまでも広がっており、小さく人影らしきものも確認できた。
行ってみよう、と思った瞬間、琴律はすうっと下降し、川の畔に降り立っていた。
河原で蠢いていたのは、幾人もの小児《こども》であった。
ようやく歩けるようになった年頃の児《こ》から、琴律と然程《さほど》変わらない年頃の児まで、男女半々ずつの小児《こども》らがいた。彼らは皆裸で、何事かを呟きながら、河原に転がる石を手に取り、足元に積み上げている。
小児の声でも唸るかのように聴こえるそれは、和讃のような七五調の文句であった。
一ォつ積んでは母のため
二ァつ積んでは父のため
三ィッつ積んでは国のため
四ォッつ積んでは誰のため——
皆、念仏でも唱えるかのように、その抑揚に乏しい御詠歌を口ずさんでいる。
視線を遠くへ投ずるほど、河原は無限と思えるほどに広く続いており、そのどこまでもに小児《こども》の姿があった。
琴律は、このような様子を本で読んだことがあった。
「これはもしや——あの、賽《さい》の河原か。やはり、私は死んだものとみえる」
同時に、厭なことを思い出す。
「ここでは、石を積んでも——子らは決して」
ふと気が付けば、琴律のすぐ横に、覚えのある気配があった。
琴律の腰までほどの背丈。
ゆるく波がかった頭髪。
女の子に間違われることもある、優形《やさがた》の面立ち。
動き方。
匂い。
「だい——」
裸のその小児を抱きすくめ頬ずりしようと、琴律は両腕を広げる。が。
「——えっ!?」
小児はしゃがんだ琴律の背後にいた。
たった今、その腕に掻き抱《いだ》いたと思ったばかりなのに。
琴律は慌てて振り向き、小児の背中に縋りつこうとする。
しかし気付くと、かれは琴律から離れたところに立ち、虚空を見つめてぶつぶつと数《かぞ》え歌《うた》を唱えている。
「く……」
琴律は駆け寄ろうとするが、河原の石に足を獲られ、思うように歩くことができない。先程までは思った通りに身体が動かせていたというのに、一体どうしたことであろう。琴律は焦る。
とうとう足首までが石と石との間に沈んで嵌まり込み、琴律は一歩も歩くことができなくなってしまった。
小児《こども》は表情のない顔をしながらしゃがみ込み、小さな手に石を取り上げる。離れた位置から琴律が見守るなか、辺りから掻き集めるようにして、かれは石を積み上げてゆく。
塚《つか》を築いているのだ——と、琴律は本で読んだ話を思い出す。
かれらが口ずさむ歌詞のとおり、誰の為なのか分からない塚を、かれらは築き上げてゆく。
(自分自身の為に祈ることは許されないのか——)
琴律は目頭が熱くなるのを堪え、唇を噛み締める。
下から数えて何個めになるであろうか、積み上がった石の塔がかれの頭の高さを超えようとした、その時。
目の前の川の水面から、ぷかりと人の頭が浮かんだ。
「えっ」
琴律ははじめ、それが人とは分からなかった。顔のあるはずの肉色《にくいろ》の部分には目鼻口が一切無く、代わりに「一」という漢数字が黒く刻まれており、そのうえ毛髪が白かったからであった。
岸に上がってきたのは、真っ白な髪を垂らした、襦袢一枚の女であった。粗末な襦袢が濡れて裸身に貼り付き、痩せた体躯を浮き上がらせている。その様はエロティックさなどよりもむしろ、惨めさを感じさせた。
琴律がじっと見つめても、女の顔は凹凸の無いのっぺら坊《・》で、長い髪と薄い体つきから、女であろうということしか推定できない。その髪はまっすぐ豊かだが、その白さゆえに老いているのか若いのかすら、琴律には判別がつかなかった。
「あっ、あの——」
顔に横一文字を彫り付けられた女は、震え声の呼びかけにも反応すること無く琴律の前を通過し、目の前の小児に向かって歩み寄る。
そして次の瞬間、女は、積み上げられた石の塚を手で押した。
積まれた石がぐらりと揺れ、崩れて落ちた。
石は狙ったように小児の小さな身体に激しくぶつかり、裸の皮膚を破り血を噴き出させる。
かれの喉から、金切り声が上がった。
それはあまりにも悲痛な叫びで、琴律の耳を劈《つんざ》いた。それまでのかれが茫《ぼう》とした虚ろな面持《おももち》で、言葉など発する気配がなかった分、琴律はその叫びを聞いて、なにやら恐ろしいような気持さえした。
赤い血に混じって涙やら鼻汁やら唾やらが飛び散り、可愛らしい顔が見る影もなく汚れる。
「一」の女はその様子をしゃがみ込んで見ていたが、やがて少年の泣き声が細くなり、喉から絞り出すように弱々しくなってくると、すっと立ち上がった。
「あなたッ——」
動けない琴律が声を上げても女はやはり反応せず、川の水の中へ身を沈めて行った。
琴律は肺から息を吐き出した。脚が震え、河原の石の上にへたり込む。
少年はよろよろと起き上がり、再び石を手にとって積み始めた。
「やめて」
琴律は矢も盾もたまらず、足首を捕らわれていることも忘れてまたも駆け寄ろうとし、その場にばたりと倒れ伏す。河原の石は硬く鋭く、琴律の膝小僧に切り傷を作った。
「もうやめてっ……」
声をあげたつもりであったが、喉がひりつき、かすれた音が出ただけであった。
小学生になったばかりの幼い手によって石が積み上げられると、ある程度の高さになったところでやはり江浦草髪《つくもがみ》の女が現れた。
今度の女の顔には、片仮名の「ナ」のような文字が刻まれていた。顔の無い女は先と同じく石の塔を崩し、石は幼い少年の顔やら腹やらを打つ。少年の腕も腿も皮が破れ、赤い肉がはみ出した。
次に現れた女は「大」の文字、その次の女は「犬」の文字を顔に刻まれていた。それでとうとう文字が完成に至ったらしく、それからは、その四画の黥《げい》を顔に彫り込まれた女たちが、入れ替わり立ち替わり現れて、少年の積んだ石の塚を崩した。
そのたび火がついたように泣くかれを、琴律はとても直視していることなどできなかった。せめて、川から現れる女をどうにか止めたいとも思ったが、河原の石は不思議なほど琴律の足首と脛《すね》に喰い込み、虎挟みにかかったも同然であった。
晴れた青空のもと、広々とした白い河原に、小児《こども》の泣き声が響き渡る。そしてそれは、琴律の傍だけではなく、河原じゅうにいる全ての小児の声でもあった。
琴律のすぐ後ろに、今度は別の人影があった。
琴律はしばらくその人影を、例によって川から現れる女かと思い、顔を背けて耳を塞いでいた。が、今度はそれがどうやら本当の老女であるらしき雰囲気が感じ取れた。
それを場違いに思った琴律は、その人影の方へ恐る恐る目を向ける。そしてそれが、琴律自身が見知った人物であると気付いた。
それは、昨年の春、二人の孫が小中学校に入学するのを待っていたかのように他界した、天美《あまみ》姉弟の祖母であった。
彼女は死装束を纏い、身を動かすことなく、ただ立っていた。——否、立たされていた。
彼女が裸足で立つ石の足場には、足を置くぎりぎりの部分だけを残して、鋭利な剃刀のごとき刃《やいば》が上を向いて生えており、歩くどころか膝を屈することすら赦されていなかった。
裸の孫が石を積まさせられ、自らの手で積んだ石に打たれて血を流す様。それをただ立たされて、彼女は見せられていた。
顔に文字を彫り込まれた女たちが川の中から何人も現れ、少年を取り囲む。そのうち一人が、かれの頭を平手で叩いた。すると女たちは次々と手を出し、少年を小突き回し始めた。かれはしゃくり上げながらも、足元の石になおも手を伸ばし、石を積もうとする。
祖母は堪らず顔を背けたが、女の一人に頭をつかまれ、ぐいと孫の方へと向き直させられた。
——うちの子に、こんな小さな子に、かわいそうなことをさせないで。私が代わります。打つのなら、私を打って——。
身動《みじろ》ぎすらできない状態の彼女は、涙と鼻汁を流しながら、声をあげて泣いていた。
十四年ほどしか人生経験の無い琴律にとって、老女の咽び泣く声、洟《はな》を啜る音というものが、これほどまで聞くに堪えぬものとは、知る由もなかった。
これは、誰の犯した罪なのか。何を償う為の罰なのか——。
琴律の目からも流れる涙が、ただ河原の石に落ちて、乾いてゆく。
やがて祖母は、半狂乱の叫び声とともに、足場の周りにびっしりと突き立った刃の上へ踏み出した。
当然の如く刃は刺さり、足の裏が切れ、ずくずくと血が流れる。
祖母は孫の名を叫びながら、刃の中に身を躍らせる。紙のように薄い刃と髪のように細い針とが伸び、老女の細い身を苛《さいな》む。白い装束が、真っ赤に染まる。
何の罪なのか。何の為の罰なのか。
琴律は耐え切れず、喉から振り絞るようにして泣き声をあげた。
「やめてやめてやめて! もうやめて! こんな事——」
そのとき琴律は、青空のもとに広がる白い河原で、足元からゆらりと立ち昇る黒い陽炎《かげろう》に包まれた。
それは、まるで火群《ほむら》のように、哭《おら》ぶ琴律を包み込んで、燃えた。
*
「待てえっ!」
空子《そらこ》は板の間の上で跳ね起きた。
景《けい》と、蓬莱《ほうらい》姉妹が顔を覗き込んでいた。
「やっと起きたか」
「おはよう! クウコちゃん!」
「おはよう。天美《あまみ》さん」
「あ。お。おはよう」
寝汗でびっしょりの空子は、大きく息を吐《つ》いて、周りを眺めた。
しとしとと降る雨のせいでまだ薄暗い、小さな神社の本殿の中。
「夢かぁ。ま、夢だよなぁ」
エトピリカの装束のまま、腹に手を突っ込んでぼりぼりと掻く。
「なんだ。怖い夢でも見たんか」
「ん。まあ、そんなとこかにょ」
やれやれと言いたげな顔で、景が空子の金色めいたハニーブラウンの髪を撫でる。
「——夢というのは。案外莫迦にできないもの」
空子の傍らにしゃがみ込みながら、蕃茄《とまと》が独り言のように呟いた。
「自分の中に無いものは。夢にも見られないから」
「どういう意味?」
空子がきょとんとして訊ねる。景も黙って、蕃茄の顔を見ながら返事を待つ。
「人の記憶というのは。脳の中でばらばらに散らばっているの。現実に見たことでなくても。自分で考えたこと——つまり想像も。記憶として脳に残る」
「……なんの話だ?」
突然、普段考えたこともない内容の話が始まり、景は面食らう。蕃茄はそんな景を意に介す風もなく、言葉を拾い集め組み立てるようにして紡ぎ続ける。
「コンピュータに喩えるなら。それは脳のデフラグ。人が眠っている間に。脳が記憶を整理する。眠りの浅いときには。まとまる前のそれらが。ぼんやりと見えることがある。それが夢」
蕃茄は喋り慣れない様子で、ぽつりぽつりと発言する。
「つまり。夢の中で見たり知ったりしたように思えるものは。実はもともと自分の中にあったもの」
空子は腕組みをして、ふぅん、と鼻を鳴らす。
「そっかあ。たしかに、そう言われたらそうかもね」
「そう。厭《いや》なもの穢《きたな》いもの赦《ゆる》せないもの。すべて私たち自身の中にあるからこそ。眠っている間に頭の中で見ることができる。だから。夢を憎むというのは筋違いなの」
「でもよ」
景が口を挟んだ。
「寝てる間に、なんか外から聞いたりとかして、夢に見るってこともあるんじゃねえ?」
蕃茄は静かに頷き、景の目を覗き込む。
景は蕃茄のこの仕草が少し苦手であった。嫌いというわけではないが、歳の近い同性、しかも琴律などとはタイプの違う美少女に、され慣れていないことをされると、なんだか気恥ずかしくなり、どうも調子が狂ってしまう。景は意識して、蕃茄の黒い瞳から目を逸らした。
「寝ているときに。全く知らない言葉や事柄を囁かれても。自分の中で処理できないの。だから。もしそれを夢に見たのだとしたら。それはどこかで知って。忘れているだけ」
「そんなものかぁ……そういうものかぁ、怖い夢って」
空子は伸びをしながら呟いた。
「——それでさ! これからなんだけど!」
小難しげな話のときは意図的に黙っているとしか思えない萵苣《れたす》が、ぱんと膝を叩いて立ち上がった。
「阿吽たち、橋姫《はしひめ》を追えるって言ってるよ!」
「えっうそっ、まじで!?」
空子は大声とともに跳ね上がった。
「だったら、すぐに——」
「——おはようございます」
空子から少し離れたところ、鏡の傍《かたわら》に、琴律《ことり》が立っていた。
「あ。コトちゃん、おはよう」
社中に琴律がいたことに気付かなかった空子は、わずかに驚いて挨拶を返した。
琴律は、本殿の格子戸から外を眺めたまま、顔を向けずに口を開く。
「私も、夢を見ました」
「そうなんだ……」
琴律の輪郭が、ゆらりと揺れたように見えた。
「エトピリカの不思議な力が作用して、本当の景色を見たものか。それともただの夢なのか。それは分かりません。しかし、あのようなことが仮にも行われているとしたら——私は今すぐに駆け出し、あの子を救いに行きたい」
「あの子だ? コトお前、なんの話をしてる?」
「それって、大ちゃん!?」
「河津聖亞《かわつせいあ》——じゃねえわな。さすがに」
「……」
琴律は唇を噛み締め、装束の袂に手を差し入れて、触れ合ってしゃらしゃらと音を立てる玉を取り出した。尸澱《シオル》を退治した後に遺《のこ》る、勾玉《まがたま》であった。
「志半ばにして死んだ者、大切な誰かを遺して死んだ者など、決して珍しくはないでしょう。それらが皆、あの橋姫《はしひめ》のように、生き返りたいと願って狂うのか……。仮にそうだとして、私たちは、それら全てを潰して回らねばならないのか……」
「コトちゃん……?」
「琴律様」
阿吽《あうん》が琴律の肩先に飛来した。
「そのお考えは大変危険でございます」
「エトピリカはここにおられる皆様だけではございません」
「決して琴律様やお仲間だけが負担を強いられるわけでは」
「……阿吽さん。私達、何をしてるんでしょうね」
「龍泉寺《りゅうせんじ》さん」
蕃茄が歩み寄り、ほとんど表情を映さぬ顔で、琴律の手を取る。
「阿吽さん。親を残して死ぬことは、親不孝なのでしょうか。——それが自殺ならば、よく分かります。それは説明してくださいましたよね。生命を全《まっと》うすることもなく己《おの》が手で絶とうなどと考えるのは、莫迦《ばか》者です。親不孝の最《さい》たるものであり、最悪の殺人者ですらあるでしょう。……然れど! それが他者の凶手に因るものだとすれば!」
「コトちゃん。何を見てきたん? どんな夢を見たん?」
空子も顔を向けてさえくれぬ琴律の腰にしがみ付く格好で、問う。
「——私が夢に見たあれは、本当の景色なのでしょう。根拠はありません。しかし、私の中に蠢《うごめ》く“女”が——“母”が、私の内《うち》を引っ掻くのです。あれを確信せよ、と」
すん——と洟《はな》を啜る音が聞こえたかと思うと、琴律の目頭を伝い、涕涙《なみだ》が玉となって落ちた。顎が小刻みに震え、ははははッ……と断続的に息が漏れる。
「えっ」
空子は思わず、琴律から一歩離れた。
蕃茄が動かぬまま、眉をわずかに顰《ひそ》めて、琴律の顔を見る。
「龍泉寺さん」
「コトリちゃん!」
「コト、お前……泣いてんのか!?」
仲間たちの顔に一瞥をくれることもなく、琴律は俯いて唇を噛む。
再び、ぼろりと涙の玉が落ちて、琴律の掌に乗せられていた勾玉にぶつかり、濡らした。
濡れた瑪瑙玉《めのうだま》は琴律の震える手から落ち、足元の床とぶつかって音を立てる。
「あの小児《こども》達を救いたい。大ちゃんを。そしてこれから生まれて儚くも死んでしまう、子供達を。私達は。私は」
琴律の髪の周りの空気が、目に見えて揺らめいた。揺らぎは雨の匂いとともに立ちのぼり、陽炎《かげろう》のごとく琴律を包む。
見ている誰もが、錯覚だと思っていた。
「私が。がまあ」
変な声を出したかと思うと、琴律は首だけでかくんと上を向き、喉を中天に、両目を空子に向けた。ひどく充血した、真っ赤な眼球。
琴律が足元に落ちた勾玉を靴の踵で踏みつけ、力を込める。ぴきり、と音がした。
琴律の踵の下から、水中に漂う墨液がごとく、真っ黒な色をした焰《ほのお》が立ちのぼる。黒い焰が、脚絆《きゃはん》を着けた脚に纏わり付く。
やがて、黒い焰が長い髪の先まですっかり琴律を包んでしまったとき。琴律は初めて仲間たちのいる方へ身体を向けた。
顔貌《かおかたち》は何も変わらないが、その目つきと佇まいは、空子たちの知っている琴律のものとはとても思えなかった。顔を向けてはいるが、その双眸は何も映してはいなかった。
板張りの床を踏み締めるように、一歩、一歩と足を進めた琴律は、社《やしろ》の中心——御神体の鏡の前に立った。
「コト、ちゃん……?」
空子の震える声で名を呼ばれた瞬間、琴律は片脚を持ち上げ、鏡の周囲に張られた細い注連縄《しめなわ》に足をかけた。そしてそのまま、力を入れて踏み下ろし、縄と紙垂《しで》とを千切ってしまった。
「コトちゃんっ」
「琴律様」
「いけません」
空子の叫びとともに阿吽が駆けつけた時には既に遅く、切れた注連縄が社殿の板の間に落ちた。
琴律は再度片足を持ち上げ、祀《まつ》られた鏡の枠に突いて、エトピリカの装束の裾を持ち上げる。
格子戸から射し込む朝の外光を受け、鏡が煌《きら》めく。社殿の中に、長身の少女の白い腿と淡色の下着が浮かび上がる。
「おまっ……何してんだよっ」
罰当たりな振る舞いを見咎め、景が琴律に歩み寄ろうとする——が、琴律の表情の異様さに臆し、その足は動かない。
琴律の大きく見開かれた両瞼《りょうけん》からは紅に染まった白目が覗き、滲み出て溜まった涙が今にも零れそうである。しかし、薄紅色の唇は捻じ曲がり、宛《さなが》ら道化師のごとき泣き笑いが模《かたど》られている。
どこかで見たような赤い目だ——と景は思い、背中から首筋へ這い登ってきた悪寒に震える。
琴律は、開いた脚の間へ自らの指を持ってゆくと、空色のショーツを横へ引っ張って寄せた。本来覆われているべきところが外気に晒され、景の立っている位置から、黒い縮毛《ちぢれげ》が目に入る。
「冗談やってんのか!?」
景は、友人の淫猥な姿に眉を顰《ひそ》めた。同い年ながらも目指すべき女性の姿として私《ひそ》かに憧れていた琴律が、浅ましい姿を晒している。それは景にとって、黙って見過ごせるものではなかった。それゆえ、その気持を怒りのオブラートに包んで、景は声を放つしかない。
剥き出しにした局部へ自らの指を持ってゆき、泣き笑いの顔で、琴律は何やらまさぐるような仕草をする。
足元の板の間に、たたた——と汁気が落ちた。
「琴律様」
「どうかしばらく」
阿形、吽形も頭上から飛び寄ろうとするが、琴律の全身を薄っすらと包む黒い焰に炙られ、あわや焼け落とされる寸前で身を躱す。
「ちょっとコトリちゃん! どうしちゃったの!」
萵苣も駆け寄ろうとしたが、やはり半透明の黒焰に阻まれ、うぐ、と息を飲んで立ち竦む。
空子は琴律の様子に言い知れぬ精神緊張《ストレス》を覚え、その異常さに脂汗《あぶらあせ》を滲ませた。喉がひくついて音を立てる。これは、——誰だ?
琴律の全身は常軌を逸した発汗でじっとりと湿り、頬は紅潮していた。口から吐き出す荒い呼気は熱を帯びて、夏の朝の社殿に琴律の匂いを充満させた。床に突いた片足が小刻みに震えている。
琴律が嬌声をあげた。
局部に潜り込ませた指が、何か硬いものを掴み取っていた。
そのままぐいぐいと、汁気に覆われた物体が琴律の指で引っ張り出される。
どこを睨むともなく、真っ赤な両目から涙を流して笑う琴律。その姿は、恰《あたか》も怪なる産《さん》——尋常ならざる分娩であった。
やがて琴律は仲間が見守る中、人体に決して納まっているはずのないサイズと形状の、いくらか反りのある長物《ながもの》を、自らの内《なか》から抜き出した。
あえかなる十四歳の少女が産み落としたそれは、ひと振りの打刀《うちがたな》であった。
琴律は肩で息をしながら、汁気を拭うこともなく下着を戻した。鏡の枠から脚を下ろして、自らの胎内《なか》から引き摺り出した刀を捧げ持つ。
ご丁寧に鞘まで付いた刀を両手で押し戴き、目の前に持ってきて、す——と三寸ほど抜く。琴律は透き通るような白刃に目を落とし、一呼吸おいて、ぱちんと納刀した。
「——コ、コトちゃん……大丈夫!?」
「なんだこれ、なんなんだ!?」
硬直していた空子と景が、やっとの事で声を出し、琴律に向かって歩み寄ろうとする。
琴律は友人らの顔に一瞥をくれると、鞘に収めたままの刀を片手で持って振るい、その場でくるりと横回転《スピン》した。
「うわ」
予想していなかった琴律の行動に驚き、空子は尻餅を搗いてしまう。
「おい、何すんだよッ」
鼻先すれすれを掠めた鞘の鐺《こじり》を既《すんで》のところで躱《かわ》した景は、手を伸ばして琴律に掴みかかろうとする。
「お前まさか——なんぞ勝手に莫迦《ばか》なこと、やらかそうとしてねえよなァ!?」
その喉元に、すらりと鞘から抜かれた氷のごとき刃が突き付けられた。
「——!?」
琴律の全身を覆っていた半透明の陽炎のような黒い焔が、持っている刀に移り、すっと消えた。焔を内に閉じ込めたかのごとく、刀身が艶のない暗灰色《ガンメタルグレイ》に染まる。
「コトリちゃん!」
「龍泉寺さん」
蓬莱姉妹も、それ以上の声が出せない様子で、身を 固くしている。
「——夏海《なつみ》さん」
地の底から響くような、しかし美しい声音で、琴律が友人の名を口にする。
「な……なんだよっ」
怯えていることを気取《けど》られぬよう、景は気を張り、尋常ならざる様子の友人の目を見据える。喉がからからに乾いていた。
「これより私は彼方《あのかた》へ征《ゆ》き、地獄の鬼——私自身の心に巣食った鬼を斬ります。もしも邪魔立てするようなら——貴女《あなた》とて、火之迦具土《ひのかぐつち》の錆《さび》にしてくれましょう」
「てっ、めぇ……何考えてんだ? 何するつもりだ……!?」
琴律の赤い目に視線を縫い付けられたまま、景は掠れた声を出す。
「ちょっとコトリちゃん! さっきから何やってんの!」
ようやく一歩踏み出した萵苣が、人差し指に炎を点《とも》し、琴律に向かって拳銃のように突きつける。
「夏海《なつみ》ちゃんから、その刀を下ろして!」
琴律は充血した目だけを動かし、萵苣を見た。そして萵苣の脚がわずかに震えていることを確認し、そのまま視線を景の顔に戻す。
「えぇい! ごめん!」
萵苣が目をぎゅっと瞑り、指先から炎を射出した。
琴律は景の顔から視線を外さぬまま、片手で刀を振るい、拳大の火球を斬る。
赤茄子《トマト》のごとく真っ二つに割られた火球は、琴律の背後の格子戸にぶち当たり、ぼんと燃え上がった。
「姉さま。あれほど言ったのに。また無茶をする」
蕃茄《とまと》が背後から姉を羽交い締めにし、琴律から遠ざけるように後ずさった。
「この莫迦《ばか》が!」
自分から刀が外された隙を突き、拳を構えて景は琴律に躍りかかった。
琴律は最小動作で片足を繰り出し、鋭く適確に、踵《かかと》を景の腹へと突き立てる。げえ、と呻いて、景は社《やしろ》の板の間に転がった。
「ぐおおお」
痛みに身を捩《よじ》る景を見て、空子は涙を浮かべて取り乱す。
「なんで!? コトちゃん、なんでこんな乱暴すんの!? カラダ大丈夫なの!?」
琴律は深く踏み込み、身を低くして、握った刀の柄頭《つかがしら》で小さな空子の肩先を突いた。
「痛《い》ったあ!」
空子がひっくり返るのを見届ける間も無く、そのまま流れるように左手の鞘を振るって、蓬莱姉妹を順に殴る。
仲間四人を叩きのめした琴律は、燃える格子戸を蹴倒して、社殿の外へ躍り出た。
「ああ! コトリちゃん!」
板の間に伏したまま身を起こせぬ萵苣は、再び炎を投げつけようとしたが、妹に止められた。
琴律は左手の鞘に刀を納めると、形の良い顎を仰け反らせ、異常な姿勢で空子の方を向いた。悪天候の朝の薄暗い空気の中に、赤く血走った目がはっきりと見えた。空子は思わず息を呑む。長い黒髪が雨に濡れ、琴律の整った顔にへばりついていた。
琴律はそのまま、煙が風に吹かれるように、何処《いずこ》へかと姿を消した。
「手前《てめ》ェ……意味わっかんねえよ……!」
景は腹を押さえたまま、不敬にも、社殿の板の間に唾を吐いた。
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