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帰巣本能

僕の背中はあたたかい

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よく立ち寄るバーがあった。


そこに僕は少々の酒(ジュース)と、
愚痴に付き合ってもらうために
そこへ足を運ぶ。


そこのバーのマスターはいつも、
くたくたになった僕を暖かく迎えてくれる。



「なんだい、僕。また飲みにきたのか?」



そう言っていつも笑って迎えてくれた。



「うん…いつも悪いね、マスター。」



そしてマスターは、
僕のことをよく分かってくれる。



「今日はなんだ。
   …家に、帰りたくないのか。」



あっさりと見破られてしまった。


参ったと思い、僕は苦笑した。



「マスター…。僕まだ何も言ってないー。」


僕はマスターが出してくれた酒(ジュース)に口をつける。


が、まぁ…酔えるはずもない。



この人には、嘘がつけない。


つこうとしても、
さっきのようにあっさりと
見破られてしまうのだ。


そして、そこに甘えてしまう。


まるで親のように
僕を、ここに足を運ぶ客を、
暖かく包み込んでくれる。


この店はとても居心地がいい。


もういっそのこと、
ここに住んでしまいたい。


それでも、いくら逃げても、
現実は冷たく、残酷に迫ってくる。



カランコロン



店の扉が開かれ、
そこには僕にとって招かざる客が
姿を現した。



「またこんなところにきて…帰るわよ。」


「母さん…。」




『帰りたくない』



そう言えたら、どんなに楽だろう。



そう言えたら、僕はどんなに幸福だろう。




僕はマスターの方を向いた。


マスターはただ優しく微笑んで、
僕に紙切れを渡して、手を振った。


店から連れ出されて、
ため息をつきたい思いで母の後ろを歩く。


マスターが渡してくれた紙切れには、



『しあわせ者めが。がんばれよ。』



使い慣れていない古い万年筆で、
慌てて書いたような汚い、
しかし、力強い字。



「ハッ………。
   どこがだよ…っ……あのクソオヤジ」


母にばれないように、

息を殺して、

ただただ溢れる熱い何かを、

僕は必死に拭っていた。




『がんばれ』という言葉は、
なんて無責任な言葉だろうと思う。


「人の気も知らないで」と、思う。


でも、時にはその中にきっと
何か大切な思いが込められているものだと、僕は思いたい。



「ありがとう……」



夜の街が淡い橙色に包まれている。


あの店も、こんな感じだったな…。


僕は顔をあげて、
電灯に照らされて輝く街並みを見渡した。


こんなにこの街は、
輝いていただろうか…?



マスターの店が、
だんだんと遠ざかってゆく。


「あっ、お金払ってねーや。
   …………ま、今度でいっか。」




ねぇ、マスター?


しあわせって漢字、書けねぇんじゃね?


いい年したオッサンが、
『幸せ』って字も書けねぇのかよ。





「……………?」





そして僕は気づいた。


紙切れに書かれた
『しあわせ』の『し』のところに少し、
横棒を少し引いたような後がついている。



一度、漢字で書こうとしたのか…?


わざわざひらがなで書いたって事…?


でも、何故?



何か意味があったのかもしれないが、
僕は結局、
それが何故かはわからないまま_______。




「ねぇ、母さん?夕食…もう食った?」


「え?いいえ…まだだけど…?」


「じゃあ、どっかで食べていかない?」


「そ、そうね。」


母の笑顔を、僕は、その時初めて見た。





ねぇ?マスター?



僕、ガンバルからさ…?



また店………行っても、いいよな?




今度は酒(ジュース)と愚痴じゃなくて、
ワイン(ジュース)と惚気に付き合ってよ。
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