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第九話「宗清寺」
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機会は翌晩、早速やってきた。
死後の世界から人を食いにきた化物の出現を「機会」などと呼ぶべきかはさておき。空子《そらこ》の体調は万全であった。
夜間に於ける“計画的な”外出を初めて行おうとする空子は、夏休みを良いことに日中の睡眠をたっぷりと取り、目覚めた後の夕食もがつがつと食べた。
素麺、唐揚げ、マカロニサラダ。母の手料理はいつだって旨かったが、こんなに腹に詰め込んだのはいつぶりだろう——と空子は自身の食欲に懐かしさすら覚えた。
娘の食べっぷりを目の当たりにした空子の両親は、弟を喪った後の娘が、時を経てようやく中学生らしく表情豊かに振る舞うようになったものと感じ入り、胸を撫で下ろしていた。娘がよもや、化物退治に赴くために準備しているなどとは、夢にも思わなかったことだろう。
そして夕食後、満腹になって自室でくつろいでいた空子の所へ、阿形《あぎょう》が単独で現れたのだった。門前町《もんぜんまち》である隣町に、複数体の尸澱《シオル》が居るのだという。
「何体もいっぺんに現れて、暴れてるの!?」
「現れたというよりも棲み着いているといったところでございますが」
「よっし。待ち構えてたんだ、こっちは! やっつけてやる!」
夕食と風呂が済んでしまえば、両親が空子の部屋まで上がってくることはない。空子は足音を忍ばせて、家を抜け出した。
阿形の先導を頼りながら、空子は夏の夜道を走った。
『宗清寺《そうせいじ》』。
空子が息を切らせて辿り着くと、そこは住宅地からやや外れた、真宗の阿弥陀寺《あみだじ》であった。
門の前には、景《けい》と琴律《ことり》が自転車を揃えて停めていた。
「おう。来たか」
「こんばんわ、クウコさん」
景はばっさりと後ろ髪を切っており、毛先がつんつんと尖っていた。捲りあげたジャージからにょっきり伸びた手足と相俟って、よりスポーティな雰囲気が増している。
琴律も長い黒髪を襟元で結わえてすっきりとまとめ、学校以外では穿いたことのないスパッツ型のトレーニングパンツを身につけている。これから荒事を行おうという気概が見て取れた。
「——またお寺ぁ?」
空子はあからさまに嫌な顔をする。
「お墓とかあるんじゃないのー? 厭《や》だよう」
「厭《や》だってお前、これからあたしら、幽霊とバトって打《ぶ》っとばすんじゃないかよ。墓場を怖がってる場合かっつうの」
「うーん……」
景に呆れられても、空子は浮かぬ顔である。
「阿吽さん。残りお二人は?」
辺りを見回しながら、琴律が問う。
「萵苣《れたす》様蕃茄様は既に門中におられます」
「現在どのような様子なのかを確認していただくため偵察をお願いしております」
阿吽は落ち着いた様子で頭を下げた。
「え。なんだ、そうなの?」
空子がほっとした顔で胸を撫で下ろす。尸澱は現れたというだけで、人を襲ったりしているわけではないのだった。
「そんなに急いで、走ってくる必要無かったかにゃー」
「——それにしても、あの二人なァ」
景も安心したのか、笑いながら口を開く。
「萵苣《れたす》に、蕃茄《とまと》だってよ。……キラキラネームだよなぁ」
「ふふ。親御さんは、何を考えて名付けられたのでしょうね」
「お野菜姉妹で、超可愛いよねー」
「……そっか」
いつまでも子供っぽい感性をしている空子の発言に、景は苦笑いする。
そこへ、頭上から声がかかった。
「君ら! 来てたんだね! お疲れ!」
件《くだん》のお野菜姉妹が、寺の門の上に並んでしゃがんでいた。既にエトピリカに変身しており、白と黒のロリイタ服を着込んでいる。
「おーっす」
「お疲れ様です」
「今の所。何かいるのは間違いない。でも尸澱の姿は見えない」
門外へ跳び降りて来た姉妹から聞くところによれば、本尊を祀る仏殿内から、何者かが裸足で走り回るような音が聴こえるらしい。しかしながら、中には何の姿も見えなかった——ということである。
「——ねえ、お墓は!? ここって、お墓あるの!?」
空子が半泣きの顔で、二人に詰め寄る。
「お墓は無いよ!」
「ここはそんなに大きくないお寺だから。本堂と講堂。それからお坊さんのいる僧房と。あとは鐘突き堂が建っているだけ。納骨堂も無いし。墓地は別にある」
空子の表情がみるみる弛緩し、ゆるい笑顔になった。
「よっし。お骨《こつ》が無いなら、怖くないっ」
「ッしゃあ。あたしらも行ったるぞ、コト」
「ええ」
「ではこちらを」
阿吽が三人の周りを飛び回り、手甲と脚絆、そして輝く霊珠を落とした。
霊珠はふわりと少女たちの掌中に収まり、鈍く光を放つ。夏だというのに、その温かみは肌に心地よかった。
「綺麗ですね……」
「そうだねー……」
白く神秘的なその輝きを目にすると、どうしても心を奪われてしまう。人の“心”の結晶だからであろうか。光から優しさすら感じるほどであった。変身するためとはいえ、砕いてしまうのが惜しかった。
これを毎回見られるなら、怖いお化けと闘ってもいいな。空子はつい、そんなことを思ってしまう。
「空子様」
「へいっ」
急に阿形から名を呼ばれ、空子は咄嗟に変な声を出してしまった。
「変身の媒体となる防具でございますが」
「空子様の場合は——」
「ああ。あたしは、いいよ」
「えっ」
「宜しいのですか」
阿吽の二人がぽかんと口を開く。
「うん。いいんだ」
「それではまた」
「珠をお口へ——」
「別に、ダメじゃないんでしょ?」
「 確かに害にはなりませんが」
「何しろ前例のないことですので」
「どのように作用するのか見当が付きません」
蓬莱姉妹は、目を丸くして空子の顔を見ている。
「口へ。って。どういう意味なの」
「まさかとは思うけど、クウコちゃん! それを、食べるんじゃないよね!」
「なんかね、見てると、おいしそうなんだよね」
「嘘おお!」
「その発想はなかった」
景も琴律も、呆れ顔である。
「お前、またかよ。なに考えてんだよ……」
「だ、大丈夫なんですか?」
空子は四人に向かって、親指を立てた。
「イエーイ」
「……何ですか、それ」
「意味分からんっ」
「ほ。本当に。……食べるの」
「え! え! 嘘でしょ!」
「よしっ。変身しようっ」
空子は皆の呆れ顔を尻目に、珠を両手で握り締めた。
(大地。見ててね!)
手甲を身に着け、紐を引き絞った景が、宙に珠を放り上げた。
「いくぞ、うおらァ!」
天を衝くパンチを叩き込むと、手応えと共に珠は砕け、景の拳は光に覆われる。
——頑張ってね。
同じく、脛部に脚絆を結わえ付けた琴律は、足元へ珠を落とした。
「私も、いきます——!」
踵に体重をかけて落とした珠を踏み割ると、先と同様に光の粒が立ちのぼり、琴律の脚は覆われてゆく。
——応援しているよ。
防具を持たない空子は、手に握った光球を見つめて舌舐めずりすると、一息に口へ押し込んだ。吸うでもなく齧るでもなく、空子は珠を呑み下す。
——負けないで。
蓬莱姉妹が固唾《かたづ》を飲んで見守る中、空子の全身が白く発光を始める。
「ふおおおおおおおうっ」
全身の体孔から、光の奔流が溢れ出た。
「うわあ! クウコちゃん、すごいっ!」
萵苣が歓声をあげた。
「目からビームが出てるよ!」
「鼻とか。口からも」
蕃茄もさすがに驚いた様子で、少し後ずさった。
三人の身体から猛烈な勢いで光が剥がれ、周囲へ一気に散らばってゆく。
蓬莱姉妹がまぶしげに閉じた目を開くと、三人の着ていた服は、漫画に出てくるくノ一のようにも見える、揃いの装束に変わっていた。
「わー! 可愛いねー!」
「和風。良い。こういうのもアリか」
姉妹が興奮気味に声をあげた。二人にとっても、自分たち以外の“エトピリカ”を目にするのは初めてである。
「っふううう……」
景が深い息を吐き出す。上気したように、頬が紅潮している。
「この感じ、思い出したアア。身体《からだ》ン内《なか》が燃えるみたいな、この熱《あつ》さ……!」
その場で軽いジャンプを繰り返し、首や腕をぶんぶん動かす。動きたくてたまらない、止まってはいられない——という所作。
対照的に、琴律は立ったままぴくりとも動かない。その顔からは表情が消え、門の向こうをじっと睨んでいる。
空子は口をぽかんと開き、自分の両手を見つめながら、握ったり開いたりを繰り返している。
「よし! 行こうか!」
萵苣が四人に向かって、手の甲を差し伸べた。
四人は顔を見合わせると、無言でそこへ手を重ねる。
「エトピリカ! ファイトー!」
「おーっ!!!!」
全員が鯨波《げいは》をあげ、手を高々と差し上げた。
「うぅん。いいねいいねぇ。こういうの、大好きだァ」
興奮を隠せぬ様子で、景が武者震いする。バスケ部員にしてみれば、これぞ結束と勝利を誓う儀であり、否が応にも気持は昂《たかぶ》った。
五人は一斉に門の上へ飛び上がった。
「クウコさん。ここからは、静かにですよ」
琴律が自分の口に人差し指を当て、空子に注意喚起する。
「ういっ」
力強く頷く空子。
足音を立てずに境内へ降り立つと、五人は境内の奥へと歩を進めた。
鐘楼を横目に通り過ぎ、比較的大きな建物——仏殿に辿り着く。
「みんな! ここだよ!」
萵苣が胸を張って指差そうとした途端、蕃茄が口を手で塞いだ。
「悪いけれど。姉さまは。なるべく声を出さないでいて」
元来の大声といい、真っ白なコスチュームといい、どう考えても萵苣は、夜間の隠密行動には向いていないな——と、四人全員が思った。
「——ここが。本堂」
声を潜めて、蕃茄が仏殿の壁に耳を当てた。
四人もそれに倣い、壁越しに聞き耳を立てる。
とんとんとんとん——という足音が聴こえた。板の間を、裸足で歩き回るような音であった。
「ひょえええ」
空子は思わず、素っ頓狂な声を出してしまう。
「誰かいるじゃんっ」
景が指で空子の頭を小突く。
「莫迦《ばか》たれっ。でかい声出すな」
「覗いてみて」
蕃茄に促され、四人は灯《あか》り採《と》りの格子から仏殿の中を覗き込んだ。
中は月明かりに照らされ、薄っすらと様子を確認できた。が、板の間が広がっているだけで、足音の主は見えない。
「何だよこれ。どうなってんだ?」
「分からない。こういうのは初めて」
蕃茄は萵苣に何事か耳打ちした。
「うん! わかった!」
「しーッ」
蕃茄と景が慌てて指を立て、大声を咎める。
「中にいるお化けはどうでもいいけどな、和尚さんとかに見つかったらまずいだろっ」
「あはは! ごめんごめん!」
解っているのかいないのか、萵苣はからからと笑う。
そのまま本堂の扉をごろりと引き開けると、
「ぱいなぽー!」
重ねた両手から、火球を撃ち放った。
真っ直ぐに飛んだ炎の塊は本堂の柱に着弾し、ぼんとはじけて消えた。
「はあああ!?」
景は駆け寄って、萵苣の後頭部を叩《はた》く。
「お前、いきなり何やってんだよっ」
「えっ!」
萵苣はびっくりして、目をぱちぱちと瞬《しばたた》かせる。
蕃茄も泣きそうな顔で、姉の肩に手を置いた。
「姉さま。私は。火を出して探ってみてと言ったの」
「うん! そうしたよ!」
「ぶっ放《ぱな》してどうするの。相手が視《み》えないのだから。掌から火を出し続けて。炙り出せばいいじゃない」
「ああ! そっかー! あははは!」
「とにかく、これで宣戦布告してしまったわけです。行くしかありませんね」
暗い本堂の中を睨みつけながら、琴律が言い放った。
蓬莱姉妹に続いて、景もごくりと唾を飲み込み、本堂の中へ踏み込んでゆく。
「なーにー? どうなってんの、見えなーい」
空子はぴょんぴょん跳ねて、琴律の肩越しに中を覗き込もうとする。
「なんかいたのー?」
「何も視えません。足音も消えました」
空子の手を引いて、琴律は本堂に足を踏み入れた。
その途端、土手っ腹に衝撃を喰らい、琴律は軽く吹っ飛ばされた。
「うっげッ」
胃から吐き出される酸汁を味わいながらも、琴律はどうにか受け身を取って態勢を立て直し、板の間に着地する。
「コトちゃんっ」
自分の手を取ってくれていた琴律がいきなり真横へ転がされたのを見て、空子は面食らう。慌てて駆け寄ると、琴律は綺麗な顔を痛みに歪めて脇腹を押さえている。
「どうしたの、大丈夫コトちゃん!?」
「平気、です……!」
「おいっ、どうした!?」
景たちも琴律たちの方へ向き直る。
「……いきなり、やられました。皆さん、気を付けて!」
たったっ、という足音が聴こえたかと思うと、今度は萵苣が海老反《えびぞ》りになって吹っ飛んだ。
「痛《い》ったーっ!」
先程自分が焦がした太い円柱に腹から激突した萵苣は、そのまま手足を伸ばして、蝉のように柱にしがみ付く。
「ううー、何《なん》なんだーっ!」
「こんなの、気を付けようがないよぉ」
琴律に抱きついたまま、空子が半べそをかく。
「やっぱり。こちらからは見えないのに。一人ずつ狙ってくる」
本堂の奥に視線を遣《や》った蕃茄は、はっとして声をあげた。
「見て。本尊が無い」
本堂の奥にはステージのように高くなった仏台《ぶつだい》があり、両脇には燈明皿を乗せた燭台が立てられている。
その中心にある三つの仏座には、何者の姿も無かった。
「あそこって——」
「そう。仏様がいないの」
「わー、本当《ほんと》だ」
「どういう事なんでしょう……」
皆がそちらに気を取られた瞬間。
「ンぐぉ」
突然、景が前傾姿勢で呻いた。
「……こンの野郎ォオ」
しかし景は、打撃を喰らったと思しき腹部を押さえることもせず、
「捕まえたア」
両手で空《くう》をつかむような仕草をしたかと思うと、怒号とともに振り回した。
「クソがーっ」
萵苣がしがみついている円柱に、その見えない敵を叩きつける。
「わわわわわ!」
衝撃で萵苣は真っ直ぐに滑り落ち、何か《・・》の上に尻を落とした。
「んぎゅんぬ!」
その瞬間、萵苣の尻の下に、仏像が姿を表した。
「うわっ」
「な、何だああ」
質素な法衣《ほうえ》に螺髪《らはつ》、後頭部に幾筋もの輪光を頂いた、全高二メートルほどの阿弥陀《あみだ》如来《にょらい》像であった。本来は立ち姿で固定されているはずの仏像が人のように動き、慌てた様子で景から逃げようとしていた。
「きゃー! いやー!」
阿弥陀像の首根っこに跨り、ちょうど肩車をされる格好で、萵苣が取り乱す。
「ふざけた真似をしてくれたのは、此奴《こやつ》ですねっ」
琴律は滑るように仏像に近付く。
「萵苣さん、避《よ》けてくださいっ」
そのままスピードを緩めず、琴律は如来像の肩口を掴むと、腹部に膝蹴りを叩き込んだ。
こおおん、と小気味良い金属音が鳴る。
「にぎゃん!」
咄嗟に身を躱《かわ》せず、萵苣は本堂の床に転がり落ちた。
「あ痛《い》っ……たぁ……っ」
琴律は涙を浮かべ、膝を抱えて蹲《うずくま》る。おそらく銅製であろう仏像に、膝小僧を力一杯ぶつけたのであるから、これは仕方のないところであった。
「私も痛いよー!」
萵苣が泣き声をあげた。
「姉さま。大丈夫なの」
蕃茄が急いで萵苣の手を引き、立たせる。
床に倒れた阿弥陀像は、焦った様子で身を起こし、そのまま本堂の奥へ駆け出す。もともとが硬い金属でできた立像であるとは、とても信じ難い挙動であった。
「待てーっ! このー!」
萵苣が振り向きざまに炎を撃ち出した。特大の火球は過《あやま》たず阿弥陀の背を直撃し、その長身を再び床に転がす。
「——お化けの正体って、こいつかァ」
怖い相手ではないと判断したのか、空子は鼻息も荒く拳を握り締めた。
「いくよ、ケイちゃんっ」
「応《おう》よ!」
琴律の態《ざま》を見て攻撃をためらっていた景も、再びファイティングポーズを構える。
「哈《は》あっ」
空子が臍下丹田《せいかたんでん》に力を入れ、気魄《きはく》を込めると、その背から、光の筋が差した。
他の四人も同様に、肩甲骨のあたりが輝き始める。
光は一気に噴き出し、翼の形を取った。
「わー! 何これ! 羽だ!」
「すごい。私達にまで」
蓬莱姉妹も、目を丸くして驚く。
灯りがなく暗かった仏殿は一転、溢れんばかりの光に支配される。
琴律と景は、眩しさに目を眇《すが》めながら、全身に気持の良い刺激が行き渡るのを感じた。動きたい、暴れたいという衝動が込み上げてくる。
「私達、こんなことができるんですね! 力が溢れ出して、何というか、突き上げられそうです」
「すっげぇな、これ。レッドガルみたいだわ」
一年前、これと同じ状態になっていた事を、景と琴律ははっきり記憶していない。無我夢中の死闘を演じる中で、己の状態変化にまで気を回している場合ではなかったのだ。
空子は息を吐き出して、背の翼をぴんと伸ばすと、床を蹴って跳ね、阿弥陀に飛びかかった。
「とおおっ」
小さなパンチが如来像の背に突き刺さり、大きな孔《あな》を穿《うが》つ。再び、阿弥陀堂に金属の鳴る音が響いた。
空子からは、仏像の内部が空洞になっている様が見てとれた。
「おらぁ!」
「ええいっ」
景と琴律が同時に阿弥陀を狙ってダッシュし、流れるように何発もの打撃を加える。猛烈な勢いで阿弥陀像の金属の体がへこみ、クレーターだらけになってゆく。
続いて、歩み寄った蕃茄が、阿弥陀の片足首をがっちりと掴んだ。そのまま勢いをつけて片手で振り回し、仏殿の開かれたままの扉から外へと放り出す。
寺の庭に転がった阿弥陀は、あたふたと立ち上がると、転法輪印《てんぽうりんいん》を組んだ。全身が発光し、その光が三つに分裂する。
投げ出された阿弥陀を追って本堂の外へ出た五人の前には、三体の仏像が待ち構えていた。
先の阿弥陀如来《あみだにょらい》の両脇に立つのは、観音菩薩《かんのんぼさつ》、勢至菩薩《せいしぼさつ》であった。が、五人の女子中学生にとって、仏像の名や姿などどうでも良いことである。
三体の仏像が、エトピリカ五人に向かって飛び掛かる。
五人は一斉に地を蹴り、光翼を広げて宙を舞った。
仏像たちはそれを見上げるが、空を飛ぶ能力など持ち合わせぬ彼らには、どうにもならない。
「ずだぎゃるるるるるるる!」
萵苣が連続で無数の火球を打ち出すと、仏像たちは無様に逃げ惑う。
空子と景が宙から踊りかかり、一体の両足首を二人で掴んだ。
「せぇのッ!」
二人が互いに反対方向に向かって引っ張ると、菩薩像はめきめきと音を立てて裂け、真っ二つになってしまった。
「それ。貸して」
「ほいさっ」
蕃茄が二人から引き裂かれた仏像の残骸を受け取り、棍棒のように両手で振るって、もう一体の菩薩像に踊りかかる。
仏像に仏像を打ち付けるたび、がぁん、ごぉんという金属音が鳴り響く。
やがて、蕃茄によって滅多打ちにされた仏像は完全にひしゃげ、原型を留めぬ姿で、白い炎をあげて燃え上がった。
「イオマンテ完了。——あ。違う。まだいたんだった」
「私がやりますっ」
残る一体の如来像に向かって琴律が高速落下し、踵を打《ぶ》ち込む。首が見事に捥《も》げ、敷砂《しきすな》の上に転がり落ちた。
「ええいっ」
転がった阿弥陀仏の首をサッカーボールの要領で蹴り飛ばすと、首は鐘楼まで飛んでゆき、釣鐘《つりがね》に打《ぶ》ち当たって、荘厳な音を鳴らした。
戦時下の金属類回収令より逃れ、何百年に亘って地元の人々に愛され続けてきた宗清寺《そうせいじ》の梵鐘《ぼんしょう》の音《ね》は、黙《しじま》を打ち破り、胸に染み入るが如く夜の町に響き渡る。
「あ——」
琴律は青い顔をして口元を押さえる。
「まずいですよね? まずいですよね!?」
「逃げようっ」
空子は琴律の手を取って、門の外へと飛んで出た。他の三人も、急いでそれに倣う。
そのまま、少し離れた公園に降り立ち、五人は変身を解いた。
「はー! 大変だったね! あははは!」
「最後が一番焦ったよー」
「あれで坊さん達に見つからなかったのは。ある意味奇跡」
「それにしても、仏像に取り憑いて暴れまわるとは、罰当たりなっ」
躊躇なく首を蹴り飛ばしておいて、罰当たりも無いものであるが、琴律は憤ってみせた。己の過失を誤魔化そうとしているのが、誰の目にも見え見えであった。
「最後の仏さん、ちゃんと成仏したかなあ」
空子が宗清寺《そうせいじ》の方向を見ながら呟き、目を閉じて合掌した。
「南無南無《なむなむ》、ッア」
景も汗を拭いながら、苦笑いする。
「仏さんが成仏っちゅうのも、すげえ話だよな」
「最後の奴の話は、ちょっと勘弁してください」
琴律は両手で顔を覆う。
「——あ、コト。自転車っ」
「はっ。そうでした」
景と琴律が、顔を見合わせる。
「私の自転車、名前と住所を明記してあります」
「……あたしもだわ」
今頃、寺の人間によってとっくに発見されている時分であろう。寺の門の前に、用も無しに自転車を放置している二人が、真っ先に悪戯《いたずら》の嫌疑をかけられる事は明白であった。
下手をすれば、鐘を鳴らしたどころか、本堂に踏み入り、中を荒らした罪まで被ることになってしまうのである。
「こりゃ、謝りに行くしかねえかな……」
景は泣きそうな顔で頭を掻いた。
琴律も、そうですね——と息を吐《つ》き、両手を揃えて頭を下げて見せる。
「ほんどうに申し訳ありません」
「あみだ流して詫びたりなんかしてな」
空子がじっとりとした眼差しで、二人を見つめる。
「暑かったのに、めっちゃ涼しくなった……」
結局、その後。駄目元《だめもと》で宗清寺まで戻ってみると、二人の自転車はそのままの状態で置いてあった。寺の人間が騒動に気付いていないはずはなかったが、門の中は静まり返っている。
二人は慌てて自転車に跨ると、公園まで一目散に帰った。
「よ——良かったアア」
「私、緊張でおしっこが限界でした」
琴律は公園に辿り着くなり、尿意を表明した。公衆トイレの方をちらちらと見遣《みや》る。
「あの……暗くて怖いので、どなたか一緒に行ってくださいませんか……」
「あ。それなら。私も行きたい」
蕃茄が挙手した。
「——い、行きましょう! 一緒におトイレ! お姉さんと一緒に、おしっこしましょう!」
やけに高いテンションで、琴律は蕃茄の手を取り、そそくさとトイレへ向かう。確たる理由は不明だが、不審に思えるほど嬉しそうな顔をしていた。
「大丈夫かあ? 痴漢と一緒にトイレ行くようなもんだぞ、あれ」
景がにやにやしながら揶揄《からか》う。緊張が緩んだのであろう、こちらも嬉しさを隠せない様子である。
「でも、なんでだろうね? お坊さんたち、寝てたのかにゃー」
景にまとわりつきながら、空子が誰にともなく問う。
「どうなんだろうな。坊さんって、早寝なのか? いや、さすがにあれは、寝てても起き出して来るだろうしなぁ。剣呑剣呑」
景は空子の腕を取り、子供をあやすように振り回す。
その時、上空から阿吽が揃って降りてきた。
「皆様」
「お疲れ様でございました」
「うーいっ」
「おう」
「敵は、それほどでもなかったんだけどね! 最後が大変だったよ!」
三人は阿吽を取り囲むように歩み寄る。
「最後の鐘の件でございますが」
「宗清寺に於きましては運良く塀に囲繞《いにょう》されておりましたので」
「時の流れを変えて誤魔化すことができました」
「——あ!」
彼らの存在を忘れていたかのように、三人は口をあんぐりと開く。
「そっかぁ。阿ッさん吽ちゃんがいたんだねぇ」
「はい」
「イオマンテのサポートが我々の役目でございますゆえ」
「ああいった処理はお任せくださいませ」
萵苣の眼前に進み出た阿形が、手の上に三個の勾玉を落とした。
「こちらも回収して参りました」
「あ! ありがとー!」
かなり大ぶりで、派手な色柄の玉であった。萵苣は、三個とも景に手渡す。
「あげるね! 三人で分けてよ!」
「お。サンキュウ」
「あーん、ごめんねー。貰ってばっかりで」
「ううん! 全然いいよ!」
笑い合う三人をよそに、阿吽らが難しい顔をして呟く。
「それに致しましても」
「敵はそれほどでもなかった——と仰言いますか」
空子が伸びをしながら答える。
「うん。姿が見えなくて、最初は困ったけどさ。あれくらいの敵が相手なら、まあ、やってけるかなって思ったよ」
萵苣も腰に手を当てて、にんまりと笑う。
「私ら、強いからね!」
「……」
「……」
阿吽らはますます眉をしかめ、しばらく黙り込んだ。そして、二人同時にぱっと顔を上げた。
「——しかし」
「宗清寺にお勤めの方々には大変気の毒なのですが」
「本尊の損壊や仏殿の焦げ跡は」
「永遠の謎として残ることでしょう」
「宗教家というのは」
「あらゆることに解釈をつけるのが仕事でございますから」
「彼ら自身の受難をも」
「信心の足りなさからくる仏罰——とでも考えてくれれば良いのですが」
寺を守護する仁王のような姿をしていながら、実に勝手なことを言っていた。
三人は頭上に疑問符を浮かべながらも、ほっとした顔をする。
「さて」
「今回は我々阿吽のサポートもなくごく短時間の内に片を付けていただきました」
「改めましてありがとうございました」
「やはり五人になられるとお強い」
「感服致しました」
阿吽は揃って深々と頭を下げ、空子たちもそれに応える。
「いやあ。こっちが人数多かったしさ。飛んでたし」
「私らもやりすぎたけど、相手もずるかったんだよ! それでも、弱かったけどね!」
「ま、流れは分かったよ。雑魚戦は、こんなもんなんだな」
やがて、琴律と蕃茄が手を繋いで帰ってきた。
「あら、阿吽さん」
「お疲れ様でございます」
「琴律様たちもお怪我などなさっておりませんね」
「ええ、大丈夫ですよ」
琴律は蕃茄の手を離さぬまま答える。
「蕃茄さんも、大丈夫ですね?」
「大丈夫」
相変わらず顔を変えずに、蕃茄が頷いた。
「——ねーねー。コトちゃんさー、ぱんつ丸見えだったよね」
「おう。ひらひらのいっぱい付いた、水色のやつ」
空子がにやつきながら指摘し、景も面白がってディティールを報告する。
「はあっ!?」
琴律は慌てて、丈の短い上着の裾を押さえる。
「そ、そ、そんなの、貴女《あなた》たちも同じじゃないですかっ」
「服はおんなじだけどよ。あたしら、誰かみたいに思いっきり脚を振り上げたりせんからなぁ」
「飛んだり跳ねたりすれば、一緒ですッ」
琴律は公園のポールライト下でも分かるほどに顔を赤らめ、着物の裾を掴んで身を捩っている。
「君らが着てるの、それって上の着物だけだよね!」
「ちょっと見ると。スカートに見えるけれど。実は厚手の半襦袢を着ているだけっぽい」
蓬莱姉妹も、自分たちの服と見較べながら言う。
「私らは、中にこういうのあるからね! 平気なんだよ!」
萵苣は蕃茄のロリイタ服をめくり上げ、中のペチコートと、奥のドロワーズを見せた。
蕃茄は顔色ひとつ変えず、姉の手を押さえて下げる。
「姉さま。ドロワも下着なのだけれど」
「えっ! そうなの!」
萵苣は妹の指摘を受け、慌ててフリルのスカートから手を離した。
「この下には。何も穿いていないでしょう。あと。めくるなら自分のを」
「ごめんごめん! あははは!」
「——うーん、そうだにゃー。変身した後、なんか下に穿こっかー」
自分の裾をつかんでひらひらさせながら、空子が呟いた。
「んー、たしかに、パンツ丸出しは厭《や》だけどさ。なんつうか、変身した後にまた何か穿くっつうのが、ダっセーよな」
景が肩を竦める。
「何より、面倒臭ぇわ」
「大丈夫だよ、コトちゃん。誰も見てないって」
「貴女たち、見てたじゃないですか……」
「コトさァ。お前、意識しすぎなんだって。女だけじゃん」
「——スカートの下に。下着以外の何かを穿いて隠すのは。美しくない。女としての覚悟が無い。これは美意識の問題。龍泉寺《りゅうせんじ》さんなら。解ってくれると思っている」
珍しく蕃茄が主張した。
「そ……そうですね」
琴律は少し考えたが、蕃茄の頭を撫でて頷いた。
「活動は夜ですし、殿方に覗かれる訳ではないですし……まあ、良しとしましょうか」
「そうそう。可愛い、綺麗なやつ穿いてくれば良いんだよ。コトちゃん、いっぱい持ってるんじゃないのぉ」
空子が琴律を突ついて笑う。
「あたしも、なるべくセクスィーなの穿いてきちゃうよぉ」
「残念ながらクウコは、セクスィーから一番遠い存在だからな。どんなパンツ穿いたって、色っぽくはならんって」
景は再び空子の腕を取って、自分を中心に回転する。
「えー、ケイちゃんひどーい」
景にくるくる振り回され、空子はきゃっきゃと笑った。
本当に久しく、空子の笑い顔を見たなと、景は思った。
取り留めのない雑談がしばらく続いたが、日付が変わらぬうちに解散しようということになった。
空子・琴律・景の三人は変身を解き、普段着に戻った。が、蓬莱姉妹は変身を解かず、そのまま帰宅すると言う。
どうせまた、外出できかねる格好で変身してしまったのだろう。そう思って、景はカットしたばかりの頭をぼりぼりと掻いた。
家の方角によって二手に別れ、景は途中まで蓬莱姉妹と一緒に帰ることになった。
「ばいばーい。お休みー」
自転車を押す琴律に連れられながら、徒歩の空子が景たちに手を振る。
手を振り返しながら、蓬莱姉妹と連れ立って景も歩き出した。
景は蕃茄の側に寄り、何気なく声をかけた。
「なあ、お前さ。なんだかえらく、コトに懐いちゃったな」
「龍泉寺さんは。とてもエコ意識の高い人」
「は? エコだ?」
想定していなかった言葉を受け、景は少しだけ驚く。
「エコロジーってことか? コトが、そんなん言ってたんか」
「おしっこするとき。音を消すためだけに水を流すのは良くないと。大切な水が勿体ないと云われた。女同士でそんなことを気にしていては。節水はできない。と」
「あ、あの、ど変態が……彼奴《あいつ》の中で高いのは、エコ意識じゃねえ。エロ意識だ」
景は舌を出して、うんざりした顔をした。
「へーっ! コトリちゃんは、偉いんだね! 自分にできることから、環境保護だ!」
萵苣が無邪気に笑う。
「どうして。龍泉寺さんが変態なの」
「何でもねぇよ」
自転車を押しながら、景はそっぽを向く。
べつに苦手というわけではないが、この姉妹と一緒にいると、ペースを完全に握られてしまうな——と景は思った。
「えーと、お前らさ。学校で部活とかはしてないんか?」
「うん! 部活はやってないよ!」
「私も。集団活動は好きではない」
「……そっか」
会話が続かない。
「今くらいの人数が。丁度良い」
横に立つ景の顔をまっすぐ見ながら、蕃茄が呟いた。
「そ、そうかよ」
やはり、調子が狂う。真顔で言われると、妙に気恥ずかしかった。
「——そうだ! 夏海《なつみ》ちゃん! 私、思うんだけど!」
蕃茄の肩越しに、萵苣が声を上げた。
「あ。何だよ」
「クウコちゃんのことなんだけどね!」
「あ? クウコ? 彼奴《あいつ》がどうした?」
意外な話題だ、と景は思い、萵苣の顔を見る。
「クウコちゃんが攻撃すると、孔が空くんだね!」
「あな?」
「うん! さっきも観音様に、パンチで大孔《おおあな》を空けてたよね!」
「……そうか? あたしはよく見てなかったな」
「私らの攻撃でも、傷がついたり凹んだりはするよね! でもクウコちゃんみたいに、ぼっごーん! とはならないよ!」
萵苣に続けて、蕃茄も言葉を継ぐ。
「確かに。エトピリカといっても。基本的には膂力《りょりょく》が上がっているだけだから。普通の人よりも強く殴れるというだけのこと。でも天美《あまみ》さんの場合。攻撃した部分が消し飛んでいるみたい」
「ああいうのは、クウコちゃん独自の特殊能力ってことになるのかな!」
「なに、あのちび助《すけ》に、そんなパワーがあんの?」
「それと。背中に羽《はね》が出てくるのも不思議」
「あれか」
景は今回の戦闘を飛び越し、一年前の橋姫《はしひめ》との死闘の記憶を脳裏に蘇らせた。あのときも確かに、自分たちの背からは大翼の形をした光が射《さ》した。
しかも今になって思い起こすと、宙を自在に舞うことができるようになっただけでなく、戦闘時の瞬発力、攻撃力、持久力、耐力、いずれもが大きく膨れ上がっていた。これは今回の仏像たちとの戦闘でも同様であった。
もしも、あのとき——と景は考える。一年前のあのとき、自分たちの背中に翼が生じることなく、橋姫の手の届かぬ頭上からの攻撃ができていなければ、朝日が射す時刻までなど到底持ちこたえることはできず、三人とも食い殺されていたのであろう。
それだけ、“真蛇《しんじゃ》”と化した橋姫は凶悪であったし、それ以上に、光の翼は自分たちの力を増幅してくれたのである。
「あれはマジで、何なんだろうな……」
「羽が生えるのが天美さんにだけなら。まだ解る。でも。私達みんなの背中に羽が出てきた。不思議」
「あー、そういえば、な——」
一年前の記憶を辿っていた景は、大怪我で死にかけていた自分と琴律が、空子の変身によって回復したことも思い出した。姉妹にそれを話してやる。
「あれも、クウコだけっぽいし……謎だなあ」
「クウコちゃんって、変身するとき霊珠を食べちゃったよね! あれが関係あるのかな!」
「分からんなあ。あの阿吽たちに訊いてみたらいいんじゃね」
「——はい」
「こちらに」
景の言葉を待っていたかのように、小さな男たちが上空より飛来する。
「皆様のお背中に生じた光翼についてでございますね」
「そう。肩胛骨のあたりから。あの光が噴き出した途端。私達の力は強くなり。動きは軽くなり。闘うことが楽になった」
「もっと簡単に言うと、すごーく強くなったのが分かったよ! 楽々イオマンテだった!」
「ふむ」
姉妹の言葉に、阿吽の二人は眉根を寄せる。
「楽々……」
「左様でございますか」
「——なあ。さっきからあんたら、えらく歯切れが悪いな」
二人の様子を見咎め、景が顔を近付けた。
「さっき話した時も、同んなじような顔してたみたいだけどよ。なんかあンの?」
「それが」
「我々にも分かりかねるのです」
声に猜疑の色を濃く滲ませて、景は二人の男たちを交互に見据える。
「分からんってのは、何がだよ。クウコから羽が生える理由か? あたしら皆にも揃って生えるってことか?」
「いえ」
「翼の形をした光」
「そのようなものが」
「空子様をはじめエトピリカたる皆様のお背中に生じること」
「それ自体が」
「あるはずのない現象なのです」
阿吽たちは景の目を真っ直ぐに見つめて言う。
「あるはずがない、だと」
景はますます目を細め、阿吽を睨みつける。
「左様でございます」
「あのなあ。知りません、見たことも聞いたこともありません——ってんなら仕方ないけどな。……その口ぶりからすると、羽が生えること自体は知ってたんかよ。ああ?」
景の眦が吊り上がった。
ハンドルから手が離れ、音を立てて自転車が倒れる。
「何でもかんでも隠し立てしやがって。あんたらの国が秘密主義だかなんだか知らんけどな、命《いのち》張って切った張ったやってる、あたしらの身にもなれよ! だから、あんたらは信用できんって言うんだ!」
「夏海さん」
蕃茄が景のシャツを引っ張った。
「落ち着いて」
荒げた鼻息を整え切れぬまま、景は蕃茄の手を取り、シャツから離す。倒した自転車を起こしながら、阿吽らに目を合わせず、詰《なじ》った。
「こんなこと、あんたらに言っても仕方ないんだろうな。どうせ、お役目をこなしてるだけなんだろ」
「……」
「……」
阿吽らは黙って目を伏せている。
「だけどな、いいか。子供が一人死んでんだ。これだけは忘れてくれるなよ」
腹から絞り出した低い低い声で、景は苦情を締めくくった。
そのまま、しばらくの間、誰も口を開かなかった。
「——景《けい》様」
「萵苣《れたす》様達も」
沈黙を破ったのは、阿吽達であった。
「えっ!」
「なに。どうしたの」
「……」
阿吽が二人で、恭しく頭を下げる。景はその様子を、唇を噛んでじっと見つめる。
「少々お時間を頂けますか」
「我々よりお話をさせていただきたく思います」
「……何だよ。何を言おうってんだ」
「空子《そらこ》様の変身に伴う一連の現象について」
「そしてエトピリカについてでございます」
死後の世界から人を食いにきた化物の出現を「機会」などと呼ぶべきかはさておき。空子《そらこ》の体調は万全であった。
夜間に於ける“計画的な”外出を初めて行おうとする空子は、夏休みを良いことに日中の睡眠をたっぷりと取り、目覚めた後の夕食もがつがつと食べた。
素麺、唐揚げ、マカロニサラダ。母の手料理はいつだって旨かったが、こんなに腹に詰め込んだのはいつぶりだろう——と空子は自身の食欲に懐かしさすら覚えた。
娘の食べっぷりを目の当たりにした空子の両親は、弟を喪った後の娘が、時を経てようやく中学生らしく表情豊かに振る舞うようになったものと感じ入り、胸を撫で下ろしていた。娘がよもや、化物退治に赴くために準備しているなどとは、夢にも思わなかったことだろう。
そして夕食後、満腹になって自室でくつろいでいた空子の所へ、阿形《あぎょう》が単独で現れたのだった。門前町《もんぜんまち》である隣町に、複数体の尸澱《シオル》が居るのだという。
「何体もいっぺんに現れて、暴れてるの!?」
「現れたというよりも棲み着いているといったところでございますが」
「よっし。待ち構えてたんだ、こっちは! やっつけてやる!」
夕食と風呂が済んでしまえば、両親が空子の部屋まで上がってくることはない。空子は足音を忍ばせて、家を抜け出した。
阿形の先導を頼りながら、空子は夏の夜道を走った。
『宗清寺《そうせいじ》』。
空子が息を切らせて辿り着くと、そこは住宅地からやや外れた、真宗の阿弥陀寺《あみだじ》であった。
門の前には、景《けい》と琴律《ことり》が自転車を揃えて停めていた。
「おう。来たか」
「こんばんわ、クウコさん」
景はばっさりと後ろ髪を切っており、毛先がつんつんと尖っていた。捲りあげたジャージからにょっきり伸びた手足と相俟って、よりスポーティな雰囲気が増している。
琴律も長い黒髪を襟元で結わえてすっきりとまとめ、学校以外では穿いたことのないスパッツ型のトレーニングパンツを身につけている。これから荒事を行おうという気概が見て取れた。
「——またお寺ぁ?」
空子はあからさまに嫌な顔をする。
「お墓とかあるんじゃないのー? 厭《や》だよう」
「厭《や》だってお前、これからあたしら、幽霊とバトって打《ぶ》っとばすんじゃないかよ。墓場を怖がってる場合かっつうの」
「うーん……」
景に呆れられても、空子は浮かぬ顔である。
「阿吽さん。残りお二人は?」
辺りを見回しながら、琴律が問う。
「萵苣《れたす》様蕃茄様は既に門中におられます」
「現在どのような様子なのかを確認していただくため偵察をお願いしております」
阿吽は落ち着いた様子で頭を下げた。
「え。なんだ、そうなの?」
空子がほっとした顔で胸を撫で下ろす。尸澱は現れたというだけで、人を襲ったりしているわけではないのだった。
「そんなに急いで、走ってくる必要無かったかにゃー」
「——それにしても、あの二人なァ」
景も安心したのか、笑いながら口を開く。
「萵苣《れたす》に、蕃茄《とまと》だってよ。……キラキラネームだよなぁ」
「ふふ。親御さんは、何を考えて名付けられたのでしょうね」
「お野菜姉妹で、超可愛いよねー」
「……そっか」
いつまでも子供っぽい感性をしている空子の発言に、景は苦笑いする。
そこへ、頭上から声がかかった。
「君ら! 来てたんだね! お疲れ!」
件《くだん》のお野菜姉妹が、寺の門の上に並んでしゃがんでいた。既にエトピリカに変身しており、白と黒のロリイタ服を着込んでいる。
「おーっす」
「お疲れ様です」
「今の所。何かいるのは間違いない。でも尸澱の姿は見えない」
門外へ跳び降りて来た姉妹から聞くところによれば、本尊を祀る仏殿内から、何者かが裸足で走り回るような音が聴こえるらしい。しかしながら、中には何の姿も見えなかった——ということである。
「——ねえ、お墓は!? ここって、お墓あるの!?」
空子が半泣きの顔で、二人に詰め寄る。
「お墓は無いよ!」
「ここはそんなに大きくないお寺だから。本堂と講堂。それからお坊さんのいる僧房と。あとは鐘突き堂が建っているだけ。納骨堂も無いし。墓地は別にある」
空子の表情がみるみる弛緩し、ゆるい笑顔になった。
「よっし。お骨《こつ》が無いなら、怖くないっ」
「ッしゃあ。あたしらも行ったるぞ、コト」
「ええ」
「ではこちらを」
阿吽が三人の周りを飛び回り、手甲と脚絆、そして輝く霊珠を落とした。
霊珠はふわりと少女たちの掌中に収まり、鈍く光を放つ。夏だというのに、その温かみは肌に心地よかった。
「綺麗ですね……」
「そうだねー……」
白く神秘的なその輝きを目にすると、どうしても心を奪われてしまう。人の“心”の結晶だからであろうか。光から優しさすら感じるほどであった。変身するためとはいえ、砕いてしまうのが惜しかった。
これを毎回見られるなら、怖いお化けと闘ってもいいな。空子はつい、そんなことを思ってしまう。
「空子様」
「へいっ」
急に阿形から名を呼ばれ、空子は咄嗟に変な声を出してしまった。
「変身の媒体となる防具でございますが」
「空子様の場合は——」
「ああ。あたしは、いいよ」
「えっ」
「宜しいのですか」
阿吽の二人がぽかんと口を開く。
「うん。いいんだ」
「それではまた」
「珠をお口へ——」
「別に、ダメじゃないんでしょ?」
「 確かに害にはなりませんが」
「何しろ前例のないことですので」
「どのように作用するのか見当が付きません」
蓬莱姉妹は、目を丸くして空子の顔を見ている。
「口へ。って。どういう意味なの」
「まさかとは思うけど、クウコちゃん! それを、食べるんじゃないよね!」
「なんかね、見てると、おいしそうなんだよね」
「嘘おお!」
「その発想はなかった」
景も琴律も、呆れ顔である。
「お前、またかよ。なに考えてんだよ……」
「だ、大丈夫なんですか?」
空子は四人に向かって、親指を立てた。
「イエーイ」
「……何ですか、それ」
「意味分からんっ」
「ほ。本当に。……食べるの」
「え! え! 嘘でしょ!」
「よしっ。変身しようっ」
空子は皆の呆れ顔を尻目に、珠を両手で握り締めた。
(大地。見ててね!)
手甲を身に着け、紐を引き絞った景が、宙に珠を放り上げた。
「いくぞ、うおらァ!」
天を衝くパンチを叩き込むと、手応えと共に珠は砕け、景の拳は光に覆われる。
——頑張ってね。
同じく、脛部に脚絆を結わえ付けた琴律は、足元へ珠を落とした。
「私も、いきます——!」
踵に体重をかけて落とした珠を踏み割ると、先と同様に光の粒が立ちのぼり、琴律の脚は覆われてゆく。
——応援しているよ。
防具を持たない空子は、手に握った光球を見つめて舌舐めずりすると、一息に口へ押し込んだ。吸うでもなく齧るでもなく、空子は珠を呑み下す。
——負けないで。
蓬莱姉妹が固唾《かたづ》を飲んで見守る中、空子の全身が白く発光を始める。
「ふおおおおおおおうっ」
全身の体孔から、光の奔流が溢れ出た。
「うわあ! クウコちゃん、すごいっ!」
萵苣が歓声をあげた。
「目からビームが出てるよ!」
「鼻とか。口からも」
蕃茄もさすがに驚いた様子で、少し後ずさった。
三人の身体から猛烈な勢いで光が剥がれ、周囲へ一気に散らばってゆく。
蓬莱姉妹がまぶしげに閉じた目を開くと、三人の着ていた服は、漫画に出てくるくノ一のようにも見える、揃いの装束に変わっていた。
「わー! 可愛いねー!」
「和風。良い。こういうのもアリか」
姉妹が興奮気味に声をあげた。二人にとっても、自分たち以外の“エトピリカ”を目にするのは初めてである。
「っふううう……」
景が深い息を吐き出す。上気したように、頬が紅潮している。
「この感じ、思い出したアア。身体《からだ》ン内《なか》が燃えるみたいな、この熱《あつ》さ……!」
その場で軽いジャンプを繰り返し、首や腕をぶんぶん動かす。動きたくてたまらない、止まってはいられない——という所作。
対照的に、琴律は立ったままぴくりとも動かない。その顔からは表情が消え、門の向こうをじっと睨んでいる。
空子は口をぽかんと開き、自分の両手を見つめながら、握ったり開いたりを繰り返している。
「よし! 行こうか!」
萵苣が四人に向かって、手の甲を差し伸べた。
四人は顔を見合わせると、無言でそこへ手を重ねる。
「エトピリカ! ファイトー!」
「おーっ!!!!」
全員が鯨波《げいは》をあげ、手を高々と差し上げた。
「うぅん。いいねいいねぇ。こういうの、大好きだァ」
興奮を隠せぬ様子で、景が武者震いする。バスケ部員にしてみれば、これぞ結束と勝利を誓う儀であり、否が応にも気持は昂《たかぶ》った。
五人は一斉に門の上へ飛び上がった。
「クウコさん。ここからは、静かにですよ」
琴律が自分の口に人差し指を当て、空子に注意喚起する。
「ういっ」
力強く頷く空子。
足音を立てずに境内へ降り立つと、五人は境内の奥へと歩を進めた。
鐘楼を横目に通り過ぎ、比較的大きな建物——仏殿に辿り着く。
「みんな! ここだよ!」
萵苣が胸を張って指差そうとした途端、蕃茄が口を手で塞いだ。
「悪いけれど。姉さまは。なるべく声を出さないでいて」
元来の大声といい、真っ白なコスチュームといい、どう考えても萵苣は、夜間の隠密行動には向いていないな——と、四人全員が思った。
「——ここが。本堂」
声を潜めて、蕃茄が仏殿の壁に耳を当てた。
四人もそれに倣い、壁越しに聞き耳を立てる。
とんとんとんとん——という足音が聴こえた。板の間を、裸足で歩き回るような音であった。
「ひょえええ」
空子は思わず、素っ頓狂な声を出してしまう。
「誰かいるじゃんっ」
景が指で空子の頭を小突く。
「莫迦《ばか》たれっ。でかい声出すな」
「覗いてみて」
蕃茄に促され、四人は灯《あか》り採《と》りの格子から仏殿の中を覗き込んだ。
中は月明かりに照らされ、薄っすらと様子を確認できた。が、板の間が広がっているだけで、足音の主は見えない。
「何だよこれ。どうなってんだ?」
「分からない。こういうのは初めて」
蕃茄は萵苣に何事か耳打ちした。
「うん! わかった!」
「しーッ」
蕃茄と景が慌てて指を立て、大声を咎める。
「中にいるお化けはどうでもいいけどな、和尚さんとかに見つかったらまずいだろっ」
「あはは! ごめんごめん!」
解っているのかいないのか、萵苣はからからと笑う。
そのまま本堂の扉をごろりと引き開けると、
「ぱいなぽー!」
重ねた両手から、火球を撃ち放った。
真っ直ぐに飛んだ炎の塊は本堂の柱に着弾し、ぼんとはじけて消えた。
「はあああ!?」
景は駆け寄って、萵苣の後頭部を叩《はた》く。
「お前、いきなり何やってんだよっ」
「えっ!」
萵苣はびっくりして、目をぱちぱちと瞬《しばたた》かせる。
蕃茄も泣きそうな顔で、姉の肩に手を置いた。
「姉さま。私は。火を出して探ってみてと言ったの」
「うん! そうしたよ!」
「ぶっ放《ぱな》してどうするの。相手が視《み》えないのだから。掌から火を出し続けて。炙り出せばいいじゃない」
「ああ! そっかー! あははは!」
「とにかく、これで宣戦布告してしまったわけです。行くしかありませんね」
暗い本堂の中を睨みつけながら、琴律が言い放った。
蓬莱姉妹に続いて、景もごくりと唾を飲み込み、本堂の中へ踏み込んでゆく。
「なーにー? どうなってんの、見えなーい」
空子はぴょんぴょん跳ねて、琴律の肩越しに中を覗き込もうとする。
「なんかいたのー?」
「何も視えません。足音も消えました」
空子の手を引いて、琴律は本堂に足を踏み入れた。
その途端、土手っ腹に衝撃を喰らい、琴律は軽く吹っ飛ばされた。
「うっげッ」
胃から吐き出される酸汁を味わいながらも、琴律はどうにか受け身を取って態勢を立て直し、板の間に着地する。
「コトちゃんっ」
自分の手を取ってくれていた琴律がいきなり真横へ転がされたのを見て、空子は面食らう。慌てて駆け寄ると、琴律は綺麗な顔を痛みに歪めて脇腹を押さえている。
「どうしたの、大丈夫コトちゃん!?」
「平気、です……!」
「おいっ、どうした!?」
景たちも琴律たちの方へ向き直る。
「……いきなり、やられました。皆さん、気を付けて!」
たったっ、という足音が聴こえたかと思うと、今度は萵苣が海老反《えびぞ》りになって吹っ飛んだ。
「痛《い》ったーっ!」
先程自分が焦がした太い円柱に腹から激突した萵苣は、そのまま手足を伸ばして、蝉のように柱にしがみ付く。
「ううー、何《なん》なんだーっ!」
「こんなの、気を付けようがないよぉ」
琴律に抱きついたまま、空子が半べそをかく。
「やっぱり。こちらからは見えないのに。一人ずつ狙ってくる」
本堂の奥に視線を遣《や》った蕃茄は、はっとして声をあげた。
「見て。本尊が無い」
本堂の奥にはステージのように高くなった仏台《ぶつだい》があり、両脇には燈明皿を乗せた燭台が立てられている。
その中心にある三つの仏座には、何者の姿も無かった。
「あそこって——」
「そう。仏様がいないの」
「わー、本当《ほんと》だ」
「どういう事なんでしょう……」
皆がそちらに気を取られた瞬間。
「ンぐぉ」
突然、景が前傾姿勢で呻いた。
「……こンの野郎ォオ」
しかし景は、打撃を喰らったと思しき腹部を押さえることもせず、
「捕まえたア」
両手で空《くう》をつかむような仕草をしたかと思うと、怒号とともに振り回した。
「クソがーっ」
萵苣がしがみついている円柱に、その見えない敵を叩きつける。
「わわわわわ!」
衝撃で萵苣は真っ直ぐに滑り落ち、何か《・・》の上に尻を落とした。
「んぎゅんぬ!」
その瞬間、萵苣の尻の下に、仏像が姿を表した。
「うわっ」
「な、何だああ」
質素な法衣《ほうえ》に螺髪《らはつ》、後頭部に幾筋もの輪光を頂いた、全高二メートルほどの阿弥陀《あみだ》如来《にょらい》像であった。本来は立ち姿で固定されているはずの仏像が人のように動き、慌てた様子で景から逃げようとしていた。
「きゃー! いやー!」
阿弥陀像の首根っこに跨り、ちょうど肩車をされる格好で、萵苣が取り乱す。
「ふざけた真似をしてくれたのは、此奴《こやつ》ですねっ」
琴律は滑るように仏像に近付く。
「萵苣さん、避《よ》けてくださいっ」
そのままスピードを緩めず、琴律は如来像の肩口を掴むと、腹部に膝蹴りを叩き込んだ。
こおおん、と小気味良い金属音が鳴る。
「にぎゃん!」
咄嗟に身を躱《かわ》せず、萵苣は本堂の床に転がり落ちた。
「あ痛《い》っ……たぁ……っ」
琴律は涙を浮かべ、膝を抱えて蹲《うずくま》る。おそらく銅製であろう仏像に、膝小僧を力一杯ぶつけたのであるから、これは仕方のないところであった。
「私も痛いよー!」
萵苣が泣き声をあげた。
「姉さま。大丈夫なの」
蕃茄が急いで萵苣の手を引き、立たせる。
床に倒れた阿弥陀像は、焦った様子で身を起こし、そのまま本堂の奥へ駆け出す。もともとが硬い金属でできた立像であるとは、とても信じ難い挙動であった。
「待てーっ! このー!」
萵苣が振り向きざまに炎を撃ち出した。特大の火球は過《あやま》たず阿弥陀の背を直撃し、その長身を再び床に転がす。
「——お化けの正体って、こいつかァ」
怖い相手ではないと判断したのか、空子は鼻息も荒く拳を握り締めた。
「いくよ、ケイちゃんっ」
「応《おう》よ!」
琴律の態《ざま》を見て攻撃をためらっていた景も、再びファイティングポーズを構える。
「哈《は》あっ」
空子が臍下丹田《せいかたんでん》に力を入れ、気魄《きはく》を込めると、その背から、光の筋が差した。
他の四人も同様に、肩甲骨のあたりが輝き始める。
光は一気に噴き出し、翼の形を取った。
「わー! 何これ! 羽だ!」
「すごい。私達にまで」
蓬莱姉妹も、目を丸くして驚く。
灯りがなく暗かった仏殿は一転、溢れんばかりの光に支配される。
琴律と景は、眩しさに目を眇《すが》めながら、全身に気持の良い刺激が行き渡るのを感じた。動きたい、暴れたいという衝動が込み上げてくる。
「私達、こんなことができるんですね! 力が溢れ出して、何というか、突き上げられそうです」
「すっげぇな、これ。レッドガルみたいだわ」
一年前、これと同じ状態になっていた事を、景と琴律ははっきり記憶していない。無我夢中の死闘を演じる中で、己の状態変化にまで気を回している場合ではなかったのだ。
空子は息を吐き出して、背の翼をぴんと伸ばすと、床を蹴って跳ね、阿弥陀に飛びかかった。
「とおおっ」
小さなパンチが如来像の背に突き刺さり、大きな孔《あな》を穿《うが》つ。再び、阿弥陀堂に金属の鳴る音が響いた。
空子からは、仏像の内部が空洞になっている様が見てとれた。
「おらぁ!」
「ええいっ」
景と琴律が同時に阿弥陀を狙ってダッシュし、流れるように何発もの打撃を加える。猛烈な勢いで阿弥陀像の金属の体がへこみ、クレーターだらけになってゆく。
続いて、歩み寄った蕃茄が、阿弥陀の片足首をがっちりと掴んだ。そのまま勢いをつけて片手で振り回し、仏殿の開かれたままの扉から外へと放り出す。
寺の庭に転がった阿弥陀は、あたふたと立ち上がると、転法輪印《てんぽうりんいん》を組んだ。全身が発光し、その光が三つに分裂する。
投げ出された阿弥陀を追って本堂の外へ出た五人の前には、三体の仏像が待ち構えていた。
先の阿弥陀如来《あみだにょらい》の両脇に立つのは、観音菩薩《かんのんぼさつ》、勢至菩薩《せいしぼさつ》であった。が、五人の女子中学生にとって、仏像の名や姿などどうでも良いことである。
三体の仏像が、エトピリカ五人に向かって飛び掛かる。
五人は一斉に地を蹴り、光翼を広げて宙を舞った。
仏像たちはそれを見上げるが、空を飛ぶ能力など持ち合わせぬ彼らには、どうにもならない。
「ずだぎゃるるるるるるる!」
萵苣が連続で無数の火球を打ち出すと、仏像たちは無様に逃げ惑う。
空子と景が宙から踊りかかり、一体の両足首を二人で掴んだ。
「せぇのッ!」
二人が互いに反対方向に向かって引っ張ると、菩薩像はめきめきと音を立てて裂け、真っ二つになってしまった。
「それ。貸して」
「ほいさっ」
蕃茄が二人から引き裂かれた仏像の残骸を受け取り、棍棒のように両手で振るって、もう一体の菩薩像に踊りかかる。
仏像に仏像を打ち付けるたび、がぁん、ごぉんという金属音が鳴り響く。
やがて、蕃茄によって滅多打ちにされた仏像は完全にひしゃげ、原型を留めぬ姿で、白い炎をあげて燃え上がった。
「イオマンテ完了。——あ。違う。まだいたんだった」
「私がやりますっ」
残る一体の如来像に向かって琴律が高速落下し、踵を打《ぶ》ち込む。首が見事に捥《も》げ、敷砂《しきすな》の上に転がり落ちた。
「ええいっ」
転がった阿弥陀仏の首をサッカーボールの要領で蹴り飛ばすと、首は鐘楼まで飛んでゆき、釣鐘《つりがね》に打《ぶ》ち当たって、荘厳な音を鳴らした。
戦時下の金属類回収令より逃れ、何百年に亘って地元の人々に愛され続けてきた宗清寺《そうせいじ》の梵鐘《ぼんしょう》の音《ね》は、黙《しじま》を打ち破り、胸に染み入るが如く夜の町に響き渡る。
「あ——」
琴律は青い顔をして口元を押さえる。
「まずいですよね? まずいですよね!?」
「逃げようっ」
空子は琴律の手を取って、門の外へと飛んで出た。他の三人も、急いでそれに倣う。
そのまま、少し離れた公園に降り立ち、五人は変身を解いた。
「はー! 大変だったね! あははは!」
「最後が一番焦ったよー」
「あれで坊さん達に見つからなかったのは。ある意味奇跡」
「それにしても、仏像に取り憑いて暴れまわるとは、罰当たりなっ」
躊躇なく首を蹴り飛ばしておいて、罰当たりも無いものであるが、琴律は憤ってみせた。己の過失を誤魔化そうとしているのが、誰の目にも見え見えであった。
「最後の仏さん、ちゃんと成仏したかなあ」
空子が宗清寺《そうせいじ》の方向を見ながら呟き、目を閉じて合掌した。
「南無南無《なむなむ》、ッア」
景も汗を拭いながら、苦笑いする。
「仏さんが成仏っちゅうのも、すげえ話だよな」
「最後の奴の話は、ちょっと勘弁してください」
琴律は両手で顔を覆う。
「——あ、コト。自転車っ」
「はっ。そうでした」
景と琴律が、顔を見合わせる。
「私の自転車、名前と住所を明記してあります」
「……あたしもだわ」
今頃、寺の人間によってとっくに発見されている時分であろう。寺の門の前に、用も無しに自転車を放置している二人が、真っ先に悪戯《いたずら》の嫌疑をかけられる事は明白であった。
下手をすれば、鐘を鳴らしたどころか、本堂に踏み入り、中を荒らした罪まで被ることになってしまうのである。
「こりゃ、謝りに行くしかねえかな……」
景は泣きそうな顔で頭を掻いた。
琴律も、そうですね——と息を吐《つ》き、両手を揃えて頭を下げて見せる。
「ほんどうに申し訳ありません」
「あみだ流して詫びたりなんかしてな」
空子がじっとりとした眼差しで、二人を見つめる。
「暑かったのに、めっちゃ涼しくなった……」
結局、その後。駄目元《だめもと》で宗清寺まで戻ってみると、二人の自転車はそのままの状態で置いてあった。寺の人間が騒動に気付いていないはずはなかったが、門の中は静まり返っている。
二人は慌てて自転車に跨ると、公園まで一目散に帰った。
「よ——良かったアア」
「私、緊張でおしっこが限界でした」
琴律は公園に辿り着くなり、尿意を表明した。公衆トイレの方をちらちらと見遣《みや》る。
「あの……暗くて怖いので、どなたか一緒に行ってくださいませんか……」
「あ。それなら。私も行きたい」
蕃茄が挙手した。
「——い、行きましょう! 一緒におトイレ! お姉さんと一緒に、おしっこしましょう!」
やけに高いテンションで、琴律は蕃茄の手を取り、そそくさとトイレへ向かう。確たる理由は不明だが、不審に思えるほど嬉しそうな顔をしていた。
「大丈夫かあ? 痴漢と一緒にトイレ行くようなもんだぞ、あれ」
景がにやにやしながら揶揄《からか》う。緊張が緩んだのであろう、こちらも嬉しさを隠せない様子である。
「でも、なんでだろうね? お坊さんたち、寝てたのかにゃー」
景にまとわりつきながら、空子が誰にともなく問う。
「どうなんだろうな。坊さんって、早寝なのか? いや、さすがにあれは、寝てても起き出して来るだろうしなぁ。剣呑剣呑」
景は空子の腕を取り、子供をあやすように振り回す。
その時、上空から阿吽が揃って降りてきた。
「皆様」
「お疲れ様でございました」
「うーいっ」
「おう」
「敵は、それほどでもなかったんだけどね! 最後が大変だったよ!」
三人は阿吽を取り囲むように歩み寄る。
「最後の鐘の件でございますが」
「宗清寺に於きましては運良く塀に囲繞《いにょう》されておりましたので」
「時の流れを変えて誤魔化すことができました」
「——あ!」
彼らの存在を忘れていたかのように、三人は口をあんぐりと開く。
「そっかぁ。阿ッさん吽ちゃんがいたんだねぇ」
「はい」
「イオマンテのサポートが我々の役目でございますゆえ」
「ああいった処理はお任せくださいませ」
萵苣の眼前に進み出た阿形が、手の上に三個の勾玉を落とした。
「こちらも回収して参りました」
「あ! ありがとー!」
かなり大ぶりで、派手な色柄の玉であった。萵苣は、三個とも景に手渡す。
「あげるね! 三人で分けてよ!」
「お。サンキュウ」
「あーん、ごめんねー。貰ってばっかりで」
「ううん! 全然いいよ!」
笑い合う三人をよそに、阿吽らが難しい顔をして呟く。
「それに致しましても」
「敵はそれほどでもなかった——と仰言いますか」
空子が伸びをしながら答える。
「うん。姿が見えなくて、最初は困ったけどさ。あれくらいの敵が相手なら、まあ、やってけるかなって思ったよ」
萵苣も腰に手を当てて、にんまりと笑う。
「私ら、強いからね!」
「……」
「……」
阿吽らはますます眉をしかめ、しばらく黙り込んだ。そして、二人同時にぱっと顔を上げた。
「——しかし」
「宗清寺にお勤めの方々には大変気の毒なのですが」
「本尊の損壊や仏殿の焦げ跡は」
「永遠の謎として残ることでしょう」
「宗教家というのは」
「あらゆることに解釈をつけるのが仕事でございますから」
「彼ら自身の受難をも」
「信心の足りなさからくる仏罰——とでも考えてくれれば良いのですが」
寺を守護する仁王のような姿をしていながら、実に勝手なことを言っていた。
三人は頭上に疑問符を浮かべながらも、ほっとした顔をする。
「さて」
「今回は我々阿吽のサポートもなくごく短時間の内に片を付けていただきました」
「改めましてありがとうございました」
「やはり五人になられるとお強い」
「感服致しました」
阿吽は揃って深々と頭を下げ、空子たちもそれに応える。
「いやあ。こっちが人数多かったしさ。飛んでたし」
「私らもやりすぎたけど、相手もずるかったんだよ! それでも、弱かったけどね!」
「ま、流れは分かったよ。雑魚戦は、こんなもんなんだな」
やがて、琴律と蕃茄が手を繋いで帰ってきた。
「あら、阿吽さん」
「お疲れ様でございます」
「琴律様たちもお怪我などなさっておりませんね」
「ええ、大丈夫ですよ」
琴律は蕃茄の手を離さぬまま答える。
「蕃茄さんも、大丈夫ですね?」
「大丈夫」
相変わらず顔を変えずに、蕃茄が頷いた。
「——ねーねー。コトちゃんさー、ぱんつ丸見えだったよね」
「おう。ひらひらのいっぱい付いた、水色のやつ」
空子がにやつきながら指摘し、景も面白がってディティールを報告する。
「はあっ!?」
琴律は慌てて、丈の短い上着の裾を押さえる。
「そ、そ、そんなの、貴女《あなた》たちも同じじゃないですかっ」
「服はおんなじだけどよ。あたしら、誰かみたいに思いっきり脚を振り上げたりせんからなぁ」
「飛んだり跳ねたりすれば、一緒ですッ」
琴律は公園のポールライト下でも分かるほどに顔を赤らめ、着物の裾を掴んで身を捩っている。
「君らが着てるの、それって上の着物だけだよね!」
「ちょっと見ると。スカートに見えるけれど。実は厚手の半襦袢を着ているだけっぽい」
蓬莱姉妹も、自分たちの服と見較べながら言う。
「私らは、中にこういうのあるからね! 平気なんだよ!」
萵苣は蕃茄のロリイタ服をめくり上げ、中のペチコートと、奥のドロワーズを見せた。
蕃茄は顔色ひとつ変えず、姉の手を押さえて下げる。
「姉さま。ドロワも下着なのだけれど」
「えっ! そうなの!」
萵苣は妹の指摘を受け、慌ててフリルのスカートから手を離した。
「この下には。何も穿いていないでしょう。あと。めくるなら自分のを」
「ごめんごめん! あははは!」
「——うーん、そうだにゃー。変身した後、なんか下に穿こっかー」
自分の裾をつかんでひらひらさせながら、空子が呟いた。
「んー、たしかに、パンツ丸出しは厭《や》だけどさ。なんつうか、変身した後にまた何か穿くっつうのが、ダっセーよな」
景が肩を竦める。
「何より、面倒臭ぇわ」
「大丈夫だよ、コトちゃん。誰も見てないって」
「貴女たち、見てたじゃないですか……」
「コトさァ。お前、意識しすぎなんだって。女だけじゃん」
「——スカートの下に。下着以外の何かを穿いて隠すのは。美しくない。女としての覚悟が無い。これは美意識の問題。龍泉寺《りゅうせんじ》さんなら。解ってくれると思っている」
珍しく蕃茄が主張した。
「そ……そうですね」
琴律は少し考えたが、蕃茄の頭を撫でて頷いた。
「活動は夜ですし、殿方に覗かれる訳ではないですし……まあ、良しとしましょうか」
「そうそう。可愛い、綺麗なやつ穿いてくれば良いんだよ。コトちゃん、いっぱい持ってるんじゃないのぉ」
空子が琴律を突ついて笑う。
「あたしも、なるべくセクスィーなの穿いてきちゃうよぉ」
「残念ながらクウコは、セクスィーから一番遠い存在だからな。どんなパンツ穿いたって、色っぽくはならんって」
景は再び空子の腕を取って、自分を中心に回転する。
「えー、ケイちゃんひどーい」
景にくるくる振り回され、空子はきゃっきゃと笑った。
本当に久しく、空子の笑い顔を見たなと、景は思った。
取り留めのない雑談がしばらく続いたが、日付が変わらぬうちに解散しようということになった。
空子・琴律・景の三人は変身を解き、普段着に戻った。が、蓬莱姉妹は変身を解かず、そのまま帰宅すると言う。
どうせまた、外出できかねる格好で変身してしまったのだろう。そう思って、景はカットしたばかりの頭をぼりぼりと掻いた。
家の方角によって二手に別れ、景は途中まで蓬莱姉妹と一緒に帰ることになった。
「ばいばーい。お休みー」
自転車を押す琴律に連れられながら、徒歩の空子が景たちに手を振る。
手を振り返しながら、蓬莱姉妹と連れ立って景も歩き出した。
景は蕃茄の側に寄り、何気なく声をかけた。
「なあ、お前さ。なんだかえらく、コトに懐いちゃったな」
「龍泉寺さんは。とてもエコ意識の高い人」
「は? エコだ?」
想定していなかった言葉を受け、景は少しだけ驚く。
「エコロジーってことか? コトが、そんなん言ってたんか」
「おしっこするとき。音を消すためだけに水を流すのは良くないと。大切な水が勿体ないと云われた。女同士でそんなことを気にしていては。節水はできない。と」
「あ、あの、ど変態が……彼奴《あいつ》の中で高いのは、エコ意識じゃねえ。エロ意識だ」
景は舌を出して、うんざりした顔をした。
「へーっ! コトリちゃんは、偉いんだね! 自分にできることから、環境保護だ!」
萵苣が無邪気に笑う。
「どうして。龍泉寺さんが変態なの」
「何でもねぇよ」
自転車を押しながら、景はそっぽを向く。
べつに苦手というわけではないが、この姉妹と一緒にいると、ペースを完全に握られてしまうな——と景は思った。
「えーと、お前らさ。学校で部活とかはしてないんか?」
「うん! 部活はやってないよ!」
「私も。集団活動は好きではない」
「……そっか」
会話が続かない。
「今くらいの人数が。丁度良い」
横に立つ景の顔をまっすぐ見ながら、蕃茄が呟いた。
「そ、そうかよ」
やはり、調子が狂う。真顔で言われると、妙に気恥ずかしかった。
「——そうだ! 夏海《なつみ》ちゃん! 私、思うんだけど!」
蕃茄の肩越しに、萵苣が声を上げた。
「あ。何だよ」
「クウコちゃんのことなんだけどね!」
「あ? クウコ? 彼奴《あいつ》がどうした?」
意外な話題だ、と景は思い、萵苣の顔を見る。
「クウコちゃんが攻撃すると、孔が空くんだね!」
「あな?」
「うん! さっきも観音様に、パンチで大孔《おおあな》を空けてたよね!」
「……そうか? あたしはよく見てなかったな」
「私らの攻撃でも、傷がついたり凹んだりはするよね! でもクウコちゃんみたいに、ぼっごーん! とはならないよ!」
萵苣に続けて、蕃茄も言葉を継ぐ。
「確かに。エトピリカといっても。基本的には膂力《りょりょく》が上がっているだけだから。普通の人よりも強く殴れるというだけのこと。でも天美《あまみ》さんの場合。攻撃した部分が消し飛んでいるみたい」
「ああいうのは、クウコちゃん独自の特殊能力ってことになるのかな!」
「なに、あのちび助《すけ》に、そんなパワーがあんの?」
「それと。背中に羽《はね》が出てくるのも不思議」
「あれか」
景は今回の戦闘を飛び越し、一年前の橋姫《はしひめ》との死闘の記憶を脳裏に蘇らせた。あのときも確かに、自分たちの背からは大翼の形をした光が射《さ》した。
しかも今になって思い起こすと、宙を自在に舞うことができるようになっただけでなく、戦闘時の瞬発力、攻撃力、持久力、耐力、いずれもが大きく膨れ上がっていた。これは今回の仏像たちとの戦闘でも同様であった。
もしも、あのとき——と景は考える。一年前のあのとき、自分たちの背中に翼が生じることなく、橋姫の手の届かぬ頭上からの攻撃ができていなければ、朝日が射す時刻までなど到底持ちこたえることはできず、三人とも食い殺されていたのであろう。
それだけ、“真蛇《しんじゃ》”と化した橋姫は凶悪であったし、それ以上に、光の翼は自分たちの力を増幅してくれたのである。
「あれはマジで、何なんだろうな……」
「羽が生えるのが天美さんにだけなら。まだ解る。でも。私達みんなの背中に羽が出てきた。不思議」
「あー、そういえば、な——」
一年前の記憶を辿っていた景は、大怪我で死にかけていた自分と琴律が、空子の変身によって回復したことも思い出した。姉妹にそれを話してやる。
「あれも、クウコだけっぽいし……謎だなあ」
「クウコちゃんって、変身するとき霊珠を食べちゃったよね! あれが関係あるのかな!」
「分からんなあ。あの阿吽たちに訊いてみたらいいんじゃね」
「——はい」
「こちらに」
景の言葉を待っていたかのように、小さな男たちが上空より飛来する。
「皆様のお背中に生じた光翼についてでございますね」
「そう。肩胛骨のあたりから。あの光が噴き出した途端。私達の力は強くなり。動きは軽くなり。闘うことが楽になった」
「もっと簡単に言うと、すごーく強くなったのが分かったよ! 楽々イオマンテだった!」
「ふむ」
姉妹の言葉に、阿吽の二人は眉根を寄せる。
「楽々……」
「左様でございますか」
「——なあ。さっきからあんたら、えらく歯切れが悪いな」
二人の様子を見咎め、景が顔を近付けた。
「さっき話した時も、同んなじような顔してたみたいだけどよ。なんかあンの?」
「それが」
「我々にも分かりかねるのです」
声に猜疑の色を濃く滲ませて、景は二人の男たちを交互に見据える。
「分からんってのは、何がだよ。クウコから羽が生える理由か? あたしら皆にも揃って生えるってことか?」
「いえ」
「翼の形をした光」
「そのようなものが」
「空子様をはじめエトピリカたる皆様のお背中に生じること」
「それ自体が」
「あるはずのない現象なのです」
阿吽たちは景の目を真っ直ぐに見つめて言う。
「あるはずがない、だと」
景はますます目を細め、阿吽を睨みつける。
「左様でございます」
「あのなあ。知りません、見たことも聞いたこともありません——ってんなら仕方ないけどな。……その口ぶりからすると、羽が生えること自体は知ってたんかよ。ああ?」
景の眦が吊り上がった。
ハンドルから手が離れ、音を立てて自転車が倒れる。
「何でもかんでも隠し立てしやがって。あんたらの国が秘密主義だかなんだか知らんけどな、命《いのち》張って切った張ったやってる、あたしらの身にもなれよ! だから、あんたらは信用できんって言うんだ!」
「夏海さん」
蕃茄が景のシャツを引っ張った。
「落ち着いて」
荒げた鼻息を整え切れぬまま、景は蕃茄の手を取り、シャツから離す。倒した自転車を起こしながら、阿吽らに目を合わせず、詰《なじ》った。
「こんなこと、あんたらに言っても仕方ないんだろうな。どうせ、お役目をこなしてるだけなんだろ」
「……」
「……」
阿吽らは黙って目を伏せている。
「だけどな、いいか。子供が一人死んでんだ。これだけは忘れてくれるなよ」
腹から絞り出した低い低い声で、景は苦情を締めくくった。
そのまま、しばらくの間、誰も口を開かなかった。
「——景《けい》様」
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沈黙を破ったのは、阿吽達であった。
「えっ!」
「なに。どうしたの」
「……」
阿吽が二人で、恭しく頭を下げる。景はその様子を、唇を噛んでじっと見つめる。
「少々お時間を頂けますか」
「我々よりお話をさせていただきたく思います」
「……何だよ。何を言おうってんだ」
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「そしてエトピリカについてでございます」
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