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事実は小説より奇なり

生き甲斐を捨てないで。

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「こちらへいらっしゃっい。

   貴方をこれから“魔法の世界”へと
   招待いたしましょう。

   何も怖がる事はありません。

   辛い試練もありません。

   苦しむ必要もありません。」


シルクハットの少年が言った。



僕はその言葉を信じたかった。

辛い現実から逃げ出したかった。

そして、夢を見たかったんだ。

幸せで、楽しい夢を。



永遠に明けない夜が欲しかった。

星と、月と、
街のほんのりとした小さな明かりで、僕には丁度よかった。


僕は怖がっていた。

夜が明けるのを。


僕は恐れていた。

太陽の眩しい光を。

あの光に、
心を貫かれてしまいそうで、
悲しかった。



でも、僕に逃げ出す事は許されない。

逃げられない運命なんだ。


悔しいけど、もうそれが
当たり前の事になってしまっている。


それはきっと、
心の何処かで諦めていて、
受け入れているからだ。


これが僕の宿命なんだ、と。


だから、

一つ物事を成し遂げた時に
達成感を得る。

一つ物事を褒められて
安心感を得る。

一つ物事が誰よりも優れていて
優越感を得る。


苦しくて、辛い事もあるけど、
僕は逃げたすことが
どうしても出来ない。


捨てたいものの中に、
大事なものも入っているからだ。

生き甲斐のない世界には、
行こうとは思えない。



「君は逃げ出したのかい?」


僕は少年に問いかける。


「え?」


少年は僕を見上げた。


「この辛い現実から、

   逃げ出したのかい?」


少年は少し黙った。

少年はシルクハットで顔を隠す。


「僕はこの世界から逃れない事を、

    諦めたくない。

    一つ一つの出来事が、

    僕の生き甲斐だから。」


僕がそう言うと、

少年はシルクハットを掴んだ手を
強く握った。


「分かりません。でも僕は…。」


少年は冷たい涙を流した。

そして、
苦しそうな笑顔を僕に向ける。


「僕は、貴方みたいに、
    強く、生きる事が、
    出来なかったんです…。
    逃げる事でしか、自分の居場所を、       
    つくる事が出来なかった…。」


少年は息を殺して泣いた。

捨てた世界に、
大事なものがあると知って。


誰でも、逃げたしたくなる事はある。


それでも逃げ出さないのは、

その逃げ出したい世界に

自分が大事だと

思っているものがあるからだ。


それを人は、
『生き甲斐』というのだろう。


生き甲斐を捨てないで。


自分が何のために生きているのか、
見失わないで。


君はちゃんと、ここにいるよ。

大丈夫。

きっと誰かが見ていてくれる。

この辛い現実から逃れない事を
諦めないで。


君は君。

他の誰でもない。

君はたった一人の存在だ。


この世界から逃げ出した君は、

一体誰だ?



少年は下を向いたまま
呟くように言った。

「僕はもう一度、

   僕に戻れるのかな…。」


「こちらへおいで。

    君をこれから“魔法の世界”へと
    招待いたしましょう。

    何も怖がる事はない。

    君は君でいれば、それでいい。

    逃げ出さないで、自分から。」


いつだか街で、

シルクハットの少年に似た少年が、

僕の横を通り過ぎた事が
あったような、無かったような…。


そんな気がした。
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