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第十一話「登校日」
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八月の半ば。神影《みかげ》市立神影中学校では、夏期休業中の登校日を迎えた。多くの生徒たちは、せっかくの長期休暇に水をさす登校日の存在を疎ましがっていた。
生活が夜型に移行しつつあった天美《あまみ》空子《そらこ》も類に洩れず、休暇中の起床および登校をぐずぐずと面倒臭がってはいたが、学友たちと久々に会って喋れる場である学校へ行くこと自体が厭《いや》だというわけではなかった。一旦床を出てしまえば、久しぶりに身を飾るのにも気合が入った。
この日の空子は、身なりに気を入れていた。付け睫毛《まつげ》をばさばさに装着し、髪にはエクステを付けて長めに見せ、アイロンの当たったセーラー服のスカーフをストレートからリボンのように結わえた。この日のために、ネイルアートも施していた。短いスカートの腰回りにはカプセル販売機で購入した小さな腕時計やら色とりどりのビーズやらをじゃらじゃらぶら下げ、その中に、自分で獲得した勾玉を混ぜた。
身支度をしながら、自然と鼻歌が出た。
*
神影市の気温は、摂氏三十四度。体育館内は、もっとあるかも知れなかった。立っているだけで汗が滴るような、午前九時三十分。
全校集会が終わり、陽の当たる渡り廊下から校舎に入る。その途端、空子は誰かにぶつかった。
「あうッ」
「あ……」
急に屋内に入ったため暗さに目が慣れず、あっと思う間も無かった。
目を凝らしてみれば、小柄な生徒が廊下に尻餅をついていた。制服を緩めに着崩し、ツインテールに結った頭髪に、桜桃《おうとう》色のヘアマニキュアを施している。空子はその生徒を見知っていた。河津《かわつ》聖亞《せいあ》。
神影市立神影中学校三年三組出席番号女子四番。
空子と同様に、学年で最も小柄な生徒であった。空子と身長を較べても2センチも変わらないものと思われた。そのせいもあり、制服の胸元を押し上げる膨らみは誰もが目を留めるほどに目立っていた。
空子の耳に届いたところによれば、その可愛らしい形《なり》と仕草によって、入学以来、交際相手が途切れたことがないらしい。大学生や社会人と付き合っていたという噂もあった。男子生徒ばかりか女子生徒にも彼女のファンがおり、事実、空子の級友にも何人か、彼女の下駄箱に熱の籠もった文《ふみ》を投函した者がいた。
「痛《い》ったぁ……」
聖亞はくりくりとした大きな瞳で空子を見上げて睨み、大仰に声をあげた。
転んだ拍子に広げた脚の間から、レースに縁取られた真っ赤な下着が見え、その傍《わき》から、生理用品の羽根と思われる白いものが覗いていた。空子は慌てて目を逸らし、先輩生徒に手を差し伸べる。
「先輩……す、すんませんっした。大丈夫ですか」
空子の手を取ることなく、聖亞は身を起こして、自らのスカートの尻を叩《はた》いた。
「——すっごい痛かったからっ」
空子の顔に一瞥をくれ、聖亞は幼い声で言い放った。
その 固い態度に、空子はつい臆してしまう。
「あの、ご、ごめんなさ——」
「あ。あんたさァ」
聖亞が空子の顔を見返し、急に調子の違う声を出した。
「ふぇ、はい?」
「弟が死んじゃった子じゃん!」
空子の内側だけ時が止まり、空気が冷んやりと沈殿した。耳が鳴った。
「あ……はい……」
ひりついた喉の奥から、空子はようやくそれだけの返答を絞り出した。
「だよねー? ねーねー、そういうのってさ、どんなもんなの」
「え……えっと、どんなもん、とは?」
「だから、どんな感じなわけ? 自分の家族が、車に轢《ひ》かれて殺されちゃうのってさぁ」
人形のように可愛らしい顔立ちと、アニメキャラクターのような声の持ち主が、空子を凍りつかせた。
吸った息が、ひゅっ、と音を立てた。
「小学校に入ったばっかだったんでしょー? お葬式の時とか、どんな挨拶すんの? お父さんとかも泣いてた?」
「……」
「交通事故だと慰謝料とか、なんか保険とか入ってたら、補償金っつーの? お金いっぱい貰えるんでしょ? いいなぁ、うちも誰か事故で死んで、お金くんないかなぁ」
「……」
「バラバラになったんでしょ? 棺桶の中に、どんな風に入れてたの? やっぱ、ちぎれたトコとか、ちゃんと並べ直して入れるの? そういう時って、いろいろ手についたりとかしない? うぎゃー不潔《きたね》っ!」
「……」
「火葬の時って、子供だとやっぱすぐ焼ける? かさかさになって残るんでしょ? 骨とかって気持ち悪いよね。お化けの骸骨《がいこつ》みたいでキモイ! あっそうそう、ヒト焼いた後って、匂いすんの? 焼肉した時みたいな感じ?」
「あの……ちょっと、そういうのは」
まともに声が出なかった。目の前の先輩の顔を見ることもできなかった。
周囲には、教室に帰ろうとする何人もの生徒が歩いている。それに混じって、夏海《なつみ》景《けい》も立ち止まって様子を見ていた。
空子が立って俯いていると、聖亞が声の調子を変えた。
「ねえ。あんた、さっきから態度悪くない? 何なの、人にぶつかっといて」
相変わらず可愛らしい声付きではあるが、明らかな敵意の混じったトーンになっていた。
「……ぶつ、ぶつかったのと、弟のことは、関係——」
「関係ないってェ!?」
大声を出され、空子はびくりと身を竦める。目に溜まった涙が、今にも溢《こぼ》れそうになっていた。
「おい。大体なァ、身内《おとうと》が死んだって奴が、こういう格好《カッコ》してて良いんかよ」
聖亞が立ち竦む空子の髪をつかみ、揺すった。俯いた空子の目から、大粒の涙が溢《こぼ》れ、廊下に滴《したた》った。
周りで見ていた生徒たちの騒ぎが、ざわざわと大きくなってきた。空子は、涙に続いて垂れ落ちそうになった洟《はな》を啜りあげる。
「なに泣いてんだ。おい。謝れ」
聖亞はつかんでいた手を髪から離すと、履いている上履きの裏で押すような格好で、空子の腹を正面からどんと蹴った。
「ふぎゃあ」
猫の悲鳴のような声とともに、空子は廊下に倒れた。
二人を取り巻くように見ていた人垣が割れ、少し外側に立っていた景の足元まで、空子は転がった。
「うわああああん」
恥も外聞もなく声をあげて、空子は泣いた。
景がしゃがみ込み、
「泣くな」
空子の顔を見ることなく、ぼそりと言った。
「わああああ」
「泣くなクウコっ」
景が少し声を荒げた。空子は起き上がり、景の首根っこにしがみついて嗚咽する。
「ひ。ぐ。うっうっ」
景は、空子の頭を片手で抱きかかえるようにして、ぐしゃぐしゃに撫でる。
「やられて、泣くぐらい悔しいんならな、その相手を殺せ」
「……え?」
「憎いんだろ。やり方を選ばず、しつこく付け狙ってれば、いつか必ず殺せる。ただしお前は捕まって、クソほどくだらん相手とその縁者の為に、一生を棒に振って償うことになるんだ。それでも良いんなら、その覚悟があるんなら、そいつを殺したれ」
「ケイちゃん……」
「——おい」
聖亞が、景の目線に合わせてしゃがみ込んできた。
「あんた。今、何言《なんつ》った?」
「先輩。なにもこんなガキみたいな奴、虐めてやらんでもいいだろ。自分よりちょっと可愛いからってよ」
「あんた、あたしを無礼《なめ》てんの? あ?」
しゃがみこんだまま、二人は睨み合った。
「……蝮《マムシ》みたいな眼ェしやがって!」
聖亞が手を振り上げ、景の頬を平手で打った。立派なネイルが当たり、目の下が切れた。景の頬に赤い血が流れる。が、景は聖亞を睨むばかりで、身動《みじろ》ぎもしない。乱れた髪がひと筋落ちて、額の上にかかった。
景が口を開き、かすれた声を出した。
「——あたしが蛇《へび》なら、あンたは蛙《かえる》だ」
「このガキが!」
聖亞が再び手を振り上げた。しかし、その手は振り下ろせなかった。後ろに龍泉寺《りゅうせんじ》琴律《ことり》が立ち、聖亞の手をつかんでいた。
「もうやめましょう。河津《かわつ》先輩」
「なんだよ、龍泉寺のお嬢さんが。あんたには関係ないだろ!」
「いえ。関係ありますよ。その二人は、私の友人なんです」
「だったら、代わりにあんたが謝ってくれても良いんだよ。廊下に手を突いて、あたしに謝れ」
「謝る? 何についてでしょうか?」
「このっ、無礼《なめ》やがって……」
聖亞が琴律の手を振り払い、立ち上がる。恐ろしく身長差のある二人の美少女が、真夏の熱気を凍てつかせるような視線で睨み合った。
「先輩に生意気な態度を取って、申し訳ありませんでした、だろうが!」
「それについては、お互い様ではないですか? 過失を侘びたにも拘らず天美《あまみ》に理不尽な暴力を奮って泣かせ、夏海《なつみ》の顔にまで傷をつけました。それについての謝罪はないのでしょうか」
「知るか! 引《す》っ込《こ》んでろよ!」
激昂した聖亞は愛らしい猫のような声で乱暴な言葉を紡ぎ、桃色の唇から唾を吐き出した。
琴律の白い脛《すね》に引っ掛けられた唾が垂れて、紺色の靴下に滲《し》みる。
「だいたいあんたな、見る目が気持ち悪いんだよ。レズかよ! デカ女!」
「——小遣《こづか》い銭《せん》欲しさに、名前も知らない男の上で裸踊りするような女に言われたら、お仕舞《しま》いです」
押し殺された琴律の声が、低くゆっくりと響いた。
ざわついていた生徒たちが、水を打ったように静まり返る。
「この……あんたの家こそ、金と力に意地汚くしがみ付いてきた癖にッ」
雰囲気で分《ぶ》の悪さを感じ取った聖亞は、捨て台詞を残して走り去った。
「——おい、何《なん》だや何だや」
体育館の方から、男性教師が駆け寄ってくる。
「我《わ》達《やち》ゃ、どげしたら? 喧嘩か」
琴律は急いでポケットティッシュで脚を拭い、教師に向き直った。
「先生、天美《あまみ》さんたちが——」
説明しようとした男子生徒を制し、琴律は歩み出る。
「何でもありません。天美さんが、転んじゃったんですよ」
「えっ」
「コトっ」
まだ嗚咽が収まらない空子を指し、琴律は笑う。
「派手に転げちゃって、皆さん集まってきちゃいまして」
「あっだ、そげな事かい。気を付けらんと危《あぶ》ねぞ、怪我《あいまつ》すぅだないぞ天美《あまみ》」
教師は未だ泣きっ面の空子の頭を撫でると、そのまま歩いてゆく。
「……おいッ、なんでだコト」
「今のは、完全にセイアちゃんが悪いよ。先生に言った方が良かったんじゃないの」
「河津《かわつ》先輩のこと、庇ったの?」
景をはじめ、三年生を含む他の生徒たちも琴律に詰め寄る。
「さっきのは、私が河津先輩から噛み付かれただけの事です。先輩は既に喧嘩を打ち切って、この場から離れました。終わった事なのに、もし先生に正直に話しても、先輩はもちろん、夏海さんやクウコさんもいろいろ訊かれて、厭《いや》な思いをするでしょう。それなら、クウコさんの独り相撲ってことにするのがベストです」
琴律はもう一枚ティッシュを取り出し、景の目元にそっと当てた。
「う。痛《いて》ぇ」
「ごめんなさいね。保健室へ行って、どこかへぶつけて切ったと言ってください」
「コト、お前……あんな奴にムチャクチャ言われて、よく庇ってやる気になるなぁ」
「コトちゃん、優しいね。優しすぎだよ」
空子も泣き止んで、琴律に抱きつく。
「トラブルは嫌いなんです」
「嘘吐け。お前の喧嘩好きは、みんな知ってるっちゅうの。お前、これからあの先輩《おんな》に対して、優位に立つつもりなんだろ」
「私は、ただ……クウコさんが先輩に言われたことを、先生にまた繰り返し説明させられるのが厭だっただけです」
そう言うと、琴律はその場を後にして歩き出した。
「……」
景はしゃがんだまま、空子に向かって背を向けた。
「クウコ。乗れよ」
「え。おんぶ?」
「おう。教室までな」
「えええ、いいよう。恥ずかしいよ」
「じゃあ、抱っこだ」
景は空子をひょいと小脇に抱えると、周りで見ている生徒たちを蹴散らすように、教室へ向かって廊下を走り出した。保健室に行くのは、すっかり忘れていた。
「うわわわ、これ、抱っこじゃないよ! あたし、荷物じゃんこれ!」
空子の声をかき消すように、蝉の声のボリュームが上がった。
琴律は、走って自分を追い抜き通り過ぎる景と空子を眺めると、窓の外に目を遣《や》った。
大質量の積乱雲が、青空を覆い隠すほどに堆《うずたか》い。
暦は盆を過ぎていたが、まだまだ暑くなりそうな空であった。
鳶《とんび》が一羽、青空に輪を描いて、ぴいんよろう——と啼いた。
生活が夜型に移行しつつあった天美《あまみ》空子《そらこ》も類に洩れず、休暇中の起床および登校をぐずぐずと面倒臭がってはいたが、学友たちと久々に会って喋れる場である学校へ行くこと自体が厭《いや》だというわけではなかった。一旦床を出てしまえば、久しぶりに身を飾るのにも気合が入った。
この日の空子は、身なりに気を入れていた。付け睫毛《まつげ》をばさばさに装着し、髪にはエクステを付けて長めに見せ、アイロンの当たったセーラー服のスカーフをストレートからリボンのように結わえた。この日のために、ネイルアートも施していた。短いスカートの腰回りにはカプセル販売機で購入した小さな腕時計やら色とりどりのビーズやらをじゃらじゃらぶら下げ、その中に、自分で獲得した勾玉を混ぜた。
身支度をしながら、自然と鼻歌が出た。
*
神影市の気温は、摂氏三十四度。体育館内は、もっとあるかも知れなかった。立っているだけで汗が滴るような、午前九時三十分。
全校集会が終わり、陽の当たる渡り廊下から校舎に入る。その途端、空子は誰かにぶつかった。
「あうッ」
「あ……」
急に屋内に入ったため暗さに目が慣れず、あっと思う間も無かった。
目を凝らしてみれば、小柄な生徒が廊下に尻餅をついていた。制服を緩めに着崩し、ツインテールに結った頭髪に、桜桃《おうとう》色のヘアマニキュアを施している。空子はその生徒を見知っていた。河津《かわつ》聖亞《せいあ》。
神影市立神影中学校三年三組出席番号女子四番。
空子と同様に、学年で最も小柄な生徒であった。空子と身長を較べても2センチも変わらないものと思われた。そのせいもあり、制服の胸元を押し上げる膨らみは誰もが目を留めるほどに目立っていた。
空子の耳に届いたところによれば、その可愛らしい形《なり》と仕草によって、入学以来、交際相手が途切れたことがないらしい。大学生や社会人と付き合っていたという噂もあった。男子生徒ばかりか女子生徒にも彼女のファンがおり、事実、空子の級友にも何人か、彼女の下駄箱に熱の籠もった文《ふみ》を投函した者がいた。
「痛《い》ったぁ……」
聖亞はくりくりとした大きな瞳で空子を見上げて睨み、大仰に声をあげた。
転んだ拍子に広げた脚の間から、レースに縁取られた真っ赤な下着が見え、その傍《わき》から、生理用品の羽根と思われる白いものが覗いていた。空子は慌てて目を逸らし、先輩生徒に手を差し伸べる。
「先輩……す、すんませんっした。大丈夫ですか」
空子の手を取ることなく、聖亞は身を起こして、自らのスカートの尻を叩《はた》いた。
「——すっごい痛かったからっ」
空子の顔に一瞥をくれ、聖亞は幼い声で言い放った。
その 固い態度に、空子はつい臆してしまう。
「あの、ご、ごめんなさ——」
「あ。あんたさァ」
聖亞が空子の顔を見返し、急に調子の違う声を出した。
「ふぇ、はい?」
「弟が死んじゃった子じゃん!」
空子の内側だけ時が止まり、空気が冷んやりと沈殿した。耳が鳴った。
「あ……はい……」
ひりついた喉の奥から、空子はようやくそれだけの返答を絞り出した。
「だよねー? ねーねー、そういうのってさ、どんなもんなの」
「え……えっと、どんなもん、とは?」
「だから、どんな感じなわけ? 自分の家族が、車に轢《ひ》かれて殺されちゃうのってさぁ」
人形のように可愛らしい顔立ちと、アニメキャラクターのような声の持ち主が、空子を凍りつかせた。
吸った息が、ひゅっ、と音を立てた。
「小学校に入ったばっかだったんでしょー? お葬式の時とか、どんな挨拶すんの? お父さんとかも泣いてた?」
「……」
「交通事故だと慰謝料とか、なんか保険とか入ってたら、補償金っつーの? お金いっぱい貰えるんでしょ? いいなぁ、うちも誰か事故で死んで、お金くんないかなぁ」
「……」
「バラバラになったんでしょ? 棺桶の中に、どんな風に入れてたの? やっぱ、ちぎれたトコとか、ちゃんと並べ直して入れるの? そういう時って、いろいろ手についたりとかしない? うぎゃー不潔《きたね》っ!」
「……」
「火葬の時って、子供だとやっぱすぐ焼ける? かさかさになって残るんでしょ? 骨とかって気持ち悪いよね。お化けの骸骨《がいこつ》みたいでキモイ! あっそうそう、ヒト焼いた後って、匂いすんの? 焼肉した時みたいな感じ?」
「あの……ちょっと、そういうのは」
まともに声が出なかった。目の前の先輩の顔を見ることもできなかった。
周囲には、教室に帰ろうとする何人もの生徒が歩いている。それに混じって、夏海《なつみ》景《けい》も立ち止まって様子を見ていた。
空子が立って俯いていると、聖亞が声の調子を変えた。
「ねえ。あんた、さっきから態度悪くない? 何なの、人にぶつかっといて」
相変わらず可愛らしい声付きではあるが、明らかな敵意の混じったトーンになっていた。
「……ぶつ、ぶつかったのと、弟のことは、関係——」
「関係ないってェ!?」
大声を出され、空子はびくりと身を竦める。目に溜まった涙が、今にも溢《こぼ》れそうになっていた。
「おい。大体なァ、身内《おとうと》が死んだって奴が、こういう格好《カッコ》してて良いんかよ」
聖亞が立ち竦む空子の髪をつかみ、揺すった。俯いた空子の目から、大粒の涙が溢《こぼ》れ、廊下に滴《したた》った。
周りで見ていた生徒たちの騒ぎが、ざわざわと大きくなってきた。空子は、涙に続いて垂れ落ちそうになった洟《はな》を啜りあげる。
「なに泣いてんだ。おい。謝れ」
聖亞はつかんでいた手を髪から離すと、履いている上履きの裏で押すような格好で、空子の腹を正面からどんと蹴った。
「ふぎゃあ」
猫の悲鳴のような声とともに、空子は廊下に倒れた。
二人を取り巻くように見ていた人垣が割れ、少し外側に立っていた景の足元まで、空子は転がった。
「うわああああん」
恥も外聞もなく声をあげて、空子は泣いた。
景がしゃがみ込み、
「泣くな」
空子の顔を見ることなく、ぼそりと言った。
「わああああ」
「泣くなクウコっ」
景が少し声を荒げた。空子は起き上がり、景の首根っこにしがみついて嗚咽する。
「ひ。ぐ。うっうっ」
景は、空子の頭を片手で抱きかかえるようにして、ぐしゃぐしゃに撫でる。
「やられて、泣くぐらい悔しいんならな、その相手を殺せ」
「……え?」
「憎いんだろ。やり方を選ばず、しつこく付け狙ってれば、いつか必ず殺せる。ただしお前は捕まって、クソほどくだらん相手とその縁者の為に、一生を棒に振って償うことになるんだ。それでも良いんなら、その覚悟があるんなら、そいつを殺したれ」
「ケイちゃん……」
「——おい」
聖亞が、景の目線に合わせてしゃがみ込んできた。
「あんた。今、何言《なんつ》った?」
「先輩。なにもこんなガキみたいな奴、虐めてやらんでもいいだろ。自分よりちょっと可愛いからってよ」
「あんた、あたしを無礼《なめ》てんの? あ?」
しゃがみこんだまま、二人は睨み合った。
「……蝮《マムシ》みたいな眼ェしやがって!」
聖亞が手を振り上げ、景の頬を平手で打った。立派なネイルが当たり、目の下が切れた。景の頬に赤い血が流れる。が、景は聖亞を睨むばかりで、身動《みじろ》ぎもしない。乱れた髪がひと筋落ちて、額の上にかかった。
景が口を開き、かすれた声を出した。
「——あたしが蛇《へび》なら、あンたは蛙《かえる》だ」
「このガキが!」
聖亞が再び手を振り上げた。しかし、その手は振り下ろせなかった。後ろに龍泉寺《りゅうせんじ》琴律《ことり》が立ち、聖亞の手をつかんでいた。
「もうやめましょう。河津《かわつ》先輩」
「なんだよ、龍泉寺のお嬢さんが。あんたには関係ないだろ!」
「いえ。関係ありますよ。その二人は、私の友人なんです」
「だったら、代わりにあんたが謝ってくれても良いんだよ。廊下に手を突いて、あたしに謝れ」
「謝る? 何についてでしょうか?」
「このっ、無礼《なめ》やがって……」
聖亞が琴律の手を振り払い、立ち上がる。恐ろしく身長差のある二人の美少女が、真夏の熱気を凍てつかせるような視線で睨み合った。
「先輩に生意気な態度を取って、申し訳ありませんでした、だろうが!」
「それについては、お互い様ではないですか? 過失を侘びたにも拘らず天美《あまみ》に理不尽な暴力を奮って泣かせ、夏海《なつみ》の顔にまで傷をつけました。それについての謝罪はないのでしょうか」
「知るか! 引《す》っ込《こ》んでろよ!」
激昂した聖亞は愛らしい猫のような声で乱暴な言葉を紡ぎ、桃色の唇から唾を吐き出した。
琴律の白い脛《すね》に引っ掛けられた唾が垂れて、紺色の靴下に滲《し》みる。
「だいたいあんたな、見る目が気持ち悪いんだよ。レズかよ! デカ女!」
「——小遣《こづか》い銭《せん》欲しさに、名前も知らない男の上で裸踊りするような女に言われたら、お仕舞《しま》いです」
押し殺された琴律の声が、低くゆっくりと響いた。
ざわついていた生徒たちが、水を打ったように静まり返る。
「この……あんたの家こそ、金と力に意地汚くしがみ付いてきた癖にッ」
雰囲気で分《ぶ》の悪さを感じ取った聖亞は、捨て台詞を残して走り去った。
「——おい、何《なん》だや何だや」
体育館の方から、男性教師が駆け寄ってくる。
「我《わ》達《やち》ゃ、どげしたら? 喧嘩か」
琴律は急いでポケットティッシュで脚を拭い、教師に向き直った。
「先生、天美《あまみ》さんたちが——」
説明しようとした男子生徒を制し、琴律は歩み出る。
「何でもありません。天美さんが、転んじゃったんですよ」
「えっ」
「コトっ」
まだ嗚咽が収まらない空子を指し、琴律は笑う。
「派手に転げちゃって、皆さん集まってきちゃいまして」
「あっだ、そげな事かい。気を付けらんと危《あぶ》ねぞ、怪我《あいまつ》すぅだないぞ天美《あまみ》」
教師は未だ泣きっ面の空子の頭を撫でると、そのまま歩いてゆく。
「……おいッ、なんでだコト」
「今のは、完全にセイアちゃんが悪いよ。先生に言った方が良かったんじゃないの」
「河津《かわつ》先輩のこと、庇ったの?」
景をはじめ、三年生を含む他の生徒たちも琴律に詰め寄る。
「さっきのは、私が河津先輩から噛み付かれただけの事です。先輩は既に喧嘩を打ち切って、この場から離れました。終わった事なのに、もし先生に正直に話しても、先輩はもちろん、夏海さんやクウコさんもいろいろ訊かれて、厭《いや》な思いをするでしょう。それなら、クウコさんの独り相撲ってことにするのがベストです」
琴律はもう一枚ティッシュを取り出し、景の目元にそっと当てた。
「う。痛《いて》ぇ」
「ごめんなさいね。保健室へ行って、どこかへぶつけて切ったと言ってください」
「コト、お前……あんな奴にムチャクチャ言われて、よく庇ってやる気になるなぁ」
「コトちゃん、優しいね。優しすぎだよ」
空子も泣き止んで、琴律に抱きつく。
「トラブルは嫌いなんです」
「嘘吐け。お前の喧嘩好きは、みんな知ってるっちゅうの。お前、これからあの先輩《おんな》に対して、優位に立つつもりなんだろ」
「私は、ただ……クウコさんが先輩に言われたことを、先生にまた繰り返し説明させられるのが厭だっただけです」
そう言うと、琴律はその場を後にして歩き出した。
「……」
景はしゃがんだまま、空子に向かって背を向けた。
「クウコ。乗れよ」
「え。おんぶ?」
「おう。教室までな」
「えええ、いいよう。恥ずかしいよ」
「じゃあ、抱っこだ」
景は空子をひょいと小脇に抱えると、周りで見ている生徒たちを蹴散らすように、教室へ向かって廊下を走り出した。保健室に行くのは、すっかり忘れていた。
「うわわわ、これ、抱っこじゃないよ! あたし、荷物じゃんこれ!」
空子の声をかき消すように、蝉の声のボリュームが上がった。
琴律は、走って自分を追い抜き通り過ぎる景と空子を眺めると、窓の外に目を遣《や》った。
大質量の積乱雲が、青空を覆い隠すほどに堆《うずたか》い。
暦は盆を過ぎていたが、まだまだ暑くなりそうな空であった。
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